お菊は見てはいけないものを見てしまった。
その日は母に内緒で、村から少し外れた森林の奥深くまでかごを抱えてキノコ取りに励んでいた。まだ七つのお菊にとって、身長と大差ないカゴを運びながら凸凹とした紅色の落ち葉で覆われた林床を歩くので精一杯だった。
(・・・キノコだ!)
キノコを発見した喜びでキノコの方へ手を伸ばした瞬間、背筋を氷柱で撫でられたような強烈な悪寒を感じた。陽が傾きかけているこの刻に一人で森を散策していたら、不気味さを感じずにはいられないが、周辺の木々の間から漏れている光がモヤモヤと怪しく踊っているように見えたのは気のせいだろうか。
お菊はキノコを少し乱暴にカゴに投げ入れ、早く用事を済ませようと決心したが、そう遠くない背後から地面を踏みつける複数の足音と衣擦れの音がして、反射的に音のする方向を見てしまった。
籠を担いで木々の間を縫うように足早に歩いている人の集団だった。いや、人と呼んでいよいものだろうか。纏っている衣服からは男性と判断はできるが、肝心の顔が狐のお面で隠されていて、さささっと足を動かすその妖しい姿はお菊の目には非人間的にしか見えない。
そのうちの一人がギクッと顔の角度を変え、木の後ろで怯えながら様子を伺っていたお菊に向かってきた。
「見ましたね、お嬢ちゃん。あなたの番も回ってきますよ」
木の前で足をピタッと止めて告げた彼の声は冷ややかで、鼓膜を通って背筋を一瞬にして凍らせた。
顔は狐の仮面で覆われていて見えないものの、その仮面の下には満面の笑みが広がっていることがなぜかわかった。
***
すうっとお菊の腰まで来る長さの頑固な黒髪を櫛で梳く音が、寂しく片付けられた部屋に鳴り響く。お母さんに手荒に髪を梳いてもらうのは、今日が最後である。
「痛っ」
髪に絡まった櫛を強引に引っ張る度に毛が抜けてしまうのではないかと思ってしまう。
10年前のあの日、森林で目撃したことを帰ってすぐにお母さんに報告すると、お母さんに咎められることなく、驚き一つも見せない様子で淡々とこの仙納村(せんのむら)に代々伝わる不可解な呪いと残酷な儀式について語り出した。
それは、100年近くも前にこの地域の住人たちが飢えのあまり、通りかかった旅途中の仙人を喰い殺してしまったことが始まりだという。腹を少々満たすことの出来た人々はようやく我に帰り、とんでもないことをやってしまったと気づくが、死に間際の仙人は報復として村人に村から出ることができないよう呪いをかけたようで、取り返しのつかない状況だった。一歩でも外に出てしまった者は外界を占領した妖狐たちに狙われ、喰われるという。困っていた村人に救いの手を差し伸べたのは、遥か遠くの地からやってきた恐ろしくも美しい狐神だった。悪意に満ちた村外の妖狐たちから守るのと引き換えに、生贄を定期的に差し出さなければならないのだ。
まさに生贄の花嫁を差し出す嫁入り行列を目撃してしまったお菊は、結婚適齢期になる今日に嫁入りする予定なのだ。去年は隣家に住む物静かなお鈴ちゃんで、3年前はいつも恋愛話に花を咲かせて楽しそうに話すのが好きだった小春さんだった。女の場合は大体17歳前後が多いが、男の場合はいつも10歳前後で狐神様に捧げられ、一緒にどんぐり拾いをして遊ぶのが好きだったお菊の幼馴染の狐太郎もそのうちの一人だった。
ようやく自分の番も回ってきただけのこと。
10年も前から覚悟していたせいか、自分を待ち受けているであろう恐ろしい運命を、驚くほどに清々しい面持ちで迎えていた。
「お母さん、今までありがとうね。」
声が震える寸前のところで、言葉を止める。
(・・・もっと一緒にいたかった。もっと話をしたかった。そして最後くらいは、お母さんの本当の笑顔を見てみたかった...)
この切実な思いは届くことはないだろう。
記憶のある限り、お母さんはどこか冷たく、必死に母の愛を求めて反抗をしていた幼少期と変わらずお菊の心は満たされることなく空虚なまま。
「そんなこと言わないでよ。ほら、迎えが来てるよ」
母はいつも言葉足らずで、その顔からは感情が読み取れない。
冷たく肉付きの良いお母さんの手に誘導されて、ついに玄関まで来てしまった。玄関の扉の向こう側には、狐神のお屋敷まで連れて行ってくれる狐のお面を被った男たちの影が伸びており、玄関の戸から一歩出ると同時に、一斉に男たちの顔がこちらに向けられる。別れの挨拶をする隙すら与えられぬまま籠に乗せられ、一歩づつ村から遠ざかっていく。
男たちの荒息と籠の揺動の激しさが増した頃、村の境界線を少し超えた険しい道で唐突にお菊を乗せた籠が地面にドシっと降ろされた。周りの様子を確認する間もなく、いきなりすぐ近くで男の叫び声と、ぶつかり合う刀の鋭い金属音が静まり返っていた森林でこだました。やはり人喰いの妖狐は村の境界線付近で人間が近づくのを待ち構えているようだ。
「いいか、何があっても絶対に顔を出すなよ」
低く透き通った声がそうお菊に言い聞かせ、返事の代わりに身を縮ませて喧騒が落ち着くまで息を潜めて耐えた。
***
籠の隙間から溢れる陽光が月光に変わる頃、男たちの足音がピタッと止まり、屋敷に到着したことを知らせてくれる。視界を遮っていた籠の簾が消え、どこか白々しく空に佇む満月を背にした美しくも蒼白な美青年の顔がこちらを覗き込んでいた。その表情は少し険しく、屋敷の正面玄関から溢れる灯火が彼の整った眉と鼻に投影し、まるで作りもののような顔に見えて思わず見惚れてしまう。
