この世の中は、狭い花瓶だ。
 誰もが皆、幸せになりたい。
 でも誰かの幸せの裏には、たくさんの人の不幸が山積みに重なっている。
 命はまるで、小さな青い花のようだ。
 美しいけれど儚く、そして何よりも、残酷に枯れゆく。
 私はそんな青い花のような綺麗で思いやりに満ちている命に、出会った。
 …そしてその命は、あまりにも残酷に、けれども最後まで綺麗に…枯れ散った。
 これは、そんな人の幸せの裏の、不幸だけれど美しくい青い花たちの、物語。

 青い三角屋根の家の前に、私は立っていた。
 青い看板には、大きく『わすれな草の家』と書かれていて、その文字の横には、小さな青い花の絵が添えられていた。
 今日から私が勤務することになった、病を患った高校三年生以下の子供たちが暮らす、『わすれな草の家』。
 きっかけは、3ヶ月前。
『鏡花ちゃん、ここで働いてみない?』
 信頼なる先輩、小野寺凛花(おのでらりんか)さんに誘われた時は、理解が追いつかなくてびっくりした。
『…わすれな草の…家?』
『そう。高校三年生以下の病を患って命が残り僅かな子供たちが集まる施設なの。働いてる人も、みんな高校生だから安心して働けると思って』
 先輩は、私が大切な親友ーーーー柚葉を病で失ったことを知っている。
 …そして、私が人の死に最後まで向き合う仕事に就きたいと決意したことも。
 先輩も、同じだ。
 先輩は、病で恋人を亡くし、その経験から『わすれな草の家』で働き出したらしい。
 もう二度と、〝あんな風に〟大切な人の命が散りゆくのを黙ってただ見ているだけは、嫌だから。
 先輩は、私の過去を知っているから、誘ってくれているのだろう。
 だから私は、その『わすれな草の家』で働くことにした。
 そして、私が住んでいる花由町から電車で4駅の青岬という小さな町に来た。
 私がインターホンを鳴らすと、聞き慣れた声が返って来た。
「はーい、ちょっと待ってね〜」
 慣れない土地に来て緊張していた私は、先輩の声を聞いて安堵のため息をついた。
 私を出迎えてくれた先輩は、いつも通りの笑顔で、なんだか拍子抜けした。
 もっとこう、仕事としての〝先輩〟のように厳しい顔をしていると思っていた私の予想は見事に外れてしまったのだ。
 先輩は私を家に入れるように「どうぞ」と手招きした。
 どこからか、花の匂いがする。
 懐かしい匂い。でも、思い出せない。思い出そうとすると、目の奥がツンと痛くなって、涙が出そうになる。限りなく優しく、懐かしい匂い。
 『相談室』と書かれたプレートのかかっているドアを開けて、先輩と向かい合って椅子に座った。
「それじゃあ具体的に、この施設のルールとかを説明していくね」
 私は一気に大人の顔になった先輩に、少し緊張した。
「ここでは、本名を明かすことは禁止されているの」
 私は首を傾げた。
「ん?なんでですか?」
「わからないけど、ダメなんだって。ほら、私も『リカちゃん』だし」
 先輩は首から下げてある名札を見せながら言った。
「と、いうことで、鏡花ちゃんもここでの呼び名、決めなきゃね!どんな呼び名がいい?」
 私は迷った。
 舩津鏡花、と言う名前から、どんなあだ名をつければいいか分からなかった。
 そもそもあだ名で呼ばれたこと、ないし。
 …いや、ある。1人だけ。
 柚葉だ。
 柚葉はいつも私のことを、『ハナ』と呼んでいた。
 なんで『ハナ』なの?と聞くと、「ハナはハナだから」と意味のわからない返事を返された。
 多分私の『鏡花』と言う名前に、『花』という字が入っているからだろう。
 私は他に思いつくものがなかったので、渡された名札を受け取って言った。
「それじゃあ、『ハナ』っていう呼び名でいいですか?」
「はいはい、『ハナ』ね…それじゃ、そこの名札に書いといてね!」
 私は名札に『ハナ』と書き、首からぶら下げた。
 その間、先輩はノートパソコンを開いてキーボードを叩いていた。
 そしてそのノートパソコンをなにかの機械に繋げた。
 出来上がったのは、カードだった。
「これは、『わすれな草の家』で働いている証よ。なくさないように持っていてね」
 先輩はカードを差し出すと、話し始めた。
「あ、ちなみにだけど、鏡花ちゃんのようなこの施設で働いている人のことを、『ブルーサポーター』って言うの。この人たちの役目は、担当する『わすれな草の家』に住んでいる人、つまりゲストをサポートするの」
 私は先輩の言葉を忘れないようにお気に入りのメモ帳にメモした。
「でも、一番大事なのは、一年間のうちにゲストが今後の選択をするお手伝いよ」
 ふとそこで、私のペンを握る手が止まった。
「選択って、何を?」
 先輩は神妙な面持ちで静かに言った。

