いつからだろうか。
明日が来ないような気がしながらも、次の日もまたその次の日も、日常は私を迎え入れた。
街はすっかり闇に沈んで、街灯の微かな光だけが街を照らす。
そこに群がる虫たちに、生きることに必死な人間の姿と重なった。
その少し遠くを1匹の虫が飛んでいた。
思わず私みたいだなと思った。
真冬の夜道をひとり歩いていた。
指先は凍てつき、はぁと息を吹きかけたくらいで楽にはならない。
諦めてブレザーのポケットに両手を突っ込むと、少しだけ大股で足を進めた。
高校3年の私は22時にバイトを終えてから、すぐに帰路についた。
1時間後には補導の時間がやってくるけれど、どうも家に帰る気にはならなくて少し遠回りをしてみる。
バイト先は飲食店で、頼めば数百円で賄いを用意してもらえるけれど、お金のない私は空腹で締め付けられているお腹に手を当てた。
あまりにもキュルキュルと鳴るので、何度も唾を飲んだ。
それだけで空腹が満たされるわけはないけれど。
私は生きるために、高校生活を送るためにバイトをしている。
幼少期に両親が離婚し、私を引き取った母は今年になって夜遊びが止まらなくなった。
以来、母は私の学費まで自分の娯楽に費やしている。
それでも卒業まであと3ヶ月。高校は卒業しておきたかった私は、仕方なくバイトをはじめ、そのお金を全て学費に回すこととなった。
いくら働いても自由に使えるお金はないし、高校生のバイト代で学費が賄えるわけもない。
生きることがこんなに大変だとは、つい最近まで知らなかった。
そんなことを考えながら歩いていると、見覚えのない場所まで来てしまった。
おそらく家を通り過ぎている。
どうせ遠回りをしたならとことん遠回りしよう。
そう思って目の前にあった地下に続く階段に足をかけた。
地下通路だろうか。
薄暗い、不気味な階段だった。
手すりはないし、ところどころ足場が欠けているところもあった。
それでも足を進めていくと、階段は舗装され、徐々に温かく明るい光が私を照らし始めた。
そこは見たことのない場所だった。
てっきり通路なのかと思っていたけれど、どちらかといえば店といった感じだ。
一面オフホワイトのシンプルな壁紙に、天井から吊り下げられた電球。
その先にはいくつかの扉も見えた。
室内だからか、少し身体も温まっていく。
両手を擦り合わせてから、そこにふぅと一息吐いた。
「お疲れ様です」
階段を降りきったところで、白のスーツを見に纏った長身の女性が私に声をかけた。
何がお疲れ様なのだろう、そう思わずにはいられなかった。
「お好きな部屋にお入りください」
なんとなく、普通ではない気はした。
けれど、恐怖は覚えなかった。
それは多分、あまりにもこの場所が温かく包み込んでくれたからだろう。
"愛"、"人間関係"、"疲労"。
白の扉に小さな札がかかっていた。
私は迷うことなく"疲労"の扉の前に歩いた。
なんとなく疲れたからだ。
理由は特にない。ただ、疲れただけだ。
扉を開けると、白衣姿の若い男性が私をじっと見て頭を下げる。
目はキリッとしていて顔立ちのはっきりしている彼に、思わず背筋が凍りついた。
案内されるがまま丸椅子に腰をかけると、ふと全てを話してしまいたくなった。
これまでの人生のこと、悩み、思い。
話すつもりなんてないのに、言葉より先に涙が溢れた。
それから少しして、口が閉まらなくなった。
「最近、なんで生きてるんだろうって思うんです。人生を終わらせた方がずっと楽なのに、また明日が来るんです」
男性は私の言葉に優しそうに頷くだけ。否定も肯定もせず、私をじっと見る。
相変わらず目はキリッとしたままだけれど、目尻に優しさを感じた。柔らかくて、不器用に微笑む感じが温かくていい。
「両親は早くに離婚して、私を引き取った母は夜の街を遊び歩くようになりました。今は高校に通いながら、バイトをして学費を稼ぐ生活です。忙しいっていうつもりはないんです。でも、どこにも自分の居場所はなくて、生きた心地がしないんです」
なんとなく、他人事みたいないい口だなと自分で思った。きっと、そうでもしないと今にも壊れてしまいそうだったのだろう。
止まることなく続けた。
「『もっと辛い人は他にも沢山いるんだから、生きているだけで幸せだと思いなさい』と母や親戚には言われました。だから頑張らなきゃって頑張ってたつもりだったんです。でも、乗り越える力が私にはなさそうです。頑張る意味がわからなくなりました」
どうしようもなかった。
何も言わずじっと見つめる男性の前で、肩を振るわせて泣いていた。
自分がどうしたいのか、生きたいのか死にたいのか。
何もわからなくなっていた。
ただ今息を吸っている、それだけが確かなことだった。
「生きていたいのに、生きたくなくて」
最後に振り絞ったのがそれだった。
本当に、それだけだった。
「優しいんだね」
男性が初めて口を開いた。
「全部話してください、その方が楽に逝けますから」
そこまで聞いて、ここが人生を終わらせる場所なのだと分かった。
安楽死を利用したビジネスがあると噂では聞いていたし、芸能人の何人かがこの手段を使っていたので、それなりの知識は持っているつもりだった。
「私は何も特別なものを求めたつもりはないんです……ただ、生きていたいだけだった。でも、それも私には特別なものだったんですね」
「それで、以上かな?」
淡々としていた。
彼にとっての死は日常なのだろう。
そこには感情というものが無いように思えた。
「はい。すみません、こんなに長々と」
「いえ。それでは胸に手を当てて、もう一度考えてみましょうか」
指示のとおりに大きく息を吸う。
「君は、どうしたい?」
どうしたい、なんて言われても私にはわからなかった。
生きても地獄ばかりなら今すぐに逝った方が楽だろうけど、未来がどうかなんて私にはわからない。
まだ希望だってあるかもしれない。
あと3か月を乗り越えられれば、親と距離を置くことができれば私は生きて楽になれるだろうか。
それとも、母が死ぬまで私は一生地獄の日々を過ごすことになるのか。
考えるほど、私はどうもしたくないことに気が付いた。
私は根性も決断力も持ち合わせていなかったのだ。
「どうもしたくないです、やっぱり何も考えたくない」
「うん、それでいい。無理に考えなくていい」
男性は私の肩に手を置き、それから私の手を自分の肩へ持っていった。
「奥の部屋でゆっくりしていくといいよ。君が逝きたくなれば逝けばいい。生きていたいならここで生きればいい」
あと少し、心が決まるまでの間、私はここにいたいと思った。