「ただいまぁ!」

 嬉しそうに元気よくドアを開けるムーシュ。

 テーブルに座っていたムーシュの母親は、一瞬、時が止まったかのような驚きを抱き、瞳を急に広げる。

「あら! ムーシュ! ムーシュぅぅぅ!」

 顔を歪めながら駆け寄ってくる母親の迫力に気おされ、蒼は飛び降り、母親はムーシュにがっしりと抱き着いた。

「うぉぉぉぉ……。死んだとばっかり思ってたじゃないのさぁ」

「ゴメン、ゴメン、こっちも大変だったのよぉ」

 ムーシュは母親の背中をトントンと叩く。

 しばらく室内には母親の嗚咽が響き、ムーシュは幸せそうに温かな体温を感じていた。

「ルシファー様の部隊が全滅って聞いて、毎日泣きはらしてたのよ? ほら、祭壇にまで飾っちゃったんだから」

 母親の指さす先には祭壇があり、魔法のランプがゆらゆらと揺れている。たくさんの土人形が飾ってある中で、新しいピンク頭の人形がムーシュの位牌(いはい)なのだろう。

「でも、本当に無事でよかった……」

 母親はうれし涙をポタポタとこぼした。

 蒼は悪魔の世界の親子愛を見て、ホロリとしながらも悪魔とはどういう存在なのか不思議に思う。

「ところで……。この子は何なんだい?」

 母親は蒼を指さして不思議そうに聞く。

「あっ、こ、この子は知り合いの子で、預かってるのよ」

 ムーシュは適当にごまかす。

「あら、今晩のごちそう……じゃないのかい?」

 蒼を見る目が食べ物を見る目に変わり、母親はペロッと舌なめずりをした。

「た、食べ物じゃないよぉ」

 蒼はいきなりの展開に圧倒され、青い顔で後ずさりした。やはり悪魔は悪魔だったのだ。

「あらそう、こんなに美味しそうなのにねぇ……」

 母親は未練がましい目で蒼を見つめながら蒼のプニプニのほっぺをなでる。その野蛮な瞳に蒼はブルっと身震いした。

「あれ? パパは?」

「それがねぇ、緊急の招集で北の(とりで)に動員されちゃったのよ……」

「北の砦!? ま、まさか赫焔王(かくえんおう)?」

「そうなんだよ、あの伝説の暴れ龍が出てきちゃったらしくて……。一体どこのバカだろうね、魔王様を倒しちゃったりする奴は!」

 蒼はドキッとして顔を歪め、思わず胸を押さえる。

「ホ、ホント困るわよね……」

 ムーシュは調子を合わせながらチラッと蒼を見た。

「無事に帰って来れるといいんだけど……」

 母親はがっくりと肩を落とし、うつむく。その眼には悲しみが静かに溢れた。

 蒼は苦々しい表情で腕を組んで首をひねる。かつての軽はずみな一言が今、重くのしかかってきていた。

「私が何とかしてみせるわ! ねっ! 蒼ちゃん!」

 ムーシュは蒼をひょいと抱き上げる。

「何とかって……。一体何をするつもりだい、止めておくれよ軽はずみなことは。悪魔には()というものがある。背伸びしたら必ずやけどするんだよ?」

「大丈夫だって、ママ。この子と一緒ならムーシュは無敵なのよ」

 ムーシュは蒼のプニプニのほっぺにチュッとキスをする。

「この子はまたそんな馬鹿な事言って! パパもお前も居なくなったら私はどう生きていけばいいのよ!」

 母親は怒る。その痛いまでの心の叫びに蒼はたまらなくなって口を開いた。

「お母さん、安心してください。赫焔王(かくえんおう)は僕が何とかします」

「は……? 何だい、この子しゃべれるのかい? 何とかって……お前みたいな赤ん坊が一体何を……?」

 その時だった。三度の激しくドアを打つ音が室内を揺るがせる。

「親衛隊だ! 開けろ! ムーシュはいるか!?」

「あらやだ! ムーシュ、お前何かやらかしたのかい!?」

 母親の顔が震えながら青ざめていく。親衛隊は、魔王直轄の精鋭が集う特殊治安維持部隊だった。ムーシュはただの下っ端、彼女がそのターゲットになるなど、普通はありえないことである。

「あー、ただの事情聴取だと思うから心配しないで大丈夫よ」

 ムーシュは面倒くさそうにふぅとため息をつくとドアを開けた。


      ◇


 親衛隊に連行されてやってきたのは魔王城の最上階だった。

 溶岩をくりぬいて作られた廊下をしばらく歩き、連れてこられたのは魔王の執務室。その意外な連行先にムーシュの鼓動は早鐘を打ち、強く蒼を抱きしめた。

 親衛隊の神経質そうな男はノックをして返事を得ると、ムーシュに向かって不愉快を隠さずに言った。

「入れ!」

 ムーシュは蒼にほほ寄せると大きく息をつき、顔を歪めながらドアを恐る恐る開く――――。

「失礼しまーす……」

 果たして重厚な革張りの魔王の椅子に座っていたのは、金髪のいけ好かない若い男だった。

「えっ!? ゲルフリック……先輩? なぜ魔王様の椅子に……?」

「はぁ!? 俺が魔王だからに決まってんだろ!」

「えっ、えっ、な、なんで……ですか?」

 ムーシュはその驚くべき展開に唖然とする。ゲルフリックは家柄こそ悪くはなかったものの、女癖悪くケンカばかりで、アカデミー在籍時には数えきれないほどの停学処分を受けていた不良だった。

「はっ! みんな腰抜けだからさ! 【蒼き死神】にビビっちまって誰もなろうとしないから俺がなってやったのさ!」

「あ、蒼き死神……?」

「あ、お前いなかったから知らないんだな。先代魔王を倒した謎の暗殺者のことを【蒼き死神】ってコードネームで呼んでんだよ」

 なぜ【蒼】なのか不安になり、ムーシュは蒼と顔を見合わせる。

「あ、【蒼き】って、蒼いんですか?」

「馬鹿! 色なんか分かんねーよ。『稀で神秘的な』ってニュアンスのこと。これだから教養のない奴は……」

「す、すみません……」

 まさかゲルフリックに教養を説かれると思ってなかったムーシュは小さくなる。

「だがな、【蒼き死神】の正体もほぼ特定できてるんだ」

 ゲルフリックは冷たい瞳をキラリと光らせながら、闇のような微笑みを浮かべた。