賑やかだった広間を離れて、祖母が暮らしているという個室に通してもらった。ベッドと低い机と洋服箪笥が置かれた室内はあの古い平屋よりも綺麗であるせいか、どこかよそよそしく感じられた。
祖母は疲れた様子でベッドに座り、俺は花ちゃんに促されてパイプ椅子に腰かける。
「今日はいいお天気だねー」
花ちゃんが慣れた様子で窓を開けて空気を入れ替えている。レースカーテンが揺れ、爽やかな風が入ってきた事で俺はようやく息を吸い込めた気がした。冷たい空気が疲労と混乱で充満した脳内を中和していく。
祖母はなぜこの部屋に連れられてきたのかわからないと言いたげな表情で指先を弄っている。癖なのだろうか、ささくれが捲れていても平気な祖母の様子は、俺に痛みを伝染させているようだ。
ふと電子音が鳴り響き、「やば」とスマホを確認した花ちゃんが俺を見た。
「職場から電話かかってきちゃった! ちょっと席を外すね!」
もしもーし、という声と共に花ちゃんが狭い部屋を出ていき、俺と祖母は取り残されてしまった。祖母は出ていった花ちゃんを気にかける事もなく、ひたすら指を弄っている。
「あの……」
沈黙と重たい空気に耐えられなくなった俺は、おずおずと祖母に話しかけた。
「……ばあちゃん」
うつむいていた祖母が、ぱっと顔をあげる。
「あの……、お元気、ですか……?」
馬鹿げた質問をする俺をまじまじと見つめていた祖母は、途端に表情を崩した。
「お兄ちゃん、けったいな髪やなぁ」
俺の傷んだ金髪の事を言っているのだろうか。祖母がしわしわに笑った事に俺はほっと胸を撫で下ろす。
「ばあちゃん。俺の事、分かる……?」
途端に祖母のまとう空気の色が変わった。一瞬にして俺への興味を失せた祖母は、ふっと視線を窓の外に向けた。さわさわと冷たい風が室内に舞い込んでくる。寒いのかもしれないと思い、俺は立ち上がって窓辺に立つ。そこからは大きなもみの木が見えた。ささやかだが飾りつけもされている。
そうか、と俺は季節を認識する。もうすぐクリスマスなのか。そして今朝まで恋人だった女を思う。一度もクリスマスらしい事をしてあげられなかった。三年も一緒に過ごしていたのに。バイトが忙しかったなんて言い訳にもならない。
幼い頃から俺にとってクリスマスは縁遠いものだった。冷え切った家庭でそのイベントは重要視される事もなく、学校にも馴染めなかった俺はその手の行事に参加した事もない。
ああ、でも、そういえばクリスマスツリーだけは身近だったな。窓の外でささやかなオーナメントを揺らすもみの木を眺めながら、俺は祖母の家を思い出した。昭和の雰囲気を残した平屋の祖母の家は古く、ところどころ床が抜けかけていたが、庭は祖母によって手入れされていた。そして十二月になると祖母は背丈ほどの適当な木をクリスマスツリーに見立て、飾りを付けた。色とりどりのオーナメント、そして頂上には金色の星。
――ばあちゃん、てっぺんの星をおれにちょうだい
高さのあるものや光沢のものが好きだったやんちゃな俺に、祖母は笑った。
――あれはじいさんが眠っているお星様。やから、みっくんにはあげられへん
クリスマスの意味も宗教的な概念も何もかもを吹っ飛ばした祖母の言葉はやけに説得力があって、なおさら俺は大きな星型の飾りに興味を持った。祖母がとっくに死んだ祖父の話をするのは非常に珍しかった。てっぺんに光る星を眺めながら祖父について語る祖母の表情は柔らかく、俺はいつの間にか十二月を待ち遠しくなっていた。
「この部屋からも、クリスマスツリーが見えるんだな」
あの平屋とは似てもつかない清潔感の漂う高齢者グループホーム内の一室で、俺がぽつりとつぶやくと、
「てっぺんの星……」
しわがれた声が響き、俺は思わず振り返った。
「ばあちゃん……?」
俺は窓から離れて祖母に駆け寄る。ベッドに座ったままぼんやりと窓の外に視線を向けている祖母の瞳には、輝ける星が存在していた。何が見えているのだろう。俺は祖母の傍に立て膝をついて様子をうかがうが、祖母は俺に興味も示さない。
やがて窓から視線を外した祖母は、再び指先のささくれを弄り出した。細い指先は痛々しいほど皮が剥け、赤く腫れている。
「やめろよ!」
