「いつかきっと、一緒に月に行こうね」
誰もいない家から抜け出し、鍵をかけようとした時だった。なぜかふと、唐突に、あの日の約束を思い出した。
今よりずっと幼くて、この世界の濁った部分なんて何も知らなかったころ、顔も名前も思い出せない男の子と交わした夢のような約束。
この約束を果たせる環境がもう少し早く来ていたら、わたしはそこに逃げたかもしれない。だけど現実は月がもう一つの居場所になる日なんてまだまだ先だ。わたしはそんなに辛抱強くない。
なんとなくこの約束を果たすべきであるような気がして一瞬手を止めていた。
でも、もう限界だ。
都会の空に星はない。人々の気配を感じさせる大量の電気が優しくて小さな光を消していく。
うんざりする。こんな世界に縛られている必要なんてあるはずがない。
わたしは今日、遠くに行く。
改札口にICカードを押し付けると、赤いランプに妨げられた。神様がくれた最後のチャンスだろうか。ああ、わたしったらバカだな。神様がいたら、とっくにわたしは守られているはずじゃない。
今日限りのICカードにチャージするのも変なので、何年ぶりかの切符を買った。この小さな紙切れが、わたしを未知の世界へと連れて行ってくれる。子供のころにもそんなふうにはしゃいでいたっけ。
ホームに突っ立つわたしは人混みの中の一部分に過ぎない。今は制服も着ていないから高校生という肩書きすら感じさせない、ただの邪魔な人間の一人。
人の波に乗って電車に乗り込んでしまえば、あとは無心に揺られているだけで目的の場所に辿り着ける。流されながら適当に足を進めるだけでここから離れられるなんてありがたい。
目的地の駅のアナウンスが聞こえた。終点の一つ前の駅。降りるのだけは自分の意思だ。足がすくんで動けなくなる可能性も考えていたのに、案外すんなりとホームに降り立ってしまっていた。
両端を生い茂った木々に挟まれた細い道路を歩いていく。道は次第に舗装されていないものとなり、小石や枝がゴツゴツと足裏を刺激した。草むらを掻き分けて進むしかないところもあったが土の汚れなど気にする意味もない。ここ数年間で、今が一番足取りが軽やかな気がする。未来に悩むことも現実が嫌になることも過去がのしかかって来ることもない。
あとはもう、死ぬだけなのだから。
ふと空を見上げる。雲がかかってしまい満面のとまでは言えないもののたくさんの星が自分らしい色と強さで輝きを放っていた。その真ん中に少し歪んだ丸い月。ここの空には自由がある。大きくても小さくても、強くても弱くても、何色でも、誰にも責められることなんてない。そして彼らを見上げた地上の人たちの多くが、誰かを特別視することなく全てを綺麗だと言う。いや、月を除いて、か。今いる場所と近かったから大きく見えるというだけの月は他の星と区別される。
月はかわいそうだ。周りと違うから、仲間がいない。月は月として、一人で空にあり続けなければならない。誰かとセットで星座を作られることも、天の川の一部になれることもない。
月になんてなりたくなかった。だけど、ある意味では月になることもできなかった。中途半端な月は、この世にいたってしょうがない。
突然景色が開けたかと思うと、そこは目的の場所だった。谷底が見える崖の上。ここにはたくさんの、わたしよりも先にこの世に見切りをつけた人たちがいる。そう思うと少し心強くて、そして初めて、本当は少しだけ怖かったのだと気づいた。
だけど、死ぬことよりもずっとずっと、明日が来ることの方が怖い。
さらに前へと足を進め、あと一歩ですべての苦しみから逃れられる場所まで来た。小さな柵がつけられているものの簡単に越えられてしまう。
「いつかきっと、一緒に月に行こうね」
どうして、また。なんだかさっきよりも鮮明に蘇る。
でも、ごめん。月に行けるようになるまでなんて耐えられないんだ。
不本意にも震える足に力を込めて、柵を越えようとしたそのときだった。
「ねえ、どうしてここに来たの?」
あまりにもはっきりとした声に思わず足を下げて振り返ると、そこにはわたしよりも少し幼く見える男の子が立っていた。
「……誰、ですか?」
