9月8日(金) 居酒屋にて

「カンパーイ!」

 カツンっと3つのグラスを合わせ、3人はビールを景気よく喉に流しこんだ。

『あー、幸せ。たまらないわね、やっぱり』

 一気にグラスの半分ほどまであおって、チカが唇を拭った。

「今日は未来の快気祝いだから、飲むわよ〜」

 腕まくりしてメニューを眺めるサキをちらりと見ながらチカがいった。

『サキ、アンタまたブランド物増えてない?旦那さん、そんなに浪費させてくれるの?』

「んー、あのひとお金に執着しないタイプで、なに買ってもなにもいわないんだよね。自分が稼いだお金なのに、ほとんど使うことないし……貯金が趣味なのかも」

「セレブだ……」

 グラスを置くと、未来が羨望の眼差しでサキをみた。

「旦那の、独身の知り合い紹介しようか、未来」

「えっいいの?」

 とたんに目を輝かせる未来に、チカが呆れ返っていう。

『当分男はいらないんじゃなかったの?男で痛い目みたから、今日快気祝いするんじゃない』

「う……そうだった」

「じゃあ今度、身体検査した旦那の知り合いを紹介するよ」

 サキの発言に、「ああ、女神様」と未来が目を潤ませる。

『はいはい、男の話はもう終わり。今日のメインイベントは、これを渡すことだからね』

 手を叩いて注目を集めると、サキと目を合わせ、チカは包装された手のひらサイズの箱を未来に差し出した。

『はい、退院おめでとう』

「ありがとう。また仕事しなきゃいけないって考えると、複雑な気分でもあるけどね」

 不満を述べつつ、箱の中身を取り出すと、未来は首を傾げた。

「スマホ……?」

『プリペイド式携帯電話。スマホとは別に、肌見離さずに持っててよ、お守りみたいなものなんだから』

「プリペイド式……?いまどき珍しいね。
 でも、どうしてこれを……?」

『いったでしょ、お守り。この前の1件で、アンタが危険なことに自分から突っこんでいくことがわかったから、どうせまた男絡みで危ない目に遭うだろうって、サキと相談して、万が一のとき助けを呼べるものをプレゼントしようって決めたの』

「あたしからは、これ」

 サキが、チカより一回り小さい箱を差し出しきたので、それも開封すると、黒いキーホルダーのようなものが入っていた。

「これは……?」

「GPS発信機。子どもに、親が持たせるようなやつ。なにかあったら、すぐに居場所がわかるように」

 親友2人から贈られたプレゼントを前に、未来が苦笑を浮かべる。

「まるで子ども扱い……本当に信用がないんだね、私」

『当たり前じゃない。ストーカーに盗聴器仕掛けられたり、無防備に男の家に行ったり……。危なっかしくてみてられないわ。あたしたちがどれだけ心配したか、アンタわかってる?急に行方不明になって周りのみんなに心配させた挙げ句、刺されて殺されかけたのよ?あたしたちが管理してないと、アンタ本当になにに巻きこまれるかわかったもんじゃないんだから。子ども扱いくらいで文句いう資格なし』

 すっぱりと切り捨てたチカに対し、サキが真剣な顔になって身を乗り出す。

「なにかあってからじゃ遅いんだよ、未来。この前も本当に危なかったんでしょ?未来が選ぶ男ってクズばかりだから、チカのいう通り、用心してしすぎることはないんじゃない?」

 結婚してから、ぐっと落ち着いたサキに諭されて、未来はなにもいい返せずにうなだれるばかりだ。

『ま、今回のことで未来もクズの恐ろしさを身に沁みてわかっただろうし、今日は全部忘れて飲もう。サキも付き合ってもらうわよ』

「もちろん。全員のタクシー代くらい、あたしが持つわよ」

「うわー、セレブの発言……」

「そこは任せてよ。追加でビール頼もう。今夜は久々にハメ外すわよ〜。なんたって未来のお祝いなんだから!」

 追加のビールを手にすると、周りの喧騒に負けじと、3人は声を合わせた。

「カンパーイ!」

 3人がビールをあおっていると、「綺麗な姉ちゃんたち、いい飲みっぷりだねえ」と、赤ら顔の中年男が声をかけてきた。

「おっちゃん、今日臨時収入があってさ、奢るから一緒に飲まねえか?」

 座敷のテーブルを囲む、同じように酔っ払って目尻を下げた中年男たちが、未来たちを手招きしている。
 
 3人は顔を見合わせると、満面の笑みで、「よろしくおねがいしま〜す!」と、セレブらしさの欠片もうかがわせない判断を下したのだった。


「ああー、やっぱ少し飲みすぎたかなあ」

 久々にアルコールを摂取し、すっかり酔ってしまった未来は、家から少し離れた場所でタクシーを降り、夏の名残りの夜風に当たりながら深夜のひとけのない道を歩いていた。
 もう、明かりがついている家もほとんどない。
 寝静まった住宅街は、早朝に似てどこか静謐な顔をみせる。
 すっかり完治した傷跡の痛みも消え、鼻歌でも歌い出しそうな気分で軽やかに足を進める。
 近年は残暑が長引く傾向にあるが、さすがに夜になると、涼しさを感じるようになった。
 今年の夏も、もう終わる。
 考えてみれば、人生で一番激動の夏だったかもしれない。
 サキの結婚式からはじまり、横島と出会い、恋に落ち、最終的には殺されかけるという結末を迎えた、ひと夏の恋。
 よく生き延びたなあ、と今更ながらに背筋が寒くなる。
 思いこむと、周りがみえなくなる。
 それが自分なのだと体で学んだ。
 これからは、軽はずみな行動は慎まないとな、と自分を戒めていた未来の視界に、黒い塊が映る。

「……なに……?」

 恐る恐る近づいてみると、街灯の当たらない暗がりで、ひとがうずくまっていた。
 男のひとのようだ。
 ……どうしよう。声をかけようか。いや、無視したほうがいいかもしれない。
 チカから、『自分から危険に突っこむ』と先ほどいわれたばかりだ。
 慎重にならねばならない。
 でも、具合が悪くて助けも呼べないのなら、救急車を呼んであげないといけない。
 もし未来が見て見ぬ振りをしたことが原因で、このひとが死んでしまったら、それはさすがに寝覚めが悪い。

「でも」が、せめぎ合うなか、未来は声をかけることを選んだ。

「あの、大丈夫ですか……?」

 どうみても大丈夫にはみえないが、これ以外の声のかけ方がわからず仕方なくそうする。
 かがんで相手の顔を覗きこむと、ゆるゆると男がこちらを見上げた。
 そのとたん、未来の顔がボッと音を立てながら発熱する。
 か、可愛い……。
 道路にうずくまっていたのは、綺麗な顔をした、まだ若い、大学生くらいの青年だった。
 青年に見とれていた未来は、それどころじゃないだろ、と自分にツッコミを入れて、深呼吸して心臓を落ち着かせてから尋ねる。

「救急車、呼びましょうか」

「……お……」

「お?」

「……お腹が、空いた……」

「……は?」

 それきり青年は、顔を伏せてしまった。
 未来はざっと青年の身なりを観察する。
 所持品はなにもないようだ。
 服が汚れているようすもないので、ホームレスではないのだろう。
 しかし、どうする?
 お腹が空いた、では救急車は呼べない。
 交番にでも連れていけばいいのだろうか。
 ぐるぐると悩んでいるうちに、気がつけば、未来は青年に肩を貸して自宅へと向かっていた。

 後になって思い返してみれば、自分はやはり酔っていたのだと思う。
 酔って、気が大きくなり、後先考えずに行動してしまった。

 青年をボロアパートの自室へ入れ、疲労困憊の様子の彼を座らせ、冷蔵庫にあるなけなしの食材で料理ともいえないものを作り、ローテーブルに置くと、彼は飢えた仔犬のように、がつがつと、料理を消費していった。
 相当、お腹が減っていたようだ。
 今時行き倒れになるなんてなにがあったのだろう。
 ベッドを背もたれにして、青年の対面に座り、ミネラルウォーターを飲みながら料理にがっつく青年を眺める。
 気持ちのいい食べっぷりだ。
 苦手な料理を作った甲斐がある。

「美味しいですか?」

 そうきくと、料理を口に運ぶ手を止めないまま、彼は大きくうなずいた。
 どうやら、満足してくれたらしい。
 なんだか、ペットの食事を見守っている気分だ。
 ものの数分で料理を平らげると、彼は、うとうとしはじめた。