慌てて祖母の指先を掴む。しわしわの皮膚。傷だらけの祖母の指先を両手で包み込み、その冷えた体温を手のひらで掬っていると、様々な情景が脳裏を巡っていった。
子供の頃、クラスメイトと派手な喧嘩をした日、教師からの呼び出しによって迎えに来てくれたのは祖母だった。あの古い平屋に俺を連れて帰った祖母は、俺の怪我の手当てをしながら言ったのに。
「――自分の身体を粗末にするな、って、ばあちゃん、言っていたじゃないか……」
俺の頭を撫でてくれた手。庭の草木を大切に育てていた手。いま俺の手の中にあるはずなのに、こんなにも遠い。
一枚のドアを隔てた向こうからは柔らかな笑い声が聞こえてきた。老人達の集う穏やかな空間。飢えや凍えや孤独から最も離れた場所であるにもかかわらず、とてつもなく寂しかった。床に座り込んで祖母の指のささくれの感触を手のひらに覚えながらぎゅっと目を閉じていると、
「みっくん」
はっきりとした声が降ってきた。喉の奥がひゅっと冷え、俺は顔をあげた。
「ばあちゃん……」
祖母の瞳には、俺が映っていた。
広間では老人達がクリスマスソングを歌っている。そういえば一度だけ、祖母はクリスマスプレゼントを準備してくれた。いつもは饅頭だったおやつが、その日はイチゴの乗ったショートケーキだった。灯油の匂いが漂うファンヒーターを焚いた部屋、日に焼けたソファーに、白いレースのかかったテーブル。窓の外にはいびつなクリスマスツリー、祖母と俺の二人だけで過ごした、人生で一番温かいクリスマスだった。
「ばあちゃん」
皺としみだらけの祖母の顔を覗き込む。祖母は俺に握られた指先を呆然と見下ろし、俺と目を合わせようとはしない。
幻聴だったのだろうか。いや、そんなはずはない。手のひらに刺さるささくれが、俺の脳内をクリアにする。古い家を整え、庭の土を弄っていた祖母の手を、俺は好きだった。
祖母の冷たい指先をぎゅっと両手で包み込む。広間から聞こえていたクリスマスソングはいつの間にか終わっていた。
やがてスマホを持った花ちゃんが戻ってきて、主に花ちゃんが祖母に話しかける形で会話を交わし、三十分もしないうちに俺達は〈ひだまりの家〉を去った。
「ねえ、みっくん」
来た道を逆方向に運転しながら、花ちゃんは言う。
「こっちに戻っておいでよ」
十二月の太陽の位置は低く、車に差し込む光が寝不足の目に沁みる。
「……実家に戻れってこと?」
高校卒業以来、ろくに連絡もとっていない両親の顔を浮かべながら俺がうんざりとつぶやくと、花ちゃんが「そうじゃなくて」と軽く笑った。
「みっくんが藤野さんの家に住めばいいじゃない」
「……あのボロ家に?」
「ずいぶんな言い草だなぁ。数年放置しているから雑草はひどいけれど、藤野さんがまだ住んでいた頃に水回りや傷んだ床はリフォームしたはずよ」
住みやすい環境になった事は喜ばしいのに、時代に取り残された空間が失われたという事実が喉元を焦がす。
「みっくんのご両親が色々と気にかけていたんだよ。あのおうちの事も、藤野さんの事も」
聞けば、祖母を住込み型のグループホームに入れたのも両親の手続きによるものだという。あの温かい場所は祖母にとって、そして両親にとって、きっと最善の選択だったのだろう。俺は窓の外に視線を向けた。
「この町に住めば、いつでも藤野さんに会いに行けるじゃない」
花ちゃんの運転する軽自動車は山道から県道に入り、フロントガラスは様々な光景を映し出す。家族連れの集うスーパーマーケット、全国チェーンの家電量販店の看板に、カーディーラーで飾られたクリスマスツリー。
人工的なもみの木のてっぺんには、金色の星。
行かないで、と思った。いかないで。まだ逝かないで。俺を忘れたままでもいいから、どうか幸せでいて。
視界が滲む。クリスマスツリーが遠ざかっていく。これまでの事も、これからの事も、まだ話したい事はたくさんある。話し足りていない事も、まだ言えていない言葉も。
目の奥がつんと痛んだ。俺の居場所は祖母の家だけだった。あの古い平屋が懐かしくてたまらなかった。
やがて車の外は古い住宅街へと塗り替えられていく。密集する家々を平坦に覆う青い空。雲は流れ、太陽は少しずつ傾いていく。
祖母の守ってきたものを、今度は俺が大切にしていけるだろうか。
