6月4日(日)今野サキの結婚披露宴会場にて

『まさか、サキが最初に結婚するなんてね。
 結婚なんて興味ありません、みたいな顔して、しっかり婚活してるんだもの。
 しかも、つかまえた相手がいわゆる青年実業家で申し分のないイケメン。
 年収1億はくだらないらしいわ。
 保育士から将来有望な若き社長の妻の座への華麗なる転身。
 あら、このステーキ美味しい。
 挙式といい食事といい、相当お金かかっているわね。
 サキ、こんなに派手好きだったっけ?』

「本当にうらやましい……」

 チカの言葉を無視して、まばゆいばかりの照明を浴びて輝く笑顔を振りまいている新婦のサキを、指をくわえんばかりの熱視線で見つめていた未来(みく)がうわごとのように呟いた。

「私、子どものころ24歳なんて絶対結婚してると思ってた」

『あたしたち、まだ24じゃない。この先出会いなんていくらでもあるわよ。仕事だって慣れてきて、楽しくなってきたところだし』

 ワインを一口飲んで口元をナプキンで拭ったチカを、未来が恨めしげににらみ、口を尖らせる。

「そりゃ、チカはいいよ。大手広告代理店で若きエースとして期待されて、バリバリ働いてさ。収入だって充分すぎるほどあるでしょ。
 それにひきかえ私は大きくも小さくもない病院の医療事務……。
 はあ、同じ大学出てるのに、なんでこうも違っちゃったのかなあ」

『あのね、アンタと一緒にしないでくれる?あたしは努力したの。男にうつつをぬかしているアンタとは比べものにならないほどにね。
 男をとっかえひっかえして、「今度こそ結婚する、運命の相手だ」って耳にタコができるほどアンタに聞かされながら、必死に勉強したの。
 それが今のあたしとアンタの差。
 勉強も仕事も「結婚するから」のひとことで妥協してさ。医療事務に謝んなさい』

「うう……だって、私結婚以外に将来の夢がなかったんだもん」

『そもそも、なんでそんなに結婚したいの?』

「私さ……小さいころに両親が離婚してるって話はしたでしょ?家族団らんってものを知らずに育ったわけ。
 早く結婚して、優しい旦那さんと可愛い子どもに囲まれて、穏やかで幸せな家庭を築きたいのよ。
 仕事優先で恋愛は二の次のチカには一生かかってもわからないよ、私の気持ちは」

『わかりたくもないけどね。男に依存しすぎの恋愛体質の気持ちなんて』

 チカの辛口はいつものことだ。

 さほどショックを受けてもいないのか、未来はさっと表情を切り替える。

「でもね、今日はちょっと期待してきたんだ。見て、今日の私。気合い入ってるでしょ?」

 対面に座る未来を品定めするようにチカの視線がなぞっていく。

 新婦より目立たないよう気を使った、淡いピンクのシンプルなワンピースに白のカーディガン。アクセサリーは真珠のピアスのみだが、ブラウンの髪を編みこんでいて、メイクは隙のない華やかさだ。小柄で童顔。

 本人はそれがコンプレックスだが、幼い顔立ちはどこか無防備で、細いけれど均整のとれたスタイルをしており、なるほど、男が寄ってくるのもうなずける、とチカは思う。

 しかし、強すぎる結婚願望が裏目に出ているのか、焦って選んだ男は、チカの目から見ればクズばかり。未来に男を見分けるセンスはなさそうだ。

 気軽に声をかけられそうなルックスも手伝って付き合った男の数は多いほうだが、未だ結婚には至っていないところをみれば、チカの男を見る目が間違っていない証明といえそうだ。

「今日の披露宴、新郎の知り合いも来るでしょう?ということは、将来有望な社長さんやセレブなお友達がいっぱい来てるってことよね。上手くいけば、お近づきになれるかもしれない。こんなチャンス、滅多にないもの。連絡先を交換できたら今日来た甲斐もあるんだけどなあ」

 未来の視線がひとつのテーブルに投げられる。

 新郎の親族や職場の同僚とおぼしき人間が囲むテーブルとは、明らかに毛色が違う男性たちが座っているテーブルがあった。

 新郎の知り合い、あるいは友人だろう。
 親しげに歓談している彼らは一様に若く、スーツやちらりとのぞく腕時計から、生活のレベルがうかがえる。

 ルックス、収入……未来が求めるものは、全てそのテーブルにあった。

 未来の視線を追って振り返ったチカが呆れた声でいう。

『休日に友達の披露宴なんてとか面倒臭がってたわりによく来たな、と思ったけど、狙いはそっちだったわけね』

「貴重な休みを潰すんだもの。相応の収穫がなければ来ないわよ。サキの相手がセレブだと知って、今日にかけてきたんだから。今、彼氏いないし、千載一遇のチャンス、これを逃す手はないわよ」

『で、お眼鏡にかなう人はあの中にいるの?』

「うん、あの……」

『ちょっと待って。当ててあげる。グレーのスーツに銀縁眼鏡の黒髪を撫でつけた、ちょっと年上っぽいひと』

「当たり!すごいね、チカ」

『ふん、アンタの好みなんて熟知してるっての。で、どうお知り合いになるつもり?』

「うーん、それなんだよねえ。席も遠いし、どう近づこう……」

 ふたりがスーツの男性にぶしつけな視線を注いでいると、当の男性が、ふと流し目をこちらに寄越した。
 同じテーブルの男性たちと、未来たちの方を見て、何事かささやき合っている。

 彼と目が合って、ドクン、と未来の心臓が飛び跳ねる。

「ちょ、チカ!今、目合った!見てるよね、私たちのこと!」
『……見てるね。アンタかあたしかわからないけど』

 彼らはすぐに未来たちから視線を外すと、話を再開させた。
 未来はグレーのスーツの彼から、目が離せない。
 胸が高鳴る。体が熱を持つ。
 風邪で熱が出たときの気だるさや浮遊感に似た感覚が脳をしびれさせる。

