事故から数ヶ月が経った頃、たまたまあの子が使っていた停留所の近くで仕事があった。帰りに立ち寄ってみると、当時の事故の後はすっかり修繕されていて跡形も残っていない。
あの日以来、怖くてここを訪れていなかった。妻にいたっては一度も来たことはない。
それでもあの子が使っていた赤い傘だけは僕が持ち歩くようになっていた。オッサンが赤い傘を持つなんてと会社では笑われたが、そんなのどうでもいい。
この日も雨が降っていたから赤い傘を持っていたが、今日ばかりは失敗したと思った。
僕はベンチに座ると、茫然と雨の降る道路に目を向けた。ここでいつもバスを待っていたと思うと、胸の奥が痛む。
娘をはねたバスに自分が乗っていたことが、本当に悔しくてたまらない。
すると突然、目の前に何かが通り過ぎた。
緑色の猫じゃらしだ。
「ほら、そんな顔をしないで。笑ってよ」
僕が停留所に来たときには誰もいなかったはずなのに、いつの間にか隣に彼女が座っていた。
最初は夢を見ているんだと思った。同じ高校の制服を着ていたことも、赤い傘も偶然だと思ったが、顔つきや髪型、話す声さえも同じ。でも彼女からはどこか不思議な雰囲気を漂わせていて、あの子でも、人間でもないことは何となく察した。
彼女が持っていた赤い傘を見て、自分が持っているものと同じだと気付く。だからこれは雨が見せている幻だと、そう思い込むようになった。
雨の日なら、傘を持って家を出るから。
雨の日なら、幻でも娘に会えると思ったから。
現実から目を背けたくて、ずっとこうしてきた。でもいつも、僕が乗るバスは来るのに、彼女は乗ることもなく、見送るばかり。
僕はいつまでここを訪れるだろうか。いつまで彼女に会えるだろうか。――そんな自分のエゴがずっと、渦巻いていた。
「どうしていつも赤い傘を持っているの?」
彼女が僕にそう問うてきたのは、何回目のことだっただろうか。
頃合いかもしれないと思いながらすべてを話した。彼女は何かを思い浮かべたのか、時折眉をひそめながらも真剣に聞いてくれた。
ふと、妻と一緒に三人で夕食の食材を買いに行ったときのことを思いだした。本当にくだらない些細な口喧嘩を僕と妻がしているのを、娘が笑い飛ばしてくれたのだ。その後一緒になって吹き出して笑ったのは、まだ記憶に新しい。
君が娘とよく似ているから、無意識に重ねてしまっていた。本人だったとしても、僕がしてきたことは許されることではない。
すまない、と頭を下げる。何も言わない彼女が気になって顔を上げると、哀しそうな表情を浮かべて首を横に振った。
するとそこに、一台のバスが停まった。中は真っ暗で、誰が乗っているかもわからない。
運転手の顔も見えないのは異常だろう、そう思って口を開いたときには、彼女は赤い傘をさしてバスに向かって歩き出していた。
ああ、そうか。やっと乗りたかったバスが来たのか。
バスのステップの前で留まった彼女は、振り向いてこちらに笑いかける。今にも泣きそうになるのをぐっとこらえているようで、これが最後なんだと悟った。
震える声を振り絞って伝えた言葉は、恰好のつかないものだっただろう。
ずっと娘と接してこられなかった自分が憎くて、悔しくて、君からしたらどうしようもない父親だっただろう。
それでもどこか遠くの未来で、いつかまた出会えたときにはきっと、幸せな人生を送っていてほしいと願いたい。
彼女が乗り込んだバスが動き出す。次第に小さくなっていく後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
あの日以来、怖くてここを訪れていなかった。妻にいたっては一度も来たことはない。
それでもあの子が使っていた赤い傘だけは僕が持ち歩くようになっていた。オッサンが赤い傘を持つなんてと会社では笑われたが、そんなのどうでもいい。
この日も雨が降っていたから赤い傘を持っていたが、今日ばかりは失敗したと思った。
僕はベンチに座ると、茫然と雨の降る道路に目を向けた。ここでいつもバスを待っていたと思うと、胸の奥が痛む。
娘をはねたバスに自分が乗っていたことが、本当に悔しくてたまらない。
すると突然、目の前に何かが通り過ぎた。
緑色の猫じゃらしだ。
「ほら、そんな顔をしないで。笑ってよ」
僕が停留所に来たときには誰もいなかったはずなのに、いつの間にか隣に彼女が座っていた。
最初は夢を見ているんだと思った。同じ高校の制服を着ていたことも、赤い傘も偶然だと思ったが、顔つきや髪型、話す声さえも同じ。でも彼女からはどこか不思議な雰囲気を漂わせていて、あの子でも、人間でもないことは何となく察した。
彼女が持っていた赤い傘を見て、自分が持っているものと同じだと気付く。だからこれは雨が見せている幻だと、そう思い込むようになった。
雨の日なら、傘を持って家を出るから。
雨の日なら、幻でも娘に会えると思ったから。
現実から目を背けたくて、ずっとこうしてきた。でもいつも、僕が乗るバスは来るのに、彼女は乗ることもなく、見送るばかり。
僕はいつまでここを訪れるだろうか。いつまで彼女に会えるだろうか。――そんな自分のエゴがずっと、渦巻いていた。
「どうしていつも赤い傘を持っているの?」
彼女が僕にそう問うてきたのは、何回目のことだっただろうか。
頃合いかもしれないと思いながらすべてを話した。彼女は何かを思い浮かべたのか、時折眉をひそめながらも真剣に聞いてくれた。
ふと、妻と一緒に三人で夕食の食材を買いに行ったときのことを思いだした。本当にくだらない些細な口喧嘩を僕と妻がしているのを、娘が笑い飛ばしてくれたのだ。その後一緒になって吹き出して笑ったのは、まだ記憶に新しい。
君が娘とよく似ているから、無意識に重ねてしまっていた。本人だったとしても、僕がしてきたことは許されることではない。
すまない、と頭を下げる。何も言わない彼女が気になって顔を上げると、哀しそうな表情を浮かべて首を横に振った。
するとそこに、一台のバスが停まった。中は真っ暗で、誰が乗っているかもわからない。
運転手の顔も見えないのは異常だろう、そう思って口を開いたときには、彼女は赤い傘をさしてバスに向かって歩き出していた。
ああ、そうか。やっと乗りたかったバスが来たのか。
バスのステップの前で留まった彼女は、振り向いてこちらに笑いかける。今にも泣きそうになるのをぐっとこらえているようで、これが最後なんだと悟った。
震える声を振り絞って伝えた言葉は、恰好のつかないものだっただろう。
ずっと娘と接してこられなかった自分が憎くて、悔しくて、君からしたらどうしようもない父親だっただろう。
それでもどこか遠くの未来で、いつかまた出会えたときにはきっと、幸せな人生を送っていてほしいと願いたい。
彼女が乗り込んだバスが動き出す。次第に小さくなっていく後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。