恐る恐る尋ねては見るが、彼が答えてくれる気はしない。案の定男の子は、
「僕のことはいいから。それより君のことを聞かせてよ。どうしてここに来たの?」
と言う。
いじわる、と心の中で毒づく。
こんな時間にこんな場所に来る理由なんて決まっているじゃない。それをわかって自分の口から言わせようとしてくるなんて。
「それなら、あなたはどうしてここに来たんですか? おそらく同じ理由ですよ」
「敬語なんて使わないでよ。僕たち同い年なんだから」
てっきり相手が年下かと思っていたから驚いた。が、それよりもっと驚くべきことを一瞬受け入れかけてしまっていた。どうしてわたしの年齢を知っているのだ。会ったこと、あっただろうか。
わたしの怪訝そうな視線に気づいたのだろう。
男の子はにこりと愛想良さげに微笑んで言った。
「僕はカゲリ。君に会うためにここに来たんだ」
堂々とした、だけどどこか切なげな彼の姿が月明かりに照らされてくっきりと浮かび上がる。
「なに、それ。わたしがここに来ることなんてわかるはずないじゃない。誰にも言ってないもの」
カゲリの雰囲気に飲み込まれないようにと少し声を大きくする。しかし彼はピクリともせず、穏やかな眼差しをこちらに向けるだけだった。
「君、ヒカリでしょ?」
なんで知っているの、と訊く間もなくカゲリは続ける。
「もしも違っていたらずいぶん最低なことを言うことになるけど、君、自殺をしに来たんだよね」
「……そうだけど」
わたしは思わず目を逸らす。誰かもわからないような相手であっても、自分が今からしていることは知られるべきではないはずだ。それに、赤の他人に何か言われるのも嫌だった。怒られても止められても慰められても、傷つくだけだ。
「つらいことがあったんだね」
俯くわたしに投げかけたカゲリの言葉は優しかった。同情でも無関心でもない。わたしをそのまま受け入れてくれるようなあたたかさがある。
「……うん」
どうして素直にうなずいてしまったのかはわからない。ただ、カゲリの柔らかな声に思わず身を預けてしまいたくなった。
「もしよかったら、話を聞かせてくれない?」
それには少し躊躇った。笑われたら、呆れられたら、責められたら、すごく悲しい。もう十分に苦しんだと思っていた。その痛みから逃れるためにここに来た。それなのに、今わたしは悲しみたくないと思っている。そろそろ解放されるはずなのに、それでも痛みを増やしたくなくて、だけど、ここまで覚悟を決めたはずなのに、話を聞いてもらうことをどこかで望んでいる。
助けてほしい。
わたしだって、生きていられるならそうしたい。
「たいした話じゃないんだ。本当にくだらなくて、馬鹿馬鹿しいことだと思う。それでも、わたしにとっては深刻で、だから……」
長ったるい前振りで言葉が途切れてしまった。だけどカゲリは急かすことも退屈そうにすることもなく、繊細に言葉を繋げてくれた。
「僕は、ただ君の話が聞きたいだけなんだよ。それがたとえどんなにつまらない話でも構わない。君がどんなことにどんなふうに思ったのか知りたい。単なる僕のお願いだよ」
わたしの心の中でも見えているのだろうか。わたしが不安に思っていたことを自然に拭ってくれるなんて。
「わたしね、いじめられてるの」
言ってしまってから、チラリと彼の表情をうかがう。もしも他の人たちと同じ顔をしていたらと思うと怖かった。今日会ったばかの彼にこんなにも信頼を寄せるなんて変な話だし、彼も迷惑だろう。だけどカゲリは、わたしに残された最後の光だった。
カゲリは、グッと奥歯を噛み締めていた。そしてなぜかわたしよりもつらそうな表情で一言、
「本当に、ひどい人たちだね」
と呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、わたしは何もかもすべて吐き出してしまいたくなった。伝えたい、わたしの感じてきたことを。カゲリなら、わかってくれるような気がして。
「はじめはわたしがやったことに対して大袈裟に笑われるくらいだった。いい気はしなかったけど、別に平気だった。だけどだんだん、無視されたり物を隠されたりするようになった。そのときのわたしの反応を見て面白がってるの。悔しいからできるだけ反応しないようにしてたら、どんどんひどいことされた」