「ちょっとお手洗いに行ってくるね」

 そうチカに断って、早くも暴走をはじめた己の単純極まりない細胞を冷やそうと、未来は賑やかな会場からお手洗いに向かって、人通りのないホテルの廊下を歩きはじめた。


 およそ10分後。
 出て行く前より紅潮した顔で未来は披露宴会場へと戻ってきた。

 高級ワインに酔っているのか、メイク直しでチークを濃くしてしまったのかとチカは訝しんだが、席に着くなり興奮した未来は早口でまくしたてた。

「聞いてよ、チカ!今、廊下でね、さっきの男のひと、グレーのスーツで眼鏡のあのひとに、偶然会ってね、声かけられて、連絡先まで交換しちゃって、それで……」

『落ち着け。どんな相手なのかもわからないのに、ホイホイついて行く軽い女にみられて遊ばれて捨てられる……今まで何回繰り返してきたのよ、それ。いい加減こりたらどうなのよ』

「でもっ今回は年上の落ち着いたひとだし、素性もはっきりしてるし、名刺だってもらって……今回こそ、運命の相手かも……」

『運命を気安く使いすぎ』

 未来の手から、光の速さで名刺を奪い取ると、チカはスマホで検索をはじめた。

横島衛司(よこしまえいじ)、35歳。都内で輸入家具店を3店舗経営か。へえ、かなり儲かってるわね。今後別の事業にも手を伸ばす予定、か。将来性はあるわけね。ふうん、いいんじゃない?』

「チカが褒めるなんて珍しい。本当に私、すごいひとと出会っちゃったかも……」

 会場ではサキが、両親への感謝の手紙を泣きながら読んでいる。
 酒に酔った親族の男性たちが赤ら顔で、大声で笑っている。
 新郎の知り合いを虎視眈々と狙っている、未来と同じ捕食者の目をした女性たちがいる。
 逆に、酒に興じるふりをしながら、あわよくばお持ち帰りできそうな新婦の友人を、血走った目で探している男性もいる。

 サキの披露宴は、様々な思惑入り混じるなか、無事にフィナーレを迎えた。



6月14日(水)焼肉屋にて

『乾杯〜!』

 カツンっとビールがなみなみと注がれたジョッキを合わせると、チカは一気に半分ほどを喉に流しこみ、『くは〜』と奇声をあげた。

 常連の焼肉屋は、夕食時とあって、仕事帰りの会社員で満席になっている。
 店の立地の関係か、曜日の影響か、家族連れは少ない。

 嗅ぐだけで胃が小躍りしそうな煙が充満し、肉から溢れる油が爆ぜる小気味良い音があちこちで客の食欲を刺激している。

 目の前のチカも、早速カルビを焼きにかかっている。
 ビールをひとくち飲んだだけで黙する未来を、ようやく不審に思ったのか、『どうかした?』とチカがきいてきた。

 今日、食事に誘ったのは未来だった。
 未来は重いため息をつくと、おもむろに口を開いた。

「またチカの好きな失敗話だよ」

『やめてよ、あたしの性格が悪いみたいじゃない』

「でもノロケ話より不幸話のほうが好きでしょ?」 

『まあね。それをききながら呑む酒のほうが、断然美味しい』

「そんなチカのために新しい失敗話を持ってきたよ」

『へえ。興味ある。今度はどんな男に手ひどく捨てられたの?』

「まだ捨てられてはいない。……ただ、その可能性が高いってだけ」

『タイミング的にいうとあれか、横島とかいう……』

「そう。サキの披露宴で知り合った横島さん。日曜日に食事に行ったの」

『へえ、展開が早いね。あっちも彼女いなかったの?』

「うん、そうみたい。で、高級なフレンチの店に連れて行ってもらったんだけど……。ほら、私育ちが悪いでしょ。あんな格式高いお店に行ったの初めてでさ。フォークとナイフの使い方もよくわかんないし、テーブルマナーが壊滅的で……。
 でもね、横島さん優しくて、若いから知らなくてもおかしくないですよってフォローしてくれて。
 それだけなら、まだ良かったんだけど……。
 私、緊張してワイン飲み過ぎちゃったみたいで酔っちゃって……。すっごく眠くなっちゃったの。
 食事が終わるか終わらないかってころには、ほとんど目も開けられない状態になってて、ふらふらしながら横島さんとタクシーに乗って、なんとか家まで帰り着いたんだけど、もう歩けなくて……。そしたら横島さん、私をお姫様抱っこしてアパートの部屋まで運んでくれて、ベッドに寝かせてくれたんだけど、そのあとの記憶がなくて……。気がついたら朝で、横島さんもいなくなってた。
 頭がはっきりしてきたら、もう恥ずかしくてたまらなくてさ。チカにだって見せたことのない築50年の六畳一間のボロアパートを見られたんだってことに気づいて、もうダメだって確信したの。
 横島さんみたいな大人の余裕があるひとと付き合える器じゃなかったんだなって。若いだけで世間を知らない女なんて、恋人にしないよねえ。
 セレブ婚なんて夢見てた自分が恥ずかしい。私には相応しい知識も品格もなかったんだって思い知らされたよ」

『へえ。気づけて良かったじゃない。知識なんてこれから頭に詰めこめばいいんだしさ。勉強させてくれた横島さんに感謝しなさいよ』

「……どう?満足?」

『うん、満足。ビールがすっごく美味しいわ。
 自重しようかと思ってたけどやめとくわ。
 久々に未来の不幸話がきけて、これ以上ないほどお酒が美味しいんだもの。今日は好きなだけ飲むわよ。ほら、アンタも失恋の傷を癒やすためにも飲みなさいって。
 新しい男との出会いと、次なる不幸話をあたしにきかせるために、これにめげずに頑張ってよね、乾杯!』




6月23日(金)居酒屋にて

『付き合うことになった!?』

 予想の斜め上を行く報告に、チカは素っ頓狂な声をあげた。

 賑やかな居酒屋でチカに注目が集まる。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに客は自分たちの会話に戻っていく。
 仕事終わりの金曜日。
 週末を迎える会社員たちの顔は一様に明るい。
 
 そんな客のなかで、一際輝く笑顔を浮かべているのは未来だった。

『横島さんと……?なんでそんなことになったのよ?』

 チカは噛みつかんばかりの勢いだ。

「あんな醜態を見せちゃったあとだから、2度と会うことはないと思ってたんだけど、「あれから大丈夫でしたか」って電話があって、よければまたお食事でもって誘ってくれて……。で、家に行ってきた」

