橋の向こうの君は…

 ゴールデンウィークの始め、僕は車を出して桜子と県外の国営海浜公園に来た。弟妹も連れてこようとしたが、姉に止められ皆で留守番だ。
 桜子は窓の外を眺めては、景色を楽しんでいる。
『女性に年齢を聞くのもなんですが、おいくつですか?』
 桜子は小さく肩を震わせて笑う。
「じゅう、ろくさい、になり、ました。」
 見た目よりずっと幼くて驚く。立ち振舞いも話し方も容姿も、年齢には程遠い淑やかで大人びたものだ。
「そうなんですね。高校一年生?」
「こうこう?、いってない、です。いま、ひとりぐらし、してます。」
 理由を聞こうとしたが、彼女があまりに哀しそうな顔をしたので、やめた。桜子を知れば知るほど不思議な感覚になる。彼女は一体何者なのか。気になるばかりである。

 三時間も車を走らせれば、公園に着いた。入場チケットを買い、公園内をサイクリングするために自転車を借りた。ひらけた丘まで走ると一面にネモフィラの海が広がっていた。
「わたし、このはな、しる、ます……!ネモフィラ、ですよね?」
「はい。花は好きですか?」
「はい……!いえでも、おはな、そだてる、ます。」
 桜子に少し日本語を教えると、彼女はまた言い直す。
「いえでもおなはをそだてます……?」
「はい、上手ですよ。」
「ネモフィラ、きれいです。」
 桜子は端によってしゃがみ、ネモフィラをじっと見る。
「何の花が好きですか?」
「わたし、やっぱりさくら、すきです。」
 儚くふんわり微笑む彼女は桜そのものだ。
「さくらは、かんじかけます。にほん、くるとき、じぶんのなまえ、かんじかけるように、あね、おしえてくれますた。」
「お姉さんがいらっしゃるんですね。」
 桜子は頷くと、両手の人差し指を立てた。
「二人?」
 桜子は横に首を振る。
「じゅういちにん。」
 僕は耳を疑った。彼女は間違いなく一一人と発音したが、そんな大兄弟に出会ったことがないからだ。
「一一人もいるのですか?」
「はい。」
『本当に一一人ですか?』
『そうですよ。』
 思わずフランス語でも聞き返してしまったが間違いないようだ。桜子は面白がって笑っている。
「おにいさまが、ろくにんと、おねえさまが、ごにんいます。」
 彼女は自分が一二人兄弟の一番末だと言った。
「すごいですね。僕も六人兄弟ですが、さすがに。」
「ゆうとさんは、?」
「僕は姉が一人います。あと、妹が三人と弟が一人。」
「いもうとさんと、おとうとさん、うらやましい、です。」
 ネモフィラが咲く丘を去ると、野原のような開けた場所で昼食を取ることにした。
「レジャーシートを持ってきて正解でしたね。」
「たくさん、お店あります。」
「キッチンカーっていうんですよ。何が食べたいですか?」
 桜子は少し驚いたが、真剣に考えだした。
「カレーが、美味しそうです。」
「分かりました。場所取りお願いしますね。何かあったらすぐ来てくださいね。」 
「はい。」
 以前ナンパされているから、一人にするのは憚るが致し方ない。幸いカレー屋から桜子の姿が見える。レジャーシートに女の子座りをして、両手でペットボトルを飲む姿が愛らし……とそこまで考えてやめてしまった。今、彼女のことを愛らしいと思ってしまった。何故か頬が熱くなって、心臓が速い。これは一体……
 ふと視線を桜子に戻すと、彼女と目があった。柔らかく笑ってこちらに手を振ってくる。可愛らしい、そう思うのはやめなかった。自分にも妹がいるし、桜子のことも同等だと考えているのだと思うことにした。
「カレー買ってきましたよ。大丈夫ですか?」
「はい、だいじょうぶ、です。ありがとう、ごさいます。」
 果たして豪邸に住むお嬢様に市販のカレーが口に合うのか……ここに来て心配になってきた。綺麗に米を分けてルーを掬って口に運ぶ。
「っ……!おいしいぃ……!」
 ほっと胸を撫で下ろした。随分気に入ったようで、空腹もあいまり黙々と食べ進めている。年相応の無邪気な笑みが零れている。
「優人さんは、それだけ……?」
「はい。もともと食が細くて、これでもお腹いっぱいです。」
 というのも僕が食べたのはカレーとセットでついてきたサラダと自作の塩むすび一つ。無駄に背は高いが平均体重をはるかに下回る体重に、よく「某細長いチョコのお菓子」みたいと言われる。実際男らしい筋肉はないし、腹なんてちょっと肋が浮いているところもある。
「お病気、ですか……?」
 桜子の顔が暗くなった。
「幼い頃に。今は痩せ体質ですが、至って健康体です。」
 安堵の表情を見せる。
「食べ終わったら、自転車を返しに行きましょうか。」
「あ……かえす、あとも、おはな、みれますか?」
 どうやら桜子はここが気に入ったようだ。
「はい、見れますよ。」
 暗い顔もすぐ晴れる。その時僕は思う。兄妹にこんな感情は抱かない。これはまた別の感情だと思った。色恋的な物語は読んだことあるが、実体験はない。もしや……と思ったが確証がないのもあり考えるのはやめた。
「花が好きなら、また今度別の場所も行きましょうか。」
「いいの、ですか……?!」
「もちろんです。」
 その日は夕方まで公園内を回って、家まで送った。
「ありがとう、ございました。楽しかった、です。」
「こちらこそ。それじゃあ、」
 一日が終わるのが早い。明日には今日が過去になるなんて思えないほど早かった。
「ま、また、会える、ます?」
「桜子さん……ふふっ!もちろんですよ。予定考えといてくださいね。それじゃあ、また。」
「はい。また、今度。」
 僕らは声を忘れて、お互い手を振って別れを告げた。さようならと言うのさえ億劫に感じた。こんなに別れが惜しい人なんて初めてだった。帰路の途中で僕は桜子に恋したのだと確信した。
 車を降りると少し熱くなった頭を冷やすために風を待った。でも、風なんてやっぱり無くて、ただ庭に植えてある小さな桜の木が花びらを降らせて、空はむかついてしまうくらい晴れていた。
 僕、橋本優人に今やっと、春吹雪が訪れたのだった。