あぁ、もう嫌だ。なんで受験なんてあるのだろうか。

 勉強に追われる毎日は、生きている心地がしないよ。寝ても覚めても考えることは、日々迫ってくる受験へのプレッシャーばかり。

 鬱憤が募っていくせいで、前よりも人に対して当たりが強くなってしまった。特に家族。中でも父親との折り合いは最悪に近い。

 お父さんが悪いわけではない。些細なことでイライラしてしまう自分が嫌で仕方ない。でも、どうしようもないくらい私は負の連鎖から抜け出せないでいる。

 お父さんは、普段から温厚な性格で常に笑顔を貼り付けているくらい穏やかで優しい自慢の父親。

 それでも、思春期の上に受験期の私からすると、日常会話でもイラッとしてしまうんだ。

 今朝もちょっとしたことで喧嘩してしまった。いや、喧嘩というより私が一方的に怒っていただけなのだが...

 中学3年生の冬の時期は、世間一般的に見ても受験シーズンの最大の山場と言っても過言ではないだろう。1、2ヶ月後に控えている受験が目の前まで迫っているのだから。

 冬の空気が乾燥しているように、家の中の空気も私のせいかいつになくピリついている。

 4歳年上のお兄ちゃんは、今年の春から大学進学を機に上京してしまったため、我が家には現在父と母、そして私の3人暮らし。

 両親2人とも性格がのほほんとしているせいか、はたまた私を信じきっているのか、受験のことに関して何も聞いてこない。

 友達の両親は、日々「勉強はしているのか」「成績はどうなんだ」と口うるさく言われているらしいが、うちはそんなこと全くない。

 ありがたいと思う反面、私の進路なんてどうでもいいのかと思ってしまう。

 次から次へと欲望という名の我儘が溢れてきてしまうのは、私が思春期だからなのだろうか。

 それとも私の性格に問題があるのか。どちらのなのかは私にはわからない。

春香(はるか)おはよう」

「おー、夏美(なつみ)。おはよう!」

「今日は、学校来るの早いんだね」

「まぁね。珍しく早く起きちゃってね」

 嘘をついてしまった。別に早く起きたわけではない。単純に家にいるのが嫌だったから、つい普段よりも早く家を出てしまった。

「そうなんだ。すごいな〜春香は。私なんて今日もママに起こされちゃった。それで、遅刻しそうだったからパパに学校の近くまで送ってもらっちゃったし。来年は高校生だからしっかりしないとだよね」

「夏美は家族と仲良いんだね」

「うん! 2人とも大好きだからね!」

 ジワリと心が痛む。私だって、両親は好きだ。大好きだ。でも、最近は鬱陶しいという気持ちも否めない。

 私のことを「すごい」という夏美だが、私からすると彼女の方がすごいと思ってしまう。それに、羨ましくもある。

 どうして私はこんなに両親のことを疎ましく思ってしまっているのだろう。去年までは、こんな醜い感情自体私の中には存在していなかったのに。

「そっか・・・羨ましいな」

 ボソッと呟いてしまった一言。

「え、春香のうちは違うの?」

「え、あ、違うよ。仲良いよ」

「だよね〜、よかった!」

 「よかった」それは何に対してのよかったなのだろうか。あぁ、また嘘をついてしまった。本当に自分が嫌いになってしまいそうだ。

 少しずつ賑やかになり始める教室。騒いでいる大半の者が、既に受験を終え後は卒業をするだけの人たちばかり。全く周りのことを考えていなくてイライラしてしまう。

 少しくらいは配慮ってものはないのか。受験が終わった嬉しさはわからなくもないが、まだ教室内には受験を控えているクラスメイトが半数以上いるのだから。

 数ヶ月前までは穏やかなクラスだったのに、最近ではかなり教室内がピリついている気がする。当然その空気を作り出しているのは、受験を控えている者たち。

 私もその中の1人だ。隣にいる夏美もまだ受験は終わっていない。それなのに、夏美からは一切ピリッとした空気が出ていない。私とさほど成績は変わらないはずなのに、焦りというものがないのだろうか。

