タケオは一人、テレビで高校野球を見ていた。今日は神奈川県予選決勝の日。本来ならば、直接会場に赴いてスタンドで勇竜学院高校四番バッターのシズヤを応援するつもりだったがそれは叶わなかった。



「タケちゃん、決勝見に来てよ」
 まだ今年の県予選が始まる前の春、シズヤはタケオを誘った。男子校 特有の尋常でないほど騒がしい廊下でもシズヤの声ははっきりと聞こえた。
「いつ?」
「七月の終わり!」
 シズヤは満面の笑みで答えた。シズヤは声が大きい。毎日の練習で常に声出しをしている野球部員だが、その中でも特に声が大きい。子供のころから、元気が有り余っていると言われて育ってきた。
 そのパワフルさは優しさという形で現れた。具合の悪いお年寄りを病院に連れて行ったり、ひったくり犯を捕まえて警察から感謝されたりと校内外問わずたくさんの困っている人を助けてきた。ひったくり事件の際はさすがにタケオもシズヤの身を心配する感情が先に来たが、タケオはシズヤを尊敬していた。
「うん。応援行くよ」
「よっしゃ! 俺、絶対ホームラン打つから見ててな!」
 シズヤは心底嬉しそうにガッツポーズをした。野球部の応援が義務になっているわけでもないのに、試合には毎回多くの友人がシズヤの応援に駆け付ける。多くの人に慕われるシズヤだが、タケオが来ると約束してくれるのは大きな力になる。

 タケオは生粋の運動音痴で、生まれてこのかた運動部の類には所属したことがなかった。スポーツ観戦の趣味も特になかった。しかし、シズヤが野球の魅力をあまりに語るものだからこの二年と少しの間で野球のルールを自然と覚え、今ではプロ野球中継を見るようになり、大阪の球団を贔屓にしている。
 シズヤには感謝してもしきれない。クラスの中心人物だったシズヤに、どちらかというといじられキャラの部類だったタケオはずっと助けられてきた。こうして誘われている瞬間にも、シズヤは三年A組四十人分の国語のノートを職員室に運ぶのを手伝っている。
 そんなシズヤから直接晴れ舞台を見に来てほしいと言われたことを嬉しく思った。だからこそ、この最後の夏にシズヤの勇姿を見たいと思った。

 すっかり気分を良くしたシズヤとタケオは他愛もない会話をしながら職員室へと向かう。
「いい名前だよね」
 四十冊のノートの山を見ながらタケオが言う。一番上にあるのはシズヤのものだ。お世辞にも上手な字だとは言えないが、下手なりに丁寧な字で名前が書いてある。
「だろ? ありがとな! 母ちゃんにも伝えとくわ!」
 シズヤは謙遜することなく、屈託のない笑顔でお礼を言う。そうこうしているうちに職員室についた。
「じゃあ、俺自主練してくる!」
 そう言ってダッシュで去っていくシズヤの背中をタケオは見送った。休み時間は残り少ない。そんなわずかな隙間時間にも練習を欠かさないシズヤ。シズヤの努力をずっと見てきた。
 野球部の創部以来五十年以上にわたる悲願であるところの甲子園出場。それをシズヤの手でつかみ取ってほしい。そう強く願った。



「シズヤ……頑張れ……」
 一回裏、ツーアウトランナー三塁。シズヤの打順が回ってきた。先制点を撮る絶好のチャンスだ。病院のベッドの上で、タケオはそれを見守っている。
 期末テスト一週間前、タケオは突然倒れ、病院に緊急搬送後そのまま入院となった。試合を見に行くというシズヤとの約束が守れなかったこともショックだったが、タケオにはもうひとつ大きな心残りがあった。
 元々、タケオは卒業式を待たず一足早く三年A組にさよならをすることになっていた。秋には神奈川を離れ、名古屋へと発つことが決まっていた。終業式の日にシズヤに伝えようと思っていたサヨナラもありがとうも言えないままだ。もっと早く言えばよかったとタケオはずっと後悔していた。

 バットが空を切る音がする。
「ストラーイク! バッターアウト! チェンジ!」
 シズヤは空振り三振した。決勝戦ともなると、相手は強敵だ。
 その後も、勇竜学院のピンチは続く。二回表、三回表と連続で点を取られてしまい、二対〇だ。四回裏、再びシズヤに打順が回ってきた。シズヤは険しい表情だ。
 ピッチャーが振りかぶって投げる。シズヤがバットを振る。ボールは音を立ててキャッチャーミットに収まった。再びシズヤがベンチへと帰っていく。
「大丈夫、まだ四回だよ」
 タケオが手を合わせて祈りながら呟く。その声はシズヤには届かない。その後両校とも得点はなく、結びつかず七回裏を迎える。

 転機は訪れた。今まで当たらなかった相手校のエースピッチャーのボールを、シズヤのバットがとらえた。シズヤが打つ。ショートがボールを追う。シズヤが走る。ショートが捕球する。シズヤが走る。ショートが一塁にボールを投げる……。タッチの差で、出塁とはならなかった。
「ああっ……」
 タケオは思わず声が出てしまった。悔しかった。あとちょっとだったのに。