「あっ、待って、寝るならシャワー浴びてください。体の汚れ、洗い流してきたほうがいいですよ」

 未来は潔癖症ではないが、彼がどこから来てどう過ごして来たのかわからない状況では、清潔にしてもらったほうが好ましい。
 シャワーを終え、バスルームから出てきた彼の肌はつやつやで、色白の顔には、仔犬を連想させる黒目がちの大きな瞳と、高い鼻、大きくも小さくもない桃色の唇が、芸術的なまでの比率で配置されていた。
 みつめていると、ため息がこぼれる。
 横島とは正反対のタイプだ。

 青年は、明るいブラウンのクルンと毛先がカールした髪を乱暴にタオルで拭くと、ドライヤーで乾かすこともせずに、よほど疲れていたのか、ラグの上に丸まると、すやすやと寝息を立てて眠ってしまった。
 青年の寝顔を微笑ましい気持ちで眺めていた未来ははっと我に返った。

 私、今、なにをしている?
 自分は、とんでもない危険を犯してはいないか?
 見ず知らずの男を無防備にも家に入れるなんて。
 襲われたらどうする。
 ようやくその可能性に思い至って未来は、青年をこわごわと振り返る。
 彼は気持ちよさそうに寝息を立てている。
 未来はしげしげと青年をみつめる。
 食事の間も、シャワーのあとも、青年は無言だった。
 一体、このひとは誰なんだろう。
 何者なのかもわからない男と、ひとつ屋根の下で一晩過ごす。
 危険極まりない状況にも関わらず、摂取し
すぎたアルコールのせいで、未来の体も睡眠を求め、限界を迎えてベッドに潜りこむなり深い眠りに落ちてしまった。


9月9日(土) 未来の自宅にて

 まどろみのなかにいた未来は、ただならぬ気配を感じて目を覚ました。
 朝の日差しに目を細めながら、上半身を起こすと、目の前の光景にギョッとする。
 見知らぬ青年が、正座してこちらをみていた。

「えっえっ……誰?」

 余りの驚きに未来は固まってしまう。
 呆然とした未来の脳裏を、走馬灯のように、昨夜の出来事が駆け巡る。
 酔った自分が青年を部屋へ入れたところまでが、脳内で再生されると、未来は青ざめた。

 酒の勢いとはいえ、なんて危ない橋を渡ってしまったのか。
 たとえば、この青年に殺されたとしても、非は100パーセント自分にある。
 全身から汗が噴き出す。
 しかし、少しも動けないまま、数秒間、謎の青年と見つめ合ってしまう。
 すると、ガバッと音を立てて、青年が土下座した。

「ご迷惑をおかけしました!助けてくださって、ありがとうございます!お礼もいわないで寝てしまって……行くあてがなかったので、本当に助かりました。ありがとうございました!」

 昨夜とは打って変わって、青年は幼さも感じさせる声音で、ラグに額を押し付けて、誠心誠意という言葉がぴったりな迫力で、謝罪と感謝を口にする。

「あ……いえいえ、それほどのことは……いや、違った。あの、あなた、誰ですか?」

「僕、小島陸(こじまりく)っていいます。20歳の大学生です」

「大学生……やっぱり年下か」

「あの、で、あなたは?」

「あ、私は小野寺といいます。小野寺未来。24歳」

「僕より年上なんですね、みえないです」

「いや、それほどでも……で、小島さんは、なんで昨日行き倒れてたんですか?」

「いや……色々と事情があって……。詳しくは話せなくて……。本当に、未来さんに助けていただいて感謝してるんですが……」

 謎の青年、陸は、正座した姿勢のまま、膝に置いた両の拳をきつく握り、そこに視線を落とし、押し黙った。
 長いまつ毛が小刻みに震えている。
 まるで、大型犬に怯える仔犬のようだ。
 大丈夫だ、と声をかけてやりたくなる。
 美しく整った陸の顔に、憂いが浮かぶ。
 しばらく無言の時間が続き、やがて決意したように、顔を上げると、陸はいった。
 未来の表情を伺うような上目遣いで。

「僕、本当に行くあてがなくて、お金もなくて……いいづらいんですが、すこしの間、僕をここに置いてもらえませんか?」

「……は?」

「未来さんは、働いているんですよね?僕、家事は得意なんです。掃除も洗濯も料理も、なんでもします。なので、どうか、お願いします!」

 深々と再び頭を下げられ、さて、どうしたものかと未来は考えあぐねる。
 昨日出会ったばかりの、正体不明の青年。
 どうして行くあてがないのか、それすらいわない。
 そして、出会ったばかりの未来に、家に置いてほしいという。
 危険ではないのか。
 危害を加えられる可能性はないといえるだろうか。
 いや、いえるはずがない。
 だって、青年と出会って、まだ1日も経っていないのだから、なにをどう判断して彼が危なくないと断言することができるというのか。

 この非常識極まりない青年を、無慈悲に突っぱねるという選択肢は、もとよりない。
 彼に所持金がないということは、未来の稼ぎで養わなければならないということだ。
 正直きつい。
 彼は働く気があるのだろうか。
 いや、先ほどの口振りから、金銭面は未来に頼り切りになるつもりなのかもしれない。
 どのくらいいるつもりなのか、出て行く目処は、彼にあるのだろうか。
 昨夜のように、ぐるぐると頭を回転させて考えこみ、脳内で金勘定をしていた未来の視界に、すがりつくような潤んだ眼差しの陸の顔が映る。
 か、可愛い。
 守ってあげたくなる。
 本当に、親がいないとなにもできない仔犬みたいだ。
 その瞬間、未来の理性は吹き飛んだ。
 大学生の男の子が困っている。
 未来しか頼れる相手がいないと、こんなにも不安そうに、切羽詰まった表情をしている。
 なら、助けてやればいいじゃないか。
 お金なんてどうにでもなる。
 貯金だってないわけじゃない。
 ちょっと贅沢したり、自分へのご褒美を買ったりしなければいいだけの話だ。
 大丈夫、いける。

「わかった。少しの間だけなら、ね。でも、ずっとは無理だよ」

 その瞬間、陸がぱあっと華やいだ笑顔になった。

「本当ですか!ありがとうございます、未来さん!」

 ああ、駄目だ。
 陸のあまりに邪気のない、あまりにも庇護欲をそそられる、あどけない笑みに、未来は内心で白旗を上げた。
 はぐれた親犬を探し出した仔犬のような、心細さを隠しもしない陸が浮かべた、心底安堵したような表情に、魂を撃ち抜かれてしまった。
 きゅるるん、と効果音がつきそうな、陸の潤んだ上目遣いには、母性を刺激するなにかがある。
 これが、世にいう母性。
 こんな感覚、生まれて初めてだ。

 生活水準がなんだ。
 陸がなにものでもいいじゃないか。
 この笑顔を守れるのは自分だけだ。
 沸騰した2日酔いの頭で、未来は次々と「でも」の壁を突き破っていった。



9月22日(金) 韓国料理店にて

『仔犬を拾った?へえ、アンタ動物好きだったっけ?それより、オフ会の誘いがきてるんだけど、アンタどうする?』

「ああ、オフ会ね。私もどうしようかなって思ってる……って、そうじゃなくて!」

 スマホから目を離さないチカに、未来は声を荒らげた。

「拾ったのは仔犬系の男子大学生!」

 ぴたり、とチカは静止し、じろりと未来をにらみつけてくる。

『男子大学生?拾ったってどういうこと?』

「だから、うちの前で行き倒れてたんだって。行くあてがないから、しばらく泊めてほしいって泣きつかれて、今に至る」

『はあああー?今一緒に住んでるってこと?道で拾った男と?どこの大学の誰か確認したの?』

「う……大学は知らないけど、名前なら」

『名前なんていくらでも偽名使えるでしょ!
つまりなに、どこの誰かもわからない男と同棲してるの?ちょっと目を離した隙に……信じられない!
 ついこの間ストーカーに殺されかけたのに、本当こりない女ね。馬鹿じゃないの、アンタ。そんな男、今すぐ放り出しなさい』

「それがね、できないんだよ」

『なんで』

「好きになっちゃったから」

『……』

「経験したら、チカもわかると思うけど、朝、起きたら超絶イケメンがにこにこしながら朝ごはん作って待っててくれて、掃除も洗濯もしてくれて、仕事から疲れて帰ったら、またにこにこしながら迎えてくれて、夕ごはん作って待っててくれて……。家に帰ったとき、明かりが点いてて、温かいごはんを私のために用意して労ってくれる存在がいるって精神的に本当、大きいよ。
 今まで年下の男なんてガキだと思って興味なかったけど、私も年とったのかな。
 なにしても本当に可愛いんだから。
 ね、彼の写真みて。納得するから」

 いそいそとスマホを取り出し、陸とツーショッとの写真をチカにみせる。
 満面の笑顔の陸と未来。
 未来が童顔なせいもあって、年の差は感じない。
 写真には、モデルのような、嘘みたいに整ったビジュアルの青年が写っている。

