「真由、早く食べたら」
 キッチンの方からお母さんの声がする。なんでお母さんって、私が思ってることと同じことを、私が思っているのと同じタイミングで言ってくるんだろう。だから余計にカチンと来る。早くしなきゃいけないのは分かっているけど、こっちだって前髪を作り直したり、服の最終チェックをしたり、いろいろ忙しいんだから放っておいてほしい。
 何も言わずにリビングのテーブルに座ると、今日の夕食は私が大好きなちらし寿司だ。ほんとはうわーって喜びたいけど、その前にお母さんにむかついてたからあんまり喜びたくない。
「塾に行くくらい、わざわざ服なんか着替えなくてもいいでしょ。高校の制服のままで行きなさいよ」
「いいでしょ、べつに」
 キッチンに立っていたお母さんが、急に何かを見つけたような目をして私が座っているテーブルの方にやってくる。
「ちょっとあんた、塾行くのに、なんでおへそが出た服着ていくのよ。塾に何しに行ってるの?ほんとに塾行ってるの?」
「行ってるに決まってるでしょ」
「じゃあなんでこんな服着ていく必要があるのよ。誰に見せるつもりよ、この腹を」
「ちょっとやめてよ!」
 お母さんがぺちっと私のおなかを叩いた。めっちゃむかつく。今日はちょっとおなかが出てる気がするから、この服にするかどうかさっきまで迷ってたのに。
「もう食べない。行く」
「おなか減っても知らないよ。塾から帰った後だと太るからって今食べてるんでしょ」
 ほんとはもっと食べたいけど、ぽっこりおなかで塾に行くのはいや過ぎるから我慢する。もしかしたらお母さん、残りをラップして置いといてくれるかもしれない。だったら家に帰ってきてから残りを食べよう。一日くらいなら夜に食べても太らないはず。そうしよう。
 残り置いといて、って言いたかったけど、なんか頼むのもいやだったから、小さい声で「行ってきます」とだけ言って家を出た。今日は朝からずっと雨だ。いくら梅雨でも、こんなに毎日雨が降ると嫌になる。外に出たら肌寒い。へそ出しTシャツにしたのをちょっとだけ後悔したけど、かわいく見えるのなら寒いのなんてへっちゃらだ。

 塾に着いたら教室にカバンだけおいて、いつも通り職員室の前に直行だ。このためにわざわざ授業が始まる三十分前には塾に着くようにしている。
 お目当ては職員室にいる英語担当の松田先生だ。いつも職員室の前で付き合ってくれる同じ高校の里奈には「そこまでイケメン?」って言われるけど、私にとっては最高のイケメンだ。一重で切れ長の目がぶっきらぼうな話し方と合わさってクールでたまらない。ツーブロックでロングの髪に口ひげを蓄えてるのもワイルドでいい感じだ。多分、三十歳後半、もしかしたら四十より上なのかもしれないけど、年の差なんてどうでもいい。「やべぇ」と「マジか」の二つの単語だけでギャーギャー騒いでいる同い年のサルみたいな男子なんか比べ物にならない。
 私はただ先生を見たいだけなのに、またあの子が先生の横に立っているからイライラする。別の高校の坂口って子だ。ロングヘアでいつもワンピースを着て清楚ぶってるけど絶対、性格悪い。何か英語の質問をしてるっぽいけど、どうせ先生と話したいだけに決まってる。
「バカぐち、むかつくー」
「ちょっと、口悪すぎるから」
 里奈は先生には全く興味がない。というか多分、男に興味がない。ずっと私の横でスマホをいじっている。
「ていうかさ、見てるだけじゃ仕方ないじゃん。職員室の前からじーっとにらんでさ。変質者だよ、それ」
「じゃあどうしろっていうの?」
「質問しに行けばいいじゃん、あの子みたいに」
「だってさ、英語の授業についての質問なんて別にないじゃん。単語と文法、覚えるだけなんだから。あの子、いっつも何を聞いてるんだろ?」
「なんでもいいから聞くこと考えなよ。私なんか推しに会いに行くとき十個くらい話のネタ考えていくよ」
 里奈はアイドルファンだ。女が女性アイドルを応援する女オタ。
「だって、先生だよ。あんたが推しに『好きな食べ物、何ですか』って聞くのとは訳が違うんだからね」
「あんた、ドルオタ、バカにしてるでしょ。そんなつまんないこと聞かないし」