「ねぇねぇ、なんか教室の空気重いね」

「まぁ、受験シーズンだしね。夏美は全然ピリピリしてないね」

「んー、他人に当たっても意味ないし、当たりたくなる気持ちもわからなくはないけれど、どちらにもメリットないじゃん。お互いが不愉快になるなんて本末転倒ってやつ?だしね。本末転倒の使い方合ってる?」

 口角を上げて笑う彼女。夏美の言っていることは間違いなく正論だ。私だって、できることなら穏やかに受験まで過ごしていたい。でも、焦りと共に妙な苛立ちに襲われてしまうんだ。

 友達には当たることはないが、家族にはいつも以上に厳しく...

「合ってるよ」

 夏美はすごい。私には無いものをたくさん彼女は持っている。例え、それが目に見えない物だったとしても、間違いなくこれからの彼女を大いに支えてくれる物になるに違いない。

 羨ましく思うと同時に、「なんで夏美だけ」と醜い心の内が溢れそうになる。口から溢れてはおしまいなので、グッと歯を食いしばり耐えることに専念する。

 血が出ることはなかったが唇は痛みを伴い、なぜか心も深く傷ついた気がした。

 放課後、外からは後輩たちの元気な掛け声が聞こえてくる。去年までも自分はあの中にいたと思うと、かなり昔のようにも感じられる。

「懐かしいな、部活」

 窓から見る後輩たちの姿は、目標に向けて努力していているのが見てわかるほどキラキラしている。去年の自分が今の自分を見たら、どう思うだろうか。  

 きっと「荒んだな」と思ってしまうはず。現に今の私は荒んでいるのだから。

「はーるか! 途中まで一緒に帰ろ!」

 窓枠に切り取られた景色に夢中になっていたところで、現実へと引き戻される。

「うん。いいよ。途中までってことは夏美、今日は塾?」

「そうそう。行きたく無いけどさ、行かないと高校合格できないかもしれないし、春香と同じ高校行きたいから頑張る!」

「偉いね。私も夏美と同じ高校に行くために頑張らないと」

「切磋琢磨だね!」

「なんかさっきから四字熟語多くない?」

「あ、ばれた? 覚えたことを口にすると、記憶するのが早くなるって言うじゃん?だから、勉強がてら使ってるの」

「そんなことだろうとは思ったけどね〜」

「やっぱり? さ、帰ろっか!」

 話している間に荷物の整理も終わったので、机の上に置かれた見るからにぎゅうぎゅうに詰め込まれたスクールバックを手に取る。

 重たい。毎日教科書を持ち歩くのはしんどいな。私たちの中学校は置き勉禁止なので、毎日持ち帰らないといけない。来年からは置き勉が許される環境であってほしいな。

 高校生なら置き勉くらい許されるよね。たぶん...

 上靴を外履に履き替え校舎の外に出ると、中にいた時よりもさらに、後輩たちの声が高らかに聞こえてくる。

「青春だ・・・」

「え?」

「部活動って青春じゃない?それに比べて私たちは受験・・・はぁ、早く受験終わらないかな」

「ま〜た、ネガティブになってる〜。私思うんだけどさ、春香」

「何を?」

「受験も青春じゃない?」

「え、どこが」

 何を言い出したのかと思えば、途端に訳のわからないことを言う夏美。こんな過酷な状況に置かれている私たちが青春?

 そんなことあるわけない。青春とはもっとキラキラ輝いて見えるものだ。今の私たちなんて輝いてすらいない。むしろ、受験に追われ過ぎて、どんよりと暗いオーラを放っていると言った方が、相応しいだろう。

「今の私たちからすると、受験なんて地獄かもしれない。もちろん、私だって早く終わってほしいと思ってるしね。でもさ、受験って大人になったらほとんどないでしょ?まだ私も大人にはなってないからわからないけど、たぶん大人になったら高校受験も青春だったなって思う日が来るんだよ」

「そうなのかな〜?大人になっても受験はあるじゃん。資格とかでさ。だから、受験に青春感はないと思うけどな」

 今の世の中は数多くの資格で溢れている。資格を取得する度に受験する必要があるのだから、何も受験が珍しいわけでもない。

「まぁそれは言えてる。ただ一つだけ違う点はあるけどね」

「違う点?」

 受験には違いもないも存在しないのでは?中学生だろうと、大人だろうと結局受験というもの自体は...

