『花盗人は風流の内』という言葉がある。美しい花を愛でるために手折るのは純粋な好意からで、それは咎める程のものではない。
罪の意識よりも先につい手が伸びてしまうのは、誰しも持ち得る人間の本能とも言える。
そう、美しいものを前にすれば、人は皆等しく盗人になるのだ。
「何処へ行った!? 逃がすな!」
「向こうの扉を施錠しろ、急げ!」
建物の至るところから、耳障りな喧騒が聞こえる。緊急時の放送や、けたたましいサイレン、あちこちから足音が響き、奴等が右往左往している様子が窺えた。
「ねえ、さっきから凄い音……みんなわたし達を探してるわ。本当に大丈夫、なの……?」
「ああ、きっと大丈夫……きみを必ず、外へ連れ出すよ」
僕の手に握られるのは、花よりも美しい白く小さな冷たい掌。こちらを見上げ戸惑うように揺れる澄んだ青の瞳は麗しく、可憐な声は天上の調べのように耳に心地好い。
無味乾燥な日々の中、やっと見付けた僕の花。誰に邪魔されようと、決して離すまいとその手を改めて握り直す。
「ねえ、美しいきみ。良ければこのまま、僕に盗まれてはくれないかな」
「……はい、喜んで」
僕は愛しい彼女の手を取って、包囲網を抜けてその白い建物を脱出した。
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「僕のオルタンシア。僕の花、僕の愛……」
「ふふ。なあに、わたしのラント」
彼女との逃亡生活は、幸せと同じくらい困難の連続だった。まずは、堂々と外を歩けないこと。人目を惹くであろう美しい彼女を外に出して、見付かる訳にはいかない。彼女を連れ出した僕はきっと、今頃お尋ね者だろう。奴等に愛の何たるかを理解して貰えるとは思えない。
そもそも奴等は、彼女をあんな狭く無機質な檻のような場所に閉じ込めていたのだ。連れ戻されでもしたら、きっと前以上の粗悪な扱いをされるに違いない。それは絶対に避けなくてはならなかった。
「それじゃあ、少し待っていてね。愛しいオルタンシア……」
「ええ、気を付けて」
資金調達のため、僕は変装をして市街地に出る。二人で出歩けるのは人目につかない夜中だけだ。少しでも首都から離れようと空き家を転々として暮らす傍ら、生きるために盗みも働いた。
かつての堅物だった僕では想像も出来なかった逃亡生活。けれど彼女のためなら、何だって出来た。
「うわっ、何だお前……!?」
「大人しくすれば命までは取らない。金目の物を全て置いて行ってくれ」
「ふざけんな、警察に……!」
「……、忠告はしたからな」
人目につかない路地裏で、僕は目についた奴から金を奪う。素直に応じてくれるのは稀で、時には口封じに命を奪うこともあった。
愛の名のもとに彼女を連れ出したことは罪ではないと断言出来るが、この行為は確かに褒められたものでないだろう。
それでも、ほんの僅かな罪悪感も、彼女の愛らしい笑顔を思い浮かべるだけで霧散した。オルタンシアは、僕のすべてだ。
反抗的な態度を貫いた男の喉笛をナイフで掻き切りながら、すっかり慣れた血の温度と匂いに一息吐いて、手に付いた返り血を痙攣する男の服で拭う。
僕は財布の中身を奪ったが、男はもう何も反応しなかった。
「……すまない。美しい花の糧となってくれ」
男の倒れた位置を一瞥して、表通りから死角になることを確認する。奥まった狭い路地裏には蜘蛛の巣も多く張っていたし、この先は大きな教会があり行き止まり。此処を通る人間は早々居ないはずだ。
目的の金は手に入った。とりあえず、買い物をする前に一度着替えなくてはいけない。万が一目撃者が居たら厄介だ。幸いこれまで何度か繰り返した犯行は一度も明るみには出ていなかったが、用心するに越したことはなかった。
「……思ったより汚れたな。裏道から帰れるか……?」
蜘蛛の巣が付き血の跳ねたコートを裏返しに羽織り直し、彼女の待つ空き家を目指す。
今日の稼ぎがあれば、また着替えを買い足せるだろう。変装の度捨てるので、服は幾らあっても足りない。
しかしこれだけあるなら、しばらくは食べ物も心配ないだろう。近頃冷えてきたから、持ち運べる暖かな寝具も買い揃えようか。
そこまで考えて、人の命を奪っておきながらやけに冷静な自分に少し戸惑った。彼女に出逢う前の僕は、虫一匹殺すのにも躊躇していたのに。
恋をすると人は変わると言うけれど、まさにその通りだった。
「……ただいま、オルタンシア。良い子にしていたかい?」
「おかえりなさい、ラント。……血の匂い……怪我は?」
「ああ、これは僕の血じゃないから大丈夫だよ……すまない。怖いだろう、今洗い流して来るから」
「いいえ……怖くはないわ。わたしのためにしてくれているのでしょう? ありがとう、ラント」
「オルタンシア……」
拭いきれなかった血の残る汚れた手を取って、柔らかな頬を寄せてくるオルタンシア。その慈愛に満ちた表情は、まるで天使のようだ。
美しい青空色の瞳と目が合えば、それだけで不安も葛藤もすべてが消え失せるようだった。
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