雲ひとつない澄んだ夜空。
見上げたそれに、明日はきっと晴れやかな朝を迎えられるのだろうと。食べかけのサンドイッチを片手に、いつになく居心地の良い思いがした。
「……晴れて良かった」
エステラは今日一日、まるで未練を無くすかのように町を歩き続け、そこに生きる人たちの息吹を感じた。
今もこうして立っていると、煉瓦造りの家々から漏れる夕食どきの笑い声や、温かい肉やスープの芳ばしい匂いが、心の奥底に染み込んでくる感覚がする。
一年前の明日、魔女の役割を果たす為にやってきた頃は、全てが今より新鮮だった。その何もかもを、今日にはすっかり当たり前のこととして受け入れている事に、何だか少し笑えてきてしまう。
「どうせ皆、私のことは忘れてしまうのにな」
──魔女の務めは、降り立った町の空気を浄化し、安定させること。
これは数千年前に初めてこの世界に留まった最初の魔女の頃から続いていることで、魔女が生き続ける理由でもあった。その昔、最初の魔女は傷ついた身体でやってきたこの世界で、身も心も救われたのだという。その恩返しをしなければならない。
けれど、魔女は魔女だと、人間相手に名乗ってはいけない。
呪いの類に恐怖する人間もいるから、闇魔法を使わない現代の魔女たちでも、下手な謂れを避ける為に正体を隠して暮らしているのだ。
人間と魔女の時間の流れは違う。だから、エステラにはこれまで、再会を誓った相手は一人としていなかった。
「……パン屋のおじさんのところには顔を出したし、フリダさんのところの三つ子にも会った。ブティックのおばあさんはもうすぐ店を畳むと言っていたけれど、売れ残りが沢山あったら可哀想だから、少し目立つように魔法をかけてあげるかな」
エステラは一つ一つを思い返しながら、やり残したことがないかを確認していく。
周囲はすっかり日が沈み、冬独特の、寂しさと賑やかさの入り混じったような光景が広がっていた。それに少しだけ、切なさを感じている。
明日は、この町を発つ日だ。
魔女は一年かけて、その町の空気を浄化させていく。人間は知らないけれど、それが無いとそのうち瘴気が渦を巻いて町を呑み込み、手が付けられなくなってしまうからだ。そうなれば、そこに住まう命は一つとして本来の寿命を全う出来ない。
それを防ぐ為に、エステラは一年前にこの町に降り立ち、少しずつ魔法をかけていった。それが、今夜で完了するのだ。
「──さて、仕事は全部終わったことだし、町が一望出来るところにでも行こうか」