「周りに仲間がいるじゃん」

「仲間・・・」

「そう、切磋琢磨しあえる同級生がいるじゃん!大人の受験は、ほとんどが1人でしょ?仕事の合間の勉強とか、休みの日に勉強とかさ。受験勉強自体1人なんだよ。でも、私たちは1人じゃないよ。前に先生も言ってたじゃん。『受験は個人戦だけど、受験勉強は集団戦です』って。だから、大人になったらわかると思うよ。あの時、みんなで苦しみながら受験勉強したなとか、私たちの空気ピリピリしてたよねとか。それも全部含めると青春じゃないかな?」

「受験も青春・・・」

 考えても見なかった考えに驚かされるよりも先に感心してしまった。同い年の子が、未来を見据えて話をしているのが純粋にすごいと。

 私1人では絶対に辿り着けなかった回答。

「今は苦しいかもだけど、いつかは笑い話になる日が来るんだよ。それがいつになるかはわからないけどね。焦る気持ちもわかるよ。最近、春香もピリピリしてるの伝わってくるもん」

「え、本当に?」

「うん。家族ともうまくいってないでしょ」

「・・・・・」

 図星すぎて言葉が出ない。一体彼女はどこまで私を見透かしているのだろうか。怖いと思う反面、夏美が友達でよかったとも思えてくる。

「今日帰ったら、明日は休日だからゆっくり話してみたら? 少しは親の考えていることもわかるかもよ?それにさ、春香の両親も待ってるんだと思うよ。春香から話しかけてくれることをね」

「わかるのかな」

「春香なら大丈夫だよ。それに、私も夏頃は両親と折り合いが悪かったんだ。今の春香と理由は同じ! だから、ファイト! じゃ、私塾があるからまた月曜日ね!」

 私が返事をする間も無く、彼女は夕日が沈む方角へと走り去っていってしまった。

 まだ彼女から聞きたいことがあったが、今はやめておこう。月曜日あった時にいい報告ができるように、今は目の前の問題から目を逸らしてはならないんだ。

 最近は、太陽が沈むのが早い。今年ももうすぐで終わりを迎え、新たな年が幕を開ける。思い返せば、1年が1ヶ月だった気がする。

 もうすぐだろう。私たちを濡らす白い粉が空から降ってくるのは。待ち遠しいけれど、降らないでほしい。雪が降ったら、受験はすぐそこまで迫っているように感じられてしまうから。

 背後から迫ってくる家々の影から逃げるように、早足で家への道を歩き始めた。

 絶対に今日は両親と話をしてみせると心に決めて。

 夜が更け、家の中だけではなく外からも音が消えてなくなる時刻。私は自分の部屋の机と葛藤していた。

 結局、家に帰った私は母とは会話をしたものの、父とは一言も話すことなく自室に篭ってしまった。父も何か話したそうな顔をしつつ夕食を頬張る私を眺めていた。

 そんな私たちの様子を母は、父の隣から寂しそうに見ていたのも私は気付いていた。それでも、父と会話をすることはできなかった。  

 父のことは大好きだし、尊敬している。私たちが平和に暮らせているのは、父のおかげだということも頭ではわかっているのに、いざ話そうと試みてもなかなか口から言葉が出てきてはくれない。

