無機質なコンクリートに足を踏み入れ、澄みきった青が膨大に続く空を見上げた。綺麗な景色を見ると、心が晴れる。なんて聞いたことあるけど、空を見たところで、ちっとも心が晴れることはなかった。修復ができないほど、俺の心は荒れていた。

 屋上は鍵がかけられていて入れない。しかし俺は教師だ。鍵を入手するなんて、簡単なことだった。

 ポケットにしまい込んでいた退職届を手に握った。一向に気分が晴れない自分が嫌になり、また大きなため息を吐いた。

「腹いせに、俺の死に場所はここにするか」
 
 誰もいない屋上。寒空の下ぽつりと呟いた。
 学校で教師が自殺。
 そんなことがあったら大問題だろうな。

 どこか他人事のように。でもそれもいいかもしれない。そう思ってしまうほどに、教師から逃げ出したくて仕方がない。

 教師になりたてのころはすべてにおいて全力だった。生徒と全力で向き合っていた。
 いつからだろう。力を抜くことを覚えたのは。

 教師三年目を迎えた俺は無気力だった。自ら生徒に関わることをやめた。その選択は正しかったのだろうか。
 分からない。分からないが、生徒からしたら最低な教師だったことには違いない。

 辞めたいと申し出ても辞めさせてくれないのなら、この屋上で初めての自殺者になってやろうか。訳の分からない反抗心に火が付きそうだった。

 再び空を見上げると落下防止フェンスがどうしても眺望を妨害する。記憶に刻みたいような澄み切った青空も台無しだ。
 
 冬の冷たい風が肌に刺さる。しばらく空を眺めていたせいで鼻先が冷たい。冷たくなった指先をフェンスに向かって伸ばした。と同時に視界に気になる存在が映る。
 
 地上の花壇の前に座っている制服を着た影が小さく見えた。卒業式前で三年生は自宅学習期間で学校には来ないはず。なのに、受け持ちクラスの生徒に見えて仕方がなかった。

 ただ、在校生が授業をさぼってそこにいるだけかもしれない。
 ただ、三年生が学校に来てそこにいるだけかもしれない。

 なぜか気になって仕方がない。気づくと俺の足元は無機質なコンクリートから、乾いた土へと変わっていた。


「花壇の前に座ってなにしているんだ?」


 俺の気配に気づく様子のない背中に声を投げかけた。突然降ってきた声にびくっと肩を震わせて、驚いた様子で振り向いた。髪の毛がさらりと風に揺れる。
 そこにいたのは、受け持ちクラスの灰原莉子(はいばらりこ)だった。
 

「は、灰原?!」
「夏目先生?」
「なんで、ここに?」
「夏目先生こそ、どうしたの?」
「いや、俺は花壇の前に座っている生徒が見えたから気になって。灰原はどうしてここに?」

 問いかけに反応せず、灰原は一文字に口を閉ざした。
 
「なにか悩みがあるのか?」

 俺が問いかけると、返事の代わりに無理して笑ったようなぎこちない笑顔を浮かべた。
 
「先生って、生徒の悩みとか聞くタイプだっけ?」
「さすがに、悩まし気にしている生徒を放っておけないよ」

 本心だった。無理して笑う彼女の笑顔が、今にも消えてしまいそうなほど儚い笑顔だったから。

 さっきまで、腹いせに死に場所はここにするか。なんて陰険なことを考えていた俺に、生徒のためにできることなんてないのかもしれない。だけど、目の前で生徒が困っているのなら、手を差し伸べたいと思った。まだそう思える心がある自分に驚きながらも、どこか安心した。

 
「なんでかな? 高校生活に心残りがありすぎるから……かな。自然と足が向かっていたというか」
「心残りって?」
「ただ毎日学校にきて、卒業式も淡々と事務的に終わって。それが私の高校生活でいいと思ってた……。だけど。正直かなり後悔してる。私の高校生活、何も残らなかったなあって」
 