 その時、病室のドアをノックして看護師が入室した。
「竹尾さん、竹尾麻衣香さん、お見舞いの方がいらしていますよ」



「皆さんよろしくお願いします。二年A組の担任になりました、国語の竹尾麻衣香です」
 一年前の四月、タケオはシズヤのクラスの担任になった。やんちゃな生徒たちが好き放題に騒いでいるせいか、自己紹介の声は全くと言っていいほど聞こえない。
「おいおーい、みんなちょっと落ち着けって。タケちゃんしゃべってんじゃん」
 フォローしてくれたのはシズヤだった。シズヤの一年時は担任でこそなかったが国語の授業を受け持っていた。若い女性教師ということで舐められがちだったタケオだが、授業があまりに崩壊しそうになるとシズヤが適度にクラスメイトを諫めた。
「ストップ。タケちゃんが困ってんだろ」
 やんちゃな生徒もやや不良の気がある生徒もシズヤには一目置いていたので、シズヤに言われれば羽目を外しすぎることはなかった。

 かの有名な野球選手は運を引き寄せるために日頃の行いに気を付けている。そんな話をタケオは何かのサイトで見たことがあった。タケオはシズヤにそれに近いものを感じていた。
 誰にでも優しく、困っている人がいたら必ず助ける。何事にも一生懸命。そんな彼はタケオにとって光だった。

 シズヤは初めて出会った時から眩しかった。一年生の最初の授業の自己紹介に際して、名前と座右の銘を全員に聞いた時からそう思っていた。
「座右の銘は有言実行! 絶対甲子園行きます!」

 シズヤは座右の銘のとおりに、言ったことを必ず実現してきた。シズヤが二年A組をいいクラスにしようと言えば、持ちあがりで三年A組になった今もクラスはいい雰囲気だ。レギュラーを勝ち取ると言えば勝ち取ってきた。タケオを決勝戦に招待すれば、地区大会を順調に勝ち進んだ。だから、シズヤは甲子園に行くと言ったからには行く男だとタケオは信じていた。それにシズヤは言ったのだ。
「タケちゃん、俺、絶対ホームラン打つから……」
 と。




 ついに試合は二対〇のまま九回裏へともつれ込む。ツーアウト満塁。バッター、シズヤ。真剣なまなざしでバットを握る。
 一球目、ストライク。二球目、ストライク。あとがない。勝利の女神は、シズヤには微笑まないのだろうか。あと一球で運命が決まる。タケオは思わず目を閉じた。

――タケちゃん、決勝見に来てよ。

 シズヤの言葉が蘇る。駄目だ、目をそらしちゃいけない。タケオは思い直した。

――うん、応援行くよ。

 約束したじゃないか。会場に行けなくても、せめて最後まで応援しよう。タケオは目を開ける。ベッドに寝たまま、頭上のテレビをじっと見つめる。
「頑張れ、シズヤ」
 ピッチャーが振りかぶって、泣いても笑っても最後の一球を投げた。そして、シズヤは思いっきりバットを振った。タケオは一瞬たりとも目を離さなかった。

 バットの中心がボールをとらえ、カキーンという音がして飛んで行く。ボールは大きな弧を描いて、観客席に飛び込んだ。
「ホームランッ! シズヤ選手、この土壇場で逆転サヨナラホームラン! 夏の高校野球の歴史の一ページに、勇竜学院高校の名を刻みます! 勇竜学院高校、半世紀に渡る悲願の甲子園初出場決定! 伝説となる一打が今まさに、大空に虹をかけた! 」
 実況は大興奮しながら伝える。選手も応援席も、初の甲子園進出に狂喜乱舞だ。興奮冷めやらぬうちに、ヒーローインタビューへと移行する。シズヤはいつものように、大きな声でマイクに向かって叫んだ。とびっきりの笑顔だった。

「タケちゃん、俺、ホームラン打ったよ! だからタケちゃんも元気な赤ちゃん生んでね!」

――タケちゃん、俺、絶対ホームラン打つからタケちゃんも元気な赤ちゃん生んでね。

 一学期、妊娠を公表した際にシズヤに言われた言葉だ。二学期から産休に入り、実家の名古屋で里帰り出産をすることになっていた。
 シズヤのホームラン宣言は初産に臨むタケオへのエールだった。結局切迫早産で緊急入院して応援に行く話は断ち消えになったが、シズヤの言葉はタケオの希望の光になっていた。

「産むよ、元気な赤ちゃん」
 有言実行。シズヤの座右の銘に倣ってタケオは誰に対してでもなく宣言する。

 その時、再度ノックの音とともに人が病室を訪れる。麻衣香の夫のユウジだった。
「ごめん、タイミング悪かった?」
「ううん、今勝ったところ」
 インタビューは終わりに近づいていたが、画面の中にはまだ勝利の余韻が残っている。眩しい彼らの夏はまだ続く。タケオは彼らのこれからの快進撃を確信していた。シズヤは甲子園本戦でも、チームを導く光になると。そして、教え子が自分とこれから生まれてくる子の希望の光になってくれると。

「ねえ、この子の名前、光(ヒカル)にしない?」
 画面の中の教え子の雄姿を見ながら、夫に提案した。
 将来野球をやらなくてもいい。運動神経が良くなくたっていい。それでも、シズヤのように、高校球児たちのように、光り輝くような一瞬一瞬を大切に一生懸命に生きてほしい。夏の輝きを、青春を目いっぱい楽しんでほしい。そして、誰かの光になってほしい。そんな願いを込めて。
「いい名前だね」
 ユウジが頷く。その声に反応するように、タケオの子供がお腹を蹴った。そうだ、この子も頑張っている。タケオは強く実感した。
「頑張れ、ヒカル。私も頑張るよ」
 有言実行。言葉にすればきっと叶う。エールと決意をタケオははっきりと言葉にした。