次にエステラが降り立ったのは、煉瓦色の屋根の建物の上だった。二階建てのその民家は周囲より小高い場所にあり、時計塔程ではないものの、町がある程度見渡せる高さがある。
 その屋根の棟部に、そっと腰を下ろした。もうすぐ夜が明ける。そうすれば、エステラは町に最後の魔法をかけて飛び立つのだ。


「……良い町だったな、活気があって。過ごしやすいし、人も動物も優しくて」


 エステラは記憶の一つ一つをなぞるようにして脳裏に思い浮かべていった。瞼を下ろせば、その時の光景がはっきりと蘇る。この色付いた記憶はそのうち褪せていくけれど、それまでの間はきっと、何度でも思い出して幸せに浸ることだろう。

 この町で起こった全ての出来事が、エステラにとってはかけがえのない思い出だった。例えこの町の全てが、とんがり帽子の少女のことを忘れてしまっても。


「──さて、そろそろか」


 考えごとに耽っていると、そのうち空が白み始める。東から昇る太陽が完全に顔を出す前に、山の向こうの雲の中に隠れてしまいたい。今から飛べば充分間に合うけれど、かなり粘ってしまったせいで、夜明けはすぐそこまで迫っていた。
 エステラは町を魔法にかけた。そうすると、粉雪のように煌めく魔法の欠片が、一瞬だけ町に降り注いで、溶けるように緩やかに消えていく。

 屋根の天辺に立って、もう一度景色を見渡す。そうして最後、藁箒に跨ろうとしたその時。
 背後から聞こえた「にゃ〜」というか細い声に、エステラはぴたりと動きを止めた。振り返ると、そこには見覚えのある黒猫が呼び止めるようにこちらを見つめて立っている。


「よく、ここがわかったね」
『魔女の匂いを覚えてしまったみたい』
「それは良くないな。他の町で魔女に出会ったときに、また突撃するんじゃないか」
『しないよ、もう。番をしてるのはこの町だけだから』


 黒猫は軽やかに屋根の上を歩きながら、エステラの前にやってきた。その足取りからは、この町に住む者としての自信と誇りを感じさせる。どうやら猫は見送りに来てくれたらしい。

 エステラは改めて、素敵な町と出会えたと思った。


『本当に行くの?』
「行くよ。もう朝だから」
『魔女さんが居なくなったら、この町の人間たちは寂しがるんじゃない?』
「大丈夫。私がここを去るということは、この町の空気が澄んだという証拠だ。むしろ喜ばしいことだよ」