 やっと坂口が先生の横を離れた。職員室から出ていくときに、私のことをにらんでいった気がするので、負けずににらみ返しておいた。
「ねぇ、あの子、超むかつくんだけど。何でもいいから先生に聞くこと考えてよ」
 そんなの自分で考えなよ、と言いながら里奈がスマホから目を放して何か考えてくれてる。
「留学の相談とかは?先生、前に海外に住んでたことがあるって言ってたでしょ」
「私、留学なんて全然行きたくないんだけど。好物、ちらし寿司だし」
「あんたの好物なんか聞いてないから。先生と話すきっかけが欲しいだけでしょ。だったら行きたくなくても、留学行きたいくらい言いなよ」
 留学なんて心の底から行きたくないけど、どう考えてもそれ以外に先生に聞けそうな話題がない。でもこのまま見てるだけだと、あのバカぐちに先生、取られちゃう。里奈に一緒に来てって頼んだけど、「握手会は一対一でしょ」って訳の分からない理由で断られたから、勇気を振り絞って一人で先生のところに行ってみた。
「あのー、質問があるんですけど」
 恐る恐る先生に声をかけてみる。なんだ、伊藤か、珍しいなと先生が私の方を向いた。こんな近くで話したこと、あまりないからちょっと緊張する。
「あの、私、留学したいなって思ってて」
「留学?お前、三者面談の時、そんなこと言ってたっけ?」
 一年ほど前に先生とお母さんと三人で志望校とかの相談をしたことがある。もちろん何の興味もない留学の話なんかするわけがない。
「最近、なんか急に留学とかいいかなって思い始めて」
「留学して何がしたいんだ?そんなに英語が好きなようにも得意なようにも見えないけど」
「えっと、知らない国とかに行くのもいいかなって思って」
「じゃあ、旅行でいいだろ」
 旅行ですら別に海外になんて行きたくない。海外に行くくらいなら、大阪のUSJの方がよっぽど行きたい。
「ワーキングホリデーって知ってるか?働きながら外国に住める制度。俺はそれでカナダに行ったけどな」
「えっ、ワーキングホリデー?」
「そう。それだと金があまりかからないからお母さんにも迷惑かけないだろ」
「あ、はい。考えてみます。ありがとうございました」
 とりあえず来週も話せそうなネタだから、ワーキングホリデーって調べておこうって思った。全然興味ないけど。

 塾が終わって家に帰ったら、ラップがかかったちらし寿司が食卓に置いてあった。ラッキーって思いながらお母さんがお風呂に入ってる間に全部食べてしまった。やっぱりお母さんのちらし寿司はおいしい。
 その後、さっそくワーキングホリデーって何なのか調べてみた。留学と違ってワーキングホリデーだと現地で働けるからお金があまりかからないらしい。とは言っても最低百万円は必要だっていうから今の私には想像できない。でも先生が行ってたカナダとか、何となくきれいな国なんだろうなって思ってたオーストラリアとか、そういう所に私も行こうと思ったら自分の力で行けるんだ、と思ったらなんだか不思議な気がした。
 もし私が海外に行くとなったらお母さんはなんて言うだろう。寂しいのかなってちょっとだけ思った。うちは私とお母さんの二人暮らしだ。私が中一の時にお母さんとお父さんは離婚した。友達の中にはお母さんとすごく仲がいい子もいるけど、私とお母さんは多分それほどでもない。二人暮らしだけど、お母さんはデパートで働いてるから土日は家にいないし、なんか私も反抗期なのか家に一緒にいてもあんまりお母さんと話してない気がする。でも、お母さん一人になったらやっぱり寂しいのかな。そんなことを考えているうちにお母さんがお風呂から出てきた。
「あんたも早く入ってきな」
また、早くって言ってる。こっちにはこっちのペースがあるのに。
「ねぇ、カナダとオーストラリアってどっちがいいかな?」
「何の話よ、どっちがいいかなって」
「行くんだったらどっちかなって」
「あんた、そんなことに興味あったっけ?」
 先生と同じことを言う。確かについ数時間前まで全然興味なかったけど。
「いいから、どっち?」
「じゃあ、カナダかな」
「なんで?オーストラリアだって良さそうじゃん」
「知り合いの人がカナダに行ったことがあるって言ってたから」
「え、なんでその人、カナダに行ったの?」