再びカゲリを見ると、硬い表情をしていて、なんだか急に恥ずかしくなった。真面目な顔してつらかった経験を語る女なんて見ていて嫌気がさすはずだ。
だから、
「あーあ。もうほんと、嫌な人たちだよね」
と笑い声を交えてつけ足す。しかしカゲリはつられて微笑んではくれなかった。
「笑わなくていいよ。つらかったんでしょ?」
静かで落ち着いた彼の言葉が、ゆっくりとわたしの身体に染み込んでいく。
そうだ。わたしはつらかった。考えないようにして、平気なふりをして、いつの間にか自分自身もそう錯覚してしまっていたけれど、本当はやっぱりずっとつらかった。そう思ってもいいんだと、カゲリが初めて教えてくれた。
「カゲリ。わたし、つらい」
心臓がバクバクしている。言ってもよかったんだよね? 怒られたりしないよね?
そんなわたしの不安を優しく追い払うように、
「今日までよく頑張ったね」
カゲリはあたたかな声で言ってくれた。
心の底から安心した。
「でも、わたしのせいかもしれないの」
「どうして?」
カゲリの優しい声に促されながら、わたしは今までの思いを次々と明かしてしまう。
「わたしはみんなと同じように振る舞えなかったんだと思う。面白い話もうまい返答もできないし、ふざけるのも苦手だし、みんなの笑いについていけなかった。そんな人といたって誰も楽しくない。だから仕方なかったのかもしれない」
「ヒカリは悪くない」
カゲリはなんの迷いもなく、淡々と呟いた。
「それに、みんなと違うのはそういう部分だけで、勉強も部活も習い事も、他のことは全部普通なの。せめて顔だけでもよければ──」
「かわいいよ」
突然話を遮ったかと思えば、表情ひとつ変えずにそんなことを言う。思わず顔を赤くしてしまうのはわたしだけではなかった。カゲリの頬もみるみるほてっていく。
「……ありがと」
「だって、本当のことだから」
しばらく無言の時間が続いた。かわいいなんて言われたのは初めてで動揺がなかなかおさまらなかった。
少ししてから切りかえて、もう一度わたしの思いを話し始める。
「こんなだから、いじめられるのも当然なのかなって思ってた」
カゲリも真面目な表情に戻って鋭い口調で言う。
「いじめられて当然なんて、そんなわけない」
「はじめはそう思ってみんなを恨んだ。だから親にも先生にも相談した。だけど、わたしにも悪いところがあったんじゃないかって言われて、なんだかそんな気がして。みんなのことも、それと同じくらい自分のことも、大嫌いになった。だからもう、死ぬことにしたんだ。わたしが生きてても、誰にも良いことなんてないから」
少しスッキリした。自分の気持ちを吐き出すと、こんなにも楽になれるんだ。
「君は悪くない。ぜったいに悪くない。君のせいじゃない。いじめなんて、やってる方が悪いに決まってる」
カゲリは感情を高ぶらせていた。
「だからヒカリ、ヒカリは生きなきゃいけない。つらいと思うけど、それでも君は、この歪んだ世界の正しい光として、生きるべき人なんだ」
カゲリの言葉は嬉しかった。だけど、わたしだってそうしたいけれど。
「もう無理なの。わたし、もう苦しい思いなんてしたくない」
こんな弱いわたしでも、カゲリならきっと受け入れてくれるはず。そう信じた。だけど彼は、強くわたしを抱きしめて言った。
「ヒカリ、頑張れ……」
わたしは声をあげて泣いた。幼い子供みたいに、息を吸い込むのがやっとなほど、彼の胸に顔を押しつけながら、「助けて」と泣き続けた。
泣き疲れたころには気持ちもだいぶ落ち着いた。泣き顔を見せるのを恥ずかしく思いながらも、
「ありがとう。カゲリは優しいね」
とはにかむ。
すると突然、
「ごめんね」
カゲリに謝られた。彼に何の過ちがあるというのだ。
わたしの話を優しく聞いてくれた。わたしを受け入れてくれた。そのうえで、わたしをこの世にとどめてくれた。そんな人はカゲリが初めてだった。
「謝らないでよ。カゲリはわたしに光を教えてくれたのに」
カゲリは苦い笑みを浮かべて、しばらく躊躇ってからおもむろに口を開いた。