 顔を上げたその瞳にはうっすらと涙が滲んで見えた。彼女が後悔しているのだけは伝わってきた。
 瞳にたまった透明で悲痛の涙に胸が苦しくなる。気づけば口が開いていた。

 
「あと2日間あるぞ?」
「え?」
「卒業式まで2日間。心残りをやりつくして。心残りをなくせばいい」
「心残りを消す……? それは、先生も協力してくれるってことだよね?!」

 言い出した手前、頷くしかなかった。
 それに、目の前で高校生活に悔いを残す自分の生徒を、放っておくことが出来ないと思った。

 腐った教師魂の中にも、どうやらほんの少しだけ良心が残っていたらしい。

 

 卒業式まであと2日間。今は自由登校期間だ。在校生は変わらずいるはずなのに、うるさい三年生がいないだけで、校内は静まり返っているような錯覚に陥る。


 灰原莉子はあまり自ら発言をせず、おとなしい生徒という印象だった。真面目でおとなしい生徒がために、ほとんど会話をした記憶がない。

 今になって、そのことを深く後悔している。高校生活に心残りがあると告げた彼女の表情があまりにも哀しげで。どこか辛そうだったからだ。

「心残りをなくそう」

 彼女のために言った言葉だが、自分のためでもあるのかもしれない。

 目の前の生徒に、心残りを作ってしまった。
 それはきっと、担任の俺にも責任があるからだ。
 心に重くのしかかる罪悪感も、灰原の心残りが消えると同時になくなってくれるだろうか。



 ♢

 提案した通り次の日、灰原は学校に現れた。
 

「あのさ……心残りをなくすって言ったけど。俺だけで役不足じゃないか?」
「先生がいてくれるなら大丈夫そう!」

 押し寄せていた不安を拭うように優しい声だった。

 

 灰原が心残りだといったのは、園芸部が世話をしていた花壇の手入れだった。我が校の花壇は園芸部がお世話をしてくれている。

 灰原は園芸部に所属していて、彼女がよく1人で手入れをしてしているのを見たことがあった。
 こまめに手入れをしてくれるおかげで、季節が変わるたびに、鮮やかに咲き誇る花を見ることができた。

 花壇を目の前にして驚いた。
 草木は枯れ果て。雑草は根を張り。蜘蛛の巣まで張っている。誰がどう見ても、花壇として機能していなかった。
 灰原が手入れをしていたころより、遥かに寂れていた。

「もう、今の二年も一年もあんまり活動してくれないんだよね。私がいなくなったらどうなるか心配だったけど。もうこれだよ」
「あー。いや、でも今は冬だしな。春になったらきちんとやるんじゃないか?」
「そうかもしれないけどさ……これはひどいよ! ほら、蜘蛛の巣だって張ってるよ!」
 

 わかりやすくふくれっ面をして、ぶつぶつ愚痴を零した。枯れた草木や、雑草を見つめる背中にも怒りが滲み出ていた。
 二人で作業するには明らかに大きい花壇。草木を取り除く作業に取り掛かった。
 
「……綺麗な花で学校を明るくさせたいんだよ」
「学校を明るくか。灰原のおかげで、この花壇は華やかだったんだな」

 灰原がこの花壇の手入れをしているところを何度も目撃していた。だけど、一度も手伝ったことはなかった。声をかけることもなかった。こんなに大変だったなら、一度くらい手伝えばよかった。

