学校に到着した隅野琴子(すみの ことこ)は真っ先に中庭に向かった。2年になって植物係になった琴子は中庭の花壇に毎朝水をあげるのが日課なのだ。
「あっ…咲いてる」
吸い寄せられた視線の先で昨日は確かに蕾だったチューリップが真っ赤に咲いていたのを発見し、自然と頬が緩む。
‪”‬花が咲いた‪”
それだけで、琴子の心は朝からパァッ…と明るくなっていった。

「じゃあ、漢字ドリル36ページの漢字をノートに書き写して提出して下さい」
1時限目の国語の授業の終わり際。影で‪”‬ハゲツルピッカ‪”‬と呼ばれている国語の担当 高橋先生が手に付いたチョークの粉をパンパンとはらいながらそんな指示を出した。やばい…
琴子はガサゴソ、と机の中に手を突っ込みながら内心焦っていた。高橋先生は…怖い。とても怖いのだ。忘れ物をしたとなれば、それはそれは大変な事になる。どんなにしおらしく、目に涙を浮かべて「忘れました」と言っても「コラーっ!」が、必ず飛んでくる。高2にもなって、琴子の心には‪”‬怒られたくない‪”‬ が未だ色濃く漂っていた。静かにサー、と血の気が引き琴子の顔色はみるみるうちに青ざめていく。そう。そうなのだ…どんなに机の中をさばくっても一向に顔を出さない‪”‬漢字ドリル‪”‬。琴子は今日、漢字ドリルを家に忘れてきたのだ。最悪だ…なんでよりによって漢字ドリル…。視線をさ迷わせ、琴子は暫し考えた。琴子の席は窓側の1番後ろ。つまり…右は壁。前は宮瀬響(みやせ ひびき)。左は空席なのだ。ここで琴子の中で2択が誕生した。
① 高橋先生に怒られる
② 宮瀬くんに貸してもらう
正直どっちも…どっちだった。特に②を想像して、無理だー…と思う。手を伸ばせば届く距離にある男らしい宮瀬くんの背中を見つめて、琴子は無意識に首を横に振っていた。だって、相手はあの宮瀬くんだ。別に、宮瀬くんが意地悪だから、という理由では無い。むしろ宮瀬くんはみんなに優しくて、いつもキラキラしてて、誰とでも分け隔てなく話す事が出来る人。だから自然と宮瀬くんの周りには人が集まる。クラスの人気者で琴子にとって高嶺の花。そもそも容姿がイケメン、というのも人気に拍車を掛けている。そんな彼に…「漢字ドリル貸して」は引っ込み思案・コミュ障・陰キャの琴子に言えるはずがない。と、その時だった​───
いつの間にか体をひねり、振り返って琴子を見ていたらしい宮瀬くんと目が合った。
「忘れたのー?」
意地悪そうに琴子を見つめる宮瀬くんが口元に手をやり、小声でそう囁いた。ば、バレてる…。琴子は視線を彷徨わせながら白状するように恐る恐る頷いた。すると…
「はい」
「え…っ」
なんと……宮瀬くんが琴子の机にこっそりと漢字ドリルを置いたのだ。【名前】の所には、男の子らしいいびつな字で【宮瀬 響】と書かれている。
「俺、もうやったから。どーぞ」
それだけ琴子に伝えた宮瀬くんは体の向きをくるり、と変え、また前を向いてしまった。
「あっ……」

‪”‬ありがとう‪”‬

をすぐに伝えようとしたけど……
「はーい、静かにー!あと10分でチャイム鳴るからー!」
高橋先生が雑談をしていた前方の生徒を威圧的な大声を制し、別に琴子に向けられた注意ではなかったが、ビックリしてしまい、あと一歩で口から出ようとしていた‪”‬ありがとう‪”‬ が瞬く間に喉の奥底に引っ込んでしまった。あぁ……今……、言いたかったかったのに……

モヤモヤが残りつつも、琴子は無事宮瀬くんが貸してくれた漢字ドリルのおかげでノートを提出する事が出来た。……しかし、授業が終わったら伝えようと思っていたお礼が、琴子は、2限が終わっても……3限が終わっても……なかなか、伝えられずにいた。言い訳がましいけれど、宮瀬くんは人気者で授業が終わったらすぐにどこかへ行ってしまうか、誰かに話し掛けられてしまう。とりあえず、漢字ドリルだけは1限が終わってすぐ、宮瀬くんの机に置いておいて、返却する事が出来たけれど肝心の‪”お礼‪”が……。一瞬。漢字ドリルに‪”‬ありがとう‪”‬と書いた付箋を貼っておこうとも思ったがやっぱり、琴子は直接言いたかった。目の前の席なのに…手を伸ばせば…ツンツンすれば…名前を呼べば…きっと振り向いてくれるのに…なかなか…言えない。