「着いたぞ。身の回りの世話はトメさんに頼んである──」と、その美青年が言いかけたところ、仮面を被った一人の男が何かを耳打ちする。
「すまないが、あとは頼んだぞ」
低く透き通った声でそう告げられ、この人が妖狐の襲撃の際に警告してきた人だと気づく。
彼は仮面の男と駆け足で屋敷の盛大な長屋門の方向に走って行った。
近くで待ち構えていた、六十近い優しそうな人相の持ち主であるトメさんが早々に屋敷内へ案内し、屋敷奥にある桃花色の部屋に誘導された。
「こちらがお菊様のお部屋でございます。ご自由にお使いくださいませ」
「ありがとうございます」
この部屋の淡い女性好みの色調にし、にっこりとしているトメさんにしてもこの恐ろしい狐神のお屋敷に似つかわしくない。
「疲れているようですし、今日はもうお着替えになって寝られますか」
トメさんはお菊の疲弊した顔を伺うように、清楚で上品そうな寝まきを箪笥から出し、聞いてきた。
返事をする間もなく、いきなり襖が勢いよく開き、吊り目の骨ぼねしい若い女中が早口でトメさんに呼びかける。
「トメさん、大変よ!厨房で鼠が走り回っているのよ。いつものアレで追い出して」
トメさんの目は一瞬飛び出そうになり、客人の前でそんなこと言うなとでも言いたそうな空気を醸し出したが、すぐに柔らかさを取り戻してお菊の方に向き直る。一瞬にして表情を激しく変えるトメさんはやはり、狐なのだろう。
「あとのことはここのおときにお任せします。何かありましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
そして去り際におときさんの肩に手を乗せ、目を覗き込んで意味ありげに言う。
「頼んだからね、お菊さまのこと」
おときさんは静かに頷き、彼女の鋭い双眸がギロッとお菊を値踏みするように上下する。
(・・・ああ、こう言う女は本当に嫌。どうせ喰い殺されるなら、この女狐から嫌がらせを受ける前にしてほしい)
結局、布団に入ったまま一晩中びきびくとしていたが、何事もなく夜が明け、いきなり耳元でおときさんの「おはようございます」と言う甲高い声で朦朧としていた意識が覚醒した。
***
「ちょっと失礼」
ふわりとした上品な白檀の香りが、お菊の帯に手を回している美青年の襟元から艶めかしく漂い、鼻腔をくすぐる。
このような高価な着物を身につけたのは今日が初めてで、おときさんに手伝ってもらって着たのだが、どうやら雑な仕事をしてくれたらしい。
恐ろしく顔の整った異性が至近距離にいることも、このような着物を一人前に着ることができないのも、お菊の頬を恥じらいの紅色に染めさせてしまう。
早朝に身支度を済ませたお菊の部屋に訪れたこの男は、昨夜自己紹介もなく去っていった、この屋敷の主である。
「これで帯は大丈夫だ」
「申し訳ありません、旦那様」
緊張と恐怖で混濁した思考で、柄にもない言葉を発してしまう。
「べ、別に謝るようなことではない。慣れれば問題ないだろう。お菊は昨晩何も食べずに寝たらしいな。お腹も空いているだろう。よかったら一緒に朝餉を取らないか」
どこか様子を伺うような、少し心配そうにも見える眼差しで尋ねてくる。
口で返事をする前にお腹が返事をしてしまった。
「いいから、早く。早く朝餉にして」
「お望みのままに」
外で待ち構えていたようにトメさんが食事をのせたお膳を2つ運んできて、二人向かい合うように食事をする。
「・・・」
「・・・」
これではお互いの咀嚼音だけが部屋中に鳴り響き、耐え難い空気になってしまう。
「こちらの献立、やけに油揚げが多いですね。油揚げ入りの味噌汁と漬物にいなり寿司まであります。よほどお好きなのですね」
我慢できなくなったお菊は、少し嫌味っぽく言う。
「お菊の好物だろう。昨日は色々あったことだし、今日くらいは好きなものをたくさん食べて少しでも気分が楽になればと思ってトメさんに調達してもらったんだ」
お菊を太らせた上で喰うつもりらしい。
(・・・とんでもない性癖の持ち主みたいね)
隙を突いて逃げ出すことも考えたことはあったが、後々お母さんへの報復と、一生妖狐と狐神から隠れて生きていかなければいけないことを考えると、潔く殺される方が望ましい選択に思えた。
ペロリと先に食べ終えたお菊は、「ごちそうさま」と言い、お膳を持って立ちあがろうとしたところ、旦那様に呼び止められる。
「待て。その様子ではまだ食べ足りないようだな。俺のいなりも食うか。いなりはあまり好きではないし、箸もまだつけてないから安心して食べられるぞ」
「ふふっ。それなら仕方ないですね。食べ物を粗末にしては罰が当たってしまいます」
遠慮なくいなりを頬張る姿を嬉しそうに見つめるその青年には、昨夜見せた少し険しい表情は全くなく、愛しい恋人か我が子を見るような柔らかい雰囲気が漂っていた。陽に照らされている漆黒の長髪は後頭部でまとめられていて、黒曜石のような涼しく真剣な瞳と視線がぶつかってしまうと、思わず視線を外したくなるほど強烈な何かを掻き立てられる。
「この後、一緒に出かけよう。今後のために必要なものを買い揃えたいだろうし、気晴らしにもいい。トメさんを呼んでくるから、支度を手伝ってもらおう」
「えっ、外に出ても大丈夫なんですか」