 また後悔が心に広がった。後悔が増えるたびに心が押しつぶされたように痛む。

「あー。先生、ここの草木抜いて! あー! ここもね!」
「はい、はい」

 灰原は遠慮なく俺に指示を出す。不思議と嫌な気持ちにならないのは、彼女の新たな一面を見られるたびに嬉しいからだ。

「終わったー!」

 心から出た安堵の声だった。根が張った草木を取り除く作業は骨が折れる。肉体労働は体に応えた。

「良かった! これで春を迎えられる!」

 綺麗に整備された花壇を見て満足げに笑う灰原の姿が見られて、胸の奥がじわじわとあたたかくなる。


「学校生活、もっと楽しめば良かったな」
 
 悲しげに俯いた彼女にかける言葉が見つからなかった。
 後悔したところでもう時間がない。俺だけでは彼女の思い残した気持ちを消すことは出来ないかもしれない。

 そんな不安が頭を過った。
 だけど。なんとかしてやりたいと本気で思った。

「明日はさ、俺に考えさせてくれないか?」
「先生が考えてくれるの?!」
「ああ。だから明日も学校に来てくれよ」
「うん!」


 彼女との時間は永遠に続かない。
 それを分かっているからそこ、名残惜しさが込み上げてくる。


 ♢

 卒業まであと1日。
 灰原と2人の時間は、実質今日で最後ということだ。

 
 屋上に足を踏みいれた灰原は風を感じるように両手を広げてた。ひっそりと背中に隠していた透明な袋に入ったカラフルな手持ち花火を差し出した。
 

「え、花火?! まさか、ここで?!」

 目をぱちくりさせて、いつもよりひとまわり大きな声で上げていた。

「え! いいんですか?!」 

 いけないことだと認識はあるようで、嬉しさと理性との間で格闘しているのが見て取れた。予想通りの反応だったので、思わず笑みがこぼれる。
 

「昼間の学校! 屋上で花火! これが壮大なことだぞ?」

 教師が胸を張って言えることではない。
 それを分かった上で、わざとらしく胸を張って言い切った。


「でも、屋上で花火なんて。校則違反すぎでは?!」
「俺、先生だぞ? いいに決まっているだろ」
「先生? 職権乱用では?」


 教師と生徒が屋上で花火をするなんて、いいはずがない。

 どうせ、俺はろくでもない教師だ。バレたところで何も傷つくものはない。開き直った俺には怖いものはなかった。
 
 なにより、この学校で灰原の記憶に残る思い出を作ってやりたかった。

 誰かのために、何かをしたいと本気で思ったのはいつぶりだろう。考えても思い出せないほどのに今までの俺は腐っていた。

 バケツに水を張って準備した。これで花火をする準備は整った。

 手持ち花火に火をつけると、喜びを顔一面にみなぎらせて、鮮やかな光を見つめていた。
 色とりどりに染まる火花が舞い散る。
 昼間に花火をするのは、人生で初めてだった。火花は花のように照らしたかと思えば、あっという間に消えてしまう。
 躊躇していた灰原も、無邪気な子供のように瞳を輝かせて、花火を見入っていた。


「花火って冬でも売っているんですね。夏しか見かけないから」
「あー。普通に売っているよ」

 平然を装って答えたが、本当のところは、だいぶ探し回った。
 花火が売れる季節は夏だ。正反対の季節の今、なかなか取り扱うお店がなかった。10件はお店を回ったかもしれない


 手持ち花火をしたのなんて、いつぶりだろうか。淡い光で灯る花火は、大人の俺にも魅力を感じるものだった。学生の頃の記憶がよび返され、心がじわじわとあたたかくなる。
 
 灰原の記憶に残ってほしいとはじめたことだったが、年甲斐もなく楽しんでしまった。俺自身が灰原との思い出を残したいのかもしれない。

「先生? 卒業式が終わったら、もう会えなくなるよね?」
「そうだ……な。やっぱりそうなるよな」

 なぜか言葉の歯切れが悪くなる。
 どちらも言葉を発することなく、沈黙が続く。


 抱いてはいけない感情が芽生えはじめていた。
 静寂を破ったのは彼女だった。

「先生が寂しいなら……卒業やめよっか?」


 俺の気持ちを見透かされたようにな気がして、胸の奥が痛い。寂しいという気持ちは明白だった。
 もう灰原に会えなくなると考えたら、寂しくて仕方ない。


「何言ってんだよ。生徒を見送るのが、俺の務めだ」

 引き留めたかった。だけど、それは君のためにならないと分かっていたから。深く息を吸った。心の奥を騒つかせる感情をしまい込んだ。


「寂しいな」

 ぽつりと零した彼女の声が、やたらと耳に残る。

 このままでは、灰原に伝えてはいけないことを言ってしまいそうだった。自分の感情を抑え込み、理性でその言葉を飲みこんだ。
 


「先生のおかげで、高校生活に楽しい思い出ができたよ」
「そっか……よかった」
「ありがとね、先生」
 
 灰原の声が風に乗って消えていきそうなほど弱々しかった。

 ♢
 
 様々な感情が入り混じる中、卒業式当日を迎えた。ネクタイをキュッと締めた。普段着ないスーツを着ると身も精神も引き締まる。
 
 今日で一年担任したクラスの生徒が卒業する
 特に変哲もないクラスだと思っていた。思い返せばそれぞれの生徒に個性があり、変哲もないわけがなかった。俺が見ないようにしていただけだった。
 