「ああ、もうカナダでもオーストラリアでもどこでもいいから、とにかく今は早くお風呂に行って」
「分かったよ、うるさいな」
 私が行ったら寂しい?って聞いてみたかったけど、お母さん、私のこと面倒くさがってるみたいだから聞くのをやめた。最近、いつもお母さんとの話ってけんかで終わってる気がする。

 次の週の塾の日。早速職員室の前に行くと、またあの子が先生の横に立っている。
「ちょっと里奈、バカぐち見てよ!」
「なに?いつも通り、質問してるだけじゃん」
「違う、あの子が来てる服!へそ出し!先週の私と同じだよ。絶対、私のマネじゃん!」
 里奈が職員室の中の方までのぞいた後、にやにやしながら私を見る。
「分かりやすく対抗するねぇ。私、好きだけどな、ああいう感じ。センター取るのに真っ向から勝負する子」
「大嫌いなんだけど、私」
 あの子、私より背が高くて細いから、へそ出しTシャツが圧倒的に私より似合ってる。めっちゃ悔しい。
「で、なんであんたは今日、ジーパンなの?あんたもあの子が得意なワンピースで対抗すればいいじゃん」
「だって先生がカナダに行ってたとか言うから、カジュアルな感じの女の子の方が好きなのかなって思って」
「ダメだね。あんたは逃げてる。負けだよ、負け」
「なんでよ!一週間、何着てくるかめっちゃ考えたんだから!負けないから絶対!」
 里奈が不意に「終わったみたいだよ」って言うから横を見ると、あの子が職員室から出てきた。また目が合ったので負けずにこちらも目を合わせているといきなり私に話しかけてきたからちょっとびっくりした。
「ごめんねぇ、私、松田先生に質問するの長かったかなぁ?」
「ううん、別にそういうんじゃないから」
「そうなの?先週、何か先生に聞いてたみたいだけど。すぐ終わってたけどね」
 そう言い残して、坂口は教室に帰っていった。横で里奈がニヤニヤしている。
「刺すのかと思ってドキドキしたわ」
「カッター忘れてきただけ。次は刺すから。あー、めっちゃむかつく!」
「すぐ終わってたとか言われてるじゃん」
 ワーキングホリデーの質問をしようって思ってたけど、もともと行くつもりないから面白い質問なんか何にも思いついてない。どうしようって思ってたら、先生が机から立ち上がって、職員室の外に出てきた。どこか行っちゃうのかなって思ったら、私の方に歩いてくる。
「伊藤、ちょっといいか?」
「は、はい。何ですか?」
「うん、ちょっと向こうで話していいか?」
 そう言いながら誰もいない塾の玄関の端の方を指さして歩いていくので、私もついていく。離れたところに行くと、先生がもともと大きくない声をさらに小さくして私にささやいてきた。
「あのさ、今週の日曜日、空いてるか?」
「え、あ、はい、大丈夫ですけど」
「じゃあ、ちょっと二人で会えるかな?」
「えっ!」
 腰が抜けるかと思うくらいびっくりした。先生は口ひげを触りながら、少し恥ずかしそうだ。
「あの、誰にも言うなよ、お母さんにも」
「は、はい、誰にも言いません」
 じゃあ日曜の三時に中野駅の北口でな、って早口で言い残して先生が職員室に帰っていった。里奈がなになに?って聞いてくるのでもちろん速攻で話しちゃった。先生からデートに誘われるなんて、こんなこと黙っていられるわけがない。何ならバカぐちにも言ってやりたいけど、邪魔されたらいやだから黙っておく。教室に帰ったらバカぐちがすまし顔でおなかをボリボリかいてた。ざまあみろって心の中で舌を出しておいた。

 もう一回だけ、鏡、見ようかな。玄関に行きかけたけど、洗面所に引き返す。
よし、前髪はばっちり。梅雨に入ってから毎日髪の毛が広がっちゃって嫌で仕方なかったけど、今日はちょっとだけ湿気が少ないみたいだ。
 お化粧も問題なし。中学からやり始めて、途中でヤバイ方向に行っちゃったこともあったけど、今はナチュラルメイクで清楚に見せる術をちゃんとマスターしたから大丈夫。
 水曜の夜に先生にデートに誘われてから、今日までずっと楽しみで楽しみで仕方がなかった。鏡に向かってニコッとしてみる。うん、私、かわいい。だから、先生に誘われたんだ。
 いい気分で洗面所を出たところで、突然、玄関がガチャっと開いてびっくりした。
 お母さん。なんで?