返事も聞かないで出て行こうとする少し傲慢な男に問いかける。
「俺が付いていれば問題ない。外出は禁止しないが、絶対に一人で出歩くなよ。外出したい時には必ず俺か、この屋敷にいる男性に頼むように」
「わかりました」
聞き耳を立てていたとしか思えないちょうどいい頃にトメさんが「失礼します」と言いながら部屋に入ってきて、二人きりになったところで身支度が始まる。
「お食事は口に合いましたか」
柔らかい口調で聞くトメさんが沈黙を破る。
「はい、どれもとてもおいしかったです。私が昨日油揚げが好きだと言ったのを覚えてくれていたんですね。旦那様がいなり嫌いだというのはとても意外でした。」
「旦那様はいなりが大好物ですよ。いくら作っても足りないくらいで、恥ずかしい話、いつも使用人たち全員にまわせるほど残らないのですよ。」
トメさんの目はきょとんとして、少し首を傾げながら言う。
実に不可解だ。自分の取り分を犠牲にしてまでお菊に食わせるなんて。燕のように、自然界では親子間で餌やりの際、親が自身の健康を害してまで子供を優先的に食べさせることがあるが、それが利己的な人間ときたら、そのような自己犠牲的精神は見たことがない。実際、お菊も第二の好物である天ぷらを、お母さんが気づかれぬようこっそりと食べているのを何度も見かけたことがある。それがお菊にとっての普通だ。
やはりあの狐神男の魂胆が理解できない。好きなものを食べさせてくれるし、今後の生活のために買い物に連れて行ってくれると言うからには、すぐに殺すつもりはないらしい。直接問い出すのは正直怖いが、もう少しだけ様子を伺ってから聞くと決めた。
廊下を歩いてくる少し不機嫌な足音が近づいてくる。あの女狐のおときさんに違いない。
「何でこの女だけ特別扱いなのよ」
独り言にしては音量が大きすぎる声が聞こえる。
しかし、襖を開けたその姿は昨日とは全く違うおときさんだった。吊り目なところは変わらないが、黒い優美な曲線が目を縁取り、顔全体と調和の取れているその様はとても妖艶だった。全体的に白がかった顔と頬を染める桜色は、きっと男を貶めいれる罠だと本能的にわかる。恐るべし、女狐の化術。
おときさんの数歩後ろ歩いている凛とした影が見えた途端、おときさんの狙っている獲物が誰なのかわかった。
「旦那様の支度が終わりました」
お菊の存在を無視するようにトメさんに報告する。
「旦那様の好きないなりを作って待っております。行ってらっしゃいませ〜」
まるで好きな食べ物に唾をつけて近づいてくる人を威嚇するように、女にしか分からないような敵意をむき出しにしてくる。
(・・・やれやれ、面倒臭い女狐だ)
***
醤油と砂糖が混ざった甘い、食欲を掻き立てる焼き煎餅の香りが風に乗ってじんわりとお菊の鼻に届く。
人の姿をした妖狐たちで賑わっている町中の様子は、お菊に強烈な興奮と恐怖を交互に感じさせる。なにせ、店先に並ぶものは初めて見るものばかりで、綺麗な飴玉や着物に簪。つい立ち止まって見てしまうお菊に、嫌な顔ひとつしない旦那様に一寸ばかりの感謝をする。
綺麗な翡翠色の玉のついた簪を丁寧に手に取って観察する。
「それが気に入ったか。好きなのをどれでも選べ」
「いいんですか」
瞳に星を宿して甘い声で問う。
「俺は向かいの建物に用事があるから、ゆっくり見ているといい」
そう言って去る旦那様の後ろ姿を見てお菊は決めた。
(・・・よし、一番高い簪にしよ)
「まあ、孝太郎様が女性を連れてくるのは初めてなので、こっちまで嬉しくなりますわ」
奥から出てきた女性がお菊が手に取っているこの店で一番高価な簪を見て嬉しそうに言う。
(・・・孝太郎様って旦那様の名前なんだ)
今更ながらに自分の無関心に驚くが、それでも謎が深まるばかりだ。お菊が初めての女性っていうことは、今までの生贄たちは外に連れ出す段階の前に食い殺してしまったということなのか。
会計を済ませ、近くのお茶処でお茶をしようと提案した旦那様に連れられ、お店の方向に歩いていると、少し酒気帯びたやつれ顔の女性がお菊を避けるように駆けていく。思わず立ち止まってしまう。その顔には妙に見覚えがあったからだ。
拭いきれないその既視感を胸に、お菊は弾力のある団子を口の中でドロドロになるまで噛んでしまう。
少し敷居の高いこのお茶処では、庭園を見渡しながらお茶が楽しめる。だが、残念なことに、庭の手入れが行き届いていなのか、お菊たちの前に植えてある笹の小さな林のほとんどが枯れてしまっている。
これ以上質問を焦らす訳には行かない。ずっと気になっていたことを口にする。
「他の生贄たちはどうなったのですか」
先に食べ終えて笹の近くで屈んで庭を眺めていた旦那様が振り向いて目を合わせる。少し罪悪感を孕んだ黒曜石が僅かに揺らぎ、伏せられる。
「あの人たちには悪いことをしてしまったな。もう少し違うヤり方があったのではないかと、少し後悔している。生贄の多くはうまく馴染めず、ここに無理やり植えられた笹と同じ運命を辿ることになった」
大分回りくどい言い方で誤魔化されて、少し苛立ちが募る。
「どういうこと?お鈴ちゃんは?」
「お鈴のことは悪いが言えない」
旦那様の強い眼光が、お鈴ちゃんに起きた悲劇を本能的に察知させる。
お菊は口を手で覆い、激しく首を左右に振り、声にならない悲鳴をあげた。
(・・・小春さんは?狐太郎くんは?)
