すると画面に、少し緊張した面持ちでピースサインをしている女性が現れた。その隣には、今よりも若いと思われる女性も映っている。少し背が低いところを見るに小学校中学年ぐらいか、髪型の感じから女の子だろう。二枚目とは言えない平凡な俺の横で、少し気恥ずかしそうにしている。それが今の美知香の姿で間違いない。彼女は少し不機嫌そうな顔をしているが、それでも愛想笑いだと分かる。きっと照れ隠しに違いない。
俺は懐かしさに胸を震わせた。たった数ヶ月前の話なのに、ひどく昔のことのように感じられる。俺は思わず目を細めた。そうしなければこみ上げてくるものが零れ落ちてしまいそうだったからだ。
女性は俺の様子に気が付かなかったらしく、「すみません」と言うと俺から写真を受け取ってしまった。健也さんはそれを見守ると、今度は立ち上がって部屋を出て行こうとする。
そして扉を開けると「じゃあ行こう」と皆に呼びかけて出て行くのだった。
「行くってどこにですか?」
健也さんが振り向く。彼は悪戯っぽく笑うと「そりゃあ決まってるじゃないか」と言った。
「彼女のところに」
○ 彼女が待っているのは病院の一室だった。
受付で病室の番号を聞いてからエレベータで階下に降り、リノリウムの床を踏みながら廊下の奥まで歩くと突き当りの角部屋に辿り着いた。プレートを確認する。
個室だった。部屋の入口は開け放たれていて、中には丸椅子がいくつか置いてあるだけだが、窓からの日差しで明るい。奥の窓際にベッドが置かれている。そこに横たわっている女性が、杉村美知香らしい。彼女は布団の中で体を丸めるようにしながら静かに眠っているようだ。
健也さんに続いて室内に入り、彼女の傍らに立つ。
「よく来てくださいました」と女性が言って頭を下げた。「ありがとうございます」
しかし俺は彼女から視線を外すとすぐに俯きながら首を横に振った。礼を言われる筋合いはないのだと思った。美知香が誘拐されたのは他でもない、俺が原因なのだから。
すると女性がまた口を開いた。「私はこれから警察の事情聴取を受けることになっていました。なので杉村さんにはもう二度と会えないと思っていたんです。今日こうして貴方と会うことができて本当に嬉しいんです」そう言うと、彼女は改めて俺の目を見てから言った。「お久しぶりです、杉村さん」
4月7日月曜日午前9時45分(以下省略)
私は彼女を見た途端に言葉を失った。
それは無理もないことだった。なぜなら私の知っている彼女とはあまりにもかけ離れていたから。痩せたのも、老けたのも、髪が短くなっていたことも別に驚くに値しない。問題はその服装である。
彼女は淡いベージュのカーディガンを着ていた。それ自体は何も変ではないのだが、問題なのは着方だ。その袖口を両手でつかんでいるのは、まだ理解できるとしても。そこから更に肘の内側あたりで左右の手をクロスさせているのは何なのだろうか?それは一体どんな意味があるというのだろう?しかも、右手と左手でそれぞれ反対方向を指しているではないか?これは何かの儀式なのか?それともこの女性はどこか壊れているのか?いやそもそも何故このような奇怪な格好をしているのか?私を騙すためのお芝居だとしたら実に素晴らしい完成度だが、残念なことにそのような気配は全く感じられない。この女は本気でこんなことをやってやがるのだ。そう理解した瞬間に私は強烈な吐き気を覚えて、慌てて洗面所へと向かったが、胃の中のものを空っぽにして戻ってみてもその気持ち悪さは無くなってはくれなかった。
そんな有様だから、当然のように私は美知香の顔をよく見ることができなかった。彼女が俺に話しかけてきても、生返事を返すだけになっていた。それに気づいた彼女が心配そうな顔をする。
そこでようやく我を取り戻した俺は、「いや」と短く言って首を横に振ることで平静を取り戻し、「なんでもないんだ」と言ってみせた。それを受けた彼女が安心したような笑顔になる。どうやら俺がショック状態にあると思い込んでいたらしい。それでこんな奇妙な格好をしていたのだ。まったく馬鹿げた発想ではあるが、もしそうであるならば俺に対する嫌がらせとして満点に近いと言えよう。それとも、まさか俺が喜ぶと思ってやったのではないだろうな。
そんな事を考えてしまうのも、目の前にいる美知佳らしき女の恰好が悪い。俺を不快にさせるという点においてはこれ以上無い程に完璧で理想的なスタイルを披露してくれていた。俺が知る彼女とはまるで別物だった。何がそこまで彼女を変貌させたのだろう。あるいは美知佳の身にいったいどのような変化が起きたのだろうか。俺にわかるわけがなかった。俺の記憶の中に存在する美知佳とはかけ離れた存在がそこに横たわっていた。