「僕は、約束を破ってしまったんだ」
「約束……?」
言いながら、わたしの鼓動は早まっていた。
もしかして。もしかしてカゲリは。
「僕は君と、月に行けない」
やっぱり、そうだったんだ。包み込むような優しさは、たしかにあのときの男の子とそっくりだった。
ああ、あの時もわたしは泣いていた。理由なんて忘れてしまったけれど、そのときも彼はわたしの話を静かに聞いてくれたんだ。そして約束した。いつか一緒に月に行こう、と。この世がどんなにつらくても、わたしたちはいつか月に行くことができる。ここがすべてなんかじゃない。だから、って。
そうだ。わたしはそう信じて頑張ってきたんだ。いつか真っ暗な夜を越えて、明るく輝く月の方に行ける日を信じて。誰よりも優しいカゲリとともに。
でも、それは叶わないと彼は言った。どうして、とは訊かない。今日、声をかけられた瞬間から気づいていた。カゲリはもう、この世の存在ではない。
「わがままだってわかってる。だけど、わたしはもっとカゲリと一緒にいたい。わたしも死んだらわたしたちは一緒になれるでしょう? それならわたしは……」
「馬鹿なこと言うなよ」
心臓がびくりと震えた。彼から発せられたとは思えないような冷たく重たい声がグルグルと胸の中で回り続ける。
「ごめん、なさい」
わたしの嫌いなわたしの声だった。怖いときに出る、潰れた小さな声。
カゲリはブルブルと大きく首を横に振った。
「ごめん。君は悪くない。悪いのも、馬鹿なのも、僕の方だ」
カゲリは苦笑を浮かべて、もう一度「ごめんね」と呟いた。
「僕はここで自殺したんた。二年ほど前にね。理由は君とよく似たことさ。それからずっと、この場所に縛りつけられているんだよ」
「え……」
驚いて声が漏れる。
だからわたしはカゲリの言葉に救われたのかと納得した。だけど、カゲリは誰にも助けてもらえなかった。
カゲリは急に真面目な顔をして、じっと鋭くわたしを見た。
「死んだらダメだ。死んでも楽になんてなれない。君は一生懸命この世で生きて幸せになるんだ。これは頑張れなかった僕の理想の押しつけだ。だけど、本当に生きなきゃダメなんだ。その先できっと、いつか、ヒカリだけでも月に行ってくれ」
わたしはまた泣き出しそうになるのを必死に堪え、じっと彼を見つめ返した。
「カゲリもぜったい月に行けるよ。だって、わたしを救ってくれたんだから」
カゲリは儚く微笑んで、一瞬顔を歪めて鼻を啜って、再び小さな笑みを作った。
「ありがとう。君の命の恩人ってことで、神様も許してくれるかな。いつか許してもらえたら、月で君を待っているから。そのときは君の話を、また聞かせてほしい。ヒカリがヒカリの人生を笑って話してくれることを願ってる」
わたしは涙目になりながらも強くカゲリを抱きしめた、つもりだった。
しかしわたしの腕の中は空っぽで、冷たい風が吹き抜けていくだけ。
わたしは来た道を再び歩き出した。
都会の夜に星はない。それでも月だけは静かにわたしを照らしてくれる。
先に月で待っていてね、カゲリ。かなりの時間待たせてしまうかもしれないけれど、いつかきっと、あなたにこの世界の美しさを教えてあげる。
ああ、今ひとつ気づいたよ、この世界の美しさに。
カゲリ、月が綺麗だね。
誰もいない家から抜け出し、鍵をかけようとした時だった。なぜかふと、唐突に、あの日の約束を思い出した。
今よりずっと幼くて、この世界の濁った部分なんて何も知らなかったころ、顔も名前も思い出せない男の子と交わした夢のような約束。
この約束を果たせる環境がもう少し早く来ていたら、わたしはそこに逃げたかもしれない。だけど現実は月がもう一つの居場所になる日なんてまだまだ先だ。わたしはそんなに辛抱強くない。
なんとなくこの約束を果たすべきであるような気がして一瞬手を止めていた。
でも、もう限界だ。
都会の空に星はない。人々の気配を感じさせる大量の電気が優しくて小さな光を消していく。
うんざりする。こんな世界に縛られている必要なんてあるはずがない。
わたしは今日、遠くに行く。