「…安楽死か、不死身か」

 安楽死。
 そして不死身。
 少し前に、安楽死が日本でも認められるようになったのは知っていた。
 不死身の身体を作ることができるようになったことも、ニュースや新聞で何回も取り上げられていたから知っていた。
 けど、こんなに身近に耳にしたことはなく、一瞬何を言っているのかわからなかった。
「えっ、でもそれって、すごくお金がかかるんですよね?」
「いや、お金はいらないの。代わりに、『記憶』を代償としているんだよ」
 その言葉は、ひどく淡々としていた。
 …『記憶』ーーーー。
 記憶が、代償。
「まあ、そういうことだから。その選択を、一年の間にゲストが決めれるようにお手伝いして欲しいのよね。とりあえず、鏡花ちゃんが担当するゲストが部屋で待っているから。今からその部屋に向かうね!」
 先輩は部屋を出て階段を登り、二階の通路を歩き出した。
 私は先輩の後を、少し緊張しながら歩く。
 すると、ある部屋の前に辿り着いた。
 そのドアには、プレートが掛かっていた。
 そこには、青い文字で『青』と書かれていた。
 このドアの向こう側には、どんな人が待っているんだろう。
 年下の女の子かな?それとも年上?年上だったら余計緊張するな…。
 そして先輩は、そっとドアを開けた。
 その先にいたのはーーーー。

 髪の毛は、お日様の光を含んだような優しい栗色。
 整った口と鼻。そして透き通ったガラス玉みたいに綺麗な瞳。
 その瞳は、静かに手元を見ていた。
 そこには、一冊の文庫本。
 文字を、追いかけていた。
 何を思ったのか突然、その人の瞳から、宝石のように美しく輝く涙が…零れ落ちた。
 その涙は、頬を伝うと静かに滑り落ちた。
 けど。