聞きたいけど聞けない。それよりも目の前にいる甘い顔をした化け物から逃げ出したいと強く願って、お菊は今まで走ったことのないような速さで店を後にした。
この際、妖狐に喰われようが、どうなってもいい。
いかにも怪しそうな路地裏に逃げ込んでから、お菊は己の愚かさを思い知ってしまう。
「可愛いねえちゃん見ーつけた」
「おいおい、こいつは公平に分け合おうぜ」
「本当だ。かなり美味しそうな娘だ」
逃げ出そうとするお菊の肩を3人の髭を伸ばした不潔そうな妖狐の男性が掴む。
「きゃあ!誰か助けてー」
助けなど来るはずがないとわかっていても、反射的に叫んでしまう。
「こいつを黙らせろ」
男は短刀を喉に突きつけ、黙らせようとすると、聞き慣れた低く透き通った声が男たちの背後から聞こえてくる。
「お菊、目をつむっていろ。俺がいいと言うまで開くな」
心地良いその声に反射的に従い、まるで何かの魔法にかかったかのように、暗黒がかった視界と同時に周りの音がゆっくりと消えてゆく。
***
鼻につく鉄錆の生臭い香りと、優雅な白檀の香りが意識を失っていたお菊を優しく呼び覚ます。靄がかった視野に映し出されたのは燭台に優しく照らされている桃花色の部屋だった。いつの間にかこの屋敷に連れ戻されたようだ。
なぜか体が妙に温かい。ここで、自分を包み込むように抱えている逞しい腕に気づき、その腕をたどってゆっくりと視線を上げたところ、その腕の持ち主と視線がぶつかる。哀傷と心配を両方孕んだその真剣な双眸は、お菊の気持ちを深く探るように覗き込んでいる。
「あの男たちのことならもう心配ない。ここは安全だ」
少しためらいのある手つきで、まるで子をあやすように優しく肩を叩く。
「怪我はないか?痛むところはないか?」
「あ、ありません」
掠れた声を絞り出して言う。
「それはよかった」
心底安堵したような柔らかい声で言うから、お菊も少し罪悪感を感じられずにはいられない。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「いいんだ。それより、何か誤解があるかもしれないと思って、ちゃんとこの場で話し合いがしたいんだ。」
「誤解?」
「トメさんかおときさんからどこまで聞いた?」
「何の話かも全然わからないのに、どこまでと聞かれましても困ります」
旦那様の目が点になる。
「もしかして何も聞かされていないと言うのか?」
お菊には心あたりがあった。
「きっと、あのおときさんですわ。私が何も知らされていないことを内心喜んで見ているのよ」
旦那様はその意見に同意したらしく、何かを決意したようにお菊を見据える。
「えらい落ち着いていたからおかしいとは思っていた。こういうことは伝え方を間違えると、大変なことになるとこの身を持って何回も体験した。信じられないかもしれないし、俺を恨むかもしれない。それでもお菊は真実を知りたいか?」
お菊は視線を外さず頷く。
「まず、お菊がここに来た日のことから話そう。俺はここの者を数人連れて、本来お前を狐神のところへ連行するはずだった輩に紛れてお前を村外に運んだ。人気のないところまで来て、そいつらを始末した」
「えっ、ではあなたは誰ですか?」
質問を無視して旦那様は続けて言う。
「ここからが肝心だ。今まで信じ込まされたことが真逆なんだ。妖狐たちが外から村人を見てよだれを垂らしていると言われてきただろう。それが違うんだ。村の外には人間がいて、村人が妖狐なのだ。もちろん、お菊や生贄の子達は皆人間さ。まだ赤ん坊の頃に攫われ、うまく従順に、立派に育ったところを狐神様に捧げられる」
情報の多さとその内容にお菊は言葉を失う。旦那様は両肩に手を乗せ、こう告げる。
「でも、一番恐るべきなのはここからだ───狐神は存在しない」
「え」
お菊が今まで信じてきたものが一気に崩れる瞬間、それは壊れた防波堤から水が溢れるごとく、意識深くに押し込んでいた疑念や感情がじわじわと表層する。
「生贄は皆金銭のために売り飛ばされるのだ。女なら花街に、男は労働力として。呪いと狐神は金に目が眩んだ村人が子供たちに言い聞かせるためにでっちあげた話なんだ。今回のように連行中に救えた子たちは二人ほどいた。お前も知っている、お鈴と小春のことだ。でも、二人ともその事実が受け入れがたかったようで、屋敷の者の目を盗んで逃げていった。お鈴が今、どうしているか知りたいと言っていたな。この際だから正直に言おう。災難なことに、路頭に迷っているところ、人攫いにあって今は宿場町の娼婦をやらされていると聞いた。小春はどこかの商家に運よく拾われた」
お菊はハッとした。今日、道ですれ違ったあのやつれた女性がお鈴ちゃんだったとようやく気づく。そして、お菊が度々村の境界線を越えてキノコ取りをしても妖狐たちに襲われることもなかった。壊れた茶碗のかけらをつなぎ合わせるように、段々と理解と納得が追いつく。
お母さんがいつも向けてくる冷たい眼差しが脳裏をよぎる。その愛のない言動に振り回されて、お菊は何年も抗うことのできない孤独と戦ってきたが、その愛を求める相手がそもそも間違っていたと、ここでついに理解する。壊れた茶碗の最後のかけらがはまり、残っている疑問を口にする。
「ちゃんと答えてください。あなたは一体誰なんでしょうか?」
旦那様は懐にしまっていた巾着を取り出し、その中身をお菊の手の平に乗せる。それは、少し古そうな数個のどんぐりであった。
「あなた、もしかて狐太郎くん?」
「今は孝太郎だ。売り飛ばされた先がこの家で下働きをしていたが、たまたま気に入られて、跡取りもいないことから養子として迎えられた。あの村から縁を切りたいと思って名前まで変えたが、見捨てることができなかったんだ。みんなを。お菊を」
切実な瞳を向けられ、お菊は胸が甘く軋む感覚に見舞われる。
「では、トメさんとおときさんはどうなんですか?やはり狐なんですか?」
ここで見てきた二人の不可解な言動について入念に語って意見を求める。
旦那様は口を押さえて、まるで笑いを一生懸命に堪えているような表情を見せる。
「トメさんは元々、とても感情豊かでよくコロコロ表情を変える方だ。鉄製の扇で鼠を追い出すのが得意技だと聞いている。おときさんの化術だが、それは狐固有のものではなくて、人間の女性なら誰もができる化粧というものだ。こうやって、石や植物の粉を顔につけて美しくするんだ」
旦那様はお菊の顔に優しく触れ、指を筆に見立ててお菊の頬と唇をゆっくりとなぞっていく。その指が微かに血生臭く、無意識に傷口を目で探す。
彼の腕には生々しい刀傷があり、自分を庇ってできたものだと思うと胸が苦しくなる。この人は躊躇いもなく、何度も身を挺して守ってくれる優しい人だ。怪我の応急措置をしようとしても、「大したことない」と言ってお菊の心配を払拭しようとする姿を少し愛おしくも感じる。
「そんなことより、髪が大分乱れてしまったようだ。髪を梳いてあげよう」
彼は後ろに回り、髪を雑にまとめていた簪を引っこ抜くと、髪が肩に落ちてきた。その一房を丁寧に持ち上げ、まるで高級な絹糸のように優しく梳く。部屋に髪を梳く優しい音が鳴り響くたびに、お菊の空虚だった心は少しずつ満たされていった。
その日は母に内緒で、村から少し外れた森林の奥深くまでかごを抱えてキノコ取りに励んでいた。まだ七つのお菊にとって、身長と大差ないカゴを運びながら凸凹とした紅色の落ち葉で覆われた林床を歩くので精一杯だった。
(・・・キノコだ!)
