僕が昼沢優(ひるさわゆう)と付き合い始めたのは、二年前のちょうど今日だった。

 当時は今の僕たちと違って、互いが大好きだと言わんばかりの距離感で接していた。

 だが今はどうだろうか。

 僕が一歩だけ距離を詰めようと優の方へ寄ると、優はそれを嫌がるように一歩、身を反対側にずらすのだ。

「優、距離遠くない?」
「そうかな」

 まるで僕に関心がなくなったかのような反応だった。

 あえて一歩避けているのだから、自分でわかっていないはずがない。では優は一体、何のためにとぼけているんだ。

 本人に尋ねようと思ったが、今尋ねても軽く流されるか無視されるような予感がしたから、大人しく従ってこの距離を保っておくことにした。

 とはいえそう決めても、どこか寂しい気持ちはある。

「今日で付き合って二年だね」
「ふーん」

 優は興味なさげに言った。

 付き合って二年だというのに、優は全く興味がないということなのか。

 僕たちがこれまで築き上げてきた関係が、優の素っ気ない反応によってすべて軽んじられたように思えて、僕は腹が立ってきた。

 しかし、ここで優に怒りをぶつけたとて何か変わるとは思えず、その怒りを僕の中に抑えこんでおくしかなかった。

 代わりに、言葉で不服の意を表現する。

「もしかして優、あんまり興味ないのか?」

 あえてわかりやすく拗ねたような声を出す。

「いや、まあ……」

 どこか浮かないような顔の優を見て、僕はどこか違和感を感じていた。

 普段の優であればもう少し直接的な言い方をするし、感情をわざと隠すようなことは一度もなかった。

 そもそも、優の反応が煮え切らないものになったのはつい最近、突然変化したという感じで、自然消滅とかそういう緩やかな変化ではなかった。

 そこで、何か優を変えるきっかけがあったのかと考える。

 その結果、僕は一つの可能性に行きついた。

「まさか、別に好きな人が出来たとか?」
「いや、それは違うよ」

 はっきりとした返答でかつ即答だったし、表情に迷いのようなものは見受けられなかった。

 心の底から思っている言葉が漏れ出たかのような口調だ。

 僕は少しだけ安心した。

「じゃあ」

 安心したから、油断した。

「なんで僕のことをどこか避けているんだ?」
「そんなことしてないよ」

 優は困ったような、悲しいような表情でそんなことしていないと否定した。

 油断していた心に、僕にすら本心を話してくれないという事実が突き刺さった。

 君と出会うまで感情の出し方をわからなかった僕だから、彼女の言葉に傷つくというよりは、不器用で理不尽な怒りを彼女にぶつけることしかできなかった。

「なんで本心を隠すんだ! 僕には言えないのか!? 僕は、君と信頼関係があると思っていたんだよ!」
「……」

 優は何も言わなかった。

 悲しみを内包しながらも、これでいいんだと言わんばかりの顔をしていた。

 悲しみながら、何も言わなかった彼女に、僕は怒りを抑えられなかった。

「君は、それでも僕に何も言ってくれないんだね」

 優への怒りは、僕自身も気が付かないうちに失望へと変わっていた。

「優と上手くいってるって、思ってたのは僕だけだったのか」
「……」

 僕がどれだけ彼女のことを一方的に責めて詰っても、彼女が口を開くことは終ぞなかった。

 僕には何も話せないというのは、僕が君と関わろうが、付き合おうが、君にとってはその他大多数のうちの一人でしかなかったのかもしれない。

「もういいや。じゃあね」
「……」

 彼女は黙ったままだった。



 彼女と最後に話してから何日も経ち、土日が明けた。

 僕は苛立ちを隠そうともせずに不機嫌さを目立たせて学校へと向かった。

「夜、まだ優と仲直りしてないのか」
「何度も言ってるだろ。僕は今後、優と関わるつもりはないんだって」

 話しかけてきた僕の親友、朝日に対してそう返答した。

 紛れもない本心だった。

 優は本心を隠すが、僕は本心をさらけ出すという、どこか優に対して勝ち誇ったかのような感情が僕の胸の中にはあった。

「あんまり拗ねるなよ、優ほどいい人も全然いないぞ」
「もう僕の前で優の話をしないでくれ」
「それなら俺が優を貰っちゃうけど?」
「勝手にしろ」

 僕は優に関わらないと決めた以上、朝日が優と仲を深めようが付き合おうが、僕にとってはもう関係のない話だった。

 僕と朝日の間に、沈黙が流れた。

 学校へどこか早足で向かう僕と、ゆっくりと歩く朝日。

 腹立たしいことに朝日の方が僕よりも足が長く、歩幅も広いので歩く速度に差がつくことはなかった。

 朝日を追い越せないことがもどかしく、勝手に優に怒りをぶつけた。