うん、とうなずきながら俺は鼻をすすり、熱くなった瞼をダウンコートで拭った。
祖母の光。てっぺんの星は、まだ遠い。
(了)
祖母は疲れた様子でベッドに座り、俺は花ちゃんに促されてパイプ椅子に腰かける。
「今日はいいお天気だねー」
花ちゃんが慣れた様子で窓を開けて空気を入れ替えている。レースカーテンが揺れ、爽やかな風が入ってきた事で俺はようやく息を吸い込めた気がした。冷たい空気が疲労と混乱で充満した脳内を中和していく。
祖母はなぜこの部屋に連れられてきたのかわからないと言いたげな表情で指先を弄っている。癖なのだろうか、ささくれが捲れていても平気な祖母の様子は、俺に痛みを伝染させているようだ。
ふと電子音が鳴り響き、「やば」とスマホを確認した花ちゃんが俺を見た。
「職場から電話かかってきちゃった! ちょっと席を外すね!」
もしもーし、という声と共に花ちゃんが狭い部屋を出ていき、俺と祖母は取り残されてしまった。祖母は出ていった花ちゃんを気にかける事もなく、ひたすら指を弄っている。
「あの……」
沈黙と重たい空気に耐えられなくなった俺は、おずおずと祖母に話しかけた。
「……ばあちゃん」
うつむいていた祖母が、ぱっと顔をあげる。
「あの……、お元気、ですか……?」
馬鹿げた質問をする俺をまじまじと見つめていた祖母は、途端に表情を崩した。
「お兄ちゃん、けったいな髪やなぁ」
俺の傷んだ金髪の事を言っているのだろうか。祖母がしわしわに笑った事に俺はほっと胸を撫で下ろす。
「ばあちゃん。俺の事、分かる……?」
途端に祖母のまとう空気の色が変わった。一瞬にして俺への興味を失せた祖母は、ふっと視線を窓の外に向けた。さわさわと冷たい風が室内に舞い込んでくる。寒いのかもしれないと思い、俺は立ち上がって窓辺に立つ。そこからは大きなもみの木が見えた。ささやかだが飾りつけもされている。
そうか、と俺は季節を認識する。もうすぐクリスマスなのか。そして今朝まで恋人だった女を思う。一度もクリスマスらしい事をしてあげられなかった。三年も一緒に過ごしていたのに。バイトが忙しかったなんて言い訳にもならない。
幼い頃から俺にとってクリスマスは縁遠いものだった。冷え切った家庭でそのイベントは重要視される事もなく、学校にも馴染めなかった俺はその手の行事に参加した事もない。
ああ、でも、そういえばクリスマスツリーだけは身近だったな。窓の外でささやかなオーナメントを揺らすもみの木を眺めながら、俺は祖母の家を思い出した。昭和の雰囲気を残した平屋の祖母の家は古く、ところどころ床が抜けかけていたが、庭は祖母によって手入れされていた。そして十二月になると祖母は背丈ほどの適当な木をクリスマスツリーに見立て、飾りを付けた。色とりどりのオーナメント、そして頂上には金色の星。
――ばあちゃん、てっぺんの星をおれにちょうだい
高さのあるものや光沢のものが好きだったやんちゃな俺に、祖母は笑った。
――あれはじいさんが眠っているお星様。やから、みっくんにはあげられへん
クリスマスの意味も宗教的な概念も何もかもを吹っ飛ばした祖母の言葉はやけに説得力があって、なおさら俺は大きな星型の飾りに興味を持った。祖母がとっくに死んだ祖父の話をするのは非常に珍しかった。てっぺんに光る星を眺めながら祖父について語る祖母の表情は柔らかく、俺はいつの間にか十二月を待ち遠しくなっていた。
「この部屋からも、クリスマスツリーが見えるんだな」
あの平屋とは似てもつかない清潔感の漂う高齢者グループホーム内の一室で、俺がぽつりとつぶやくと、
「てっぺんの星……」
しわがれた声が響き、俺は思わず振り返った。
「ばあちゃん……?」
俺は窓から離れて祖母に駆け寄る。ベッドに座ったままぼんやりと窓の外に視線を向けている祖母の瞳には、輝ける星が存在していた。何が見えているのだろう。俺は祖母の傍に立て膝をついて様子をうかがうが、祖母は俺に興味も示さない。
やがて窓から視線を外した祖母は、再び指先のささくれを弄り出した。細い指先は痛々しいほど皮が剥け、赤く腫れている。
「やめろよ!」
慌てて祖母の指先を掴む。しわしわの皮膚。傷だらけの祖母の指先を両手で包み込み、その冷えた体温を手のひらで掬っていると、様々な情景が脳裏を巡っていった。