そうして時間はあっという間に過ぎ…
「はーい、じゃあホームルーム終わりまーす、あっ、今朝も言ったが、くれぐれも不審者にだけは注意しろよー最近この辺で目撃されてるからなー」
結局。お礼を言えないまま……1日が終わった。弓道部の宮瀬くんはホームルームが終わると本当に素早く教室から出ていってしまった。ガックリと肩を落とした琴子はガッツリ帰宅部なので、さっさと帰り支度を済ませ、帰路についた。アスファルトに映る自分の影が琴子の胸の内を投影しているかのようになんだかモヤモヤと動いていた。明日こそ…言わなきゃ……。
自分に言い聞かせるようにそう決意し、カバンを握る手を強めたその時、グサッ…!と横腹に鋭い刃物がのめり込んでいく感覚と激痛に顔を歪めた琴子は近くの電柱に身を委ねた。
「う‪”‬っ…」
とても自分から出た声、とは思えないような声を発した琴子はアスファルトに腰を下ろし、自分の横腹に触れた。頭が徐々に理解していって、「え」と短く声を上げる。琴子の横腹にナイフが突き刺さっていたのだ。そして傷口からとめどなくドバドバと真っ赤な血が流れ出ている。嘘…、私…刺され……。血なまぐさい匂いが鼻をかすめる。同時にここから走り去る足音がやけに鼓膜に響いた。あ、これ…、死ぬやつだ……。重くなっていく瞼に抗えず、琴子は静かに目を閉じた。

「……きろ…、起きろ……」
どこからともなく聞こえてくる「起きろ」に琴子は「んん…」と唸り声をあげて、目を開けた。
「やっと起きたか」
そこは見渡す限り真っ暗な空間。だけど目の前に青白い炎がポゥッ、と浮かんでこちらを見ていた。空中で優雅にユラユラとしている。これ、人魂……?
まるで催眠術にでも掛かったかのように琴子の手は人魂に伸びていく。そして……指先が微かに触れた時だ。横腹の痛みと自分が刺された事を思い出し、慌てて手を引っ込めた。あれ…私、そういえば、生きて…る?なんかこの空間…死後の世界…みたいな…、そんな感じが、する気が…。琴子は縋るように人魂を見つめた。そして尋ねる。
「私…死んだの…………?」
すると、人魂はよく出来ました、と言わんばかりに満足そうに上下に揺らめき、「正解」と返した。
「やっぱり……」
何となく、そんな気がしていた為か、琴子は特に驚く事もなく、割と平然だった。
「未練はあるか?」
「未練…」
唐突に食らった質問に目を細めて考える。
「そうだ。それがあると地縛霊として一生この世に居る事になる」
‪”‬地縛霊‪”‬というおぞましいワードに、ゾワッと背筋が凍りつくような感覚に陥った。それだけは嫌だ、と心が叫ぶ。でも……きっと心配には及ばない。琴子に…未練はない。
「別に…ない、ですかね」
暫く考えてみたが、本当に見当たらなかった。恋人がいた訳でもないし…、別に……あ。そこで琴子の思考がフリーズする。‪”‬ある人‪”‬の面影がそっと、琴子の心中を陽だまりのようにそっと照らしていく。そうだ。未練……あるじゃないか。貸して、なんて…忘れた、なんて…困ってる、なんて…一言も口に出していないのに、いつの間にか気付いて、漢字ドリルを貸してくれた宮瀬くんに琴子はまだ…”言えてない‪”‬
琴子は意を決して言った。
「漢字ドリルの……お礼を言いたい、です」
「それがお前の未練、か?」
瞼の奥に「忘れたのー?」と意地悪そうに琴子を見つめる宮瀬くんが浮かんできて、気付いたら「はい。言いたい…。絶対、言いたい、です」と口走っていた。
「分かった」
琴子の決意をくんでくれたのか、頷くように上下に揺れた人魂は説明を始めた。
「これから49日間。お前はこの世を彷徨う。勿論。生きている人間にはお前の姿は見えない。言葉も届かない。しかし死者にはチャンスがある」
「チャンス?」
「そうだ。”レボリューション”と唱えると、死者の姿を見せる事が出来る。勿論。言葉も届く。だからその間に、え、と……なんだ?ドリル?だっけか?その、工事道具の礼を言えばいい」
そっちのドリルじゃないし……琴子は内心そう思ったが、黙っておく事にした。てか…それよりも…
「れ…、レボリューション?」
「なんだ?不満か?」
「え、私これから‪”‬レボリューション‪”‬って言うんですか…」
「そうだが」
「誰が考えたんですか、それ」
「知らん。上の人間だ」
「死んでからも上下関係、ってあるんですね」
なんと小っ恥ずかしいセリフなのだろうか、と内心思ったが、上の人間がこれを考えたのならしょうがない。忘れない…とは思うが念の為。‪”‬レボリューション‪”‬を念入りに頭に叩き込む。
「ただし10秒だけだ。1度だけだ。本当に使いたい時に使え。そして。使えば49日間の彷徨いはその時点で終了となる。あと彷徨える範囲は死んだ位置から1キロメートル圏内だ」
「そ…、そうなんですね、分かりました」
肝に銘じて頷いた矢先、人魂の光が徐々に大きくなって、あっという間に琴子の全身を包みこんでいった。

