その日はよく晴れた。
 私はサオリンに誘われ、手作りのサンドイッチを詰め込んだバスケットを片手に、三角山の展望台を目指して歩いていた。

「けっこう上の方まで車で登ってこれるんだね。子供の頃の遠足って、一番下の登山口から展望台までずっと歩かされてた気がするんだけど」

 先頭を歩くサオリンが、麓の方を見下ろしながら腰に手を当てている。私も後ろからそっと覗き込む。確かに高い。こんな距離を歩いていたのか、と思うと少しびっくりしてしまう。

「確かにそうだったねぇ。遠足は体力づくりが目的だからじゃない?」

「そっか。最近の小学生も同じなのかな。ねぇ、アリサ。どうなの?」

 サオリンは自然な様子で、傍らを歩くアリサちゃんに話しかけた。紫色の小さなリュックを背負い、俯いて歩くアリサちゃんは、無言のまま首を小さく横に振った。

「へぇ、無いんだ! ま、その方がいいよ。下から登ると、結構きついと思うよー。ねぇ、くるみ」

「うん、そうだね」

 会話を続ける私たちを特に気にする様子もなく、アリサちゃんはその小さな歩幅で、一歩ずつ坂道を踏みしめていた。
 サオリンの姪っ子なのだという。
 ピクニックに同行させたい、というのはサオリンからの申し出だった。

「最近、小学校も休みがちみたいでね……。ちょーっと太陽の下に連れ出してやろうかなって思ってさぁ」

 私は二つ返事で頷いた。サオリンは子供のころから、内にこもりがちな誰かの手を引っ張りだしてくれる子だった。私自身、サオリンのそういった気質に助けられてきた記憶がある。ただ一緒に山を登るだけで、私がなにか少しでも力になれるのなら、それはとても嬉しいことだった。

「もうすぐ頂上だよ。あぁ、くるみの作った特製サンドイッチ、はやく食べたい」

「ね。もうお腹ぺこぺこだよ。アリサちゃんはお腹大丈夫? お菓子もあるよ」

 アリサちゃんは首を小さく横に振った。
 口数の少ない女の子だった。けれど、山道を登る足取りはしっかりとしている。俯いてばかりの彼女の視線の先に、真っ白い小さな花びらが綻んでいることに気が付いたのは、つい先ほどの事だ。きっとそれがこの子の感じ方なのだろう、と私は思った。感情の表し方や物事の感じ方はひとそれぞれだ。けれどそのほんの少しのズレが、思いもよらない捉えられ方をしてしまう場合がある。それは私自身が社会で生活する中で経験したことだ。アリサちゃんはどんな気持ちで、今日ここに来てくれたのだろうか。彼女の小さな背中を追いかけていると、胸が締め付けらるようだった。足を進めながら、私はリュックのポケットをさする。そこには紙袋に封をした最後のロリポップがしまわれている。これを持ち歩く事はまだやめられそうにない。たとえ全て空想に過ぎなかったとしても、私にはまだ必要不可欠なお守りだった。

「ほら、こっち!」

 前を歩くサオリンが駆け足になる。展望台が見えたのだろうか。この登り坂を抜ければ、ばっと景色が開けて青空の下に出るはずだ。降り注ぐ太陽の下、三人でサンドイッチを頬張りながらのんびりと景色を眺める。そんなイメージが頭に浮かんだ。
 その時だった。

「キャッ」

 小さな悲鳴が聞こえた。
 視界からサオリンの背中が消えた。
 その目端で素早く動く、黒い影。
 私は反射的に地面を蹴っていた。幼い頃の記憶と経験が、全力で警鐘を鳴らしていた。
 突如、辺りが暗くなる。空には太陽ではなく暗雲が立ち込めていた。おかしい。こんな天気では無かったはず。
 悪寒が背筋を走った。その薄ら寒い感覚には覚えがあった。

「……イービル!?」

 眼前に広がっていく、黒雲のような靄。
 無形の悪意が、うぞうぞと地を這いながらその気配を強めていた。

「アリサちゃん、こっちに!」

 私は山道に立ち尽くしていたアリサちゃんの身体を抱き寄せる。
 小さな身体は硬直して震えていた。その黒い瞳が、真っ直ぐに前方を見つめている。
 アリサちゃんの視線の先には、十字に吊られた体勢でゆっくりと宙に浮き上がっていくサオリンの姿があった。
 あの時と一緒。遠足に出かけた私の目の前で、サオリンがイービルに連れて行かれそうになった時と。

「サオリンッ!」

 大声で叫ぶ。サオリンに反応はない。気を失っているのか。それとも、既に。
 不吉な予感が脳裏をよぎる。血の気が引く冷たさが背筋を伝う。だめだ。取り戻さなきゃ。でもどうやって?
 答えはたった一つだった。
 ここにポプリンはいない。私はもう魔法少女じゃない。けれど、ただここで震えている訳にはいかない。
 イービルを止めなくては。
 サオリンを守らなければ。
 私は、リュックのポケットに手を伸ばした。
 そこにしまわれていた、ぼろぼろの紙袋に触れる。胸の鼓動が激しい。自分の荒い呼吸が嫌にうるさく聞こえる。もしこの中に何も入っていなかったら、思い出の全てが虚な幻でしか無いと思い知らされてしまったら、きっと私はもう正気ではいられないだろう。
 怖い。大切な思い出が”すべて嘘だった”と証明されてしまうのは何よりも恐ろしい。
 紙袋を持つ指が震える。
 躊躇している間にも、サオリンの身体は渦を巻く暗闇の中へと呑み込まれていく。
 ダメだ。このままじゃ……。
 その時、ギュッと何かが私の手を握った。
 アリサちゃんだった。
 潤んだ瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
 戸惑いと恐怖の感情を抱きながら、それでも彼女は確かに私を守ろうとしていた。
 震える私を、勇気づけようとしていた。

(そうだ……)

 私は自らの拳にギュッと力を込めた。

(怖いのは、私だけじゃない)

 しっかりと紙袋をつまみ、封をあける。

(それでも、守りたいものがあるから……)

 ビリ、と音を立てた紙袋に私は指を差し込んだ。爪の先に、触れる感覚。

(私は、信じるんだ!)

 最後のロリポップ。夢色のロリポップ。
 その柄を右手でしっかりと掴み、紙袋から溢れ出した夢色の光芒の中で、私は最後の変身を果たした。