子供の頃、クラスメイトと派手な喧嘩をした日、教師からの呼び出しによって迎えに来てくれたのは祖母だった。あの古い平屋に俺を連れて帰った祖母は、俺の怪我の手当てをしながら言ったのに。
「――自分の身体を粗末にするな、って、ばあちゃん、言っていたじゃないか……」
俺の頭を撫でてくれた手。庭の草木を大切に育てていた手。いま俺の手の中にあるはずなのに、こんなにも遠い。
一枚のドアを隔てた向こうからは柔らかな笑い声が聞こえてきた。老人達の集う穏やかな空間。飢えや凍えや孤独から最も離れた場所であるにもかかわらず、とてつもなく寂しかった。床に座り込んで祖母の指のささくれの感触を手のひらに覚えながらぎゅっと目を閉じていると、
「みっくん」
はっきりとした声が降ってきた。喉の奥がひゅっと冷え、俺は顔をあげた。
「ばあちゃん……」
祖母の瞳には、俺が映っていた。
広間では老人達がクリスマスソングを歌っている。そういえば一度だけ、祖母はクリスマスプレゼントを準備してくれた。いつもは饅頭だったおやつが、その日はイチゴの乗ったショートケーキだった。灯油の匂いが漂うファンヒーターを焚いた部屋、日に焼けたソファーに、白いレースのかかったテーブル。窓の外にはいびつなクリスマスツリー、祖母と俺の二人だけで過ごした、人生で一番温かいクリスマスだった。
「ばあちゃん」
皺としみだらけの祖母の顔を覗き込む。祖母は俺に握られた指先を呆然と見下ろし、俺と目を合わせようとはしない。
幻聴だったのだろうか。いや、そんなはずはない。手のひらに刺さるささくれが、俺の脳内をクリアにする。古い家を整え、庭の土を弄っていた祖母の手を、俺は好きだった。
祖母の冷たい指先をぎゅっと両手で包み込む。広間から聞こえていたクリスマスソングはいつの間にか終わっていた。
やがてスマホを持った花ちゃんが戻ってきて、主に花ちゃんが祖母に話しかける形で会話を交わし、三十分もしないうちに俺達は〈ひだまりの家〉を去った。
「ねえ、みっくん」
来た道を逆方向に運転しながら、花ちゃんは言う。
「こっちに戻っておいでよ」
十二月の太陽の位置は低く、車に差し込む光が寝不足の目に沁みる。
「……実家に戻れってこと?」
高校卒業以来、ろくに連絡もとっていない両親の顔を浮かべながら俺がうんざりとつぶやくと、花ちゃんが「そうじゃなくて」と軽く笑った。
「みっくんが藤野さんの家に住めばいいじゃない」
「……あのボロ家に?」
「ずいぶんな言い草だなぁ。数年放置しているから雑草はひどいけれど、藤野さんがまだ住んでいた頃に水回りや傷んだ床はリフォームしたはずよ」
住みやすい環境になった事は喜ばしいのに、時代に取り残された空間が失われたという事実が喉元を焦がす。
「みっくんのご両親が色々と気にかけていたんだよ。あのおうちの事も、藤野さんの事も」
聞けば、祖母を住込み型のグループホームに入れたのも両親の手続きによるものだという。あの温かい場所は祖母にとって、そして両親にとって、きっと最善の選択だったのだろう。俺は窓の外に視線を向けた。
「この町に住めば、いつでも藤野さんに会いに行けるじゃない」
花ちゃんの運転する軽自動車は山道から県道に入り、フロントガラスは様々な光景を映し出す。家族連れの集うスーパーマーケット、全国チェーンの家電量販店の看板に、カーディーラーで飾られたクリスマスツリー。
人工的なもみの木のてっぺんには、金色の星。
行かないで、と思った。いかないで。まだ逝かないで。俺を忘れたままでもいいから、どうか幸せでいて。
視界が滲む。クリスマスツリーが遠ざかっていく。これまでの事も、これからの事も、まだ話したい事はたくさんある。話し足りていない事も、まだ言えていない言葉も。
目の奥がつんと痛んだ。俺の居場所は祖母の家だけだった。あの古い平屋が懐かしくてたまらなかった。
やがて車の外は古い住宅街へと塗り替えられていく。密集する家々を平坦に覆う青い空。雲は流れ、太陽は少しずつ傾いていく。
祖母の守ってきたものを、今度は俺が大切にしていけるだろうか。
うん、とうなずきながら俺は鼻をすすり、熱くなった瞼をダウンコートで拭った。
祖母の光。てっぺんの星は、まだ遠い。
(了)