キノコを発見した喜びでキノコの方へ手を伸ばした瞬間、背筋を氷柱で撫でられたような強烈な悪寒を感じた。陽が傾きかけているこの刻に一人で森を散策していたら、不気味さを感じずにはいられないが、周辺の木々の間から漏れている光がモヤモヤと怪しく踊っているように見えたのは気のせいだろうか。
お菊はキノコを少し乱暴にカゴに投げ入れ、早く用事を済ませようと決心したが、そう遠くない背後から地面を踏みつける複数の足音と衣擦れの音がして、反射的に音のする方向を見てしまった。
籠を担いで木々の間を縫うように足早に歩いている人の集団だった。いや、人と呼んでいよいものだろうか。纏っている衣服からは男性と判断はできるが、肝心の顔が狐のお面で隠されていて、さささっと足を動かすその妖しい姿はお菊の目には非人間的にしか見えない。
そのうちの一人がギクッと顔の角度を変え、木の後ろで怯えながら様子を伺っていたお菊に向かってきた。
「見ましたね、お嬢ちゃん。あなたの番も回ってきますよ」
木の前で足をピタッと止めて告げた彼の声は冷ややかで、鼓膜を通って背筋を一瞬にして凍らせた。
顔は狐の仮面で覆われていて見えないものの、その仮面の下には満面の笑みが広がっていることがなぜかわかった。
***
すうっとお菊の腰まで来る長さの頑固な黒髪を櫛で梳く音が、寂しく片付けられた部屋に鳴り響く。お母さんに手荒に髪を梳いてもらうのは、今日が最後である。
「痛っ」
髪に絡まった櫛を強引に引っ張る度に毛が抜けてしまうのではないかと思ってしまう。
10年前のあの日、森林で目撃したことを帰ってすぐにお母さんに報告すると、お母さんに咎められることなく、驚き一つも見せない様子で淡々とこの仙納村(せんのむら)に代々伝わる不可解な呪いと残酷な儀式について語り出した。
それは、100年近くも前にこの地域の住人たちが飢えのあまり、通りかかった旅途中の仙人を喰い殺してしまったことが始まりだという。腹を少々満たすことの出来た人々はようやく我に帰り、とんでもないことをやってしまったと気づくが、死に間際の仙人は報復として村人に村から出ることができないよう呪いをかけたようで、取り返しのつかない状況だった。一歩でも外に出てしまった者は外界を占領した妖狐たちに狙われ、喰われるという。困っていた村人に救いの手を差し伸べたのは、遥か遠くの地からやってきた恐ろしくも美しい狐神だった。悪意に満ちた村外の妖狐たちから守るのと引き換えに、生贄を定期的に差し出さなければならないのだ。
まさに生贄の花嫁を差し出す嫁入り行列を目撃してしまったお菊は、結婚適齢期になる今日に嫁入りする予定なのだ。去年は隣家に住む物静かなお鈴ちゃんで、3年前はいつも恋愛話に花を咲かせて楽しそうに話すのが好きだった小春さんだった。女の場合は大体17歳前後が多いが、男の場合はいつも10歳前後で狐神様に捧げられ、一緒にどんぐり拾いをして遊ぶのが好きだったお菊の幼馴染の狐太郎もそのうちの一人だった。
ようやく自分の番も回ってきただけのこと。
10年も前から覚悟していたせいか、自分を待ち受けているであろう恐ろしい運命を、驚くほどに清々しい面持ちで迎えていた。
「お母さん、今までありがとうね。」
声が震える寸前のところで、言葉を止める。
(・・・もっと一緒にいたかった。もっと話をしたかった。そして最後くらいは、お母さんの本当の笑顔を見てみたかった...)
この切実な思いは届くことはないだろう。
記憶のある限り、お母さんはどこか冷たく、必死に母の愛を求めて反抗をしていた幼少期と変わらずお菊の心は満たされることなく空虚なまま。
「そんなこと言わないでよ。ほら、迎えが来てるよ」
母はいつも言葉足らずで、その顔からは感情が読み取れない。
冷たく肉付きの良いお母さんの手に誘導されて、ついに玄関まで来てしまった。玄関の扉の向こう側には、狐神のお屋敷まで連れて行ってくれる狐のお面を被った男たちの影が伸びており、玄関の戸から一歩出ると同時に、一斉に男たちの顔がこちらに向けられる。別れの挨拶をする隙すら与えられぬまま籠に乗せられ、一歩づつ村から遠ざかっていく。
男たちの荒息と籠の揺動の激しさが増した頃、村の境界線を少し超えた険しい道で唐突にお菊を乗せた籠が地面にドシっと降ろされた。周りの様子を確認する間もなく、いきなりすぐ近くで男の叫び声と、ぶつかり合う刀の鋭い金属音が静まり返っていた森林でこだました。やはり人喰いの妖狐は村の境界線付近で人間が近づくのを待ち構えているようだ。
「いいか、何があっても絶対に顔を出すなよ」
低く透き通った声がそうお菊に言い聞かせ、返事の代わりに身を縮ませて喧騒が落ち着くまで息を潜めて耐えた。
***
籠の隙間から溢れる陽光が月光に変わる頃、男たちの足音がピタッと止まり、屋敷に到着したことを知らせてくれる。視界を遮っていた籠の簾が消え、どこか白々しく空に佇む満月を背にした美しくも蒼白な美青年の顔がこちらを覗き込んでいた。その表情は少し険しく、屋敷の正面玄関から溢れる灯火が彼の整った眉と鼻に投影し、まるで作りもののような顔に見えて思わず見惚れてしまう。
「着いたぞ。身の回りの世話はトメさんに頼んである──」と、その美青年が言いかけたところ、仮面を被った一人の男が何かを耳打ちする。
