「ね、僕が死にたいって言ったらどうする。」
なんてことない雑談の中に突如出てきた爆弾。驚いて隣で鉛筆を走らせる君を見た。君は私の視線に気が付いているはずなのに何も言ってこない。私が何か答えるのを待っているんだろう。
「そりゃ、止めたいと思う。」
「そっか。」
平坦に返ってきた返事を聞き流しながら君が死ぬ姿を想像してみた。君が死ぬとしたら……? 多分首吊りか練炭を選びそう。他と比べて苦しみが少ないって聞くから。それで君は目を閉じて遠ざかっていく意識の中、死が訪れる瞬間を待って……。嫌だな。そこまで想像してから怖くなった。身震いをしながら私も聞く。
「じゃあ私も死にたいって言ったら?」
「死ねば?」
鼻で笑う君にひどい、と頬を膨らませながら私も鉛筆を走らせる。私たちは美術の居残りでデッサンをしているのだ。授業中も今も話しながら進めているせいで全く終わらない。提出しないと成績が付かないのに。もう美術室には夕日が差し込んできている。デッサンには夕日もいい味を出すけれどできれば明るいうちに終わらせたかった。せっかく今日は午前中だけの授業だったのに。一体この課題に何時間かけているんだろう。
「そろそろ終わらせなきゃね。」
君がぽつり、と自分に言い聞かせるようにした言葉にうん、と口の中で返事をしながらさっきの質問をもう一度考える。
 もし、死にたいって言われたら。道徳的な答えなら「死なないで」とか「悲しいよ」とかかな。もう少しいい人なら「何かあるなら言ってね」・「いつでも話聞くよ」辺りか。私は驚いて道徳的な答えを言っちゃったわけだけど、ゆっくりと考えると言いたいことは変わってきた。止めたいとは思うけれど。苦しんでいる人に生きてっていうのも残酷な話。でもそれを言い出せるような空気じゃない。ゆったりとした雰囲気の中でいきなり言い出せるわけない。……ん?いや、さっきは唐突に話が始まったわけだから私が言い出しても問題ないのかな。悩んでいると君が勢いよく席を立った。どうしたんだろう。
「終わった。」
「え。」
同じくらいのスピードで描いていたのに。私はまだ終わってない。がっくりとうなだれる私に上から声が降ってきた。
「架遠は僕よりずっと描きこんでるんだから当然でしょ。何か飲み物買ってくる。」
私のキャンバスを眺めながら君は教室を出て行った。私も早いとこ終わらせよう。さっきまでの雑念を振り払ってキャンバスに向かう。しばらく無言で鉛筆や消しゴムを動かしているとやっと満足のいくものが出来上がった。光の加減もいい感じにできたと思う。詰めていた息を吐きだすと手元が暗くなっていることに気が付いた。描いているときは全く気が付かなかった。慌てて窓を見ると外はもう暗い。帰らないと。
 鉛筆を置くと後ろから影がかかった。
「わっ! 」
「ぎゃあ! 」
いきなり大きな声が聞こえて心臓が飛び出しそうなほど鼓動が早まっている。
「びっくりした?」
後ろには君がいた。むくれる私にもっと君は笑う。そっぽを向きながら君にいつ戻ってきていたのか聞く。戻ってきたのは少し前で、私が真剣に描いていたから声をかけなかったのだという。
「言ってくれればよかったのに。」
邪魔したくないから、と笑う君はなんとなく寂しそうだった。
「お疲れさん。冷めちゃったと思うけどあげる。架遠頭使ってたから糖分。」
渡されたのはココア缶。外の自販機に行ってきたのかな。君の手には同じココアの空き缶が握られている。ありがたく受け取りプルタブを開けようとするが手先に力が入らない。
「開かない? 」
少し恥ずかしくて無言でもう一度挑戦。震える指でなんとか開けようとしていると上から缶が取り上げられた。君がカシュ、と簡単に開けてもう一度私の手の中に戻してくれた。
「今日結構描いたから糖分不足なんだよ。力が入らなくて当然。ラムネ食べてなかったしね。」
「なくてもいけると思ったんだよ。」