 まるで、糸で口を縫われたように閉ざされてしまうのだ。

 何度、机の上に寝そべったり、勉強したりを繰り返し、後悔をしてきただろう。気付けば、日付は土曜日へと変わり真夜中を迎えてしまっていた。

「あぁ、もうどうしよう。お父さん、ごめん」

 自分の部屋で言っても意味がないのはわかっている。わかっているけれど、言わずにはいられない。面と向かって言えたらと思うと、自分が情けなく思えてくる。

 たかが父親と話すだけ。それが、まさかこんなにも難しいことだとは、小学生の頃の私には理解できないだろうな。

 机の上に広げられている数学の参考書。もしかすると、この参考書のどの問題よりも私からすると、父との接し方の方が難しいのかもしれない。

 頭を悩めるのは、勉強のことよりも父のことでいっぱいになっていた。

 机の上に置かれたライトスタンドの光が、私の手元だけを明るく照らす。部屋の電気は消しているため、薄暗いがこの方が集中できるので、勉強する時はいつもこのスタイル。

 ただ今日がいつもと違うのは、先ほどから考え事をしているせいか、勉強が捗らない上に眠気が全くやってこない。そのくせ、お腹だけは減ってしまう。

 何回鳴っただろうか。滅多に夜食は食べないのだけれど、今日に限ってお腹が空いてしまった。

 当然、部屋に食べ物などあるはずもないので、リビングへと降りていくしかない。

 部屋のドアを開け、階段を降りていくたびに空腹感が強まっていく。部屋は暖房で暖まっていたが、廊下や階段は家の中とは考えられないほど冷たい空気が漂っている。

「あれ?なんで明るいんだろう」

 普段両親は、22時過ぎには就寝するはずなので、リビングに光が灯っているわけがない。

 それもリビング全体を照らす眩しい光ではなく、キッチンの上に取り付けられたオレンジの光が、ガラス越しの扉から漏れ出している。

「も、もしかしてふ、不審者・・・」

 一瞬嫌なことが頭をよぎったが、不審者にしては先ほどからリビングがやけに騒がしい。不審者であれば、住居人にバレないために静かに行動をするはずなのに。

 誰がいるのだろう。恐る恐るリビングに取り付けられた扉を開く。暗い廊下に漏れ出してくるオレンジの温かな光。

 その光の下に立っていたのは、私の予想を遥かに裏切る形をした父親の姿だった。

「お、お父さん・・・」

「春香。いや、これは・・・そのだな」

 パジャマの上から母が普段から使用しているエプロンを首から不器用にぶら下げ、手に歪な形をしたおにぎりを握っている父がいた。

「な、何してるの」

「そ、その急にお腹が減ってしまってな。も、もしよかったら春香も父さんの作ったおにぎり食べるか?」

 明らかに動揺しているのがわかるくらい、お父さんの声色は震えていた。思わぬ形で娘と対面したことが、原因なのかもしれない。

「うん。食べる」

 気付けば私の口は動いていた。お父さんと2人きりになれるいい機会だと思った。それに、お父さんの作るおにぎりを食べてみたかった。

 リビングの電気をつけることなく、椅子に腰掛ける。キッチンから灯る光がリビングの闇を侵食している。ほんのりと薄暗いが、これはこれで落ち着く暗さなのでよしとしよう。

 座りながら眺める父の姿は新鮮だった。普段の父は私と同じく、こちら側に座っているはずなのに。

 私たちの間に会話はない。でも、今だけはその時間が心地よかった。父が必死におにぎりと向き合っている姿は、少しだけ私の心に温かさをもたらしてくれる。

 不器用なりに手の至るところにご飯粒をつけ、顔にまで数粒くっついてしまっている。

「もう少しだけ待ってくれよ」

 お父さんの小さく低い声が、私に向けられる。視線が交わることはない。私は父から目を離さずにいるが、父は目の前のおにぎりに集中することしかできないのだろう。

「うん」

 父に私の返事が聞こえたかはわからない。ただ懸命におにぎりを握っている父の姿は、たくましく、そして温かみのあるものだった。

 リビングに来てから5分が経とうとしていた。未だに父の作るおにぎりは完成しない様子。作ったことはないが、おにぎりとはそんなに時間がかかるものなのだろうか。

 お母さんは、2分。いや、1分もあれば綺麗に作れていた気がするけれど...

