君は幸運の神様!~さえない女子、狐神に絡まれました~

 もしかしたら、怠けすぎたのが良くなかったかも。なおはちょっとだけ反省した。
 繕いものとか、掃除とか、愛想とかまで怠けたものだからたまらない。あっという間にさえない十六歳の女子(おなご)が出来上がっていた。
 だから現在、家なし奉公先なし、しかもお金もなし。どこかの田舎町で道に迷っている。
「でも悪いことは何もしてないよ!」
 今日から華の大江戸ライフが幕を開けるはずだった。帰る家すら失くすのは納得いかないと、なおは誰にともなく主張する。
 そんななおをあざ笑うように、大雨が追い打ちをかける。
「えぇ! ここで!?」
 なおの前には見渡す限りの田園風景と山が広がっていた。雨宿りをするような軒下すらない。
 なおは貧相な男物の着物が全身ぬれねずみ、田んぼ道のせいで膝まで泥だらけだ。
 途方に暮れて立ち止まった。頭がくらくらして、倒れそうになる。
 でも可憐な女子のように可愛く倒れられない性格だった。頭は少年みたいに首の後ろの簡単な一つ結び、男物の麻の着物姿でいれば、女子とはばれないのが自分のいいところだと思っている。
 どうしたもんかさっぱりわからないや。なおは田舎道に突っ立って、しばし呆然としていた。
「……ん?」
 そんな折だった。ふいになおの目の前を何かがよぎる。
 大きな動物の尻尾が走り抜けたような感覚。なおがぼんやりと目で追うと、道の端に神社があった。雨宿りができると期待したが、それは赤い鳥居と岩を彫りぬいたようなほこらだけの小さな社だった。
 ただ、立派な黒狐の像が一体、ほこらの中に立っていた。
 ほこらの中には、「比良神」と達筆で書かれた札が掲げてある。なおはなんとなくそちらに足を向けた。
「漢字読めないしなぁ」
 地元の人が手入れしているのか、周りの草むしりもきちんとされていて、お供え物が置いてある。狐の赤い前掛けは昨日洗濯されたみたいに真新しい。黒い狐というのも珍しかった。
 ううんとなおはうなって、手を合わせる。
「……かみさま、質問があります」
 お参りというよりはすがるような思いで、なおは黒狐の像に話しかける。
「僕は何かやったでしょうか?」
 確かに努力はあんまりしていない。でも恨まれるようなことはしていない。
「それとも僕に何か憑いてるんでしょうか?」
 そろそろ怪しい言動になってきたと思いつつ、言葉を続ける。
「僕、たたられる覚えはないので。そっちで引き取ってください」
 捨てる神あらば拾う神あり。そういうのを期待して言ってみたのだ。
「だから……」
「そこの神様に願うときはよく考えて」
 ふいに肩を叩かれて、なおは後ろを振り向く。
 そこに立っていた青年を見て、なおは呼吸を止める。
「……ふぁっ!」
 なおは変な声を出して鼻を押さえる。その人こそ神様と言われても信じられるような男性だった。
 軽く後ろで結んでいる黒髪は雨に濡れて眩しくて、肌にシミなんて無粋なものはなく、黒い瞳は星屑をかき集めたみたいに澄んでいた。
 歌など詠んだこともないなおは一瞬で歌うたいになった。彼は二十歳ほどで、美少年を華麗に重ねた年頃だった。
 ただ女性でないのは一目瞭然で、声も低いし喉仏もある。格好だって、普通の男物の籠目模様の着物だ。
 ……如来さまが服着てたらこんな感じかな。
「げっほげほ!」
「だ、大丈夫?」
 そう思った瞬間、なおは鼻血を出した。顔を背けて鼻をつまむと、鼻声になりながら言う。
「気にじないでぐだざい。美男によわいんでず、ぼぐ」
「そんな力いっぱい押さえてたら出血がひどくなるよ。ちょっと座って」
 彼が目を移したところを見て、なおは首を傾げた。
 鳥居の横にはひさしのある小屋が建っている。
 ……小屋? なおは首をひねる。さっきまでは小屋なんてなかったと思う。雨の中で周りの景色すらよく見てなかったといっても、ちょっと見てなさすぎだった。
「ほら、これでしばらく押さえてて」
 なおの疑問はともかく、仮称如来さまはその小屋のひさしの下になおを連れて行くと、なおの鼻に手ぬぐいを押しつけようとした。
「受け取れません!」
「大丈夫、昨日洗ったばかりだから」
 そういう意味ではないとなおが言う前に、如来さまが手ぬぐいでそっとなおの鼻をつかむ。
「ひええ……」
 ほのかなせっけんの匂いと手ぬぐいごしに伝わるぬくもりに、なおの体温はぐんぐん上がる。
「す、すみません。お兄さんが里の如来さまにそっくりで、びっくりして。鼻血噴いたのはなんでかわかんないんですけど……」
「気にしないで。慣れてるよ」
 ……鼻血を噴かれるのが? すごいこの人と、なおは改めて尊敬のまなざしで見ようとして、その澄んだ目に照れて目を逸らした。
 とにかく如来さまの御手を固辞して、なおは手ぬぐいで鼻を押さえながらひさしの下に腰を下ろした。
 雨音が響く中、二人ともしばらく黙っていた。なおが横目でちらとうかがうと、如来さまはまだそこでなおの鼻血が止まるのを待ってくれているようだった。
 なおは興奮が静まって来ると、少しだけ言葉を考える余裕ができた。
「あの、さっき……なんでしたっけ。そこの神様……」
 そろそろと彼の言葉を繰り返すと、如来さまは苦笑して振り向いた。
「そこの神様に願うときはよく考えて。ごめん、神様は願いをかなえてくれることもあるけど、因縁をつけることもあるんだ」
 今、苦笑だけど笑った。なおは目から星がこぼれてせき込んだ。
 なんとか顔だけきりっと繕って、なおは会話に戻る。
「えと、はい。因縁というと、がらっぱちがつけるアレ……ではなくて、ああ、そこの狐が呪いをかけるってことですね?」
 如来さまは言葉に詰まって黒狐の石像を見上げた。
「神様だから、呪ったりはしないけど……。何て言えばいいかな」
「あんまり気楽に願い事をしない方がいい?」
「そんなところかな」
 なおはふむふむとうなずく。
 如来さまはふいに眉を寄せて黙ると、心配そうにたずねた。
「それとも神頼みしなきゃいけない境遇なの?」
 問いかけられて、なおはあきらめの心境になった。
 見も知らない他人の方が話しやすいかもしれない。そう思って、なおはなるべく明るく話し始める。
「……はぁ、まあ。今日の不幸の連続は何かにたたられてるとしか思えなくて」
「不幸?」
 如来さまは切れ長の瞳に心配の色を浮かべた。なおは気を遣わせてしまったと手を振る。
「いや、身内の不幸とかじゃないです。今日から家がないんです、僕」
 まばたきをした如来さまに、なおはぽりぽりと頭をかいて説明する。
「今日から江戸に働きに出るつもりだったんですけど、手違いでその話は無しになっちゃって。で、奉公先の家ももちろん住めなくなっちゃったんです」
「ご実家はどこ?」
 苦笑いを浮かべながら、なおはそれにも答える。
「僕の母さん、昨日で嫁いじゃったんです。母さんとは、僕が働き先をみつけたら家を引き払うって約束だったんですよ。……あ、ついでに焦ってどっかに財布落としちゃって」
 で、道なりに歩いてきたら、この見知らぬ田舎町にたどり着いたという。なおは話し終えて、考えてみればこれって一日で起こったんだなぁと遠い目をした。
「それは大変だね……」
 如来さまは深刻な顔になって黙った。ただその端整な横顔を見ていたら、なおは少し気持ちが落ち着いてきた。
「でも話を聞いてもらってちょっとすっきりしました」
 植物から幸せが出ているような気分がするときがある。如来さまは人に元気を与えてくれるのかもしれない。
 なおの中に前向きな気持ちが湧いてきて、そろそろ止まったかと鼻の手ぬぐいを外した。
「とりあえず、村長さんのとこにでも行って財布の行方を訊いてみます。神頼みするにはあきらめが早すぎますよね」
 なおは如来さまの手前だいぶ無理して格好つけたが、案外それは自分のためになりそうだった。
 言霊というのを聞いたことがあった。前向きな言葉を口にしたら、多少前向きになれた気がした。
「……うん」
 如来さまは眩しいような目をしてなおを見上げると、一つうなずく。
「それがいいよ。神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃないから」
 如来さまはすっくときれいな仕草で立ち上がって、山とは反対の方向を指さす。
「助けになるかはわからないけど、あそこに見える大きな建物がこの辺りで一番大きな商家だよ。君はまだ子どもだし、相談してみたらどうかな」
「は、はいっ!」
 なおは頭を下げて如来さまを見上げる。
「ありがとうございます。親切にして頂いて」
 手元の如来さまの手ぬぐいを見たら、やっぱり血で汚れてしまっていた。なおは緊張しながら口を開く。
「あの、どこにお住まいですか? お金ができたら、必ず新しい手ぬぐいを返します」
 如来さまはなおの緊張した顔を見て優しく返した。
「いいよ。それは君にあげる。……ああ、晴れてきたね」
 如来さまが仰いだ先には、晴れ始めた空があった。
 雨が上がって、雲間から光が差し込んでいた。なおの体はまだびしょぬれだったが、陽に照らされて少し暖かくなっていた。
「じゃあね。幸運を祈るよ」
 如来さまの言葉がなおの心に染みこむように響く。
 光の方に歩き出そうとした彼の背中に向かって、なおは声を上げる。
「ぼ、僕……直助《なおすけ》。直助って呼ばれてます!」
 如来さまはちょっと歩いたところで立ち止って、柔らかく笑い返した。
「僕は立花美鶴(たちばなみつる)。……またね、直助」
 手を振って、如来さま改め美鶴は去って行った。
 なおはしばらくその後ろ姿に見とれて、手ぬぐいを握りしめたままぽけっと突っ立っていた。




 その商家は確かに大きくて、いつの間にかなおはちょっとした町に着いていたらしかった。
 なおは今晩の宿を相談すべく、美鶴の勧めたようにその屋敷を訪ねた。
「まあまあ、びしゃんこじゃない。みっともない」
 ところがその商家、世話焼きなおばちゃんで満ちていた。
 仕切りもない二十畳ほどの部屋に十人ほどのおばちゃんたちがいて、暇なのかわらわらと寄ってくる。
「ほら手ぬぐい。しっかり拭きなさいな」
「誰か、羽織るものとってきて」
「こりゃ駄目だわ。お着物ご臨終ね」
 おばちゃんたちはなおの泥だらけの着物姿にあきれて、手ぬぐいやら着替えやらを持ってきてくれる。
「はぁ」
 なぜおばちゃんたちが働いているのかはわからないが、美鶴が言うにはここが一番大きな商家なのだ。
 なおはいくら雑な性格でも公衆の面前で脱ぐほど乙女を捨てていない。有難く裏方にさっと引っ込んで一瞬で着替えてくると、懸案事項を口にする。
「それで、あの、お金は江戸に出て働いて返しますから。今日泊まる費用だけでも貸してもらえるとありがたいんですけど」
「雨がよく降るわねぇ」
「おせんべい食べる?」
 世の常として、おばちゃんたちはあまり人の話を聞かない。身の上話をする暇もなく、なおはせんべいを渡された。
「ご当主さまがもうすぐ帰ってくるから、お金の話はその時すればいいわよ」
 結局のんきな感じで言い含められて、なおは部屋の隅でせんべいを食べていた。
 外はまたどしゃぶりの雨になっていた。ご当主さまとやら、こんな雨の中で足元は大丈夫かなと思いながら、なおは窓の外を見やる。
 ふっと灯りが消えた。風が部屋に入り込んだのだろう。辺りは真っ暗になる。
 雨に当たって体温が下がったのか、なおはやけに体が冷えた。羽織りの上から体をさすって、誰かが灯りをともしてくれるのを待つ。
「なお」
 誰かに呼ばれて、なおはぎくりとする。
 暗闇でよく見えないが、誰かが横に座っている気配がする。
「当主は君を助けてくれるだろう。それでいいのかい?」
 さっき、こんな若い声の男はいただろうか? なおの中で違和感が膨れ上がる。
 妙に低くつやめいた、役者じみた色っぽい声が言う。
「そうしたらお母さまが呼ばれてしまうね。せっかく新しい家になじもうと一生懸命なところなのに」
 なおは青ざめて、隣を見ることもできずに硬直する。
 なおはここに来て誰にも、母が女手一つでなおを育ててくれたことを話していない。ましてや母が嫁いで新しい家に行ったことなど、打ち明ける必要もなかった。
「君の願い事は、今年から働くことなんだろう?」
 ……なおが今年の初詣に近所の神社で願っただけのことを、どうして他人が知っている?
 いい加減、母さんと一緒っていうのはやだもん。二月前のなおの言葉だ。
 なおの母は子どもっぽくて頼りないくせに、惜しみなくなおを心配する人だ。だからなおはぶっきらぼうに言って、母の嫁ぎ先に一緒に行かないと決めたのだ。
 家を離れて一人で暮らす。生活費は自分で稼ぐから、行きの旅賃だけ出して。甘い理屈と精いっぱいの強がりで母の労わりを蹴り飛ばして、なおは家を出てきた。
 ちょっとだけ、母の幸せというのも考えた。母は三十台で、これから子どもだって生まれるかもしれないし、自分がついていったら新しい家になじみにくいかもしれないと思った。
「せっかくサイを振ったのに、やり直しをするのかい?」
 男の声は子どもが興味津々に訊いているような調子で、なおはむっとする。
「何が言いたいのかわかりません」
「この際とことん転がって、出たとこ勝負をしてみないかい?」
 言ってることが怪しくなってきた。なおは恐れを捨てられないまま、意を決して横を振り向く。
 そこで異変に気付いた。まだ刻は昼過ぎで、天気が悪くても灯りが消えたとしても、窓から入り込む光で室内は明るいはずだ。
 ……それなのに、隣の男の輪郭すらわからないほど真っ暗なのはなぜ?
「あいにくと、賭け事は嫌いなんです」
「じゃあ勝負事は?」
「嫌いです。勝てたことなんてないから」
「若いのに消極的だなぁ」
 男はくすくすと喉を鳴らすように笑った。
「私と勝負しないか。きっと楽しいよ?」
 気配が近づく。なおがびっくりして身を引いたら、誰かがぱっと灯りをともしたようだった。
 おばちゃんたちのおしゃべりの声が戻ってくる。そういえば部屋にはおばちゃんたちがいるのに、先ほどまではその声さえ聞こえなかった。
 なおがまぶしさに目をくらませながら、もう一度隣を見やったときだった。
「ねえねえ、半分ちょうだい?」
 そこには三歳くらいの小さな男の子が、ちょこんと座っていた。
 椅子に座って足をぶらぶらさせながら、なおのせんべいを覗き込んでくる。なおはぽかんとして、何を言われたのかわからなかった。
「あらあ、彦丸(ひこまる)君じゃない。一人なの?」
「雨がたくさん降ってるのに、よく来たわねぇ」
 おばちゃんたちは男の子のことをよく知っているようで、口々に声をかけてくる。
 なおは周囲を見回すが、おばちゃんばかりで若い男なんていない。一番近いところにいるのは、つやめいた声など無縁な幼な子だけだ。
「飴玉取る? どれがいいかしら」
「どれも大好き! 僕、好き嫌いしないもん。えらい?」
「えらいわぁ。でも一個だけよ」
「もう、わかってるよ!」
 なおが動揺している内に、おばちゃんたちは彦丸君とやらに群がって来る。間違いなくなおよりも集客率が高いようだが、おばちゃんの集客率はこの際なおもあきらめる。
 彦丸という男の子は、確かにおばちゃんたちが集まるのがわかるほど見目麗しい子だった。薄い茶のさらさらの髪をしていて、ぷにぷにしたほっぺたが愛嬌たっぷりだ。
「じゃあこれ。やった、黒蜜だ!」
「彦丸君は黒蜜が好きねぇ。目隠ししないで取ればいいじゃないの」
「どれが出るのかわからないからいいの! ふふ!」
 今すねていたかと思うと、もう笑っている。コロコロと変わる表情は、サイコロの目のようだった。
 彦丸が現れてからというもの、なおは完全に放置されていた。まあ愛らしい幼な子と勝負してもなぁと、なおは言い訳しながらちょっと空しい思いでせんべいを食べることに専念する。
 ふいに帳簿台の向こうから声が聞こえる。
「みなさーん、今日は当主さま、帰らないそうですよぉ」
 その声は若い男だったが甲高いのんきな声で、先ほどなおが聞いたものとは全然違う。
「土砂崩れが心配なので、隣町で一泊してから戻るって」
「そうねぇ、この雨だものね」
「いいじゃない。急ぎの用なんてないし」
「……えっ?」
 皆はあっさりとうなずき合っていたが、なおは顔をしかめる。
「いや、僕は急いでますよ?」
 当主が帰ってこないと、なおは今夜の宿を相談できない。思わず不満を口にしたが、誰も聞いていない。
 ただ一人、彦丸だけはなおの方を見ていた。
 涼やかな狐目を細めて、くすっと笑った……ように見えた。
「ああ、そういえばあんた今夜はどこに泊まるの?」
「だから、それがないから困ってるんですってば」
 おばちゃんに言葉を返したら、彦丸はきょとんとして言葉を挟む。
「お兄ちゃん、おうちがないの?」
「うん、まあ……」
「じゃあ僕んちに来るといいよ!」
 彦丸はぴょんと椅子から飛び下りて、なおの袖をぐいぐい引く。
「ね、遊ぼ、遊ぼ!」
「あのね、兄ちゃんは遊びに来たわけじゃなくて……」
 なおがたしなめようとしたら、おばちゃんたちがあきれ調子で言う。
「大人げないわね、あんた。暇そうなんだから遊んであげればいいじゃないの」
 この人ら、僕が一文無しで来たことを忘れているんかい。なおは心の中で突っ込んだが、ふいにおばちゃんたちはひらっと手を振った。
「当主さまが来ないと帳簿を触るわけにはいかないから、今日は彦丸君ちの人に頼んで泊めてもらいなさいな」
 さすがおばちゃんたち、実に落ち着いている。自分より二十も三十も年下のひよっこに動じる神経など持ち合わせていないようだった。
 なおの手を取って、彦丸ははしゃぎながら言う。
「さ、行こ!」
 おばちゃんたちはそれを見ながら、しみじみとした口調で呟いた。
「しかし、なんだってあんたみたいなさえない子をねぇ……」
 さりげなく失礼なことを言われたが、一応今晩の宿を手配してくれた人たちである。なおがお礼を言って外を見ると、また雨が上がっていた。
 今日は雨が降ったりやんだりと忙しい。なおの行く末も見えたり消えたりと落ち着かない。
 自分はどこへ行こうとしているんだろう。なおのぼんやりとした不安が見えたわけではないだろうが、おばちゃんたちは顔を見合わせて苦笑した。
「まあこれも縁だよ。行ってらっしゃいな」
 そうして彦丸に手を引かれて、なおは大商家を後にすることになった。




