アヴェレージ×アジャスト
第一話 嘘つきのジェーン

鉄の扉が吹き飛ぶ前に額に孔が空いていた。ここでは命が紙より軽い。もっとも生死はやり取りする通貨でもなく、天秤にかける代物でもないのだが。
だって死んでしまえば全ておしまい。憎しみも悲しみも怒りも血肉があってのものだから。そしてターゲットは生理的欲求の忠実なるしもべとなった。
必要最小限の文化的かつ健康的な生活。そんな麻薬的な美辞麗句を手に入れようと当人は躍起になった。混沌と不潔が堆積した貧民窟の最下層で社会悪をまき散らす害虫が蠢いている。無報酬で食料医薬品をばら撒く集団だ。雑菌だらけの泥水をすすり寄生虫まみれの残飯を漁る不法滞在者にとっては神様のような存在だ。そして治安維持の阻害要因でもある。よって法秩序の導入と自称福祉団体の排除が円滑かつ速やかに求められる。
しかし害虫どもは手ごわい。時代遅れの基本的人権を頑なに信じているし「命は地球より重い」という妄想を思い込んでいるから、それなりの自衛策を講じている。
とかく奴らは逃げ足が早い。おまけに神出鬼没だ。
そこで目には目を歯には歯を、数の暴力には大規模破壊兵器で立ち向かう。
不規則な事態にためらわず迅速に対応する専門部隊。
すなわち、アジャストの出番だ。捜査、起訴、陪審、判決、刑事罰の執行までを現場で一括処理する。
「被疑者の口蓋から経口補水液が検出されました」
爆発炎上する部屋と無数に散らばる死体を乗り越えて鑑識課員がやってきた。
「すると奴らは栄養補給より熱中症対策を優先させているのか」
俺は鑑識課員の胸を覗き込んだ。組み込まれているパネルに配合成分が浮かび上がる。塩分、糖分、水分の絶妙なバランスは水分補給以上の機能を持つ。
密告(たれこみ)に有ったグループじゃないな」
実況見分を済ませた瀬尾がパネルを叩いた。質より量で攻める男で、とにかく現場でぶっ放したいタイプだ。それだけに狩る事に関してだけは頭が回る。
「住民の平均年齢は20代前半だ。籠ったまま干上がるような連中じゃない」
そういう不届き者は一週間前に俺が掃討した。人間を堕落させる娯楽はプレイも保有も禁じられているが、実体を持たない麻薬の根絶はなかなか難しい。
片っ端から各部屋に銃弾を撃ち込んで筐体ごと粉砕してやった。そしてその後すぐに害虫どもがどこからともなく湧いてきて空き部屋を埋めた。
「入れ替わった住民は殆どが下級労働者です。昼日中は出払ってる」
鑑識課員の胸に人口ピラミッドがぞびえたった。土台を支えているのは未就学児童だ。
「つまり、日中に限って蒸し風呂で喘いでる
勤労の美徳を忘れた愚民どもは、夜になると別の顔を見せるわけだな」
瀬尾の言葉を聞きながら俺は部屋の隅に転がっているゴミ箱を持ち上げた。蓋を開けると中にぎゅうぎゅう詰めになっていたネズミの死体を押しのけて一冊の本が出てくる。ハードカバーではなくペーパーバックだが、内容に関しては大差ない。表紙には『犯罪心理学』の文字があり著者名はジェーン・エアだった。
「被害者の身元を確認しよう」
そう言って本を拾い上げるとパラパラとページをめくる。
「被害者は全員女性ですね……娼婦でしょう」
鑑識課員が言うとおり、どの遺体にも性交の痕跡がある。
「なぜ分かる?」
「死因ですよ。性器からの失血死ばかりだ」
「なるほど」
俺は納得したが瀬尾はまだ不満げな表情を浮かべていた。
「売春婦ならこんな場所に住み着く必要はないだろう? それに全員が同じ日に殺されている」
「それはまあ、確かに」
「この辺りじゃ売春は違法だぜ。バレたら即刑務所行きだ」
「でも金のためならなんでもやるんでしょうね」
「それもそうだな」
「その通り!」
瀬尾は腕組みをして考え込む。
「こいつらの共通点を探しましょう」
「年齢、性別、職業、出身国、信仰心の有無……全部違うな」
「そうですかねえ」
「おいおい、まさか犯人探しをしようっていうんじゃないだろうな」
「俺たちの仕事はあくまで逮捕、裁判、刑の執行までだろ。それに……」