『……』

 写真を一瞥したチカは、ぶすっと不機嫌そうな顔をした。

『お金は?』
 
「え?」

『生活費。まさか居候は一銭も払ってないんじゃないでしょうね』

「全部私持ちだよ」

『は!?アンタ、マジでいってんの?それじゃただのヒモじゃない!』

「ヒモ……いわれてみればそうかも……」

『ハタチ過ぎてるなら自立して、自分で稼ぐものでしょ。アンタ、いいように利用されてるだけよ。面倒なことになるまえに、とっとと縁切りなさい。
 ずるずると関係を続けていたら、貴重な金も時間も食い尽くされるわよ』

「でも、恋人なら問題ないんじゃない?」

『本当の恋人ならね。昼間、アンタがいない間、その陸はなにをしてるの?』

「なにって……家事やって私の帰りを待っているんじゃない?」

『大学は?なんで行ってないの?』

「……わからないけど、きっと、陸なりの事情があるんだよ。無理にきくことはしないつもり。陸が打ち明けたくなったら、その時はきちんときくよ」

『……本当に、なにも知らないのね。素性のしれない男をペットみたいに面倒みて食べさせているなんて……。まさか、お金渡したりしてないでしょうね、そのヒモに?』

「必要なときには渡してるよ。昼食代だったり、スーパーで食材買う代金だったり……普通でしょ?」

『もしかして……最近あたしとごはん行かなくなったのって……』

「そう、節約するため。切り詰めないと、将来不安だからね」

『将来って……』

「そう。陸との将来。結婚も考えてるんだ、私たち」

『……は!?』

「もちろん、すぐってわけじゃないよ。陸が大学を卒業して、就職したら、私との将来のこと考えてるっていってくれて。それまでは、私が養っていこうと思ってる」

『ああ……。なんで大学に行かないのか、帰る家がないのかもわからない男と結婚する?どんな過去があって、なんでヒモになったのかもわからないのに?なにも知らない人間と結婚する?のぼせ上がってるんじゃないわよ!
 あたしにはよくみえるわ。
 アンタが、年下のイケメンに利用するだけされて、捨てられる将来の光景が』

「チカって男に対してネガティブな感情強すぎない?もうちょっと信用してよ、私も陸も」

『ああ、ああ……。わかった、好きにすれば。恋に酔ってるアンタに聞く耳がないことくらい理解してるわ。
 とことん吸い尽くされて、無様にもボロボロになったアンタを笑いながら、酒を呑む。
 それを楽しみに期待してしばらく待つわよ。
 どうせ、そう遠い未来の話でもないだろうし』

「残念でした〜。今度こそ、そんなことにはなりません。だって、この出会いは……」

『運命なんだから、でしょ』

「……当たり。でも、考えてみてよ、結婚相手に求める条件に、お金をあげていた私が、お金なんてなくたっていいって思えたんだよ?彼は、陸は、私にとって初めてで、特別な存在なんだと思う」

 真剣な表情で語る未来の視線が、やはり、ふわふわと遠くへ近くへさまよっている。
 ああ、やっぱり、今はなにをいっても無駄だ。
 そう悟った近くは、やけくそ気味にチヂミを頬張った。

「彼が自立して、立派な社会人になるまでは、私が支えるの。彼、器用だし、若いし、なんにだってなれる。ちょっと羨ましいよね。私にはなくなっちゃった可能性とか、将来性とかが陸にはまだ残ってる。私はそれを応援したいのかもしれない。
 陸、多分私にいえないようなことがあって、隠してるんだと思う。それくらい、私にだってわかるよ。
 でも、決意したら、私に心を許してくれたら、きっと自分のことを話してくれると思う。
 そのときは、彼にどんな秘密があったとしても、受け入れられると思う。困難なら、2人で乗りこえていける。
 私たちを邪魔する障害だって協力すれば壊すことができる。
 私たちは、信頼っていう糸で固く結ばれてるからね」

『あー!もういい!きいてるこっちが恥ずかしくて耳が腐るわ!
 とにかく、陸の通ってる大学くらい把握しておきなさい!
 今のアンタは、相手のことを知らなすぎる。本当に将来を考えてるなら、陸がなにものか知るべきよ。スマホでも調べて中身を確認するくらいしないと』


「でも、盗み見るなんて……」

『なにが出てくるか怖いの?なにがあっても陸を支えるんでしょ?得体のしれないままで付き合いたいなら、結婚なんて考えないことね。籍を入れるって、甘くないわよ。今のままじゃ、現実的に考えて結婚するなんて無理』

「無理、かなあ、やっぱり……」

『頭が冷えた?相手のことをなにひとつ知らなくて、なにが結婚よ。覚悟が本物なら、なにを知っても揺らがないでしょ。陸のこと、詳しく調べてみたら?』

 陸の隠された全てを知って、傷つく覚悟はあるのか。
 そして、その傷を乗り越えて、陸を受け入れる固い決意はあるのか。
 しかし、頭の隅では、そんな深刻な事情でもないだろうと、楽観的に思っている自分もいる。
 例えば、家賃を滞納して部屋を追い出された貧乏学生だったとか。
 現実は、案外そんなものだろうと。

 チカは、未来の幸せが気に入らないだけなのだ。
 だから、陸に、隠された重大な秘密があるとかいって、自分を不安にさせたいだけなのだろう。
 ありもしない秘密があるとか吹聴して、不安を煽って楽しんでいるだけなのだ。

 チカは、恋愛に対して基本的に辛らつだ。
 サキの結婚だって心から祝福していない様子だった。
 仕事が恋人の、今のチカには、恋に恋する自分たちの気持ちなど、到底理解できないのかもしれない。
 いつかチカに、大切なひとができたら、からかって遊んでやりたい、というのが未来の密かな夢だ。
 決して口には出せないけれど。

 チカの厚意に甘えてランチを奢ってもらった未来は、最寄り駅まで歩きながら、そういえば陸のスマホをみたことがないことに思い至った。
 今時スマホを持っていないということがあるだろうか。
 財布なら、みたことがある。
 未来が渡した現金を入れて、尻ポケットにしまっていた。
 身分証……学生証や免許証が入っているかもしれない。 
 今夜、陸が寝ている隙に確かめてみようか。
 チカの言葉が、心にトゲとして刺さり、陸への小さな疑念が生じたのもまた、事実だった。

 また、熱くなっている。
 暴走するのは、自分の悪いクセだ。
 1度立ち止まって、現実的に陸とのことを考えよう。

 その考えは、家に帰り着いて、出迎えた陸の笑顔をみた瞬間、吹き飛んだ。



10月7日(土) 最寄り駅前にて

 必要な雑貨を買い終わり、未来は週末の街中をひとり歩いていた。
 買い物なら、陸が行ってくれるが、さすがに彼に頼めない日用雑貨を買いに出る必要があった。
 ここ最近、時間があれば部屋で陸と過ごしていたせいか、たまにひとりになると、小さな解放感と、同時に物足りなさを感じていた。
 まだ知り合ってほんの短期間なのに、こんなに陸の存在が大きくなっていることに自分でも驚いてしまう。
 街中でレストランをみかければ、陸を連れていきたいと思うし、陸に似合う服を一緒に見に行きたいと思う。

 時刻は午後3時。
 家に残してきた陸に、おやつでも買って帰ろうか。
 どこか適当な店はあるかな、とあてもなく歩いていると、見知った背中を人混みにみつけた。
 家にいるはずの陸だった。
 陸はひとりで駅前の賑わいを歩いていた。
 偶然の出会いに嬉しくなって、未来は表情を緩めて声をかけようとした。
 振りかけた手を、中途半端な位置で止め、未来は立ち止まった。
 どこへ行くんだろう? 
 もしかして、友人や知り合いに会いに行くのだろうか。
 覗きみるようで悪いが、謎に包まれた陸のことを、知るチャンスかもしれない。
 まさか、浮気ではないだろうな?
 単純に興味を抱いて、陸から目を離さないまま、未来は彼を追いはじめた。 
 昼間、ひとりで家にいる陸が、なにをしているのか。
 チカにきかれて答えられなかったことも手伝って、未来は陸に気づかれないように追跡する。
 未来が買い与えた上着を羽織り、ポケットに手を入れて人混みを闊歩する陸は、ランウェイを歩くモデルさながらのスタイルで、周囲を行く女性が次々と振り返っていく。
 そのひと、私の恋人なの。
 大声で街中のひとたちに自慢して回りたい気分で思わずにやけてしまう口元をうつむいて隠しながら、迷いなく歩く陸を見失わないよう小走りになりながらついていく。
 5分ほど歩いたあと、一際賑わっている一角へ、陸は入っていった。
 賑わっているのは、ただひとが多いからではなく、大音量で陽気な音楽が、歩道にはみ出すように響いていたからだった。
  その大音量を垂れ流す店に、陸は吸いこまれるように入っていった。
 彼が完全に店内に姿を消すと、未来は、店の入口に立ち、看板を見上げた。

