君の素直さなんて、
砂浜の上に書いたハートが波に触れるくらい
青くて、切なくて、儚いものだね。
君は素直になるのが得意じゃないのは知っているし、
笑った姿を少しでも見ていたいから、
今日一番いい出来の微笑みを君にあげる。




「手、出すなんて最低だよね」
「だよね。ほら、また本読んでるよ。きっしょ」
 朝香(あさか)と桔花(きっか)が私に向けているかのようにわざとらしく大きな声をだして、ゲラゲラと笑い始めた。私は朝香と桔花の方を見たいのを我慢して、開いたままの文庫本を読んでいるふりをする。
 一体、いつ、どこで、だれが私が紗奈(さな)の彼に手を出したって噂が流れたんだろう。

 私はこの夏、クラスで孤立した。この教室には誰も助けてくれる人なんて存在しない。
 クラスは朝香と桔花の二人で回っているようなものだから、攻撃目標にされた私はクラスの中で生贄みたいなものだった。教室の左側の窓側の隅で男子がiPhoneを片手になにかを撮っているのも見えた。この学校は自由が許され過ぎて、肖像権なんて無いに等しい。

「よく、そんな精神状態で本なんか読むことできるよね」
「朝香、実は天野(あまの)って図太いんじゃない。てか、図太いか。紗奈の男に手出すくらいだもんね。これだけ付き合ってるってわかってるのに」
「大人しいふりして、ちゃっかりしすぎなんだけど」
「あれじゃない? 略奪愛のエロい小説読んでるんじゃない?」
「めっちゃむっつりじゃん。キモ」と朝香がそう言うと、桔花はゲラゲラと笑い始めた。なんだよそれ。てか、図太いのはお前ら二人だし、爽やかな午前中のはずの2校目と3校目の10分休みでそんな話するんじゃねーよ。
 気持ちが暗くなった日曜日、なんとかテンションをあげようと中学生のときから好きだった、蒼衣デルタの新刊を楽しみで買ったのに、全く楽しむことができない。
 そもそも、こいつらは瀬川隼人が教室にいなくなった途端に私のことを攻撃しだす。瀬川隼人と紗奈は付き合っていることは知っている。だけど、私が瀬川隼人と駅のホームで話して、一緒の電車に乗っているところを見られただけみたいなのに、なんでこんなにこの二人のブスに言われなくちゃいけないのかわからない。

 月曜日の午前中、私は教室の中心で自分の席を呪う。
 あと1ヶ月もすれば、夏休みが始まるけど、6月の今、5月病が再発したみたいに私の心は重く憂鬱だった。

 こんな気持ち、中学3年の夏以来だ。まだ卓球少女だった私がダブルスの相手が自然消滅した時期、私は同じように憂鬱になっていた。高校に入って、1年生はそこそこやり過ごすことができ、この調子で2年生も穏やかに過ごそうと思ってたら、とんだとばっちりだ。

 チャイムがなり、急に教室中がバタバタとしはじめたと同時に、几帳面を絵に書いたような、外部講師の安川が入ってきた。私は少しだけ助かったと思った。

「やすっちゃーん、数学の教科書とノート、全部忘れたー。ごめん”さ”な”い!」と私のうしろの方から、男子の声がしたあと、教室中がドッと笑いに包まれた。私は思わずうしろを振り向くと、声の持ち主はすぐにわかった。教室の後ろのドアの前で、瀬川隼人(せがわはやと)が立ったまま片手を上げて、凛々しそうな表情をしていた。
 やる気なさすぎだろー、ネタにしすぎだろーといろんなところから声が聞こえてきた。
 
「おい、人のミスいじるなー。瀬川」
「だって、やすっちゃんが悪いじゃん」と横槍を入れるように桔花がそう言ったあと、
「ごめんさない! うそでーす!」と裏声をひっくり返したようなよくわからない声で、瀬川隼人がそう言うと、なにが面白いのかわからないけど、またクラス中がどっと笑いに包まれた。
 先週、安川が配ったプリントに手書きで追加されていたことに『ここの問題、間違ってました。ごめんさない』と書かれていた。
 『な』と『さ』がそれを発見した瀬川隼人はきっと、テレビのクイズ番組でやっている安っぽい間違い探しとか、きっと得意なんだと思う。というより、きっとそういうことに全人生をかけているんじゃないかって思う。
 そうじゃないと、私がプリントを手渡した瞬間に、そんな細かい間違い発見できるわけがない。