 彦丸はなおの手を引っ張って、山の方に歩き出した。
 この辺りで一番目立つのはこんもりと緑のしげる大きな山だ。そして見たところ、山の方に行くにつれて民家は少なくなっている気がする。
 次第にけもの道のような細いむき出しの道を歩き出して、なおは不安になってきた。
「ええと、彦丸君。まずは君のおうちに連れて行ってくれないかな?」
「やーだ。僕と遊んでくれる約束でしょ?」
 そんな約束しとらんがな。なおはそう思ったが、無下に切り捨てるのは幼な子相手にあまりに大人げない。
 なおは仕方なく深呼吸して、長く息をついた。彦丸の手を離して腰に手を当てる。
「だめ。さっきのお屋敷に戻ろう。兄ちゃんは急いでるんだ」
「つれないなぁ、なお」
「え?」
 ふいにまた、例の低いつややかな声が聞こえた。
 この声を聞くと体がひきつる。どこからだとなおは辺りを見回したが、周囲に若い男などいない。
 彦丸はまたなおに言葉を続ける。
「お兄ちゃん、いじわる」
 姿がみつかるのはただ無邪気に見上げてくる少年だけ。彦丸は上目遣いでかわいく首を傾げると、なおの手を離してたたっと走っていく。
「じゃあ僕もいじわるしちゃう」
 そう言って彦丸が掲げたのは、見覚えのある安っぽい財布だった。
「……なんで!? 僕の財布!」
「それっ、行くよぉ」
 血相を変えたなおの手をすりぬけて、彦丸は笑いながら駆けだす。
 どうしてとなおはつかみどころのない不安を持て余す。
 なぜこの子が失くした自分の財布を持っているのか、さっきからつきまとう違和感は何なのか、何もかもわからない。ただ汗を流しながら追いかける。
 彦丸はまるで地に足がついていないような身軽さだった。草木の間を小動物のように駆けて、なおの視界に映っては消えることを繰り返す。
 パンパン。手拍子が聞こえてなおは顔を上げる。
「おいで、手の鳴る方へ」
 木々の間を手拍子が木霊する。
 気づけば山の深い場所にまで入って来ていた。なおは狐に化かされたような気分になりながら、木々に木霊する手拍子を頼りに彦丸を追いかける。
「こらぁ、怒るよもう!」
 口汚く叫びながらも全然追いつけない。せっかく貸してもらった羽織りも、雨上がりの草むらを駆け回ったせいでまた泥だらけ。それでも手の鳴る方へ、子どもの姿の見える方へ向かう。
 財布があれば一人で生きていける。子どもにとってはおもちゃでも、なおにとっては最初の一歩。替えることのできないものだった。
 ふいに彦丸が木の上から飛び下りてくる。じゃれるように、なおの前でくるりと回転した。
「大人を馬鹿にするなぁ!」
 なおが息を切らしながら手を伸ばした時だった。
 彦丸の腕をつかんだその瞬間、なおは宙に投げ出される。
 目の前に底なしのような谷がぱっくりと口を開いていた。
「あ……!」
 凍るような恐怖がなおを包み込むのと同時に、落ちていく彦丸の姿が目に焼き付いた。
 考える暇などなかった。なおは彦丸を引き寄せて胸に抱きかかえていた。
 ……大人はちびっこを、庇わないと。
 たぶん後付けで理由を考えたけど、本心だった。
 目をきつく閉じて体を丸めて、やって来る恐怖の瞬間をこらえる。
 ……カラン。
 なおの耳に、何か固いものが転がるような音が木霊した。
「ふうん。私は意外と面白い拾い物をしたようだ」
 鈍る意識の中で誰かの声が聞こえて、なおは世界が反転したような気がした。
 人の声が漂うように聞こえる。
 近所の神社で毎年開かれる、夏祭りのにぎわいに似ている。露店から流れてくる胸をくすぐるような食べ物の匂いに、石畳を歩いていく足音、少し湿気た夏の宵の空気はよく知っている。
 ……夏、それに夜?
 今は春、そしてまだ昼過ぎだったはずなのに、どうしてこんな空気の中にいるのだろう。
 なおがその違和感にまぶたを開くと、目と鼻の先に誰かが屈みこんでいた。
 つり上がった狐目に、それを強調するように目じりに向けて赤い化粧が施されている。上品に通った鼻と、頬から耳に向けて斜めに引かれたやはり赤い染料の化粧、最後に楽しそうな笑みを刻む口元に、なおの目はたどり着く。
 ちなみに風変わりな美貌だろうと、間違いなく男だ。
「そんなに抱き心地がいいのかい、私は」
 それに押し倒されていることに気づいて、なおは我に返る。
「何してござる!」
 なまりながら思わず叫んで、力いっぱい突き飛ばす。そうしたら男は形のよい眉をくっと上げて見せた。
「おやおや、私のせいかい? 君が抱きしめて離さないからじゃないか」
 そう言いながら男は体を起こした。その拍子に、なおの周りに流れていた長い髪もさらりと動く。
「な、ななな……っ」
 少し離れると、男の全体像が見えた。
 年齢は二十歳ほどで、古い時代の公家のように、腰まである栗色の長い髪を背中に流していた。服装も、袖の広いずるずるした長い衣装を着ている。
 確か狩衣(かりぎぬ)とかいう服。表は黒くて、襟元や袖の下から覗く下の重ね衣は朱色をしている。ただそんな時代遅れな衣装が似合っているのが何より変だった。
 男は楽しそうにうなずきながら言う。
「ふうん。本当に君って女子なんだ」
 なおは否定しようとしたが、なおが触れられたくないのを知っているのか、なおが口を開く前に言葉を続けた。
「まあこっちじゃそんな話はどうでもいいけど」
 幼な子を追いかけて崖から落ちて、なぜ男に押し倒されている? なおは頭痛を感じながら、慌てて自分も体を起こす。
 ぐるりと辺りを見回すと、そこには露店をめぐっている人の波。見た目は夏祭りの夜だ。
 でも反転した季節、山奥に突然現れた人の波に、なおの理性が異変を教えてくる。
「ここは?」
 混乱して食いついたなおに、目の前の男は狐目を細めて笑う。
「こっちはそっち。あっちはどっち?」
 歌うように呟いて、男は優雅に立ち上がる。
「ここは君のいた場所の向こう側さ」
 男は座り込んだままのなおに、長く爪を伸ばした綺麗な手を差し伸べる。
「大丈夫。元の世界にはちゃんと帰ることができる。私と離れなければね」
 その声はなおが今日何度か聞いた、あのつやめいた低い声だった。
 差し出された手を見て、なおはぐっと言葉に詰まる。
「……なんだかわからないけど」
 自尊心を発揮して、なおは目をとがらせる。
「僕、馬鹿だけど馬鹿にされるのは嫌い。もう十六だからね」
 男の手を振り払うと、なおはすくみそうな足を叱咤して自力で立ち上がった。
「言うと思った」
 男はくすっと笑って肩をすくめる。
 自分のことを知られている? なおは首を傾げたが、誰かの声で思考が中断する。
「こちらです、お待ちしていました!」
 人波の中で誰かが声を上げて、こちらにやって来る。
 なおより二、三歳年下の少年だった。垂れ目でちぢれ髪を肩までたらしていて、こう言ってはなんだがひ弱そうな印象だった。
 彼は街の人々とは少し違って、山伏のような格好で歩きにくそうな高い下駄を履いていて、頭の横には天狗の面を下げている。
 彼は狩衣の男の手を両手で握って、感動したように頭を下げた。
「よく来てくださいました、ひらのかみ!」
 なおは眉をひそめてその名前を繰り返す。
「ひらのかみ……?」
 狩衣の男はちらりとなおを見る。
比良神(ひらのかみ)彦丸(ひこまる)
 低音を響かすいい声で告げると、狩衣の男はなおとやって来た天狗面の男に言う。
「彦丸と呼んでくれていいよ。なおも、万次郎(まんじろう)も」
 ……彦丸?
 さっきまで追いかけていた幼な子の名前と同じだと思いながら、なおは首を傾げる。
 狩衣の男は、言われてみれば彦丸少年と顔の基本的な作りが似ている。あの子が成長すれば目の前の男のようになるかもしれない。
 万次郎と呼ばれた男は、感動して袖で目じりを拭いながら言う。
「光栄ですっ。うう……っ!」
 万次郎は何度もうなずいて告げる。
「彦丸様にご協力いただければ、この縁談、必ずうまくいきましょう」
 はらはらと涙を零す。大げさな男だなぁとなおがあきれていると、万次郎はつとなおを見て言った。
「ところで彦丸様。この俗っぽい男児はいったい……?」
 なおは目に力を入れて睨み返す。
「田舎っぽいのは許すけど俗っぽいのは聞き捨てならない」
 万次郎は怯えたように袖で口元を押さえて後ずさった。
「こ、怖い! あっちの世の男児は草食動物になったと聞いていたのに!」
「ならないよ。人は人だ」
「おっと、紹介が遅れた」
 彦丸は恐怖に震える万次郎と怒りに震えるなおの間に入って立つ。
「紹介するよ、万次郎。こっちは直助。見ての通り人間の男児だ」
 あれ、仮名を知られている上に男児のまま通してくれるんだ。それはありがたいと思いながらも、なおの彦丸に対する不信感はますます募る。
 万次郎は礼だけは綺麗にしてみせて言う。
「よろしく、直助」
「ああ、どうも」
 なおは気に入らないながらも、反射のように会釈を返した。
 万次郎は不思議そうになおを見やる。
「でも、この方は神使(しんし)ではありませんよね? 彦丸様の神使は決まったとうかがっておりますし」
「神使にさらに神使をつけようと思っていてね」
「ははぁ」
 万次郎は納得がいったようにうなずいて、なおに向き直るなり言う。
「お使いがんばってください」
「なんかわからないけど馬鹿にされてるのはわかる」
 なおは万次郎に指をつきつけてにらむ。それを彦丸は横目で見た。
「お行儀が悪いよ、直助」
「……いたっ!?」
 彦丸の狐目が朱色に光ったかと思うと、雷が走ったようになおの手が弾かれる。
「な、何今の?」
 ひりひりする手を押さえながら、なおは後ずさる。
「直助、君の元気さは好きだけど。あまりおいたが過ぎるとお仕置きしちゃうよ」
 彦丸の声は弾むようで、まるでおもちゃを楽しむ子どものようでもあった。
 なおは声を低めて、頭一個半ほども背が高い彦丸を下から睨みつける。
「……僕に何をさせたいんだ?」
 彦丸は栗色の長い髪を揺らしてなおをのぞきこむと、とっさに身を引いたなおにささやく。
「簡単なお手伝いさ」
「近い近い」
 なおが後ずさると、彦丸はなおににっこりと笑う。
「私は万次郎の願い事を叶えることにした。彼と、明日やって来る女性との縁結びをね」
「縁結び……?」
「そう。無事に縁が結べたら、君を元の場所に帰してあげよう」
 赤い化粧の施された狐目が、ぐっと細くなる。
「縁結びは神々のたしなみだからね」
 神というぶっとんだ名前を聞いても、なおは笑い飛ばせなかった。
 今置かれている訳の分からない状況なら神様の一人くらい登場してもおかしくないと、頭の隅で考えてしまったのだった。




 提灯を持って行き交う人の群れの中、なおは彦丸の後を歩き始めた。
 あちこちにおいしそうな湯気の匂いがたちこめて、夜店が並んでいる。
 そこに歩く人たちは、たいてい動物のお面を頭の横に引っ掛けている。ちょっと都会の町の人の格好で、女性などは髪をきちんと結ってかんざしをつけていた。
 ……ただそれ以上に目につくものがいくつかある。
「夏祭りっていっても、ちょっとはしゃぎすぎじゃない?」
 なおは行き交う人たちを、失礼にならない程度に指さす。
「せっかくみんな洒落者の格好してるのに、猫耳やしっぽはないんじゃないかな」
 彼らは猫耳だったり犬耳だったり、たぬきのしっぽや昆虫の触覚やらをつけているのである。
 それに答えたのは万次郎だった。
「いいじゃないですか。ちょっとはみ出るくらい」
「はみ出るったって」
「誰だって、照れくさいけど自己主張したいでしょ?」
 万次郎は小声でなおに告げる。なおはなんだかよくわからないが、他人のお洒落にとやかく言うものでもないかとうなずいた。
 なおは難しい顔をして万次郎に振り向く。
「しかし縁結びって、具体的には何すればいいの? 恋愛成就ってこと?」
「恋愛?」
 万次郎に問いかけると、彼はきょとんとして言う。
「いえ、彼女が僕のところにお嫁に来ることはもう決まってます」
「え? じゃ、縁結びなんてとっくに終わってるじゃない」
「ところがそうはいかないんだな」
 なおの前を進んでいた彦丸が振り向いた。
「なお、足入れ婚はわかるかい?」
「聞いたことくらいはあるけど、周りではやってなかったよ」
「女性が夫となる相手の家で暮らしてみて、うまくいかない場合には結婚せずに実家に帰る方法なんだよ」
 なおはちょっと考えて、冷えた目で万次郎を見やる。
「ひどいことするなぁ。ちょっと遊んで捨てるんだ」
「僕は本気で結婚するつもりなんです!」
 万次郎は慌てて首を横に振って、勢い込んで言う。
「だいたい僕らがお嫁に来た人をそう簡単に帰すわけな……いですけど、今回は彼女のきっての頼みなんです! どうしても足入れ婚にしてもらいたいって」
 彦丸は口元に手を当てて思案顔になる。
「それで私が呼ばれたんだよ。何が彼女に結婚をためらわせているのか知りたいと」
「本人に訊けばいいんじゃないの?」
 なおの問いかけに、彦丸が難しい顔をして答える。
「もちろん訊いてみたよ。でも彼女は強者でね。全く答えは引き出せなかった」
「単に、結婚前に一緒に暮らしてみようって話じゃないの? うちの村でもよくあったよ」
「そういう気楽な感じでもなかったな」
 万次郎はぴたりと足を止めて肩を落とす。
「……やっぱり、僕に不安があるんだと思います」
 万次郎はもどかしそうに続ける。
「今回の縁談は、代理婚だから……」
「代理婚?」
 しょんぼりとしてうつむいている万次郎に、なおも立ち止まって振り向く。
「彼女は僕の兄と結婚するはずだったんです。でも兄は駆け落ちしてしまって、代わりに僕と結婚っていう話になって」
「代わっちゃうんだ、そこ」
 確かにお殿様とかお姫様はそんなことをすると聞いた覚えがある。でもなおのような村の若者だとそれは奇怪な展開だ。
 いや?と彦丸が口を挟んだ。
「別に昔から珍しくないことだよ。家同士の結婚なら、その相手が兄から弟に移っても全然問題ない」
「でもそれじゃ、本人の気持ちがついていかないよ」
 恋人同士だった相手がいきなり自分以外の女と駆け落ちして、代わりに弟で……と提案されたのを想像して、なおは首を横に振る。
「……無理無理。その結婚、うまくいかないって」
「うまくいきたいんです」
 なおが思わず顔をしかめて言ったら、意外にも万次郎は強く言い返した。
「僕が望んでます。彼女に来てほしいんです」
 なおは少し驚いて万次郎を見返した。
 初対面で万次郎をひ弱そうと思ったが、譲らない意思を口にした声はなおより大人に思えた。
 道行く人たちは、万次郎をみとめるたびに口々に言う。
「次郎坊、嫁取りおめでとう」
「いよいよ明日だねぇ」
 万次郎はそれに笑顔を返しながら、眉をちょっと寄せて困っていた。
 はしゃぐ人たちに聞こえないように、万次郎は小声でなおに言う。
「みんなには、これが足入れ婚であることを言えなくて」
 だって、と万次郎は続ける。
「お山に人間のお嫁さんが来るのはとってもめでたいことですから」
 「人間の」と聞いて、なおはそろそろ彼らの正体を認めざるをえない時期のような気がしていた。
 彦丸のことは気に食わないが、万次郎の縁結びをしないと帰れないらしい。だいたい、彦丸の後をついていくだけなんて気に食わない。
 なおはううんとうなって言う。
「……僕も本腰入れて考えるよ」
「え、本当ですか!」
 万次郎はぱっと顔を輝かせてなおの手を取る。でもすぐに眉を寄せて難しい顔をした。
「あ……でもあなた、色男には見えませんが……」
「否定はしないけどはっきり言われると傷つく」
 なおは万次郎をにらんだが、そろそろ万次郎の空気読めない発言にも慣れてきた。 
 なおはため息をつくと、しかめ面のまま周りを見回す。
「ま、万次郎自身の問題は後で考えるとして。基本、嫁ぎ先の家っていうのは大事だよね」
 にぎやかな夏祭りの様子を見やりながらなおは考える。
 小奇麗で品のいい町で、住民も歓迎してくれている。耳やしっぽは好みが分かれそうだが、別に致命的でもないと思う。そんなことを考えていたら、彦丸が言った。
「町のことは大丈夫だろう。彼女はここに来たこともあって知ってるから」
「ふうん。じゃ、万次郎の家に来たことは?」
 なおの問いかけに、彦丸はちょっと考えて返す。
「それはまだだね」
「それなら、家の様子を見てみよっか」
「わかりました。ついて来てください」
 万次郎が何気なく言った、次の瞬間だった。
 万次郎は天狗面をつけるなり背中から黒い翼を広げて、軽やかに宵の空に飛び立った。
 なおはあっけに取られて立ち尽くす。
「……え」
 その反応を面白そうに見て、彦丸はくすっと笑う。
「何を驚くんだい? 天狗が空を飛ぶのは当たり前だろう?」
 彦丸はそう言ってなおの手首をつかむ。
「私たちも行こうか」
 彦丸の栗色の髪の中から黒い狐耳が、狩衣の下から黒い毛並の尻尾が生える。
 なおをつかんだまま、彦丸は高く跳躍した。狩衣はまるで天女の羽衣のようにゆらめいて風に乗ると、夜の闇をかきわけていく。
 一瞬で、夏祭りの喧騒が遥か下に飛び去った。淡い光だけが眼下でちらちらと輝く。
 ……なおは長く息を吐いた。もう認めるしかない。
 彦丸も万次郎も人間ではなくて、そして自分は人外の者たちが住まう場所に迷い込んでしまったという事実を、なおはようやく胸に収めたのだった。