『待った!話が飛びすぎ!』

「あ、ごめん。横島さん、料理が趣味で、振る舞いたいから家に来ませんかって誘ってくれて。で、行ってきた。家でならマナーを気にしなくていいからって、私のこと考えてくれて。料理も本格的ですごい美味しかったんだけど、家がとにかくすごくて。
 タワーマンションの上階で、街を見下ろすと成功者になった気分でさ。部屋も広くて私のアパートの部屋がいくつも入りそうで、まるでモデルルームみたいに生活感がなくて、清潔で……語彙の少ない私の頭じゃ説明できないくらいに素敵な家だった」

『男の独り暮らしでそんなに手入れが行き届いているなんて、女の影が見え隠れするんだけど』

「ハウスキーパーがいるんだって。ちなみに今は彼女がいなくて……」

『で、告白してきたって?アンタみたいな、なんの取り柄もない、いつまでも学生気分の向上心の欠片もない女を、地位も名誉も手に入れた男が選んだって?』

「ひどい言い様だけど反論できない……。確かに、今まで付き合ってきたのはモデルさんとか起業してるひととか、自立した女性だっていってた。私みたいなタイプは、知り合ったことがなくて、新鮮だったみたい。
 イチから育てて、自分好みの女性にしたいって」

『その発言、ハラスメントに抵触しない?自分好みの女に仕立てるって、ゾッとするんだけど』

「別に私は我が強くないから、特に問題は感じないけど。育てるってことはさ、長い目で私との将来を見てるってことだよね。それってつまり、結婚するって暗にいってるのと同じことじゃない?
 一度は諦めた玉の輿婚が現実を帯びてきたってことだよね」

『アンタどんだけ主体性がないのよ。思いっ切り下に見られてるってことなのよ。恋愛関係じゃなくて主従関係よ、それ。悔しくないの?アンタにプライドはないの?』

「うーん、チカみたいに自立してるひとは、そう感じるかもしれないけど……。横島さんに一人前にしてもらって、彼に相応しい大人の女性になれば、横島さんの隣にいても誰も文句はいわないでしょ?
 そうすれば対等な恋愛関係になれるかもしれないし……。
 まあ、チカには理解できないよねえ。
 でも、横島さん、ちゃんと「好き」だっていってくれたし、主従関係以上に想ってくれてるって信じてるから」

『ああそう。そこまでいうならもうなにもいわないわよ。お幸せに。ビール一杯おごれ』

「うん、ごめんね。もうチカに不幸話はできなくなるかも」

『そりゃ困った。酒が不味くなるわ』

「私、頑張るよ。彼と並んで恥ずかしくない大人の女性になれるよう努力する。変わるんだ、私」



7月7日(金)ファミレスにて

『あー、暑い。こんなに暑かったら、真夏はどうなっちゃうのよ』

「チカ、暑いの苦手だもんね。チカの汗をみると、夏が来たなあって思うよ」

 ブブブ……と、テーブルに伏せて置かれた未来のスマホが震える。

『ちょっと、馬鹿にしてんの?』

「ちょっとね。半分からかってる。次会うときは、かき氷食べに行こうよ。ちょっと並ぶけど、美味しそうなお店みつけたんだ」

『あたしに炎天下に並べって?』

 ブブブ……と未来のスマホが着信を告げ震える。

「涼しいところで冷たいもの食べられるんだから、悪くないと思うけど」

『そんなに行きたいなら彼氏でも連れて行きなさいよ。……うまくいってる?彼氏と』

「残念でした。チカの好きな失敗も不幸話もありません。仕事も頑張ってるし、彼との関係も至って良好。
 この前も彼のベンツで海までドライブに行ったし、高級レストランに連れて行ってもらったりして経験値積んでる。
 彼、すごく優しいの。やっぱり年上だからかな、大人の余裕ってやつがあって、私が初めてすることを見守ってくれてる感じ。温かくて包容力があって、私にはもったいないくらい。
 でもね、完全無欠の完璧な彼氏にみえて、可愛いところもあるんだよ。
 ドライブに行ったら道に迷うし、格好つけて歩いてたらガラス扉に気づかなくて激突するし、料理うまいのに意外と好き嫌い多いし、帰ろうとしたら離してくれなくて結局一晩彼の家に泊まったし……。甘えてくるところ、本当可愛いんだから」

 未来のスマホがラインが来たことを告げる。

『ああそう。そりゃなにより。で、挙式はいつ?』

「あははっ気が早いよ。
 でもね、私、彼が仕事で疲れて帰ってきたときに、癒せる存在になりたいの。そこまで自信がついたら、結婚も考えられるようになるかな」

 ブブブ……と、テーブルに伏せて置かれた未来のスマホが震える。

『……』
「……」

『ねえ、さっきからなんなの?この店に入ってから、20回くらい電話かかってきてない?ラインも異常なくらいきてるけど。なにかあった?』

「ああ、気にしないで。多分、全部横島さんからだから。
 付き合うってなってから、ずっとこの調子なの。私の居る場所を常に知りたいみたい。
 夜も必ず電話がきて、その日1日なにがあったか、誰と会ってどんな話をしたかきかれて、1時間くらい喋ってる」

『え、なにそれ、うざくない?ものすごい束縛男じゃない。どこが大人の余裕よ。大丈夫なの、ストーカーになったりしない?』

「大丈夫だよ。彼がわざわざ仕事の手を止めてまで連絡をとりたがってるって、愛されてる証拠じゃない。
 ここまで愛情表現してくれるひとって今までいなかったから、嬉しいよ。本当、いい恋人ができたなって思う」

 ブブブ……と、テーブルに置かれた未来のスマホが震える。

 ようやくスマホを手に取り、着信履歴を確認すると、「やっぱり全部横島さんからだ」と口元を緩めながら未来が立ち上がる。

「今夜も横島さんの家に行くから、そろそろ帰るね。また今度、連絡する」

『そう、あたしはもう一杯飲んでから帰るわ。お幸せに』

「うん、ありがと。もう、愛されすぎて困っちゃう。幸せすぎて、帰り事故に遭ったりしないかな」

『ずいぶん不吉なこというけど、今のアンタの状況からみると、有り得ない話でもないかもね。運を全部使い果たしたみたいな。飲酒運転の車には気を付けて帰りなよ』

「はーい、じゃ、またねチカ」

『またね未来』

 軽く手を振りながら店を出て行った未来の姿が見えなくなると、チカはぼそっと呟いた。

『本当、気を付けなよ、未来』




7月20日(木) 未来の自宅にて

「ただいま〜」

 仕事を終え、久々にアパートに帰ってきた未来は、服もメイクもそのままにベッドに倒れこんだ。
 仕事でミスをした。
 上司からはたんまりとお説教され、たっぷりと嫌味も追加された。