 今日は日曜日。お母さんは普通に出勤日だ。
「どうしたの?」
 日曜のお昼二時前。何もなかったら、こんな時間に帰ってくるわけはない。
「ちょっと熱があるみたいで、帰ってきちゃったの」
「ふーん。ごめん、私、約束があるから、行っちゃうね」
 玄関で私とお母さんがすれ違う。
「あんた、それ着ていくんだ?」
 バレちゃった。別に隠す必要はないんだけど、でもなんとなくお母さんには見せたくなかった。
 今日は二年ぶりにこの服を着ている。水色のワンピース。よくある水色よりも、ちょっとだけ青味が強い。ノースリーブで、白のカーディガンと合わせた王道コーデ。坂口のワンピースなんかに絶対負けない。何なら圧勝。
 お気に入りだったけど、ずっと着てなかった。でも今日はどうしてもこのワンピースを着たかった。お母さんがいない間に出て行って、帰ってくるつもりだったのに。
 そうだよ、行ってきます、とだけ言って、玄関を出た。
 いい気分だったのに、ちょっとだけへこんだ。まぁいいや。今からデートだもん。

 二年前。私が中三のとき。お母さんが、男の人を家に連れてきた。
 真由に会ってもらいたい人がいるの、って初めてお母さんに言われたとき、でもいつかはそういう時も来るんだろうなって思ってたから、そんなにびっくりはしなかった。
 あの日、お母さんがあの人を駅に迎えに行く前、私は家で中学の制服を着ていた。何着たらいいのかなってお母さんに聞いたら、制服でいいんじゃないって言われたので、そうしていた。
 でもお母さんが出て行ってから、なんとなく、制服じゃない方がいいかなって思っちゃった。ちょうど買ったばかりだった、水色のワンピース。今も好きだけど、あの時ほんとに大好きで、毎日、着たくて着たくてたまらなかった。わりと体のラインが出てて着るとなんだかちょっと大人になれた感じがしていた。
 ただいまってお母さんがあの人を連れて、ちょっと顔を赤くして玄関に入ってきたとき、お母さんの顔色がさっと変わったのが分かった。
 私は制服からワンピースに着替えていた。
 家で食事をして、お母さんがあの人をまた駅まで送って家に帰ってきて。お母さんは私にぼそっと言った。
「なんであんた、あの服、着てたのよ」
 その日、お母さんはそれ以外、一言も私としゃべってくれなかった。
 夜、自分の部屋で寝ながら、いろいろ考えた。
 そういえば、一週間ほど前、お母さんが、あのワンピース貸してくれないって言ってた。お母さんが休みの日の水曜日。
 多分、あの日、お母さんはあの人と会ってて、あのワンピース着ていったんだ。
 娘と同じ服を着回しして恥ずかしかったのかな。
 それだけじゃないって思った。
 食事をしてる間、あの人、ちらりちらりと、でもずっと私の方を見てた。
 クラスでバカ騒ぎしてる男子たちが、私の顔とか胸とか、じぃっと見てるのは知ってたけど、バカだなって思うくらいでなんとも思ってなかった。でも、大人の男の人にあんなに見られてる感覚は初めてだった。
 お母さんもあの人が私を見てたの、絶対知ってたはず。
 なんで、ワンピースなんて着ちゃったんだろう。地味に制服着てればよかったのに。
 枕に顔を押し当てながら、いろんな感情が沸いてきて、ちょっと泣いた。
 お母さんも女なんだって思った。
 でも、私も女なんだって思った。
