太陽が地平線に傾き始めると、世界はゆっくりと燃えるオレンジ色に包まれた。じりじりとした焦燥感に苛まれながら長い一日が終わっていく。

 何の進展もない状況に皆が待ちくたびれたころ、突如として、大地を揺るがす重低音が、一行の骨の髄まで震わせた。

「な、何だこれは……?」

 大天使は不穏な予感に身を震わせ、冷汗を浮かべる。

 直後、深淵のような闇がチャペルを静かに飲み込んでいった。

 へっ!? 何!?

 あわてて外へと目を向ける一行。

 そこには積乱雲が渦を巻きながら巨大な塔のように天に向かって成長しており、ときおりパリパリと煌めく青い雷光が不穏な美しさを放っていた。

 突如現れた視界を覆いつくす巨大な積乱雲に、一行は不安そうに互いの顔を見合わせる。その十キロはあろうかという巨大積乱雲は、まるで生きているようにゆっくりと回転しながらモコモコと育っていく。

 轟くような風が吹き荒れ、美しき花びらたちはきらめく金粉のように舞い上がった。堂々たるチャペルは、その突風に身を震わせ、ギシギシと古木のようにうめきを上げる。

 ゴロゴロと大地を響かせるすさまじい重低音の雷鳴は、まるで終末の序曲のように恐怖に固まるみんなを更なる絶望へと導いた。

 雷を身にまといながら一行の頭上に迫る積乱雲の姿には、何者かの意志が働いているような気配を感じる。きっとヴェルゼウスだろう。

「はーい、お待たせしました。どうやらおいでになられたようですな。くふふふ……」

 いきなり官吏が戻ってきて空中でくるりと回り、薄暗い影の中で一筋の冷やかな微笑みを見せた。

「あれが……ヴェルゼウス様?」

 オディールは恐る恐る積乱雲を指さす。

「さよう! あれこそがヴェルゼウス様の居城【穹霄の雷塔(ボルトブリス・ピーク)】、天空の要塞ですぞ!」

「えっ!? 雲の中になんて住めるの?」

 驚きで目を見張りつつ、オディールは小首をかしげた。

「かーーっ! これだから人間は……。雲は身にまとっとるだけだ。中はそれはそれは立派な城なんだぞ?」

 官吏は胸を張って誇らしげな微笑みを浮かべた。

 目を凝らして見てみると、確かにゆったりと回るすじの入った側面の奥には幾何学的な模様がうっすらと透けており、雷光が走ると浮き彫りにされる。あれが窓や出入り口なのかもしれない。

「あのモコモコと湧き上がっているのも建物?」

 オディールが指さすと、官吏はニヤッと笑う。

「ふふっ、聞いて驚け。あそこはなぁ、死者の魂が群れをなし永遠の安息を求める聖域、鎮魂の儀式が行われる聖所さ。ヴェルゼウス様の世界では毎日数千万人の命が途絶える。それは老衰にせよ、突然の災禍にせよ、不慮の事故にせよ、亡くなれば必ずここへと導かれる。ここでヴェルゼウス様の神聖なる儀式を経て、再び命の源泉、生命のエリクシルへと昇華させられるのだよ」

「えっ!? あれみんな死者!?」

 目の前に広がる天を突く積乱雲は、ただの気象現象にあらず。そのモコモコと盛り上がっていくところは、終わりを迎えた魂たちが形作る聖所だった。オディールはその驚異に、心の奥から溢れるため息を抑えきれなかった。死者も、自分の魂がこんなにも壮大な自然の彫刻を作り出すとは思ってもいなかっただろう。

 その時だった。空は突如、激しい光と共に割れるような轟音を放ち、雷が地を裂く。チャペルは閃光に呑まれ、そして世界が震えるような激震が大地を駆け抜けた。

 うわぁ! ひぃぃぃ! キャーー!

 絶大な衝撃がみんなの骨まで突き抜け、身を縮める。

 カツカツカツ。

 やがて訪れた静寂の中、確かな足音が敬虔なチャペルに響いた。

 へっ!?

 オディールが顔を上げると荘重なローブをまとった男たちが、あたかも次元を超えた旅人のように壁をすり抜けながら次々と入ってくる。

 官吏は緊張を帯びた面持ちで、杖を携えた堂々たる男を壇上へと導いた。そのヴェルゼウスと思われる筋骨たくましい男は、尋常でないオーラを放ち、ただ座るだけで周囲を圧倒する。従者たちは、ベージュのローブを着込み、まるで軍隊のように椅子の後ろで直立不動の姿勢で、厳かに並んでいった。

 ヴェルゼウスは金彩の細密な刺繍を配したマジェスティックブルーのローブを力強くはためかせ、その厳しいまなざしで一行を圧倒する。

「お前らか、ヴィーナのところから来たという衆生の者どもは? ん?」

 ついに運命の時が来た。数兆人に及ぶ人々の運命はこれからの交渉にかかっている。

 大天使はすっと前に出てひざまずく。

「はっ、女神ヴィーナに仕える者達でございます。この度はお時間を取っていただき……」

「そういうのはいい。本題を言ってくれ。こっちも忙しいんでな」

 不満を丸出しにヴェルゼウスは頬杖を突き、冷ややかな眼差しで大天使を眺める。彼の眉間に刻まれた小さなしわは、ここに居ること自体が一種の苦痛であることを物語っていた。

「はっ! 失礼しました。この度、女神ヴィーナの統べる世界は不可思議なアンノウンの襲撃を受け数百億人の死者を出し、女神ヴィーナも落命。今は世界を凍結しております。ついてはヴェルゼウス様のお力でアンノウンの討伐と女神ヴィーナの再生をお願いできればと……」

 フン! と鼻で笑うヴェルゼウス。

「ワシに何のメリットがあるのかね? ん?」

 微かに灯っていた希望の炎は無慈悲に吹き消され、一行は過酷な運命の渦中へと叩き込まれた。ヴェルゼウスにとって、ライバルとも言える後輩の自滅は好都合であり、手を貸すべき時ではなかったのだ。