どうしていつも赤い傘を持っているの?

 私が彼にそう問いかけたのは、やはり雨の降る停留所でのことだった。
 今日は一段と雨がプレハブの屋根を叩き、どれだけ近くにいても声を張らなければ聞こえないくらい強かった。

「それは君だって同じだろう? 確かに僕みたいなおじさんが持っているのはおかしいと思うけど……」

 そんなことない。どんな色を選ぼうが個人の自由だ。
 私がむっとした顔をすると、彼は小さく笑う。そして一呼吸を置いて、ゆっくりと話し始めた。

「僕の娘が、赤い傘が大好きだったんだ」

 娘――その言葉に、胸がどくんと波打った。何かを忘れているような、血の気がさっと引いていくのがわかる。そんな私に気付くことなく、彼はさらに続ける。

「僕は仕事人間だったから、ろくに家に帰っていなくてね。妻とも上手くいかなくて、離婚を切り出そうとも思っていた」
「そんなときに、娘の存在が繋ぎとめてくれたんだ」
「赤い傘はね、娘が好きなものだったんだ。雨のどんよりした空気の中では、赤がよく映えるんだと嬉しそうに言っていた」
「赤い傘を持っていれば自分がここにいるという目印になるからって」
「あの日もそうだった。だから……雨の日に赤い傘を持ってここに来れば、娘に会えると思った」

 彼の目がまっすぐと私に向けられる。
 その瞬間、一気に記憶が頭の中を駆け巡った。そこには確かに、彼と見覚えのある女性に挟まれて笑う私がいた。
 この人の言うことが本当なら、私は――

「……いや、これはただのエゴだ。君が娘とよく似ていたから、重ねてしまったのかもしれない」

 すまない、と頭を下げる。
 顔を上げてと慌てて彼の肩に触れた――つもりだった。

「……どうかしたのかい?」

 声をかけられてようやく気付いた。空振りした手をぎゅっと握ると、首を横に振る。
 心配そうに見つめる彼に、私は何も言えなかった。
 すると、ようやく私が乗りたかったバスがやってきた。ヘッドランプが雨の湿った空気でぼんやりと路面を照らしている。
 私は立ち上がると、自分の傘をさして停留所の外に出た。バスに乗り込むステップに足をかけたところで、一度振り返る。茫然とこちらを見る彼は、目の前でなにが起こっているのかわかっていない様子だった。
 ただバスに乗ろうとしているだけなのに、と少しだけ笑えてしまう。
 私は今できる目一杯の笑みを浮かべると、彼も何かを察したように笑ってくれた。

「またな」

 絞りだした彼の声に、私はぐっと喉を詰まらせてバスに乗り込んだ。
 そう、これでいい。これでいいの。
 私は後ろの席に座って、窓ガラスに手を這わせる。
 彼が傘をささずに停留所の外に出ているのが見えた。雨でよく見えないけど、今にも泣きそうな顔をしている。
 あの人からは、この中にいる私の顔は見えているのだろうか。
 バスがゆっくりと動き出す。彼の姿はあっという間に小さくなっていった。