血まみれのアスファルト。点々と配置されたカラーコーン。もう太陽は沈んでいて夜だったが、異様な雰囲気が漂っていた。いつの間にか琴子は‪”‬殺された‪”‬場所に移動していた
ん……?そこで、重要な事を思い出す。琴子は学校からの帰り道。いきなりすれ違った黒いジャンパーを着た男に横腹を刺されたのだ。そう。琴子はただ死んだだけじゃない。‪”‬殺された‪”‬のだ。あれは……きっと立派な殺人事件だ。どうなったんだろう。犯人は捕まったのだろうか。なんて考えてみるけれど今はお礼を言う事だけに集中しよう。考えを改めとりあえず琴子がギリギリ動ける範囲内の学校に行く事にした。向かっている途中。すれ違う人によく、すり抜けられた。すり抜けられると、琴子は少しだけゾワッ、とするが、本当に死んだんだな、と唯一ちゃんとした実感をさせられる瞬間でもあった。

それから琴子は壁をすり抜けてすり抜けて、何となく自分の教室に行った。月明かりだけが差し込む琴子しか居ない教室はシーン、と、していてどこまでも静かだった。夜の学校というのは、昼間の学校しか知らなかった琴子にとって新鮮で意外と楽しく、あっという間に時間は過ぎていき、いつも通りの朝がやってきた。
「ねぇねぇ、昨日のニュース、見た?」
「見た見た〜」
自分の死について話すクラスメイトを朝から幾度となく見掛けた。今日だけはきっと、生前、影が薄いと言われていた琴子の存在が一弾と濃くなった事だろう。琴子は自席で宮瀬くんが登校してくるのを待った。しかしどうしたものか。お礼はきっと、宮瀬くんが1人になったタイミングが最適だ。だってこんな30人以上生徒が居る教室で姿を見せれば、大騒ぎになってしまう。生きていた昨日もそうだったが、死んでからも”タイミング‪”というものを見計らないといけないなんて…。っていうか、人気者の宮瀬くんが学校内で1人でいる場面なんて…あるのだろうか……。人魂に49日間、彷徨う。と言われたあの時は少しだけ長いと思ってしまった琴子だったが、こうして考えてみると、もしかしたら、妥当な時間…もしくは足らないくらいなんじゃないかとすら思い始めていた。
「あっ、響ーおはよー」
やがて宮瀬くんが教室に入ってきた。すぐに友達に話し掛けられている。
「響、昨日のニュース見た?」
すかさず朝から持ち切りのそんな話題に引きずり込まれる宮瀬くんだったが「あぁ…」と素っ気ない返事をしただけだった。いつも元気で笑ってる宮瀬くんのこんな姿は初めて見るものだった。どうしたんだろう。