 なおだっておとぎ話の世界のことだと思っていた。今住んでいる世界の向こう側に別の世界があって、そこに人外の存在が生活している。
 でも信じられなくても、現実に見てしまったものは仕方ない。
 万次郎は子どもが家に帰るみたいに言う。
「ただいまー」
 続いてなおが立ち入った万次郎の家には、しゃべる動物が山ほど行きかっていた。
 ハスの花が咲き乱れる池の中に、緩く弧を描く石の橋がかかっていて、白木作りの立派な御殿が建っていた。たぬきやねずみやシカや、はたまたそれらのちょっと人間っぽい形をした者たちが、皿やらついたてやらを持って大忙しで駆けまわっている。
「すみません。明日輿入れだから、みんなバタバタしてて」
 万次郎が困ったように頭をかいたが、なおは言葉もなく屋敷の中を見ていた。
 玄関を上がって一つ奥に行った和室で、万次郎は振り向く。
「ここが式場です」
 そこは見渡す限りの畳の部屋だった。色鮮やかに動物の絵が描かれた屏風や細かい彫り物がされている鴨居があって、天井にまで金箔や銀箔で細工が施されている。
 なおは遠い目をして言う。
「……万次郎ってお坊ちゃんだったんだ」
「このお山一の名家だからね。使用人だけで百はいるよ」
 彦丸がさらりと答える。なおは置いてある花瓶をつつこうとして、値段もつきそうにないほど豪華だったので手を引っ込める。
「嫁に来る身としては、ちょっと敷居が高いかもしれないなぁ」
「彼女は街一番の商家のお嬢様だが」
「あ、そうなんだ」
 そういえば家同士の結婚だと言っていた。家格がつりあうなら、生活水準はそれほど心配要らないのかもしれないとなおは思いなおす。
 なおが廊下から外を覗くと、夜桜が並んで咲き誇っていて壮観だった。
 万次郎は先に襖を開けて言う。
「ここが彼女の部屋です」
 万次郎が案内した部屋は女性用の雅な部屋だった。広さは二十畳ほどで、琴や茶器が用意されている。ここだけふわりと香がたきしめられていて、化粧台や可愛い花飾りのついた小物入れも揃っていた。
「……あの向こうは?」
「無粋なことを訊いてはいけないよ、なお」
 彦丸に笑われて、なおはばつが悪そうにうつむく。
 つまり襖の向こうは万次郎との寝室ということになるのだろう。今更だが、夫婦になるとはそういうことだった。
 それから食事の部屋、台所に客室、いろいろと回ったが、どこを見ても文句のつけようがないほど立派な御殿だった。
 なおは最後に万次郎の部屋に入ってたずねる。
「じゃ、いよいよ万次郎についてだけど」
 そこは案外質素で、文机と座布団が置いてあるくらいだった。
 万次郎は彦丸たちに座布団を出すと自分は畳に正座した。なおと彦丸は勧められるままに座って、質問を投げかける。
「まず、万次郎の両親はどうしてるの?」
 嫁姑問題は結婚の難関である。そこから押さえておかなければいけなかった。
 けれどなおの心配とは裏腹に、万次郎はあっさり答える。
「僕の両親は人間なので、とっくに亡くなってます」
「じゃ、兄さんと二人暮らし?」
「ええ。でも兄さんは今駆け落ち中で、この家にいるのは僕と使用人だけですけど」
「で、年がずいぶんと若そうだけど、結婚できるの?」
 万次郎は見たところなおより年下だ。
 そうしたら万次郎はしょんぼりしてうなずいた。
「やっぱり頼りなく見えますよね。僕、元禄生まれですし」
「げんろく?」
「百歳くらいかな」
 彦丸に言われて、なおはぽかんとする。
「……すっごい年上だったんだ」
「僕なんてひよっこですよ。兄さんは江戸に将軍が来る前から生きてますし」
 見た目があてにならない。なおはこの世界の怖いところを垣間見た気がして、無理やり話題を変える。
「年齢はもういいや。職業は?」
「天狗です」
 さらっと答えた万次郎に、なおは首をひねる。
「いやそれはわかったけど、一体何をやって生計立ててるの?」
「うんと、まあ」
 万次郎は明後日の方向を見て言葉を濁す。
「縁結びとか……」
「ちょっと怪しい匂いがしてきた」
「お、お山の維持管理とか、遭難者の救助とかしてます!」
 なおがうさんくさそうな目をしたので、万次郎は慌てて返す。
「ふーん……忙しいの?」
「普段は暇ですけど、緊急時に呼ばれますから不定期な仕事ではありますね。あ、でも彼女は好きにしていてもらえばいいです」
 なおはちょっと考えて、ふと先ほどから彦丸が質問をしていないことに気づく。
「彦丸、縁結びの依頼を受けたのはそっちだよ。質問しなくていいの?」
「これは直助の教育も兼ねているんでね」
「僕?」
 なおが聞き返すと、彦丸はつやっぽく笑う。
「人間の女性なら、私より直助の方が詳しいだろう」
「そうかなぁ」
 なおは別に深刻な事情で男装しているわけじゃない。あんまり自分が女子という実感がないのだ。
 世間では男と女というのは生き方が違うらしいと聞いているが、なおの村はなぜか男ばかりのところだったので、自然と男っぽい格好と話し方になった。
 前髪はいつもぱっつん、藍で染めた紺の男物の着物が基本だから、世間でいう女子のことがあまりわからない。
 彦丸は笑みをたたえたまま言う。
「今はわからないだろうけど、直助は女子のことだってちゃんとわかるようになる」
 なおは首を傾げて、不思議な心地で彦丸を見返した。
「今回はその第一歩さ。さ、もっとよく話を聞いてみるといいよ」
 彦丸はそう言って、なおに任せた。
 なおは釈然としないながらも縁結びを再開する。
「それで、万次郎と結婚する人ってどういう人なの?」
 なおが何気なく万次郎に言葉を投げかけた時だった。
「さぁ?」
「さぁって言われても。回答を放棄してると進めないよ」
 万次郎はきょとんとして返す。
「だって僕、彼女に会ったことがないんです」
「え?」
 なおは眉をひそめて恐る恐る問いかける。
「……まさか万次郎、彼女の顔も性格も知らない?」
「そういうことはこだわりませんから」
「え、いや、でも」
 なおは澄んだ丸い目で見返す万次郎の内心がわからず、焦るしかない。
「け、けど。多少は知っておくべきだよ。自分に何の関心もない夫なんて嫌だもん」
「あ、そうですね。気づきませんでした」
 反省するように頬をかいてから、万次郎は彦丸に向き直る。
「彦丸様はご存じですよね。彼女のお名前は?」
「……そこからなんだ」
 この天狗どれだけ興味なかったんだとなおが呆れると、彦丸はほほえんで答える。
「そう。まず知るところからだよ。……いくらでも話そう」
 彦丸は袖に手を通しながら、にこやかに話し始める。
「彼女の名前はえん。向こう側で一番の商家の当主で、四十五歳だ」
「ん?」
 驚いたのはなおだけで、万次郎は頬を染めて手を顔に当てる。
「ぼ、僕、そんなぴちぴちのお嫁さんをもらっていいんですか……?」
「ぴちぴち……かな?」
 確かに万次郎の中身は百歳だが、見た目十代半ばの少年とその倍以上の女性の組み合わせは許されるのか。なおはひととき考える。
 ……というよりあちら側の商家の当主なら、あのおばちゃんたちのご主人様だった。ご無礼なことを言わなくてよかったと思った。
「十六歳で江戸での修行を終えて田中家の女当主になる。江戸の修行時代に知り合った侍と意気投合し結婚、夫との間に娘を一人もうける」
「子持ち……」
 なおがなお驚いていると、万次郎は感心したようにほおと息をつく。
「聡明で敏腕な女当主なんですね。素敵です」
 それは実に輝かしい経歴すぎて、なおのような田舎の女子には目が白黒としてしまう。
「三年前、夫とは円満に離縁して、夫はふるさとに帰った。今のえんは娘と使用人たちと一緒に向こう側で暮らしている」
 しばらく呆然と話を聞いていたなおと違って、万次郎は目をらんらんと輝かせていた。
「理想的なお嫁さんです。一点の曇りもありません」
「そう、かな?」
 こっちの世界の男性の好みを聞き返すのは野暮だろうか。なおはちょっとだけ冷や汗をかきつつ、頭によぎる考えに気づく。
「ああ、でも。なんかわかったよ」
「どうしました、直助?」
 なおは昨日里で別れたばかりの人を思い出す。
 いつでも手紙を書いてね。ご飯をちゃんと食べるのよ。なおの姿が見えなくなる直前までなおをみつめていた母のことを。
 なおの胸がずきりと痛む。
「たぶんそんな輝かしい経歴を辿ってきた人なら、自分に自信はあるよ。相手が天狗でも嫁ぎ先の世界が違っても、やってやろうって思うかも」
 なおの母も男だらけの村で堂々と働いていた。でも、だから何も心配していなかったわけじゃない。
「娘さんが万次郎やこっちの世界とうまくやっていけるのか、心配してるんだと思う」
「……あ」
 万次郎は短く声をもらして、彦丸も少しだけ驚いた顔をした。
 万次郎はうなずいて目を上げる。
「直助の言う通りですね。よく確かめてみます」
 そう言って万次郎は立ち上がった。



 万次郎はもう一度、子どもが暮らせる家か考えてみると言った。
 子ども用の暮らし道具やおもちゃは揃っているか、世話を替わってくれる使用人はいるか、そういうお母さんが不安に思いそうなことを見直すことにしたらしい。
 家の者たちはますます忙しくなったみたいだが、万次郎自身もてきぱきと家の様子を見て回ったりしていたので、立派な当主におなりだと涙ぐむ者もいた。
 なおはその間、月見をして時間をつぶしていた。
 舞台のように池に張り出した台から、池の中に映る丸い月をみつめる。この世界には空ではなく水底に月が浮かんで、まるで大きな光の玉が水の中を転がっているようだった。
 ふいに万次郎も屋敷から降りてきて言う。
「そろそろあっちでは夜明けですね」
 万次郎の家の使用人に聞いたことには、この世界に太陽はないらしい。いつも夜で、ただ朝の時刻になると月がひときわまぶしく輝くのだそうだ。
「直助も休んできてくださって構いませんよ」
 彦丸は奥の客室で眠りについている。今なら彦丸から逃げることもできそうだが、不思議となおは逃げる気は起きなかった。
 なおはこの縁談の行く末を見てみたいと思った。
 縁結びというのだから、もっと超自然的な力を駆使するのだと思っていた。でも実際は、なおたちは万次郎の話を聞いて、少し助言をしただけだった。
「縁結びっていつもこんな感じなの?」
 なおが月見台に立った万次郎に言葉をかけると、万次郎は笑って答える。
「もっと強引に縁を結ぶ神もいますよ。でもそういう縁はどこか無理があって、すぐにほどけてしまうんです」
 万次郎はなおと並んで、手すりに肘をつきながら言う。
「まして人と妖怪の縁というのは難しいものですから」
「天狗って、妖怪に入るんだ?」
「僕は社を持っているので、一応神を名乗れます。でもこっちの住人はみんなまとめて妖怪というんです」
 涼しくなってきた風を頬に受けながら、万次郎は黒々とした目を細める。
「僕はよくあっちの世界に行くのでわかります。直助にはこの縁談、不思議なことだらけでしょう」
「まあね。お殿様でもないのに、顔も見たことがない相手といきなり結婚しようっていう発想がまず驚いた」
「そうですね」
 万次郎はうなずいて苦笑する。
「「お前は嫁なら誰でもいいのか」と、思ったんじゃありません?」
 黙ったなおに、万次郎は池に映る月をみつめながら言う。
「昔は往来が活発だったんですけど、最近は特別な力のある者でないと、こっちとあっちは行き来できない。でも人間のお嫁さんが来ると、道が開くんです。だから時々、人間と名のある妖怪の異種婚が行われるんですよ」
 万次郎はつと目を伏せて悲しそうな顔になる。
「でも人間がここで暮らすのは、負担が大きいんです。こっちはあっちよりあいまいな世界ですから。長くいると動物の耳や牙が生えたり、人間だった頃の記憶を忘れてしまったり。僕らは慣れてますけど、人間にはつらいですよね」
「なんで?」
 ふいになおは言葉をかけていた。
「家のためってそんなに大事かな?」
 なおは田舎の村で暮らしていたから、家というものを意識したことはなかった。母と二人だけの家族だったから、住む家だって小さくて土地もほとんど持っていなかった。
 母さんが旦那さんになる人のことを好きなら結婚すればいいんじゃない。そう思っただけだった。
 万次郎は笑ってなおに振り向く。
「家は大事です。ただそれ以上に、僕は誰かを大好きでいたいんです」
 まばたきをしたなおに、万次郎は振り向いた。
「運命の相手なんてこの世にはいません。あるのは縁、つまり偶然のつながりだけです。でもそれって運命よりわくわくしませんか?」
 万次郎は晴れやかに告げる。
「その偶然をえんさんはつかんでくれた。だったら僕は、あっちの世界で彼女がどういう人だったかは気にしないと決めました」
 万次郎はまた前を見て、夜空に言葉を浮かべるように呟いた。
「……だから、お嫁に来てくれる人なら本当に誰でもいいんですよ」
 池がまぶしく輝く。どうやらあっちの世界で夜が明けたようだ。
 それはさながら水底から太陽が昇るように、水面が金色に染まった。




 翌日の昼から、万次郎とえんの祝言が行われた。
 今回は足入れ婚なので、正確にいえば仮の祝言となる。ただ見た目は普通の結婚式と変わらず、衣装や儀式も華やかに用意されていた。
 まず万次郎がえんをお山の入口まで迎えに行って、そこから街道を二人で練り歩いた後、万次郎の屋敷で杯を交わすという予定だ。
 彦丸は仲人として、えんをこっちの世界に連れてくることと、二人が夫婦の誓いとして杯を交わす時に酒を注ぐ重要な役を頼まれている。ちなみになおは彦丸の付き人という設定で、まあ要するにおまけなわけだった。
 なおが落ち着きのない万次郎と共に山の入口で待っていると、さやさやと木々が鳴った。
 かぐわしい風が流れて、万次郎がはっと顔を上げる。
 彦丸の手を借りて地面に降り立ったのは、凛とした印象の女性だった。長くつややかな髪を上品にまとめあげ、黒い瞳はまっすぐに前を向いている。紫の着物をまとって歩く姿はとても優雅だった。
 なおは自分の先入観を反省した。年齢や子持ちなんて気にならないくらい綺麗な人だった。
「ど、どうしよう……」
 これなら万次郎も大満足だろうと思ってなおが横目で見ると、万次郎はガチガチに緊張していた。
「人違いじゃないんですかね? ぼ、僕、田舎天狗なのに……」
「し、しっかり、万次郎。傷は浅い。ほら、背筋伸ばして」
 なおも動揺から立ち直れないまま、万次郎の背中を叩いて前に押しやった。万次郎はちょっとよろめきながら、恐る恐るえんに近づく。
 えんは無言で一礼した。万次郎はわたわたしながら数回頭を下げる。
 それから花嫁と花婿は二人で並んで歩き出した。街道沿いには家々から人々が顔を出して紙ふぶきを飛ばし、やんややんやとはやしたてる。
 なおはその様子をうかがいながら小声で言う。
「大丈夫かな、万次郎」
 なおは花嫁行列の一番後ろを、彦丸と並んで歩いていた。彦丸はくっと笑う。
「さあて。投げたサイの目がどう出るかは、神々にもわからないからね」
 彦丸は心から楽しそうだった。なおがそういうものかなと首をひねっていると、彦丸はなおを振り向く。
「なおもそろそろ転がる心の準備はできたかい?」
「うん? 何の話?」
 なおは手を上向けて彦丸に突きつける。
「それより、忘れてないよ。財布返して」
「いいよ」
 ぽんとその手に財布が乗せられて、なおは拍子抜けする。
 開いてみると、中身はそのままだった。何も盗られた形跡はなく、ちゃんと金子も江戸への通行証も全部入っている。
「まだ式までには少し時間がある。今の内に、元の世界に帰してあげようか?」
 正直、なおには彦丸が何を考えているのかさっぱりわからなかった。
 見上げると、目じりに赤い化粧の施された狐目は面白そうな光をたたえてなおを見ている。まるで子どもがじゃれあうのを待っているような、そんな興味がありありと浮かぶ。
「何がしたいのかはっきり言って」
「それを言ったら面白くない」
「言って。何か企んでるのはわかってる」
 なおが疑わしそうな目で彦丸を見やると、彼は優雅に笑いかけてみせた。
「出会いはいつも偶然」
 彦丸が突然告げた言葉に、なおは聞き返す。
「何の宣伝文句?」
「私たちは、誰かと誰かを引き合わせることができる。けどそれは一回だけ」
 彦丸は低くあでやかな声で言った。
「……同じ人に会いに行ったら、それは偶然ではなく必然」
 なおが首を傾げると、彦丸は悪戯っぽく首を傾げた。
「君が必然に変えたいものは何だろうね?」
 そう言って、彦丸は前を向いて歩き出した。
 完全にはぐらかされたのはわかっていたが、なおは少し考える。
 行列の前方を進んでいるのは、隣をものすごく意識しながら歩く万次郎だ。先ほどは動揺してしまっていたが、万次郎はこの縁談を成就させるために必死で努力してきた。彼女との縁を必然にしたいと願っている。
 自分が必然にしたいものは何なのだろう。それは今、見えそうになっている。
 江戸に行くことを決めた時、なおは母との縁を切ろうと躍起になっていた。自分の能力とか将来の夢とか、そんなもの何も考えずにただ母から離れて暮らせる場所が欲しくて、遠くといえば江戸だろうと考えただけだった。
 けれどなおはその手配を全部親任せにしてしまった。母は抜けたところがあるのを嫌というほど知っていたのに、自分で奉公先にあいさつ回りも行かなかったし、どんな仕事をするかも聞いていなかった。
 再婚の準備に追われて忙しい母が手違いを起こしてしまったのは、ある意味必然だったのだろう。
――そこの神様に願い事をするときはよく考えて。
 如来さま、美鶴はなおにそう言った。
 適当に親から離れるという願い事をしたせいで、転がり落ちるように安定した生活から外れてしまった。迷い込んだ因縁はきっと一生付きまとって、人生を訳のわからないところまで流していってしまうのかもしれない。
 ……それでも、願い事があったんじゃない?
 その後の人生が左右されても叶えたい願いが確かにあったはずだと、なおはうなりながら思う。
 気づけば花嫁行列は山の高いところまで上って来て、万次郎の御殿までたどり着いていた。
 えんはあでやかな白無垢に、万次郎は紋付袴に着替えて奥から現れる。
 例の華やかな座敷で、式は進められた。なおは彦丸の後ろから、まだおどおどしている万次郎を見守っていた。
 式自体は短いと聞いていた。両家の紹介があった後、名主らしい妖怪があいさつして、もう最後の儀式だ。
 彦丸が進み出て万次郎の杯に酒を注ぐ。それを新郎新婦が飲み干せば、婚姻は成される。
 ところが万次郎がふいに硬直して……ころりと杯を取り落とした。
 なおも周りの妖怪たちも顔色をなくす。万次郎はそれ以上に真っ青になって言った。
「ごめんなさい。仕事が出来たので行ってきます!」
 紋付袴をひらめかせて一歩で座敷の端まで跳ぶと、万次郎は黒い翼を広げて空に飛び立つ。
 こらぁとなおは内心で舌打ちをする。
 まさかこの期に及んで怖気づいたのか。万次郎が飛び去った方角を睨む。
 彦丸は悠々と座ったまま、隣のなおに言う。
「万次郎なら大丈夫だよ」
「万次郎は良くてもえんさんがよくない!」
 なおはそれに食いついて怒る。
 彦丸は変わらずのんびりと問いかけた。
「じゃあ見に行ってみるかい?」
 なおは花嫁のえんを見やった。彼女の表情は、白無垢の大きな被り物のせいでよく見えなかった。
 なおはえんに向かってぺこりと頭を下げた。
「すぐ連れ戻してきます! ちょっと待っててください!」
 なおは安心させるように言ったが、えんの答えを聞く前に彦丸に手を引かれた。
 なおをつかんで、彦丸はあろうことか池に向かって飛び込む。
「わ、わわ……!」
 まさかそんな方向に跳ぶとは思ってなかったので、なおは目を閉じてぎゅっと体を縮めた。
 水にぶつかる感触はなかった。ただ世界が反転するような衝撃があって、なおは目を回す。
 遊び半分に学者さんの眼鏡をかけた時のように、しばらく目の前がぐわんぐわんとゆがむ。なおはふらつきながら立ち上がろうとしたが、ひしゃげるようにして尻餅をついた。
 どうやら木の上に座り込んでいるらしいと気づくまで、少し時間がかかった。
 木の下で誰かが泣いている。その声の方向になおは顔を向けて、目を見張った。
 山道に土砂が流れ込んでいた。昨日の雨で地盤が緩んで、土砂崩れを起こしたらしかった。
 誰かが繰り返し叫ぶ声が聞こえた。
「返事をして!」
 道が完全に分断されていて、その端で女性が身動きもとれなくなっていた。彼女は泣きながら流れ込んだ土砂に向かって誰かの名前を叫んでいる。
「……まさか」
 誰か、土砂に埋まっている?
 なおが青ざめて土砂を見やると、積もった土の中に何か大きなものが落下した。
 土がざわざわとうごめき、地面から逆流して土砂があふれていく。
 ふいに地面が破裂したような衝撃と共に、土砂の中から人影が現れた。
「はっ……はぁ、はっ……!」
 五歳ほどの男の子を抱えて、万次郎が全身泥だらけで出てきた。母親らしい女性は大慌てで近づこうとして、それより前に万次郎が息を切らしながら彼女の方に進み出る。
「も……大丈夫、です、よ……!」
 まだ満足に話せないほど疲れ切った様子で、万次郎はそれでも安心させようと言葉を続ける。
「怪我……はなさそう、です。呼吸もしっかりしてる。でも下山して、お医者さまにかかった方がいいです」
 母親の女性は何度も頭を下げて、子どもを受け取る。
 なおはようやく合点がいった。
 万次郎の仕事は山の維持管理、遭難者の救助だと聞いた。天狗の力で山の異変に気づいて飛んできたらしかった。
 万次郎はなお言葉を続ける。
「足元が悪いので、お山の出口まで先導します。僕についてきて……」
「私が案内するよ」
 万次郎の言葉を遮ったのは、いつの間にか彼らの近くに立っていた小さな子どもだった。
 子ども姿の彦丸は、その幼さに不似合いな落ち着きを持って言う。
「だから万次郎は祝言に戻りなよ」
「けど、こんな格好ですし……」
「えんは万次郎を待ってるんだよ? 行きなさい」
 万次郎は泥だらけの自分の姿に自信なさげにしていたが、彦丸は軽く言い返した。
「杯の交換の儀は、私の代理になおをよこす」
 彦丸はなおを見据えて言った。楽しそうに狐目が細められる。
「やってくれるね? なお」
 彦丸と目が合ったなおは一瞬迷って……こくりとうなずき返したのだった。