「すまないが、あとは頼んだぞ」
低く透き通った声でそう告げられ、この人が妖狐の襲撃の際に警告してきた人だと気づく。
彼は仮面の男と駆け足で屋敷の盛大な長屋門の方向に走って行った。
近くで待ち構えていた、六十近い優しそうな人相の持ち主であるトメさんが早々に屋敷内へ案内し、屋敷奥にある桃花色の部屋に誘導された。
「こちらがお菊様のお部屋でございます。ご自由にお使いくださいませ」
「ありがとうございます」
この部屋の淡い女性好みの色調にし、にっこりとしているトメさんにしてもこの恐ろしい狐神のお屋敷に似つかわしくない。
「疲れているようですし、今日はもうお着替えになって寝られますか」
トメさんはお菊の疲弊した顔を伺うように、清楚で上品そうな寝まきを箪笥から出し、聞いてきた。
返事をする間もなく、いきなり襖が勢いよく開き、吊り目の骨ぼねしい若い女中が早口でトメさんに呼びかける。
「トメさん、大変よ!厨房で鼠が走り回っているのよ。いつものアレで追い出して」
トメさんの目は一瞬飛び出そうになり、客人の前でそんなこと言うなとでも言いたそうな空気を醸し出したが、すぐに柔らかさを取り戻してお菊の方に向き直る。一瞬にして表情を激しく変えるトメさんはやはり、狐なのだろう。
「あとのことはここのおときにお任せします。何かありましたら、遠慮なくお申し付けくださいませ」
そして去り際におときさんの肩に手を乗せ、目を覗き込んで意味ありげに言う。
「頼んだからね、お菊さまのこと」
おときさんは静かに頷き、彼女の鋭い双眸がギロッとお菊を値踏みするように上下する。
(・・・ああ、こう言う女は本当に嫌。どうせ喰い殺されるなら、この女狐から嫌がらせを受ける前にしてほしい)
結局、布団に入ったまま一晩中びきびくとしていたが、何事もなく夜が明け、いきなり耳元でおときさんの「おはようございます」と言う甲高い声で朦朧としていた意識が覚醒した。
***
「ちょっと失礼」
ふわりとした上品な白檀の香りが、お菊の帯に手を回している美青年の襟元から艶めかしく漂い、鼻腔をくすぐる。
このような高価な着物を身につけたのは今日が初めてで、おときさんに手伝ってもらって着たのだが、どうやら雑な仕事をしてくれたらしい。
恐ろしく顔の整った異性が至近距離にいることも、このような着物を一人前に着ることができないのも、お菊の頬を恥じらいの紅色に染めさせてしまう。
早朝に身支度を済ませたお菊の部屋に訪れたこの男は、昨夜自己紹介もなく去っていった、この屋敷の主である。
「これで帯は大丈夫だ」
「申し訳ありません、旦那様」
緊張と恐怖で混濁した思考で、柄にもない言葉を発してしまう。
「べ、別に謝るようなことではない。慣れれば問題ないだろう。お菊は昨晩何も食べずに寝たらしいな。お腹も空いているだろう。よかったら一緒に朝餉を取らないか」
どこか様子を伺うような、少し心配そうにも見える眼差しで尋ねてくる。
口で返事をする前にお腹が返事をしてしまった。
「いいから、早く。早く朝餉にして」
「お望みのままに」
外で待ち構えていたようにトメさんが食事をのせたお膳を2つ運んできて、二人向かい合うように食事をする。
「・・・」
「・・・」
これではお互いの咀嚼音だけが部屋中に鳴り響き、耐え難い空気になってしまう。
「こちらの献立、やけに油揚げが多いですね。油揚げ入りの味噌汁と漬物にいなり寿司まであります。よほどお好きなのですね」
我慢できなくなったお菊は、少し嫌味っぽく言う。
「お菊の好物だろう。昨日は色々あったことだし、今日くらいは好きなものをたくさん食べて少しでも気分が楽になればと思ってトメさんに調達してもらったんだ」
お菊を太らせた上で喰うつもりらしい。
(・・・とんでもない性癖の持ち主みたいね)
隙を突いて逃げ出すことも考えたことはあったが、後々お母さんへの報復と、一生妖狐と狐神から隠れて生きていかなければいけないことを考えると、潔く殺される方が望ましい選択に思えた。
ペロリと先に食べ終えたお菊は、「ごちそうさま」と言い、お膳を持って立ちあがろうとしたところ、旦那様に呼び止められる。
「待て。その様子ではまだ食べ足りないようだな。俺のいなりも食うか。いなりはあまり好きではないし、箸もまだつけてないから安心して食べられるぞ」
「ふふっ。それなら仕方ないですね。食べ物を粗末にしては罰が当たってしまいます」
遠慮なくいなりを頬張る姿を嬉しそうに見つめるその青年には、昨夜見せた少し険しい表情は全くなく、愛しい恋人か我が子を見るような柔らかい雰囲気が漂っていた。陽に照らされている漆黒の長髪は後頭部でまとめられていて、黒曜石のような涼しく真剣な瞳と視線がぶつかってしまうと、思わず視線を外したくなるほど強烈な何かを掻き立てられる。
「この後、一緒に出かけよう。今後のために必要なものを買い揃えたいだろうし、気晴らしにもいい。トメさんを呼んでくるから、支度を手伝ってもらおう」
「えっ、外に出ても大丈夫なんですか」
返事も聞かないで出て行こうとする少し傲慢な男に問いかける。