「それに?」
「まだ事件とも限らない」
瀬尾の顔に理解の色が広がる。
「そりゃそうか」
「まずは情報収集だ」
そう言いつつ俺は本の山を崩していく。
「どんな些細な情報でも見逃すなよ」
「了解、ボス」
瀬尾は敬礼すると部屋を出ていった。
さて、俺の方はどうするか。
部屋を見回すと、壁際に置かれた大型ラックが目についた。
雑多な品々が所狭しと並んでおり、その大半が銃器や弾薬といった危険物に分類されるものばかりだった。
そのうちの一つ、ずんぐりとしたシルエットを持つ狙撃銃を手に取る。
マカロフPM。
ロシア製のセミオートマチックライフルで、スナイパー御用達の名機。
装弾数は8発。
銃身が短いため取り回しがよく、頑丈な作りなので信頼性が高い。
フルオート射撃も可能で、軍隊での採用実績もある。
しかし、欠点も多い。
特に使用時に独特の癖があることで、俺はあまり好きではない。
それでも、こいつの持つ利点は多い。
長いバレルのおかげで有効射程距離が長い。
反動が少ないので命中精度が高く、射手の技量を問わない。
何より手入れを怠らなければ、長期にわたって使用できる点が大きい。
さらに、最近では自動装填装置を組み込めるように改良され、必要に応じて切り替えが可能だ。
そんな事を考えながらマガジンを外そうとした時、不意に背中に悪寒を感じた。
「誰だ!?」
振り向くと同時に腰からMP‐5を抜き放つ。
しかし、人影はない。
代わりに天井の一部が音もなく崩れ落ち、大量の埃を巻き上げていく。
「クソッ」
俺は毒づくと床を蹴って駆け出した。逃げる先は出口だ。
ドアノブに手をかけようとした瞬間、扉の向こう側から何かが飛び出してきた。
咄嵯に右手で払いのけると、嫌な感触が伝わった。
「……チクショウ」
思わず顔をしかめる。
飛び出てきたのは死体だった。焼け焦げた衣類と体液が乾いて固まった皮膚。
鼻をつく刺激臭に吐き気を催すがなんとか堪える。
「こんなところで死ぬなんてな」
憐れみを込めた口調で言うと、俺はポケットから鍵を取り出して施錠した。
「これでもう大丈夫だ」
死体を跨いで外に出ると、大きく深呼吸をする。
そして空に向かって叫んだ。
「瀬尾! 助けてくれ!!」
「だから言ったんだ。あの女には関わるなって」
「なんでだよ。あんないい子、他にいないだろ」
俺はカウンターに突っ伏しながら、むくれ面で答えた。
「お前は若いんだよ。ちょっと優しくされただけで舞い上がってるだけだ」
「そ、そんなことないって」
俺は反論するが、マスターは「やめておけ」の一点張りだった。
「だいたい、名前も知らない相手なんだぞ」
「名前はジェーン・エア」
「……」
「年齢は20歳。職業は学生。出身地はロンドン」
「そこまで分かってるなら十分じゃないか」
「まだあるぞ。身長は165センチくらい。体重は50キロ前後かな」
「スリーサイズだって知ってるんじゃないか」
「ああ、もちろん」
「ほら見ろ」
「ただ、正確な数値までは把握してないが」
「自慢することじゃない」
「あと、手相を見た感じだと」
「やめろ!」
俺はテーブルを叩いて怒鳴った。「冗談だ」
「趣味の悪いジョークはよしな」
「分かったよ」
俺はため息をついてグラスを磨いている男に視線を戻した。
「それで、これからどうするんだ?」
「別に何もしない。今までどおりだ」
「それじゃ困る」
「どうして」
「どうしてもこうしてもない。仕事にならない」
「ほう、だったらどうしろと」
「決まってる。ジェーン・エアを捕まえるんだ」
「どうやって」
「捜査は現場百回と言うだろ。足を使うんだ。まず、現場。ジェーン・エアの著作が出てきたという事は部屋の住民か出入りする人間に愛読者がいるはずだ。そうでないとしたら、なぜ『犯罪心理学』が現場にある? あと、出版社を当たろう。担当編集者からジェーン・エアの人となりが聞けるかもしれん。それからさっき、本の帯を見たが、推薦文を書いた元死刑囚のロデオ・バンディって何者だ?これは調べないと」