 自分の結婚もしない内に、なおは他人の結婚式の仲人になった。
 万次郎のことを笑えないくらいにガチガチに緊張して杯に酒を注ぐと、万次郎とえんは順々に杯を飲み干して、ひとまず結婚式は終わった。
 その後は宴会になだれこんだ。動物たちは駆け回り酔っ払い、せっかくの絢爛豪華な座敷はてんやわんやの大騒ぎだ。
 夜になっても続く宴会の中、なおは月見台で一緒に立つ万次郎とえんの姿を見かけた。
「式の途中で席を立つなんて、申し訳ありません……」
 ぺこぺこと頭を下げてもう何度目かの謝り文句を告げてから、万次郎は顔を上げて切り出す。
「あの、こまりちゃんのことですけど」
 今日は出席していないが、えんの一人娘の名前はこまりというらしい。
「昔からお山にはよく子どもが迷い込むので、子どもの世話は慣れているんです」
 月明かりが水面からのぼってくる中、万次郎は予備の羽織姿で懸命に言葉をかける。
「僕はまだまだ未熟者で、兄さんみたいに立派な天狗でもないのですけど。精一杯、えんさんとこまりちゃんを大切にしたいと思っています」
 だからと言いかけて、万次郎が肩を落とした。
 なおは万次郎の性格を思った。ひ弱で頼りなげで……気が優しい。泥だらけで子どもを助けていてもそれを誇る言葉なんて出せず、勝手に祝言の席を立ったからとえんに謝るばかりだった。
 でも万次郎、がんばってたよ。こまりちゃんを迎えるために精一杯準備したんでしょ?
 ……大丈夫だから、胸を張りなよ。なおが物陰でもどかしい思いを抱えながら見守っていると、えんが口を開いた。
「私、幼い頃にこのお山で迷子になったことがあります」
「え?」
 鈴が鳴るような声で、えんは言葉を続けた。
「その時、こちら側に入ってしまいました。最初はとても怖かったです。でも、私をみつけてくれた方がいらっしゃいました」
 えんは万次郎をみつめながら言う。
「その方はこちら側の町を案内してくれて、空を駆ける動物、水の中の月、にぎやかな宵闇、そういうものを見せてくださったんです。たった一日のことですが、とても楽しかった」
 万次郎は懐かしむようにえんを見返した。そこに、彼の重ねてきた歳月が映っていた。
「それからあちら側に帰って、恋も結婚もしたのですが、こまりにこちらの世界を見せてあげたいと思いました。……あの子がうまくやっていけるかは自信がなかったので、足入れ婚を提案させていただいたのですが」 
 えんは万次郎の頬にそっと手を置いて、柔らかく笑った。
「不思議。まさか縁談の相手があの時の方になるなんて。子どもに優しい天狗の……あなたで、よかった」
 えんがつぶやくと、万次郎も照れくさそうに笑い返す。
 包み込むようにえんを抱きしめた万次郎から、なおはやれやれと顔を背けて苦笑する。
 この調子なら、きっとこの縁結びは成功するだろう。
 なおは人騒がせなと呆れるようで、悪くない気持ちに包まれた。
 なおは小声で物陰にささやく。
「どこまで彦丸が演出したの? この縁結び」
 衣擦れの音もなく彦丸がなおの横に並んで言う。
「何が?」
「えんさんがこちらで迷子になったこと、知ってたでしょ」
「まあね。でも私はそのときまだ生まれてないから、噂に聞いただけだし」
 なおが黙ると、彦丸はくすくすと笑う。
「ま、終わり良ければすべてよし。ただまだ油断はできない。足入れ期間が終わる一年後まではね」
 なおは少し考えて言葉をまとめると、意を決して顔を上げた。
「……彦丸」
 なおが呼びかけると、彦丸は黙って先を促した。
「僕を元の世界に帰して。やりたいことがあるんだ」
 彦丸の狐目が、楽しげに細められた。




 なおが田中家に行くと、おばちゃんたちがわらわらと寄って来た。なおは今度は同じ建物内にある帳簿台を訪れていた。
「来年の春までの臨時でいいんです。僕にここで働かせてください」
 なおが人生を転がしてもやってみたかったこと、それは「今年から働く」ことだ。
 江戸に行く気はある。母が渡してくれたお金はなおの財布に残っているから、それは大切に残しておいて来年は江戸に上る。
 だけど母の手を離れて一人でどれだけやっていけるか知りたい。どうしても今、試してみたい。
 母から離れたいという思いは適当に抱いたものだけど、母から独立する願いは本気で願った。だからなおはそれを実行することに決めたのだった。
「何でもやります。お願いします」
 帳簿台のおばちゃんに頭を下げたら、彼女はけらけらと笑った。
「若い子っていうのは無防備ねぇ」
 ひとしきり笑ってから、おばちゃんは帳簿台に肘をついて言った。
「まあそれだから、神様も絡みたくなるんだわ」
「は……?」
「今ちょうど、奉公人を探してる家があるの」
 なおががばりと顔を上げると、おばちゃんは小さな声で教えてくれる。
「川沿いに行って三本の杉を背にしたお屋敷。奉公人になりたい若者は、そこのお家で今日の午後までに集合だそうよ。やる気があるなら行ってきたら?」
「は、はい! ありがとうございます」
 お礼を言って踵を返すと、なおは大急ぎで外に飛び出す。
 田中家の門扉が開いてすぐに来たから、まだ朝一番だ。十分間に合うだろうと、なおは田んぼの中のあぜ道を速足で歩き始める。
 でも数刻後、なおは口の端をひきつらせて立ちすくむことになる。
「……嫌な予感がする」
 たどり着いたのはおとといなおが呆然自失になっていたところ、黒い狐の石像のほこらの前だ。
 うん、黒い狐ね。今はどう頑張っても、それを疑いの眼で見ることしかできない。
 三本の杉を背に、小じんまりとしたお屋敷が建っていた。扉に「奉公人希望はこちらから」と縦書きの達筆な筆で書かれている。
 嫌な予感しかしない。でも、進みたい。一度投げたサイの出る目を、見届けるために。
「ごめんくださーい!」
 深呼吸をして、なおは扉を叩いた。
 しばらく待ってみても扉が開く気配はない。もう一度呼びかけても、やはり応答はない。
 困りながら立ちすくむと、軽く背中を押されたような気がした。
「わ……っ!」
 当然扉が眼前に迫って来る。ぶつかると思ったら、吸い込まれるように全身が扉の中に入っていく。
 視界いっぱいに、大きなサイコロの一の目が見えた気がした。
 カラン。
 何かが転がる音と共に世界が反転して、気がつけばなおは床に倒れていた。
「……あれ、君」
 自分の下に誰かいる。なおが恐る恐る視線を落とすと、忘れようもない人がそこにいた。
 なおは反射的に鼻を強くおさえる。
「直助?」
 如来さま美鶴がきょとんと声を上げる、数秒前のことだった。 
 さあ、素敵な恋の始まりだ。
 そう目を輝かせるような乙女ではなく、なおは如来さまにただただ恐縮していた。
「よく来てくれたね。直助、奉公希望なんだ?」
「ええ、まあ」
 幸い美鶴はなおの胸には触らなかったらしく、女子と気づかれなかったのはほっとした。
 押し倒すつもりじゃなかったんです。わたわたと弁解をしたなおに、美鶴は笑って助け起こしてくれた。「そういうこともあるよ」と全然動じなかった。
 なおにとっては一文無しで途方に暮れていた自分に手を差し伸べてくれた人、いわば恩人だ。また会えて当然嬉しかった。
 しかし黒狐の隣の小屋から始まったこの町との縁が、再び同じ場所から始まるのは何か作為的なものを感じる。まあ端的に言うと、あのうさんくさい黒い狩衣の男のせいじゃないかと思ってしまう。
 それはさておいて、如来さまは時と場合が変わっても麗しかった。今日の彼は長い黒髪を首の後ろで結んで、青い飾り紐をつけていた。飾り紐なんてなおがやったら怒られそうだが、彼がすると実に優雅だ。若葉色の着物に白い帯できっちりと締めているのも、また素敵だった。
 美鶴は親し気になおに話しかけてくる。
「僕は田中家の親戚でね。今日はお手伝いで来てるんだ」
「そうなんデスか」
「どうしたの、直助。緊張してるの?」
 なおは堅い口調で相槌を打ってしまったので、美鶴は心配そうに首を傾げた。
「大丈夫。僕に任せて」
 美鶴は力強くかつ優雅にうなずくという常人にはできない動きをしてみせた。
「仕事の内容は、僕が手取り足取り丁寧に教えるからね」
 ぶっと、なおは鼻血を噴いて後ろにのけぞった。
「あれ? とりあえず横になって! 直助」
 弁解しても説得力がないが、なおは美男をちょっと苦手にしているだけで変態ではない。鼻は弱くなく、まして興奮で鼻血を噴くなんてそうそうしない。
 でも美鶴に会ってからというもの、そういうなおの常識を軽やかに飛び越されてしまっている。あっちの世界では空を飛ぶのが当たり前だったように、今までのなおの常識はまるで通用しない。
「まだ始めるには少し時間があるからね。ちょっと休憩してなさい」
 美鶴はまた手ぬぐいを持ってきてなおに貸してくれた。なおは少しあきらめの境地になって、床に横になりながら自分のいる部屋を改めて見る。
 なおのいるところは商家の居間といった感じの部屋だった。隅々まで掃除の行き届いた板張りの床が十畳ほど広がる中に、いろりを囲んで座布団がいくつか敷いてある。
 ちらと奥を見ると、広々とした厨房があった。かまどや水汲み場が併設されていて、けっこうな人数の食事が出せそうだった。
 天井には梁が張り出していて、雅かつ力強い。外から見たときはこじんまりとした屋敷だったのに不思議なものだ。
「こんにちは、お邪魔します」
 ふいに戸が開いて、なおと同い年くらいの男が現れた。学者みたいな大きな黒縁眼鏡をかけていて、人懐こく美鶴に笑いかける。
「あ、てっち君も手伝ってくれるの?」
「はい、僕もお手伝いです。そちらは奉公希望の方ですか?」
「はは。今日はまだ説明だけなんだけど、この感じだと彼で決まりだろうね」
 がらんとした居間を見渡して、美鶴は苦笑する。てっちと呼ばれた男が明るく返した。
「縁があったんですよ。いいことです」
「そうだね。紹介するよ。こちらは直助」
 美鶴に紹介されてなおが頭を下げると、男も丁寧に言った。
「初めまして。僕は修行中の住職、円城寺(えんじょうじ)哲知(てつとも)といいます」
 丁寧に礼をしたのを見て、なおはこくんとうなずく。
 育ちがよさそうで角が立たない態度を取る男だなと思っていた。まだ丸めてはいないが短く刈り上げた髪で、清潔感があふれる。
「僕、十六なんだけど、円城寺さんは?」
「ああ、僕も同じです」
「じゃあてっちって呼んでいい? 僕のことはなおでいいよ」
「うん、そうしよ。なお、よろしく」
 哲知はなんとものんびりとした物言いで、なおはすぐ仲良くなれそうな予感がしていた。
「こんな体勢でごめん」
 寝転んだまま頭をかいたなおに、哲知は苦笑を返す。
「美鶴さんを見たらみんなそうなるよ」
 あ、やっぱり?となおは苦笑した。哲知は美鶴に対して普通の年上のお兄さんに接する態度だが、美男という認識は共通しているらしかった。
 カランと固いものが転がる音がした。何か異質な空気が流れ込んで、まばたきした後にはなおの隣に誰かが立っている。
「また鼻血を噴いて。お子様だね、なおは」
 その面白がるような口調、低くつややかな声には聞き覚えがあった。
 なおが見上げた先には、黒い狩衣姿で目元の化粧が特徴的な男。
 やはり来たなという腹立たしい思いでなおが見ていると、すっと美鶴が立ち上がった。
「帰れ、彦丸」
 美鶴は彦丸に冷ややかに言い放った。
 彦丸はくすくすと笑って美鶴を見やる。
「私は今回のお祭りの後援者だよ? 私を追い出してどうするんだい?」
「説明なら僕がする。お前は毒にも薬にもならないような縁でも結んでくるがいい」
「それは嫉妬かな? 美鶴」
 彦丸は美鶴の肩を抱いて引き寄せる。なおはどきっとしてとっさに目を逸らした。
 え、え、これって。なおは声には出さずに心中で騒ぐ。
 彦丸は例のつやめいた声で美鶴にささやいた。
「私が帰るべき場所はいつも美鶴のところだって知ってるだろう?」
「黙っていろ。その口にあぶらあげを叩きこんでやろうか」
 美鶴は彦丸を弾き返すと、怒りをまとってにらむ。それを見て、彦丸は肩をすくめた。
「それは勘弁。私は美味しいものだけ口にしてたいんだ。ま、説明役くらいは美鶴に譲ろう」
 美鶴はまだ彦丸を睨んでいたが、彦丸はひょうひょうとしてそこに立っていた。
 やがて美鶴は仕方なさそうに腰を下ろして、彦丸は当然のようにその右隣に腰を下ろした。
 なおはあわわと思いながらその様子を見ていた。
 街の方では男同士も恋人になるっていうけど本当なんだ。さすが美男の世界は違うなぁ。なおは赤くなった頬をさすりながら、二人の恋路に思いを馳せていた。
 いろりを囲んで美鶴の左隣が哲知、向かい側がなおとなる。なおが起き上がったのを見計らって、美鶴は話し始めた。
「では時間になったから、説明を始めよう」
 美鶴は一度目を閉じて息を吸うと、その次の瞬間には優しげな如来さまに戻っていた。先ほど彦丸に向けた不穏な眼差しはすっかり収めて、穏やかに語りかける。
「今年の夏、七月中旬からこの稲香町(いなかまち)でお祭りを開きます」
「……いなかまち」
「いね科町とか田舎なら村だろうとかいろいろ言われるけど、いなか町です」
 微妙な名前だ。しかし如来さまを困らせるものではないと、なおはうなずいた。
 なおははいと手を上げて質問をする。
「お祭りって、具体的にはどういうことをするんですか?」
 美鶴はなおを見て優しく答える。
「田中家の紹介で来たなら、直助は「あちら側」を見たんだよね?」
「あ、はい。妖怪の世界のことですね」
 美鶴はうなずいて告げる。
「今回のお祭りっていうのは、妖怪と人間の縁結びで人を呼ぶ計画なんだ」
「縁結び大好きですね、ここの人らは」
 なおはちょっと遠い目をする。
 妖怪と人間のうふふあははな交流というものを想像しかける。いやいや待て、となおは首を横に振った。
「ああ、そっか……縁組ですか」
 そういう理解でなおは納得しかかったが、美鶴は言葉を挟んだ。
「ちょっと違うかな。縁結びっていうのは結婚相手だけじゃなくて、友達や近所との縁もあるんだよ。広く江戸から人を呼ぶ計画なんだ」
「ははぁ」
 健全な普通のお祭りだと気づいて、なおはうなずく。
「素敵じゃないですか。僕も貢献させて頂きます」
 胸をおさえて、なおはうなずく。そんななおに、彦丸がくすっと笑った。
「ちょっと地味だって思っただろ、なお?」
「なっ! 健全でいいじゃない!」
 男子ばかりの村で育ったので、ちょっと妄想しただけだ。彦丸に内心が読まれていたかと思ってなおはぎくりとした。
 哲知はのんびりと言葉を挟む。
「稲香町は若い人がどんどん江戸に出てしまってますからねぇ」
 彼はうなずきながら言う。
「そのわりに、あちら側は妖怪が密集してますし。行き来を活発にしてどちらもほどよい街にしたいって、長いことあっちこっちで言ってましたもんね」
 どうやら哲知もあちら側についてよく知っているらしかった。修行中でも住職だった。
 美鶴はそうだねとうなずき返して、なおを見た。
「それで人手が欲しくて、てっち君みたいなお手伝いや、直助みたいな奉公人を募集してるんだ」
 どんな仕事をやらされるかと思えば観光案内のお手伝いとみた。
 これなら自分にもできそうだとなおが思ったところで、ふと違和感が頭をよぎる。
「……夏のお祭りなんですよね? その後は?」
 なおが恐る恐る問いかけると、美鶴は気の毒そうに顔をしかめる。
「ごめんね。奉公さんを取るのは七月までなんだ」
 ということは、なおは八月以降宿無し仕事無しに逆戻りということだ。
 せちがらい奉公人の現実に直面するなおに、彦丸が声をかける。
「安心したまえ。その後も田中家に奉公する道があるよ」
 袖に手を入れながら、彦丸は何気なく付け加える。
「美鶴がなおを田中家の外回りに推薦してやればね」
 美鶴はその言葉に迷ったらしく、黙って考える間があった。
 美鶴はうなって一言告げる。
「田中家の外回りは危ないからなぁ……」
 商家の外回りって、そんなに危険な仕事なの? なおは首をかしげながら、美鶴の困り声に疑問を持つ。
 美鶴はなおに振り向いて厳しく言う。
「直助、仕事にもいろいろあってね。田中家の外回りはあんまりおすすめしないよ」
「はぁ。わかりました、気をつけます」
 なおはいまいち納得がいってないながらも、如来さまが言うならと素直にうなずく。
 美鶴は首を横に振って、なおに柔らかく笑いかける。
「ぜひ直助にも手伝ってほしいな。「恋の町、稲香町」祭り」
 その笑顔の麗しさに、なおはまた強く鼻を押さえたのだった。




