「失礼します!」

 ノックに続いてドアが静かに開き、現れたのはひげをたくわえたアラサーの大天使だった。彼のクリーム色のローブは光の粒子をまといながら優雅に揺れ、空間に神聖な静寂をもたらした。しかし、オディールの足元に無残に倒れている女神の姿を目にした瞬間、その温かみのある瞳が驚愕の色に染まった。

「め、女神……様?」

「わ、私じゃないですよ? 私呼ばれてきただけですからね?」

 オディールはワタワタと慌てた様子で声を上げる。

 大天使は駆け寄って女神のそばにひざまずき、彼女がもはやこの世にいないことを確認すると、声なき絶望の叫びとともに頭を振った。

 えっ……? そ、そんな……。 う、うわぁぁぁ……。

 いきなり訪れた終末に神殿のスタッフたちは打ちのめされ、その場に崩れ落ちる。疑問、絶望、受け入れがたい現実への抵抗が渦巻く彼らたちの嗚咽が、部屋に静かに響いた。

 だが、画面には今この瞬間にも残酷な報告が流れ続けている。

「あのぉ……、緊急ボタン押しましょうか?」

 オディールは壁の赤いボタンを指さし、おずおずと進言する。

 これはシステムの緊急停止スイッチ。押せば女神の管理下にあった海王星系の空間はすべて動作を停止し、時間が止まった状態となって凍結されるようになっている。

 重々しい沈黙の中、大天使は悲しみを帯びた目でゆっくりとうなずき、肩を落とした。

「了解デス! ポチっとな!」

 オディールは景気よく、目にも鮮やかな赤いボタンをひっぱたく。

 ヴィーン! ヴィーン! けたたましくサイレンが鳴り、海王星内のジグラートのシステムは一斉に動作を停止する。

 余った膨大な電力が一斉に熱となり、ボッシューー! という壮絶な蒸気の嵐が噴きあがる。すべての地球の時が止まったことがこれで確定したのだった。

 直後、パシューン! という空間を裂くような破裂音とともにオディールら一行は未知の異世界へと吸い込まれ、周囲の全てが未知の色彩と音に溢れた。


         ◇


 その頃、ムーシュは――――。

「あれ……、ここはどこ?」

 ムーシュは黄金色に輝く光の世界をふわふわと漂いながら辺りを見回した。光に満ち溢れたその世界にはゆったりと光の雲が漂い、ところどころ半透明に透けた人がスーッと流れている。

 え……?

 ムーシュは自分の手を見て、自分も透けていることに気がついた。

「あぁ……、死んでしまったのね……。主様はどこかしら……?」

 頭に霞がかかってしまったようにうまく考えがまとまらなかったが、あの状況では蒼も死んでしまっただろう。であればきっとこの死後の世界のどこかにいるに違いないと、キョロキョロと辺りを見回した。

 しかし、意識を蒼に合わせてみても蒼の存在らしきものはどうやっても感じられない。次にレヴィアに合わせてみると、近くに存在を感じることはできた。

 どうやら蒼は死んでいないらしい。ムーシュはそれだけでなんだかうれしくなって思わず涙をポロリとこぼした。

 あの絶望的な状況からどうやって蒼が命をつないだのか分からなかったが、自分の死も無駄ではなかったと思えてくる。

 しかし……、自分はこれからどうなるのだろうか? ムーシュは心細くなりレヴィアの方へツーっと飛んでみた。

 光の雲を越え、ふわふわと飛んで行くと、レヴィアらしき少女が何やらもがきながらゆったりと風に流されている。

 ムーシュが声をかけようと近づいて行くと、いきなり強烈なスポットライトがレヴィアを包む。

 うわぁ!

 思わず顔を覆ってしまうムーシュ。

 そして、レヴィアの存在感がすぅっと消えていくのを感じる。

 え……?

 恐る恐る目を開けると、そこにはもうレヴィアは無かった。

「レヴィア……さん……?」

 あの鮮烈な光には心を温かくするような神々しい波動があった。もしかしたら神の声がかかったのかもしれない。

 ムーシュはまだ物語は終わっていないのだと思った。神々のドタバタに巻き込まれた自分にも声がかかる時が来るかもしれない。

 あの蒼のプニプニしたほっぺたにもう一度頬ずりしたい……。

 ムーシュは両手を組んで一心に、もう一度蒼に出会えることを祈った。


        ◇


 ところ変わって、とある異次元空間。

 緊急ボタンを押したオディールたち一行は、その見知らぬ空間へと飛ばされてきた。

 ドサドサドサッ――――。

 いてっ! うわぁ! ひぃ!

 一行はいきなり薄暗い洞窟に落とされ、彼らの悲鳴が洞窟の奥深くに響き渡る。


 洞窟はどこまでも伸びる不思議な世界への入り口のようだった。岩肌は濡れており、冷たい水が滴り落ちる音が、この閉ざされた空間にひびきわたる。壁には、夜空の星のようにぽつぽつと赤いキノコが光り、ぼんやりとした視界を提供していた。

 ここは……?

 オディールがキョロキョロと見回す。

 元いた世界はすでに凍結されてしまっているはずなので、もう戻れない。しかし、こんな洞窟では希望を見出すこともできず、皆の胸には言葉にならない不安が渦巻いていた。

「どうやら次元の狭間のようだな。どこかにイミグレーションがあって、審査に通れば上位世界へ入れてもらえる……まるで難民だな」

 重い沈黙を破るように、大天使は心なしか声を落とし、打ちひしがれたトーンで話し始めた。

「審査に……落ちたら?」

「一生洞窟の中だ! 言わせるな!」

 怒りに満ちた大天使の目が、オディールを射抜くようににらむ。

 オディールは恥ずかしげに身を縮めた後、いたずらっ子のように応じてペロリと舌を出した。


     ◇


「本当にこっちなんですかぁ? なんだか暑いんですケド?」

 オディールは額の汗を(ぬぐ)い、はぁと深いため息をつきながら大天使に目を向けた。

 小一時間ほど洞窟を進んできた一行だったが、蒸し暑く気温も上がってきて疲労が見える。

「以前、女神様は『登る方向に進むといい』とおっしゃっていた。死にたくなければキリキリ歩くんだな!」

 大天使は汗だくになりながら、不快感を隠すことなくオディールをにらんだ。

「はぁい……。……。あっ何かある!」

 薄暗がりが支配する洞窟の先、オディールは薄明かりが射し込んでいるのを目ざとく見つけ、躊躇なく駆け出した。

「あっ! おい! 勝手に走るな!」

 大天使は叫ぶが、好奇心に駆られたオディールは止められない。

 息を切らして駆け上がったオディールは、信じがたいほどの幻想的な風景を見て息を呑んだ。そこに広がるのは広大な地下空洞で、その中心には一本の巨木が、まるで全てを見守る守護者のように(そび)え立っていた。その木は葉を一切持たず、枯れたようにも見えるが、熱い湯の池に根を張り、意思を持っているかのように纏う光を揺らめかせ、垂れさがる枝からは奇妙な果実を実らせていた。

 おぉぉぉぉ……。

 オディールは駆け寄ってその巨木を見上げ、感嘆のため息を漏らした。幹には長い時を経た風格が刻まれ、それでもなお、纏う輝きに生命の脈動が強く感じられた。

 オディールはこの木が、生命の循環と新たな始まりを表しているのかもしれないと感じ、畏敬の念を抱く。もしかしたらこの一見死んでいるような木が、実は彼女に新しい道を教えてくれるのかもしれない。