 瀬川隼人はゆっくりと歩き出し、私の後ろの席に座った。
 5月末の席替えは最悪だった。後ろの席にクラスで一番うるさい瀬川隼人が陣取り、私から見て左隣の一番前の席に私に目をつけた朝香が陣取っている。そして、私が目をつけられてからずっと、変な視線を感じる。
 教壇の近くでもあるその席になったとき、朝香は大声でハズレじゃん! って言って、クラス中から笑われていたけど、敵とうるさいやつに挟まれた私の方が今じゃハズレ席じゃんと、この席になった瞬間思った。




 そんなハズレ席で受ける私の貴重で尊いはずの高校2年生の6月20日は終わり、私は誰よりも早く教室を出た。

『きっしょ』
『親友の彼氏に手出すの腹立つんだけど』
『ガチクズじゃん』
『陰キャのくせに何なの、あいつ』
『キツイわ』
『あー、早く消えないかなー』
『それは言い過ぎだって』

 これ以上にたくさんのこと言われたけど、頭の中で言われた言葉が響く。と言っても、本当に私は紗奈の彼に手なんて出していないから、別に深く傷ついているわけじゃない。ただ、毎日のように私のことばかり話ししていて、飽きないのかななんて、毅然としようとクラスの中ではそう決意しているだけだ。
 玄関まで続く、廊下は、まだ人はまばらで、クラスによってはまだホームルームをやっているクラスすらあった。早足で進むたびにその揺れで心も揺れているように感じた。ただ、毅然として、そうした言葉をすべて無視しようと心に決めても、平日になると毎日のように無条件で浴びせられる否定は、徐々に私を疲れさせ、うんざりさせた。

 玄関に着き、上靴を脱ぎ、そしてローファーを取り出し、タイルに二足を落とすと、バンと乾いた音がした。

「あーあ、こんなに雑に扱うなよ」
 うるさいな――。そう思いながら、声がした方を向くと、そこには瀬川隼人が立っていて、右手で小さく手を振っていた。
 私はその姿に普通に腹がたった。





 いつも通り、瀬川隼人と一緒に駅まで行き、同じ方向の電車に乗り込んだ。電車の中の人はまばらで空席だらけだった。瀬川隼人と青いロングシートに横並びで座っているのは、別にいつも通りの日常だ。電車の大きな窓からは黄色い日差しが射し込み、時折、海の青色がちらちらと見えた。

「また、ひどいこと言われてるらしいな」
「誰の所為だと思ってるの」
「人の所為にするなよ」
 バカ明るいクラスの印象と真逆な印象の低い声で瀬川隼人は私にそう返してきた。それで、また瀬川隼人の無責任さに私は余計に腹が立ってしまった。
 バカはバカらしく、バカ笑いしてればいいのに、なんで私といるときだけこんなに間逆なんだろう。
 この現象を例えるなら、合唱コンクールの練習なんて一番最初にサボりそうなやつが、団結に感化されて、みんな真面目にやろうぜ!!! って、真面目系女子のみんな真面目にやってーーーっていうヒステリックよりも、たちが悪い存在になって、ヒステリック女子と感化男子のハーモニーだか、真面目と汗のケミストリーうぜぇって感じになるはずの君がそうなっていない所為で、すごく裏切られた気分に思えるような現象だと思う。

「バカは死なないと治らないんだよ」
「それはお互い様だろ。天野里緒奈(あまのりおな)」
「クラスとキャラ変えすぎなんだよ」
「いいじゃん。バカを演じるのって、疲れるよ。四六時中、あんなことやってたら、マジでダルい」
 低い声でそう続けたあと、瀬川隼人はあからさまに大きなため息を吐いた。

 さらに例えるなら、手拍子の中、裏表紙をついてくるようなこの感じ。そんなことを考えていたら、降りる駅の名前を告げるアナウンスが流れた。

「さて、今日も人手不足の寂れたショッピングセンターに行くか」
 瀬川隼人はダルそうに両腕を上げて、身体を伸ばしていた。
 




 私と瀬川隼人は青いエプロン姿で、レジカウンターの中で突っ立って、蛍の光を聞いていた。月曜日の21時前。21時で閉店するこの小さなショッピングセンターの中にある書店には、もう、お客さんは存在しなかった。
 2台あるレジのうち、一台はレジ締めを終えていて、ドロアーの中にあったお金を片付け終え、黒のプラスチックでできたコインケースをひっくり返している。これでも一応全国チェーン店の書店なのに、未だにこの店にはセルフレジや自動釣銭機付きのレジなんてものはなかった。

「ここにいるところ見られても、付き合ってるとか言われそうだよな」
「それは私が一方的に言われるだけでしょ。瀬川隼人に彼女いる所為で」
「まあな。モテるから、俺」
 小さなボソボソとした声で、瀬川隼人はそう言ったあと、ふふっと小さく笑った。なに浮かれてるんだよとか思ったけど、そんなこと言う気にもなれず、早く時が流れたらいいのにと思った。