 それから早二か月。
 言葉面は軽やかに通り過ぎたように見えるが、なおの人生の中ではこれでもかというくらい新しい日々だった。
「次の方、どうぞ」
 なおは一人だけで田中家のおばちゃんたちにそろばんや簡単な漢字を教わって、そして一人だけのお祭り用奉公人となった。ここまではいい。
 そこから始まったなおの仕事というのが、ある意味新人の定番。門番だった。
 縁結び祭りに参加を希望する妖怪を入口で出迎える。さすが街一番の商家開催の祭り、事前に認められた妖怪だけ参加が許される。まあ実際の了を出すのはなおの上司のさらにずっと上司であるご当主さまなので、なおは入口でさらっと札を見て小屋の中のおばちゃんに取り次ぐだけだ。
「……待ってください。井の町二丁目のどじょうさん」
 ところが、意外と入口でお断りするケースも多い。あっち側の彼らは非常に適当で、参加の一枚札は不備の嵐だった。
「本気でうなぎを販売するつもりなんですか?」
「どじょうじゃなきゃ何でもいい気がしない?」
 札を読んでなおが訊くと、非常にまったりとした答えが返ってくる。
 なおは首を横に振ってどじょうに忠告する。
「同業者から村八分に遭いますよ。具体的な料理も書いた方がいいですね。ただでさえ食品の販売は難しいんですから」
「うーん、わかったぁ」
 にょろにょろとした尻尾を引きずりながら、二丁目のどじょうはのんびりと去って行った。
 なおのここ二か月の相手は、おはようからおやすみまで妖怪である。
 田中家の案内所は山の中の小屋にある。まだあっち側と通じている道は、この緑濃い山間にしかなかった。なおは蚊に刺されながら、ぽりぽりと首の後ろをかいて耐える。
「おい、門番!」
 ふいに剣呑な声を聞いて、なおは顔を上げる。
「俺の宿が不許可ってどういうことだよっ? 責任者を出せ!」
 ズズズ……という地響きがして、なおの体が浮き上がる。
 なおをつまみ上げたのは、丘ほどもある一つ目の巨体を持つ妖怪だった。
 なおは並みの大木より高くに持ち上げられて、この高さから落とされたら命はないと冷や汗を流す。
 とはいえ今、なおは言うべきことを言う立場にあった。
「……あなたの札に不備があるんです」
「あァ?」
 門番の宿命として、荒っぽいお客さんの相手をしなければいけないこともある。すぐ慣れるわよとおばちゃんたちは笑うが、なおはまだ全然笑えない。
「今回のお祭りは、原則風俗営業は禁止です。芸妓のお姉さんを呼ぶ宴会は違反です」
「芸妓が酒の席にはべるのはあっち側じゃ常識だよ。認められたところもあるだろ」
「昼間の舞台観光は例外として認められているからです。でもそれも当主さまが特別に認めた店でないと……」
「ええい、ごちゃごちゃうるせぇ。ったく田中家は!」
「いや、門番の僕に怒られても……って、うわぁ!」
 あんまり役に立たない言い訳をする暇もなく、なおは宙に放り出される。
 地面に叩きつけられると体を縮めた。痛みを想像して泣きたくなりながら目を閉じる。
 けれど衝撃は来なかった。代わりにふわりと大きなものがなおを包んでいた。
「すまんねぇ、坊や」
 そろそろと目を開けると、先ほどの妖怪の二倍ほどもある一つ目妖怪がなおを手のひらに包んでいた。全身緑色で牙が飛び出ていて恐ろしい風貌だが、なおを見下ろす眼差しは穏やかだ。
 大一つ目はなおをそっと地面に下ろすと、小一つ目の頭に拳骨を落とす。
「いてっ! 何すんだよ、兄貴」
「阿呆。こっちとあっちは違って当たり前じゃろうが。分をわきまえんか」
「喧嘩もいかんぞ」
「札くらいいくらでも書けばいいじゃろ」
 声が増殖したかと思うと、一つ目巨人たちがわらわらと集まって来て、小一つ目を引っ張っていく。
 巨人たちは手を振ってなおに言った。
「坊や、おつかれさん。がんばっとくれ」
 看板につるした風鈴が、チリーンといい音を立てる。
 仕事を始めてから、絡まれたり文句をつけられることは日常茶飯事だ。
 でも、なおはまだ一度も怪我をしていない。怪我をしそうになると、必ず別の妖怪が止めに入ってくれる。
 あっち側の多くの妖怪は、喧嘩は嫌いで、人間にもむやみに怪我をさせたりはしないようだった。
 お客さんが途切れたところで、水筒のお茶を飲んで一服する。
 そんな調子で、なおは何とか仕事をしている。
「ただいま帰りましたー」
 ところで、なおは奉公人になってから説明会のあった小屋で暮らすことになった。
 この小屋は、町の人たちには「サイコロ屋敷」と呼ばれている。この家は四角い箱のような見た目をしていて、表面に黒点がついているからなのだそうだ。
 彦丸が言うには入口だけはこちら側にあって、内側の立派なお屋敷はあちら側にある。こっちなのかあっちなのか、よくわからない建物だった。
 なおを迎えてくれるのは、やはり妖怪の面々だ。
「おう、なお」
「あいも変わらず貧相な顔じゃのう」
 いわゆるつくもがみというやつで、この家にはかまどやいろりや風呂や壁や床や、とにかくあらゆるところに妖怪が住んでいる。物と変わらない形も、手足が生えているのもいるが、だいたいおっさんっぽくしゃべる。
「貧相じゃない。普通なだけだよ」
 なおは自分で言ってへこんだが、首を横に振ってぐったりする。
 なおがいろりの前でつぶれていると、彼らは家のあちこちから集まってくる。
「飯はまだか」
「今日は厠掃除をしとらんな?」
「窓のさんにほこりが積もっておるぞ」
 彼らは姑みたいなことを言うのが好きである。
 なおは仕事でくたびれた身に面倒事を上塗りされるのが嫌で、つい苛々して言い返す。
「そんないっぺんにできるわけないよ。自分の担当は自分でやって!」
「使えん居候じゃ」
「まったくじゃ」
 けれどなおが一声怒鳴ると、妖怪たちはすごすごと自分の持ち分に戻っていく。
 たまになおが申し訳なくなるのはこういう時だ。
 つくもがみたちは、口うるさいが悪気はない。ただ自分の持ち分が大好きで、いつでもそこを清潔に使いやすく保ってくれるように願っている。
 それになおが朝遅刻しそうになると起こしてくれたり、仕事でへこんでいたりすると迷惑なくらい歌ったり踊ったりして慰めようとしてくれる。
 やっぱり謝っとこうとなおが腰を上げたところで、廊下を渡って美鶴が現れた。
「おかえり、直助」
 ……そう、これが大事。
 このお屋敷は、家主と無数のつくもがみがいる。けれどそこに美鶴も住んでいるのだ。
 本日の美鶴は外行きの着物姿だった。袖に銀杏模様があしらわれていて、紺の帯できりっと締めている。このまま姿絵に載せても、部屋に貼られること間違いなしだった。
「今日は魚を焼こうと思ってるんだけど、それでいい?」
 美鶴はなおが疲れているからと気を遣って、いつも食事を作ってくれる。心も如来さまのような人だった。
「僕も手伝わせてください!」
 この年まで母の手伝いでしか料理をしてこなかったなおの腕は期待できないが、今は奉公人の端くれ。少しずつでも炊事を覚えようと、せめて夕食はお手伝いすることにしていた。
「いつもありがとう。じゃあ一緒にやろうか」
 美鶴はにっこり笑ってうなずいた。
 美鶴は髪をくくったり、袖をまくったりという身支度でさえ動きが絵になる。
 なおはぽへっとして見とれそうになったが、慌てて首を横に振る。美鶴は手早く魚に仕込みをしてなおに声をかけた。
「これを、うちわであおぎながら焼いてくれるかな」
 かまどを前にして、なおは魚を焼く。やってみると楽しい。うちわで仰ぎながらじゅうじゅう音を立てる魚を見守る。
「仕事はどう?」
 美鶴はその横で、みそ汁や煮物の支度をしていた。何気なくかけられた言葉に、なおはちょっと苦笑する。
「毎日びっくりしますけど、けっこう楽しくやってます」
「うん。彼らは気安いしすごく優しいよね」
 美鶴は優しく相槌を打って言った。
「僕は小さい頃から、人間より彼らの方に親しんできたものだから。むしろ人とどう接したらいいかわからない時の方が多いよ」
「そうなんですか」
 なおは冗談でなく本音で言う。
「美鶴さんみたいないいお兄さん、人間も誰だって好きですけどね」
 なおがこの家に暮らすようになったのは、なおに家がないのを気の毒に思って美鶴が誘ってくれたからだ。
 美鶴はちょっと気弱そうに付け加える。
「それならいいんだけど」
 確かになおは美鶴がこの、こちら側とあちら側の中間に立つ不思議な屋敷に住むようになった経緯をまだ知らない。
 どうして妖怪と親しむようになったのか、いつからここに住んでいるのか、そういう事情も知らなかった。
「……彦丸。行儀が悪い」
 美鶴はいきなり不機嫌になって手を下ろす。
 なおが横を見ると、彦丸が煮物をつまみ食いしていた。いつの間にか里芋がいくつか平らげられていて、彦丸は美鶴に弾かれた手を素早く引っ込める。
「うん、煮加減はまずまず。直助にも教えてあげなよ」
 赤い化粧の施された狐目がにやりと笑みを作る。
「美鶴の使い勝手のいい神使に育てた方がいいからさ」
「何度言ったらわかる。彼は奉公に来てくれているだけで、僕の神使じゃないんだ」
「いずれそうなるさ。だって美鶴は寂しがりやだろう?」
 彦丸が美鶴の肩に肘をついて、ささやくように告げる。
 美鶴はかっと顔を赤くして、彦丸に冷ややかに言う。
「お前、今日は夕ご飯抜き。外で食べてこい」
「おやおや、こんなに尽くしている私に何て仕打ち」
「知るか。出てけ」
 美鶴は煮物の器を持って彦丸の横を通り過ぎる。
「出てけって言われても、ここは元々私の家なのに」
 なおにとって微妙な事実だが、確かに彦丸の言う通りだった。
 この家は美鶴となお、そして家主の彦丸が一緒に住んでいる。一応各人の部屋はあるものの、食事場所や風呂などは共用だ。
 美鶴は彦丸の前だと子どもみたいに見える。すぐ怒って、なおはなんだかかわいいと思ってしまう。
「直助、ごはんにしよ」
 まだぶすっとしながら、美鶴が振り返る。なおは反射的にうなずく。
 美鶴と彦丸は恋人同士なんだと思っていたが、本人たちが言うにはどうやら違うらしい。
 なおは二か月間一緒に暮らしてみてもさっぱりわからないまま、つい焼きたての魚にうきうきして食卓に向かった。



 縁結び祭りの説明のとき以来、なおはお手伝いとして参加している哲知と仲良くなった。
 哲知は初印象と違わず気さくで、親切だった。毎週のようになおを連れて、稲香町のあちこちを案内してくれる。
 土曜日の今日も、哲知と町の散策をすることになっていた。なおはいつものように朝一番、哲知の家である円城寺で待ち合わせの約束をしていた。
 鐘の音を聞くに、そろそろお店の類も開く時間。ちょうどいいと思って、なおは時間つぶしに境内をぶらぶらと歩いていた。
「どこまで続くんだろ」
 円城寺に来るにはけっこう長い坂道を上る。そして本尊が置かれている寺よりさらに奥がある。
 本尊の建物の隣にはいくつも細い綱も束ねた、太い綱が地面に置いてある。その向こうに延々と石段が続いていた。
 小石が転がって来て、なおはその先を見上げる。石段の上を、ほうきで掃き掃除をしている人をみつけた。
 その人は哲知が家で着ているような、作務衣(さむえ)という住職の普段着をまとっていた。「終縁」と縦書きで書かれたお面をつけていて、顔はわからないがかなりがっちりした体格をしている。
 彼は円城寺に来ると時々見かける。いつもこの格好で、寺のあちこちを掃除して回っている。お面が不審すぎるが、その心意気はすばらしい。
 今日もその住職は、丁寧に掃き掃除をしていた。階段を一段ずつ、ちりとりで石や木の葉を取りながら下りてくる。
「あの」
 なおが声をかけると、彼はびっくりしてほうきを取り落した。体格はいいのに、反応の仕方が小動物っぽい。
「ここの頂上には何があるんですか?」
 そう問いかけてみると、彼は内気そうな声で返す。
「そこの綱と同じものがあるだけだよ。入って見てきたらどうだい」
 意外と若い声だった。まだ二十代で、哲知より少し年上くらいだ。
 なおはうーんとうなって言う。
「いや、ここからは入りにくいんですよね。この綱があるから」
 哲知のお兄さんだろうかと当たりをつけながら、なおは言葉を重ねる。
「この綱は……えと、入口みたいで。ここからは違う世界だから気楽に入るなよって感じがして」
 なおは目の前に置かれた太い綱を見下ろしながら言う。
 彼はふうんとうなずいて言う。
「そんなとこかな。君は山で修行したことはある?」
 がっちり住職さんの何気ない問いかけに、なおは一瞬考える。
 修行とは違うけどと、なおは苦い思いをかみしめる。
「……十五の頃、みんなで山籠もりしたんですけど」
 あえて過去形で言うと、彼はそれには気づかなかったらしく話を変える。
「君のことは少し知ってる。哲知と仲良くしてくれているみたいで」
 おやとなおは気づいた。彼は今、てつともと呼んだ。哲知のことはみんなてっちと呼んで、家族しか本名では呼ばないと聞いていた。
 彼は少し迷って、さらりと言う。
「この綱を見てそう思うなら、君はいい感覚を持ってると思う。君も神使を狙っていいんじゃないかな」
 あまりに意外なことを言われたので、なおは不思議そうに問い返す。
「僕が神使に?」
「哲知を推す妖怪もいるから、僕は待ってよって思ってるんだ。確かにあの子は霊力が高いし頭もいいけど、美鶴さんの神使なんてちょっと欲張りすぎだから」
 褒めているのかけなしているのか。ただそういう言葉の端々から、身内の心配というのがありありと見える。
 なおは頭をかいて彼に言う。
「神使って要は神様の下働きでしょう? まあ僕は如来さまの下でなら、下働きもいいんですけど」
 なおは素朴な疑問を持って彼を見る。
「でも立花さんが神様になって初めて、その下働きを決めようってなるのでは? 立花さんは如来さまみたいですけど、人間ですよ」
「美鶴君が神様になるのは決定事項なんだ」
 ふいにがっちり住職さんは語気を強める。
「そうじゃないと、上の神々が騒ぎ出してややこしいことに……あ」
 彼はおもむろに顔を上げて、なおにほうきとちりとりを押し付けた。
「よろしく!」
「え、なにが」
 なおが突然のことに驚いて立ち竦んでいると、がっちり住職さんはさっと物陰に隠れた。
 何事だろうと、なおはほうきとちりとりを手にきょろきょろしていた。ふいに境内の方から声をかけられる。
「あらあら、直助。お掃除してくれたの?」
 なおに近づいて来たのは、今年七十歳になるという哲知の祖母、とわだった。足が悪く、背中を丸めて杖をつきながらゆっくり歩いてくる。
 なおは慌てて否定しようと声を上げる。
「いや、掃除してたのは僕じゃなくて……」
 なおが物陰の住職を示そうとしたら、彼はぶんぶんと首を横に振った。
 なぜ彼が掃除をしていたのを知られたくないのかわからないまま、なおは一応口をつぐんだ。
 なおが物陰から顔を背けてとわの方を見ると、とわはうなずいてなおに言う。
「ありがとうねぇ。とってもきれいになってるわ」
 とわは綺麗になった境内を見渡して笑った。
 なおはそこで違和感に気付いた。とわの視線の先、大きな綱の向こうにはさっきの住職が立ってこちらを見ている。でもとわの目線はその向こうしか見ていない。
 とわは柔和に頬をほころばせながら言う。
「そこの綱の向こうに入らなくなって、もう四十年になるのよ。足が悪くなったからじゃないの」
 とわは綱の先の石段を見やりながら言葉を重ねた。
「子どもが出来てすぐの頃に、私がここの石段で転んでね。主人に、危ないからお前はここの掃除はもうしなくていいって怒られて、それっきり」
「怒らなくたっていいじゃないですか」
「そうねぇ」
 なおがちょっとむっとすると、とわは若い娘のようにころころと笑ってうなずく。
「でもその時から、毎朝ここの石段を掃除するのは主人の日課になったのよ」
 なおはふいに黙った。疑問だったことが一つ腹に入る。
 物陰に消えた住職の正体、それはもしかしたらと思ったのだ。
「とわさん、あの……」
 なおが顔を上げてとわに問いかける前に、境内の方から哲知がやって来て言う。
「おばあちゃん、お客様がいらっしゃってるよ」
 哲知がにらむように物陰を見た。もうそこにがっちり住職さんはいなかった。
 とわは哲知の言葉にうなずいて返す。
「じゃあ戻るわ。哲知、直助をよく案内してあげるのよ」
「うん」
 哲知はうなずきながらも、消えた住職の方をにらんでいた。
 とわが去った後、哲知はいつもの温厚な表情でなおを見る。
「ごめん。待たせたね」
「いや、僕はいいんだけど。さっきの住職さん……」
 なおが言いかけると、哲知はさっと顔を強張らせて言う。
「あれは幽霊だよ。寺に住み着いてるんだ」
「っていうか、あの人は哲知の……」
「あっち側に行くこともできずにさまよってるんだ。早く成仏させないと」
 哲知がこんなきつい口調でしゃべるのを、なおは初めて聞いた。
 こじれてしまった縁を直すのはとても難しいと聞いたことがある。
 哲知とあの住職もそうなのかもしれない。なおはぼんやりとそう思った。
 結局それ以上なおは住職の話をすることができないまま、哲知と連れ立って出かけることになった。




