今日は蝉の声がやけにうるさい。見慣れた帰り道でふと足を止めて、俺は客のいない洋食屋の窓ガラスに映る自分を見つめていた。三十五歳会社勤め。社会の波に揉まれて、随分と老けた顔は紛れもなく俺のものだ。
 しかし、こんな姿になっても俺は若い頃から努めて行っていることがある。三食を欠かさず摂ることだ。人は飯が原動力だと結婚してから散々言われ続けてきた。残業で如何に疲れていても、風邪を引いた日でも、飯は食う。俺は今日もスーパーに寄って、食材の買い出しを済ませておいていた。

 気を取り直して前へと歩みを進める。今日の晩ご飯は鍋にしようか。そんな呑気なことを考え始めていた。
 信号待ちでの出来事だった。信号が青になり渡ろうとしたとき、右手から微かに伝わる振動に気がついた。
 何かと目をやると、そこには買い物袋からはみ出たネギを素手で掴んで、重機のレバーのようにカチャカチャと動かす女性がいた。
「だっ誰ですかあなたは?」
と吃りながら問うと、彼女は長い前髪の隙間から覗く目を光らせながら、俺に向かってこう言い放った。
「しねぇぇぇぇ」
その瞬間、赤信号を無視した軽トラが猛スピードで俺のスレスレのところを通っていった。冷や汗が止まらない。
 彼女は笑っていた。そして、何事もなかったかのように真顔になった後にこう言った。
「死ぬかと思いましたね。いやぁ、危ない危ない。では、私はこれで」
彼女はそのまま、横断歩道を走って渡っていった。俺はその場に立ちすくんでしまったので、また赤信号に引っかかってしまった。
 あの女は一体誰だったのだろうか。家に帰ってからも生きている心地がせず、食事を作る気になれなかった。
 仕方無しに、俺はそのまま眠ることにした。

 朝起きて、改めて考えてみると、昨日のことは夢であったように思えた。日々の激務が幻覚を見させたのだろう。そうやって自分を納得させることにした。

 今日は快晴だ。朝ご飯は、納豆、白米、お味噌汁。納豆ご飯にして、掻き込んでいると、ふとあることを思い出した。
 玄関の大豆のことだ。私の妻は行事とか、祭り事だとかを嫌う。それは、節分も然りで、外に豆を投げるなど子供のやることだという。しかし、なぜだか鬼という存在は信じ切っていて、物凄く怖がる。
 ゆえに、我が家では年がら年中、玄関や窓などの近くに大豆を盛るようにしている。盛り塩ならぬ、盛り大豆である。一ヶ月に一度ほど大豆を交換するのだが、今回は気づけば一ヶ月半が経過していた。そろそろ交換しないとまずい。俺は常備してある大豆を窓の外の器と玄関の器に盛り変えた。これで良しと時計を見ると、もう家を出なければいけない時間だ。
 俺は慌てて玄関の扉を開けて外に出た。扉に鍵をかけて振り返ると、家の植え込みの前に女性が佇んでいるのが見えた。昨日の女性だ。最悪である。昨日の出来事がフラッシュバックする。一気に血の気が引いた。
 俺は気づかれないように、そ~っと女性の脇を通ろうとした。しかし、通り過ぎたあたりで、後ろから声をかけられてしまったのだ。
「ねぇ、私イメチェンしたんだけど、どこが変わったかわかる?」
振り返ると、女性の鋭い目つきが突き刺さる。本能的に正解しないと殺されると思った。
「えっと……」
冷静に考えよう。昨日の彼女は、前髪が長くて、猫背で、白いワンピースを着ていた。今、目の前にいる女性は、前髪が長くて、猫背で、白いワンピースを着ている。まったく同じではないか。というか、一回しかあったことのない人間の些細なイメチェンなど、気づくはずがないだろう。どこだ……どこが変わったのだ……?
「あっ」
俺は天才だ。ネックレスだ。この茶色のネックレスは昨日は付けていなかった。しかし、茶色というのは珍しいものだな。もっと華やかな色のものが多いと思うが。このネックレスは何でできているのだろうか。俺は目を凝らす。
「大豆……?」
不思議なことに、ネックレスは大豆を繋ぎ合わせたものだった。それに気づいた瞬間、女性は深く息を吸った後に大きな声でこう言い放った。
「しねぇぇぇぇ」
すると、彼女のしている大豆のネックレスが弾けて大豆が四方に飛び散った。そのうちの一つが弾丸のようなスピードで俺の髪を掠めていき、その後にメリメリという音が聞こえた。振り返ると、家の扉に穴が空いていた。恐怖と驚きとが混ざりあった俺は、一体どんな顔をしていただろうか。きっと鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていただろう。まぁ、実際豆鉄砲を食らったわけであるが。
 彼女は腹を抱えて笑っていたが、すぐに真顔に戻って
「死ぬかと思いましたね。いやぁ、危ない危ない。では、私はこれで」
とだけ言い残して、その場を去ろうとした。
 呆気にとられていた俺だったが、なんとか言葉を絞り出し、彼女を引き止めることに成功した。
「お前は一体誰なんだ?」
すると、彼女は振り返ってこう言ったんだ。
「私の名前は、しにぞのじゅじゅ。死人の死に、庭園の園、呪いの呪と、樹木の樹で死園呪樹よ」
彼女はそれだけ言い残して、走り去っていった。