 本屋のバイトを始めて1年半の瀬川隼人と、始めて半年の私の高校生二人が閉店作業をすることになった経緯は単純で、人手不足の所為で、めぼしい大人がいないからだった。この店は元々、規模だって大きくないから、店長は隣町にある店舗とこの店の2店舗の兼任店長をしている。しかも、もうひとつの店舗の方がこの店よりも人手不足が深刻らしくて、店長はこの店にあまり店に来ない。

「実は俺たち、上手くいってないんだよね」
 閉店前の急なカミングアウトなんて別に求めてない。
「じゃあ、なんで付き合ってるの?」
「なんでかわからない。別れ話するのが嫌なだけかも」
「意外と度胸ないんだね。バカだからあるのかと思ってた」
「てか、わかるだろ。最近じゃ週6でこの店の夜番させられてたら、そんなの上手くいくわけないじゃん」
「それでもどうにかするのが男でしょ。いくじなし」
「お前さ、俺にストレスぶつけるなよ」
 瀬川隼人がそうぼやいたあと、『ただいまを持ちまして閉店のお時間になりました』と自動アナウンスが流れ始めたから、私はそそくさとレジカウンターを出て、閉店10分前から少しだけセットしていた売り場と通路を仕切る緑色のネットをかけ始めた。
 




「ほら、またエロ小説読んでる。ホント、むっつりだよね」
「だって、顔にでてるじゃん。むっつり感」
 なぜかわからないけど、瀬川隼人は休み時間、必ず教室にいない。10分休憩でも必ずどこかに行く。だから、朝香と桔花の二人は瀬川隼人が教室を出て行った瞬間から、私の悪口を話始める。そんなことをやりはじめてすでに2週間が経っていた。先々週の一週間も悪口を聞き、先週は、日曜日に瀬川隼人と夜番をし、バイト先で蒼衣デルタの新刊を買った。そして、月曜日から悪口を聞き瀬川隼人と夜番をし、火、水と悪口を聞き、木曜日、金曜日に悪口を聞き、瀬川隼人と夜番をした。
 土曜日はイヤホンをつけたまま一日中ベッドに寝転がり、日曜の夜は瀬川隼人と夜番をした。
 そして、月曜日になり、今また悪口を聞いている。

 うんざりしたまま、昼休みを迎えた。朝、ファミマで買ったサンドイッチが入った袋をぶらぶらさせながら、文芸室の部室まで早足で向かった。



 ドアノブをひねり、ドアを引き、文芸部の部室に入ろうとすると後ろから、ドアを抑えられた感触がしたから振り返った。
「密室でふたりきりになったら迷惑なんだけど」
「冷たいこと言わないで一緒に食べよう。あのときみたいに」
 後ろを振り向くと紗奈が右手でドアを抑えて、ニコッとした表情を浮かべていた。紗奈は華奢で、ショートボブが垢抜けて見えた。ドアを抑えている右手の爪にはあわいピンクのネイルが塗られていて、1軍の容姿そのものだった。
 私との過去なんてまるでなにもなかったかのように、普通そうな様子で、そう言ったあと、紗奈は私よりも先に部室に入っていった。だから、私は一応、廊下を見渡して他に人がいないことを確認し、少しだけ安心しながら部室に入った。

 細長い作りの部室には、折りたたみの長テーブルが2つくっついていて、対面で3脚ずつボロボロのパイプ椅子が置いてある。いつもの光景だ。部員は私ともう一人の後輩の女の子2人の3人だけだから、昼休みになると私はこの小さな部室に避難するのが日課になっていた。

「あっつい。この部屋」
「エアコンあるから、少し我慢して」
 そう言って、私はドアの横に掛けられているエアコンのスイッチをオンにした。

「文芸部って、存在したんだ。いつもここでエロい小説読んでるの?」
「は? そういうことわざわざ言いに来たの? それだったら、出ていってよ」
「冗談だよ。そういうつもりで言ったわけじゃないのに。もう」
 紗奈は折りたたみの長テーブルに手に持っていたメロンパンとペットボトルを雑に置き、一番左奥のパイプ椅子を引いて、あーだるって言いながら座った。1年のとき、朝香と桔花とクラスが一緒だったのをきっかけに紗奈は2人と仲良くなったらしい。
 そして、今でもクラスが違うのに朝香と桔花とつるんでいるらしいから、たぶん、私がエロ小説を読んでいるとかそういう余計な情報を紗奈も聞いていたんだと思うとげんなりする。

「ここで食べるつもり?」
「里緒奈と一緒にいるほうが気楽だからね」
 なんで普通に話せるの? なんなの? って次々に言いたいことは出てきたけど、いちいちそんなことを考えるのをやめて、私は紗奈と対角線になるように一番手前にあるパイプ椅子を引いて、座ったあと、ビニール袋からサンドイッチを取り出した。

