まばらな草の間からは地面が見えていた。
 小屋の中では男がテーブルの上で頭を抱えていた。
 乱れた髪とこけた頬のせいで四十代近くに見えるがまだ三十代前半である。

「どうしたの?」
 顔を上げると女が立っていた。
「エリシャ……」
 女は男の髪を優しくかき上げた。
「どうかした?」
 男はエリシャに抱きついた。
「金のために私を裏切る者がいる。他の者も(みんな)私を見捨てて逃げてしまう」

 思い過ごしでしょう。
 他の人間になら言える言葉が男には言えなかった。
 彼は未来が見える。
 男が言うならそれはいずれ本当になるのだ。
 エリシャは慰めの言葉を思いつけないまま男の背中を黙ってさすっていた。
 男はわずかに身体を放すとエリシャにすがるような視線を向けた。

「私は間違っていたのか? 何もしなければよかったのか?」
 エリシャは黙って見詰め返しただけだった。
「何故こんなことになってしまったんだ……」
「それは……あなたは自分だけ幸せになることが出来ない人だからよ」
「……死にたくない。死ぬのが怖い」
「大丈夫よ。私がずっと一緒にいるから」
 男はようやくエリシャから離れると首を振った。

「ありがとう。でも……」
「私もあなたを見捨てて逃げてしまうの?」
「そうじゃなくて……」
 男は言葉を切ってエリシャの腹部に目を落とした。
 エリシャも釣られて下を向いた。
 もう臨月に近いためかなり大きくなっている。

「君は来ないで。私ももうここへは来ない」
「でも……」
「私が死んだと聞いたらどこか遠くへ逃げるんだ。君は死なないで」
 男はそう言って立ち上がるとおぼつかない足どりで戸口へ向かった。
 肩を落とし憔悴しきった後ろ姿は一気に老人になってしまったかのようだった。
「待っ……」
「ありがとう」
 引き留めようとするエリシャを優しく遮った。
 戸口から出る寸前、男はエリシャの方を振り返った。

「私は処刑された後、再び君の前に現れる。そのとき私を信用しないでくれ」
 死んだ後に現れる?
 男の予知が外れた事はない。
 だとしたら……。
 エリシャは突っ立ったまま男が消えた戸口を見詰めていた。

 間もなく、男は処刑された。
 民衆の前に半裸で晒された男は拷問の為、身体中傷だらけだった。
 しかし相好の見分けが付かなくなると処刑されたのは別人だいう噂が立ちかねないせいか顔だけは無傷に近かった。
 民衆の中には赤ん坊を抱いたエリシャもいた。
 子供を抱きしめたまま男が処刑される様子を見ていた。

 そして三日後、エリシャの前に男が現れた。
 無表情に見詰める女に男は微笑みながら歩み寄ってくる。
 男の足元で荒野の硬い土が乾いた音を立てる。

「戻ってきたよ。私と一緒に来てくれるね」
 あの時、男は確かに死んだ。
 死んだことを確かめる為に兵士の一人が男の脇腹を槍で刺したのだから間違いない。
「……どこへ?」
「私が正しかったことを証明しに……」

 優しい瞳も声も処刑前の男と何も変わっていない。
 けれど違う。
 これはエリシャが知っている男ではない。
 忠告されるまでもなかった。
 ここにいるのは同じ顔、同じ声、仕草まで同じ別人。
 彼は本当に死んだのだ。

 エリシャの頬を涙が伝った。
 顎から滴った涙が眠っている赤子の顔に落ちた。
 エリシャは思わず地面に膝を突い付いた。
 男は伸ばし掛けていた手を止めた。
 エリシャの涙を見て躊躇(ためら)う。
 そんなところまでそっくりだった。

「また来る。考えておいてくれ」
 それだけ言うと姿を消した。
 どこまでも死んだ恋人と同じ。
 それが悲しかった。
 かつて男が流した涙を今、エリシャが流していた。

 翌日、一晩泣き明かしたエリシャの前に再び男が現れた。
 エリシャはもう泣いていなかった。
 黙って男を見ている。
 見つめ合う二人の間を荒野の風が吹き抜けていく。
 砂混じりの風から子供を庇うようにエリシャは赤子を胸に抱き寄せた。
 足元を枯れた草が風に跳ばされていく。
 男はエリシャの表情を見て悲しそうに微笑(わら)った。

「答えは決まったようだね」
「…………」
「いいだろう。だが、その子は渡してもらおう」
 言いながらエリシャに向かって手を差し出す。
 エリシャは子供を抱いた手に力を込めた。
 男が処刑前と同じ力を持っているならエリシャから力ずくで奪っていくことは容易(たやす)いだろう。
 どちらにしても奪われるなら大人しく渡す必要はない。
 男も今度は妥協する気はないようだった。
 エリシャの方へと手を伸ばしてくる。
 そのとき突如、女の前で光が(はじ)け辺りが閃光に包まれた。