「この先がサイノンの空間じゃ、入ってみろ」

 レヴィアは少し疲れた様子で首を回しながら言った。

「は、入るって……」

 蒼はおっかなびっくり岩の面に触れてみるが、硬い岩は到底通れそうにない。

「あー、お主らは悟りなき衆生(しゅじょう)じゃったか……。うーむ」

 レヴィアは腕を組むと、深い溜息とともに煩わしげに首をひねった。

「僕ら一般人なんだよね」

 蒼は無理難題に口を尖らせる。

「まぁ、今悟ればええじゃろ。色即是空、空即是色じゃ」

「え? それ、般若心経……だよね? なんで知ってるの?」

 蒼は仏教の話がいきなり出てきて驚いた。

「千二百年も生きとればお主の世界の話も分かっとるわい。お釈迦様は偉大だったな」

 蒼はしたり顔でお釈迦様の名前を出すレヴィアに唖然とする。まさか地中深くでドラゴンにお経の説教を受けるとは思ってもみなかったのだ。

「要はこの世界は情報で出来てるってことじゃ。人も物も世界も泡沫(うたかた)の春の夢。全てはデータ列に過ぎんのじゃ」

「いやいやいや、何言ってんだよ。物は物、僕は僕。どこがデータ列なんだよ! ほらっ!」

 蒼はムッとしながら、可愛いモミジのような手でレヴィアの腕をガシッと握った。

 すると、レヴィアはニヤッと笑って、ふぅと息を蒼の手に吹きかける。

 直後、蒼の手から色が消えた。ツヤツヤとした肌色はグレーになり、よく見れば古い新聞の写真のように黒い点の集合になってしまっている。

 う、うわぁ!

 思わずのけぞり尻もちをつく蒼。

「色即是空。色は本質ではない空虚な物じゃな。くふふふ」

 レヴィアは嬉しそうに笑った。

 色を奪われた蒼は、その黒点の集合体となってしまった手をマジマジと眺め、揉み手をしたりして感触を確かめる。

 感覚も柔らかさも従前通りだったが、ただ、見た目だけが点の集合体なのだ。

 理不尽な話だとは思うものの、実際に自分の手が色を失ってしまっている以上、認めざるを得ない。少なくとも今、自分の手には物理法則が行き届いていないのだ。

 今まで自分が信じていた世界観がガラガラと音を立てて崩れていく中、蒼は大きくため息をつき、首を振った。

「じゃあ何? この世界はみんなこの点の集合体だって言いたいの?」

 蒼は忌々しそうにレヴィアを見ると、観念したように聞いた。

「モノだけじゃない、位置も距離もこの空間もそう見えてるだけってことじゃな」

「見えてるだけ……」

「そう思い込んでるだけじゃな」

 蒼は混乱する。『岩など通り抜けられない』と思っているから通り抜けできないという理不尽な禅問答に、頭がショート寸前だった。

「思い込みをなくせばこの岩を通り抜けられる……ってこと?」

「そうじゃ、ようやく分かったか! カッカッカ」

 レヴィアは楽しそうに笑うが、蒼とムーシュは疑問がぬぐえず、互いの目を捉えながら静かに首を傾げた。

「どうやったらその【思い込み】ってやつを消せるんだ?」

瞑想(めいそう)じゃ。二人ともここに座れ」

 レヴィアはそう言うと出っ張ってる岩をザクっと切り取り、椅子を作り出す。

「瞑想って奴は特別なモノじゃない。深呼吸して思考を停止するだけじゃ」

「思考を停止?」

「そうじゃ、人間は頭でっかちでどうでもいい事ばかり延々と考え、目が曇っとる。だから考えることをやめるだけで真実が見えてくるのじゃ」

「で、考えるのをやめるのが深呼吸?」

「そうじゃ、人間は深呼吸している間は思考が鈍るようにできとるんじゃ。じゃから深呼吸し続けるだけで真実が見えてくる。簡単な話じゃ」

「えーー……」

 蒼はいきなりの話についていけない。

「ええから、やってみろ! 七秒かけてゆっくりと息を吸い、四秒止めて、八秒かけてゆっくりと息を吐く。はい! やってみろ」

 二人は首を傾げながらお互いの顔を見合ったが、何でもやってみないことには話が進まない。諦めて腰をかけると深呼吸を始めた。

 スゥーーーー、……、フゥーーーー。
 スゥーーーー、……、フゥーーーー。

「いいぞ、いいぞ。雑念湧いてもほっとけ、いいな?」

 最初は雑念だらけの蒼だったが、気にせず深呼吸し続けていくとふと急に落ちていく感覚に包まれた。それは今まで感じたことの無い、全てから解放される様な不思議な感覚だった。

 おぉぉぉ……。

 感覚が鋭くなり、洞窟の隅々まで意識が行き届き、レヴィアやムーシュの呼吸までありありと分かってくる。それはまさに真実というべき圧倒的な解像度だった。

 今まで自分は何を見ていたんだろう……。

 ぼんやりとした頭で、蒼は今まで気がつかなかった世界のありように愕然とした。

 蒼は青い光を纏う岩の本当の姿も把握していく。それは単に光を放つ岩ではなかった。たしかにその向こうに広い世界が広がっているのが感じ取れる。

 蒼はヨロヨロと立ち上がると、そっと岩に手を潜らせ、そのまま岩に吸い込まれるようにして消えていった。