「ねえ」
「なに?」
「中学校のとき、裏切ってごめんね」
「まだ許してないから」
「――だよね」
 紗奈と私は卓球部でダブルスを組んでいた仲間だったし、小学校のときからの親友だった。1年生からコンビを組み、2年かけてようやく、県大会に出れそうなくらい強くなった。だから、とりあえず中学最後の思い出に県大会は出ようと紗奈と約束をした。
 だけど、3年生になって3週間が経った4月後半から、紗奈は学校に来なくなった。紗奈はクラス替えで最悪のクラスに当たり、クラスが変わって1週間で1軍女子に目をつけられ、簡単にいじめられてしまったのが原因だった。
 
「あの頃、すべてのことが嫌になってた」
 そう言いながら、紗奈はメロンパンの袋を開けて、メロンパンを一口かじって、もぐもぐと口を動かし始めた。
「それは知ってるよ」
 私もサンドイッチの袋を開けて、チーズレタスサンドを1組、右手で取り、一口食べた。噛むたびにレタスのシャキシャキという音が部屋中に響き渡った。

「だよね。――余裕がなかったんだ。全部が絶望のグレーに染まったみたいに」
「私は黒に染まったけどね」
 せめてもの皮肉を返したつもりだ。結局、大会前まで紗奈は学校に来なくて、エントリーしなかった。私は他の子とペアを組む提案を顧問にされたけど、紗奈と約束したのが心残りだったからそれを断り、シングル戦だけ出場した。だけど、ふわふわとした気持ちのまま、試合に挑んだから、当たり前のように1回戦で敗退した。

「あんまりふざけたことされると、腹立つんだけど。高校デビューしたこと言いふらすよ」
 思わず、私は紗奈に対して意地悪なことを言ってしまった。紗奈だって、中学のときは私と同じ陰キャだったのに、私を裏切って、私と同じ高校に入学して、急に1軍みたいな雰囲気になって、実際に一軍のポジションを簡単に手に入れて、そして、朝香と桔花みたいな性格ブスな1軍女子の頂点と仲良くなった。
 だけど、私は知っている。
 元々、紗奈は陰キャだってことを。

「大丈夫、みんなに中学校のときは黒歴史だったって言ってるから。私、頑張って、努力して今の1軍ポジション手に入れてるから、里緒奈とはもう違うの。それに里緒奈はそんなこと、できないって知ってるよ」
 なにそれ。それじゃあ、私との約束なんてなかったみたいじゃん。と思ったけど、なぜか、私はそこまで言い出す気にはなれずに思わず黙ってしまった。

「だけど、今日はそんなこと言いに来たわけじゃないの」
「じゃあ、なに?」
「――ごめんね。約束破って。だから、幸せになってね。あげるから」
 小さい声で紗奈がそう言ったあと、しばらくの間、私がレタスを噛む音と、秒針が進む音しかこの部屋の中には存在しなかった。
 

 

 ホチキスでなんとか止まっていたはずの心の傷は塞がれないまま、午後の授業を終えて、いつものようにさっさと教室を飛び出した。いつものように玄関で、靴を履き替えていると、ポチみたいに小走りで瀬川隼人がやってきた。

「午後から急に浮かない顔してたけど、なにかあったん?」
 口調がまだ、陽キャモードが抜けきっていないのに、瀬川隼人はぼそっとした低い声でそう聞いてきたから、私はそれを無視して、ローファーを履き、歩き始めた。

「おい、待てって。話がある」
 話があるって、なんなの? 私は興味持っているわけじゃないのに思わず立ち止まってしまった。

「別に今日は、お互いバイトじゃないでしょ」
「俺、嘘ついたよ。遊びに誘われたけどバイトって」
「じゃあ、話なんてないじゃん。じゃあね」
 私は再び、前を向き、玄関のドアを開けて歩き始めた。




「夏が始まったら、ハーゲンダッツでしょ」
「いや、意味わからないし」
 いつものように二人で同じ方向の電車に乗り、小さいショッピングセンターがある駅で降りて、駅前のローソンでハーゲンダッツを買い、近くの住宅街の中にある小さい公園のベンチに座った。
 ベンチはイチョウの木の下で、イチョウの緑が風で揺れるたびに木陰も揺れた。私たちは一人分の間を開けて横並びで座っていて、たぶん、私たちのことをなにも知らない人たちが、そんな私と瀬川隼人の姿を見たら、別れ話でもしてるんじゃないかって思うくらいの微妙な距離感で私は瀬川隼人の隣に座っていた。