 ……あのユキチ……。

 閉じた瞼の裏に、福沢諭吉にそっくりな憎き上司の顔が浮かぶ。
 寝転がったままスマホを取り出すとチカの番号を呼び出す。
 こんなときは親友に愚痴をきいてもらうのが、手っ取り早い立ち直る手段だ。
 約1時間、渋るチカを相手にユキチの文句を、一方的に話したところで満足して通話を切る。
 お風呂から出て、テレビを点けながら、再びベッドに倒れこむと、カタ、となにかが落ちる音がした。
 なんだろうとベッドの下を覗きこむ。
 元は畳の部屋をリフォームしてから10年は経過していそうな、くたびれたフローリングの床に、黒くて小さななにかが落ちている。
 ベッドの下に、テープで固定されていたものが落ちたらしい。
 手を伸ばして拾うと、なにかの部品のようだった。
 しげしげとそれを観察していた未来の背を、突然寒気が襲った。
 ぶんぶん、と激しく首を左右に振り、思いついたばかりの恐ろしい推測を打ち消そうとする。
 チカに、「明日会いたい」というラインをすると、返事も待たずに照明を点けたままベッドに潜りこみ、毛布をかぶった。


7月21日(金) ランチタイムのカフェにて

「忙しいところ、ごめんね」

『別にいいけど。で、話ってなに?』

「これ、なんだけど……」

 おずおずとテーブルにハンカチに包んだ物体を差し出す。


『なにこれ……?』

 チカは、ハンカチから黒い小さな部品のようなものをつまみあげ、照明に透かすように眺めはじめる。
 そして、ある一点に思考が至ったのだろう、眉間にキュッと皺を刻む。

『……これ、盗聴器じゃないの?』

 チカの言葉に、未来は詰めていた息を大きく吐き出す。

「……やっぱり、そうだよね……」

『なんでアンタがこんなもの持ってるの?』

「……昨日、うちで見つけたの。ベッドの裏に貼ってあった」

 さすがのチカも目を見張り、険しい表情になる。

『ねえ、それやばくない?ベッドに仕掛けられてたのなら、部屋の前の住人が残していったもの、ではないよね。アンタを狙って誰かが仕掛けた……。誰の仕業か、心当たりある?』

「……」

『……あるんだね?』

 チカに詰め寄られた未来は、首を左右にゆるゆると振る。

「まさか、あのひとが、そんなことするはずないよ」


『あのひと?』

 大学を卒業し、就職と同時に今のボロアパートに引っ越した。
 廃墟と見紛うあまりの外観が恥ずかしくて、住みはじめてから今まで、約2年間、チカを含めた友人知人誰も部屋に招いたことはない。
 未来以外に足を踏み入れた者はいないのだ。
 ーーーたったひとりを除いては。

『……もしかして、あのひとって……横島さん?』

 相変わらず観察眼が鋭いチカの指摘に、未来の肩がぴくりと跳ねる。
 心当たりならある。でも信じたくない。
 認めたくなかった。

 横島と初めて2人きりで食事をしたあの夜。
 酔った未来をアパートのベッドまで送り届けてくれた。
 後にも先にもあの部屋へ入った人間は、横島しかいない。
 泥棒のたぐいの犯行でなければ、の話だが。

『酔って前後不覚になったんでしょ?飲みすぎて眠りこんだアンタなんてみたことないんだけど……』

 確かに、そんな経験は1度もなかった。
 それに、あのときは、酔ったというより強烈な眠気に抗えなかったという感覚に近い気がする。

 なにもいえずにいると、チカがさらに踏みこんで、未来の耳に優しくない可能性を告げる。

『食事したレストランで、一服盛られたんじゃないの?』

「一服……?」

『睡眠薬とか、そういうの。
 介抱して送って行くふりをして、部屋に入って、寝ているアンタの横で、堂々と盗聴器を仕掛けていったとか。……あ』

「なに?」

『カメラは?カメラは探してみた?盗聴器があるなら盗撮だってされてる可能性があるわ』

 にわかに物騒な方向に話が転がり、疑心と、それを打ち消そうとする自分がいる。
 横島が、そんなことするはずがない、という思いが混在し、光と闇が交互に胸中で吹き荒れる。

「そんな……まさかそんなこと、するはずないよ」

 あの紳士的な横島が。なにもものを知らない自分を、大切に扱ってくれるあの横島が。

『横島さんがそんなことするはずないって?……こういっちゃ悪いけど、アンタ、横島さんのなにを知ってるの?』

 雷が落ちたようだった。
 目の前が真っ暗になる。
 ……知らない。
 チカのいうとおり、自分は横島の深くを、なにも知らなかった。
 優しい大人の恋人。
 横島の一面にすぎないであろう、自分にみせる顔以外の、別の横島、彼という人格を成す核ともいうべき本性を、未来は知らない。
 そこにどんな闇があるのか、あるいはそんなもの存在しないのか、考えたこともなかった。

 頭痛をこらえるように頭を抱え、ギュッと目を閉じる。
 次に瞳をあけたとき、照りつける日差しも、耳に入る見知らぬ人の談笑も、店内からみえる通りを歩く人々の笑顔も、全てが灰色の薄闇に包まれ、色を失っていた。

 家に帰った未来は、結局チカに指摘された隠しカメラを探すことはしなかった。
 真実を知る勇気はなかったし、自分に誠実に向き合ってくれる彼の、一点の曇りを疑っている自分に罪悪感を抱いたせいでもあった。
 結局自分は、恋人を疑い切れなかったし、信じ切れなかった。
 もやもやしたものを抱えながらも、横島と別れるという選択肢は未来にはなかった。
 互いを想い合う相手がいるという、心地よいぬるま湯をたゆたっていたい。
 それは弱さで、甘えだった。