何となく予想はしていた事だが結局あれから宮瀬くんに付きまとい、タイミングを見計らっていた琴子だが、なかなか言えない。言えないまま……いつの間にか1週間が過ぎていた。
「はぁー」
夜中1時頃。琴子は机に突っ伏してため息を吐き出した。なんか…人望があるってすごいなぁ。ここ1週間の宮瀬くんを観察して、まず思うのはそこだった。どこに行っても、必ず「響ー」って名前を呼ばれて、ほんと……すごい…。
そんなこんなで琴子が死んだ、という点以外は何一つ変わらない普遍的な学校を主に彷徨い続けて、気付けば1ヶ月が経過していた。何事もなく、日々は過ぎそしてついに…、48日目が来てしまった。そしてやっぱり何事もなく、
「それではホームルームを終わります」
48日目の学校が終わっていこうとしていた。
「響ー行くぞー」
安定に宮瀬くんはせっせと教室から出ていってしまう。あとを追い掛けたが、その後も特にチャンスはなく…宮瀬くんは琴子の動ける1キロメートル圏内から友達と出ていってしまった。あぁ…どうしよう。もう明日がラストチャンスじゃん…。項垂れるように学校に戻り、琴子はどうしたものか、明日果たして言えるのか?と頭を悩ませた。

ザーー…
その日の夜 20時頃。窓を打ち付ける雨粒の勢いが半端じゃなく、止む気配がなく無数に降り注ぐ雨に琴子はあっ、と思い、すばやく身をひるがえした。階段を駆け下り、玄関を横切り、外へ出る。生きていたら一瞬でびしょ濡れになる所だっただろう。しかし今は大丈夫。構う事なく琴子は中庭へと走った。3階から1階の中庭まで全力ダッシュしたにも関わらず、疲労感も息が上がる事も無かった。死、とは本当にありとあらゆるものから解放されるものらしい。琴子は花壇に近付き、あるものにそっと視線を置いた。これは生前、琴子が大切に育てていたチューリップだ。毎日、水をやってちょうど殺された日にやっと咲いてくれた事を思い出す。せっかく咲いてくれたのにこの雨じゃだめになっちゃうかな。…グラングランと激しく揺れ動きながらもおきあがりこぼしのように何度も何度も風に立ち向かい、上に向かって咲くその姿に少しだけ、ホッとするが今にも茎がプツリと折れそうだ。だけど琴子はすでに死んでいる。為す術なく無力な自分に腹を立てながらとぼとぼと校舎に戻る。ふいに軽やかな足取りで地面に溜まった水溜まりを弾く足音が聞こえ、顔を上げると……
「え……宮瀬くん……?」
まるでしっかり閉められていない水道の蛇口から水が漏れるかのような声が琴子から漏れる。琴子の視界に入ったのは宮瀬くんだった。彼は傘を片手に、さっきまで琴子が居た花壇のそばでしゃがんだ。
「よしっ、これでいいな」
満足そうに額に付いた水滴を腕で拭った宮瀬くんは傘を2つ持ってきていたのかもう1つの傘をブスリ、と土にさした。もう20時を回っていた。こんな雨なのに…わざわざこの為に?それにこのチューリップの存在…知ってたんだ…
心臓…はもうとっくに止まっているがなぜだか琴子はドキドキという感覚が鮮明にあった。目と鼻の奥の方がツーンと静かに刺激される。だめだ…泣いちゃうよ……死んでから。1度も泣いていなかった琴子の目から涙が溢れ出す。宮瀬くんと関わったのなんて漢字ドリルを貸してもらった時ぐらいなのに…。思わず頬に涙を伝らす。心がジーン、と温まっていくのを感じた。だけどそんな雰囲気をぶち壊すかのように次の瞬間、校門の辺りで人影が不気味に蠢いているのが目に入った。月明かりに照らされ人影の正体が判明したその時琴子は叫んだ。
「宮瀬くん…!逃げて!」
人影がこちらに歩いて来ていた。その人影は……黒いジャンパーに、片手にナイフを握り締めた……琴子を殺した犯人だったのだ。傘もささずにこちらへ歩いてきている。犯人が着実に歩を進め、2人の距離は縮まるばかり。宮瀬くんも気付いたらしく少しずつ後ずさりして、犯人と距離をとろうとしていた。しかしついに犯人が小走りになって、ナイフを振りかざすように宮瀬くんに迫る。
「きゃああ!!宮瀬くん!」
犯人の口角が、グンと、上がった。混乱の中。意味は無いとは思うが、宮瀬くんの前に立ちはだかるように立った琴子は…
ゾワッ、とした​───…
もう何度も味わったこの感覚は……何かが琴子の体をすり抜けた時のものだ。
「いっ……」
次の瞬間。琴子の背後にいる宮瀬くんが膝から崩れ落ちるようにびしょ濡れの地面に倒れ込む。
「宮瀬くん…!!」
宮瀬くんは腕を抑えていた。そこからは血がドバドバと出ている。そして犯人の持つナイフにも血が……。どうやら琴子の体を貫通して宮瀬くんに届いてしまったナイフは彼の腕をかすってしまったらしい。いや、かすったと言っても、すごい血……。地面が赤く染っていく。傷はかなり深いようだった。腕を抑えて倒れ込む宮瀬くんはいつの間にかさっきまで持っていたビニール傘を手放していた。
「もしかしてお前……っ」
そしてまた襲いかかろうとする犯人をハッとしたように見上げる宮瀬くん。琴子の事件はニュースで結構取り上げられてるみたいだから、この人が犯人だ、って気付いたのかもしれない。
しかし犯人は構う事無く、もう一度ナイフ振りかざすように宮瀬くんに迫る。…しかし、流石、宮瀬くんだ。怪我していない方の手で近くに転がった傘を再度手に取って、開いて、それを盾のように犯人に向けた。犯人はつまずいたのかバランスを崩し転んでいる。その間に宮瀬くんは立ち上がり、緊急時用に開いていた非常口から何とか校舎に逃げ込んだ。見事なまでの宮瀬くんの素早い行動と咄嗟の判断にすんなり刺されて殺された自分を琴子は少し恥じた。