「はい、ストロベリー」
「ありがとう」
 瀬川隼人が右手でハーゲンダッツと、ハーゲンダッツ用の白いプラスチックスプーンを差し出してきたから、私はそれをささっと左手で受け取った。そして、スプーンをビニールから取り出し、濃い恋色のような柔らかい赤い蓋を開けて、内蓋になっているビニールを剥ぎ取った。そのあと、蓋と履いだビニールを瀬川隼人と私の間にそっと置いた。
 瀬川隼人も私と同じようにベンチの上に蓋とその上にビニールを置いた。

「――たまにはいいところあるね」
「どういう意味だよ。それ」
「おごってくれてありがとう」
「なんだ。素直にお礼言えるタイプなんだ」
「なにそれ。私はいつでもお礼言えるし」
 スプーンでハーゲンダッツを掬い、口に含んだ。すると、期待通りの冷たさと、優しい甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。

「大体、誘ったんだから、少しはごちそうしないと」
「へえ。偉いね」
「まあな。そこそこモテるから」
「そうだろうね」
 そんなこと、どうでもいい。と思いながら、私はもう一口、ハーゲンダッツを食べた。

「なあ、紗奈と文芸部の部室でなにか話したんだろ」
「えっ。なんで知ってるの」
 部室に入るとき、誰にも見られていないことを確認したけど、甘かったのかもしれない。思わず、瀬川隼人を見ると、瀬川隼人はハーゲンダッツのバニラをカップから掬っては食べを繰り返していた。Eラインが木漏れ日で少しだけ照らされていて、いつもよりもシュッとした雰囲気に見えた。弱い風が吹き、瀬川隼人のわずかに耳にかかっている横髪が揺れた。

「昼休み、紗奈から聞いた」
「へえ。そうなんだ」
 紗奈は私に謝ったあと、黙々とメロンパンを食べ切り、掠れた小さい声でじゃあねと言って、部室を出て行った。時計を見ると、まだ昼休みは3分の1しか消化されてなかった。だから、私と離れたあと、残りの昼休みで瀬川隼人にそのことを伝えたんだと、気がついた。

「それで俺さ、振られたんだ。さっき」
 えっ。という言葉もでないまま、私はもう一度、じっと瀬川隼人を見た。瀬川隼人の頬には一筋の涙が流れていた。


 
8 
 泣かれても困るんだけど。そう思いながら、私はハーゲンダッツのストロベリー味を食べ切った。バッグからペットボトルを取り出し、微温くなった水を飲むと、口の中の甘さは幻になった。
 ただ、隣にいる瀬川隼人は紗奈に振られたと伝えたあと、別に大泣きするわけでもなかった。ただ、一筋だけ溢れてしまった涙以上で水滴がついた頬を午後の黄色い日差しでキラキラさせるわけでもなかった。ただ、そのあと黙ったまま、ハーゲンダッツを食べているだけだった。
 
「どれくらい付き合ってたの?」
「――半年くらい。去年の12月から」
「典型的なクリスマス特需じゃん」
「だよな。クリスマスデート、楽しかったのになぁ」
「噂、聞いたとき、実は合うんじゃないかなって思ってたのに」
「えっ。どうして?」と急に怪訝そうな表情を浮かべて、瀬川隼人は聞き返してきたから、私はその意味がよくわからなくて、思わず、は? って返してしまった。

「いや、だから、なんで紗奈のこと知ってるんだよ」
「えっ。だって、元々同じ中学だし」
「元々、面識あったんだ」
 瀬川隼人と妙に会話が噛み合わない。
 紗奈から文芸部での話を瀬川隼人は聞いているはずなのに、どうして、私と紗奈が同じ中学校であることを知らないんだろう――。

「え、どういうこと? 私が混乱してるんだけど。――ねえ、紗奈からなんて聞いたの?」
「お前、天野里緒奈が本当に瀬川隼人のことが好きだってこと聞いたって。それで、紗奈は元々俺と別れようと思ってたから、そのことを伝えたって」
「は?」
 意味がわからない。全然、やり取りもなにもかも違うじゃん。
「だから『あげるから』って紗奈が天野里緒奈に伝えたって」
「あー、意味わからないんだけど。マジで」
 両手で髪をかきあげ、ワシャワシャとしてみたけど、怒りなのか、呆れているのか、また裏切られたっていう思いがぐるぐるして、感情が処理しきれなくなった。

「そもそも『あげる』って言われていない気がするんだけど」
「『あげる』って言ったって、言ってたよ」
「なにそれ」
「それで、マジで、俺のことどう思ってるの?」
「あー、もう! どう思ってるもなにもわからないよ!」
 私の声は辺りに響いたけど、そんなこと、どうでもよかった。気がつくと私は立ち上がって、歩き始めていた。