「…え?」
 涙は、床に波紋を作った。
 床に波紋なんて、できるわけないのに。
 そしてその波紋は、みるみるうちに中心部分に光を集めていき……
「…わぁ……‼︎」
 私の漏らした声の先で、波紋からは光を受けて輝く若葉が生まれていた。
 若葉だけじゃない。
 私がびっくりしながら見ていると、若葉のすぐ隣にも光が集まり、ガラスみたいに透き通った美しい色とりどりの花が次々に咲き始めたのだ。
「魔法みたい…」
 思わず、そんな子供みたいなことをぼやいてしまった。
 私はしばらく信じられない気持ちで突っ立っていた。
 その時。
「えぇっ⁈なんで天井が動いてんの⁈」
 私の目の前で天井はぐるりと半回転して、裏面にあったのだろう夜の満点の星空の壁紙の天井になっていた。
 …いや壁紙じゃないでしょ!
 天井は普通回らないし!
 じゃあやっぱりこの子は、魔法使い?
 いやありえない。
 だけど私が心の中で魔法を信じないか信じるかの戦争をしている間にも、不可思議なことが起こってしまったのだ。
 水と積み上げられた本が置いてあるテーブルの上に、女の人と男の人が話している姿が浮かび上がったのだ。
 あーもう、意味わかんない!
 いつの間にか、先輩いないし!
「ちょっと君!」
 私は悶々としているその人に声をかけた。
「大丈夫?ぼーっとしてるけど!」
 その人はか細い声でつぶやいた。
「あ…すいません…」
 か細いけれど、透明で綺麗な声。
 まるで、女の子みたいに……
 ん?女の子〝みたいに〟?
 ようやく、気づいた。
 目の前にいる人ーーーー青さんは、男の子。
 私がこれから担当するゲストが、男の子。
「…君、何歳?」
 青さんは少し驚いたようにボソリと呟いた。
 …魔法のような空間は、いつの間にかなんの変哲もない部屋に戻っていた。
「…17歳、です、けど…」
 へ?
 同い年?
 こんなにか細い、手足なのに。
 この子が、私と同じ歳の男の子?
 信じられない。
 って、これって結構やばくない?
 だって私、今日から青さんの担当だよ?
 同い年の男子って…めちゃくちゃ気まずくない⁈
「あ…もしかして、ずっといました?」
 いや、いたわ!ずっと前から!
「いました…けど…」
 すると青さんは申し訳なさそうに言った。
「ああ、ごめんなさい…」
「いや、全然…」
 私と青さんの間に、気まずい沈黙が流れる。
 私ははっと、我に帰った。
 しっかりしろ、私。
 今日からここで働かせてもらうんだから。ぼーっとしてる暇なんてない!
「えーっと、今日からあなたの担当をさせていただきます。ブルーサポーターのふな……じゃなくて…ハ、ハナです!年齢はあなたと同じ17歳。これからよろしくお願いします!」
 私の声は、緊張すれば緊張するほど不自然に明るくなっていく。
 はぁ…これじゃ変人って思われちゃう!
「あ…年上じゃないんだ…」
 青さんは私が年上に見えていたようだ。
「そんなことないですよ…あ、同い年だから、敬語使う必要ないですね!」
 私はどうにか青さんと仲良くなろうと笑顔を作った。
「あ…うん…!」
 頷く青さんは…少し、嬉しそうだった。
「そういえば、さっきの魔法…じゃなくて、なんていうんだろう…不思議な光景?みたいなのが見えたんですけど、なんだったんですか?」
 すると彼は少しむっ、と膨れてみせた。
「自分で言ったくせに敬語、取れてないじゃん!」
「いや、だって…そんな簡単に会ったばかりの人とタメ口で喋れって言われても、できませんよ!」
「ほら!やっぱり敬語!できないなら最初から言わない!」
 私はふと、彼の口許が緩んでいることに気づいた。
 なんか、笑うと可愛いな。男の子だけど。
 そう思うとなんだかおかしくなって、笑いが溢れた。
「ふっ…ふふふ!」
「え?なに笑ってんの⁈」
「いや、なんでもない。それより、さっきの魔法みたいなの、どうやってやったの?」
 彼はきょとんとしたような顔をして言った。
「え?魔法?」
「うん。お花咲いたり、天井が星空になったり、もうメチャクチャ。あれは何?」
 彼は少し考えて、そして言った。
「それは、魔法じゃないよ」
 その声は淡々としていて、何かを恐れているように聞こえた。
「じゃあ、なんなの…?」
 私は躊躇いがちに聞いた。
 
「…君が見たのは、僕の幻だよ」

 幻?
 なんで青くんの 幻を私が?
「どうして?」
 青くんは心配そうに尋ねてきた。
「今から僕の病気の話をするね。気持ちが悪いかもしれないから、聞きたくなかったら聞かないでいいよ」
 私は静かに首を横に振った。
「気持ち悪くなんかない。私でよかったら、聞いてもいい?」
 …柚葉みたいに、何にも言わないで死んでしまうよりは、ずっと…。
「そっか。じゃあ、僕の病気が何なのか、説明するね」
 〝病気〟という言葉に体が反応する。
 …柚葉も、病死だった。
 私は、何も知らなかった。
「僕の病気の名前は『幻覚依存症』…幻覚が見えちゃう、病気なんだ」
 初めて聞く病名にびっくりする。幻覚って、それやばくない?
「うん。しかも僕の場合、その幻覚が僕から流出…つまり周りも見えちゃうっていう特徴があるんだ。これが厄介でさ」
「それは大変だね…あ、だからさっき、私にも幻が見えたんだ!」
 私はさっきの魔法の正体がわかって、絡まっていた糸が一つ解けたような気がした。
「ま、そういうこと。魔法みたい、か。今度子どもたちにみせてやろうかな!」
 そうやって笑う青くんは、太陽みたいに見えた。