8月4日(金) ランチタイムの洋食店にて

「夜ごはんに行くこと、できなくなるかもしれない」

『なに、急に呼び出したと思ったら、突然なんの宣言?断酒でもするの?』

 オムライスをひとくち頬張ると、チカは怪訝そうな顔をする。

「違うの。横島さんがね、仕事以外は自分の家にいてほしいっていうの」

『自分の家って、横島さんの、ウワサのタワマンのこと?』

「そう。心配なんだって。自分のそばにいれば安心だからって。
 最近、横島さん、すごくストレートに愛情表現してくれるの。私が必要だって。愛されてるんだ、私」

 夢見るように、焦点の定まらない視線で、うわ言のように未来はいった。

『ちょ、ちょっと待って、未来。アンタ大丈夫?本気でいってるの?それって家に閉じ込められるってことよ。おかしいわよ、アンタ、横島さんに洗脳されてるんじゃないの?』

「彼のこと悪くいわないで。洗脳なんかされてない。家にいてくれっていうのは、暗にプロポーズしてくれたってことでしょ。すごく幸せなことだよ。
 私ね、今すごく満たされた気分なんだ。こんなの初めて」

 うっとりとした目で虚空を見つめる未来に、チカはなにもいえずに小さく首を振った。
 今の未来に、なにをいっても無駄だ。
 輝かしい将来を描き、夢物語を現実に手に入れたことに酔っているのだ。
 酔いを冷ましてやりたくて、チカはいった。

『盗聴器の件は?確認してみたの?』

「それは……」
 
 少し地に足がついたのか、未来は表情を曇らせる。

『疑惑を抱えたまま結婚するの?晴らそうとは思わないの?』

「……たとえ、やったのが本当だとしても、それだけ私に執着してくれてるってことだから……。
 今まで出会った男は、結局は我が身が一番可愛いひとばかりで、私を一番に考えてくれるひとはいなかった。
 でもね、横島さんは……」

『わかった。もういいわよ。親友より恋人を選んだってことね。はいはい、サキの次に結婚するのはアンタで決まり』

「うん、そうなるといいね」

 未来は弱々しく笑った。


8月20日(日) 顔なじみのカフェにて

「ごめんね、急に呼び出して」

『本当よ、せっかくの休日の真っ昼間に突然連絡してきて……』

 文句をいいながらやってきたチカは、対面に腰かけながら、未来のやつれた顔に、言葉を止めた。

 眉をひそめて注意深く観察した未来は、メイクをしておらず、部屋着のようなラフな格好でバッグも持っていないようだった。
 着の身着のまま自宅を焼け出されたようにもみえる。

『……なに、なにかあったの?』

 キョロキョロと辺りに目を配りながら、未来は口を開く。

「横島さんの束縛がすごいの。
 今も急な仕事が入ったとかで出掛けていった隙に、こっそり出てきたの」

 怯えた視線で周囲を見回す未来に、チカが長いため息を吐きながら目を閉じる。

『ほら、言わんこっちゃない。お金につられてホイホイついていくからよ。面倒なことにならないうちに別れなさい』

「うん、そうするつもり」

『なにをそんなに警戒してるの?横島さん、仕事でいないんでしょ?』

「実は……最近見張られてるの。専門のひとまで雇って。それ以外にも、誰と喋ったのか、一言一句完璧に報告しろとか、スマホをチェックされたりとか、友達とメールもできないし、一秒でも門限を過ぎると反省文書かされるし、メイクも服も、あのひとがいいっていわないと外にも出してくれなくて……。
 自由に外も歩けないし、ちょっと男のひとと話しただけでも浮気だって疑われるし、あのひとの理想通りに振る舞わないと怒るから、怖くて……。仕事にも支障が出てきて……」

『DVは?』

「え?」

『暴力は振るわれてないかってきいてるの』

「あ、ううん。手を上げられたことはないよ」

『で、どうするの?』

 幽霊のような青白い顔で、疲れを滲ませ、げっそりと痩せた未来は、決意したように顎を上げてチカをみた。

「帰ったら、別れてほしいっていおうと思ってる」

『横島さんの家に帰るの?危なくない?』

「今日で行くの最後にする」

『なにかあったら、警察呼ぶんだよ』

 未来は小さく笑った。

「そんな、大事にはならないよ。警察も、恋愛関係のもつれなんて、通報しても動いてくれないでしょ」

『経験者は語る、か』

「ちょっと、私そんなに修羅場くぐってきてないから。やめてよね、私を男好きキャラにするの」

『違ったっけ?ドロ沼のひとつやふたつ、アンタなら経験したことあるかと思ってたわ。てっきり別れ話を切り出すくらい余裕だと思ってた。いらなくなった男なんか虫けらのように棄てられる冷酷な女だから次々男を乗り換えられるのかと思ってた。意外と優柔不断で気が小さいのね』

「ひどいなあ、もう。私は浮気したこともないし、こうみえて、付き合っている間は一途に尽くすタイプなんだから」

『別れてからの切り替えも早いけどね』

「ふふっそれは否定できないなあ」

『だから男好きだっていわれるの。いつになったら破るのやら、3ヶ月の壁』

「3ヶ月の壁?なにそれ」

『嘘でしょ、自分で自覚してないの?
 思い出してみて。今までアンタ、付き合った男たちと、3ヶ月しか続いてないのよ。だから3ヶ月の壁。長続きしない、深い間柄になれない。それがアンタのこれまでの恋愛。結婚できないわけね、改めて考えると』

「うーん、的確な考察……。ぐうの音も出ないとはこのことか……。また、私は3ヶ月の壁を破れなかったってことだね」

『そう。だから、今回のことも、悲観することないわよ。いつものことだって、縁がなかったんだって、気楽に考えなさい。男好きのアンタなら、またすぐ次の男が現れるわよ』


「だから、男好きキャラやめてって。私はたくさんの男と付き合いたいんじゃない、運命の相手と巡り合いたいのよ。
 はあ、なのになんでこうなっちゃうのかな、毎回。外れクジばっかり。
 横島さんに洗脳されてるっていってたチカの言葉の意味を今更理解するなんてね。
 本当、男運ないなあ、私」