彼女は俺に対していくつか質問をした。しかしそれも全て耳を通り抜けていった。だからほとんど覚えていないが、唯一、覚えていることがひとつあった。質問がひと段落ついたところで美知佳がこう聞いてきたのである。
「あたし、どうしてここに連れてこられたんですか?」と聞いてきた。
俺は反射的に顔をしかめたが、それでも質問の意味を理解しようと努力した。どうしてここに来たのか。美知佳の疑問に込められている意図を考えるために、俺はまずこれまでの経緯を思い返してみた。
最初に思い浮かぶのは先ほどの健也さんの説明だったが、俺が口にしたのは次のような台詞だった。
「美知香さんと一番仲の良い古屋さんが、直接、本人から聞きたいって」
「そうですか」
彼女は小さくうなずいてから、再び口を開く。「あの、お父さんはどうしてますか?」
「健也さん?」健也さんは、部屋の入り口付近に立っていた。俺たちの様子を眺めながら「あ、うん、今は席を外しているけどね」と返事をするのだが俺は気にならなかった。
むしろそちらの方へ意識を向ける余裕は無かった。
その次に思いついたことは「健也さんと一緒じゃないのかい?」だった。
彼女はもう一度うなずいて、やはり小さく答えたのである。
「ひとりで来いって言われてるんで」
そして最後に俺の方を見ると彼女は付け加えた。「ごめんなさい」
謝罪されて、俺は思わず目を見開いた。どういう意味だ。そう問いただそうと口を開きかけたが、すぐに考えを改める。どうせまともな返事は帰って来まい。そう判断して俺は溜息をつくことにした。すると彼女は不思議そうな顔をするのだった。俺は黙っていることに決めた。何も言わず目を伏せて顔をそむける。すると彼女は何を勘違いしたのか、「えっと」と少し慌てるような口調で言うと健也さんに助けを求めるのだった。健也さんが歩み寄ってきて、俺に代わって彼女に言う。
「ああそうだ。美知香さんは、今朝がたまで寝てらしたので」
彼女は小首を傾げながら健也さんに「そうでしたっけ」と言った。健也さんが俺の方に目を向けて合図を送る。俺は無言で首を縦に振った。
「じゃあちょうどよかったですね」健也さんは笑って、彼女の側に膝をつくと手を取って励ましの言葉をかけた。
「これから色々大変だと思うけれど、きっとうまくいきますよ」
「そうですか?」と聞くと「ええ」と答えが返ってきた。
俺は懐かしさに胸を震わせた。たった数ヶ月前の話なのに、ひどく昔のことのように感じられる。俺は思わず目を細めた。そうしなければこみ上げてくるものが零れ落ちてしまいそうだったからだ。
女性は俺の様子に気が付かなかったらしく、「すみません」と言うと俺から写真を受け取ってしまった。健也さんはそれを見守ると、今度は立ち上がって部屋を出て行こうとする。
そして扉を開けると「じゃあ行こう」と皆に呼びかけて出て行くのだった。
「行くってどこにですか?」
健也さんが振り向く。彼は悪戯っぽく笑うと「そりゃあ決まってるじゃないか」と言った。
「彼女のところに」
○ 彼女が待っているのは病院の一室だった。
受付で病室の番号を聞いてからエレベータで階下に降り、リノリウムの床を踏みながら廊下の奥まで歩くと突き当りの角部屋に辿り着いた。プレートを確認する。
個室だった。部屋の入口は開け放たれていて、中には丸椅子がいくつか置いてあるだけだが、窓からの日差しで明るい。奥の窓際にベッドが置かれている。そこに横たわっている女性が、杉村美知香らしい。彼女は布団の中で体を丸めるようにしながら静かに眠っているようだ。
健也さんに続いて室内に入り、彼女の傍らに立つ。
「よく来てくださいました」と女性が言って頭を下げた。「ありがとうございます」
しかし俺は彼女から視線を外すとすぐに俯きながら首を横に振った。礼を言われる筋合いはないのだと思った。美知香が誘拐されたのは他でもない、俺が原因なのだから。
すると女性がまた口を開いた。「私はこれから警察の事情聴取を受けることになっていました。なので杉村さんにはもう二度と会えないと思っていたんです。今日こうして貴方と会うことができて本当に嬉しいんです」そう言うと、彼女は改めて俺の目を見てから言った。「お久しぶりです、杉村さん」
4月7日月曜日午前9時45分(以下省略)
私は彼女を見た途端に言葉を失った。