 哲知と親しくなって、なおは何度かあちら側に遊びに行った。
 先日、こちら側とあちら側をつなぐ大きな道が山間に通った。平日にはそこを縁結び祭りのために妖怪がやって来る。ただ道はまだ不安定で、縁結び祭りの解禁日までは一般人は通行禁止になっているのだった。
 ただこちら側とあちら側の行き来ができないわけじゃない。こちら側とあちら側はいろいろな場所でつながっている。ただ、普通の人はそれがどこか気づかない。
 特別な力のある者、神様とか霊力の高い人間とかならその場所がわかる。それで、哲知はその力がある者なのだと聞いた。
 哲知はなおを振り向いて声をかける。
「じゃ、行こっか」
 なおが哲知に手をつかまれたまま前に進み出ると、世界がころりと転がるように変わる。なおは何度やっても慣れずに転んで、しばらく立ち上がれない。
 なおは地面に手をついたまま目を回すが、哲知は涼やかな顔でどこに行こうかと周りを見回している。
 なおはちょっと涙目で言う。
「いいな、てっちー。そういう力ってどうやって身に着けるの? やっぱ修行が要る?」
「確かに修行も要るけど」
 哲知はなおを助け起こして言う。
「霊力は基本、縁の強さだって言われるね。僕は寺にしょっちゅうあちら側の妖怪が来るから、あちら側に縁が深いんだ」
「縁かぁ。僕は普通の商家出身だし同じようにはいかないか」
「ううん」
 哲知は苦笑して指を立てる。
「ある日突然、大物妖怪にぶつかられて縁ができることもあるよ。ほら、直助もそうだろ?」
 なおは彦丸に絡まれたことを思い出してため息をつく。
 確かに順調に江戸に上っていたら、なおは天狗の縁結びも田中家の祭りにも奮闘することがなかった。
 面白い経験をさせてもらえたと喜ぶには、ぶつかった神様が曲者すぎる。なおはぼそりとぼやいた。
「どうせぶつかるなら、美人の神様がよかったなー……」
 彦丸はその辺をさえない人間が歩いていたから面白がって絡んだのに違いないと、なお自身納得している。本当に面白味がない。
 今更ぶつかったものは仕方ないが、そのうち彦丸に文句をつけてやろうと思うなおだった。
 なおは腰をさすって立ち上がる。
「ん、そろそろ大丈夫」
「うん。なら今日は劇場街の方に……」
「……おい、てっち!」
 突然怒鳴り声が割り込んできて、なおはそちらを振り向く。
 その声は哲知に続ける。
「てめぇ、またこっち側に入り込みやがって! いつまでもタダで済むと思うなよ!」
 哲知の胸倉をつかんでいきり立っていたのは、背の高い男だった。
 ひぃ、となおは息を呑む。
 その男は二十代後半ほどで銀髪、いかにも人相が悪く、しかも眉まで剃っているものだから、見た目完全にがらっぱちだった。
 怖っとなおは一目散に逃げようと思った。
 ところが哲知は目を輝かせて、男に自ら近づいていく。
鏡矢(きょうや)さん! そちらから会いに来てくださるなんて!」
 哲知は顔の前で手を握り締めて黄色い声を上げる。
「その着物素敵です。巾着も新作ですね? だけど鏡矢さんは何を着ても麗しい。白鳥のようです!」
 ……あれ、哲知ってこんな性格だっけ? なおは心の中で突っ込む。
 哲知は普段の穏やかさとはうって変わって、まるで歌舞伎俳優に遭遇したようにはしゃぐ。
 男は、確かによく見るとおしゃれな着物を着ているし、それを粋に着崩してるし、ちりめん生地の巾着もちょっと見かけない小物ではある。
 しかしながらと思って、なおは言葉を挟む。
「待って! 待ってください! ちょっと失礼します」
 なおは哲知を引っ張って木の影に連れてくる。
 幸い男は哲知を引き戻して殴るほど怒ってはいないようだった。なおは哲知を安全な場所まで確保すると、ほっと安堵しながら口を開く。
「落ち着きなって、てっち。あんな怖い人にかかわるとろくなことが……」
「鏡矢さんを見て落ち着けるわけないよ!」
 まだ興奮している哲知に、なおは眉を寄せて言う。
「深呼吸してよく見るんだよ」
 なおは恐る恐る後ろを示す。そうしたら哲知は一度息を吸って、深く息をついた。
 一瞬いつもの穏やかな哲知に戻ったように見えた。でも次の瞬間、哲知は口を開く。
「……白鳥は嘘だった」
「だろ? 眉無し……」
「むしろ黒鳥。危ない魅力にあふれてるね!」
 なおはわかっていたつもりで哲知のことを全然わかっていなかったと反省した。
 何が起こった、哲知。なおはただ呆然とする。
 そんななおと哲知を差し置いて、男はふいに哲知に近づいてきた。
 男は呆れ調子で哲知に言う。
「てっち、もういいから。頭冷やしてこい」
 ぺいっ。
 そんな音と共に哲知が放り出されて、宙に消える。
 なおは何が起こったのかわからず、辺りをきょろきょろと見回した。
「え?」
「ちょっと向こう側に飛ばした。でもてっちのことだからまたすぐ戻って来るに違いねぇ」
 男はなおの襟首をつかんで言う。
「てっちをまくぞ。来い、坊主」
 なおはがらっぱちに引っ張られて空に跳ぶ。
 男は屋根の上を下駄でトン、トンと、軽やかに飛んで行く。
 なおは最初こそ怖かったものの、じきに感心の境地になる。
 妖怪の脚力っていつもながらすごいよなぁ。空を往くなんて人間にはできないことを、妖怪は簡単にやってのける。きっと見てる世界も人間とはずいぶん違うんだろうなぁと思う。
 やがて男は町屋の裏通りみたいなところに着地して、なおも地面に下ろす。
「勝手に連れてきて悪かったな」
 がらっぱちもとい鏡矢はすまなそうに言う。
「帰りはちゃんと送ってくから。てっちはああなっちまうと、しばらくどうしようもねぇんだよ」
 頭をかいて困り顔になる彼を見て、なおは見た目ほど怖い人じゃないんだと気づく。
「ちょっと待ってろ」
 彼は縁側になおを呼んで座らせると、奥に入って何か用意している気配がした。
 まもなく彼はなおに小皿と湯呑を渡して言う。
「ほれ、こんなもんしかねぇけど」
「あ、ありがとうございます」
 それは枝豆と麦茶だった。鏡矢は隣に座って自分もぽりぽりと枝豆をつまみながら、なおに言葉をかけてくる。
「俺は鏡のつくもがみの鏡矢。坊主はてっちの友達か?」
「はい。四月から田中家に奉公に上がりました、直助です」
 妖怪というのは特に理由もなく人懐こい。なおも自己紹介にだいぶ慣れてきていた。
「ああ。比良神の神使の神使か」
 それで次に、妖怪はこう返してくる。大体、この後延々と神使の話になる。
 ところが鏡矢はあっさり神使の話題を打ち切って、哲知の話を続けた。
「そっか、てっちに人間の友達が出来たのか」
 鏡矢はしみじみとうなずきながら言う。
「あいつ、器用貧乏だからなぁ。変に頭が固いところもあるし。よかったよかった」
 なおは微笑ましくなってたずねた。
「鏡矢さんはてっちと長い付き合いなんですか?」
「おう、あいつが赤ん坊の頃からな。俺、あいつのおしめ替えたことあるぜ」
 鏡矢は見た目の恐ろしさに反して、気さくになおに話を合わせてくる。
「俺はガキの時から円城寺に世話になってるもんでね。鏡座の役者なもんで」
「役者さんって、寺にお世話になるもんなんですか?」
「坊主は知らねぇか? 円城寺は別名「終縁寺」、縁切り寺なんだよ」
 縁切り寺とつぶやいて、なおは首を傾げる。どこかで聞いたような気もするが、適当な記憶だから言葉にできない。
 鏡矢はなおの反応に、おかしそうになおの肩を叩いて言った。
「なんだよ、縁切り寺も知らねぇって? しょうがねぇな」
 世話焼きの兄さんらしい調子で、彼はなおに教えてくれる。
「余所では、女の側から離婚をするために駆けこむところ。この稲香町では、縁全般を切るために駆けこむんだ」
 ああ、となおはうなずいて言った。
「そういえば母さんに聞いたことがあります。駆け込み寺ってやつですか」
「そうそう。知ってんじゃねぇか」
 鏡矢は枝豆を食べながら、強面に苦笑いを浮かべる。
「俺は職業柄、色恋に目が狂った奴らに追い回されることが多いんでね。こりゃいよいよやべぇって時、最後に駆けこませてもらってるのさ」
「ははぁ……」
「あん、信じてねぇな? 俺は売れっ子なんだぞ」
 そった眉の辺りを見てしまったなおの額を、鏡矢は指先でぽんと弾く。
「眉ばっか見るんじゃねぇ。舞台では化粧するからそってるだけだよ」
「す、すみません」
 なおが慌てて謝ると、鏡矢は真顔になる。
「ま、でも俺のすっぴん見てる連中はそれが普通の反応なんだよ。なんでてっちは元に戻らねぇんだろうな……」
 あごに手を当てて黙ってしまった彼に、なおは先ほどの哲知の様子を思い出す。
 確かにあのときの哲知はちょっとおかしかった。なおは恐る恐る声をかける。
「さっきのてっち、こう言っちゃなんですけど……」
「あれは取り憑かれてるな」
 鏡矢はうなずいて衝撃的な一言を告げる。
「恋の病に」
「恋……!?」
 なおは枝豆をとりこぼして驚く。
 そうしたら、鏡矢は同意するように声を荒らげた。
「なっ、お前もおかしいって思うだろ?」
「え、いや、その、まあ」
 男同士も江戸では恋人同士になるって聞きますしね。適当な知識を披露しかけたなおだったが、鏡矢は問答無用で続ける。
「てっちは霊力も高いし、ちゃんと山で修行も積んできた、立派な住職の跡取りなのにさ。何を間違って眉無しがらっぱちに惚れるんだ?」
 あ、自分でも見た目が眉無しがらっぱちなのは自覚があったのか。なおは遠い目をしながらうなずいていいのか迷う。
 鏡矢は顔を覆って深いため息をつく。
「もっと綺麗な姉ちゃんもいいとこの坊ちゃんもいるだろうよ。俺はつくづく、あいつの将来が心配でならねぇ」
 なおはそんな鏡矢を見て、この人けっこういい人だなと思っていた。
 とはいえ、なおは念のため質問を投げかける。
「……あの、いい話だと納得する前に一つ質問が」
「ん?」
「妖怪のみなさんは、「坊ちゃん」とも縁を結ぶんですね」
「うん、いいな。男でも女でも、縁があれば」
 鏡矢はなおの問いかけに全肯定してみせた。
「こっちじゃ、そんな細かい違いはこだわらねぇぜ」
「なるほど」
 妖怪はいろんなところで寛容である。なおの田舎くさく、かつみみっちい固定観念など要らないらしかった。
 鏡矢は子どもにさとすように言う。
「お前、考えてみろよ。たとえばとんでもねぇべっぴんが男だったとして……」
「鏡矢さん?」
 ふいに音楽のように美しい声が飛び込んできた。
 なおはぴんと背筋を伸ばして、鏡矢など縁側から飛び下りて立ち上がった。
 見上げると庭先の植木からとんでもないべっぴんさん、美鶴が顔をのぞかせたところだった。
 美鶴は庭に入って来て鏡矢に声をかける。
「ああ、よかった。鏡矢さんがご在宅で」
「お、俺に用ですか? やだなぁ、美鶴の坊ちゃん。俺にどうしろって言うんですか」
 鏡矢は近づいて来た美鶴に笑み崩れて頭をかく。
 ちなみにこれは、鏡矢がおかしいわけではない。なおも何度か見たが、美鶴に会うと老若男女、もちろん人妖問わずみんな顔がとろける。例外は、なおの知る限りでは彦丸と哲知だけだ。
 鏡矢は全面的に歓迎の笑顔で美鶴を手招く。
「さあさあ座ってくださいな。いい玉露があるんで出しましょう。あ、紫摩屋(しまや)の甘納豆も持ってきますよ」
 ここまでなおと扱いが違うと、なおは怒る気も失せて感動した。麦茶が玉露に、枝豆が老舗の高級和菓子に変身している。
 美鶴は和やかに言葉をかけてくる。
「ありがとうございます。でもよければそこの麦茶と枝豆を頂けますか? おいしそうですもんね」
「おお、もちろんいくらでも。おっと、舶来の陶磁器を持ってきましょうな」
 美鶴がちょっと首を傾げてにっこりしただけで、強面の兄さんもさえない女子もにっこりである。
 ……うん、自分もわりと男か女かわかんない性格してるから、人のことをどうこう言えないなぁとなおは思った。
 美鶴はなおの隣にやって来てほほえむ。
「直助も来てたんだ。鏡矢さん、頼りになるお兄さんだよね」
「見かけほど怖くありませんしね」
 二人でうなずきあっていると、鏡矢がおそらく彼の家で一番上等と思われる陶磁器の器に麦茶を注いで持ってやって来た。
 美鶴はお礼を言ってそれを受け取ると、ひとごこちついて鏡矢と世間話を始める。
 なおは麦茶と枝豆を手にしていようと、眉無しがらっぱちとさえない男児を左右に置いても、如来さまのところだけ絵画のように綺麗だと思ってうなずいていた。
 ふと美鶴は空を仰いで言う。
「もうすぐ縁結び祭りの解禁日ですね」
 なおもおそらく鏡矢も、自分たちが背景で全然構わなかったが、美鶴が顔を引き締めたのでつと振り向く。
「鏡矢さん、今一度お願いします。どうか鏡矢さんも、人間と妖怪の縁に一役買って頂けませんか?」
「お、おっと……」
 美鶴は鏡矢の手を取って熱っぽく告げる。
 鏡矢は耳まで真っ赤になって全肯定しかけたが、なんとか美鶴の手を外して縁側をずり下がった。
「いやいや、それは……いくら坊ちゃんの頼みでも、勘弁してくださいな」
 鏡矢は顔を苦しそうに歪めて頬をかく。
「俺はこっちとあっちの縁結びには反対なんです。……お互い、分というものがあるでしょう?」
 鏡矢が言った「分」という言葉を、なおは妖怪に関わるようになってからよく耳にした。
 分をわきまえよとか、相手の本分を侵しちゃいかんとか、妖怪は繰り返し口にする。
 鏡矢は困り果てたように美鶴に言う。
「分をわきまえない結びつきってのは、災いを招きますんで。俺は遠慮させてもらえませんかね」
 なおは、縁結び祭りに多くの妖怪は乗り気だが、反対の立場の者もそれなりにいると聞いていた。
 けれど世話焼きで初対面のなおにも親切にしてくれた鏡矢も反対だと聞くと、ちょっと意外な気持ちもしていた。
 だから前々から鏡矢に親しんでいた美鶴はもっと複雑な心境かもしれないと思って、なおは心配そうに美鶴を見る。
 美鶴はしょんぼりとしてうなずく。
「……ごめんなさい、しつこくして」
 鏡矢は慌ててなだめるように言う。
「とんでもない。坊ちゃんに誘われるなんて役者冥利に尽きますぜ」
 鏡矢は頬をかいて苦笑してみせた。
「俺はちょいと年食った妖怪だもんで、新しい話に乗れねぇだけなんです。坊ちゃんがこれだけ一生懸命やってんだ。うまくいってほしいと思ってますよ」
 ぽんぽんと美鶴の頭を叩いて、鏡矢は優しい目をする。
「俺は、坊ちゃんみたいに俺たちのことが好きな人間が時々来てくれて、一緒に茶が飲めれば……それで十分だって思うだけなんですがね」
 なおは鏡矢の言うこともそのとおりのように思った。
 縁結びって必要かな。それってはしゃいでどんどんすること?
 なおは男ばかりの村で育って、女より男に親しんできた。母はなおが恋愛事に興味がないのを心配していたけど、なおはその生活が心地よかった。
 無理に縁を結ばなくても、自分を好きなひとと時々楽しくお茶が飲めればいい。なおもそういう考え方を持っている。
「きっと俺は恵まれてるんでしょうなぁ。縁に困っていないんです」
 鏡矢が何気なく言った一言を、なおもぼんやりと心に思ったのだった。



 縁結び祭りの解禁日の前日、なおは家で夕涼みをしている美鶴をみかけた。
 美鶴は湯上りだと浴衣になる。長い黒髪をほどいて垂らし、中庭の縁側で裸足をぶらぶらさせているところなんて卒倒ものの色香だから、なおはなるべく見ないようにしている。
 でも美鶴が声をかけてくれるのを実は待っていて、その日はありがたいことにそれがあった。
「ね、直助。蛍を見に行かない?」
「はい、お供します」
 そう言われたなら、なおは一も二もなく直行決定だ。
 ただ大体そういうときは余計な御仁も控えていて、彦丸が廊下から顔を出して言う。
「私も行こうかな」
「お前は来なくていい」
 美鶴は冷たく返したが、彦丸は軽く笑い返す。
「だめだよ。こんな夜遅くに美鶴を一人で外にやるわけないじゃないか」
「……直助、行こ」
 美鶴はぷいと彦丸から顔を背けてなおを呼んだ。
 なおが後ろをついていくと、美鶴は家の入口から右に曲がった廊下を進んで……ふいになおの手をつかむ。
「わぁ」
 びっくりしてなおが身を引く間もなく、カランと世界が反転する衝撃がやって来る。
 そこは曲がりくねったけもの道だった。四角の色とりどりの石が地面にたくさんはめこまれて、なんだか迷路みたいだった。
 美鶴は驚いた様子のなおにそっと教えてくれる。
「家の横には霊道、えっと、幽霊の通り道があるんだ。近道なんだよ」
「そうなんですか」
 幽霊と聞いてどきっとしたが、美鶴の表情が明るいことになおは安心する。彼にとってはよく通る道らしい。
 なおは顔が火照って視線をさまよわせる。
「あ、あの……」
「うん?」
「手……」
 美鶴は草むらをなおの手を取ったまま歩いていく。その手は柔らかくて温かく、包み込むような優しい力加減だった。
 美鶴は困ったように微笑んで言う。
「ああ、ごめんね。直助、もうそんな子どもじゃないか」
 美鶴は手を離してしまって、なおはとっさに自分の言葉を後悔した。でも次つかまれたら今度こそ鼻血を噴くと思ってあきらめる。
 彦丸はそれを面白そうに見ながら言った。
「美鶴は甘えん坊なんだから。ほら、私が手を引いてあげよう」
「僕もそんな子どもじゃない」
 手を差し伸べた彦丸に、美鶴はぶすっとしてそっぽを向いた。
 なおたちは曲がりくねった道を少し歩いて、すぐに見覚えのある道に出た。たんぼの脇の農道から、淡い光に満ちた用水路を眺める。
 美鶴はうちわをあおいで蛍を呼ぶ。
「こっちの水は甘いよー」
 美鶴の目がきらきら輝いている。美鶴にいっぱい寄ってくる蛍の気持ちがなおはよくわかった。
 青い夜に浮かぶ蛍の光に包まれて、なおは少し里のことを思い出した。里でもこの季節は蛍が待っていた。
 でもなおにとって里というと真っ先に浮かぶのが、今は里にいないひとのことだ。
 母さんはどうしているのかな。嫁ぎ先でいじめられたりしてないかなと、思いを馳せていた。
 ふと美鶴が顔を上げる。
 なおは目を見張る。……水路の水面を、「終縁」のお面をつけた住職が渡っていた。
 美鶴はなおと違って、水面を滑るという超人的行動におびえることはなかった。気楽に彼に声をかける。
「ああ、勇雄(いさお)さん、お久しぶりです……あ!」
 本名勇雄は、びくっとして水面で転ぶ。そのままぶくぶくと水に沈みそうになった。
 けれど美鶴やなおが動く前に、袖をひらめかせて彦丸が跳躍していた。
「やれやれ」
 彦丸はまるで水面の葉っぱを拾うように勇雄の袖をつかんで救出する。
 彦丸はそのまま一跳びで勇雄をこちらの岸に連れてきた。
 彦丸は岸辺に下ろした勇雄に言う。
「そろそろ潮時なんじゃないかい、勇雄。だいぶ意識が濁ってるんだろう?」
 彦丸は珍しくも神様じみた忠告を続ける。
「その体は不安定すぎるんだ。君はもう次に進むべきだよ」
 次と聞いて、勇雄は首を横に振った。
「少しだけ……もう少しだけ待ってください」
 勇雄は懇願するように言った。
「哲知が跡取りなんて不安なんです。せめてあれが身を固めるまでは」
「君、息子の時も同じこと言ってたそうじゃないか。哲知の縁結びが終わったら今度はその子ども、次は孫って、永遠に続くよ」
「でも……」
 呆れ口調の彦丸に、勇雄は何か言いかける。
「あれ? えーと」
 でも言うはずだったことを忘れたようで、少し黙ってから口を開く。
「まだ四十里の壁を越えていないので……」
「君は何に挑んでいるんだい」
「それと、明日は服部家でごぼうの安売りが……」
「確認するけど、本当に安売りが終わったら未練はないんだね?」
「うう……」
 ぼそぼそと内気そうに呟いて、勇雄は首を横に振る。
「……用事を思い出したのでこれで失礼します」
 勇雄は踵を返すと、猛烈な速さで霊道に消えて行った。
 その後ろ姿を彦丸はじっとみつめていた。そんな彦丸に、美鶴は不満げに言う。
「そっとしておいてあげればいいじゃないか。勇雄さんは、誰に迷惑をかけているわけでもないし」
 彦丸は狐目で美鶴を見やる。
 彦丸は淡々と言葉を告げた。
「勇雄は長くこの世に留まりすぎた。もう黄泉の国へは行けない」
「えっ、じゃあどうするの?」
 なおが思わず声を上げると、彦丸はあっさりと答える。
「妖怪のいるあっち側に定着するか、消えるか。けどこれ以上長くここにいたら、あっち側にも行けなくなる」
「じゃ、消える……」
「それが時間切れというものだからね」
 彦丸の声に悲しみはなかった。いつもみたいな楽しげな様子でもなかったが、なおには冷たくも見えた。
 なおは心配になって彦丸にたずねる。
「な、なんとか未練を断ってどこかへ行かせてやれないの?」
 彦丸が何か言う前に、美鶴がつぶやくように告げた。
「……それが彼の道かは、彼次第だろうね」
 美鶴はうつむいて黙りこくると、さっと先に歩いていった。
 なおも歩き出そうとして、彦丸に声をかけられる。
「さて、なおも次の舞台に上がる準備はできたかい?」
 なおはため息をついて、悔しいが自分もそろそろ奉公の時間切れなのだと思った。
 なおは少し考えて続ける。
「いろいろ当たってみたけど、ここからつながってる舞台に行ってみたいとは思ってる」
「ふむ」
 彦丸は悠々とうなずいて、横目でなおを見る。
「次の舞台は、けっこうきついと思うよ。なおはまだ妖怪の恐ろしさを知らないだろう?」
 彦丸はくっと笑って袖をひらめかせると、軽やかに跳躍した。
「でも、妖怪の別の一面を知るのもいいことかな。君は神使になるんだから」
 彦丸はそう言って、一跳びで美鶴に追いついていった。
 蛍はまたたいては、ふわりと飛び立つ。留まることを知らず、短い生を飛び回る。
 ……僕だってと思いながら、なおは二人の方に向かって駆けだした。
 縁結び祭りは七月の半ばから始まった。
 あちら側で人口が密集している妖怪たちは、こちら側に働きに出たり嫁や婿を取りたい。一方でこちら側の稲香町は若い人がみな江戸に行ってしまうので、やっぱり働き手や結婚相手が欲しい。
 まずは妖怪と人間の行き来を活発にしようということで、縁結び祭りが考えられたのだとなおは聞いた。
 今回の祭りの主なところは、妖怪の側がこちら側の人間を受け入れてもてなす観光や宿泊体験が企画されている。
 なおはお盆を片手に席を回りながら声を上げる。
「こんぺいとうをご注文のお客様は?」
 なおは妖怪たちの申請の門番が終わったので、縁結び祭り要員に割り振られた。
 とはいえ新米の身なので、もっぱら飲食店の給仕や宿泊案内のお手伝いなんかをしている。
 人間と妖怪のみなさんの会話を邪魔しないように、ただ困っていたら手助けをするよう言いつけられている。
 でもなおの手助けはあまり必要ない。妖怪たちは人間が困っていたら寄ってたかって助けにかかる。
「こんぺいとうはお初ちゃんだよ」
「かわいい注文だなぁ」
 まあ、縁結びの基本は要するにお見合いなのだ。妖怪たちは口々に話題を振る。
「お初ちゃんはどこから来たの?」
「えと、ここから東の山を二つ越えてね……」
 水の中の月が覗ける湖のほとり辺りで和菓子片手に、妖怪と人間が入り混じって和気あいあいと歓談している。
 妖怪側の参加者は耳がついていたり尻尾がついていたり、はたまた半分以上動物の体だったりするのだが、意外と人間側は気にしない。
「早く稲香町に住みたいわ。妖怪のみんなと堂々と暮らせるところがあるなんて知らなかった」
 なおが知らなかっただけで、妖怪に親しんでいる人間は世の中にたくさんいるらしい。田中家のおばちゃんたちがどういう手を使ってか、そういった人間たちをかき集めてきたらしい。
 妖怪の一人はもぞもぞと恥ずかしそうに切り出す。
「じゃあその時はぜひ僕の、お、お嫁さんに」
「まあまあ。こんなおばあさんに若い男の子はもったいないわよ」
 一方で妖怪たちは、稲香町に人間の嫁や婿が来てくれるのを切望している。ついでに彼らは老若男女をあまり構わないので、おばあさんやおじいさんでも平気で口説く。
 なおが給仕をしながら遠い目をしていたら、店主のおじさんから声をかけられた。
「坊主、こっちは手が足りてるから今日は帰っていいぞ」
「あ、いや。まだ勤務時間ですので」
「いいっていいって。目が死んでるだろ? 田中家の人は大変だねぇ」
 ついでに妖怪の皆さんは田中家の人間にいたく好意的である。
 店主のおじさんはしみじみと言う。
「田中家の外回りが巡回してくれるようになってから、こっちもずいぶん平和になったからねぇ」
 彼らはたまに、田中家の「外回り」について口にする。その業務内容は未だに不明だが、妖怪の世界に深くかかわるものらしい。
 そんなわけで、なおは門番の仕事をしていた頃よりずっと自由時間があった。こちら側とつながる山奥の道まで、あちら側の世界をぶらぶらと散策する。
 妖怪の住むあちら側というのは、大物妖怪の家を中心に城下町のようにして栄えている。大物妖怪というのはなおたちの世界で祀られている者、別名社持ち(やしろもち)で、神様を自称できる者たちだ。
 ただ、彼らは照れ屋なので神様と呼ばれるのは恥ずかしいらしく、地名や家の名前で呼んでもらうとありがたいようだ。
 なおはその日、ある店の前で立ち止まった。
「あ、ここが紫摩屋なんだ」
 なんとなくあちら側を散策していたら、あちら側で大人気の老舗和菓子屋を発見した。
 紫摩屋というのも、社持ちの名家らしい。なおも美鶴がお土産にくれたので味見させてもらったが、一粒で夢心地になる甘納豆だった。
 格子窓から覗き込んだ店内は、至るところに蝶の折り紙が散りばめられていてとってもおしゃれだった。
「高いんだろうなー……でも欲しー……」
 店先でうろうろとしていると、売り子と目が合った。
 桜色の振袖を着た可憐な女の子で、なおににっこりと笑いかける。
 つい笑い返してしまって、なおは吸い寄せられるように店の戸に手をかける。
 次の瞬間、声が割って入った。
「待て、坊主」
「ひぃ!」
 視界にもいっぱいに眉無しがらっぱちが割り込んできた。なおはその切り替えに絶望感を味わいつつ、ぐいと肩を引っ張られて脇道まで連れて行かれる。
 一区画ほど歩いてから、鏡矢は振り向いてなおの額を指ではじいて言う。
「目ぇ、覚めたか?」
「覚めたくありませんでした」
 なおは目を逸らしてぼそぼそと文句をつらねる。
「なんで止めるんですか。僕に甘納豆も食うなと?」
「豆は食っても食われるな」
「は?」
 なおが首を傾げると、鏡矢は少し考えて難しい顔をする。
「なんて言えばいいんだろうな、あっちの住人に説明するには。あー……俺、学がねぇからわかんねぇ」
 うんうんとうなっている鏡矢を見ていると、なおは不機嫌が収まってくるのと同時に反省心が湧いてくる。
 なおはさっきの売り子の女の子の色香を思い出して言った。
「えと、もしかして危ない店でした?」
 鏡矢は微妙な顔をしながらうなずいた。
「まあ……そうだ」
 彼は言いづらそうに言葉を続ける。
「こっちってのはそういう境界があいまいなんでな。坊主みたいなひよっこじゃ、ころっと昇天させちまうんだよ」
 なおはなるほどと思う。確かにこっちのお店は平気で芸伎さんが寄って来る。門番の仕事でも一番の難点がそこだったのだ。
 なおは慌ててうなずいた。
「じゃ、じゃああの店はやめときます」
 なおもせっかく苦労して手に入れた給金を絞り取られたくはない。なおがそう言うと、鏡矢はあからさまにほっとした顔をした。
「よっしゃ。ま、もっと安全に昇天できる方法ならいくらでも教えてやるからさ」
「なんですか、もー。天下の公道でする話じゃないでしょ」
 鏡矢となおは、気安い冗談で笑いあいながらその場を立ち去った。
 歩きながらなおは鏡矢にたずねる。
「ところで、鏡矢さんはどちらへ?」
 紫摩屋が見えなくなった辺りで言ったなおに、鏡矢は口を開く。
「ああ、俺も目的地は紫摩屋だったんだ。でも豆を買うんじゃなくて、美鶴の坊ちゃんを探しに行ったんだがな」
「立花さんが?」
 なおは美鶴の生活を思い浮かべて、彼がいかがわしい行為に及ぶなんてありえないと首を横に振る。
「まさか。僕じゃあるまいし、立花さんがなんで豆を買いに行くんですか」
「いいだろ、別に。豆くらい買っても」
「そうじゃなくて」
 わからない人だなとなおは横目でにらんだ。
 けれど鏡矢は身を屈めてひそひそ声で告げる。
「実は、紫摩屋の若旦那は美鶴の坊ちゃんに相当のぼせてるってぇ話があってな」
 なおはふと首をひねって、眉をひそめながらたずねた。
「みんなのぼせますよ?」
「そりゃ誰でも一度はな。でも坊ちゃんは比良神のもんだぞ」
 そこを断言してしまうのかとなおが思っていたら、鏡矢は遠い目をして薄い笑みを浮かべる。
「対抗馬を虫けらのごとく消していった比良神……ああいうのを鬼神って言うんだろうな」
 尊敬なのか恐怖なのかよくわからない感情を目に浮かべての言葉に、なおは黙る。
 それから少し考えて、なおは先日の出来事を思い出す。
 なおはこの間、美鶴が大量の甘納豆の処理に困ってるのを見た。彦丸が帰る前になくしたいと言っていて、家中の妖怪総動員で甘納豆を食べた。
 なおは間延びした声で納得する。
「あー……」
 あれは食いしん坊の彦丸への嫌がらせではなく、ばれるとまずいという意味だったのだ。
 鏡矢はなおに伝わったのがわかったのか、うなずいて続ける。
「でも今は縁結び祭りの最中だろ? こっちで一番の後援者の紫摩屋をむげに扱ったら、この祭りはつぶれちまう」
「社持ちの紫摩屋はすごい力を持ってるらしいですもんね。……あ」
 なおははっと思い当って言う。
「ま、まさか権力を傘にして立花さんの帯をくるくると解くようなことを……?」
 なおの脳裏にお代官様と女中の図が浮かんできて、思わず青ざめていた。
 だが鏡矢の表情はあっけらかんとしていて、彼は軽く否定する。
「いや、それはねぇけど」
「なんで断言できるんですか」
 なおにとっては、ひらっと手を振る彼が信じられない。そんななおをぞんざいにあしらって、鏡矢は言葉を続ける。
「まあそれはそれとして。美鶴の坊ちゃんが間に挟まれて悩んでねぇか気になってな」
 無い眉の辺りに心配を浮かべて、鏡矢は黙った。
 一瞬下りた沈黙の後、なおは問いかけた。
「鏡矢さんは縁結び祭りに反対の立場なんですよね。いっそこの機に祭りがつぶれたらとは思わないんですか?」
「ばーか。そんなことになったら坊ちゃんが泣くだろ」
 なおのささやかな疑問など一刀両断にされた。なおはぱちりとまばたきをする。
「そういうもんですかね」
「おうよ」
 鏡矢は優しい声でなおにたずねる。
「お前、大切な人に泣いてほしいか?」
 一瞬、なおは呼吸を止める。
 蘇るのは母の顔だった。いつもうっとうしいくらいになおを心配して、あれこれと世話を焼いて、不安そうに去って行った人の姿が目の前を通り過ぎる。
 嫌いだと思っていた。離れたいと思って自立を目指した。今でもそのことに後悔はしてないが、母を思い出すのは変わらない。
「坊ちゃんに会ったら言っといてくれよ」
 はっと我に返ると、鏡矢が真剣なまなざしでなおを見下ろしていた。
「自分を大事にしてくれって」
「……わかりました」
 なおはうなずいて、確かに言伝を預かった。
 その日、なおは早足でサイコロ屋敷まで帰ったが、美鶴はなかなか帰宅しなかった。
 自分と違って祭りの中心にいるようだし遅くなるのも仕方ないとは思ったが、それにしても連日遅い。気がかりで、なおはいろりの前でうたたねをしながら待っていた。
 日付が変わる頃になって、ようやく美鶴は帰ってきた。
「ただいま……」
「あ、おかえりなさい」
 なおははっとうたたねから目を覚まして立ち上がる。
「お茶でも飲みませんか?」
「うん、いただこうかな」
 だいぶ疲れた感じだったのでなおが気を遣うと、美鶴はうなずいていろりの前まで来た。
 なおはお茶を飲みながら鏡矢からの言伝を伝える。
「鏡矢さんが心配してましたよ。自分を大事にしてくれって」
「そっか、鏡矢さんに心配かけてたんだ」
 美鶴は申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。無理はしてないよ。僕、見た目より丈夫なんだ」
「ならいいんですけど」
 美鶴はめったに愚痴も言わないので、なおは心配だった。
 カラリと玄関の戸が開いて彦丸が入ってくる。
「遅かったね、美鶴」
「お前に言われたくない」
 途端に険悪な眼差しになる美鶴に、彦丸は袖を流しながらゆったりと近づく。
 歩いて、屈んで……ん?
 なおは目を覆って声を上げた。
「こ、こらぁー!」
 鼻が触れ合うくらいに近くまで顔を寄せた時は、ちょっと危ない想像をしてしまった。
 だがなおが指の隙間から恐る恐る目を覗かせると、彦丸は触れることはないまま眉を寄せて思案していた。
 なおは首を傾げて問う。
「何してるの?」
「甘い匂いがする」
 彦丸は狐目を細めて言った。美鶴は不機嫌そうに彦丸の肩を押しやって言う。
「お菓子の試食会があったから。それより離れろよ。暑苦しい」
 彦丸はじっと美鶴を眺める。奇妙な沈黙が流れた。
 ふいに彦丸は美鶴のほっぺをつかむと、にやっと笑う。
「お菓子ばかり食べてると虫歯になっちゃうよ?」
「何の冗談だ!」
 子ども扱いされたと美鶴が目を怒らせると、彦丸は美鶴の頭をひとなでした。
「よしよし、いい子。おやすみ」
 彦丸は笑いながら自室に引き上げていく。
 美鶴もぱっと立ち上がってなおに言う。
「ごめん、もう寝るね!」
 美鶴は台所へと湯呑みを洗いにいったようだった。
 なおは困ったなぁと思って首をひねる。
 どう見ても美鶴は何か隠している。けど美鶴はそれを悟られたくないらしい。
 なおは美鶴に問い詰めるわけにもいかず、その場でうなっていたのだった。