「おい、待てって」
 後ろで頼りない声が聞こえたけど、私はそれを無視することにした。




 結局、瀬川隼人は私のことを追いかけてこなかった。本当はそういうやつだってことは知っている。バイト先でもなにかトラブルがあると、私より1年早く入って働いてるはずなのに、ナヨナヨしているくらいだし、そんなナヨナヨな瀬川ナヨちゃんは、追いかけてくるわけがなかった。
 駅のホームの色褪せた水色のプラスチックベンチに座り、iPhoneをいじりながら電車を待っていた。すっかり、日は濃いオレンジ色になっていて、線路に伸びているホームの屋根の影は濃かった。

「あれ、ブスじゃない?」
「ホントだ。ブスじゃん」
 と聞き覚えのある声がして、私は声の方を向くと、朝香と桔花がゲラゲラと笑っていた。そして、その二人の一歩うしろ側に紗奈がいた。3人はゆっくりと私の方に歩いてきて、そして、私の目の前に立った。

「なんかさ、紗奈が言ってたんだけど、あんた隼人に告白して略奪したんだって?」
 朝香がそう言ったから、私は思わず、紗奈を睨みつけると、紗奈は私から、目をそらした。
「どうせ、振られたんでしょ。ブスだから」
 桔花が続けてそう言ったあと、二人はまたゲラゲラと笑い始めた。

「いやー、さっきね、駅前のあそこのフードコート行って、紗奈の慰め会してたんだ」と朝香は私の奥の方を指さしていた。私は振り向かなくてもわかっている。その指の先には私と瀬川隼人が働くショッピングセンターがあることを。私はもう一度、紗奈を見ると、紗奈は下を向いたままだった。

「それでね、やっぱり紗奈とは釣り合わなかったよねって言ってたんだよねー。あんなにイケメンな隼人に紗奈は背伸びしてたんだよって」
「桔花、ウケるんだけど。それなのに、私と桔花にジュースとポテトおごってくれるなんて太っ腹だよね」
 朝香がそう言ってゲラゲラ笑い始めると、桔花も甲高い声で下品に笑い始めた。なんだ。紗奈って、1軍じゃなくてただのパシリになってたんだ。
 ――可哀想。

「ポテト好きだから、デブなんだ」
「は?」
 私がぼそっと言ったことがどうやら朝香にとっては少し刺さったみたいだ。実際、太ってるわけではないけど、これだけ、ブスブスって言われたんだから、これくらい言ってもいいかなって思って、私は思わず変なことを言ってしまった。
 そんな思いつきで私が言ったことで気に触るんだから、もしかすると、朝香は最近、本当に肥えたのかもしれない。

「ちょうどいいや。それでさ、ブス。あんたも隼人に釣り合わないから、別れてくれない? 別れないと、もっと痛いことしようかなって思うんだけど」
 急に低く冷たい声で朝香は私のことを目を細め、見下したような目でそう言ってきた。いや、そもそも付き合ってないから、どうぞ。って言おうと思ったけど、
「いやー、まだ付き合って一日目だからさ」と遠くから、陽気な声が聞こえた。一瞬、えっ。と言いたげな表情を朝香と桔花、そして紗奈もした。そして、もちろん、私も他人から見たら、そんな表情をしていると思う。

「おっつ。朝香、桔花。これ、俺の新しい彼女。天野里緒奈。って知ってるか。同じクラスだしな」
「えー、隼人には似合わないよー。てか、どうして紗奈と別れちゃったのー?」と朝香は気持ち悪いくらい急に高い声を出して、瀬川隼人にそう答えた。私はその間に瀬川隼人のことを睨みつけると、目尻にシワを寄せて、なぜか微笑んできた。ゆっくり歩いてこちらに近づいてきた瀬川隼人はベンチのうしろに回り、私の右側の背もたれに両肘をつき、身を乗り出すように背もたれに寄りかかった。

「いやー、俺、天野里緒奈のこと、好きになっちゃんだよね。それで別れようってね。俺が言ったんだよ」
「えっ」と紗奈は声を一瞬だしたけど、瀬川隼人はさらに話を続けた。
「それで、紗奈には悪いことしたって、謝ったよ。そしたら、紗奈も実は新しい男のこと好きになったみたいで、それだったら別れようって、話になったってこと」
「そうなんだー。紗奈も隼人も大変だったね」と桔花がそう言うと、本当に大変だね。とそれっぽく朝香が続けたから、私は思わず笑いそうになった。

「ってことで、観てほしい動画あるんだけどさ。めっちゃ草生えるよ」
 そう言って、隼人はiPhoneを取り出した。そして、右手で画面を横に握り、全員がその動画が観えるように背もたれから、少しだけ腕を伸ばした。そして、瀬川隼人が左手の人差し指で、画面をタップすると、大音量で動画が流れ始めた。

