サオリンと久々に顔を合わせたのは、地元にある喫茶店だった。
「でもさ、良かったんじゃない? 仕事、しんどいって言ってたじゃん」
「うん……まあね」
「結果オーライ、結果オーライ。気に病むことないよ。少しはゆっくりできるんでしょう? どれくらいこっちにいる予定なの?」
「うーん……期間は未定、かなぁ」
「最っ高じゃん。今までの分、遊び尽くそうよ。あたし、付き合うからさ」
そう言って、サオリンはニッコリと笑った。唇に引かれた真っ赤なグロス以外は、子供の頃に見た表情と全く同じだった。
休職する事になって数週間。実家に帰ってきた私は、特に何をやるでもなく、通り過ぎて行く日々をただのんびりと過ごしていた。
母の家事を手伝ったり、ぼんやりとテレビを眺めたり、といった感じだ。何かやらなければ、という焦りと気持ちだけはあるのだが、どうにもエネルギーが湧いてこなかった。
だから、こうして気安くお茶に誘ってくれるサオリンにはすごく感謝していた。
「子供の頃みたいにさ、お弁当持ってピクニックとか行こうよ。あの三角山の展望台とか、昔よく登ったよね」
「あ、懐かしい。春の遠足でしょ?」
「そうそう! 今登れるかなー。正直、体力の方が心配だわ」
「……すごくわかる」
そのシンプルな形状から私たちが子供の頃に「三角山」と呼んでいた低山は、学校からの遠足にちょうど良い距離の場所にあった。
だから、何度も足を運んだ記憶がある。
私が「みるくりん」だった、あの頃も。
「……ねぇ、サオリン」
「うん?」
「昔さ。三角山にある望遠鏡の高台からサオリンが落ちそうになった事、あったよね」
「えー、私が?」
「……うん」
サオリンは額に手を当て、あの出来事を思い出そうとしていた。
私はハッキリと覚えている。どこからか現れたイービルの手にかかり、サオリンの意識が乗っ取られてしまった時の事だ。私は「みるくりん」に変身し、サオリンに取り憑いたイービルを撃退した。確かにその筈だった。
「そんな事あったっけ。思い出せないなぁ」
やっぱり。
「……そっか。もしかしたら、別の子の事だったかも。ごめんね、なんか最近昔の記憶があんまりはっきりしなくって」
「ぜーんぜん、気にしないで。私もしょっちゅうもの忘れしてるから」
快活に笑うサオリンに対し、私は曖昧な笑みを浮かべた。落胆している気持ちを上手に隠せていただろうか。正直、自信は無い。
サオリンもダメだった。
誰も「みるくりん」を覚えていない。
地元に帰ってきて、しばらくしてから気付いた違和感だった。
私が変身して救った人や守った物、それに関する記憶が、みんなの頭の中からすっぽりと抜け落ちているのだ。
サオリンのように出来事そのものを忘れてしまっていたり、あるいは他の何かの記憶で上書きされていたり。人々の思い出の中に「みるくりん」は存在していなかった。
私は狼狽した。
ポプリンと共に過ごしたあの日々は、私の宝物だった。かけがえのない思い出なのだ。笑い合った事も、喧嘩した事も、確かに覚えている。
なのに、どうして。
子供の頃、いつも一緒にいたサオリンですら「みるくりん」を覚えていなかった。私はもう、自分自身の記憶を疑い始めていた。
あの頃の私は、本当は魔法少女でも何でもなかったのではないか、と。魔法のロリポップも、ポプリンも存在せず、ただ夢見がちな少女が空想の世界に浸っていただけなのではないだろうか、と。
膝の上に置いていたポーチに触れる。
その中には、最後のロリポップがしまってある。魔法少女ではなくなった私が、ギンガムチェックの紙袋に入れて固く封をしてからもう十数年。あれから私は、今の歳になるまで一度も袋の封を開けていない。袋が色褪せても、ボロボロになってしまっても、中に入ったロリポップを入れ替える事はしなかった。
ただの一度もだ。
きっと私は、無意識に避けていた。
紙袋の中を覗いてはいけない事を、心の奥底で分かっていたのだ。
私はロリポップを長い間お守りとして持ち歩いていた。カバン越しにそっと触れるだけで、あの楽しかった日々に戻れるような気がした。
思い出にして、縋り付いて。けど、それを袋から取り出してウットリと眺めるような事はなかった。
だってそこには、本当は、夢色のロリポップなんて入っていなかったかもしれないのだ。全てが私の作り出した妄想に過ぎなかったのなら、その封を解くという事は、必死に守ってきた大切な夢を、厳しい現実に晒すことに他ならない。
「ちょっと。くるみ、大丈夫?」
気がつくと、サオリンが心配そうな様子で俯く私の表情を覗き込んでいた。
ダメだ。心配をかけてはいけない。
私は精一杯に微笑む。
「あ、全然、大丈夫だよ。ちょっと、ぼーっとしてただけだから」
言いようのない不安を抱えながら、膝の上のポーチをギュッと握りしめた。