俺は途方に暮れていた。十二月の乾いた空気が疲れ目をちくちくと刺してくる。
「すみませーん!」
先ほどから古い民家に向かって声をあげているが、応答はない。
ずいぶんと久しぶりにやって来たこの町は時間が止まっているみたいだ。さびれた駅から徒歩三十分にある、片田舎の景色。車が通るのもやっとなほどの細い道に、密集する古い家。昔から変わっていない。
冬風が小道を吹き抜ける。晴天の下に侘しさが積もっていくのを散らすように、俺はわざと声を張り上げた。
「誰かいませんかー!」
俺の大声に呼応するのは葉を鳴らす不格好な庭木だけで、静寂さが空気に混じり、冷えた耳たぶが痛い。どのくらいその場に突っ立ってただろうか。
「誰もいないわよ」
背後から第三者の声が響き、俺は思わず短い叫び声をあげながら振り返った。いつの間にいたのか、そこには黒いコートを着た女が立っていた。えんじ色のマフラーからはみ出た黒いショートヘアが日に照らされている。俺は女の言葉を反芻する。
「誰もいない……?」
「その家には、誰も住んでいないって事」
氷を落とすように冷たく言い捨てて去ろうとする女の後ろ姿に対して、俺は反論を覚えた。表札には〈藤野〉と掘られたこの家を俺は誰よりも知っているはずで、
「誰も住んでいないって……そんなわけねーよ! ここは、」
――ここは、俺のばあちゃんの家なのに。
声は音にならないまま、割れたアスファルトに落ちていく。
両親と折り合いの悪かった俺の面倒を見てくれたのは祖母だった。子供の足では決して近くはないこの古びた町まで、俺はよく両親の目を盗んでやって来た。そんな俺を祖母は叱る事もなく、いつもおやつを出してくれた。それは子供が喜ぶ駄菓子ではなく、祖母の好みである饅頭だった。
変化のない町並みのなかで、祖母の家だけが変わってしまった。俺は灰色のブロック塀の中を覗き込む。庭にあったはずの花壇はなくなり、代わりに雑草が生えている。機能を失った平屋は、ただの抜け殻となり物悲しさだけを漂わせている。
カチャン、と金属の摩擦音が響き、俺は視線を向けた。先ほどの女が門を開けていた。祖母の隣の家。俺は記憶からあらゆる映像を引き出し、
「花ちゃん……?」
無意識のうちに懐かしい名前を刻んだ。隣の家の敷地に入ろうとしていた女がもう一度俺に顔を向ける。見覚えのある眼差しがまっすぐに俺を捕らえ、
「もしかして、みっくん?」
訝し気だった雰囲気を散らした花ちゃんは不愛想だった表情をくしゃり崩し、声をたてて笑った。
そのダッサイ金髪は何なの、とひとしきり笑った花ちゃんは、俺の隣で運転をしながらまだ肩を震わせている。
花ちゃんは祖母の隣の家の一人娘で、俺が祖母の家に家出をするたび気にかけてくれていた。俺よりも十歳くらい年上だったと記憶しているが、花ちゃんの横顔からは三十路の匂いを感じない。
「それで? みっくんはどうして藤野さんの家に来たの?」
左手で短い髪を耳にかける花ちゃんの横顔を見ながら、俺は深くため息をつく。帰る家がなくなったのだ。
高校卒業と同時に逃げるように地元を出て、出会った女の家に転がり込むように暮らし始めた。そうして過ごして三年、彼女の事は好きだったし、大切にしていたつもりだった。しかしバイト先から帰った今朝、俺の居場所だったはずのその家は置き替えられたかのように別の男のものになっていた。女は泣きながらも俺の無精さを責めたて、男は無言で俺の少ない荷物を渡してきた。それが、後部座席に置かれたリュックだ。
「気が付いたらここに来ていたんだ……」
行くあてを失った俺は、そのまま電車を乗り継いでこの町まで戻ってきてしまった。
ハンドルを握っている花ちゃんは、黙って俺の話を聞いてくれる。幼い頃もそうだった。母親に怒鳴られた時、父親に無視された時、教師に叱られた時、泣きべそをかきながら祖母の家に訪れた俺のそばに、制服姿だった花ちゃんはいてくれた。思えば当時の祖母は内職で忙しく、俺の面倒を見ている場合ではなかったのかもしれない。
寝不足の頭で遠い記憶を繋ぎながら窓に映る景色をぼんやり眺めていると、穏やかな山道を走っていた軽自動車はやがてひとつの門をくぐった。赤い屋根の二階建ての建物、門には〈ひだまりの家〉と書かれていた。
「着いたわよ」