 それが嫌で、でも、心の底の底では、それが嫌じゃなくって。ちょっとうれしくて、勝ったような気がして。そんな自分がまた嫌で。
 もう、あのワンピース着るの止めようって、思った。
 あの人は、結局、私のお父さんにならなかった。

「せんせい」
 待ち合わせの中野駅で、後ろから先生に声をかけた。
 よう、とだけ言った後、こっち行くかと指差しながら、先生がちょっと先を歩こうとする。
 恥ずかしいのかな、横になって歩くのが。
 誰にも会いたくないから、中野にしたんでしょ。塾の子たち、誰も来ないよ、中野になんて。新宿行くか、近場なら吉祥寺だよ。だから、横を歩いても大丈夫なのに。いっそのこと、手をつないでも大丈夫なのに。
 斜め前を歩く先生を後ろから見るとやっぱり背が高い。里奈は全然興味ないみたいだけど、先生、イケメンで背も高いから、坂口や私だけじゃなくて塾の他の女の子たちにもすっごく人気がある。ライバル多いなって思ってたけど、授業中は先生と目が合うように頑張っていつもタイミングを狙ってたし、最近まで中には入れなかったけど職員室の外からはずっと先生のことを見てた。多分、先生も私のことを意識してたはず。でも、先生は全然そんな素振り見せないから、なんでだろうって思ってた。
 だから先生に「外で会えるか」って言われたときはうれしかったけど、ちょっと遅いよって思った。
 親はあんまり知らないと思うけど、塾の先生って、結構、生徒の女の子を狙ってる。私に、外で会わない、って声かけてくる先生、他にもいたもん。
 私、年上、っていうか大人の男の人に好かれる。自分で分かってる。
 だから、松田先生もすぐ声をかけてくると思ったのに、私がその気になってから一年以上経ってた。だから、遅いよって思った。
 でも今日、やっと二人で会えた。今日は本気出して、先生にトドメ刺してやる。だから、着てきたのはこのワンピース。この清楚感と色気で、先生を落とせるはず。
 お母さんには見せたくなかったんだけど。

 ここにするか、って先生が入っていったのは中野の駅から少し離れたところにある喫茶店。ジャズ、っていうのかな、そんな音楽がかかってるお店だ。
 先生がコーヒーを頼むから、私もそれでいいって言っちゃった。本当はコーヒー、苦いからあんまり好きじゃないんだけど。
「悪いな、遠くまで来てもらって」
「ううん、国分寺から中野なんて、三十分もかかんないし」
 それだけ言って、会話が止まる。
 シャイなのも、口下手なのも、知ってるけど。でももうちょっと話してほしい。
 それとも緊張してるのかな、先生。
「ちょっと話したいことがあって呼んだんだけど、でもなんか恥ずかしいな」
 先生は口ひげを触りながら、コーヒーをスプーンでかき混ぜている。
 私に言いたいことがあるのに、なかなか言えないみたい。
 仕方ないな。必殺技、出してあげる。ほんとは、もうちょっと後でやるつもりだったんだけど。
 ちょっと暑いですね、って言いながら、私は羽織ってた白いカーディガンを脱いだ。
 ノースリーブの水色のワンピース。
 ねぇ。私、似合ってるでしょ、せんせい。
 私をちらっと見て、すぐに視線をコーヒーに落とした後、やっと先生が口を開いた。
「あのさ、単刀直入に言うけど、俺、智子さんと結婚するんだ」
 智子さんと結婚?智子さん?結婚?
「智子さんって?」
「お前のお母さん」
 びっくりしすぎて、笑っちゃった。先生とお母さんが結婚?