 それからの毎日は飛ぶように過ぎていって、いよいよ縁結び祭りは最終日になった。
 最後ともなればさすがに忙しい。猫の手も借りたい、もとい新人の手でも欲しいという感じで、なおは朝からあっちこっちに駆り出された。
 妖怪のみなさんは、今日も気さくになおに話しかける。
「新人さんは、当たってくだける方?」
「いや、僕は飛び込んで滑る方ですね」
 なおはというと、最終日は給仕に力仕事、道案内に恋愛相談まで、わけがわからないくらいに何でもやっていた。
 でも最終日ならではの、妖怪のみなさんの関心事が一つあった。
「ねえねえ、今日火の花が上がるんだって?」
 縁結び祭りの妖怪側の参加者だと、十中八九この話題を振ってくる。
 なおは宣伝担当に徹するつもりで、同じ言葉を丁寧に返す。
「ええ、今日の閉門の鐘の刻きっかり。一発だけなので、見晴らしのいいところにいて見逃さないでくださいね」
 最終日の最後には花火が上がる。江戸のように盛大にやりたいところだが、金子が足りないらしく一発だけだと聞いていた。
 妖怪たちははしゃいで笑いながら言う。
「楽しみだなぁ。待ちきれない」
「どこで見ようねー。屋根の上とかいいかなぁ」
 なおは何度も妖怪に説明する側だったものの、実は不思議だった。
 ようやく取れた休憩時間、田中園のお茶を飲みながら哲知にたずねる。
「……花火ってなんだろ?」
 そう、なおは花火を見たことがない。食べ物なのか催しものなのか、実はそれすらも知らない。
 哲知はなおの素朴な疑問に明るく返した。
「そっか、直助は見たことないんだ。じゃあ見てのお楽しみにしよ。こっちは社持ちが火を管理してるから、美鶴さんがあちこち駆け回ってようやく実現するんだよ」
「へぇ、立花さんそんな仕事もしてたんだ」
 なおは感心してここ一月を思い出す。
 なおもがんばって仕事をしたつもりだが、普通に夕ご飯までにサイコロ屋敷に帰っていた。でも美鶴は、後半ほとんど寝るためだけに帰ってきているような状態だった。
 僕はそんなに働いてるわけじゃないよ。美鶴が苦笑しながら教えてくれたことがある。
 妖怪のみんなはもてなすのが好きで、僕は断るのが苦手だから。にこにこしてごはん食べてると、遅くなっちゃうんだ。
 美鶴はそう笑っていたが、なおの心配は消えなかった。それは妖怪の好意の形に違いないが、連日宴会では美鶴が疲れてしまう。
 そのときだった。心の隙間に入り込んだ不安が形になったように寒気がした。
「う……わ」
 なおはめまいがして尻餅をつく。
「え?」
 閉じていたふたが開いて急激に冷気が流れ込んだような、そんな感じ。なおはうろたえて辺りを見回した。
 辺りに青い冷気が満ちて、何もない虚空にぱっくりと穴が開く。
「な、なに、てっち」
「落ち着いて。幽霊が来るだけだよ」
 哲知は落ち着いているが、平凡な家に生まれたなおは幽霊と聞くとぞわっとする。
 なおがうろたえているうちに、穴は道に変わっていた。美鶴と通った霊道がこんな感じだったと、ちょっとなおが事態に追いついて来たときだった。
 風が吹き抜けて、霊道から現れたのは勇雄だった。彼は息せききって叫ぶ。
「哲知!」
 勇雄はすぐさま哲知に駆け寄って、大急ぎで哲知にまくしたてた。
「すぐ来てくれ! 美鶴君が危ない!」
「へっ?」
 変な声を上げたのはなおだけで、哲知は不機嫌な目で勇雄を見やって、ぷいと顔を背けた。
 なおは慌てて哲知に追いすがる。
「え、えっ。流すとこじゃないよ、哲知。くわしく聞かなきゃ」
 だが哲知はなおを置いて歩き去ろうとする。なおが戸惑っている内に、勇雄が慌てて哲知の前に回り込んだ。
 勇雄は声を切らして言う。
「今度は本当なんだ。美鶴君が紫摩屋に……」
「今度は?」
 哲知はいつもの穏やかさとは一変して冷えた声を出す。
「次こそはと何度言ったと思います? 信用しろと言う方が無理です」
 哲知は一度勇雄をにらむと、彼に向かってまっすぐ歩いた。
 哲知は勇雄が幽霊だと証明するようにぶつかることなく通り抜けると、霊道に姿を消す。 
 後には白々しいような土埃が舞っていた。なおは哲知と勇雄を見比べて、どうしたらと途方に暮れる。
 やがて勇雄は小さくつぶやいた。
「……そうだよな。ごめん」
 肩を落としてやはり霊道に姿を消した勇雄を見て、なおは一瞬だけ迷う。
 迷ったものの、意を決してなおは顔を上げた。
「いや、そこはやっぱ気になるって!」
 とっさになおは霊道に飛び込む。考える時間がもったいなくて先に体が動いた。
 そこは薄闇が続いていて、哲知も勇雄の姿ももう見当たらない。なおは手探りで歩いたが、まっすぐ進むこともできないままに滑って転ぶ。
「痛ぁ! 凍ってるよ!」
 霊道を歩くには修行が必要とはよく聞くが、そんな暇はない。なおはしばらく歩こうとはしたものの、予想以上にそれは難しかった。
 こうなったら早く普通の道に出なければ。なおは仕方なく、ちらりと見えた見慣れた景色を頼りに脇に抜けた。
「よし……!」
 霊道を出たところは劇場街だった。演劇や舞台があちこちで上演される中心街だ。
 土地勘が戻って安心したところで、なおはごくんと息を呑む。
「……いやよくない! 仕事中だった!」
 霊道はどこにつながっているかわからないのが災いして、ずいぶん遠くに出てしまった。なおの今日の仕事場は花火の打ち上げ会場である河原なのに、劇場街をふらついていたら職務放棄になってしまう。
 なおは冷や汗を流したが、顔を引き締める。
「でも、もう来ちゃったし」
 美鶴の身の安全には代えられない。なおは開き直ることにした。
 勇雄は紫摩屋と言っていた。でも紫摩屋というのは危ない店だと聞いている。
 なおはここから一番近いところに住む妖怪に助けを求めようと、町屋に駆けこんだ。
「鏡矢さん!」
 なおがこっち側で一番頼りにしている妖怪、鏡矢は幸い家にいてくれた。
 鏡矢は稽古の合間と思しき様子で、庭先でなおをみとめて顔を上げる。
「どうした、坊主。いつもに増して情けねぇ面して」
 肩にひっかけた手ぬぐいを下ろしながら、鏡矢は問いかける。
 なおはぜえぜえと息を切らしながら声を上げた。
「立花さんが危ないんです!」
 鏡矢はすぐさま声を低くして眉を寄せた。
「あ? おい、その話、くわしく聞かせてもらおうじゃねぇか」
 鏡矢はしばらくなおが話すままに任せた。
 勇雄が哲知に助けを求めたこと、哲知がそれを無視しようとしたこと、そのくだりで、鏡矢はくしゃりと顔を歪める。
「てっちの奴、縁切り寺だからって家族の縁まで切っちまう気かよ」
 鏡矢は悲しそうにつぶやいて頭をかく。
「あいつ、勇雄がこの世をうろついてるせいで、ばあちゃんの縁組がずっとなくなってきたって信じてるんだよなぁ」
 鏡矢はもどかしそうに口元を歪めて、首を横に振る。
「その縁を元通りにするには手遅れなのかもしれねぇが、今は美鶴の坊ちゃんの無事がかかってんのに」
 鏡矢は息をついて思案したようだった。なおはすがるように言葉を続ける。
「美鶴さんは紫摩屋だって、勇雄さんが言ってました」
 鏡矢はうなって困り顔になる。
「あそこに出入りできるのは社持ちでも少ないんだよな。一役者の俺なんかじゃ絶対無理だ」
 なおも考えて、ふと思いついたことを言った。
「神様……そうだ、彦丸なら行けるんじゃないですか?」
 こちら側で名の知れた彦丸ならと思ったが、鏡矢はびっくりしたように手を振った。
「比良神っ!? やべぇって、比良神なんかに知られたら。紫摩屋どころじゃなく、町一区画くらい吹っ飛んじまうぜ」
「彦丸って、そんな過激なことしますか?」
 なおは何度か鏡矢から彦丸のことを聞いたが、なぜ妖怪たちが彦丸を恐れるのかいまいちわからない。彦丸はひょうひょうとしていて、怒ったところなど見たこともない。
 鏡矢は頭を抱えてうなる。
「とにかく、そりゃ駄目だ。でも美鶴の坊ちゃんが家に帰らなかったら、今度こそ比良神が探しに行っちまうしな」
 なおも一緒になってうなったが、妙案は思いつかなかった。
 美鶴に危機が迫っているかもしれないのに、ここで手をこまねいて見ていることしかできないなんて。焦りが空回りしているのは自分でもわかっていたが、どうしようもなかった。
 なおはあまりに策がなかったので、やけっぱちになって言った。
「……もういっそ、忍びこんでから考えてみるのはどうでしょう」
 ところがそれに鏡矢は目をまたたかせて、手を打つ。
「名案だ」
「えっ、今のが?」
 なおがびっくりして聞き返すと、鏡矢は大きくうなずいて言う。
「あっちの世界から迷い込んだことにすりゃいいんだよ。坊主は平々凡々の顔してっから、あの美々しい坊ちゃんに縁の人間だなんて誰も気づかねぇ」
「……すみませんね、平々凡々で」
 何も平凡を二度繰り返さなくてもと、なおは口をへの字にする。
 鏡矢は声を弾ませて言う。
「すねるなよ。今はそれが役に立つんだ。あっちから迷い込んだ人間は社持ちが直接保護するまで放っておくって決まりがある。紫摩屋の旦那に出くわすまで自由に家の中をうろつけるぞ」
「天から平凡な人間が降って来たならしょうがないってことですね」
 なおはふてくされて言ったが、とにかく如来さまが無事ならそれでいい。
「僕はどうしたらいいんですか?」
「そこは俺に任せろ」
 鏡矢は自分の胸を叩いて言う。
「どこかわからない場所に坊主を飛ばすくらいなら俺がしてやれる。もし文句つけられたら、眉無し妖怪に絡まれて迷い込んじまったって言えばいいさ」
 鏡矢は顔を引き締めて、なおの肩を両手でつかむ。
「こんな手助けしかできなくてすまねぇ。やってくれるか?」
 その目に心配がありありと浮かんでいるのを見て、なおは不機嫌を忘れて見返した。
 なおにはもちろん何が起きるのかわからない不安はあるが、一人でないというだけでこんなにも心強い。
 こくっとうなずいたなおに、鏡矢はいきなりなおを肩に担ぐ。
「歯ぁ食いしばれ」
「え、えええ! ちょっ……!」
 鏡矢はふと止まって言う。
「……ん? お前、坊主じゃなくて……」
 鏡矢がなおの体に違和感を持ったようだったので、なおは目をぎゅっと閉じて主張した。
「女子じゃ吹き飛ばしてもらえませんか!」
「や、そんなことねぇけどよ、一応そこは」
「やっちまってください、鏡矢さん! 一思いに!」
 なおの覚悟というか投げやりさに、鏡矢はひととき考えたようだった。
 鏡矢は苦笑して言う。
「強い女子は好きだぜ。……行ってきな、やれるとこまで」
 その瞬間、なおは言葉通り空に吹き飛ばされた。
 ……やっぱちょっとぐらい手加減してくださいって言えばよかったかなぁ。
 なおは目をぎゅっと閉じて落下に備えたのだった。




