雨が降るのを待ち焦がれながら過ごした数日後、ようやく熱も下がり少し体調が落ち着いたからと、お母さんがお見舞いに来た。
 お母さんは仕事に家事に幼い兄弟の面倒にと忙しい。わたしのところに来るのは、本当に久しぶりだった。

「お母さん久しぶり……あれ?」

 お母さんの手には、濡れた傘。窓から見える空は晴れているにも関わらず、何ともミスマッチな手荷物だ。わたしは思わず首を傾げる。

「なんで傘濡れてるの?」
「……? 大雨だからに決まってるでしょう? ああもう、裾も濡れちゃった」
「え……?」

 窓へと視線を向けるけれど、やっぱり水色の綺麗な空が広がっている。一瞬お母さんにからかわれたのかと思ったけれど、わざわざ濡れてまでそんなことをするメリットがない。

 そういえば、ここ数日の高熱のせいでお風呂に入れなかったから気付けなかったけれど、髪がいやにうねる気がするし、具合が悪い中に常にあった頭痛は、ずんと重く低気圧によるものと似ていた気もする。

 雨が降っていると信じよくよく耳を澄ませると、ほんの少し遠い雨音が、確かに耳に届いた。

「なんで……」
「なんでも何も、昨日も一昨日も、ここ最近毎日雨じゃない。早く梅雨明けするといいんだけど」
「……」

 あの日、レインは「雨の日に死にたい」と言ったわたしに、「しばらく降らないから頑張れ」と言っていた。
 レインがわたしを少しでも生かそうとして、嘘をついていたのだと悟る。
 きっとあの時、くらくらと回るわたしの目に、青空しか映らない魔法をかけたのだ。

「ねえ、お母さん……」
「ん? なあに?」
「……わたしね、友達が出来たんだ。とってもとっても、優しい子!」

 雨でも晴れでも、なんでも構わない。今はただ、彼女に会いたかった。


*******


 青空の魔法が消えたのは、その翌日のことだった。久しぶりに見る灰色の空と、小さな世界を閉じ込めた雨粒。雨の打ち付ける小気味いい音が響く窓にぴったりとくっついて、彼女の訪れを待つ。

 そして、遠くの方にふわりと揺れるくらげを見て、わたしは大きく手を振った。

「レイン! 会いたかった!」
「……」

 ガラスの向こう、ようやくはっきりと見えた彼女の瞳は、とても美しかった。
 キラキラと反射する水滴と澄み渡る青空、この時期に咲く紫陽花の彩り、やがて空に架かる虹の輝き、そのすべてを閉じ込めた宝石のようだ。

「レインの顔、初めてはっきり見えた気がする……すっごく綺麗」
「そう……私の顔が、見えるの……。やっぱりもう、寿命なのね」
「え……」

 体調は、ここ数日よりずっと良い。熱だって下がってきた。そんな中告げられた『寿命』なんて言葉に、思わず瞬きしてしまう。

「私……元々あなたに見付かる何ヵ月も前からこの近辺に居たのよ」
「えっ、そうなの!?」
「最初、私のことは見えていなかったでしょう……でも次に傘が見えて、段々と私の姿を認識していった」
「うん……」
「それが、死へのカウントダウン。私がはっきり見えるなんて、もう気力だけじゃ限界なんだわ」
「気力……雨が降らないから、頑張らないとってやつ?」
「ええ。本当は、あの日が元々の寿命だったの。……でも、あなたはこの数日生きられたわ」

 初めてまともに見る彼女の表情は、想像よりずっと幼く見えた。寿命を突きつけられたわたしなんかよりよっぽど不安げで、迷子の子供のよう。それでもどうにか足掻こうと、思考を巡らせている力強い瞳。

 本当なら、あの日死ぬはずだった。それを知りながら、頑張れと励ましてくれた優しい彼女。きっと、最後にお母さんに会う時間をくれたのだ。
 そんな気遣いのお陰でお母さんに会っている間にも、わたしがレインに会いたいと願っていたと知れば、彼女は笑ってくれるだろうか。

「じゃあ、今日こそわたしは死ぬんだね」
「……いいえ。大丈夫、雨はまだしばらく降らないから。だから……魂の回収は……」
「え、雨、降ってるじゃん。レインも居るし」
「……!」
「ここ数日の偽物の晴れにはびっくりしたけどさ、あれ、どうやってたの?」
「……」

 もう魔法は効かないのだと暗に告げれば、彼女は困ったように眉を下げる。
 わたしは、そんな彼女の優しさに嬉しくなって、ひんやりとしたガラスに掌を触れさせる。

「ねえ、連れていって。わたし、死ぬなら雨の日がいいの」
「……嫌」
「えー、レインのお仕事なんでしょ? だったらさくっと……」
「嫌よ……。だから、私、雨の日なんて嫌い……」

 傘を差しているのに頬を濡らす彼女に、直接触れることが出来ないのがもどかしい。
 優しい彼女は、これまでどれだけの死を迎え、背負い、冷たい雨の中で一人泣いてきたのだろう。

「……レイン!」

 わたしは、看護師さんから勝手に開けてはいけないと注意されていた窓を、大きく開け放つ。
 病室に雨が入り込むけれど、気にしない。

「わたしは好きだよ、雨の日。毎日降って欲しい。だって、レインに会えるもん」
「でも、もう……会えなくなるわ、意味がない……」

 小さく首を振る彼女の声は、雨音に紛れてしまいそうに弱々しく震えている。レインもわたしに会うのを楽しみにしてくれていたのだと、嬉しくなった。窓辺に会いに来てくれていたのは、優しさだけではなかったのだ。

「じゃあさ、こうしない? わたしも、レインと一緒に天使になる!」
「……は?」
「そうすれば雨の日一緒にお仕事出来るし、わたしもレインも悲しくないし寂しくない。Win-Winでしょ?」

 我ながらナイスアイディアだ。天使になる仕組みだとか、そんな小難しいものはどうだっていい。
 ずっと寂しかった静かな病室で、雨音は素敵な音楽を聴かせてくれた。
 ずっと変わらない病室の中で、雨の窓辺は様々な彩りを見せてくれた。
 わたしの好きな雨の中、あたたかな時間をくれた彼女を、もうひとりぼっちで泣かせたくなかったのだ。

「ねえ、レイン……」
「…………ずっと黙ってたけど、私、天使じゃなくて死神なの」
「えっ。こんな可愛い死神居るんだね!?」
「……怖くないの?」
「全然! 寧ろ死神の株爆上がりだよ!」
「もう……本当に、変な子」

 初めてガラス越しではなく直接近くで見た彼女は、くらげのように少し透き通っていて、幻のよう。
 けれど手を伸ばしようやく触れた掌は、雨粒の冷たさに奪われない確かなぬくもりを帯びていた。


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