「待ってくれ」
男は額を押さえて首を振る。
「一気にまくし立てられても覚えきれない」
「だったらメモを取ってくれ」
「そんな暇は無い」
「だったら、一つずつ片付けようや。まずアパートの住民とジェーン・エアの交友関係を洗おう。『犯罪心理学』なんて本を読むもの好きなんて限られてくるだろ。次に出版元の『屍の王(アンデッド・キング)』に連絡を入れて担当者を呼んでもらえ」
「それだけじゃないぞ。『犯罪心理学』の内容について聞き込みをしないと」
「内容は頭に叩き込んだ」
「え?」
「著者本人が書いた本だ。全部暗記した」
「嘘だろ」
「当然だ」
「……」
「それより、俺が聞きたいのは、お前が何をするつもりなのかだ」
「どういう意味だ?」
「この店で待ち伏せするつもりなら、これ以上話すことはない」
「そうじゃなくて、俺は……」
「お前のジェーンに対する気持ちを聞きたい。死んだ彼女をどう思うかだ。どうだっていいなら放っておけ。三流のデカどもが、通り一遍の捜査をやって、それらしいホシを挙げるか迷宮入りで終了だろ。この街じゃ毎日大勢死んでる。」「俺は……俺は、彼女の力になりたい」
「そうかい。まあ、好きにしな」
そう言うと、マスターは店の奥へと消えていった。
「おい、聞いてないだろ」
俺は抗議したが、返事はなかった。
俺はため息をついた。「なぁ。モチベーションや義憤だけじゃ、金にならない仕事はできねえよな?。店主は売上しか興味がねえ。それなら、耳よりの情報を教えてやるぜ。この店を強請ってる連中に関してだな。力になってやってもいい。これは取引だ」「悪いけど、そういう話には乗れないね。俺が欲しいのは情報じゃなく、金の卵を産むガチョウだ」
「まあ、それもそうだな」
「それに俺にメリットがない」
「そうでもないぜ。あんたが知ってることを俺にも教えてくれるなら、ゲーリー一家のがさ入れに弾みがつく。そうしたら連中は一網打尽だ。ビビッてこの通りに近づかない客も戻って来る。それに、今なら特別サービスでタダにしてやるぜ」
「結構だ」
そう言ってマスターは去っていった。
「クソッ」
俺は毒づいた。「なあ、俺たち友達だろ?」
「誰が友だちだ!」
「そう怒んなって。俺の推理を聞いてくれ」
「断る」
「いいから黙って聞くんだ。まず、この店の立地条件だが、表通りの向かい側とはいえ裏路地に近い場所にあって、人目につきにくい位置にある。さらにバーの看板を出す前に、入り口を塞ぐ形で鉄柵を設置してある。つまり、通りに面した出入り口は一つしかない。普通は看板を出した後、別の出口を作るものだ。そうしなかった理由は簡単。店の存在を知られたくないからだ。しかし、その割には店名がしっかり出ている。なぜか? それは宣伝のためだ。例えば、新装開店セールとか。まあ、他にも考えられるが、一番可能性が高いのは新規顧客の獲得だろうな」
「それで」
「そして、昨日今日開店したばかりなのに、常連が多い。これはおかしいことだ。なぜなら、そんなに頻繁に店が入れ替わるなら、よっぽどうまい商売でもない限り、すぐに潰れてしまうからだ。その証拠に、ここ数年で閉店した店舗は一件もない。さらに言えば、ここは一見さんお断りで紹介制だ。しかも、予約必須で、事前に電話を入れなければならない。つまり、よほどのコネでもあれば別だけど、初見の人間は入れない仕組みになっている。ここまでで何か質問はあるかな?」
「いや、よくしゃべる奴だと思って」
「それで、何か分かったのかね」
「ああ、だいたいの事情は察した。要するに、お前はあの女に惚れてるわけだ」
「は?」
「違うのか」
「どこをどう見たらそうなる」「だって、そうとしか考えられないだろ」
「もし仮にそうだとしても、それとこれとは話が」
「違わないさ。要するに、お前はジェーン・エアに一目惚れしたんだ。で、彼女と親しくなりたいと思った。だから、あの女に関する情報を収集している」