『それがアンタの運命なんじゃない?理想の男に永遠に出会えない』

「ちょっと、不吉すぎるって、やめて!」

 声に少し弾力が戻った未来は、素早く時計に目を向けると、慌ただしく立ち上がり、無理やりな笑顔をチカに向けた。

「今日はありがとう。やっぱりチカに話してよかった。気持ちが固まったよ」

『そう。それはよかった。健闘を祈るわ』

「あはは、大げさ。じゃあね」 

『うん、また』

 小さく手を振ると、未来は背筋を伸ばすように歩きながら店を出て行った。

「お待たせしました〜」

 運ばれてきたアイスティーのストローをくわえながら、チカは物憂げな眼差しで、休日の昼下がりの街への消えていく未来の背中を見送っていた。


8月20日(日) 横島衛司宅にて

「今日のワインの味はどうでしょう?」

 夕食の席で、ワイングラスを口に運んだ未来に、横島がにこやかに問いかけた。
 相変わらずテーブルには、ふたりしかいないにも関わらず、横島お手製の豪勢な料理を載せた皿が所狭しと並んでいる。
 思い詰めた顔で、未来は料理には手をつけずに、緊張を和らげるため先ほどからワインばかり飲んでいる。
 そんな未来を、目を細めて眺めながら、横島はやはり威圧感を与えない柔和な声音で、「スマホをみせてください」と手を差し出した。
 いわれるがまま、ポケットからスマホを取り出そうとすると、「今日はお友達と会って、なにを話したんですか?」と横島にそう問われ、思わず手を止めた。

「……やっぱり、私のこと監視してたんですか?」

「監視?さて、なんのことでしょう」

 横島はにっこりと笑い、理知的な印象を与える眼鏡を押し上げると、余裕のある姿勢を崩さない。
 膝に置かれた拳をぎゅっと握り、未来は声を荒らげた。
 怖い、という思いは封殺する。

「とぼけないでください!私の職場にも、見張りのひとがいることくらい、気づいてます!」

 更に細められた横島の目が鋭くなるのを未来は感じ取った。
 萎縮してしまいそうな心に活を入れて、未来は横島をにらみ返す。

「見張りを派遣したのは、あなたが私に虚偽の報告をするからですよ」

「認めるんですか、私を監視していたって」

「ええ。些末な問題ですから。本当は、上司の、ええと、ユキチさんでしたっけ?男性と喋ったのにも関わらず、あなたはそのことを私に報告していない。
 1度だけではない、何度もそうしているでしょう。疑われて当然だとは思いませんか」

 もはや、不気味にすら感じはじめた横島の顔に貼り付けられた完璧な微笑みに、未来の背筋を冷たいものが駆け抜ける。
 ある程度予想できていたこととはいえ、現実に事実として突きつけられると精神的なショックが大きい。
 未来の頭からつま先に至るまでが一気に凍りついた。
 自分が相対している人間が、犯罪者であることを確信して、未来は震える声を絞り出す。

「……どうして、ユキチのことを知っているんですか?」

「はい?」

「ユキチというのは、上司の名前ではありません。私がつけたあだ名です。しかも、その呼び方をするのは、友達の、チカとの会話だけです。
 職場のひとには、もちろんいったことはありませんし、チカ以外のひとの前で、ユキチといったことはありません。
 それを、どうしてあなたが知ってるんですか?」

「それは……」

 追い詰められているはずの横島の微笑は、みじんも揺るがない。

「私の部屋に盗聴器を仕掛けたのは、あなたなんですね」

 すると、さっと横島の表情が変わった。
 
「それがなんだというのです?
 カネに目が眩んだ女というのは、よく私に寄ってきます。
 出会った相手がカネ目当てなのか、そうでないのか、私には知る術がありません。
 お付き合いをしていくうえで、相手の本性を知るためには、必要なことだと私は思いますが」

「開き直るんですか?だからって、盗聴器なんて非常識です」

 横島は長いため息をついた。

「未来さん、あなたなら、と私は期待していたんですよ。
 あなたなら、財産ではなく私個人を愛してくれるのではないかと」

「でも、やりすぎです。盗聴器も、見張りも、家から出してくれないことも……。私は本気
であなたのことが好きだったのに、こんなに束縛されたら気持ちが離れて当然です。
 私を信用してくれていないんだって」

「不安なんですよ。あなたの全てを知りたいんです。
 私を本当に好きなのかどうか。私の元からいなくなってしまわないか。とにかく不安で仕方ない。 
 それだけ、あなたのことが好きだということなんです。わかってください」

 すがるような横島の視線に、未来の心が揺れる。
 しかし、横島にされたことは、到底許せるものではない。
 1度深呼吸すると、目を閉じ、自分の心の声を反芻する。
 目を開け、毅然といった。

「好きだという言葉で、正当化しないでください。私は、あなたのことが好きではありません。別れてください」

 強い意志を宿した瞳で、横島をみると、彼は小さく肩をすくめた。

「……仕方ありませんね。私はこんなにあなたを愛しているのに……。心変わりはしませんか?」

「しません。あなたとはもう2度と会うこともありません。さようなら」

 いってしまうと、驚くほど自分の気持ちが横島から離れていたことを自覚した。
 振られることは多々あるけれど、ここまで強く相手を拒絶して、自分から別れを切り出すのは初めてだった。

 本音をいい放って席を立ち、玄関へ向かおうとした未来を、強烈なめまいが襲った。

「……っ」

 立っていられなくて、床に膝をつく。

「大丈夫ですか、未来さん」

 覗きこんできた横島の手を、とっさに振り払おうとしたが、ぐるぐると回る視界では、それも覚束ない。

『一服盛られたんじゃないの?』 

 いつだったかの、チカの言葉が脳裏をよぎる。
 やられた。またワインだ。
 そう思い至るが、もう遅い。
 まもなく未来は意識を手放した。

「いつまでも待ちますよ、あなたが心変わりするまで。あなたみたいな学のない小娘にここまでしてあげるんです。私の気に入る人形になればいいんです、あなたみたいな女は」

 すでに届かないと知りながら、横島は愛おしげに倒れた未来の頬を撫でていった。
 柔らかい仕草で未来の額にキスを落とす。

「愛してますよ、未来さん」



8月21日(月) 横島宅の寝室にて

 目を覚ますと、見慣れた横島の家の寝室だった。
 頭が重い。体がだるい。思考がうまくまとまらない。
 天井をぼんやりと見上げながら、なにがあったのだろうかと未来は考える。
 横島には、別れを告げたはずだ。
 なのに何故自分はまだ横島の家にいるのか。
 確か啖呵を切ってこの家から出ようとして、それで……?
 