 静寂の中、教壇に立って教室を眺めた。
 無気力からはじまったこのクラスの担任。
 終わりを迎えると、後悔しか残らなかった。

 高校生活最後の担任として、みんなに少しでもなにか残せたのだろうか。
 大人として、正しい道へ導けたのだろうか。考えてもわからない。
 ただ、俺の心には重い影だけが残っていた。
 
 次第に教室に生徒が集まってきた。
 みんなが集まった後、灰原も静かに自分の席に腰を下ろした。

 クラス全員で卒業式を迎えられたことに、嬉しさが込み上げ胸が熱くなる。

 緊張しているような生徒もいれば、普段と変わらない様子の生徒もいる。
 感情の違いはあるけれど、この場にいる生徒は、今日この学校を卒業する。
 
 


 卒業式が始まると卒業生が一列になって体育館に入場してくる。
 体育館で行われる卒業証書の授与は、一人ずつ名前を呼ばれて、最後にクラスの代表者が卒業証書をもらう。簡略化された卒業式は滞りなく終了した。

 式が終わり教室へとみんなが集まる。
 生徒にとっては、この教室で過ごす最後の時間だ。

 
 深く深呼吸して、教壇の前に立った。
 このクラスの顔ぶれを見るのも今日が最後だ。


「卒業証書を渡します。名前を呼ばれたら、前に出てきてください」

 名前を読みあげていく。このクラスの生徒の名前を呼ぶのも、今日が最後だ。毎朝ホームルームで点呼していた名前。
 クラス名簿がなくても、順番も名前もすらすらと口から出てくる。それほど俺の体に馴染んでいた生徒たちの名前だ。