 ただ、いつまでもこんなふうに笑っているだけじゃいけない。
 私は、青くんの命を救いたい。
 その日1日だけで、彼の太陽みたいな暖かい温もりを知ってしまったから。
 だから、絶対に安楽死なんて、させない。

 私が『わすれな草の家』にきてから、数週間。
 今日は、二回目のアンケートの日だ。
 『わすれな草の家』では、週に一回、アンケートが実施される。
 アンケートは、全ゲストと全サポーターが集まって実施されるんだけど、私と青くんはなぜか先に呼び出されてしまった。
 …先輩に。
「急に呼び出してごめんね。説教じゃないから安心していいよ」
 てっきりごりごりに説教されるだろうと身構えていた私は、肩の力が抜けていくのを感じた。
「前回のアンケートなんだけど、一つ空白の欄があったんだよね〜。ほらここ、両親の名前を記入しなきゃ行けないところがあるでしょう?ここ、空欄よ。書き直しておいて!」
 青くんは解答欄をじっと見つめて、ようやくか細い字で小さくこう書いた。

「忘れました」

 青くんがそれを、どういう気持ちで書いたのかはわからない。
 だけど、その顔が、本当に苦しそうに歪んでいたから。
 なにも、言えなかった。
「あ!ハナちゃん!」
 明るい声が背中に当たって、振り向いた。
 そこにいたのは、『わすれな草の家』に住んでいる9歳の女の子、ユナちゃんだった。
 ユナちゃんは、ある特定の色だけ見ることのできないという病気にかかっている。
「ユナちゃん!アンケートの時間だよ!頑張れるかな?」
「うん!ユナ、頑張るよ!だってユナ、いい子だもん!」
「そっか。えらいねー、ユナちゃん!」
 私がユナちゃんの頭を撫でると、ユナちゃんはくすぐったそうに笑った。
「はい!じゃあアンケート始めまーす!回答用紙配るねー!」
 アンケート用紙が配られると、次々にペンの音が生まれた。
 このアンケートはゲストだけがするもので、私たちサポーターはゲストが考えるのをお手伝いするんだ。
 青くんは真剣な面持ちで回答用紙と睨めっこしていた。
 私はそんな青くんを見ながら、なぜかしみじみと思った。
 綺麗だな、って。
 光を受けて輝く姿が、なぜか急に綺麗だと感じた。
 私がじーっと見ていると、青くんは急にこっちを見た。
「な、何?めっちゃ見てるじゃん…」
「今気づいたの?ずーっと見てたよ?」
「えー……恥ずかしい…っ」
 青くんはりんごみたいに顔を真っ赤に染めて呟いた。
 …可愛いな。
 青くんは本当に綺麗で可愛くて、魅力的で…
 …って、私何考えてるんだろ…
 青くんが好きなわけじゃないのに。
 …決して男女の間に生まれる〝好き〟とかいう気持ちは、私にはないはず、なのに。
「…ハナちゃん?」
「え?」
 気がつくと青くんは心配そうにこっちを見ていた。
「どうしたの?ハナちゃん?」
 ああ、ぼーっとしてた…
「私?何でもないよ。ただ、ちょっとぼーっとしてただけだよ。なんかわかんないとこあった?」
 青くんは言いにくそうな顔をしながらある一つの問題を指さした。
 そこにはこう書いてあった。

『あなたの死が近いと言われた時、安楽死と不死身、どちらを選びますか?』

 私の心臓が、怖いくらいに激しく脈打った。
 鼓動が早い。なぜか、緊張している。
「どっちにすればいいか、わかんなくて。どうすればいいと思う?」
 落ち着け、私。
 こういう時は相手を悩ませないように答えればいい。
「まあ、とりあえずは自分が思うように書いてみたら?」
「うん、わかった」
 彼は言われた通りにペンを走らせた。
 …私は青くんの書いたばかりの回答を見て、言葉を失った。
 
『安楽死を選択します』

 隣にある理由を書く欄も。

『もし自分が不死身の体になったとしても、誰かの不幸の上で成り立つ幸せだったら嫌だ。世の中には辛い思いをしても気づいてもらえなくて自殺する人もいるし、不死身になれないほどの病気を患っている人だっている。そんな現実があるのに自分だけが幸せを手に入れるのは嫌だ』
 