『手、出すなんて最低だよね』
『だよね。ほら、また本読んでるよ。きっしょ』
 画面には、昨日の朝香と桔花の姿が写っていた。

「ちょっと、なにこれ」と桔花が静かな声で言ったけど、動画は流れ続けた。

『よく、そんな精神状態で本なんか読むことできるよね』
『朝香、実は天野って図太いんじゃない。てか、図太いか。紗奈の男に手出すくらいだもんね。これだけ付き合ってるってわかってるのに』
『大人しいふりして、ちゃっかりしすぎなんだけど』
『あれじゃない? 略奪愛のエロい小説読んでるんじゃない?』
『めっちゃむっつりじゃん。キモ』
 そのあと、チャイムが流れ始めた。

「これ、観せてなにになるの?」と朝香が恐ろしく乾いた声でそう言ったけど、瀬川隼人はそれを無視しているのか、動画を止める気配はなかった。

『やすっちゃーん、数学の教科書とノート、全部忘れたー。ごめん”さ”な”い!』と瀬川隼人がバカみたいなテンションで言っているところで、ようやっと、瀬川隼人は動画を止めて、ゲラゲラと笑い始めた。

「いやー、やばいしょ。俺。やすっちゃんのものまねするために、前の日の晩、一人で練習したんだよ」
「いや、そこじゃないんだけど」と朝香はさっきまで瀬川隼人に対して、甲高くしていた声は元の低い地声に変わっていた。
「え? なにが?」
「隼人、これでなにする気?」
「好きなんだろ? 俺のこと」
 急に瀬川隼人もいつもの低い声で朝香にそう言うと、朝香はさっきの紗奈みたいに急に視線を下にした。

「なあ、桔花だって聞いてたんだろ?」
 瀬川隼人の異常さに気がついたのか、桔花は固まった表情のまま、小さく、うんと頷いた。

「良くないよな。こういうの。紗奈のことハメやがって。紗奈が混乱するように、たまたま、俺と天野里緒奈が一緒にホームでいるところを隠し撮りして、それを紗奈にみせたんだろ。それで紗奈に対して、俺が二股してるみたいだからと、別れるように誘導した。な? そうだろ?」
 桔花は頷き、朝香は固まったままだった。

「だから、俺はなぜかわからないけど、素のままでいれる大好きな里緒奈をただ単に守りたいと思ったんだよ。だから、この動画で俺のバカな姿も担任にみせるから」
「しょーもな。隼人がこんなつまらない人だと思わなかった」
「俺は元々、こうだから」
「マジで最悪なんだけど。上手くいくと思ったのに」
 朝香はわかりやすく大きなため息を吐いた。そのあと、あーあ、マジでダルい。と言って、左手で前髪をかきあげた。

「だって、なんで紗奈が」
「だってもなにもないよ。隼人のこと好きだったんだから」
 紗奈は朝香を睨みながら、静かにそう言った。

「朝香が隼人のこと、好きだったの知ってたよ。それに隙あれば私を欺いて、隼人のこと、狙おうとしてたことも」
 少しの間、5人の間に沈黙が流れた。その空気を読むことなんてしないように、列車の接近放送が流れ始めた。

「なあ、お前のこと大嫌いだ」
 いつものトーンで瀬川隼人がそう言ったあと、電車がホームに入ってきた。


10

 朝香と桔花が電車に乗ったあと、紗奈と瀬川隼人、そして私はホームに残ったままでいた。朝香と桔花と同じ電車に乗るのも気まずいから、3人とも自然な流れでそうなった。

「さて、答え合わせしようか」
 いつもの低くてダルそうなテンションで瀬川隼人はそう言って、私の隣に座った。それを見ていた紗奈も私の隣に座り、私は瀬川隼人と、紗奈に挟まれるような形になった。

「マジで何だったの。さっきの」
「里緒奈の反応が正しいと思うよ。私だって途中わからなくなったもん」
「だから、答え合わせしようぜ。まず、俺と紗奈が別れているのはマジ」
 瀬川隼人がそう言うと、紗奈は鼻でふっと笑った。別に私にとって、紗奈と瀬川隼人が付き合っているかどうかなんて正直、どうでもいい。

「それで、本当の別れ話されたとき、紗奈は本当に里緒奈が俺に手を出したと信じ込んでいた」
「ちょっとまって。本当の別れ話ってどういうこと?」
「私たち、今日の昼休み別れたわけじゃなくて、先週の土曜日に別れたんだ」
 別にいつ別れ話があったかなんてことも、正直、どうでもいい。だから、別れた理由なんて私にしてみたら、もっとどうでもよかった。