「……パチンコ……」

 当然ながら、パチンコ店に入ったことはない。
 こんな近くまできたのも、初めてだ。
 陸は、日常的に、こういう店に出入りしているのだろうか。
 年齢的には、なんの問題もない。
 しかし、出会った当初、陸は所持金がないと未来の家に転がりこんできたのだ。
 まさか、自分が渡したお金で、ギャンブルに興じているのだろうか?
 そうっと顔だけで店内を見回すと、パチンコ台に座った陸が、近くの中年男性たちと親しげに談笑している。
 音楽がうるさくて、会話の内容はきこえない。
 中年男性が煙草を差し出すと、ごく自然な仕草で受け取り、火を点けた。
 ふうっと紫煙を吐き出し、陸は満足そうに煙草を味わっている。
 煙草の匂いを、陸から感じたことはない。
 やがて煙草を吸い終えると、気が済んだのか、陸はパチンコに興じはじめた。
 衝撃だった。
 これが、自分が知らなかった陸の一面。
 パチンコ店に出入りする。それは悪いことではない。もちろん、わかっている。パチンコ店に出入りするひとに対する偏見であることも頭では理解しているのだ。
 しかし、陸とパチンコが結びつかない。
 もしかして、陸の所持金が尽きたのは、ギャンブルが原因ではないのか?
 見てはいけないものをみてしまった気がして、未来はしばらく店の前でたたずんでいたが、いつまで待っても陸が店から出てこないので、そっとその場を離れた。


10月7日(土) 夜 未来の自宅にて

 陽がとっぷりと暮れてから、陸は帰宅した。
 こんな時間まで帰ってこないことなど、今までなかった。
 陸はなにごともなかったような平然とした顔で、未来をみるなり仔犬の笑顔を浮かべた。

「未来さん、帰ってたんですね。すぐに夕ごはんを作ります。先に、お風呂に入りますか?その間に……」

 陸の言葉を遮るように、未来は鋭い口調でいった。

「遅かったね、陸。どこ行ってたの?」

「病院です。お見舞いに」

 陸の笑顔に曇りはない。
 未来は、「そう」とだけ呟くと、それ以上追求することをやめた。
 陸がパチンコに行ったこと、証拠はないが、未来の渡したお金をギャンブルに消費しているかもしれないこと。
 それ自体は、大変ショッキングなことではある。
 けれど、それだけだ。
 それだけで陸を「クズ」呼ばわりはできないし、したくない。
 もしかしたら、パチンコに行ったのは初めてだったかもしれないし、お金だって未来が渡したものとは限らない。
 そもそも、パチンコが趣味であっても、責められるいわれはないのだ。

 気持ちを入れ替えると、未来は笑みを浮かべた。

「うん、先にお風呂入ってくる。今日の夕ごはんはなに?」

「出てきてからのお楽しみです」

 陸はそういうと、未来の手をきゅっと握りしめて、上目遣いでささやいてくる。

「早く出てきてくださいね。未来さんがいないと、僕寂しくて死んじゃいますよ」

「あはは、なにそれ、大げさ。うさぎじゃないんだから」

 未来が朗らかに笑うと、陸も得意の仔犬の笑顔を浮かべた。
 今は、この笑顔があればいい。
 それだけで幸せだ。
 彼を失いたくない。
 そこにどんな闇が、横たわっていようと。



10月23日(月) 未来の自宅にて

 その日も、仕事から帰宅した未来は、いつものように仔犬の笑顔で迎えてくれた陸と、彼お手製の夕食を摂っていた。
 相変わらず美味しい。
 どこで腕を磨いたのだろう。
 『ヒモ』なんかやめて店でも開いたら繁盛するだろうに。
 今日あったことや、嫌味な上司のことなんかを、笑顔で相づちを打ってくれる陸にきいてもらうことで、日々のストレスも消化されていく。
 明日も、また頑張ろうという気にさせてくれる彼という存在は、今や未来のモチベーション維持に欠かせない。
 和やかに食事を終え、陸が洗い物に席を立ち、未来がテレビを観ながら缶ビールを開けたときのことだった。

 突然、けたたましく玄関のドアが叩かれた。

「……なに……?」

 立ち上がりかけた未来を、「待ってください」と陸が制した。
 そのままふたりで、玄関ドアを息を殺して眺めていると、「小島!ここにいることはわかってんだよ、出てこい!」と、きいたことのない男のだみ声がドア越しに流れこんでくる。
 その間にも、ドアを叩きつける音はやまない。

「……誰?」

 未来が不安げに呟くと、「しっ」と陸が唇の前に人差し指を立てて未来の腕をぎゅっとつかんだ。
 陸は、ガタガタと小刻みに震え、涙目になっている。

「小島!出てこいや!返済期限は過ぎてんだよ!金返せ!」

 別の男の野太い怒声がドアに叩きつけられる。
 どうやら、謎の乱入者はふたりいるらしい。

 どうしよう、と考えるまえに、未来の体は動いていた。

 震える陸の肩に優しく触れると、「お風呂場に隠れてて」とささやき、促されるまま陸が姿を消すと、意を決して立ち上がる。

 ゆっくりドアを開けると、想像した通りの、いかつい顔にガタイのいい中年の男ふたりが、未来を見下ろしていた。
 カタギには、もちろんみえない。
 借金取り。
 ドラマや映画でみるステレオタイプの。
 借金取りなんて、架空の職業に近いほど縁がなかったし、当然実物も初めてみた。
 だから、どう対処していいのかすらもわからない。
 ぐっと、腹に力を入れて未来は男たちに相対する。

「どちらさまですか?この部屋には私しかいませんよ」

 未来は体をずらし、狭い部屋の中に他に誰もいないことを示すようにして、努めて冷静に対応する。

「ああ?誰だお前?小島の女か?やつがこの部屋にいることはわかってんだよ、早く出せ。
それとも、お前が払うか、その体で?」

「女にかばわれやがって。小島!500万、全額返すまで何度でも来るからな、覚悟しとけ!」


「近所迷惑です、帰ってください!」

 ひったくるようにドアのノブをつかむと、未来は強引に玄関ドアを閉めた。
 男たちは、まだなにやら叫んでいる。
 思わず耳をふさいだ未来の足は震えていた。



10月27日(金) 定食屋にて

「いや〜、本物の借金取りなんて初めてみたよ。いるんだね、本当に。ドラマなんかでみたままだったよ。さすがに怖くて足震えちゃった」

『なにを呑気なことを……。で、借金の理由は?』

「妹さんの病気の手術代だって」

『妹の手術代を闇金から……?
 アンタ、信じたわけじゃないでしょうね?』

「信じたよ。信じる以外なにがあるの。今度妹さんのお見舞いに行く約束もした」

『へえ。その妹の入院先は?名前は?病名は?』

「う……そんな矢継ぎ早にきかないでよ。借金取りに居場所がバレたことで陸が少し混乱してて、落ち着いてから、ゆっくりきくつもり」

『行くあてがないってのは、つまり借金取りに追われて姿を隠す場所を探してたってことだったわけね。
 500万の借金がある男と結婚するとかいってたの、アンタ。
 大学生がそんな大金どうやって返すっていうのよ。
 だいたい、親は?他の家族はいないの?』

「……それも、落ち着いてから……」

『ねえ、悪いことはいわない。今のうちに別れなさい。
 だっておかしいわよ、その話。嘘に決まってるわ。
 だいたい、普通病気の手術代を闇金から借りる?どうして取り立てが親じゃなくて兄である陸のところにくるのよ。
 返せるわけないじゃない、働いてもいない大学生に』

「それは、そうだけど……。でも、ちょっとだけでも陸が身の上話してくれただけで嬉しいっていうか。何年かかっても、一緒に返済しようって気になったっていうか……。だって妹さん、手術に500万も必要な大変な病気なんだよ。応援したくなるのは自然でしょ。早く良くなって、陸が逃げ回る生活から解放されるまで、私は彼の味方でいるつもりだよ」

 街中で偶然陸をみかけたあの日。
 彼がパチンコ店に行っていたことに衝撃を覚えただけであの日の出来事は未来のなかで完結していたが、どこに行ったのかきかれ、確かに陸は「病院に見舞いに」行ったといっていた。
 あれは、真実だったのかもしれないと、今では思う。
 そばにいれば、ひとつひとつ、ゆっくりではあるが、陸のことを知っていけるかもしれない。
 やがては互いのことを深く信じ合う、本当の意味で信頼で結ばれた恋人同士になれるかもしれないではないか。