改札口にICカードを押し付けると、赤いランプに妨げられた。神様がくれた最後のチャンスだろうか。ああ、わたしったらバカだな。神様がいたら、とっくにわたしは守られているはずじゃない。
今日限りのICカードにチャージするのも変なので、何年ぶりかの切符を買った。この小さな紙切れが、わたしを未知の世界へと連れて行ってくれる。子供のころにもそんなふうにはしゃいでいたっけ。
ホームに突っ立つわたしは人混みの中の一部分に過ぎない。今は制服も着ていないから高校生という肩書きすら感じさせない、ただの邪魔な人間の一人。
人の波に乗って電車に乗り込んでしまえば、あとは無心に揺られているだけで目的の場所に辿り着ける。流されながら適当に足を進めるだけでここから離れられるなんてありがたい。
目的地の駅のアナウンスが聞こえた。終点の一つ前の駅。降りるのだけは自分の意思だ。足がすくんで動けなくなる可能性も考えていたのに、案外すんなりとホームに降り立ってしまっていた。
両端を生い茂った木々に挟まれた細い道路を歩いていく。道は次第に舗装されていないものとなり、小石や枝がゴツゴツと足裏を刺激した。草むらを掻き分けて進むしかないところもあったが土の汚れなど気にする意味もない。ここ数年間で、今が一番足取りが軽やかな気がする。未来に悩むことも現実が嫌になることも過去がのしかかって来ることもない。
あとはもう、死ぬだけなのだから。
ふと空を見上げる。雲がかかってしまい満面のとまでは言えないもののたくさんの星が自分らしい色と強さで輝きを放っていた。その真ん中に少し歪んだ丸い月。ここの空には自由がある。大きくても小さくても、強くても弱くても、何色でも、誰にも責められることなんてない。そして彼らを見上げた地上の人たちの多くが、誰かを特別視することなく全てを綺麗だと言う。いや、月を除いて、か。今いる場所と近かったから大きく見えるというだけの月は他の星と区別される。
月はかわいそうだ。周りと違うから、仲間がいない。月は月として、一人で空にあり続けなければならない。誰かとセットで星座を作られることも、天の川の一部になれることもない。
月になんてなりたくなかった。だけど、ある意味では月になることもできなかった。中途半端な月は、この世にいたってしょうがない。
突然景色が開けたかと思うと、そこは目的の場所だった。谷底が見える崖の上。ここにはたくさんの、わたしよりも先にこの世に見切りをつけた人たちがいる。そう思うと少し心強くて、そして初めて、本当は少しだけ怖かったのだと気づいた。
だけど、死ぬことよりもずっとずっと、明日が来ることの方が怖い。
さらに前へと足を進め、あと一歩ですべての苦しみから逃れられる場所まで来た。小さな柵がつけられているものの簡単に越えられてしまう。
「いつかきっと、一緒に月に行こうね」
どうして、また。なんだかさっきよりも鮮明に蘇る。
でも、ごめん。月に行けるようになるまでなんて耐えられないんだ。
不本意にも震える足に力を込めて、柵を越えようとしたそのときだった。
「ねえ、どうしてここに来たの?」
あまりにもはっきりとした声に思わず足を下げて振り返ると、そこにはわたしよりも少し幼く見える男の子が立っていた。
「……誰、ですか?」
恐る恐る尋ねては見るが、彼が答えてくれる気はしない。案の定男の子は、
「僕のことはいいから。それより君のことを聞かせてよ。どうしてここに来たの?」
と言う。
いじわる、と心の中で毒づく。
こんな時間にこんな場所に来る理由なんて決まっているじゃない。それをわかって自分の口から言わせようとしてくるなんて。
「それなら、あなたはどうしてここに来たんですか? おそらく同じ理由ですよ」
「敬語なんて使わないでよ。僕たち同い年なんだから」
てっきり相手が年下かと思っていたから驚いた。が、それよりもっと驚くべきことを一瞬受け入れかけてしまっていた。どうしてわたしの年齢を知っているのだ。会ったこと、あっただろうか。
わたしの怪訝そうな視線に気づいたのだろう。
男の子はにこりと愛想良さげに微笑んで言った。
「僕はカゲリ。君に会うためにここに来たんだ」
堂々とした、だけどどこか切なげな彼の姿が月明かりに照らされてくっきりと浮かび上がる。