「で、できたぞ!」

 嬉しそうな声が、またしても私に向けられる。交わる視線。今度は父と目が合った。一体いつぶりだろうか。父と目が合うのは。意識していなかったが、数週間は合っていなかった気がする。

 久しぶりに見た父の目は穏やかで、私の記憶の中にいる父よりも遥かに柔らかい目をしていた。

 皿に乗せられて運ばれてきた3つのおにぎり。リビングが冷え切ってしまっているせいか、おにぎりから湧き上がる湯気が視認できる。ほくほくと真っ白な湯気が、私の顔を温める。

 どれも形は歪で、とてもじゃないけれど美味しそうな見た目はしていない。それなのに、なぜこんなにも食欲が掻き立てられるのだろう。

「よし、食べようか」

「うん」

 2人で向かい合わせに座る。今までの私であれば、絶対にあり得ない光景だ。でも、今は不思議と落ち着くし、この時間がもう少しだけ続いてほしいと思ってしまっている。

『いただきます』

 2人の異なる声が重なり、空いた口に運ばれていくおにぎり。私が食べる様子を不安な様子で眺めている父。

 そんなに見られていては食べにくい。口いっぱいにおにぎりを詰め込み咀嚼する。んー、おいし...

「お、お父さん! 何これしょっぱいよ!!」

「え、どれどれ・・・うわっ。なんだこれしょっぱいな。とてもじゃないが食べられないな。春香、食べなくていいぞ。体にも悪そうだし。すまんな。父さん、おにぎりのひとつも作ってやれなくて・・・」

 見るからにしょんぼりとしてしまった父。作っているときは楽しそうだったのに。口の中は、水を欲していたが私は構わずに父が作ってくれたおにぎりに齧り付いた。

 何度も食べるうちに口が慣れてしまったのだろうか。ものの数秒でおにぎり1つ食べ終わってしまった。当然、私を見る父の目はまん丸にして驚いていた。

「しょっぱいけど、美味しいよ。お父さんの作ったおにぎり」

「春香・・・ありがとう。残り1つは父さんが食べるから・・・」

「私が食べてもいい?」

「え、いいけどしょっぱいぞ?」

「いいの、お父さん。おにぎりさ、自分が食べるためじゃなくて、私のために作ってくれたんでしょ?」

「え、なんでそれを」

「だって、お父さんは少食だし、わざわざ就寝した後におにぎりなんて食べる人じゃないじゃん。私の予想だけど、私が勉強しているのを知って、お腹が空くだろうと思って作ってくれてたんでしょ」

「そうか。春香も大人になったんだな。バレちゃったか・・・」

「ふふ、バレバレだよ。お父さん、今までごめんね。私自分のことばかりで、お父さんとお母さんに当たってばかりいた。本当にごめんなさい」

 フッと声を漏らし、穏やかな表情になる父。あぁ、そうだった。私はお父さんのこの優しい顔が小さい頃から大好きだったんだ。

 私が転んで泣いた時や辛いことがあった時は、いつも父がこの顔で私を慰めてくれた。思い返せば、私はこの顔に守られて大切に育てられてきたんだ。

 ごめんお父さん。何度も心の中で謝罪の言葉が繰り返される。

「いいんだよ。それが、春香が成長した証でもあるからね。私たちは親だ。どんなことがあろうと、大切な娘ってことに変わりはないし、父さんの命以上に大切な存在なんだよ。だから、父さんは大丈夫さ。少し寂しくもあったけれど、こうしてまた春香と向き合うことができたからね。それこそ、父さんも謝らないといけない」

「どうしたの?」

「親なのに、春香から逃げてしまっていたよ。どう接すればいいのかわからなくてね。ごめんよ春香。1人で抱え込ませて申し訳ないと思ってる。これからは父さんがどんな時でも側にいる。だから、春香は安心して自分の進みたい道に進みなさい。父さんは春香を1番に応援しているからさ」