車でニ十分ほど走っただろうか、高台にあるせいか青空が近い。太陽の匂いを含んだ風がつんと鼻に触れる。花ちゃんに言われるがまま車から降りて周囲をうかがっていると、建物から黒いポロシャツを着た女性が出てきた。こんにちは、と満面な笑顔の女性に戸惑っている俺の隣で、花ちゃんは慣れた様子で「こんにちは」と返している。
「この人、藤野さんのお孫さんですよ」
許可なく俺を紹介し始めた花ちゃんの言葉を聞いた女性が俺を見た。ポロシャツの胸元に付けられた名札には「まきもと」と丸い文字で書かれている。
安物のダウンコートに色の褪せたジーンズ、明るく染めた髪を傷ませた俺が世間からどのような視線を向けられるか自覚しているつもりだ。しかし、まきもとさんは目を輝かせて「いらっしゃい!」と微笑んだ。
「きっと藤野さんも喜ばれるわ!」
理解の追いついていない俺をよそに、花ちゃんとまきもとさんは世間話を繰り広げながらセキュリティの施された扉を入っていく。俺も慌てて後につき、二人にならうように靴を脱いでスリッパに履き替え、設置されている消毒液で手を拭った。
玄関の向こうでは、数人の老人達が円を囲うように座っていた。多目的室のような広間。壁掛けのテレビを観ている者もいれば、編み物を楽しんでいる者もいる。そして、興味深そうに来訪者である俺達に視線を寄越す者も。
そのうちの一人、強い視線を向けてくる姿に気付いた俺は、思わず姿勢を正した。
「藤野さーん!」
まきもとさんが明るく声を張り上げ、その視線の元へと歩いていく。
「お孫さんが来てくださいましたよー!」
椅子に座ったまま俺を凝視していたのは、祖母だった。まきもとさんに連れられるように祖母はよたよたと俺の前に立ち、俺をぼんやりと見上げている。
「藤野さん。みっくんが来てくれたよ」
花ちゃんが笑いかけながら祖母の着ている花柄カーディガンの襟元を整えた。祖母はこんなに小さかっただろうか。俺は呆然と祖母を見下ろした。
つい先ほど俺を視線で捕らえたはずの祖母の瞳は、今ではすでに光を失い、俺を何者なのかと探っているようだった。その様子を見た俺は、心の中で落胆と理解を繰り返す。
久しぶりに再会した祖母は、俺を認識できなくなっていた。
「すみませーん!」
先ほどから古い民家に向かって声をあげているが、応答はない。
ずいぶんと久しぶりにやって来たこの町は時間が止まっているみたいだ。さびれた駅から徒歩三十分にある、片田舎の景色。車が通るのもやっとなほどの細い道に、密集する古い家。昔から変わっていない。
冬風が小道を吹き抜ける。晴天の下に侘しさが積もっていくのを散らすように、俺はわざと声を張り上げた。
「誰かいませんかー!」
俺の大声に呼応するのは葉を鳴らす不格好な庭木だけで、静寂さが空気に混じり、冷えた耳たぶが痛い。どのくらいその場に突っ立ってただろうか。
「誰もいないわよ」
背後から第三者の声が響き、俺は思わず短い叫び声をあげながら振り返った。いつの間にいたのか、そこには黒いコートを着た女が立っていた。えんじ色のマフラーからはみ出た黒いショートヘアが日に照らされている。俺は女の言葉を反芻する。
「誰もいない……?」
「その家には、誰も住んでいないって事」
氷を落とすように冷たく言い捨てて去ろうとする女の後ろ姿に対して、俺は反論を覚えた。表札には〈藤野〉と掘られたこの家を俺は誰よりも知っているはずで、
「誰も住んでいないって……そんなわけねーよ! ここは、」
――ここは、俺のばあちゃんの家なのに。
声は音にならないまま、割れたアスファルトに落ちていく。
両親と折り合いの悪かった俺の面倒を見てくれたのは祖母だった。子供の足では決して近くはないこの古びた町まで、俺はよく両親の目を盗んでやって来た。そんな俺を祖母は叱る事もなく、いつもおやつを出してくれた。それは子供が喜ぶ駄菓子ではなく、祖母の好みである饅頭だった。
変化のない町並みのなかで、祖母の家だけが変わってしまった。俺は灰色のブロック塀の中を覗き込む。庭にあったはずの花壇はなくなり、代わりに雑草が生えている。機能を失った平屋は、ただの抜け殻となり物悲しさだけを漂わせている。
カチャン、と金属の摩擦音が響き、俺は視線を向けた。先ほどの女が門を開けていた。祖母の隣の家。俺は記憶からあらゆる映像を引き出し、