 学校までは実際には二十分もかからないことに違いはなかったが、沈黙の時間が長かったため、何時間も歩いていたような感覚だった。

 教室はホームルーム直前とあって最高の賑わいを見せていた。

 ちらりと周りを見渡したが、優はまだ来ていないようだったので、ほっと胸を撫で下ろす。

「今日は緊急の報告があるので早めにホームルームを始める。まだ来ていない人はいるか?」

 担任が告げた。

 疲れとやるせなさを感じる声だった。

 まだ来ていない人は優を除いて一人もいなかった。

「皆、真剣に話を聞け。悲しい知らせだ。先日、昼沢優が亡くなった」

 クラスは一気にざわめいた。

 僕だってついこの間までは彼女と笑いあって、彼女の温もりを感じて、そして彼女と感情をぶつけ合った。普通なら悲しくなるべきなのだろう。

 でもどこかで、彼女ともう顔を合わせなくていいんだと、安心していた。

 ふと気づいて朝日の顔を伺う。

 青と言っても足りないほど顔色が悪かった。脂汗もすごかった。

 そして次に、優の親友だった夕夏(ゆうか)の方へ視線を動かす。

 彼女の顔は、泣き出しそうに歪んでいた。

「いったん落ち着け。彼女の葬儀は来週末に行われることが決定している。参加したい人は参加してくれ」

 ホームルームは大混乱の中終わりを迎え、誰も自らの席から動くことが出来なかった中、僕は席を立って教室から出て行くことにした。

 教室から出た僕が向かう先といえば、それはせいぜいが男子トイレくらいのものだった。

「おい、夜」

 その声は聞き間違えることのない、朝日のものだった。

「なんだよ」
「ちょっとこっち見ろ」

 僕は言われたとおりに朝日の方を向いた。

 朝日が爆音を発した。

「なんで笑ってんだ!」

 驚いた僕が一歩後ずさると、それを確認してか朝日は言葉を継いだ。

「優が死んだんだぞ!?」

 どんな怪獣映画よりも恐ろしいものに思えた。

「なのにお前、なんで笑ってるんだよ!?」

 僕は、笑っているらしかった。

 恋は一過性のものだ。

 あんなに熱かった気持ちも、今では鬱陶しいという気持ちに変わっている。

「僕、優のことがまっとうに好きだったよ。でも――」
「でもじゃねえ言い訳するな!」

 朝日が僕の胸ぐらをつかみ、後ろの壁にたたきつける。

 僕は朝日の目を覗き見た。

 朝日は珍しく感情的だった。

「なあ! お前が下手に拗ねずに大人しく優に謝っとけば、こうはならなかったはずだ! 優は死ななかったかもしれないし、死んだとしても幸せだったに違いない! だが現実はどうだ!? お前は優を見捨てたんだよ!」

 それでも僕は、そのことが重大だとすら思わなかった。

「で?」
「は?」
「それが、何か問題なのか? むしろ優が死んでせいせいしたね」
「俺も頭冷やすから、お前も一回頭冷やせ」
「ほかでもない朝日が言うなら、とりあえず考えとくよ」

 僕は屋上に向かうことにした。

 屋上は立ち入りが禁止されているため、誰かが来ることは考えられないし、先生にバレたりしても、それだけ優の死が衝撃的だったといえば許されるだろう。

 学校の屋上から見下ろす街は、優の死など気にも留めずにいつも通り回っていた。

 僕だって優の死を気にも留めていなくて、それが酷く冷酷なことだとやっと気づけて、彼女への怒りはまだ消えていないが、彼女の死について調べてみようと思った。

 思い立ったが吉日という言葉もあるくらいだし、少し屋上で休んだのちにすぐ担任の先生の元へ向かう。

「先生、昼沢さんの、死因を教えてもらえませんか」
「家族の方は構わないと言っていた。だが、校長先生がお認めにならない以上、伝えることはできない。私も心苦しいが、今伝えてしまったら取り返しがつかない」

 結局先生も保身が最優先なのだろう。

 僕は失望を感じたが、もともと僕だって彼女の死を気にしていない側だったのだから、人のことは言えない。

 次に頼れる人として、朝日を頼ることにした。

「朝日、僕は頭を冷やしてきたよ。優の死について、何か知っていることは、ない?」
「俺も詳しいことはわからないんだが、どうやら優はまだ、夜のことが好きだったらしいよ。それくらい」
「優……」

 ならなんであんな態度を。

 そう思ったが、今はそんなことを考えるより調べるべきだ。その方が効率もいいし、正確だということも違いない。

 僕は夢中になって何日もかけて、クラスメイトやら中学時代の同級生やら最近仲良くなった他クラスの友達やら、優に少しでも関係する人たちに片っ端から声をかけた。

 だが、どれだけ話しかけようとも優の死に関する有力は情報はなかなか手に入らず、僕の人脈だけが広がっていって、これ以上人脈を広げられない優に当てつけでもしているかのようになってしまった。