 長い文章の一番最後には、青くんの優しさが、滲んでいた。

『もし叶うのなら、こんな身も心も腐り切った人生を終わらせて誰かの幸せの土台を作る不幸になりたい』
 
 柚葉を、思い出した。
 柚葉の最期の言葉にも、同じようなことを言っていたから。
『私はもういいの』
 私の手をそっと握りながら、そんなことを言っていたね。
『私は、みんなに幸せになってもらいたい…』
『バカなこと言わないで!』
 私の震えた声は、柚葉の優しい声に混じって溶けた。
『こんなもう、動かせない体だし、心もボロボロよ。だから、私の不幸を誰かの幸せに換えて戻って来るから。その時まで待っていてね』
『嫌だよ…そんなの、絶対にイヤ!』
 柚葉は私の震える手を優しく包み込むように握って、そっと囁いたよね。
『大丈夫。私はずーっと、ハナのこと見守ってるから。天国ってちょっと行ってみたいし』
『ダメ…行かないで…』
 すると柚葉は、ちょっと困った顔をして言った。
『ハナ。私は、誰かの幸せの、土台になりたいの』
『何言ってんのか全っ然わかんないよ…!』
『それに私、ハナに数えきれない大切なものをもらったから。今度は私が、幸せを作る番』
『幸せだとか不幸だとか、どうだっていいじゃんそんなの!私は……私はっ、』
 涙が滲んで目の前が見えなくなった。
『…柚葉がいるだけで、私は幸せなのに…』
 嗚咽をこぼしながら、柚葉がくれた数えきれないくらいの思い出を一つ一つ噛み締めていた。
『ありがとう。ハナを幸せにできたのはすごく嬉しい。でも、』
 柚葉は少し残念そうに笑うと、言葉を選ぶようにゆっくり言った。
『ハナ以外のたくさんの人を、私はこの手で幸せにすることが出来なかったんだよ。だからせめて幸せの土台になりたい』
『でも……っ!』
『寂しいと思ってくれて、ありがとう。こんな私を愛してくれて、ありがとう。空っぽだった私を愛してくれて、ありがとう。ほら、ハナにはたくさんのありがとうをもらってるんだよ。もう私に留まることはないよ。さようなら』
 その『さようなら』は、寂しくはなかった。
 柚葉の優しさと、愛が溢れた言葉だった。
『…ゴホッ、ゴホッゴホッ、ゴホッ!』
 柚葉が、苦しそうな咳を漏らした。
『大丈夫⁈ねぇ、大丈夫⁈死なないで…!死なないで…!』
 柚葉は私の手を握ったまま、静かにベッドに倒れ込んだ。
『柚葉……』
『ハナ。今までありがとう。どうか、幸せに…』
 ピーーーー。
 無機質な音が、部屋中に響き渡った。
 柚葉の他界を、知らせる合図だった。
 柚葉が、死んだ。
 その事実だけが、私の涙を呼んだ。

 目の前には、困惑した表情の青くんがいた。
 そうだ。アンケートが終わって、青くんと2人だったんだ。
「あ、ごめん…ちょっとぼーっとして…」
「うん、あのさ、安楽死のことなんだけど」
 今日に出てきた物騒な単語にびっくりした。

「僕、もう決めたから」

「ん?なんで?否定するつもりなんてないけど…」
「いや、アンケートしてた時なめちゃくちゃ言ってたじゃん」
 いや、私は何も…
「なんか僕が、安楽死を選択するのが嫌みたいで」
 確かに、嫌だった。
 青くんは、まだ生きてほしい。
 それに私は青くんのことが……!
 好き、かもしれないのに。
「まあどっちでもいいんだけど」
 青くんはひどく淡々だとした声で言った。
「ハナちゃんになんと言われようと、僕は安楽死を選択するって、もう決めてたから」
「そんな…なんで…」
「だから僕は、たくさんの人の不幸の上に立ってまでして、幸せになりたくないんだ」
 その言葉は、私の心に重くのしかかった。
「でも…青くんにはまだ、幸せになる権利はあるはず!」
 そんな私の言葉にも反応せず、ただ虚な瞳をこちらに向けるだけの彼。
 あんなに綺麗なガラスの瞳も、今は醜い濁りを写して、悲しげに揺れていた。