「え、なに?ちゃんと説明してよ、いつからよ」
 ずっと猫かぶってたけど、もうどうでもいいから話し方もぞんざいになる。大急ぎで、カーディガンを着直した。むしろ寒かったんだよ、この店、エアコン効きすぎてて。先生になんかノースリーブ、見せてあげない。もったいないわ。
「いつからってこともないけど、塾で親子面談があった後、偶然、智子さんが眼鏡売り場で働いてるところで会っちゃって。で、なんとなくかな」
「ちょっと待って。じゃあ先生とお母さんは私の進路の話をしてるふりして、『この人いいなぁ』とか、お互い考えてたわけ?最低じゃん」
「まぁ、そういうことになるよな、お前には申し訳ないけど」
 先生が、いつものニヒルな笑顔に戻っている。
「で、なんで、先生からの報告なの?普通、お母さんから聞く話じゃん、これ」
 そうなんだけど一つだけ先に言っておきたくってな、と言いながら、いつもちょっと猫背の先生が急に姿勢をまっすぐにして、私の目を見た。先生にじっと見られるのなんてめったにないから、ちょっと緊張する。
「うまく言えないんだけどさ、俺、お前からお母さんを取り上げるつもりはないんだ。智子さんにとって一番大事なことはお前のお母さんでいることだと思うし、もちろんお前にとっても大切なお母さんだってことは分かってる。俺は智子さんと結婚するけど、別に無理してお前のお父さんになろうなんて思ってないし、そりゃ仲良くしたいとは思ってるけど、でも智子さんとお前の間に割り込むつもりはない。二人の関係は大事にしてほしい。そのことだけ、智子さんがお前に話す前に俺から言っておきたいと思ってな」

「お布団で寝てないの?」
 家に帰ったら、お母さんがソファでテレビを見ていた。
「ちょっとここで寝てたんだけど、薬のせいなのか、元気になってきたんだよね」
「なんだ、おかゆでも作ってあげようと思って、予定より早く帰ってきたのに」
 うそ。デートのつもりだったのに、先生に話したいことだけ話されて、じゃあなって勝手にバイバイされたから、思ってたより早くなっただけ。
 帰ってすぐ寝たからか、お母さん、お化粧落としてなかった。
 改めて見るとお母さん、きれいだ。中学の時とか友達を家に呼んだら、お母さん美人だね、ってよく言われてた。自慢のお母さんだった。
 そっか、だから負けちゃったんだ。なんでかわからないけど急に吹き出しそうになった。
「悪かったね。でもおかゆじゃなくていいから、何か晩ごはん、簡単に作ってくれる?」
「いいよ、何が食べたい?何でも作る!」
「今日はなんか優しいね。じゃあ、魚の煮付けとかがいいかな」
「。。。え、魚の煮付けって冷凍食品で売ってたっけ?」
「売ってない。冗談、冗談。なんでも真由が作れるものでいいから」
「じゃあ、お魚が食べたいんだったら鮭を焼く!で、卵焼きとお味噌汁!」
「朝ごはんみたい。うん、でもそんなのが食べたいな。作ってくれる?」
 分かった、じゃあ着替えてくるね、って言って、自分があのワンピースを着てることを思い出した。
「ねえ、お母さん、このワンピースどう?」
 なによ急に、似合ってるよ、とお母さんがほとんど私を見ずに答える。
「今度、休みの日に、お母さんもこれ着ていいよ」
「いいよ。水色のワンピースは、私にはもう若すぎるもん」
「そんなことないって。絶対似合うから、着て行って。お母さんのたんすの前にかけとくからね」
 二年前、あの男の人との話、私がつぶしちゃったような気がしてた。
 あれ以来、ずっとお母さんに、悪かったなって気持ちが残ってた。
 だから次、いい話があったときは絶対、お母さんには幸せになってほしい。そう思ってた。
 イケメンで、クールだけど優しい松田先生を取られちゃって結構悔しいけど、でもお母さん、いい趣味してる。
 それと、先生、お母さんを取り上げないって言ってくれた。だから安心した。
 そうなんだ。あのとき、制服からワンピースに着替えたのは、お母さんと張り合ったからじゃない。あの男の人と張り合ったんだ。お母さんを取られたくなかったんだ。
 だって、私、生まれてからずっと一緒にいるの、お母さんだけなんだもん。
 お母さん、あのワンピース、今度の先生とのデートに着て行ってね。
 大丈夫。先生、私が今日、何着てたなんか覚えてるわけないから。
 私のことなんか全然見てなかったもん。むかつくけど。
 だから、着て行ってね。水色のワンピース。
 あのワンピースで、先生にトドメ刺してきて。