真白い空間で誰かの声が聞こえた。

「願いを叶えよう」

 どこからか聞こえた声に、僕は……

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 ことん、という音に目を向ければ、君がマグカップをふたつ、キッチンのシンクに置くところだった。
 色違いのカップはふたりで買いに行った、大きめのもの。持ったときに熱くないよう、厚手のものが良いとずいぶんいろんな店を見て回ったっけ。

 食べ物にこだわりの少ない君だけれど、コーヒーだけは妥協したくないといつも豆から挽いてくれるから、僕はもうインスタントのコーヒーでは満足できなくなってしまったよ。

「……ミルク、切らしてた」

 冷蔵庫を開けてつぶやいているけれど、君はブラックコーヒーひと筋でしょう。僕なら構わないから、気にしなくて良いよ。

「ごめんね」

 謝ることないのに。

 僕は肩をすくめて、コーヒーから立ち昇る湯気に誘われるように、住み慣れた部屋のなかを見渡した。

 十畳のワンルームは、白い壁と明るい床板を君が気に入って。広めのキッチンと大きなクローゼットを僕が気に入ったから借りたんだったね。

 今日はあいにくの雨だけれど、明るい光を取り込める広いガラス戸の向こうのベランダで、並んで洗濯物を干すだけで君はくすくす笑うんだ。
 
「桜、見に行こうって言ってたのに」

 ベランダをぼんやり眺めて君がつぶやく。
 僕は壁際の棚のうえのカレンダーに目をやった。

 そこは大きな卓上カレンダーの指定席。狭い部屋に不釣り合いなくらい大きなカレンダーは君が毎年、愛用してるもの。
 三月のそれぞれの日付にあれこれと書き込まれた予定が色鮮やかで、一枚めくれば四月の今日の日付に『ふたりでお花見』と書かれているはずだ。

「約束、してたのに」

 確かに約束した。ちゃんと覚えてるよ。
 三月に入るなり、開花予想をチェックした君が「カレンダーに書くから、どの日なら行ける?」と弾んだ声でたずねてきたから。

 でも、仕方ないじゃないか。

 これまでだって、約束を守れないことは何度もあった。
 君は予定をあれこれカレンダーに書き込むのが大好きで、新しく買ったカレンダーを予定で埋めるのが大好きだから。

 ふたりでディナーの約束をした日に仕事が長引いて延期になったことなんて数えられないほどあるけど、これはお互いさまだ。
 君はカレンダーを買うなり書ける限りの予定を書き込みたがるから、久しぶりに友だちから連絡が入って遊ぶことになった、なんて予定にあとから書き換えられることもよくあった。

 だから僕は何度か言ったんだ。
 確実な予定だけ書き込めばいいのに、って。
 そしたら、君は笑ったね。
 
 未来の約束がたくさんあったほうが、毎日たのしく暮らせるでしょう? って。

 正直に言って、書き込まれすぎたカレンダーは日付が見辛かったけれど。でもカレンダーに書き込むときの君が本当に楽しそうだったから、僕らの部屋のカレンダーはずっとにぎやかだったね。

「ねえ、もうコーヒー豆が無くなっちゃったよ」

 君に言われてカレンダーに目を向ければ、三月の終わりに『コーヒー豆を買いに行く!』と書いてある。
 書いてあるのにその日、僕らは部屋から出なかったものね。

「洗剤も切れちゃいそうだよ」

 洗濯洗剤を買うのは、そう。三月の半ばに買いに行く予定だったんだ。近所のドラッグストアの特売日、君はきちんと書いてあるのに。
 君はあの日、ずっと机に突っ伏して。僕はそれを見守ることしかできなかった。

「ねえ……どうして」

 どんな些細な予定だってあれこれ書き込んだカレンダーはそこにあるのに。
 予定していた色んなことは、カレンダーのうえで止まったまま。
 暦はもう四月へと変わっているのに、カレンダーは三月のまま。

「どうして死んじゃったの……!」

 三月の最初の土曜日、僕が死んだあの日のまま。
 君はあの日から部屋を出なくなって、それからずっと泣いてるんだ。

「たくさん、たくさん約束してたのに!」

 叫んだ君は、とうとうカレンダーを払い落としてしまった。
 あんなに大切そうに抱えていたのに、涙に濡れて赤く腫れた目で落ちたカレンダーをにらみつけている。

 僕はそれが悲しくて、君を抱きしめて謝りたいのに、死んでしまった身体はもう骨と灰になってしまったから。
 にらみつけた目からこぼれた涙をぬぐうことも、泣き崩れた君の肩を抱くこともできない。