「なに、それ。わたしがここに来ることなんてわかるはずないじゃない。誰にも言ってないもの」
カゲリの雰囲気に飲み込まれないようにと少し声を大きくする。しかし彼はピクリともせず、穏やかな眼差しをこちらに向けるだけだった。
「君、ヒカリでしょ?」
なんで知っているの、と訊く間もなくカゲリは続ける。
「もしも違っていたらずいぶん最低なことを言うことになるけど、君、自殺をしに来たんだよね」
「……そうだけど」
わたしは思わず目を逸らす。誰かもわからないような相手であっても、自分が今からしていることは知られるべきではないはずだ。それに、赤の他人に何か言われるのも嫌だった。怒られても止められても慰められても、傷つくだけだ。
「つらいことがあったんだね」
俯くわたしに投げかけたカゲリの言葉は優しかった。同情でも無関心でもない。わたしをそのまま受け入れてくれるようなあたたかさがある。
「……うん」
どうして素直にうなずいてしまったのかはわからない。ただ、カゲリの柔らかな声に思わず身を預けてしまいたくなった。
「もしよかったら、話を聞かせてくれない?」
それには少し躊躇った。笑われたら、呆れられたら、責められたら、すごく悲しい。もう十分に苦しんだと思っていた。その痛みから逃れるためにここに来た。それなのに、今わたしは悲しみたくないと思っている。そろそろ解放されるはずなのに、それでも痛みを増やしたくなくて、だけど、ここまで覚悟を決めたはずなのに、話を聞いてもらうことをどこかで望んでいる。
助けてほしい。
わたしだって、生きていられるならそうしたい。
「たいした話じゃないんだ。本当にくだらなくて、馬鹿馬鹿しいことだと思う。それでも、わたしにとっては深刻で、だから……」
長ったるい前振りで言葉が途切れてしまった。だけどカゲリは急かすことも退屈そうにすることもなく、繊細に言葉を繋げてくれた。
「僕は、ただ君の話が聞きたいだけなんだよ。それがたとえどんなにつまらない話でも構わない。君がどんなことにどんなふうに思ったのか知りたい。単なる僕のお願いだよ」
わたしの心の中でも見えているのだろうか。わたしが不安に思っていたことを自然に拭ってくれるなんて。
「わたしね、いじめられてるの」
言ってしまってから、チラリと彼の表情をうかがう。もしも他の人たちと同じ顔をしていたらと思うと怖かった。今日会ったばかの彼にこんなにも信頼を寄せるなんて変な話だし、彼も迷惑だろう。だけどカゲリは、わたしに残された最後の光だった。
カゲリは、グッと奥歯を噛み締めていた。そしてなぜかわたしよりもつらそうな表情で一言、
「本当に、ひどい人たちだね」
と呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、わたしは何もかもすべて吐き出してしまいたくなった。伝えたい、わたしの感じてきたことを。カゲリなら、わかってくれるような気がして。
「はじめはわたしがやったことに対して大袈裟に笑われるくらいだった。いい気はしなかったけど、別に平気だった。だけどだんだん、無視されたり物を隠されたりするようになった。そのときのわたしの反応を見て面白がってるの。悔しいからできるだけ反応しないようにしてたら、どんどんひどいことされた」
再びカゲリを見ると、硬い表情をしていて、なんだか急に恥ずかしくなった。真面目な顔してつらかった経験を語る女なんて見ていて嫌気がさすはずだ。
だから、
「あーあ。もうほんと、嫌な人たちだよね」
と笑い声を交えてつけ足す。しかしカゲリはつられて微笑んではくれなかった。
「笑わなくていいよ。つらかったんでしょ?」
静かで落ち着いた彼の言葉が、ゆっくりとわたしの身体に染み込んでいく。
そうだ。わたしはつらかった。考えないようにして、平気なふりをして、いつの間にか自分自身もそう錯覚してしまっていたけれど、本当はやっぱりずっとつらかった。そう思ってもいいんだと、カゲリが初めて教えてくれた。
「カゲリ。わたし、つらい」
心臓がバクバクしている。言ってもよかったんだよね? 怒られたりしないよね?