それは無理もないことだった。なぜなら私の知っている彼女とはあまりにもかけ離れていたから。痩せたのも、老けたのも、髪が短くなっていたことも別に驚くに値しない。問題はその服装である。
彼女は淡いベージュのカーディガンを着ていた。それ自体は何も変ではないのだが、問題なのは着方だ。その袖口を両手でつかんでいるのは、まだ理解できるとしても。そこから更に肘の内側あたりで左右の手をクロスさせているのは何なのだろうか?それは一体どんな意味があるというのだろう?しかも、右手と左手でそれぞれ反対方向を指しているではないか?これは何かの儀式なのか?それともこの女性はどこか壊れているのか?いやそもそも何故このような奇怪な格好をしているのか?私を騙すためのお芝居だとしたら実に素晴らしい完成度だが、残念なことにそのような気配は全く感じられない。この女は本気でこんなことをやってやがるのだ。そう理解した瞬間に私は強烈な吐き気を覚えて、慌てて洗面所へと向かったが、胃の中のものを空っぽにして戻ってみてもその気持ち悪さは無くなってはくれなかった。
そんな有様だから、当然のように私は美知香の顔をよく見ることができなかった。彼女が俺に話しかけてきても、生返事を返すだけになっていた。それに気づいた彼女が心配そうな顔をする。
そこでようやく我を取り戻した俺は、「いや」と短く言って首を横に振ることで平静を取り戻し、「なんでもないんだ」と言ってみせた。それを受けた彼女が安心したような笑顔になる。どうやら俺がショック状態にあると思い込んでいたらしい。それでこんな奇妙な格好をしていたのだ。まったく馬鹿げた発想ではあるが、もしそうであるならば俺に対する嫌がらせとして満点に近いと言えよう。それとも、まさか俺が喜ぶと思ってやったのではないだろうな。
そんな事を考えてしまうのも、目の前にいる美知佳らしき女の恰好が悪い。俺を不快にさせるという点においてはこれ以上無い程に完璧で理想的なスタイルを披露してくれていた。俺が知る彼女とはまるで別物だった。何がそこまで彼女を変貌させたのだろう。あるいは美知佳の身にいったいどのような変化が起きたのだろうか。俺にわかるわけがなかった。俺の記憶の中に存在する美知佳とはかけ離れた存在がそこに横たわっていた。
彼女は俺に対していくつか質問をした。しかしそれも全て耳を通り抜けていった。だからほとんど覚えていないが、唯一、覚えていることがひとつあった。質問がひと段落ついたところで美知佳がこう聞いてきたのである。
「あたし、どうしてここに連れてこられたんですか?」と聞いてきた。
俺は反射的に顔をしかめたが、それでも質問の意味を理解しようと努力した。どうしてここに来たのか。美知佳の疑問に込められている意図を考えるために、俺はまずこれまでの経緯を思い返してみた。
最初に思い浮かぶのは先ほどの健也さんの説明だったが、俺が口にしたのは次のような台詞だった。
「美知香さんと一番仲の良い古屋さんが、直接、本人から聞きたいって」
「そうですか」
彼女は小さくうなずいてから、再び口を開く。「あの、お父さんはどうしてますか?」
「健也さん?」健也さんは、部屋の入り口付近に立っていた。俺たちの様子を眺めながら「あ、うん、今は席を外しているけどね」と返事をするのだが俺は気にならなかった。
むしろそちらの方へ意識を向ける余裕は無かった。
その次に思いついたことは「健也さんと一緒じゃないのかい?」だった。
彼女はもう一度うなずいて、やはり小さく答えたのである。
「ひとりで来いって言われてるんで」
そして最後に俺の方を見ると彼女は付け加えた。「ごめんなさい」
謝罪されて、俺は思わず目を見開いた。どういう意味だ。そう問いただそうと口を開きかけたが、すぐに考えを改める。どうせまともな返事は帰って来まい。そう判断して俺は溜息をつくことにした。すると彼女は不思議そうな顔をするのだった。俺は黙っていることに決めた。何も言わず目を伏せて顔をそむける。すると彼女は何を勘違いしたのか、「えっと」と少し慌てるような口調で言うと健也さんに助けを求めるのだった。健也さんが歩み寄ってきて、俺に代わって彼女に言う。
「ああそうだ。美知香さんは、今朝がたまで寝てらしたので」
彼女は小首を傾げながら健也さんに「そうでしたっけ」と言った。健也さんが俺の方に目を向けて合図を送る。俺は無言で首を縦に振った。
「じゃあちょうどよかったですね」健也さんは笑って、彼女の側に膝をつくと手を取って励ましの言葉をかけた。
「これから色々大変だと思うけれど、きっとうまくいきますよ」
「そうですか?」と聞くと「ええ」と答えが返ってきた。