楽しい時間はあっという間にすぎるもので、普段より盛り上がる会話を交わしながら全てを見終わる頃には、閉館の音楽が流れていた。
「少し、話したいことがある」
そろそろ帰ろうか、と切り出そうとしたとき、彼が先に深刻そうな顔で私の手を掴んだ。
「うん」
早く切り上げて早く帰さないと、死んでしまう。
悩んでいる時間でさえ勿体なくて、掴まれたままの手を引いて水族館を出て近くのファミレスに入った。
「どうしたの?」
もう二十時を回っていて、少し焦っている私を他所に、彼はとりあえず、と言わんばかりに水を飲んだ。
「まだ時間あるし、ご飯食べよう」
タッチパネルをスライドさせながら、右上に表示されている時間を見て、まだ三時間あるのならと、しゃんと伸ばしていた背中を背もたれに預けた。
「琴菜は何食べる?」
私の方へ画面を向けて、反対方向から選んでいる彼の些細な気遣いに、胸がぎゅっと苦しくなった。
「ガーリックトースト付きのトマトパスタにする」
本当はじっくり選びたい気持ちをこらえてクリスマス限定メニューとして大々的に書かれていて目につくそれに決めたのも、早く帰るため。
「じゃあ僕は、ハンバーグプレートにしようかな」
画面を二回スライドさせた彼は、少し迷いながらも、一番人気と冠のマークが付いた王道のものに決めていた。
「ここのハンバーグ、美味いよな」
「うん。ソースがいい味だしてるよね」
人もまばらな店内で、知ったようなことを話しながら料理を待つ。
この調子だと、食事の終わりがけに話すのだろう。
しばらくして、店員さんではなく、耳と顔つきの配膳ロボットが、明るいクリスマスソングをかけながら私たちの元に料理を運んで、また同じ音楽を一から流し直しながら帰って行った。
手のひらを合わせて手の冷たさを感じながら、声を合わせて「いただきます」と口にした。
彼と食事を共にするのは、今日のお昼が初めてだった。
料理を幸せそうに頬張る姿は、男女関係なく可愛らしく見えるのだと、今日初めて知った。
まだ熱い鉄板風のプレートをジュウジュウ鳴らしながらソースをかけ、一口大に切り、ふーっと短い息を数回吹きかけ、ハフハフとまだ湯気の残るハンバーグを口にする。
この姿をこれからもこうして見られたらな、なんて、生き別れの母親みたいなことを思った。
「美味しいね」
「な。美味い」
短い会話をして、静かにご飯を食べる。
時は迫り、感情は悲観的になりつつある中で、ハンバーグをペロリと平らげた彼はデザートを頼もうとしていた。
「星矢くん、やめとこう?そろそろ帰らないと、本当に……」
時計を見る。もう時間は二十二時になろうとしていた。今電車に乗らないと、ギリギリアウトになってしまうかもしれない。
好きだから、生きていてほしい。
この溢れんばかりの思いを、好きを使わずに伝えるには、なんて言ったらいいんだろう。
「琴菜は、どれ食べる?」
また、パスタを頼んだときと同じように、今度はデザートが並ぶ画面を見せて切なそうに笑った。
「星矢くん」
お願い、帰ろう。
私がそう話すのに被せて、彼はまるで全ての事情を知っているかのように、口にした。
「今日はゆっくりしようよ。どうせ別れたあとも外で時間潰すんだろ?」
「え……?」
なんで、どうして。
頭の中にたくさんのはてなマークが浮かんで、思考は全て埋め尽くされてしまう。
「僕もだから。どうせ帰ったって、家には入れない。でしょ?」
そんなはずない。彼の名前は名簿に載っていない。悪あがきで見た笹幸家の名簿に、彼の名前は確実に載っていなかった。
「僕、琴菜のことが好きだ」
完全にキャパオーバーの私を他所に、彼は私に告白した。
涙に頬を伝わせながら、それでもまっすぐに私の方を見て、そう言った。
「最初は、殺すために近づいた。六十年前の事件にケリをつけることになった」
彼の話を聞いていくと、あの放火殺人事件を起こしたのは、彼の曽祖父の祖父らしい。
当時友人同士だった彼らは、七十代になってもよく色々な所へ出掛けていたそう。そんな中、クリスマスの前日に大喧嘩をして、翌日、怒りに負けて火をつけたらしい。
「その翌年から、ブラッククリスマスが始まった。だから、もうこれ以上被害者が出ないように、六十年という節目で、父さんが笹幸家皆殺し計画を図ったんだ」
どうやら、彼は何もかも知っていたらしい。
私が必死に隠してきた秘密も、一人で勝手に苦しんでいるその理由も。
「知ってたよ。ずっと。琴菜が笹幸家の一人で、ブラッククリスマスに関わっているって」
私の心を読むように、詰まった蟠りを取り除くように、横に座った星矢くんは温かい手で私の冷たい手を包んだ。