ガラ​───────ッ!!!

教室に逃げ込んだ宮瀬くんは勢いよくドアを閉め、教卓の中に隠れる。
「はぁ……っ、はぁ……っ、、っ……」
「宮瀬くん……、大丈夫?」
届かない声、と分かっていながら尋ねた。血だらけの腕に目がいく。痛そう…。顔を歪めて止血しようと必死に腕を抑えるその姿と、ふと、弓道を頑張る男らしい宮瀬くんの姿が重なって、申し訳なくなった。この腕じゃ……しばらく部活は出来ないかもしれない……。なんて考えていると、
コツ……コツ……コツ……
再び廊下を歩く足音が迫ってきていた。
嘘…犯人だ……っ、
どうしよう…このままじゃ……宮瀬くんが……っ、、殺されちゃうよっっ、、。
「やべぇ………」
宮瀬くんも足音に気付いたのだろう。息を潜めて教卓の中でより一層体を丸めた。さっきは奇跡的にかわせたかもしれない。でも腕からの血が凄くて……もうそんなに体力…、残っていない気がする。あぁ、もう……!どうしたら…っっ、迫る足音にどんどん恐怖心を煽られる。
あぁ…。なんで死んじゃったんだろう。
琴子は今この瞬間。自分が死者である事をひどく呪った。どうして自分は死んでしまったんだろう。どうして自分は………宮瀬くんを…助けられないんだろう。自分が無力すぎて、本当に、嫌になる……宮瀬くんは…、こんな引っ込み思案でコミュ障陰キャの私に話し掛けてくれた。気に掛けてくれた。すごくすごく、優しい人…。琴子の心の奥底である感情が沸騰するかのように湧き上がる。
”この人にだけは絶対死んで欲しくない‪”と。ただ、不甲斐なくアタフタとしている琴子は、その時、パニックで忘れていたたった1度のチャンスを琴子は思い出した。あっ……あれなら!!
僅かに希望が宿り、息を大きく吸い込んだ。そして腹に力を入れて叫ぶ。
「レボリューション……!!」
とりあえず……このふざけたセリフを考えた奴を呪いたい!
ガラ​───────ッッ!!!
直後の事。間髪おかず、すごい勢いで扉が開け放たれた。犯人だ。琴子はとっさに黒板の右側面にかかっているさすまたを掴んで、宮瀬くんの前に立つ。こんな道具を自分が使う日が来るなんて…しかも自分を殺した相手に…!さすまたを手にする自分自身はすり抜ける感覚がなかった。思わず口角が上がる。ちゃんとつかめた!すり抜けなかった……っ!この喜びを後ろにいる彼と分かち合いたい所だったがそんな事をしている暇は、ない。迷う事なくさすまたを不審者の腹部に持っていく。
「ここか!出てこ……う‪”‬ッ……」
ちょうどいい感じに犯人の腹がさすまたの凹みにハマり、今すぐガッツポーズをしたい気分だったがそんな事をしている暇は、ない。琴子は犯人の体を思いっきり廊下の壁に押し付ける。そして……
「これこそが…!日本さすまた協会が推奨する!正しいさすまたの……っ、使い方​ーーーーーっ!」
意味の分からない言葉を必殺技の名称の如く叫んだ。どうやら生前、魔法少女物のアニメを見過ぎたようだ。それにしてももっと他にいい感じの叫びはなかったのだろうか。
まぁそれはさておき、こんな道具は初めて使った。力の加減が分からない。とにかく宮瀬くんを助けたい一心で立ち向かったが流石に力を込めすぎてしまったようだ。壁に押し付けた不審者はピクリとも動かなくなった。どうやら気絶したようだ。火事場の馬鹿力的なものを知らないうちに琴子は発揮してしまっていたらしい。
「隅野……さん…っ?」
背後からそんな声が琴子の耳に届く。思わずガタン!と力いっぱい握っていたさすまたを地面に落とした。振り返ると、宮瀬くんが目をまん丸にして驚いた顔して、琴子を見ている。どうやら今は琴子の姿が視えている(・・・・・)みたいだ。その事に気付いた時…、反射的にあっ、言わなきゃ!と慌てて口を開いた。
「宮瀬くん…っ、あの!漢字ド​─────…」