私は人よりエネルギー効率が悪いみたいで、頭を使ったり集中を続けているとすぐに糖分不足に陥る。普段は授業の合間にラムネを食べて補給しているが、今日は午前授業だったから油断していたのだ。開けてもらったココアをゆっくり飲む。甘い。
「落ち着いたら帰ろうか。」
「ありがとう。」
以前、低血糖で倒れてからというもの君は私に過保護になったように思う。私に食べさせるためだけにラムネを常備したり、今日みたいに甘い飲み物をくれたり。少し申し訳ない気持ちもあるけれど、お金を頑として受け取ってもらえないからさながら私は餌付けされている動物のようだ。
 ココアを飲み切って雑談をしながら片づけをして外に出る。デッサン用の石膏を少しぶつけてしまったことは私たちだけの秘密。
 外に出た瞬間、空気が痛いと思った。コートの襟を合わせる。寒い。雪が降ってきてもおかしくないくらいに寒い。12月を舐めていた。マフラーを忘れた今朝の自分を恨みたい。明日は絶対に手袋もセットで持ってこよう。一人でこっそりと震えていると首元にふんわり柔らかいものがかけられた。マフラーだ。
「ほら、少し首出して。」
手際よく巻き付けられる。え、とかあ、とかしか言えない私を置いてマフラーは巻かれた。
「これ君のじゃん!」
「いいのいいの。」
 返却は受け付けません、と言いながら君が先に進む。君も寒いだろうに。返そうにも受け取ってくれそうにないし、私よりも高いところにある君の首に手早く巻き付けられる自信はない。諦めて小走りで追いかけてお礼を言う。最初から受け取っときな、と言って君は目を細める。紺色のマフラーはさっきまで君の首に巻かれていたからほんのりとあったかい。巻いていたのにわざわざ外してくれたのか。そこからは適当な話をしてバス停まで歩いた。バスに乗るのは私だけ。君は迎えの車を探して視線をさまよわせている。あった、と呟くのを聞いて、また明日、と声をかけたが君は動かない。
「帰らないの?」
「ねえ、死にたいって言ってもいい。」
ぽつり、と放たれた言葉は冬の空気に何故だかよく似合っている。私は考えていたことを口にした。なんとなく、このタイミングを逃したらもう言えない気がしたのだ。
「いいよ。あと、君が死ぬなら私も一緒に死ぬ。」
呆気に取られている君を見て思わず笑ってしまう。
「な、んで。」
「しんゆうだから、かな。」
私にとって初めてのしんゆう。一人にはできない。
タイミング悪くバスがやってきた。これを逃すと次は一時間も先だ。寒い中一時間は待っていられない。背中を押すように君が私をバスに押し込む。窓の外ではいつものように笑う君が手を振っている。小さく手を振り返すとバスはゆっくりと発車した。
 その夜、私はパソコンに向かっていた。送るかどうかも決めていないメールを作る。何度も消してやっと完成した文面。それを眺めながら私はゴミ箱のマークを押した。きっとこれは、聞かなくて良いことだから。打っていたのは「親しい友達・心の友達・信じられる友達・深い友達・本物の友達。」それだけだった。あの時君は私の言った「しんゆう」をどれで解釈したのか気になったのだ。
 次の日、学校に着くと君の姿はなかった。私は時間ギリギリに来ているから今姿が見えないってことは遅刻だろう。マフラーを返そうと思っていたのに。机に突っ伏して紺色のマフラーに顔を埋めながらメッセージを送ってみるが既読はつかない。そのうちにお昼休みに突入してしまった。普段は君と食べているけれど今日はどうしよう。隣のクラスの友達のところにでも行こうか。お弁当箱を片手に迷っているとクラスの女子数人が近づいてきた。
「ねえ、征矢君と付き合ってるの?」
何を言っているんだろう。若干呆れた目で見返す。それでもなお、言い募られる。彼女たちは徐々にヒートアップしていき、クラス中に響く声で私に話しかけてくる。もはやこれは怒鳴っているレベルだ。めんどくさいな。ため息をつきながら教室の外に出ようとすると、がしっと腕をつかまれた。