「絶対に好きになっちゃいけない人だって分かってた。好きになったら、もし仮に両思いだったら、お互いが傷つくってわかってたのに」
星矢くんの涙が、私の手の甲に一粒落ちた。
じわっと温かくて、横道に逸れて流れていくその一瞬で、ひんやりと冷たくなった。
「どうしても好きなんだ。殺したくない。生きていてほしい。別に僕は殺されても構わないから、どうしても一緒にクリスマスを過ごしたかった」
彼の手は震えていた。
小刻みに震えて、震える度私の手を強く握った。
「私も、私も星矢くんが好き。殺されてもいいなんて言わないで。私だって、あなたに生きていてほしい」
好きな人を、自分の意思とは無関係で殺さないといけないなんて、残酷すぎる。この先の人生、きっとこの苦しみから逃れることなんてできない。
「逃げよう。今すぐ。できるだけ遠く、ここから離れた場所へ行こう」
彼はカートに入っていたデザートを削除し、片手で私の手を握り、もう片方の手に伝票を持って席を立った。
「でも」
「きっと、絶対大丈夫だから」
星矢くんのその一言は、きっとなんの根拠もないのに、何故か本当に大丈夫なような気がした。
「うん」
ずっと握り返さなかった手を、ゆっくり握る。
彼の骨ばった、いかにも男の子という感じの手に、ドキドキした。
ファミレスを出た私たちは、自分たちの家とは反対方向の電車に乗った。
移動できる時間は、もう二時間を切っていた。
稼働してはいるものの、もう誰も載っていない電車に二人で揺られる。
もしこうなったら。ああなったら。
そんな会話は一切せず、ただ肩を寄せ合い、手を強く繋いで、無言で。どこで下車するのかすら話し合わないまま、ただ縦に、横に揺られていた。
終点という言葉に押し出されるように、電車を降りる。
もう人など歩いていない大きな駅で、一番端まで行ける新幹線の切符を買ったとき、視界が歪んだ。
目の前の星矢くんが、緑と赤が混ざった、エイリアンみたいな色に変わる。
残っている自分の理性で時計を探した。
探さなくても、今ちょうど零時になったことくらい、ブラッククリスマスの真犯人である、放火殺人事件で亡くなった笹幸家の先祖が私の身体に乗り移った感覚でわかるのに。
目の前がチカチカした。息が苦しかった。
どうしよう、このままだと殺してしまう。大好きな彼のことを。
助けて、助けて。
「……たす、けて……」
絞り出すように、「私」が消える前に声にした。
どうしても、彼と一緒に行きたかった。生きたかった。
「琴菜、琴菜。一緒に逃げるんだろ?負けるな」
星矢くんの声が聞こえる。
寒いはずなのに、温もりを感じる。
彼が私のことを、苦しいくらい強く、強く抱きしめてくれていた。
まるで乗り移った霊を追い出すかのように、力強く抱きしめた。
ふっと力が抜けて、視界がはっきりした。
さっきまでのあの大嫌いな感覚は、もう存在していなかった。
「星矢くん……。ありがとう」
未だに抱きしめ続けてくれている彼の背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返す。
私、今すごく幸せだと、心の底から思った。
「琴菜っ……。よかった……」
一度緩めて私の顔を見たあと、また彼の胸の中へと逆戻り。
私も負けじと抱きしめると、彼がいきなり苦しそうに一瞬、唸った。
「星矢くん?どう、した、の……」
彼は私に向かって倒れ込んだ。力が抜けていた。
目の前を遮る物がなくなったとき、その理由がわかった。
彼は、星矢くんは、私の目の前で殺された。
私の母親の手によって、彼はこの世から生を失った。
「ダメじゃない。ちゃんとルールは守らないと」
そう、一人の人を殺めたのに平気な顔をした母親は、誰か別人の声でそう言った。
心が痛かった。今にも張り裂けそうなくらい痛くて、涙が次々に溢れてくるほど悔しかった。
「ほら、行くよ」
驚くほど冷たい手に腕を掴まれて、出口の方へと引っ張られる。
『最初は、殺すために近づいた』
関節が外れてしまいそうなほど抵抗する中で、ファミレスで彼が苦しそうに話していたことを思い出した。
そうだ。……もしかしたら。
心の中でごめんと謝って、彼のカバンの中を漁った。
内ポケット一つ一つに手を突っ込み、底の方を手探りで荒らす。
「あった……」
タオルで何重にも巻かれているそれは、形状からして確実に私が探し求めていたもの。
「ごめんね。私も、そっちに行くから」
あの手の温もりが薄れている彼の手を握り、ナイフを自分のお腹に刺した。
止める人は誰もいなかった。母親の皮を被って私の手を引っ張っていた人は、私の行動を見てどこかへ行った。
遠のく意識の中で、痛みよりもずっとずっと強く、彼を巻き込んでしまった後悔と、苦しみから開放される幸せを感じた。