そんなわたしの不安を優しく追い払うように、
「今日までよく頑張ったね」
カゲリはあたたかな声で言ってくれた。
心の底から安心した。
「でも、わたしのせいかもしれないの」
「どうして?」
カゲリの優しい声に促されながら、わたしは今までの思いを次々と明かしてしまう。
「わたしはみんなと同じように振る舞えなかったんだと思う。面白い話もうまい返答もできないし、ふざけるのも苦手だし、みんなの笑いについていけなかった。そんな人といたって誰も楽しくない。だから仕方なかったのかもしれない」
「ヒカリは悪くない」
カゲリはなんの迷いもなく、淡々と呟いた。
「それに、みんなと違うのはそういう部分だけで、勉強も部活も習い事も、他のことは全部普通なの。せめて顔だけでもよければ──」
「かわいいよ」
突然話を遮ったかと思えば、表情ひとつ変えずにそんなことを言う。思わず顔を赤くしてしまうのはわたしだけではなかった。カゲリの頬もみるみるほてっていく。
「……ありがと」
「だって、本当のことだから」
しばらく無言の時間が続いた。かわいいなんて言われたのは初めてで動揺がなかなかおさまらなかった。
少ししてから切りかえて、もう一度わたしの思いを話し始める。
「こんなだから、いじめられるのも当然なのかなって思ってた」
カゲリも真面目な表情に戻って鋭い口調で言う。
「いじめられて当然なんて、そんなわけない」
「はじめはそう思ってみんなを恨んだ。だから親にも先生にも相談した。だけど、わたしにも悪いところがあったんじゃないかって言われて、なんだかそんな気がして。みんなのことも、それと同じくらい自分のことも、大嫌いになった。だからもう、死ぬことにしたんだ。わたしが生きてても、誰にも良いことなんてないから」
少しスッキリした。自分の気持ちを吐き出すと、こんなにも楽になれるんだ。
「君は悪くない。ぜったいに悪くない。君のせいじゃない。いじめなんて、やってる方が悪いに決まってる」
カゲリは感情を高ぶらせていた。
「だからヒカリ、ヒカリは生きなきゃいけない。つらいと思うけど、それでも君は、この歪んだ世界の正しい光として、生きるべき人なんだ」
カゲリの言葉は嬉しかった。だけど、わたしだってそうしたいけれど。
「もう無理なの。わたし、もう苦しい思いなんてしたくない」
こんな弱いわたしでも、カゲリならきっと受け入れてくれるはず。そう信じた。だけど彼は、強くわたしを抱きしめて言った。
「ヒカリ、頑張れ……」
わたしは声をあげて泣いた。幼い子供みたいに、息を吸い込むのがやっとなほど、彼の胸に顔を押しつけながら、「助けて」と泣き続けた。
泣き疲れたころには気持ちもだいぶ落ち着いた。泣き顔を見せるのを恥ずかしく思いながらも、
「ありがとう。カゲリは優しいね」
とはにかむ。
すると突然、
「ごめんね」
カゲリに謝られた。彼に何の過ちがあるというのだ。
わたしの話を優しく聞いてくれた。わたしを受け入れてくれた。そのうえで、わたしをこの世にとどめてくれた。そんな人はカゲリが初めてだった。
「謝らないでよ。カゲリはわたしに光を教えてくれたのに」
カゲリは苦い笑みを浮かべて、しばらく躊躇ってからおもむろに口を開いた。
