手術当日の朝は、私の気分とは裏腹に快晴の空が広がっていた。朝からアルバムをなんとなく眺めていた私は、付き添いに来た母親の疲れた顔に胸がわずかに傷んでいた。

 優一のもとから去ったあと、母親と美穂は優一から執拗に問い詰めを受けていた。私が用意した別れの理由は逆効果だったみたいで、母親と美穂は私のことを隠すのに四苦八苦していたみたいだった。

「お父さんももうすぐ来るみたいよ」

「ごめんね、急にこんなことになって」

 困った表情を隠すことなく、母親が手を握ってきた。いきなりのことに両親はパニックになっていたけど、さすがは親というべきか、その後は私のサポートに尽力してくれていた。

「そんなことより、本当によかったの?」

「だから、ちゃんと話したよね? これがお互いにとって一番なんだから」

 今もなお優一のことを話す母親に、笑って返した。母親としては、美穂と同じように二人で解決してもらいたいのだろう。けど、それは何度考えても解決ではなく優一をただ不幸にするだけだった。

 呆れつつもなんとか納得してくれた母親に代わり、看護師さんが麻酔の準備を始めていく。たとえ子宮全摘出したとしても、五年後生存率は楽観視できないと。けど、不思議と手術やそのあとの治療に対する不安はなかった。ただ、あるとすれば今後の人生をどう生きていけばいいかという失望に似た不安だけだった。

 ――優くん、なにしてるかな?

 点滴が始まり、流れに任せるように目を閉じると、やっぱり思い浮かぶのは優一のことだった。

 ――ちゃんと私のこと諦めてくれたかな?

 少しずつ感覚がなくなっていく中、優一の顔を最後に思い出そうとしてみた。けど、どういうわけか二十五年も見続けてきた優一の顔をうまく思い出せず、焦れば焦るほどぼんやりとした優一のシルエットは闇に消えていくばかりだった。

 そのジレンマが顔に出たのだろう、急に母親が私の手を再び握ってなにかを話しかけてきた。けど、母親がなにを言っているのかは、麻酔が効き始めた私にはうまく聞き取れなかった。

 ――お母さん、心配ばかりかけてごめんね

 感謝の言葉も口にできなくなった代わりに、優しく包み込んできた母親の手を弱くなった力で握り返す。大人になっても親を泣かすくらいの心配をかけてしまったことに、心の中で何度も謝った。

 ――あ、お父さん、来たんだ

 母親の手が離れたあと、すぐに大きなぬくもりが私の手を包んできた。どうやら父親もなんとか間に合ったようで、結果的には両親に見守られることになったのが唯一の救いとなった。

 ――お父さん、お母さん、ありがとう

 段々と意識が遠のく中、両親への感謝を心の中で呟いたときだった。

 私の手を包み込んでいた大きなぬくもりが、今度は私の頬を優しく撫でてくる感触をかすかに感じた。と同時に、かろうじて残っていた嗅覚が、あの大好きな油の匂いをとらえた。

 ――え? 

 突然のことにパニックになりながらも、必死で闇に落ちそうな意識をつなげていく。もう目を開けることもできなかった私は、もどかしさと焦りの中改めて頬を撫でる手の匂いに意識を集中させた。

 ――この匂い、やっぱり優くんだ!

 胸に染み入る匂いを感じ、私は今そばにいるのが優一だと確信した。その瞬間、私を襲っていた不安や恐怖、さらには将来に向けた絶望の全てが一瞬で消えていくのを感じた。

 やがて、頬を撫でていたぬくもりが再び私の手を包み込んできた。しかも、今度は両手で私の手を包むように握っているみたいで、その祈るように握られた手からは、優一の優しさと強い想いが伝わってきた。

 ――優くん、嘘ついてごめんね

 優一の気持ちに応えるように、最後の力をふりしぼって優一の手を握り返した。うまく握れたかはわからなかったけど、ただ、優一もさらに強く握り返してきたような気がした。

 ――優くん、勝手なことしてごめんね。私、やっぱり優くんと別れたくないよ。二十五年間、ずっと一緒だったけど、これからもずっと一緒にいたいよ

 優一と別れたときからずっと目をそむけてきたもうひとりの自分の声が、暗闇の中にこだまする。どんなに偽って自分をごまかしたとしても、結局私はやっぱり優一のことが好きでしかなかった。

 そう思った瞬間、張り詰めていたなにかが自分の中で解けるのを感じ、と同時に私は最後の意識を失っていった。