 そこで、ふと気づいた。
 服を着ていない。
 一糸まとわぬ姿で、キングサイズのベッドに寝かされていた。
 
 未来が、愕然と自身の体をみつめていると、「起きましたか」と冷静な横島の声に、はっと顔を上げる。

 横島は、寝室のドアの前に椅子を置き、分厚い本に目を落としていた。
 未来は恥ずかしさに顔を真っ赤にし、タオルケットを手繰り寄せると、ぐるぐると裸身に巻きつけた。
 横島がくすっと笑う。

「今更恥ずかしがる関係でもないでしょう」

「服は……私の服を返してください!」

 横島は本をかたわらに置き、眼鏡を外すと、眉間をほぐすように揉んだ。

「あなたが私の元から逃げ出さないと確信が持てたら返しますよ」

「そんなっ……私はあなたの操り人形じゃない!」

「?あなたはそれでいいんですよ?」

 不思議そうに尋ねる横島に、凶気すら感じて、未来の顔が蒼白になり、体中から冷や汗が噴き出す。
 未来が復縁に応じるまで、この姿のまま監禁するということだろうか。
 応じなかったら、どうなる?

 未来の中で最悪の結末が想像され、貧血を起こしたように、血の気が引きクラクラする。

「猶予をあげます。私は水曜の夜まで出張で家を空けます。
 その間に、よく私との将来について考え直してみてください」

「……そんなっ……」

 未来が泣き出しそうな顔になると、横島は首を傾げて未来をみつめていった。

「そんなに難しいことですか?
 あなたは私を愛してるいるはずだ。
 その心に正直になればいい。簡単なことでしょう。なにをそんなに意固地になっているのです?」

 悪夢だ。
 この男は、心の底から、未来がまだ自分のことを好きだと思いこんでいるのだ。
 なにをいっても通じない。
 心の何処かが壊れているとしか思えない。
 自分はなんという相手に近づいてしまったのだろう。

 絶望という名の底無し沼を落ちていく浮遊感が、恐怖心をかきたて、体中の毛が逆立つ。
 早く、早く脱出しなければと、焦って室内を見回すが、寝室にはベッドとクローゼットがあるばかりで、逃げ出すために役立ちそうなものは見当たらない。

「……こんな時間か。では、私はそろそろ行きますね」

 腕時計に目を落とすと、横島は立ち上がった。
 窓から差しこむ日差しと、鳥の鳴き声から、今が早朝であると察せられた。
 まずい、と未来は焦る。
 横島がこのままいなくなれば、この家を脱出することが困難になる。
 閉じこめられたら終わりだ。

「わかりました、考え直します。私も、あなたのことを愛しています」

 未来がそう告げると、横島は目を見開き、そしていつもの微笑みを浮かべる。

「嘘ですね。あなたは全く反省していないようだ。
 それを自覚するまでは時間がかかるでしょう。私が帰るまで、私の言葉の意味を考えていてください」

「っ、待ってください!」

 ドアを開け、出て行こうとする横島を、未来は必死で呼び止める。

「この家の中なら、自由に動いてもらってかまいません。もちろん外には、見張りを配置します。
 あなたの世話は、母に頼んであります」

「……母?」

「ええ。私の実の母です。
 母は、愛する息子、つまり私のためならば、倫理観も道徳も捨てられるひとです。
 母親の鑑のようなひとですから、説き伏せて脱出しようとしても無駄ですよ。
 全く、私にはもったいない、できた母です。
 あと、窓から脱出するのは危険ですよ。落ちたら死にますから。
 あなたは、大人しく、私の帰りを待っていればいいんです。では、また3日後。楽しみにしていますよ」

 パタン、と軽い音を立てて、ドアが閉まった。
 世界から切り離されたような静寂。
 助けてくれるひとはいない。
 助けを呼ぶ手段もない。

 最早、どこかが壊れているとしか思えない性格の横島を育てた母親。
 あるいは、逆に壊れた性格の母親に育てられ、今の横島が形成されたのかもしれない。
 どちらにせよ、どちらかがどちらかを、チカいうところの「洗脳」している可能性がある。
 期待はできない。
 
 横島の口振りからして、おそらく、こんなことをするのは初めてではない。
 彼の母親も加担して、今まで何人もの女性が被害に遭ってきたのだろう。
 横島にも、彼の母親にも、きっとひとの心は残っていない。

 最悪だ。
 なにがセレブ婚だ。
 できることなら、横島と出会う前まで時間を巻き戻したい。
 浮かれた自分を叱ってやりたい。
 結婚を焦ってクズにつかまる……。
 呆れ返るチカの顔が脳裏に浮かぶ。
 今はその顔でさえ懐かしく、愚かな自分を罵るチカの言葉でさえききたいと思ってしまう。
 未来は、零れそうになる涙を、必死でこらえた。
 生きて、ここを出なければ……。
 未来はだだっ広いベッドのうえで丸まり、生まれて初めて、生きたい、と強く願った。



8月23日(水) チカの職場にて

 帰り支度をしていたチカのスマホが振動した。
 ディスプレイに表示された名前を確かめて、通話ボタンに触れる。

『もしもし、サキ、どうしたの?』

 片手で書類をまとめながら、チカが応じると、サキの戸惑ったような声が耳に届く。

「チカ、今ね、未来のお母さんから電話があったの」

『未来のお母さん?』

「知り合いに片っ端から連絡してるみたい。
 未来、もう3日も無断欠勤してるって、職場からお母さんに電話があったんだって。
 あたしは心当たりないんだけど、チカ、なにか知らない?」

 チカの視線が鋭くなる。

『3日……』

 卓上のカレンダーの日付を追う。
 未来と最後に会ったのは、日曜日の昼下りだ。
 横島と別れ話をするといっていた。
 その翌日から、職場を無断欠勤している。

『……やばいかも……』

「え?」

『ごめん、サキ。確かめたいことがあるの。切るね』

「え、ちょっと……」

 ぶつ、と通話を切ってチカは会社を飛び出した。



8月23日(水) 横島衛司宅にて

「あなたが、悪いんですよ。
 私のいうことをきかないから……」

 薄闇に包まれた横島宅の寝室で、横島は、血に濡れたナイフを手に立ち尽くしていた。
 目の前に広がる景色が、本当に自分がやったことなのか信じられずにただ硬直している。
 意識の外から、突然、なにかを叩く激しい音が鼓膜を震わせる。
 なんだ……?
 全く働かない思考が、軋み音をあげながら、それでも横島を、徐々に現実世界へと引き戻す。
 ようやく殴打音が、玄関のドアを叩くそれなのだと理解が及ぶ。

「警察です!今すぐ開けてください!」

 はっと我に返り、横島の手からナイフが滑り落ちる。

「横島さん、中に入りますよ!」

 管理人が鍵を開けたのだろう、ドアが開く音がして、部屋に上がりこんだ複数の足音が近づいてくる。

 自分はもう、終わりだ。
 逃げられない。
 全て、全てが終わりだ。
 手に入れた地位も名誉も全て失う。
 いや、それだけではない。
 自分は社会的に抹殺される。
 輝かしい未来が、真っ黒に塗り潰されていく。
 こんな事件を起こした自分の人生はどうなる?
 生きていくことができるのだろうか。
 今の立場を追われて、意地もプライドも捨てて最底辺の生活を送ることになるのか?
 栄光に満ちていた自分の人生は終わりを迎えてしまうのか……?