「だけど、よくよく話聞くと、それは桔花と朝香に吹き込まれた嘘だってことがわかった。それと、最近、俺が教室にいないとき、急に里緒奈が朝香と桔花が陰湿にいじめてるってことも聞いて、気がついたんだ。その姿、動画で撮ればいいじゃんって。それに紗奈もこの二人にいじめられてる」
「いや、私はいじめられてない。朝香と桔花に認められるために頑張っただけだから」
「てか、さっき話聞いてたら、どう考えても朝香と桔花のパシリみたいだったじゃん。全然1軍じゃなかったよ」
 思っていたことを、紗奈に伝えると、
「だよね、私だってわかってたよ。だけど、1軍で居続けたかったな」と寂しそうにそう言った。

「俺、シンプルにいじめるやつのこと、腹が立つんだよね。だから、本当の別れ話のときに、朝香と桔花をハメないかって、紗奈に伝えたんだ」
「へえ。私だけ、仲間はずれだし、めちゃくちゃ被害者じゃん」
「里緒奈には悪かったと思ってるよ。ただ、これが一番ベストかなって思った」
「てかさ、紗奈が部室で、『だから、幸せになってね。あげるから』って私に言ったのも、最初から瀬川隼人と打ち合わせ通りだったってことなの? それだったら、余計悪質なんだけど」
「里緒奈、それは意図的に言ったよ。ごめんね。ただね、今日、謝ったことは本当だよ。許してくれないと思うけど」
「謝ったこと?」と瀬川隼人は、そのことについては本当に知らなかったみたいで、聞きたそうだったけど、私は紗奈を見て、お互いに顔を見合わせたあと、瀬川隼人のそれを無視することにした。

「――いいよ。許してあげる。その代わり、紗奈は、自分らしく生きてほしい」
「――ごめん、ありがとう」
 紗奈が涙ぐみ始めたから、私は2年ぶりくらいに紗奈に微笑んだ。

「それで、クラスのマブダチに昨日、動画の撮影を頼んで、期待通りの映像が撮れたと。そして、紗奈には朝香と桔花が流した俺と里緒奈が二股してるっていうことを信じたふりをして『あげるね』って、思わせぶりなことを言ってほしいって頼んだんだ。それを口実に俺は、里緒奈を予定の公園に連れ出し、紗奈はフードコートに朝香と桔花を連れ出し、絶妙なタイミングでホームで合流するって流れにしようと思ったのにさ」
「え、なんか文句あるの?」
「里緒奈が急に公園から、走り去ったときは焦ったよ。だから、慌てて紗奈にメッセージ送ったんだよ」
「私だって大変だよ。だって、あのとき、まだオレンジジュース残ってたからね」
 紗奈がそう言うと、二人はゲラゲラと笑い始めた。私はちっとも面白くもなかった。朝香と桔花に仕返しできると知っていたら、もっと主体的に仕返しがしたかった。

「ってことで、上手く行ってよかった」
「――なんかよくわからないけど、ありがとう」と瀬川隼人に返すと、瀬川隼人はしっかりと微笑んでくれた。その瞬間、なにかが私のなかで、ときめきが一瞬、動きそうになったけど気の所為だと、言い聞かせて、よくわからない胸の高鳴りを抑えた。



11
 
 今日も学校が終わり、私と瀬川隼人は午後の日差しが差し込む電車に乗り、バイト先の寂れたショッピングセンターへ向かっている。比較的空いている車内はいつも通りの日常なのに、色褪せた青色のロングシートがなぜか寂しく見える。

「なあ。里緒奈」
「なに?」
「昨日、俺さ、実は里緒奈に告白したんだけど気づいた?」
「は? いつ? どこで? だれが?」
「だれがはないだろ。ただ、守りたいって思ったんだ」
「それ、ただの失恋ハイになってるだけだと思うから、落ち着いたとき、また今度言ってよ。そのときまで考えるから」と言ったけど、本当はもう、私の考えは決まっている。2年ぶりに数時間通話した紗奈にそのことを伝えたら、いいよって言ってくれた。
 別にこんな頭いいふりして、本当は腑抜けなのは知っている。
 だけど、何でかよくわからないけど、素の自分のままで普通に話せそうなのは、今のところの私にとって、瀬川隼人しか知らない。




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読んでいただきありがとうございました。

『嫌いな君の気持ちが知りたい』

こちらの作品も似たような読み味になっています。
https://novema.jp/book/n1670578

※プロフィールからも作品読むことができます。

嫌いな君の心の声は、なぜ聞くことができないのだろう。

人の心の声が聞こえる高校生エリイは、人間不信でクラスでは一日中黙って過ごしている。
ある日、後ろの席のカノウにデートに誘われて、デートに行くが、
カノウとデートをしているところをクラスの一軍女子にバレてしまい、エリイはいじめの対象に――。


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