『はああーーっ』

 チカが大きく息を吸った。
 来る。未来は身構える。


『アンタって本当馬鹿!騙されてるに決まってるでしょうが!なんでそんなことがわからないのよ。なんでそんなに理解力がないの。なんでそんなに危機感がないのよ!
 男に盗聴器つけられたアホ女は誰?ストーカーに殺されかけた女は誰よ?
 あのね、好きな相手のなにもかもを許すのが、純愛ってわけじゃないのよ。そこからして アンタは間違ってる。 とにかく、陸は怪しい!信じるだの受け入れるだの、耳に優しい言葉で矛盾を隠して自分を誤魔化してるだけ。
 本当は、アンタだって陸に対しておかしいと思うところ、あるでしょ?
 それに目をつぶることこそ危険な行為なの。わかるでしょ?アンタは利用されてるだけ。
 働かなくても、タダ飯食わしてくれる便利な女。ヒモにとってアンタは理想の金のなる木なのよ。
 闇金に顔まで割れて、陸と一緒に始末されても知らないからね』

「お、おどかさないでよ」

『おどしてない。現実をみろっていってんの。なにかあってからじゃ、遅いんだからね。
 死んで後悔しても、誰も同情してくれないんだから』

「……やっぱり、怪しい、のかなあ?」

『グレーゾーンどころの話じゃないわね。真っ黒よ、真っ黒。
 好きになったくらいで、アンタまで借金返済に協力させられて、貧乏クジ引く必要はない。お金は自分のために使いなさい。
 男はいくらでもいるけど、お金はなくなったら終わり。貴重な財産よ。この歳になったら、誰も助けてくれないんだから。そろそろ自分の身を一番に考えることを覚えたら。男か一番、なんて考え時代遅れよ。自立しなさい』

「……どうしてチカの説法はこうも胸にグサッと刺さるんだろうね」

『真実しかいってないからでしょ』

 チカは平然とカツ丼を咀嚼している。

『イライラしてると、つい食べちゃうわ。
 太ったらアンタのせいだからね』

「うん、私の唐揚げひとつあげる」

『あら、ありがと』

 チカは、唐揚げを箸でつまむと、口に放りこんだ。

 チカは、友人である未来を、心から心配してくれている。
 だからこそ辛らつな言葉で暴走する未来のブレーキになろうとしてくれているのだ。
 それは、わかる。理解しているつもりだ。
 でも、恋する気持ちは、チカであっても止められない。
 私、やっぱり恋に恋する病気なのかな。
 
 チカに、陸が『クズ』でないと証明するために、彼のことを少し調べてみよう、未来はそう決意した。

10月29日(日) 夜の繁華街にて

 週末の夜。
 駅前の繁華街は、残り少ない休日を楽しもうと、繰り出した人々で溢れ返っていた。
 きらびやかなネオンが彩る街には、いつしか冬の足音が近づいてきていた。
 アルコールに酔った千鳥足の男の集団がいる。
 体を寄せ合って歩くカップルがいる。
 寝てしまった子ども背負って楽しそうに歩く若い家族連れがすれ違っていく。
 様々なひとが、様々な過ごし方をして街は成り立っていく。
 未来は、客引きの男を振り払いながら、人混みのなかをひとり歩いていた。

 いけないことだとわかっている。
 自分が傷つくかもしれないともわかっている。
 けれど、陸の本当を知らなければならない。

 夕方、買い物に行きたいと陸がいうので、未来は奮発して1万円を渡した。
 「今夜は先に寝ていてください」といって、陸は出かけていった。
 陸がそんなことをいったのは、一緒に住み出してから、初めてのことだった。
 これはなにかある、と直感した未来は意を決して陸のあとを追うことにした。

 失うには痛い金額だが、その1万円を持って陸がどこに向かうのかを確かめるためには必要な出費といえた。

 陸はやや背を丸めながら、雑踏のなかを歩いていく。
 また、パチンコにでもいくつもりなのだろうか。
 次第に、未来の緊張が高まる。
 自分の知らない陸の別の顔を知ることになってしまうかもしれない。
 未来は立ち止まって、ぱしっと両頬を叩く。
 
 なにを恐れている?
 どんな陸の正体を知っても、動じないと、受け入れると、チカに強がったばかりではないか。
 あの根拠もなく強気だった自分はどこへいったのか。
 決めたのだ、信じると。
 今は、陸への思いを試されているのだ。
 負けるわけにはいかない。

 再び歩き出した未来の視線の先、陸が、スナックやバーがひしめく、けばけばしい電飾が怪しげな雰囲気を醸し出す、駅前の奥まった通りへと進んでいく。
 羽虫が照明に吸い寄せられるように、ひともまた、ネオン輝く看板のかかげられた店へといざなわれるように入っていく。
 陸の消えた店の前で、未来は立ち尽くす。
 キャバクラだった。
 店内に入るわけにもいかず、未来は途方に暮れた。
 ぐ、と唇を噛む。
 浮気をしているわけではない。
 独身なのだから、大人の店に出入りしていたって、なんの問題でもないはずだ。
 しかし、ショックは大きい。
 まず未来は、キャバクラというものを、初めてみた。
 本物のキャバ嬢というものも、みたことがない。
 中でどんなことが行なわれて、どんなひととどんな会話をしているのか、想像するだけで、むくむくと、どす黒い感情が腹の底から湧き上がってくる。
 こんな気持ち、初めてだ。
 今まで風俗やキャバクラに出入りする男と付き合ったことはない。
 いや、本当は未来が気づいていないだけで、そういう男もいたのかもしれないが、とにかく、こんなことは初めてだった。
 この事実を知ってしまったうえで、どう対処すればいいのかもわからない。
 ……許せない。
 裏切られたという思いが拭い切れない。
 毎日毎日笑顔で迎えてくれて、未来のために尽くしてくれた。
 彼の笑顔に、どれだけ癒やされてきただろう。
 彼のために働こうと、未来も陸に尽くしてきた。
 将来まで口にする、彼のため。
 全ては陸のため。
 未来は、生まれてしまった感情に戸惑いつつも、飼いならすこともできずにため息をつくと、家路についた。


11月10日(金) 居酒屋にて

「やっぱりチカのいうとおりだったよ。
 陸に、私の渡したお金、なにに使ってるのか問い詰めたら、ギャンブルとキャバクラに使ってるって認めた。500万も、ギャンブルに使うために借りたもので、入院してる妹の話も嘘だった」

 大学進学を機に、ひとり暮らしを始めた陸は、ありとあらゆるギャンブルを覚え、大学にも行かずに借金を繰り返しては、賭けに興じていたという。
 気がつけば借金は返し切れない額まで膨らみ、家賃も払えず部屋を追われ、借金取りから逃げ回る生活を送っていたという。
 そこで出会ったのが、未来だった。
 やはりチカのいうとおり、未来は彼に利用されていたのだ。

 レモンサワーを飲み干し、グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、チカは鼻から荒い息を吐き出した。

『あたしだけじゃなくて、アンタ以外の人間は、全員、陸がクズのヒモだってわかるわよ。
 男を好きになると、頭がのぼせ上がるとはいえ、アンタ本当に陸がクズだって疑わなかったの?』

「クズとかヒモとかいわないでよ。
 陸ね、泣きながら見捨てないでほしいって謝ってきたの。
 これからは、心を入れ替えて、きちんと大学に行ってギャンブルともキャバクラとも縁を切る、2度と行かないって誓ってくれた。
 借金返済のためにアルバイト探して自立するって」

 グラスを置いた姿勢のまま、未来を凝視していたチカが、呆けたような声を出す。

『……は?まさか、許したの、陸のこと』

「許したよ。彼が2度と同じ過ちを繰り返さないように、私が更生させる。これまで通り、彼が自分で稼げるようになるまで私が支える。借金返済の目処がついたら結婚するよ。彼もちゃんと約束してくれた」

 平然と答える未来の対面で、チカが髪を振り乱して首を左右に振った。
 まとわりつく虫を振り払っているみたいだ。
 どうしたのかと心配になった未来が、声をかけようとすると、チカがあらんかぎりの力で声帯を震わせた。

『アンタ馬鹿!?借金まみれのギャンブル狂が、ちょっと叱られたくらいで治ると思う!?
 大学生のくせに500万も借金があるのよ?
 自立自立っていうけど、とてもじゃないけど、まともに就職なんてできないに決まってるわ。
 アンタまで借金背負うつもり?
 どうしてアンタがそこまで陸のために身を削らないといけないのよ?
 本当に、そこまでする価値が、陸にはあるの?』