 うずくまり、震えて、気絶するように床で眠った君を抱き上げることも、掛け布団を持ってきてあげることもできない。
 不甲斐ない自分を詰りながら、君を見つめることしかできない。

 触れたいのに触れられず、伝えたいのにことばは届かない。泣いて痩せていく君を見ていることしかできないなんて、ひどい拷問だ。
 こんな状態で君のそばにいることに、どんな意味があるのか。
 眠ることもない僕は何度も何度も考えているけれど、答えはまだ出ない。

 けれど、いつかわかるはずなんだ。
 あの声が、僕がトラックにはねられたときに真白い空間で聞いた声の言うことが嘘でないなら。

 だって僕は願ったのだ。

 転生もすごい能力もいらないから、君の人生でいちばんのピンチのときに助けてあげられる力をください、って。
 異世界なんていらないから、そのときまで君のそばに居させてほしい、って。

 いつか来るその日に君を助けられるなら、苦しくてもどかしい今の状態だって耐えられる。
 僕を失くして傷ついた君だって、やがて顔をあげてくれるはずだから。そしてまた、たくさんの予定をカレンダーに書き込んで微笑むはず……。

 僕はうずくまる君のそばをすり抜けて、床に落ちたカレンダーを見つめる。
 くしゃりと曲がってしまったそれに手を伸ばし、触れた。

 触れられた。
 君にいくら手を伸ばしても触れられなかったのに、カレンダーには触れるだなんて。

 おかしくて苦しくて、けれど僕は唇を噛み締めてカレンダーを抱えた。
 毛布は触れなかった。泣き寝入る君にかけてあげたくて、何度も挑戦したから知っている。
 ペンもだめだった。せめて君にことばを届けたいと、願ったけれど虚しく通り過ぎるばかりだった。

 けれど、カレンダーに触れられた。これにはきっと意味がある。
 そう信じて、僕はカレンダーをめくる。
 見つめるのは今日の日付、四月三日。

 君の字で『ふたりでお花見』と書かれたあたりを見つめて、祈る。
 祈る相手は神さまなんかじゃない。あの白い空間で聞こえた声の主でもない。
 ただ君に祈る。

 ああ、やっぱり。

 君の文字の下に浮かびあがった文字を見て、僕はこれが正解だったのだと知った。

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 夕焼けに照らされた君のまつげが、頬に影を落としている。
 ふるりと揺れたまつげがゆっくりと持ち上がるのに気がついて、僕はそっとカレンダーから離れた。

 しばらく前にカレンダーにすら触れることができなくなって、床にばさりと落ちたまま。誰かに望んだ君を助けるための力も、使い果たしてしまったみたいだ。
 僕にできることはもう、君がカレンダーを見てくれるよう祈ることだけ。

「……さむ」

 ちいさくつぶやいて震える君に、上着の一枚もかけてあげられない。それが悔しくて苦しくてもどかしくて、つらい。

 だからお願いだ。気づいて。カレンダーを見て。

 祈りながら見つめていると、君の目がちらとカレンダーに向く。
 けれどすぐに伏せられて、君の目は陰ってしまう。

 あんなに楽しそうにきらめいていたその瞳を僕は覚えているのに。またあのきらめきを見るためにどうしたら良いのか、わからない。

  どうか、どうか……!