「何。」
「何か言ってよっ。」
泣きながら訴えてくる。いや、知るか。一方的に絡んできて泣くとか意味がわからない。どうやって離れようかと考えているとすぐ後ろのドアが音を立てて開いた。
「ね、何してるの。」
やってきたのは君だった。あまりにもタイミングが良すぎる登場にクラスメイトの中からは息を呑んだ音が聞こえた。私は状況も忘れおそよー、といつものように声をかける。君は私の頭に腕を置いて女子たちを見つめる。いや、私の頭を腕置きにするなよ。少し重い。
「ね、何してるの。」
「せい、や、君……。」
泣いていた彼女からは声にならない悲鳴が聞こえたような気がした。教室中が静まり返る。その静寂を破ったのは取り巻きの一人だった。もういい、夏川君に聞こう、と宣言し、君に向き合う。私はぼんやりと君の苗字は夏川だったっけ、なんて思っていた。
「夏川君さ、この子と付き合ってるの?」
間髪を入れずに私は違う、と返した。
「夏川君に聞いてるの。」
君は冷たい目をしたまま違う、と言った。
「じゃあなんで、ずっと一緒にいるの。わ、私は、征矢君のことが好きなの。でも、この子がいたから話しかけらんなくて。あの、私と付き合ってください。」
涙を抑えながら上目遣いで彼女が君の腕を取る。教室では囃し立てるように口笛を吹く人や、返事は?と君に拳を差し出してマイク代わりにしている人もいる。そっと見上げると君は腕を取っている彼女をまるでゴミを見るかのような目で見下ろしている。それに気がついた彼女は再び涙を流しながら叫ぶ。
「どうして私じゃだめなの。」
「あのさ、離して。」
誰も寄せ付けない、と言わんばかりの冷たく尖った声。彼女の腕を振り払うと君は一歩下がって私の隣に並んだ。その威圧感に怯え、話しかけてきていた彼女たちはそくさくと逃げて行き、クラスは再び静まり返った。私はため息を飲み込みながら君の手を引きながらベランダに出る。
「ありがと。てか、今日どうしたの。」
いつもならもう少し愛想がいいのに。
「どうもしない。」
ぶっきらぼうに言われる。機嫌が悪いみたいだ。膝を抱えて顔を伏せた君を横目に私は一人でお弁当箱を開ける。うん、今日も美味しい。新しいレシピ試してみて良かった。半分ほどがお腹に消えたところでもう一度話かける。
「お昼は?」
持ってない、と君が言う。どうしたものかと思いながらお弁当箱を差し出す。
「半分食べる?」
こくり、と頷いてもくもくと箸を進める君を私は唖然としてみていた。こりゃ何かあったな。
 放課後を待って私は君に何があったのか聞いてみようとした。場所はいつもの美術室。基本誰も訪れることのないこの教室は私たちの秘密の部屋だ。
「さっきさ、もう一回言われたんだよ。どうせ付き合ってんだろって。」
私が口を開くよりも早く君が喋りだした。曖昧にうなずきながら続きを促す。
「僕はさ、君にしんゆうって言ってもらえてすごく嬉しかった。僕は君を幸せにしたい。でも、それは彼氏とか彼女とかじゃない、しんゆうとして。周りから見たときに少し距離感とかバグってるのも分かるけど「どうせ」とか言われるのは嫌だ。」
あぁ、なんとなくわかった。そして君が言ったことは私の思っていたことでもあった。私達は性別が違うけれど、それを超えて仲良くなった。一人の人間として君が好き。周りに理解されたいわけじゃないけど、否定されるのは嫌だ。我儘かも知れないけどこの関係が心地良い。
「僕は君と付き合ってない。でも、君が一番だから彼女とか作る気もないし、今日みたいなドロッとした好意を向けられても気持ち悪いだけなんだよ。」
それは意外だった。君は私よりも交友関係が広いから私を一番に据えているとは思ってもみなかったのだ。
「てかさ、告白してきた子名前すら知らないんだけど。」
関わりあったっけ?と首を傾げる君に私は思いっきり突っ込んでしまった。