「僕は、約束を破ってしまったんだ」
「約束……?」
言いながら、わたしの鼓動は早まっていた。
もしかして。もしかしてカゲリは。
「僕は君と、月に行けない」
やっぱり、そうだったんだ。包み込むような優しさは、たしかにあのときの男の子とそっくりだった。
ああ、あの時もわたしは泣いていた。理由なんて忘れてしまったけれど、そのときも彼はわたしの話を静かに聞いてくれたんだ。そして約束した。いつか一緒に月に行こう、と。この世がどんなにつらくても、わたしたちはいつか月に行くことができる。ここがすべてなんかじゃない。だから、って。
そうだ。わたしはそう信じて頑張ってきたんだ。いつか真っ暗な夜を越えて、明るく輝く月の方に行ける日を信じて。誰よりも優しいカゲリとともに。
でも、それは叶わないと彼は言った。どうして、とは訊かない。今日、声をかけられた瞬間から気づいていた。カゲリはもう、この世の存在ではない。
「わがままだってわかってる。だけど、わたしはもっとカゲリと一緒にいたい。わたしも死んだらわたしたちは一緒になれるでしょう? それならわたしは……」
「馬鹿なこと言うなよ」
心臓がびくりと震えた。彼から発せられたとは思えないような冷たく重たい声がグルグルと胸の中で回り続ける。
「ごめん、なさい」
わたしの嫌いなわたしの声だった。怖いときに出る、潰れた小さな声。
カゲリはブルブルと大きく首を横に振った。
「ごめん。君は悪くない。悪いのも、馬鹿なのも、僕の方だ」
カゲリは苦笑を浮かべて、もう一度「ごめんね」と呟いた。
「僕はここで自殺したんた。二年ほど前にね。理由は君とよく似たことさ。それからずっと、この場所に縛りつけられているんだよ」
「え……」
驚いて声が漏れる。
だからわたしはカゲリの言葉に救われたのかと納得した。だけど、カゲリは誰にも助けてもらえなかった。
カゲリは急に真面目な顔をして、じっと鋭くわたしを見た。
「死んだらダメだ。死んでも楽になんてなれない。君は一生懸命この世で生きて幸せになるんだ。これは頑張れなかった僕の理想の押しつけだ。だけど、本当に生きなきゃダメなんだ。その先できっと、いつか、ヒカリだけでも月に行ってくれ」
わたしはまた泣き出しそうになるのを必死に堪え、じっと彼を見つめ返した。
「カゲリもぜったい月に行けるよ。だって、わたしを救ってくれたんだから」
カゲリは儚く微笑んで、一瞬顔を歪めて鼻を啜って、再び小さな笑みを作った。
「ありがとう。君の命の恩人ってことで、神様も許してくれるかな。いつか許してもらえたら、月で君を待っているから。そのときは君の話を、また聞かせてほしい。ヒカリがヒカリの人生を笑って話してくれることを願ってる」
わたしは涙目になりながらも強くカゲリを抱きしめた、つもりだった。
しかしわたしの腕の中は空っぽで、冷たい風が吹き抜けていくだけ。
わたしは来た道を再び歩き出した。
都会の夜に星はない。それでも月だけは静かにわたしを照らしてくれる。
先に月で待っていてね、カゲリ。かなりの時間待たせてしまうかもしれないけれど、いつかきっと、あなたにこの世界の美しさを教えてあげる。
ああ、今ひとつ気づいたよ、この世界の美しさに。
カゲリ、月が綺麗だね。