「俺が付いていれば問題ない。外出は禁止しないが、絶対に一人で出歩くなよ。外出したい時には必ず俺か、この屋敷にいる男性に頼むように」
「わかりました」
聞き耳を立てていたとしか思えないちょうどいい頃にトメさんが「失礼します」と言いながら部屋に入ってきて、二人きりになったところで身支度が始まる。
「お食事は口に合いましたか」
柔らかい口調で聞くトメさんが沈黙を破る。
「はい、どれもとてもおいしかったです。私が昨日油揚げが好きだと言ったのを覚えてくれていたんですね。旦那様がいなり嫌いだというのはとても意外でした。」
「旦那様はいなりが大好物ですよ。いくら作っても足りないくらいで、恥ずかしい話、いつも使用人たち全員にまわせるほど残らないのですよ。」
トメさんの目はきょとんとして、少し首を傾げながら言う。
実に不可解だ。自分の取り分を犠牲にしてまでお菊に食わせるなんて。燕のように、自然界では親子間で餌やりの際、親が自身の健康を害してまで子供を優先的に食べさせることがあるが、それが利己的な人間ときたら、そのような自己犠牲的精神は見たことがない。実際、お菊も第二の好物である天ぷらを、お母さんが気づかれぬようこっそりと食べているのを何度も見かけたことがある。それがお菊にとっての普通だ。
やはりあの狐神男の魂胆が理解できない。好きなものを食べさせてくれるし、今後の生活のために買い物に連れて行ってくれると言うからには、すぐに殺すつもりはないらしい。直接問い出すのは正直怖いが、もう少しだけ様子を伺ってから聞くと決めた。
廊下を歩いてくる少し不機嫌な足音が近づいてくる。あの女狐のおときさんに違いない。
「何でこの女だけ特別扱いなのよ」
独り言にしては音量が大きすぎる声が聞こえる。
しかし、襖を開けたその姿は昨日とは全く違うおときさんだった。吊り目なところは変わらないが、黒い優美な曲線が目を縁取り、顔全体と調和の取れているその様はとても妖艶だった。全体的に白がかった顔と頬を染める桜色は、きっと男を貶めいれる罠だと本能的にわかる。恐るべし、女狐の化術。
おときさんの数歩後ろ歩いている凛とした影が見えた途端、おときさんの狙っている獲物が誰なのかわかった。
「旦那様の支度が終わりました」
お菊の存在を無視するようにトメさんに報告する。
「旦那様の好きないなりを作って待っております。行ってらっしゃいませ〜」
まるで好きな食べ物に唾をつけて近づいてくる人を威嚇するように、女にしか分からないような敵意をむき出しにしてくる。
(・・・やれやれ、面倒臭い女狐だ)
***
醤油と砂糖が混ざった甘い、食欲を掻き立てる焼き煎餅の香りが風に乗ってじんわりとお菊の鼻に届く。
人の姿をした妖狐たちで賑わっている町中の様子は、お菊に強烈な興奮と恐怖を交互に感じさせる。なにせ、店先に並ぶものは初めて見るものばかりで、綺麗な飴玉や着物に簪。つい立ち止まって見てしまうお菊に、嫌な顔ひとつしない旦那様に一寸ばかりの感謝をする。
綺麗な翡翠色の玉のついた簪を丁寧に手に取って観察する。
「それが気に入ったか。好きなのをどれでも選べ」
「いいんですか」
瞳に星を宿して甘い声で問う。
「俺は向かいの建物に用事があるから、ゆっくり見ているといい」
そう言って去る旦那様の後ろ姿を見てお菊は決めた。
(・・・よし、一番高い簪にしよ)
「まあ、孝太郎様が女性を連れてくるのは初めてなので、こっちまで嬉しくなりますわ」
奥から出てきた女性がお菊が手に取っているこの店で一番高価な簪を見て嬉しそうに言う。
(・・・孝太郎様って旦那様の名前なんだ)
今更ながらに自分の無関心に驚くが、それでも謎が深まるばかりだ。お菊が初めての女性っていうことは、今までの生贄たちは外に連れ出す段階の前に食い殺してしまったということなのか。
会計を済ませ、近くのお茶処でお茶をしようと提案した旦那様に連れられ、お店の方向に歩いていると、少し酒気帯びたやつれ顔の女性がお菊を避けるように駆けていく。思わず立ち止まってしまう。その顔には妙に見覚えがあったからだ。
拭いきれないその既視感を胸に、お菊は弾力のある団子を口の中でドロドロになるまで噛んでしまう。
少し敷居の高いこのお茶処では、庭園を見渡しながらお茶が楽しめる。だが、残念なことに、庭の手入れが行き届いていなのか、お菊たちの前に植えてある笹の小さな林のほとんどが枯れてしまっている。
これ以上質問を焦らす訳には行かない。ずっと気になっていたことを口にする。
「他の生贄たちはどうなったのですか」
先に食べ終えて笹の近くで屈んで庭を眺めていた旦那様が振り向いて目を合わせる。少し罪悪感を孕んだ黒曜石が僅かに揺らぎ、伏せられる。
「あの人たちには悪いことをしてしまったな。もう少し違うヤり方があったのではないかと、少し後悔している。生贄の多くはうまく馴染めず、ここに無理やり植えられた笹と同じ運命を辿ることになった」
大分回りくどい言い方で誤魔化されて、少し苛立ちが募る。
「どういうこと?お鈴ちゃんは?」
「お鈴のことは悪いが言えない」
旦那様の強い眼光が、お鈴ちゃんに起きた悲劇を本能的に察知させる。
お菊は口を手で覆い、激しく首を左右に振り、声にならない悲鳴をあげた。
(・・・小春さんは?狐太郎くんは?)