 卒業証書を手渡す前に、一言ずつ言葉を交わした。記憶を辿りながら思い出していくと、急に喉が苦しくなってきた。声が出しずらい。震えそうになる声を必死に隠した。
 
 次々と生徒に卒業証書を渡していく。
 和やかなムードの中、彼女の番が近づいてくる。


「灰原莉子」

 灰原はゆっくり席を立つと教壇の前に歩んでくる。
 他の生徒の前では、すらすらと出てきた言葉が灰原を前にした途端、出てこなくなった。

 一人の生徒を特別扱いするのは、教師としてやってはいけないことだ。でも、どうしたって、灰原は特別だった。詰まる言葉を絞り出す。


「灰原莉子。毎朝花壇に水をあげている姿を見ていた。季節が変わるたびに、鮮やかに咲き誇る花が見られたのは、灰原のおかげだった……」

 目の前の灰原の目に涙が滲んで見えた。つられて涙腺が刺激されてしまう。
 
「灰原と話すことが増えるにつれて、君の新たな一面がたくさん見れた。無邪気に笑うところ。一生懸命なところ……灰原の心残りはなくなっただろうか」

 声は震えていたと思う。涙腺は崩壊寸前だった。

 俺の耳に啜り泣く声が届く。先に泣いたのは俺ではなかった。つられて俺も泣きそうになる。ぐっと目に力を込めてなんとか耐える。

「灰原と過ごす時間は……穏やかで、楽しいものでした。灰原に出会えて良かった。俺は、俺は……」

 頭に浮かぶ言葉を飲み込んだ。この想いを言ってしまえば、君を困らせてしまうから。
 

 一気に涙が目に溜まる。こぼれ落ちないように力を込めた。顔を上げると、そんな俺を見て灰原は笑っていた。
 涙で視界が滲む。滲む視界の中、君の笑顔は綺麗だった。


「灰原。卒業おめでとう」



 卒業証書を灰原に渡すために手を伸ばした。
 返されたのは柔らかい笑顔だけ。


 それが彼女の答えだからだ。


 ある席に立てられた花瓶に咲く一輪の花。
 その横に卒業証書をそっと置いた。


 啜り泣く声が次第に増えていく。泣いているのは灰原でも俺でもない。クラスメイトだ。

 あちこちから啜り泣く声。嗚咽が聞こえてくる。ハンカチを握りしめて目元を押さえている生徒もいた。


「俺は……俺はっ、灰原に卒業証書を渡したかった」

 灰原は卒業証書を受け取ることが出来ない。
 ずっと言えなかった本音を吐き出すと、身体の力が抜けて膝から崩れ落ちた。

 押し殺していた彼女に伝えたかった言葉が、とめどなく溢れてくる。

「早すぎる……灰原が死ぬには早すぎた」

 想いを吐き出すと、その言葉に共感をしたかのように、むせび泣く声が大きくなる。
 俺の涙腺も完全に崩壊していた。一度流れた涙は止まることを知らない。

 泣くのはいつぶりだろうか。
 大人という見栄も、教師というちっぽけなプライドも、今の俺には必要なかった。
 
 悲しみは伝染していく。嗚咽が重なりこだまする。
 今この教室にいる全員が、灰原を想って泣いている。

 



「もう。なんでみんな泣くの? みんなが泣くから、悲しくなってきちゃった」

 震える灰原の声は俺にしか届かない。
 灰原の声はみんなに届くことはないのだ。
 


 灰原莉子は卒業の数週間前、乗用車に跳ねられ亡くなった。即死だったらしい。人通りの少ない道路で目撃者はいない。突然飛び出してきた。と運転手の証言によって自殺ではないかと疑惑が浮上した。

 それからすぐだった。灰原の死因は自殺で、クラスでいじめがあったと拡散された。灰原はおとなしい性格ではあったが、いじめられていたわけではない。勝手な憶測だと思った。

 クラスで聞き取り調査もした。
 このクラスにいじめはなかった。というのが結論だ。

 だけど、生徒と一線をおいてきた俺には、いじめはなかったです。と肯定することができなかった。その答えに自信を持てなかったからだ。
 もしかしたら、俺が知らないだけで、いじめがあったのかもしれない。わからなかった。真実がわからなくて、疑惑の念が膨らんでいく。

 
 その時だ。俺は教師失格だと気づいたのは。
 己が楽をしたいばかりに、生徒と一線を置きはじめ、そのせいで生徒の死という局面で、何もすることができなかった。
 きちんと弁明をできない俺は、学校の保護者たちと教員、双方から責められ。ネットでは担任の俺が悪いと散々に叩かれた。罵倒の矛先は担任である俺に全て向けられた。

 たくさんのことが積もり積もった末に、心が崩壊してしまった。自責に心が耐えられなくなったのだ。
 教師を辞めようと決意しても、退職は拒否され、逃げることも許されない。

 これから先の道筋を完全に見失った時、灰原が現れた。心臓が止まるのではないかと思うほど驚いた。いるはずがない生徒だったからだ。





 みんなが帰り、誰もいなくなった教室。
 灰原の席にはクラスのみんなが買ってきた花束が飾られていた。



「先生、みんなが私を忘れてなくて、正直嬉しかった」
「うん」
「先生、私も卒業できそうだよ? なんだかそんな気がするの」
「そうか……」

 灰原との別れが近づいているのがわかった。彼女の身体が景色に溶けているように見える。明らかに俺の視界から薄くなっているのだ。


「みんなと一緒に卒業したかったな」
「……」

 言葉が出てこない。なんて言えばいいのかわからない。俺だって、卒業させてやりたかった。



「生きて、卒業したかった」

 灰原の瞳が潤んで見えた。
 胸が押しつぶされたように痛い。
 震える声で囁いた彼女にかける言葉が見つからない。

 なぜ灰原が視えるのは俺だけだったのだろう。俺では役不足すぎた。

「灰原のこと……なんで俺にだけ灰原の姿が視えたんだろう」

 それはずっと気になっていた疑問だった。俺じゃない誰かのほうが、灰原にとって良かったんじゃないだろうか。ずっと感じていたことだった。

「それは、私の心残りが先生だからだと思う」
「俺?」
「事故に遭ったあと、私は幽霊ってやつになったんだと思う。なんだか身体がふわふわと軽くて、町中を彷徨っていた。お母さんとお父さんが泣いている葬儀で私の写真が飾られているとき。あー。私死んだんだって気づいた。それからもずっと彷徨ってた。学校を彷徨っていたとき、私のせいで不穏な空気が漂っていることに気づいたの」
 