「もう、疲れたんだ。幸せを、探すのが」
 
 私がみた中で、一番虚無に沈んだ彼だった。

「もう、嫌なんだ。誰も僕のことを、知ろうとしてくれない!偽物の僕しか、見てくれないんだ!せめて…せめてもの〝愛情〟すら、もらえなかったんだよ!こんな僕が幸せになったって、なんの意味もないよ!」
 
 いつものお日様みたいな笑顔でなくて。
 その笑みには、諦めや、自嘲みたいな色が滲んでいた。
 そんな顔、しないで。
 青くんにはそんな顔、似合って、ない。

「意味は、あるよ」

 だって、あんなに素敵な、幻を出せるじゃない。
 私に素敵な、魔法を見せてくれたじゃない。
 生きる意味が、ないわけない。
 誰もがみんな、生きる意味を持っている。
 誰もがみんな、自分が生きていることに喜んでくれる人がいる。
「どうして、〝愛情〟をもらえなかったなんて言うの?」

 私が知らない過去に、何があったの?
 その綺麗なガラスの瞳に、何を映していたの?
 青くんはひどく驚いたような顔をして、ハッとしたように言った。
「ごめん、ハナちゃん…僕、ひどいこと言ったよね…」
「いいから!何があったのか教えてよ!」
 青くんは少し躊躇いがちに口火を切った。


 僕は、変わった人間だった。
 〝変わった〟が行きすぎた人間だった。
「あなたは、『幻覚依存症』ですね』
 医者から告げられたときは、信じられない気分だった。
 僕は、極力幻を見ないように心がけるようになった。
 何も考えないように。無駄な言葉を、思い浮かべないように。
 けど、そんな僕の努力は、全く未意味で無謀だった。
 僕の両親は、〝普通〟にこだわる人だった。
 なんでも〝当たり前〟を求めたがる、人だった。
 だから、〝普通〟じゃない僕を、大層嫌っていただろう。

『どうしてあんたは、〝普通〟にできないの』

 あるとき僕は、母親に言われた。
『どうして、当たり前がわからないの?なぜ、幻を見てしまうの?やめて。あんたのせいで、みんなに変な目で見られるのよ!もう、やめて…普通になりなさい……』
 幼いながらも、目の前で自分に向けられた呪いの言葉を吐かれながら泣き崩れる母親を見ているのは、精神的にキツかった。
 その時から、僕は自分がいてはいけない存在なんだと、自分を呪うようになった。
 そんな時に、本に出会ってしまった。
 読書の楽しさに、気づいてしまった。
 だからまた、幻を見るようになってしまった。
 自分が、あの本の中にいたら。
 自分が、あの本を書くのなら。
 そんな空想ばかりが空回りして、次々に幻が見えてしまう。
 そんな自分に、嫌気がした。
 そのうち、両親からの虐待もエスカレートしてきた。
 すると今度は、自分に対等な愛情を与えない両親に、憎しみの感情を抱くようになった。
 …これが、僕の裏側。
 ハナちゃんに見えていなかった、僕の汚くて醜い、裏の顔。

 話を聞き終えた私は、ズーン、と思い気分を振り払いながら言った。
「でも、だからって青くんが命を捨てなきゃいけないのは、おかしいよ!」
 私は、まだ彼に伝えたいことがあるから。
 どうか、死なないで!
「他の人がどうとか関係なくて!私が…私が青くんと一緒にいたいの!だから…」
 大きく息を吸い込む。
 今、私が言おうとしている事は、彼を戸惑わせてしまうだろう。
 けど。
 もう、失いたくない!

「私と一緒に、生きようよ!」

 きっと、優しい彼は不死身になるのは嫌だというだろう。
 だから、いい方法があるんだ。

「ねぇ、手術を受けてみない?」

 成功率、57%。
 成功か失敗かは、2分の1。
 ただ、成功すれば平均寿命まで生きられる。
 それを知ったのは、ユナちゃんが受けると言っていたからだ。
 ユナちゃんは、生きるために一生懸命頑張っていた。
「手術?」
 どうか、首を縦に振って!