「いやないんかい!え、ないのにあの子は私に嫉妬してクラス中の晒し物にされたの!?私かわいそうだな。」
例えばあの彼女が君に話しかけようとしたり、何か作業を一緒にやっていたりするところに私がいて上手くいかなかった、とかならまだしも全く私関係ないじゃん。ほんとに勝手な嫉妬だ。うわぁ……。恋愛とか面倒だ。思い切り息を吐き出す私に君は笑った。
「どんまい。」
「なーにがどんまい、だ。いい迷惑だよ。」
椅子に座って足をぶらつかせている君を一睨みしてから鞄を探って預かっていたプリント類を取り出す。
「これ。午前中君がいなかった分のプリントね。ノートも写すなら出すよ。」
「あざす。んー、ノートは写真撮らせて。後でそれ貼り付けるから。」
了解、とノートもいくつか取り出して君に渡す。
「助かった。」
ノートの写真を撮る君に軽く聞いてみる。
「遅刻、珍しいじゃん。」
 少し黙った後に君は立ち上がって制服をめくってみせた。私は意図がよくわからないままさらけ出された皮膚を見る。
「あっ。」
腕やお腹にあったのは、痕。古そうなものから新しいものまで様々な傷痕がある。新しい物なんて本当にここ数日についたような生々しさだ。
息を呑む私に、君は全部父親にやられたやつ、アル中なんだ、と静かに言った。その時私はどんな表情をしていたのか分からない。君に「僕より辛そうな顔しないの」と言われたからきっと酷い顔だったのだろう。
昨日マフラー貸したのも、手元にあったら首吊っちゃいそうでさ、と君が自嘲気味に笑う。私は気が付いたら口が動いていた。
「一人は、寂しいよ。」
君においていかれる私が寂しいと思ったのかもしれない。君に一人で死ぬのはやめな、って言いたかったのかもしれない。私にもわからなかった。でも、正解だったみたいで。君はしゃがみこんで低い声で言った。
「一緒に死んでくれるの。」
私は即答した。
 それから私たちは着々と計画を進めていった。決行は明日。急だけれど、これ以上君が傷つくのを見ていられなかった私から提案した。場所は学校の裏の森。時間帯は夜。ここまで決めて私たちは学校を後にした。
 私には優しい家族がいて家庭環境はいい方だと思う。私には置いて逝ったら悲しんでくれる家族がいる。こんな親不孝なことはしちゃいけない。だけどどうしても君のことを一人にしたくなかった。家族に心の中で謝りながら明日の準備を進める。本当は怖い、怖くて仕方がない。それでも手が止まりかけるたびに頭をよぎるのは明日の計画を練っていた時の君の安らいだ顔。これで終わらせられる、とでも言うように澄んだ目をしていた。そんな君の気持を欺くことなんてできない。日付を超えかけたころ、私は震える体を自分で抱きかかえるようにして布団に入った。
 次の日、私は緊張しながら登校して君を探した。いくら待っても君は現れない。昨日もそうだったし、今日もそうなのかもしれない。けれど、胸がざわついて仕方がない。そして、君が来ないまま授業が全て終わった。何かあったのだろうか。荷物を持って席を立つとスマホから通知音が響いた。心臓が跳ねるのを感じながら開くとそこに届いていたのは時間指定のメールだった。差し出し元は君だ。嫌な予感がして美術室に駆け込む。誰にも邪魔されないところでもう一度開いて目を通す。読み進めるうちに私は涙で視界が崩れていった。
 こんなの、こんなのありかよ。なんで、なんで。じゃあ君は昨日私が家にいたころ既に一人で逝ったとでもいうのか。溢れる涙を拭うこともできず私は何度も何度もメールを読み返した。けれど、その内容は変わることがなく、君はもういないことを暗に示してくるばかりだった。
 ひとしきり泣いた後、ぼんやりとした頭で君のことを想った。君は、これで良かったのかな。それならもう、何も言えないよ。
【君が、僕を大事に思ってくれて、一緒に死のうとしてくれた。同じように、僕は君が大事だから。生きて、しんゆう。】