  噛み締めた唇から血が出ることはない。痛みすらあやふやで、けれど動いていないはずの心臓のあたりがズキズキと痛い。

 そのとき。
 ちかり、と君の瞳がきらめいた。
 それは窓から射し込んだ夕陽のせいで、君はやっぱり笑ってなんていなかったけれど。

「なに……?」

 飛び込んだ斜陽に顔をそらした君は、カレンダーに気がついた。
 僕の心臓がズキンと痛む。

「なにか、光った……?」

 君を照らした陽光が、カレンダーを包んでいる。オレンジ色の光を浴びてかすかにきらめくのは、そこに込められた想い。

 君の手がカレンダーに伸びる。
 僕の手から落ちて、開かれたのは四月のページ。

「なに、これ……」

 震える君の声に久しぶりに宿った感情に、僕の胸はズキンと痛んだ。
 君は、そこに書かれたものを見たのだろう。

「四月三日、涙が止まる日……」

 大きく見開かれた君の瞳に涙は無い。

「四月四日、ご飯がおいしいと思える日」

 つぶやく君の声に応えるように、くぅ、とちいさく君のお腹が鳴った。予定を一日早めておいたほうが良かっただろうか。

「四月五日、友だちと電話をする日」

 僕が死んだその日から、たくさんの友だちが君を心配して来てくれていた。部屋の扉を開けばドアノブには毎日、誰かが持って来てくれた食べ物がぶら下がってる。
 君が電話をかければ、ワンコールだって待たずに出てくれる友だちがたくさんいる。
 
「部屋から出る日、自分で料理をする日、誰かに会いに行く日……なに、これ……」

 読み上げられていくのは、僕が祈った君の未来の予定。
 他のなににも触れられなかった僕はカレンダーにだけ触れたとき、気がついたんだ。

 君のいちばんのピンチは、僕を失くして進めなくなること。
 だから僕はカレンダーに祈ったんだ。

 僕が死んだ日で止まってしまった君がまた歩き出せるように。
 元気を取り戻していく君の姿を思い描きながら祈った想いは、文字となってカレンダーに刻まれた。

「甘いものを食べる日」

「泣かずに過ごせる日」

「また笑える日」

 ひとつひとつ、未来の君を思い描きながら刻んでいったんだ。

「僕を……僕を過去にして歩き出せる日……」

 つぶやいた君の目にみるみる雫が生まれて落ちて、カレンダーに散らばる僕の涙にぶつかりきらめいた。

 最後の予定を書き込みながら、僕は涙を止められなかった。
 幽霊でも涙って出るんだな、なんて思いながら眠る君の顔を見つめていたときは気がつかなかったけれど。僕の手がカレンダーに触れられたように、カレンダーに落ちた涙は消えずに残っていたらしい。

 さっき、夕陽にきらめいたのは僕のこぼした涙だったのか。
 幽霊でも、泣けて良かった。

 泣きじゃくる君を抱きしめたくて、けれど触れることができなくて僕の目からも涙があふれ出す。
 頬を伝って落ちた雫は、床に触れることなく静かに消えていく。

 僕が願ったのは君を救うための力だから、君に触れることはできない。
 僕が願ったのは君を救うまでの時間だから、近づいて来たお別れが悲しくて、うれしい。

 声を上げて泣きじゃくり、僕の名前を叫んでる。
 応えたい。応えたいのにそれはもうできないから、せめてその声を胸に刻みこんでいこう。
 別れが近づくたび痛む胸に、強く強く刻みつける。

 これからの予定が書かれたカレンダーを抱きしめて、君は泣いて泣いて泣いて泣いて、やがて涙を止めた。

 夕陽はとうに沈んでしまって、部屋のなかも外もすっかり暗い。
 けれど、僕はそこにちいさなきらめきを見た。
 その光を目にして、僕の胸がひときわ強く痛む。

 ずず、と鼻をすすり、顔をあげた君の瞳は、かすかにきらめいている。

「明日は、ごはんをおいしく食べる日、なんだね」

 今日は、君の涙が止まる日。明日はごはんをおいしく食べる日。
 そうして、君は新しい日々を過ごしていくんだ。
 僕が祈った想いを拾って、僕の知らない新しいカレンダーの日々へと、進んでいく。

 涙を止めた君を目に焼き付けて、僕は自分がほろりと解けるのを感じた。
 身体を失くした僕に残る最後の何かが消えていく。
 終わりのときが来てしまったんだ。

 泣きはらした君が無理矢理に口角をあげるのを見て、僕は泣いてしまう。
 こぼれた涙といっしょになって、僕もぽろぽろと崩れては消えていく。

 さようなら愛した人。
 これからどうか、たくさんの幸せを感じて生きてください。
 その隣に僕がいないのは寂しいけれど、新しい日々をどうか笑顔で。

 伝えたいことばは山ほどあるけれど、君に届けることはもうできない。
 けれど、大丈夫だって自信を持って僕は逝ける。
 
 君の人生のピンチはもう、通り過ぎたのだから。