「……やっぱり、僕は心のどこかで生きたかったのかもしれない」

 生きたい。
 前向きな彼の気持ちに、胸が熱くなった。
「よし、決まりね!絶対に、これからも一緒に生きようね!」
 その時、あの香りが、花をくすぐった。

「…麗央……」

 私の口からつぶやかれた言葉は、すぐに意味不明のものとなった。
 麗央って、誰?
 思い出そうとすると、目の奥がツンと痛くなる。
 でも、私の心は麗央という存在に惹かれていって、気づけば私は麗央のことを思い出そうとしていた。
「え?麗央?」
 急に青くんは、素っ頓狂な声を出した。
「ねぇ、今、麗央って言った?」
 私は彼の熱い口ぶりに呆気に取られながら静かに頷いてみせた。
 青くんは心底びっくりした顔をして言った。

「…じゃあ、君が…鏡花、なの?」

 え?
 青くんは、私のことを知ってる?
 違う。私を知ってるのは『青』という人ではなかったはずだ。
 そう、麗央ーーーー。
 その時、青くんと見知らぬはず、の麗央の姿がぴったりと重なった。

「…僕が、麗央だよ」

 …やっと、思い出した。
 夜に沈もうとしていた私を、朝に連れて行ってくれた人。
 どうして今まで、忘れていたのだろう。
 
 私は元々、記憶力のない人間だった。
 それは、治しようもない病のせいだ。
 『記憶力低下病』。
 それが、私を苦しめ続けた病の名前だった。
 私は、この病から両親にこの『わすれな草の家』に連れてこられた。
 その時は、私には安楽死も不死身もよくわからなくて、両親の判断に任せていた。
 
 ある時私は、何かのカプセルみたいなものに入れられた。
 そのまま、眠ってしまった。

 私が目が覚めたということは、両親は不死身を選んだのだろう。
 だけど、目覚めた私に医師たちは歓喜の声をあげていた。
「おめでとうございます!手術成功です!」
 だから私は、成功率57%の手術を受けたのだろう。
 ただ、私の記憶は、まるで雪のように溶けて消えていった。

 優しい涙が、頬を伝う。
 忘れていた思い出が、溢れかえってきた。

 私が麗央という男の子に出会ったのは、小学3年生の時だった。
 その頃は、まだそんなに症状が悪化していなかったはずだ。
 私は病気のせいで学校に行くことができず、『おひさま』というデイサービスに行っていた。
 その時に出会ったのが、麗央だった。
 麗央は、体を動かすのもままならなくて、いつも部屋の隅っこで絵本を読んでいた私に、声をかけてくれた。
 ただ、私が手術を受けることになり、自宅休養をしていたため、それきり会うことはなかった。
 『おひさま』を卒業する私に、麗央は小さな青い花をくれた。
『この花は…?』
『勿忘草だよ。君が、僕といた日を忘れないようにとっておいてね!』
 それから私は、その勿忘草を押し花にしてペンダントとして胸元に飾って肌身離さずつけていた。

 君といた日を、忘れてしまっていたのに。
 君の名前すら、思い出せなかったのに。
 どうして君は、そんなに私に優しくしてくれるの?
「…麗央っ…麗央!」
「鏡花。もう大丈夫。僕がいるから」
「麗央、死なないで!麗央っ…」
 麗央は綺麗な瞳を揺らしながら言った。

「僕、手術を受けるよ。だから、安心して。鏡花と一緒に生きたいんだ。これからも、一緒にいてくれる?」

 私の中の答えは、もうすでに定まっていた。
「うん、もちろん!」
 私は彼の手を強く握りしめた。

 誰かの不幸の上に立つのはとても勇気がいる。
 誰かの不幸の上に成り立つ幸せが、醜いと思うのもわかる。
 
 でも、みんな知らないうちに、誰かを幸せにしているんだよ。
 だから胸を張って、毎日を精一杯生きている人に、私はなりたいんだ。
 誰かに幸せにしてもらっていることを忘れないように。
 小さな幸せも、一つだってこぼさないように。

 これはそんな、毎日を精一杯生きている小さいけれども綺麗な、青い花たちの物語。