 しかも、最有力の情報提供者候補であった夕夏はあの日以来一度も学校に来ておらず、連絡にも既読がつかないため、何の話も聞けていなかった。

「そろそろ夕夏に話を聞きたい……」
「夕夏なら何か知っているかもしれないからな。家を訪ねるか?」
「朝日はなんで夕夏の家を知ってんの?」
「今はそういう感じじゃないけどさ、一応俺と夕夏は付き合ってるんだよ」

 衝撃的な情報ではあったが、今はそれより優の死に関する情報の方が必要だった。

 朝日の提案の通り、僕たちは早速今日の放課後に夕夏の家を訪ねることにした。

「でもさ、夕夏も傷ついてるんだろうし、突然訪ねて都合が悪くないかな」
「俺にだけは連絡してくれるんだよ。俺と一緒だったら大丈夫だって」
「だけど、優に関する質問は返信が来ないんだろ?」
「それは直接話したいんだって。見せたいものもあるらしい」

 じゃあ、僕が夕夏と連絡を取ろうと走り回っていた日々はほとんど無駄になったというわけか。

 残念さを感じながらも、優と最も仲が良かった人物の話を聞く機会だということで、僕は柄にもなく緊張していた。

 すべては真相を知るためだった。



「優は、夜くんを悲しませたくなかったんだって」

 本当は、絶対に話さないでって言われてたんだけどね、という前置きのもと、夕夏は僕にそう言った。

 優の死因は病死だった。

 自分の死が分かっていて、優は自分の家族のほかには夕夏だけにそれを打ち明けていたらしかった。

 しかし、悲しませたくなかったとはどういうことなのか、僕を怒らせたり傷つけることは問題なかったというのだろうかと、今更優の優しさに文句を言う。

「優はそうやって強がってた」

 でも、と夕夏が言葉を続ける。

「私は優の最期の瞬間に付き添ったんだけどさ」

 僕たちは頷くことで話の続きを促した。

「優は最期の眠りに落ちる前、夜くんに会いたいって言ってた」

 あれほどまでに煮えたぎっていた怒りはもはや涙となって流れ落ちる以外の行き場を失っていた。

 恋は一過性のものだったが、それと同じように、僕の怒りも一過性のものだった。

「眠りに落ちてから死ぬまでずっと、夜くんの名前を呼んでた。寝言、とは違うのかもしれないけど」

 いくら涙が流れ落ちようとも、いくら怒りが流れ落ちようとも、君の死を悲しむ心が、君の温もりを求める心が、君の声を聴きたいという心が、君への恋心が、流れ落ちることはなかった。

「……馬鹿」

 言葉が零れ落ちた。

「馬鹿、馬鹿、馬鹿」

 ほかに何といえばよかったのか分からなかった。

 この間の朝日の言葉がフラッシュバックした。

 僕が君の病気を知っていたならば、最期の瞬間に君が求めたとおりに君のそばにいて、君の死を素直に悲しんであげられていたはずなのに、君は下手に強がって、気遣った。

 なんて馬鹿なんだ。

「優の、ばか……」

 止め処なく流れ落ちる涙が、僕の言葉をせき止めた。

 君が僕を気遣って怒らせたなんて。

「なんで……」

 僕が気づいたとき、君はもういないなんて。

 病気にかかるのが君だなんて。

「なんで、なんで」

 信じられなかった。

 僕はどうしようもなくやるせなく、もどかしく、なにをすればいいのか分からなくなって、どうやって生きればいいのか分からなくなっていた。

 君に怒っていたとしても、君は僕にとっての拠り所だったのだろう。

 君と関わらなくても、君は僕にとって安心できる人だったのだろう。支えだったのだろう。

「夜」
「なんだよ……」

 失意と絶望と、自分への失望と、ごちゃまぜになった複雑な感情が、外来者を駆逐しようと、先ほどすべて流れ落ちた怒りを露わにし始めていた。

 まさか朝日が、強く生きろとか新しい出会いがあるとか、そんなことを言わないと理性ではわかっていても、感情では人との関わりを拒絶していた。

「お前が死ぬなら、俺に知らせてくれよ。立ち会わせてくれ」

 朝日はいつまで経ってもどれだけぶつかり合っても親友だった。

「私も。止めはしないから、友達の死に立ち会えないなんていう後悔はしたくない」

 あくまで朝日と夕夏も、僕と同じ感情だった。

「本っ当……」

 僕の言葉が自然に言葉を紡いでいた。

 彼らの言葉を聞いて、芽生えかかった怒りは再びリセットされた。

「……馬鹿」