 相手の声をきき取るのが難しいほど繁盛していた店内は、今や怒り狂うチカの独壇場となっていた。

「ちょっと、チカ、みんなこっちみてる」

『関係ないわ。それより陸よ。彼と付き合うのはやめなさい。必ず不幸になるわ。断言する』

「チカ、陸に会ったことないでしょ。どうしてそこまで否定するの?」

『当たり前でしょ!誰にきいても、借金背負ってるヒモの大学生と付き合うなんてやめとけって、99パーセントはいうわよ。残りの1パーセントはアンタみたいな馬鹿な女』

 不機嫌そうにチカは2杯目のレモンサワーを喉に流しこむ。
 今日はペースが早い。

『ねえ、わかるでしょ?あたしだって、こんなこと、いいたくていってるわけじゃないのよ。ただ、アンタが心配だからいってるの。これ以上アンタに傷ついてほしくないから、仕方なく、暴走を止めるためにいってるの。アンタに不幸になってほしくないから。そりゃ、不幸話をきいて酒を飲みたいとかいってはいるけど、アンタにいいひとが現れてほしいって本当は思ってるのよ。いつか理想のひとが現れて、幸せな結婚してほしいって思ってるの。そうしたら、あたしだってきちんと応援するし祝福するわよ。
 でも、今は駄目。陸は違う。
 陸は必ずアンタを不幸にする。今のうちに縁を切っておかないと後悔するわ』

 親友の、酒の力を借りない真摯な言葉に、未来の胸がぎゅっと締めつけられる。
 わかっている、心配しているからこその忠告だとも、自分が今、暴走していることも、理解していた。
 けれど、駄目なのだ。
 今の未来には陸しかみえない。
 陸を切り捨てる可能性などもはや、頭の片隅にも残っていない。
 自分なんか、どれだけ傷ついてもいい。
 それで陸を救えるのなら。

「……ごめん、チカ。やっぱり陸を諦めるなんてできないよ」

『あ、そ』

 チカは先ほどまでの勢いを失い、心底残念そうに視線を落とすと、この夜は、これ以上未来に毒舌を吐くことはなかった。
 なにをいっても無駄だと、見限られたのかもしれない。
 未来は少しだけショックを受けたが、陸への気持ちを前にすれば、それさえも仕方のない犠牲に思えた。
 なにかを得るには、対価としてなにかを失わなければならないのかもしれない。
 それが親友との友情であることに、未来は少しだけ神様を恨んだ。



11月18日(土) 未来の自宅にて

 陸に頼まれた買い物をすませ、帰宅した未来は、部屋の鍵をひねったとたん、かすかな異変に首をかしげた。
 鍵がかかっていない。
 出かけるとき、閉めていったはずだ。
 ぎい、と軋む古びたドアを開けると、未来は目の前の光景に目を疑った。

 なにも、ない。

 家を出たつい2時間ほど前には、なんの変化もなかったはずのアパートの自室は、もぬけの殻だった。

 靴を脱いで、ふらふらと部屋に上がる。
 六畳一間の部屋から、まさしく文字通り家財道具一式が消えていた。
 ベッドも、ローテーブルも、テレビも、本棚も、冷蔵庫も洗濯機も、食器棚の皿1枚にいたるまで、なにも部屋には残されていなかった。
 引っ越しの直後のように、あるいは入居直前のように、部屋は綺麗に掃き清められ、ほこりのひとつも残っていない。
 部屋を間違えたのかと、もつれる足取りで靴を履き、外へ出てアパートの外観を確かめるが、自分の部屋で間違いはない。
 そもそも、外観はこんなだが、このアパートに空き部屋はないのだ。

……空き巣に入られたのだろうか。
 しかし、未来が家を空けたたった2時間程度で、部屋のなにもかもを盗むことが可能なのだろうか。
 そもそも、こんなボロアパートの自分の部屋が、なぜ狙われたのだろう。
 物を多く持つタイプではない。
 むしろ、切り詰めて生活しているだけあって、必要最低限の家財があるだけだ。
 アクセサリーやバッグなど、金になりそうなものはひとつも持っていない。
 未来の部屋にあるものを売ったところで、大した金になるとも思えなかった。
 今、未来の手元に残っているのは、持ち出したバッグの中身のみだ。
 スマホと財布、買い物帰りに寄った喫茶店で使用した愛用のノートパソコンのみ。
 キャッシュカードのたぐいは、財布に入れてあるから無事だが、実家から持ってきた思い入れのある品々がなくなったショックは大きい。
 金をかければ取り返せるものばかりではない。
 思い出が詰まったものも、たくさんある。
 手放したくなかったものまで、奪われてしまった。
 返して……返してほしい。
 金を払ってでも取り返したいものがある。
 一体誰がこんなことを……。
 なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。
 私は、そんな悪い行いをしたのか?
 ただ好きなひとと、平和に過ごしたいだけ。
 それなのに、そんなささやかな夢も叶えられないというのか。
 どこまで徳を積めば、私は人並みの幸せを手に入れることができるのだろう。
 体の一部が引き千切られたような痛みに、未来はこらえ切れずに大粒の涙を流すことしかできなかった。

 警察に通報しなくては……。
 呆然ともののない部屋に立ち尽くしていると、大事なことを忘れていることに気づいた。

 陸は……?
 彼はどこへ行ったのだろう。
 玄関を振り返る。
 陸のスニーカーはなかった。

 なにが起きているのか……。
 混乱を極める未来は部屋へと戻り、陸の手がかりを探すように辺りを見回す。
 残されたものは、なにひとつない。

 陸と連絡を、取る方法はない。
 陸は、スマホを持っていない。
 出かけた先で、事故にでも遭ったのではないか。
 あるいはまた、どこかで行き倒れにでもなってはいないだろうか?
 悪い考えが、あらゆる可能性が未来の頭をよぎっては遠くに流れていく。
 どうか無事でいてほしい。
 早く、早く帰ってきてほしい。
 あの仔犬の笑顔で、「ただいま」と帰ってきてほしい。
 そして、大丈夫だと抱きしめてほしかった。
 安心させてほしかった。
 陸さえいれば、この苦境を乗り越え、イチからふたりで生活を立て直す気力もわくに違いない。
 陸、どこに行ったの?
 大変なことになってるんだよ。
 早く犯人を捕まえてもらわないと、陸との思い出が詰まったものまで奪われてしまったの。
 一緒に犯人を恨もうよ。
 この気持ちを、話したい、共有したいよ。
 ねえ、陸……。

 まずなにをすべきなのかもわからずに、フローリングの床に座りこんでいると、すぐに夕闇がカーテンのない窓から侵食してきて部屋を暗くする。
 
 どれだけそうしていたか……。
 陸が帰る気配はない。

 未来は未だに信じられない面持ちで、現実を受け止められないまま、靴を履いて外へ出た。

 そしてその足で警察へと向かった。


11月23日(木) 帰宅途中の家路にて

 結局、今に至るまで、空き巣犯は捕まっていない。
 警察が部屋を調べ、犯人の痕跡を探したが、なんの手がかりも得られていない様子だった。
 警察から事情をきかれ、同棲していた恋人がいることも話した。
 事情聴取の際、陸のことをきかれ、未来は、自分が彼のことをなにひとつ答えられなかったことに戦慄した。
 付き合っていた男がなにもので、どんな経歴を辿ってきたのか。
 どこへ行ったのか、心当たりはないか、彼を知る知り合いはいないか。
 どんな質問をされても、未来はひとつも、まともな答えを返すことはできなかった。
 要領を得ない答えに終始する未来からは、有力な手がかりは得られないだろうと判断したのか、警察はすぐに未来を解放した。
 警察は、事件直後から姿を消した小島陸を疑っているようだ。
 無理もない、と未来は思う。
 金目当ての空き巣より、行方をくらませた同棲相手のほうが、犯人として矛盾が少ない気がするからだ。
 陸がなぜ未来の家財を盗んだのか。
 金にするためだ。
 ギャンブルで借金をしていたことを認めた日から、未来は彼に金を渡さなくなった。
 もともと、彼に所持金はない。
 陸が、未来をもう利用価値がなくなった女と判断して、金になりそうな家財を根こそぎ奪って姿を消したのというのが、一番現実的で、しっくりくる推測だった。
 その金を、返済にあてたのか、ギャンブルに使ったのかは、未来には知る術がないことだ。
 自分は利用されるだけして棄てられたのだ。
 