 俺はとてもこの後仕事に集中できるとは思えなかったため、取り敢えず今日は会社を休むことにした。そこで時間ができた俺はじっくり考えて、ある結論を導き出した。
 きっとあいつは死神だ。明らかに俺の命を奪い取ろうとしているし、物騒な名前だった。そうだ。きっとそうだ。だとすると、次会ったときには殺されてしまうかもしれない。早く解決しなければ。

 誰に相談したものかと悩んだが、命が狙われているのだ。近くに警察署があるため、俺は歩いて警察署に相談しにいくことに決めた。ここ二日間で起こったおかしな出来事をまとめた紙を鞄に入れて出発した。

 そしてようやく警察署の前まで来たところだった。不思議な引力が働いた。俺は帰りたくなったのだ。踵を返して帰り道を辿り始めた。

 なぜか、彼女のことを傷つけてはいけないと思った。彼女のことを警察に相談したら、彼女を危険に晒すことになると思った。彼女の前に俺が危険に晒されているというのに。それでも、俺は彼女のことを見逃そうと思った。その思考の根底には、もう一度会いたいという気持ちがあった。
 俺は彼女に確認しなければいけないことがある。それは……。

 俺の中でずっと渦巻いていた違和感が一つの考えを形作った瞬間、俺はふらついてその場に倒れ込んでしまった。
 そこからの記憶はなく、俺は気がついたら自宅のベッドの上で横たわっていた。


 キッチンには、あの女性が立っていた。死園呪樹だ。でも、不思議と驚かなかったのは、彼女の姿が重なったからだ。俺の妻に。
 俺の妻は四年前に白血病と診断され、そこから長い入院生活を経たものの、亡くなってしまった。
俺は声をかけた。
「きっとお前は死神だよな?」
彼女は答える。
「ええ、そうですよ」
俺は続ける。
「そして、きっとお前は俺の愛する人だ」
彼女は微笑んだ。

 グツグツと何かが煮える音が聞こえる。おかゆを作ってくれているらしい。
彼女は俯きながら語りだした。
「地獄の門番にケルベロスがいるように、天国にも番人さんがいるんだけど、その番人さんから現世に三日間だけ戻ってこれる権利をもらったの。でも、三日だけってあまりにも短いじゃない? もっと長くあっちにいられないのかって番人さんに聞いたんだ。そしたら、死神になることを提案された。現世にいる期間を長くすることはできないが、相手をこちら側へ引き込んでしまえば早く、そして長く死後の世界で一緒に暮らせるだろうって」
彼女は俯いたままで話を続ける。
「どうせ、あんたは私がいないとまともに生活出来ないだろうし、番人さんの言う通りにすれば長く一緒にいられると思って、私はあなたの命を奪うためにこっちの世界に来た。でも、実際あんたはテキパキ働いて、しっかり自炊して、私が生前にしていた習慣もしっかり引き継いでくれていた」
俺がそうだろと胸を張ると、彼女はそれを鼻で笑った。
「端からあんたを殺すことなんて私にはできなかった。そうだ、このおかゆも捨ててちょうだいね。私があなたを殺そうと毒を入れたものなの。私ってばほんとに馬鹿ね。もうこの世界にいれないからって、また悪あがきをしちゃった。まぁ、だからさ、のんびりくたばってよ。待っててやるからさ」
彼女はそう言って顔をあげた。彼女の顔は今までと打って変わって優しさに溢れていた。
 そこから、どんどん彼女は薄くなっていって、しまいには消えてしまった。

 俺は火を止めて、残されたおかゆを見つめていた。そして、冷めてしまう前に俺はそれを口に運んだ。今すぐ彼女に会いに行きたい。その一心だった。おかゆは物凄く優しい味で美味しかった。自然と涙が出てきた。こんなに幸せな気持ちで死ねるなら本望だ。

 そんなことを思っていた俺であったが、翌日少し腹を下しただけで、今もピンピン生きている。優しいあいつのことだから、俺のことをまたしても殺しきれなかったのだろう。
 仕方がない。あいつが言ってたようにゆっくり生きて、のんびりくたばってやろう。

 それまでどうか、そっちの世界で元気で待っててくれ。