‪”‬リル、ありがとう‪”‬ は…言葉にならなかった。言いきらぬまま。テレビの電源が切れたみたいに。ブチ!と目の前が突然真っ暗になってしまった。どうやら貴重な10秒をほぼ全て犯人を取り押さえるのに、使ってしまったみたいだ。でも…宮瀬くんがあれで助かったのなら、良かったな。だけど、やっぱり…ちゃんとお礼言いたかったな……
私、地縛霊に…なっちゃうのかな​─────…




「きりーつ、れいー
ありがとうございましたー」
気だるそうな号令に、琴子は目を開けた。
え……?
「今日リコーダーのテストじゃん!」
「うーわ、そうだったー。忘れてたー」
いつも通りに聞こえるクラスメイトの声。
しばしばとする目を擦りながら琴子は教室内を見渡した。
「リコーダー、苦手なんだよなー」
「分かるー、マジ無理ー」
そこにはいつも通りの教室の風景が広がっていた。
え。え。……。
もしかして…、夢‪、だったの?全部…、全部?
あの48日目の悲劇も?
「響ー、行こーぜ」
「あぁ」
琴子の頭は未だに混乱の渦中をさまよっていた。だけど‪”響‪”‬という声に顔を上げると、そこには腕なんて怪我していない、いつも通りの宮瀬くんが居た。友達と共に教室から…出ていってしまう所だ。
‪…言わなきゃ!
琴子はガタン!と椅子を引き、宮瀬くんの背中に向かって叫ぶ。
「あ…っ、あの!みっ…、宮瀬…くんっ!」
勇気を振り絞って出した出した声は無事。宮瀬くんに届いてくれたみたいだ。
「ん?」
くるりと向きを変えて、琴子を見つめる宮瀬くん。彼は軽く首を傾げて琴子の言葉をじっと待っていた。
「さっき…っ、その…………」
声が震える。尋常じゃないくらい。これは大勝負と言わんばかりに今今陰キャの底力が発揮されようとしていた。助走をつけるかのように、目をつぶり、大きく、大きく、息を吸う。
「漢字ドリル…貸してくれて……っ、、ありがとう………!!」
教室中に響き渡るほどの声量で尚且つ、深々と頭を下げた琴子は自分でも自分の声量に少しびっくりした。シーンと静まり返る教室。至る所からクラスメイトの視線の攻撃が始まる。一瞬にして注目の的になった。だけど…、それでも構わない。何も言えないまま、言いたいことを言えぬまま、死ぬなんて……後悔するなんて……、嫌だから。。嫌だったから……。
心臓をバクバクさせながら膝に手をついてスカートを強く握りながら未だ頭を下げ続ける琴子に、宮瀬くんは軽やかで、弾むような声でそっと微笑みかける。
「どういたしまして」
宮瀬くんの表情が優しくフワッ、と崩れる。柔らかく微笑んだ彼の瞳に映る自分は、見るからにホッとしていて。とても嬉しそうに、胸を撫で下ろしていた。ぶわぁ…と底知れぬ安堵感に包まれていく。

‪言えた‪​───────。