 いくら待てど暮らせど帰らない陸の行方不明者届けを、先ほど警察に出してきたが、成人男性が数日帰らないだけでは、警察も本腰を入れて捜索はしてくれないだろう。
 事件性もなく、ただの家出として扱われれば、積極的には捜索してくれないかもしれない。
 未来にとって陸は、かけがえのない恋人だが、警察にとっては数いる失踪者のひとりにすぎないのだ。
 陸を発見できる望みは薄いかもしれないな、と未来は諦めの境地に達する。
 もし今、陸が帰ってきてくれたなら、未来は受け入れられる自信がある。
 そう簡単に忘れられる相手ではないのだ。
 知り合って短期間とはいえ、共に過ごし、将来一緒になろうと約束した相手なのだ。
 今は、陸に裏切られたという思いより帰ってきてほしいという思いが強い。
 あの仔犬の笑顔で迷いのなにもかもを吹き飛ばしてほしい。
 ただそばにいてくれればそれでいい。
 願いはただ、それだけなのに……。

 叶わない想いに嘆息し、未来が警察から家までの道を歩いていると、狭い道幅の通りの背後から、車のエンジン音が近づいてきた。
 避けなければな、と歩調を緩め、道の端に寄って車をやり過ごそうとする。
 ゆっくりと近づいてきた車が停止し、音を立ててドアが開き、ひとが降りてきた気配がする。
 なんだ、こっちに来ないのか、と歩きだした未来を、謎の衝撃が襲う。
 後ろから、なにかがぶつかってきて、よろけた未来の腕が掴まれ、大きくて力強い手のひらで、口を塞がれる。

「っ!?」

 とっさに声も出せない未来を、正体不明のなにものかが、ものすごい力で引きずり、ずるずると未来の靴がアスファルトを引っかく。
 体を完全に抱えこまれ、抵抗すらできずに、車の後部座席に放りこまれる。
 そのとき、初めて自分を襲った相手を確認した。
 目出し帽を被った大柄の男。
 男は、狭い車内で未来の体を抑えこみながら、悲鳴も上げられない未来の両手と両足を、手際よく結束バンドで拘束していく。
 やがて男が作業を終え、見動きが取れなくなった未来をフラットにした座席に転がすと、勢いよく後部座席のドアを閉めた。
 この間、わずか3分足らず。
 目出し帽が助手席に飛び乗ると、ドアを閉めたと同時に車が発進する。
 完全にフリーズしてしまった未来を乗せて、車は市街地を駆け抜けた。

 数分後、未来はようやく自分が危機的状況に陥っていることに気がついて、底知れない恐怖感に体を震わせていた。
 未来を襲ったのは、助手席に座る目出し帽と運転席の男ふたりのようだ。
 面識はない。
 なぜ自分が連れ去られたのか、その理由を思いつきもしなかった。
 ただの誘拐犯か?
 自分を拉致して、これからどうする気なのか。
 もしかして、このまま殺されてしまうのだろうか。
 冷や汗が全身から噴き出す。
 冷たくなった両手が震えはじめる。
 誰か、誰か気づいて。助けて。
 この車は、一体どこに向かっている?
 この男たちは、なにものなのか。
 どんな目的があるのか……。

 未来は、震える手を首筋に這わせた。
 首にかかっているものを、衣擦れの音もさせないように引っ張り出す。
 拘束されたのが、後ろ手でなくて助かった。
 男たちは、未来の拉致に成功して気が抜けたのか、雑談をはじめた。
 自分に注意が向けられていないことを確かめると、未来は服のなかに隠したもの手繰り寄せた。
 チカからもらったプリペイド式携帯電話だった。
 バッグは奪われてしまったが、タートルネックのセーターを着ていたおかげで、首が隠れ、そこから提げていたストラップに、男たちは気づかなかったようだ。
 ストラップの先には、携帯電話とGPSが繋がれている。
 チカとサキにこれを渡されてしばらくは、バッグのなかに入れていたのだが、チカに闇金に顔が割れている、とおどされて以来、万が一の場合を考え、首から提げるようにしたのだ。

 震える指先で、チカの番号を押していく。
 やがて通話状態になり、『もしもし?』というチカの声が小さくきこえた。
 もちろん、声を出すことはできないので、未来は無言のまま、チカが異変に気づいてくれるのをひたすら待つことしかできない。


『もしもし、未来?……なにかあったのね?待って、今場所確認するから』

 チカの声に安心して、未来の瞳から涙が溢れ出す。
 嗚咽をこらえていると、男ふたりが、機嫌よさげに大声で話しはじめた。

「しかし、あの小島ってガキも、大したもんだよなあ。借金で首が回らなくなったら女に近づいて、騙して財産奪った挙げ句、足りないとなったら女まで売って金にするなんてな。本当に大学生かよ」

「本当だよなあ。ま、騙された女も馬鹿なんだけどな」

「全くだ!あははは!」

 男ふたりの会話をきいて、チカが電話の向こうで、『……ふざけないでよ』と怒りに震えた声を出す。
 未来は、この先自分に待ち受ける最悪の事態を想像して恐怖に慄いた。 
 一刻も早くここから逃げなければ、殺されるより辛い目に遭うのは目にみえている。
 チカ、早く、早く助けにきて……。

『安心して、警察には通報したから』
 その言葉を最後に、電話の向こうのチカは沈黙した。
 未来を乗せた車は、警察に止められることもなく、市街地をひた走っていく。
 体感で、かなり長い時間を走ったような気がするが、生きた心地がしない状態では、体内時計など信頼できない。
 やがて車は、これまたドラマや映画でみたような展開をみせ、人里離れた山奥の、廃墟のような建物に到着すると、完全に停止した。
 ドアが開けられ、おあつらえ向きの大男が未来を軽々と担ぎ、廃墟の中へ入っていく。

 土や枯れ葉が積もるコンクリートの地面に乱暴に転がされると、待っていたのだろう男が、くわえ煙草のまま近づいてきて、未来の体を見下ろす。

「ふん……なるほどな。風俗へ売るか海外へ売るか……。内臓を売るのは惜しいな。これなら客が取れそうだ」

 髭面の、中年にも若年にもみえる男が、値踏みするように未来を観察しながら口の端を吊り上げて嗤った。

『しかし、姉ちゃんも可哀想になあ。犬っころみたいな若くて可愛い男を拾って食わせてやったのに、その犬に手を噛まれて売られるなんてな。ま、顔だけの男に騙された姉ちゃんも、自分が馬鹿だったって諦めるんだな。常習犯なんだよ、あのガキは。あいつに売られた女は、姉ちゃんだけじゃない。借金が返せないとなったら、女を騙して金に替える。悪いが、姉ちゃんにも馬車馬のように働いてもらう。その顔なら、客をとるのに申し分ないからな』

 ほこりっぽい廃墟に、男たちの哄笑が木霊する。
 未来の目から再び涙が溢れ出す。
 カチカチと、歯の根が合わない。
 居ても立っても居られず、手足をばたつかせて拘束を逃れようとする。
 男たちは、面白がるように、抵抗を続ける未来を、半笑いで見下ろしている。
 自分はこれから、どうなってしまうのか。
 陸の借金返済が終わるまで体を売らされるのだろうか。
 地獄だ。
 精も根も尽き果てるまで搾取され、自分を待つ未来は、絶望の闇に閉ざされている。
 生まれてきたことを後悔するくらいの生き地獄。
 そこに、未来の想像も及ばない、どんな世界が待ち受けているのだろう。
 怖い。逃げたい。もう逃げられない。
 誰でもいいから助けてほしい。
 男たちに、涙をみせるのも悔しくて、未来はきつく唇を噛む。

「なあ、売っちまうまえに、ちょっと味見しねえか?」

 目出し帽を脱いだ大男が、いやらしい目つきで未来を見下ろしていう。
 その場にいる男たちの目が、飢えた獣が餌をみつけたように爛々と輝く。
 未来は体を縮める。
 これは、まずい。
 生まれて初めて味わう圧倒的な恐怖感に、めまいに似た感覚が未来を襲う。
 男たちの声が遠くなる。
 冷や汗が体温を奪う。
 もう、なにも考えられない。
 終わりだ。

 男たちが接近する気配を感じながら、それでも荒い呼吸を繰り返すことしかできない未来が、観念してきつく目を閉じたときだった。

『動くな!警察だ!』

 廃墟に、野太い男の声が反響した。
 エコーがかかったように、声が何重にも重なって鳴り響く。

「チカ……っ」 

 未来は顔を上げ、小さく呟いた。

「なんでサツに居場所がバレたんだ!お前ら、あとをつけられないように注意しろって、あれだけいっただろうが!」

「バレてねえよ!ここにくるまで、ついてきた車なんていなかった!」

「じゃあなんでサツがいるんだ!クソっ」

 男たちは、怒声をあげ、罵り合いながら、我先にと逃げ出していく。
 未来たちが入ってきた入口とは反対側にも、別の出口があるようで、男たちは未来に背を向けて、走り去っていく。
 どたばたと、情けない足音を響かせながら男たちの気配が遠ざかる。