「花ちゃん……?」
無意識のうちに懐かしい名前を刻んだ。隣の家の敷地に入ろうとしていた女がもう一度俺に顔を向ける。見覚えのある眼差しがまっすぐに俺を捕らえ、
「もしかして、みっくん?」
訝し気だった雰囲気を散らした花ちゃんは不愛想だった表情をくしゃり崩し、声をたてて笑った。
そのダッサイ金髪は何なの、とひとしきり笑った花ちゃんは、俺の隣で運転をしながらまだ肩を震わせている。
花ちゃんは祖母の隣の家の一人娘で、俺が祖母の家に家出をするたび気にかけてくれていた。俺よりも十歳くらい年上だったと記憶しているが、花ちゃんの横顔からは三十路の匂いを感じない。
「それで? みっくんはどうして藤野さんの家に来たの?」
左手で短い髪を耳にかける花ちゃんの横顔を見ながら、俺は深くため息をつく。帰る家がなくなったのだ。
高校卒業と同時に逃げるように地元を出て、出会った女の家に転がり込むように暮らし始めた。そうして過ごして三年、彼女の事は好きだったし、大切にしていたつもりだった。しかしバイト先から帰った今朝、俺の居場所だったはずのその家は置き替えられたかのように別の男のものになっていた。女は泣きながらも俺の無精さを責めたて、男は無言で俺の少ない荷物を渡してきた。それが、後部座席に置かれたリュックだ。
「気が付いたらここに来ていたんだ……」
行くあてを失った俺は、そのまま電車を乗り継いでこの町まで戻ってきてしまった。
ハンドルを握っている花ちゃんは、黙って俺の話を聞いてくれる。幼い頃もそうだった。母親に怒鳴られた時、父親に無視された時、教師に叱られた時、泣きべそをかきながら祖母の家に訪れた俺のそばに、制服姿だった花ちゃんはいてくれた。思えば当時の祖母は内職で忙しく、俺の面倒を見ている場合ではなかったのかもしれない。
寝不足の頭で遠い記憶を繋ぎながら窓に映る景色をぼんやり眺めていると、穏やかな山道を走っていた軽自動車はやがてひとつの門をくぐった。赤い屋根の二階建ての建物、門には〈ひだまりの家〉と書かれていた。
「着いたわよ」
車でニ十分ほど走っただろうか、高台にあるせいか青空が近い。太陽の匂いを含んだ風がつんと鼻に触れる。花ちゃんに言われるがまま車から降りて周囲をうかがっていると、建物から黒いポロシャツを着た女性が出てきた。こんにちは、と満面な笑顔の女性に戸惑っている俺の隣で、花ちゃんは慣れた様子で「こんにちは」と返している。
「この人、藤野さんのお孫さんですよ」
許可なく俺を紹介し始めた花ちゃんの言葉を聞いた女性が俺を見た。ポロシャツの胸元に付けられた名札には「まきもと」と丸い文字で書かれている。
安物のダウンコートに色の褪せたジーンズ、明るく染めた髪を傷ませた俺が世間からどのような視線を向けられるか自覚しているつもりだ。しかし、まきもとさんは目を輝かせて「いらっしゃい!」と微笑んだ。
「きっと藤野さんも喜ばれるわ!」
理解の追いついていない俺をよそに、花ちゃんとまきもとさんは世間話を繰り広げながらセキュリティの施された扉を入っていく。俺も慌てて後につき、二人にならうように靴を脱いでスリッパに履き替え、設置されている消毒液で手を拭った。
玄関の向こうでは、数人の老人達が円を囲うように座っていた。多目的室のような広間。壁掛けのテレビを観ている者もいれば、編み物を楽しんでいる者もいる。そして、興味深そうに来訪者である俺達に視線を寄越す者も。
そのうちの一人、強い視線を向けてくる姿に気付いた俺は、思わず姿勢を正した。
「藤野さーん!」
まきもとさんが明るく声を張り上げ、その視線の元へと歩いていく。
「お孫さんが来てくださいましたよー!」
椅子に座ったまま俺を凝視していたのは、祖母だった。まきもとさんに連れられるように祖母はよたよたと俺の前に立ち、俺をぼんやりと見上げている。
「藤野さん。みっくんが来てくれたよ」
花ちゃんが笑いかけながら祖母の着ている花柄カーディガンの襟元を整えた。祖母はこんなに小さかっただろうか。俺は呆然と祖母を見下ろした。
つい先ほど俺を視線で捕らえたはずの祖母の瞳は、今ではすでに光を失い、俺を何者なのかと探っているようだった。その様子を見た俺は、心の中で落胆と理解を繰り返す。
久しぶりに再会した祖母は、俺を認識できなくなっていた。