「お父さん・・・」

「さて、父さんは明日予定があるから寝るとするよ。おやすみ春香」

 椅子から立ち上がり、リビングを出て行こうとする父。

「お父さん、おやすみ。それと、ありがとう!」

 ニコッと嬉しそうに笑ってリビングを出て行った父の顔を私は一生忘れない。

 やっと、胸に秘めていた言葉を言うことができた。自然と心のとげは無くなり、目から少量の涙が頬を伝う。

 皿に置かれたおにぎりを口へと運ぶ。

「あぁ、やっぱりしょっぱいよ・・・」

 父のいなくなったリビングは、静かで温かみが少しだけ失われた気がした。でも、今は1人でよかった。泣きながら、父の作るおにぎりを食べている姿なんて見られたくはなかったから。

「ありがとう。お父さん。そして、これからもよろしくね」

 そっと呟いた私の声が父にも届いていればよかった。届いて欲しかった。しかし、私の声が父に届くことはなかった。

 1年が終わり、もうすぐ春が訪れる3月。私の受験が目前の時に、父は急性心筋梗塞によって49歳という若さでこの世を旅立った。

 

「お父さん、久しぶり。元気にしてる?私はね、今年で18歳になったよ。進学先の大学も決まって、来年からは大学生だって。お父さんからすると、あっという間だよね。でも、私は長かったよ。お父さんがこの世を去ってから、ここまで来るのは本当に大変だった。何度も後悔したし、話したいことだってたくさんあったのにさ、お父さん突然いなくなるんだもん」

 父が亡くなってから、3年の月日が経過した。ついこの間、私は3年間通いつめた高校を卒業した。そう、父が亡くなった直後の受験で見事に合格を勝ち取った高校だ。

 今でも思う。よくあの時合格できたなと。父を失ったショックで、私は完全に心が折れかけていた。そんな折れかけていた私を救ってくれたのもやはり、父の言葉だった。

 私と父以外知らないあの日の夜に話した父の言葉が、私を勇気づけ未来を切り開いてくれた。あの夜がなかったら、私は間違いなく腐りかけていただろう。

 父に対する後悔に押しつぶされる毎日を過ごしていたと思う。

「あの夜に食べたお父さんが作ったおにぎりは、私が今まで食べてきたどんなものよりもしょっぱかった。でも、世界一温かみのある優しいおにぎりだった。今でも私はあのおにぎりの味を忘れることはないよ。またあの味が恋しくて、自分でも作ってみたりしたけれど、あの味にはならなかった。一体どんな魔法をかけたの?」

 もちろん父から返事が返ってくることはない。目の前に佇む黒い石碑に父は眠っている。毎年、命日になるとここへは家族3人で訪れていたが、今年は各々時間が空いている時に来ることになった。

 お母さんは、先に来ていたらしく既に花が何輪か供えられている。お兄ちゃんはきっと私の後に来るのだろう。東京からここまで来るのにも時間はかなりかかってしまうので、早くても夕方頃だろう。

「ねぇ、お父さんそっちは寂しくない?私は寂しいよ。お父さんのいない家はパズルのピースが幾つも抜けたみたいに、ポカリと穴が空いたみたいでさ。ようやく最近はお父さんとの思い出を懐かしめるようになったんだ。前までは辛くて泣いてばかりいたけど、今ではお父さんと過ごした日々のひとつひとつが私たちにとって大切な思い出なんだよ」

 鞄の中からあるものを取り出し、お父さんのお墓に供える。ラップに包まれたそれを丁寧に剥がして、いつでも父が食べられるように。

「私も作ってみたよ。お父さんが作ってくれたおにぎりを真似てね。でも、お父さんのおにぎりみたいに歪な形にはならなかったや。ただただしょっぱいだけのおにぎりだね」

 あの夜と同じように皿に3つ供えられたおにぎりを間に向かい合う私たち。

「お父さん、ひとつもらってもいいかな?」

 自分で作ったおにぎりを手に取り、口の中へと頬張る。頬から流れる涙が口の中へと入りこんでいく。

 あぁ、しょっぱいな。懐かしい味が口いっぱいに広がる。

 お父さん。私のおにぎりはどう?あの日と同じ味かな。たぶん、そうだよね。

 離れていた私たちを繋いでくれたのは、このしょっぱいおにぎりだった。そして、またこのおにぎりが私たちの関係を深め、繋いでくれた。一生忘れることのない思い出のひとつとして。