 
『未来!』

 足音が消えるやいなや、スーツ姿のチカが見動きが取れない未来に駆け寄ってくる。

「チカ!…。チカあああ……」

 未来は、上半身を起こすと、チカの肩に額を押しつけ、子どものように号泣しはじめた。

『未来……。大丈夫?怪我はない?すぐに、警察もくるから……』

「チカ……ありがとう……助けにきてくれて」

『もう、だからいったじゃない……。陸はやめとけって……。本当、馬鹿なんだから』

 厳しい言葉とは裏腹に未来の頭を撫でるチカの手つきは優しい。
 泣きじゃくる未来の、絹のような髪をポンポン、と撫でていると、静寂に満ちた廃墟の遥か彼方から、パトカーのサイレンが近づいてきた。



11月30日(木) 居酒屋にて

『で、結局陸は?』 

 対面に座る未来は、首を左右に振る。

「私をさらった男たちは、あの後全員捕まったけど、陸の行方だけはわからないんだって」

『逃げるのだけは上手いわけね。どうせまた、アンタみたいな馬鹿な女を騙して、隠れてるんだわ』

「……多分ね」

 またしても奇跡的なタイミングでチカが駆けつけたことで、未来は事なきを得た。
 チカに次いで駆けつけた警察に保護された際、警官の顔にはありありと、「またあなたですか」と書いてあった。
 確かに、この短期間で、2度も生命の危機に遭うなんて、常軌を逸している。そんな顔をされても、無理はなかった。
 いっそ、呪われているとしか思えない。

 未来のピンチを察し、仕事を放り出して、GPSを頼りに男たちのアジトに乗りこんだチカには、あれから嫌味と愚痴をいわれ続けているが、未来にいいかえす資格はもちろんない。
 チカが車を飛ばして追跡してくれなかったら、本当に危なかった。
 警察は、確実に間に合わなかった。
 警察に任せては間に合わないと、自力で未来救出に向かったチカの判断がなければ、今、未来はチカの愚痴すらきくことはなかっただろう。
 チカの不機嫌な顔も、2度とみられなかったかもしれない。
 今は、嫌味だろうが愚痴だろうが、耳に心地よい。
 戻ってきたと、実感させてくれる。

 最近、未来は何気ない日常というものが、どれだけ奇跡的に成り立っているのかということを、痛いほど実感している。
 平和に1日を終われることの幸せ。
 1度、失いかけなければ気づくことすらない平穏という言葉の尊さ。 
 仕事終わりに親友と飲むお酒。
 何気ない会話。
 2日酔いで後悔する朝。
 それすらも笑い話として変わりなく続く毎日。
 憂鬱になる仕事に、反りの合わない上司。
 自分に与えられた身の丈に合った環境。
 その全てを享受して、生きられることのありがたさ。

「あーあ、なんで私、こんなに男運ないんだろ。もう、チカでいいよ、私」

 陸のこと、未来をさらった男たちのことを、根掘り葉掘り聞かれ、うんざりしていたが、ようやく警察の事情聴取も一段落し、久々に今日、チカと居酒屋にやってきた。

 ビールを飲み干すなり、未来はジョッキをテーブルに叩きつけ、早くもやや据わった目で、恒例の嘆きがはじまる。

『はあ?こっちが迷惑よ。あたしはアンタのお守りなんかやりたくないんだからね。アンタといると、心臓がいくつあっても足りないわよ。大体、なんでアンタが自分から招いたピンチに遭うたびに助けに行くのがあたしなのよ。どんだけお人好しなんだか、あたし』

「だから、チカがいいんだってば。チカなら必ず私を助けてくれるから。ねえ、私と結婚しない?私、結構いい奥さんになれると思うんだけどなあ」

『願い下げよ。冗談じゃない。アンタ、一途だの尽くすだのいうけど、本当にひとりの男を一生愛せるのか疑問だわ。すぐに目移りして、他の男に走りそう。運命の相手は他にいた、あなたじゃない!なんていってさ』

「ひどいなあ。私、浮気したことはないよ。いつだって付き合ったひとが運命の相手だって思ってる。結婚できないのは、ただ……まだ運命の相手と出会ってないだけで」

『運命の相手ねえ……。どこを落とし所にするつもりなのやら』

「妥協する気はないよ。だって一生を添い遂げるひとだもん。運命を感じなかったら、別れるのは相手にとっても誠実な判断じゃない?」

『婆さんになって、誰も相手にしてくれなくなっても知らないんだからね。あの時、あの男が運命のひとだった……なんてことになったら悔やんでも悔やみきれないわよ。結婚したいってだけなら、ある程度の妥協も必要だと思うけどね』

「駄目、駄目。それこそ相手にとって誠実じゃないよ。不満を抱えたままじゃ、風船が膨らんでくみたいにいつか爆発しちゃう。結婚相手は、よく見極めなきゃ。まだ若いうちに。色んなひとと出会って結ばれたたったひとりを見つけだす……簡単じゃないけど、運命の相手だったら、絶対にわかるはず。出会えるはずだよ」

『相変わらず重いし甘いわねえ。いやしないわよ、運命のひとなんて。好きだっていってくれる男がいるのに、贅沢な女ねえ。強欲よ。運命の相手を探しすぎて、迷子にでもなったらみてるこっちも面白いのに』

「ちょっと、興ざめなこといわないでよ。私はまだ、運命の相手を探すことを諦めてはいない。ただ、今はちょっと休憩中かな。怖い思いしたばかりだし。本物のクズを2連続で引いて、臆病になってるかも」

『それくらい慎重に男は選ぶべき。顔とか金は、判断を鈍らせる。ようやく成長したじゃなたい、アンタも』

「チカに褒められると自信がつくな。これからは、自分磨きに時間を使うことにする」

『自分磨きねえ……。きこえはいいけど……。ま、次は邪な男に引っかからないようにね。どうもアンタは、そういう男を引き当てる運命にあるみたいだから』

「やめてよ、縁起でもない。もうクズはたくさん。優しくて、誠実なひとであれば、顔もお金もこだわらない。私のことを一番に考えてくれるひとを探すんだ。1度騙されたから、もう同じ手には引っかからないよ。学習したからね、この体で、痛いほど」

『あ、そ。それはなにより。体張って助けたかいがあるってもんだわ。あたしが救ったその命、大事にしてよね』

 チカは本当に満足そうに微笑むと、2杯目のビールをぐいっと煽った。

「あーあ、気がつけばもう冬だよ。今年ももう少ししかないよ。24歳が終わっちゃう。人生計画ではとっくに結婚して子どものひとりは産んでる予定だったのになあ。まさか旦那さんになるひととも出会ってないなんて。クリスマスも年越しも、今年は予定なしかあ。これから相手みつけられないかなあ」

『ほらまた危険な思考に陥る。予定ありきで恋人を探そうと焦るから、男の本性に気づけなくて痛い目に遭うのよ。別にクリスマスだろうが年越しだろうが恋人がいなきゃ成り立たないわけでもないでしょ。ただの日常の延長。世間の風潮のほうがおかしいのよ。商売人が、金儲けの手段として利用したイベントにすぎないのよ。踊らされるほうが馬鹿ってもんだわ』

「そういうチカは?今年のクリスマスなにか予定ある?」

『どうせ会社の忘年会かなにかで埋まるんじゃない?』

「色気ないなあ。チカも恋人作ったら?」

『いらない。煩わしいだけ。今は仕事とアンタがいればいいわ』

「ふーん、かっこいい……」

『アンタみたいに男には依存しないタイプなの。自立した人生を送るためにキャリアを積んでるんだから』

「チカの自立心の半分もほしい」

『まあ、心がけとしては好ましいかもね。でも、まあ、アンタにはアンタなりの目標があるわけだからね。あたしはアンタのそういうところ、否定したりはしないわよ。ブレないところとか。意外と頑固に目標を達成しようとしてるところとか』

「チカに認めてもらえるとは!」

『あたしにはアンタみたいな人生は送れないからね。誰かに甘えることもできないし、頼るひともいない。全部自分で完結しなきゃいけないんだから、そりゃ仕事に躍起になるわよ』


「チカはもうちょっと弱みをみせられる相手を探したほうがいいと思うけど」

『いいの、あたしの話は。アンタは自分のことだけ考えなさい。じゃ、改めて、未来の生還を祝って……』


「『乾杯!』」

 すっかり憑き物が落ちたような笑顔を浮かべると、未来とチカは飲みかけのジョッキを合わせ、心ゆくまでアルコールを摂取した。
 ああ、生きている……。
 ようやく未来は、自分が平和な世界に、いつもの日常に帰ってきたことを実感し、賑わう店内に視線を巡らせると、ささやかな贅沢を楽しむ客たちをみて、幸福な気分に浸ったのだった。