聞きたいけど聞けない。それよりも目の前にいる甘い顔をした化け物から逃げ出したいと強く願って、お菊は今まで走ったことのないような速さで店を後にした。
この際、妖狐に喰われようが、どうなってもいい。
いかにも怪しそうな路地裏に逃げ込んでから、お菊は己の愚かさを思い知ってしまう。
「可愛いねえちゃん見ーつけた」
「おいおい、こいつは公平に分け合おうぜ」
「本当だ。かなり美味しそうな娘だ」
逃げ出そうとするお菊の肩を3人の髭を伸ばした不潔そうな妖狐の男性が掴む。
「きゃあ!誰か助けてー」
助けなど来るはずがないとわかっていても、反射的に叫んでしまう。
「こいつを黙らせろ」
男は短刀を喉に突きつけ、黙らせようとすると、聞き慣れた低く透き通った声が男たちの背後から聞こえてくる。
「お菊、目をつむっていろ。俺がいいと言うまで開くな」
心地良いその声に反射的に従い、まるで何かの魔法にかかったかのように、暗黒がかった視界と同時に周りの音がゆっくりと消えてゆく。
***
鼻につく鉄錆の生臭い香りと、優雅な白檀の香りが意識を失っていたお菊を優しく呼び覚ます。靄がかった視野に映し出されたのは燭台に優しく照らされている桃花色の部屋だった。いつの間にかこの屋敷に連れ戻されたようだ。
なぜか体が妙に温かい。ここで、自分を包み込むように抱えている逞しい腕に気づき、その腕をたどってゆっくりと視線を上げたところ、その腕の持ち主と視線がぶつかる。哀傷と心配を両方孕んだその真剣な双眸は、お菊の気持ちを深く探るように覗き込んでいる。
「あの男たちのことならもう心配ない。ここは安全だ」
少しためらいのある手つきで、まるで子をあやすように優しく肩を叩く。
「怪我はないか?痛むところはないか?」
「あ、ありません」
掠れた声を絞り出して言う。
「それはよかった」
心底安堵したような柔らかい声で言うから、お菊も少し罪悪感を感じられずにはいられない。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「いいんだ。それより、何か誤解があるかもしれないと思って、ちゃんとこの場で話し合いがしたいんだ。」
「誤解?」
「トメさんかおときさんからどこまで聞いた?」
「何の話かも全然わからないのに、どこまでと聞かれましても困ります」
旦那様の目が点になる。
「もしかして何も聞かされていないと言うのか?」
お菊には心あたりがあった。
「きっと、あのおときさんですわ。私が何も知らされていないことを内心喜んで見ているのよ」
旦那様はその意見に同意したらしく、何かを決意したようにお菊を見据える。
「えらい落ち着いていたからおかしいとは思っていた。こういうことは伝え方を間違えると、大変なことになるとこの身を持って何回も体験した。信じられないかもしれないし、俺を恨むかもしれない。それでもお菊は真実を知りたいか?」
お菊は視線を外さず頷く。
「まず、お菊がここに来た日のことから話そう。俺はここの者を数人連れて、本来お前を狐神のところへ連行するはずだった輩に紛れてお前を村外に運んだ。人気のないところまで来て、そいつらを始末した」
「えっ、ではあなたは誰ですか?」
質問を無視して旦那様は続けて言う。
「ここからが肝心だ。今まで信じ込まされたことが真逆なんだ。妖狐たちが外から村人を見てよだれを垂らしていると言われてきただろう。それが違うんだ。村の外には人間がいて、村人が妖狐なのだ。もちろん、お菊や生贄の子達は皆人間さ。まだ赤ん坊の頃に攫われ、うまく従順に、立派に育ったところを狐神様に捧げられる」
情報の多さとその内容にお菊は言葉を失う。旦那様は両肩に手を乗せ、こう告げる。
「でも、一番恐るべきなのはここからだ───狐神は存在しない」
「え」
お菊が今まで信じてきたものが一気に崩れる瞬間、それは壊れた防波堤から水が溢れるごとく、意識深くに押し込んでいた疑念や感情がじわじわと表層する。
「生贄は皆金銭のために売り飛ばされるのだ。女なら花街に、男は労働力として。呪いと狐神は金に目が眩んだ村人が子供たちに言い聞かせるためにでっちあげた話なんだ。今回のように連行中に救えた子たちは二人ほどいた。お前も知っている、お鈴と小春のことだ。でも、二人ともその事実が受け入れがたかったようで、屋敷の者の目を盗んで逃げていった。お鈴が今、どうしているか知りたいと言っていたな。この際だから正直に言おう。災難なことに、路頭に迷っているところ、人攫いにあって今は宿場町の娼婦をやらされていると聞いた。小春はどこかの商家に運よく拾われた」
お菊はハッとした。今日、道ですれ違ったあのやつれた女性がお鈴ちゃんだったとようやく気づく。そして、お菊が度々村の境界線を越えてキノコ取りをしても妖狐たちに襲われることもなかった。壊れた茶碗のかけらをつなぎ合わせるように、段々と理解と納得が追いつく。
お母さんがいつも向けてくる冷たい眼差しが脳裏をよぎる。その愛のない言動に振り回されて、お菊は何年も抗うことのできない孤独と戦ってきたが、その愛を求める相手がそもそも間違っていたと、ここでついに理解する。壊れた茶碗の最後のかけらがはまり、残っている疑問を口にする。
「ちゃんと答えてください。あなたは一体誰なんでしょうか?」
旦那様は懐にしまっていた巾着を取り出し、その中身をお菊の手の平に乗せる。それは、少し古そうな数個のどんぐりであった。
「あなた、もしかて狐太郎くん?」
「今は孝太郎だ。売り飛ばされた先がこの家で下働きをしていたが、たまたま気に入られて、跡取りもいないことから養子として迎えられた。あの村から縁を切りたいと思って名前まで変えたが、見捨てることができなかったんだ。みんなを。お菊を」
切実な瞳を向けられ、お菊は胸が甘く軋む感覚に見舞われる。
「では、トメさんとおときさんはどうなんですか?やはり狐なんですか?」
ここで見てきた二人の不可解な言動について入念に語って意見を求める。
旦那様は口を押さえて、まるで笑いを一生懸命に堪えているような表情を見せる。
「トメさんは元々、とても感情豊かでよくコロコロ表情を変える方だ。鉄製の扇で鼠を追い出すのが得意技だと聞いている。おときさんの化術だが、それは狐固有のものではなくて、人間の女性なら誰もができる化粧というものだ。こうやって、石や植物の粉を顔につけて美しくするんだ」
旦那様はお菊の顔に優しく触れ、指を筆に見立ててお菊の頬と唇をゆっくりとなぞっていく。その指が微かに血生臭く、無意識に傷口を目で探す。
彼の腕には生々しい刀傷があり、自分を庇ってできたものだと思うと胸が苦しくなる。この人は躊躇いもなく、何度も身を挺して守ってくれる優しい人だ。怪我の応急措置をしようとしても、「大したことない」と言ってお菊の心配を払拭しようとする姿を少し愛おしくも感じる。
「そんなことより、髪が大分乱れてしまったようだ。髪を梳いてあげよう」
彼は後ろに回り、髪を雑にまとめていた簪を引っこ抜くと、髪が肩に落ちてきた。その一房を丁寧に持ち上げ、まるで高級な絹糸のように優しく梳く。部屋に髪を梳く優しい音が鳴り響くたびに、お菊の空虚だった心は少しずつ満たされていった。