静牢が冷ややかな欲望の向かう先であるなら、そこは受け入れられなかった愛の行きつく場所だった。
 無性たちが身を売ってでも精霊界に至って自らの子を得ようとする一方、精霊界から連れてこられた女精は本来有翼人種の精を受け入れない。赤子の頃から有翼人種に育てられたとしても、初めて抱かれたときに心と体を壊してしまう女精が絶えなかった。
 けれど人より命の流れに近いところで生きている彼女らは、たとえ自らの心と体が壊れたとしてもその身に宿した子を産み落とす本能があった。ほとんど狂った心で、彼女らは産屋となる最期の住処へと至る。女精には母が娘を産むときにだけささやく秘密の言葉があった。それは自らが壊れそうになったときに女精に蘇って、その場所への入り口を開くのだった。
 その場所は、皆どこにあるか本能では知っていながら、正常な心がそこに目を向けまいとする。人の世界と精霊界の狭間にあるそこには、人でも精霊でもない化け物が住むからだ。
 妖獣の巣。心を壊す直前に、ロゼの体は防衛本能で自らをそこに連れてきた。永遠の夜のように暗い洞穴で、まがりくねった道の先に無数に枝分かれした巣がある。
 そこはどこで体を横たえても、まるで母の胎内にいるように暖かい。時の流れが不規則で、瞬く間に時が過ぎるときもあれば、停滞するように遅くなることもあった。
 ロゼは迷宮のようなその洞穴を、足をひきずって歩いていた。巣の中に入らなければ、ここで生きていくこともできる。けれど母から受け継いだ子を産み落とそうとする本能が、ロゼをどこかの巣に至らせようとしていた。
 そこは女精と妖獣、両者の利害が一致するところだった。有翼人種との交わりに一度拒絶反応を起こしてしまった女精の体には時間がない。女精は自らの体が滅びる前に子をどうにか産み落とそうと、最期の力を振り絞って妖獣と交わる。
 妖獣は、獣性に侵され人の姿を失った有翼人種のなれの果てだった。彼らは女精が生きている間は彼女らに危害を加えないが、出産を終えて果てた女精の死体は彼らにとって極上の糧だった。
 妖獣たちは女精の死体が目当てで、産み落とされた赤子には興味を示さない。その間に、人よりずっと側で妖獣の巣を見守っている精霊たちが、同属の子を精霊界に連れていくのだった。
 まだ女精の母が生きていた頃、母はロゼに言っていた。精霊の愛は人とは違うのよと。有翼人種のように、独占し、時に暴力に変わるものではない。ただ水や風のようにそこにあるもので、どんな命もその腕の中に迎え入れてくれる。
 母は有翼人種の父に子どもの頃にさらわれてきて、水にも風にも傷つけられないように守られて育てられたと話していた。父との間にロゼを産んで、慈しんで育ててくれたが、ロゼの目には寂しそうに見えた。精霊界に還りたいとは最期まで口にしなかったが、息を引き取るときの安堵したような横顔が忘れられない。
 母の持っていた精霊の愛を、自分は持てなかったらしい。ロゼがそう気づいたのは、子を宿してからだった。
 静牢の下働きが王の子を誘い込み宿した子など、光の当たる場所で産み落としてよいとは思えない。子を精霊に委ね、自らは滅びるのがふさわしいと思うのに、ロゼは腹が目立つようになっても妖獣に近づけずにいた。
 今もジュストに抱かれた一晩が忘れられない。あのとき、自分の中にある獣性に気づいてしまった。ジュストを独占したいと願う思いは、まだ少しも色あせずにロゼの中に残っている。
 けれど自らとともにジュストから預かった大切な命を失うわけにもいかない。
 どこかの巣に入らなければと重い体でまた歩みを開始したとき、ロゼは近づいてくる音に気づいた。
 振り向くと、三方の道から這い寄る気配がある。巨大な毒蛇が身を滑らすように洞穴が揺れて、舌なめずり混じりの呼吸音が聞こえる。
 ロゼの脳裏に三人の従兄たちが思い浮かんだ。
 きっと今近づいている妖獣たちも、巣穴に入ってこないロゼに痺れを切らしてしまった。ロゼが自ら体を差し出したのなら子を産み落とすまで待ってくれたかもしれないのに、ロゼはジュストに抱かれた記憶に縋り付いて、その時を逃した。
 従兄たちに押しつぶされた体が、ロゼの足を凍り付かせてしまったときだった。
 気配は感じなかった。いつの間にか、ロゼをすぐ側で見下ろしていた妖獣がいた。
 それは絵本で見るような恐ろしい形ではなかった。黒曜石のような光るしずくが滴る長い髪に、引き締まった男性の上半身、その下に獅子のような胴体と四本の足があった。面立ちは獣じみていて牙が目立つが、ロゼをみつめていた瞳は湖面のように静かだった。
「……ジュスト様?」
 その瑠璃色の瞳は恋焦がれていた人と同じ優しさに満ちていた気がして、ロゼは思わずそう呼びかける。
 瑠璃の瞳を持つ妖獣はロゼの手を引いて、背中に乗せる。そのままロゼを恐ろしい気配から遠ざけるように、前方の道へ疾走した。
 時間の流れが速くなったようだった。もう元のところには戻れない。ただ先へ先へ、ロゼを連れていく。やがて妖獣は小さな巣穴に入って立ち止まった。
 妖獣は振り向いて、膝をついてロゼに下りるように促す。そこには柔らかな若芽の草が敷き詰められていて、ロゼをそっと受け止めてくれた。
 巣穴に至ったロゼは、女精たちのように命を削り取られるのを覚悟した。ロゼは震えながら座り込む。
 けれど妖獣はそんなロゼに寄り添って身を屈めると、守るように腕でロゼの腹部を後ろから包み込んだ。
 それに促されるように、ロゼの体に変化が走った。ロゼの体内で、命の流れが急速に動き始めていた。