『……何も言わせずに行くなんて、ずるい』


 残された黒猫は、日の光で温かくなっていく屋根瓦の上でぽつりと呟いた。
 エステラは魔女としての役目を全うしただけ。だから、お礼を言われる側ではない。そう思っているのだろうか、と。黒猫は考える。


 暫くすると、町は朝の活気を取り戻していた。
 パン屋は焼き立てのパンを店先に並べ始め、子どもたちのいる家庭は、早起きした大人が朝食の準備を始めている。その中には昨晩、どこかの店で酔い潰れる前に帰らされた男の姿もあった。不慣れな手付きで働いているが、あれで本当に汚れが落ちているのだろうか。


 黒猫は町を闊歩する。いつもと変わらない光景、いつもと同じ朝。
 しかし、それまでとは一つだけ様子が違っていた。


「あら、今日も早起きなのね。うちでお魚を食べる? ルナ」
「お、その艶々の黒毛はいつ見ても綺麗だねぇ。手入れでもしてんのかい?」
「そんな訳ないだろう。猫は何もしなくても綺麗なんだよ。そうだろ? ルナ」
「ルナは本当に可愛くて賢い猫よねぇ」
「ルナ! 一緒に遊ぼう!」
「……にゃー」


 その日から、黒猫はルナと呼ばれるようになった。黒猫の噂はいつの間にか町の至る所にまで広がっていて、ある日教会を訪れた黒猫は微笑みながら話す神父の言葉に、エステラの思惑を見た。


「やあ、君はこの町の番人なんだってね。ここによく来る町の人たちから聞いたよ。なんでも、『白いリボンを付けた黒猫が、番としてこの町を守っている』らしいって。君のことだったのか」
「にゃ〜」
「賢い猫なんだね、君は。確か名前はルナだったかな。誰がつけたのか知らないけれど、ぴったりだよ」


 神父は静かに空を見上げた。


「……月は闇夜にこそ、映えるものだ。今日は空も晴れているから、夜になればきっと、綺麗な満月が浮かぶだろう。何だか空気が澄んでいる気がするから、今宵は一際輝いて見えるだろうね──」