 寝室のドアが開かれる。
 振り向くと、制服姿の警官2人と目が合った。
 警官は、部屋の様子を一瞥し、ほんの一瞬息を呑むと、「確保!」と手を血にまみれさせた横島に飛びかかった。
 なす術もない横島に警官が馬乗りになり、取り押さえる。

『未来!』

 警官2人に遅れて、部屋に入ってきたチカが、ベッドに仰向けに横たわっている未来に向かって駆け寄り、悲鳴のような声を張り上げた。
 未来は、体にタオルケットを巻いただけの姿で、青ざめた顔で目を閉じている。
 タオルケットの腹の部分が、赤黒い血で染まっている。

『未来!未来!』
「救急車を!」

 チカと警官の声が交錯する。

「離せ!俺は悪くない!悪いのは俺のいうことをきかなかったこの馬鹿な女だ!
 殺すつもりなんてなかった!
 俺は……俺は悪くない!」

 警官に拘束された横島が、最後の抵抗をして悪あがきして暴れているなか、チカは冷たい未来の体を揺さぶる。

『未来、しっかりして、未来!こんなところで死んでどうするのよ!運命の相手とセレブ婚するんでしょ!未来、しっかりして……』

 そこでチカは、はっと気づいて言葉を止めた。
 未来の胸が微かに上下していた。

『なんだ、死んでないのか……おどかさないでよ、心臓に悪いなあ、もう……』

 全身の力が一気に抜け、ずるずると床に崩れ落ちながら、チカは安堵の息を吐く。
 途方もない疲労感がチカを襲っていた。
 チカの声に反応してか、未来が薄く目を開く。

「いたい……さむい……」

 意識を取り戻したとたん、刺された腹部が痛み出したのか未来は表情を歪める。

『救急車来るから、もうすこし頑張って』

 チカが冷えた手を握ってやると、未来は小さくうなずいた。

「チカ、ありがとう。助けにきてくれて」

 かすれた声で未来がささやいた。

『まだ話さなくていいから。怪我、どれくらいひどいのかわからないし……まあ、すぐ死にそうにはみえないけど』

 2人の横で、押さえこまれたまま、横島が絶叫していた。

「俺は悪くない!お前ら、俺を誰だと思ってる!冤罪で訴えてやるからな!覚悟しとけよ!離せ、弁護士がくるまでなにも話さないからな!優秀な弁護士雇って裁判も勝ってやる!俺はカネだけはあるからな!後悔しても遅いんだからな!」

『……無様ね』

 チカが汚物でもみるような目つきで横島をみて、吐き捨てた声に重なるように、救急車とパトカーのサイレンが遠くできこえた。


8月24日(木) 病室にて

「横島さん、2度もストーカーで捕まったことあるんだって」

 麻酔から目覚めたあと、警察から知らされた事実を、見舞いに訪れたチカに告げると、未来は天井の蛍光灯にぼんやりと視線を投げた。
 未来の怪我は、幸い大事には至らず、短期間で退院できるという。

「あーあ、私って本当に男運ないなあ。
 あんなに大人にみえたひとが前科のあるストーカーだったなんてね」

 ベッドに横たわりながら、自嘲気味に唇を吊り上げて未来がいった。

『全く、お金につられてホイホイついて行くからよ。なにがセレブ婚よ。身の程をわきまえなさい。あたしまで巻きこまれて、いい迷惑だわ』

 相変わらずチカは、怪我人にも容赦がない。

「ごめんって。でも本当に助かったよ。
 チカが交番に駆けこんで、おまわりさんを連れてきてくれなかったら、多分、私殺されてた」

 実際、チカたちが来たのは、奇跡的なタイミングだったのだ。

 出張から帰った横島は、3日間の監禁を経ても、自分を拒絶した未来に逆上し、ナイフを持ち出した。

「自分の意にそぐわないのなら、殺してやる」と。

 未来が最後の力を振り絞って抵抗し、揉み合った際に、腹を刺された。
 未来の血をみて、自分のやったことに怯み、横島は固まってしまった。
 痛みに耐え切れず、未来が意識を失ったあと、とどめを刺される可能性だって充分あったのだ。
 横島が落ち着きを取り戻して、次の凶行に及ぶ寸前に、チカが来てくれたというわけだ。

「チカは命の恩人だよ、ありがとう」

『感謝してるんだったら、次は前科のない男を選んで、あたしに迷惑かけないでよね』

「さすがにすぐ恋人を作ろうとは思わないよ。男には、もうこりごり」

『どうだか。退院したら、またすぐ別の男でも追いかけてるんじゃないの』

「チカがいれば大丈夫だよ。絶対助けに来てくれるから」

『アンタのお守りなんてお断りよ。ま、アンタの不幸話をききながら呑む酒は格別に美味しいからねえ。殺されない程度にクズをつかまえて、あたしを楽しませてよね』

「ひどいなあ。普通、励ましてくれたり、応援してくれる場面じゃない、今?」

『あら、応援してるわよ。未来と、程よいクズが出会えるように』

「程よいクズって、なにそれ」

 少し笑うと、傷が痛んだ。
 跡が残らないか、心配になる。

「いてて……」

『安静にしてなさいって。明日早いから、今日はもう帰るわね』

「うん、来てくれてありがとう。またね」

『次は飲み会で、アンタの快気祝いするわよ』

「あ、それいいね、賛成!」

 未来の満面の笑みに、満足そうにうなずくと、チカは病室を後にした。