 俺のほうを見て、申し訳なさげに言葉を続けた。
 
「私の事故に目撃者がいなかったせいで、自殺だと根拠のない噂が回っているのを知った。そして、そのせいで夏目先生が苦しめられていることを……ずっと見てたの。あの事故はね、道路に立ち止まってる猫がいて……気づいたら身体が動いちゃってた。私が車に轢かれた後、猫は逃げていったから。運転手には私が飛び出てきたように見えたんだと思う」
「……」
「だから自殺じゃない」

 どこか不安だった。灰原の死因が自殺だったのなら。クラスのいじめを見抜けなかった俺が悪い。自責の念に駆られて、眠れない日も多かった。
 
 真実を聞けたことで、肩の荷が降りたように軽くなる。
 

「私が事故に遭ったせいで、夏目先生が叩かれることになってごめんなさい」
「叩かれるような教師人生を歩んでいた俺が悪い……」
「夏目先生は悪くないのに自分を責め続けてた……。それが1番の心残りだった」

 俺はてっきり灰原の心残りを消すために手助けをしていると思っていた。

 だけど、本当に助けられていたのは。
 ――俺の方だった。

 彼女と過ごした時間で、生徒と向き合わなかった自分の愚かさを知った。灰原を助けていると思っていた俺が、彼女に助けられていたなんて。

 最後に俺にできることはないだろうか。どうやら考えている時間はないらしい。灰原の姿が、景色に溶けていく。
 
「私は死んじゃったから、みんなと一緒に卒業はできなかったけど……」
「夏目組からは卒業できたよ」
「え?」
「夏目組は俺のクラスのことだ。俺のクラスなんだから、卒業生は俺が決める」
「ははっ。夏目先生得意の職権乱用だ」
 

 笑うと同時に、灰原の頬には透明な涙が伝った。


「俺みたいな奴が担任でごめんな」
「夏目先生は、いい先生だよ。少なくても私にとっては、ね。先生? 『卒業おめでとう』って言ってくれる?」

 すぐには言えなかった。その言葉がサヨナラの合図なような気がしたからだ。

 言ってしまったら灰原が消えてしまう気がして。言いたくなかったんだ。これは完全に俺のわがままだ。
 
「先生……?」

 こぼれ落ちる涙をスーツの袖で乱雑に拭って顔を上げた。

 ああ。胸を張って言えるよ。
 俺の大切な教え子に。
 心から君にこの言葉を贈るよ。


「灰原莉子。卒業、おめでとう」

 胸を張って言い切った。
 
 身体が空に向かうように半透明になって消えていく。消えゆく彼女は。今まで見た中で1番の優しい笑みを浮かべていた。
 
 自分より若い命が消えるなんて。
 やり場のない悔しさが心を蝕む。
 本当に誰もいなくなった教室は、涙で滲んでよく見えない。
 君は確かに、ここにいた。
 幻のように消えていった君は、確かにここにいた。
 




 職員室のデスクの引き出しには退職届がある。いつでも辞められるようにと、心のお守りだった。

 灰原と過ごす時間の中で、俺の中に残っている教師の良心を思い出させてくれた。この気持ちを忘れたくなかった。
 
 もう一度、生徒たちと向き合いたい。俺みたいな人間。教師に向いていないかもしれない。
 それを分かったうえで、また頑張ってみてもいいだろうか。
 灰原なら、笑って応援してくれる。そんな気がした。
 
「もう少しだけ、足掻いてみてもいいかな?」

 決意の印に、退職届をビリビリと破り捨てた。

 俺はこの学校をまだ卒業しない。
 ただ、腐った教師からは卒業すると、君が向かった空を見上げて決意した。


【完】