 飛んできて、紫摩屋。
 どういう仕組みかわからないが、人間があちら側に落ちるときはそれで怪我をすることはないらしい。幸い、なおもぽすんとはまるみたいに畳に着地していて、怪我一つなかった。
 そこは金箔の張られた調度に巨木から彫りこまれた柱、極楽を思わせる天井絵など、とにかく絢爛豪華な御殿だった。
 至るところに折り紙の飾りがつりさげられていて、あちこちに本物の蝶がとまっている辺りもしゃれている。
 なおは立ち上がってそろそろと歩き始めたが、まもなくひとり言をもらした。
「……いいのかな、これで」
 なぜって、全然呼びとめられない。すれ違う使用人らしき妖怪もたくさんいるのだが、いきなり住居侵入している人間に対して、完全に放置状態だ。
 しかし今は先を急ぎたい。美鶴の無事を確認しなければと、なおはぶしつけにあちこち見て回る。
 足が疲れるほど広い屋敷だった。既に二十以上の部屋を謝りながらのぞかせてもらったが、蝶が舞っているだけで美鶴の姿はない。
 居室に客室、厨房に菓子工場、しっかりお宅見学をさせてもらったが、誰も何も言わない。
 なおは意を決して、廊下の向こうから歩いてきた振袖の女子に声をかけた。
「こうなったら……あの、すみません」
 振袖の女の子は見事な笑顔でなおに応じる。
「あら、どうしました? お菓子でも食べます?」
「う」
 不法侵入に良心の呵責を覚えるくらい歓迎されてしまった。
 なおはいきなり美鶴のことを訊きたかったが、さすがにそれを言うと不審がられると思った。遠回しに女子にたずねる。
「え、えと。この家のご主人様はどちらに?」
「まあ、もうあちらへお帰りになるのですか」
 振り袖の女子は口元をおさえて目をうるっとさせる。
「せっかくいらっしゃったのですから、もっとゆっくりしていってくださいませ。どちらでもご案内いたしますよ?」
 繰り返すが、妖怪のみなさんは基本が大盤振る舞いでむやみに好意的である。
 なおは手を合わせて食い下がる。
「いや、そこを何とか。ご主人様の場所が知りたいだけなんです」
 なおの言葉に、振り袖の女の子は思案顔になった。
 妖怪のみなさんは好意的だが、分を超えて手を出すこともない。振袖の女子もそうだった。困り顔だが、なおの言う通りにしてくれた。
「そうですか……あまりお引き留めするのも無礼というもの。わかりました。大旦那様は留守ですから、若旦那様のところまでご案内しましょう」
 おっと、問題の若旦那様か。なおは警戒心が湧いたが、美鶴が一緒にいる可能性も高いとうなずく。
「お願いします」
 虎穴に入らずんば何とかの精神で、なおは覚悟を決めて頭を下げた。
 将軍様が江戸に入った頃からありそうな風情のある廊下を抜けて、母屋らしき場所まで入っていく。そこでひときわ立派な、塵一つ落ちていない畳が敷き詰められた部屋に入った。
 使用人の女子はなおを振り向いて言う。
「こちらでお待ちください。若旦那様を起こして参ります」
 既に夕刻だが、どうやら若旦那は優雅に昼寝中らしい。
 奥の寝室の方へと使用人の女子は向かったが、なかなか戻ってくる気配がない。
 待ちきれないというより多少の好奇心で、なおは立ち上がった。
 なおはそろそろと足を忍ばせて寝室のふすまに耳を当てる。
 その向こうで押し殺した声が聞こえた。
「……大紫(おおむらさき)殿。どうかおとどまりを」
 はっとなおは息を呑む。小声だが、それは美鶴の声だった。
 それに応じたのはあでやかな男の声だった。
「無理を言うな。ここまで来て戻れるとでも?」
 衣擦れの音がして、なおの心臓がどくんと跳ねた。
「かわいい美鶴。私は何としてもそなたを手に入れると言っている」
 ……なんだかただ事じゃなさそうな雰囲気だった。
 というかふすまの向こうは寝室らしい。客の美鶴が寝室に入るその時点で、すでに身の危険のような気がした。
 美鶴の方は冷静な声音で続けて言う。
「何度も申し上げておりますが、僕は大紫殿と結婚するつもりはありません。帰らせてください」
 ところが若旦那もとい大紫は性急にささやいた。
「もう我慢できん」
 その後に美鶴の小さな悲鳴が聞こえた。
 なおは頭から湯気が噴きそうになって、思わずふすまを開け放っていた。
「抜け駆け反対ぁーいっ!」
 しんと一瞬の沈黙が下りる。
 奥の寝室、菖蒲の屏風の傍らに美鶴がいた。その前に木彫りの積み木が崩れている。
 ……積み木? なおは首をひねったが、美鶴と向き合っている男を見て驚く。
 それはびっくりするくらい派手な若い男だった。七色に輝く触角が頭から伸び、角度によって色が変わるくじゃくの羽のような着物をまとって、顔の横には蝶の形をした仮面までつけている。
 なおは胸に迫ってきた思いを叫ぶ。
「その格好はちょっと無い!」
 彦丸といい、どうして腹が立つような美形は変な格好ばかりしているのか。目の周りは隠れているとはいえ、すっと通った鼻梁に色気たっぷりの口元なんて、ずるいくらいに整っていた。
 大紫はむかっとした様子で言い返す。
「は、入る前に声くらいかけよ!」
 母親に勝手に部屋に入られたみたいな反応をするのが、ちょっと残念だ。
 そんな問答をしているうちに、美鶴が頭を押さえてうつむくのが見えた。なおは慌てて美鶴に駆け寄る。
「無事ですか、立花さん!」
 なおが助け起こすと、美鶴は力なくうなずいた。青白い顔色を見て、なおも血の気が引く。
 なおは大紫に食って掛かる。
「立花さんに何をしたんですか!?」
「美鶴?」
 なおの剣幕に、大紫は意外そうな声を上げる。
 大紫は不思議そうに美鶴を覗き込んで顔をしかめた。
「これ、しっかりせよ。具合でも悪いのか?」
 なおは状況がわからなくて、大紫と美鶴を見比べるしかできない。
 するとふすまの外に控えていたらしい先ほどの女子が、慌てて飛び込んできた。
「若旦那様!」
 彼女は困った様子で二人を見比べる。
「申し訳ありません、美鶴さま。若旦那様はご自覚なく生気を奪ってしまわれるのです!」
「生気?」
 なおはその不穏な言葉を聞きとがめて問い返す。
「そ、それって吸われて何とかなるものなんですよね? 昔話みたいにそのまま……」
 生気を吸われてあの世に連れていかれた昔話を思い出して、なおは言葉に詰まる。
 もし美鶴の身に何かあったら。青白い顔をした美鶴を見て、なおが最悪の想像をしたときだった。
 ぱたん……とふすまの一枚が倒れた。
 続いてぱたぱたとどんどん紙細工のように倒れて行って、驚くなおの周りに風が吹き込んでくる。
 豪華な御殿が、まるであっけなく降参していくようだった。気が付けばなおたちは剥き出しの風の中に立っていた。
 ふいに美鶴の半歩先で、竜巻のような風が下りてくる。
「……大紫。美鶴に何をしてくれた」
 竜巻から袖が生えるようにして、黒い狩衣姿の男になった。
 黄金のような長い髪をなびかせて、彦丸は渦から降り立つ。
「美鶴は、私の神使になる者だぞ」
 その表情を見て、なおは息を呑む。彦丸の赤い化粧の施された狐目は限界まで細くなって、そこから凍てつくような眼差しを大紫に向けていた。
 妥協の一切ない、怒りに満ちた目だった。なおはその目が自分に向けられたわけでもないのに腰を抜かして、ぺたんと畳に座る。
「お遊びの時間は終わりだ」
 彦丸が人差し指を大紫に向けると、大紫の仮面は塵のように飛び去る。
 瞬間、大紫は七歳くらいの小さな男の子に変わっていた。七色に輝く触角はそのままだが、光沢のある白い髪は頬で切りそろえられていて、くりくりとした大きな目が愛くるしい。
「ひ……比良神」
 ちびっこ大紫は彦丸をみとめると、その幼い顔立ちを一気に恐怖でひきつらせる。
 それを見て使用人の女子が駆け寄ると、慌てて頭を下げる。
「比良神、お許しを! 若旦那様はまだ幼く力の制御ができないのです。悪気があったわけでは……!」
「だが美鶴を傷つけた」
 懸命に主を庇う使用人に彦丸は振り向きもせず、大紫をひたとにらむ。
「大紫、美鶴と縁を切れ」
 彦丸は断罪するように低い声で告げた。
 彼の周りから白い煙が上がって、渦を巻く。
「今すぐに」
 霧のように辺り一面に立ち込めたそれを感じて、なおはひっと声を上げる。
「冷たっ! 彦丸、霜出てるよ!」
 なおはそう言ったが、霜でないのはわかっていた。触れたところから刃物が刺さるような痛みが走る。使用人はふるふると震えて、大紫は目の端に溜まった涙が凍って固まっていた。
 彦丸は底知れない怒りをこめた声でなお続ける。
「縁を切らないなら私が切り落とすが、それでもいいか」
 彦丸は左手で大紫をつまみあげると、右手の爪を額に突き付ける。
 なおはようやく彦丸が怖いといわれる理由を見た。
 神の怒りは手に負えない。彦丸はなおに絡んでいたときとはまるで別人だ。
 神を侮辱するのは心底恐ろしいものなのだと体で感じた。
 大紫もなおも、立ち込める冷気にただ震えていた。そんなとき、唯一言葉を放った人間がいた。
「……縁は切らない」
 美鶴は薄くまぶたを開いて、よろめきながら半身を起こす。
「友達と一緒にいて悪いことなんてない」
 その言葉に、ぴくりと大紫が動く。
 大紫は不思議そうに問う。
「美鶴が私と遊んでくれたのは、花火の火が欲しかったからではないのかえ?」
 なおは、ん?と首をひねる。大紫はそろそろと言葉を続けた。
「美鶴は縁結び祭りの締めに、社持ちに駆けまわって火を分けてもらっておったじゃろ。でも私が美鶴に、ずっとここにいてほしいと言うから……」
 大紫は彦丸につりさげられたまましょんぼりとする。
 ふいに美鶴は笑って首を横に振った。
「僕は火をもらうためにここにいるわけではないですよ。火ならもう大旦那様に頂いていますから」
「えっ?」
 大紫が驚いて顔を上げると、美鶴は懐に手を入れて言う。
「ほら、ここに」
 美鶴の手のひらにそれは子どものように包まれていた。
 冷気の中にほんのりと浮かび上がる火で、場に小さなぬくもりが戻る。
 美鶴はその火のような温かい微笑みを浮かべて言う。
「結婚だけが縁ではないですよ、大紫殿。僕と大紫殿は、もうずっと長いこと友達ではありませんか?」
 なおは縁結び祭りの最初の説明のときに聞いたことを思い出していた。
 真っ先に縁組を口にしたなおに、縁はそれだけではないと言った美鶴。彼はその言葉のとおり、たくさんの妖怪たちのところを回って、いろんな縁の手助けをしてきたのだろう。
 なおは美鶴の特別になりたいと思ったことはない。だから美鶴の言葉は、もしかしたら大紫には哀しく響いたかもしれない。
「美鶴……」
 けれど大紫は妖怪の多くと同じようで、どこかで人間に甘いらしかった。
 大紫は素直に頭を下げて美鶴に言う。
「そうじゃな、友達じゃ。仲良うしたい思いでそなたの気持ちを踏みにじってはいかん。許してくれ」
 きっとそう言って互いを労わることができる妖怪だから、如来さまも友達になったんだろうなと、なおは思った。
 美鶴はもう一度彦丸に言う。
「大紫殿と縁は切らない。彦丸、手を離してさしあげてくれ」
 彦丸は黙ったまま美鶴をにらんだ。普段は美鶴が怒っても笑って受け流すのに、今は美鶴を食い尽くすような空気をまとっている。
 彦丸は美鶴を見据えて告げる。
「だめだ。有害な妖怪とは縁を切れ」
 いつもの喧嘩と雰囲気が違っていて、なおは焦りながら考えた。
 どうして彦丸が妥協しないのか、それは大紫が生気を吸ってしまって美鶴にとって危険だから。その彦丸の言い分にも一理ある。
 なおはまだ腰が立たないながら、畳を這っていくようにして二人の間に入る。
「ま、待ってください、立花さん。彦丸は心配してるんです」
 なおはわたわたと彦丸の弁解を代わりに口にする。
「僕も心配です。生気を吸われる関係は、やっぱりよくないです」
 一応なおの気持ちも添えて、なおは美鶴に提案した。
「縁は切らなくていいと思いますけど、美鶴さんも、大紫殿が成長するまでちょっと文通でもしてみたらどうですかね?」
「文通……」
 なおは黙りこくった美鶴を見て、ちょっと効果があったことに安心する。
 でもなおの体は先ほどから彦丸の放つ冷気で冷えに冷えていて、今度は懇願の目で彦丸を振り向いた。
「彦丸も、いい加減、し、霜ひっこめてよ。……ひ、ひっこめてください。お願いします」
 なおが歯をガチガチいわせながら頭を下げると、彦丸はようやく目を伏せた。
 なおの行き当たりばったりな頼みは何とか彦丸に届いたらしい。それになおが気づいたのは、張りつめるような寒さが緩んだからだった。
「……あ」
 体が解凍していくような感覚に、なおはようやくほっと息を吐いた。
 彦丸は大紫をつかむ手を離して、少しだけ笑ってみせる。
「まあ許そう。美鶴もちょっと痛い思いをして大人になっただろ?」
 美鶴は気にくわなさそうに目をとがらせる。
「ひっかかるな、その言い方」
「頭も冷えただろうし。……美鶴?」
 彦丸はくすりと笑いかけて美鶴に手を差し伸べる。
 美鶴は今度は無言でその手を取った。
 なんだかんだでこの二人、縁が強いなぁ。なおは二人の恋人説をぼんやりと思い返したが、今はいつもの彦丸に戻ったことに安心した。
 彦丸は美鶴を引いて立たせると、大紫をちらと見る。
「では、大紫。まずは文通から、だよ」
 力のこもった流し目を残して、彦丸は美鶴を連れてあちら側に消えた。
 霜も冷気もなくなって、なおはほっとため息をつく。それは大紫も同じようで、なおとは別の意味で安堵の息を吐いたようだった。
「……気に入らぬ男じゃ」
 大紫はあぐらをかいてむすっとする。七歳児程度の少年がその仕草だと、なおはちょっとほほえましかった。
 なおは一応大紫をよいしょしておくことにする。
「大紫殿も、派手衣装が似合ってはいましたよ」
「大人姿はがんばって背伸びしただけじゃ。かっこよく美鶴と積み木したかったのじゃ」
 なおは鏡矢がそういう意味では心配ないと言っていた理由がわかった。いくら社持ちでも、大紫はまだ子どもなのだった。
 そこでなおは空中にふわふわと浮いている火の玉に気づく。
 一息分考えて、なおは目を見開く。
「……これ、ここにあってよかったっけ!?」
 花火は閉門の鐘と同時に打ち上げると聞いていた。
 なおがはっと窓の外を見ると、すでに日が暮れ始めている。
「立花さーん! 忘れ物!」
 妖怪のみなさんがとても楽しみにしている一発だけの花火だ。縁結び祭りの最後を不発に終わらせるのはあまりにもったいない。
「僕じゃ飛ば……せないし、えと、でも」
 花火の場所が元々のなおの持ち場だから、そこまでの道順は知っている。
 ただ火の玉をどうやって持てばいいかわからずわたわたとしていたら、大紫が立ちあがって火の玉を自分の手に乗せた。
 大紫はなおに手を差し伸べて言う。
「手を貸せ」
 なおが言われるままに両手を差し出すと、大紫はなおの手にほおずきの枝を渡してそこに息を吹きかける。
「あ……」
 なおの手の先で灯った火は赤ん坊のように頼りなげだが、確かなぬくもりを持って輝いていた。
 大紫はなおに託すように告げる。
「手間をかけてすまんな。持って行ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
 なおは火の灯ったほおずきを前に、慌てて頭を下げた。
 そこで大紫ははたと首を傾げる。
「……ところで、そなたは何者じゃ?」
 なおは一瞬黙って、力強くうなずいた。
「後日、手土産を持参してお詫びに参ります」
 今は不法侵入したことを追及されるわけにはいかず、なおは大慌てで紫摩屋を後にしたのだった。



 河原までは走っていけばすぐに着く距離のはずが、予想に反して道が混雑していて進むのも一苦労だった。
 人波もとい妖怪波の中、なおは声を張り上げる。
「うー……すみません、道をあけてくださーい!」
 縁結び祭り最終日というのは予想以上ににぎわっていた。それは喜びたいところだったが、時間までに目的地に到着しなければいけないなおとしては苦しい事情だ。
 妖怪たちはしきりに空を仰いで言う。
「まだかなー、花火」
 妖怪たちのその期待がますますなおを焦らせる。期待に応えようとする気持ちが、かえって進めないもどかしさに拍車をかける。
 どうにか劇場街まで戻ってきて、なおは鏡矢をみつけた。
「鏡矢さん!」
 なおが声を上げると、鏡矢はひらりと跳んでなおの前に降り立つ。
「直助! 無事だったか。美鶴の坊ちゃんは?」
 なおは鏡矢に報告がてら、すがるように言う。
「立花さんは無事でした! でもこれ! 花火の火がまだここにあって……!」
 鏡矢は一瞬顔をしかめたものの、軽い調子で言う。
「河原に持っていけばいいんだろ? 空か霊道を往けばすぐじゃねぇか」
「僕、普通の村出身なのでどっちも無理ですって……わわっ!」
 慌てて説明しようとして、なおはすっころんだ。
 地面に頬をついて、情けなさはここに極まれり。
 なおはちょっと涙がにじんだ。自分は彦丸のようにかっこよく美鶴を救出できない。自分で言って何だが、妖怪の人らが簡単にやってのける空や霊道を往く能力も持ってない。
 なおはよろよろと立ち上がりながら言った。
「鏡矢さん、お願いします。火を河原に届けてください!」
 鏡矢はそんななおを見て、困り果てたようにうなる。
「あ、あのな。俺は縁結び祭りには参加しねぇって言ったろ」
 確かに鏡矢が美鶴にそう言っていたのをなおは知っている。美々しい美鶴でも彼を参加させることはできなかったのだから、さえない女子に過ぎないなおの頼みを簡単に聞いてくれるとは思えない。
「だって、みんな楽しみにしてるんですよ……」
 なおがぐずりと鼻をすすると、鏡矢はうっとうめいた。
「お、おい。そんな情けねぇ顔するなよ」
「いいですとも。もっとしてやりますよ。どうぞ見てください」
 なおは開き直ってぐすぐすと泣き始めた。
 鏡矢はいかにも居心地悪そうに首の後ろをかいて、腕を組みながら立っていた。
 みっともなくたって、ずるくたって、自分はみんなが花火で喜ぶところを見たい。なおは不細工な顔で心底そう思った。
 やがて鏡矢は一度目を閉じて、自分の胸を叩く。
「……しょうがねぇなぁ。一肌脱ぐか」
 鏡矢は着物の袖を肩までまくりあげて声を上げる。
「てっち。例のものを」
「はい!」
 どこに隠れていたのか、哲知が四角い箱を抱えて駆け寄って来た。
 鏡矢は哲知から箱を受け取ると、早口でなおと哲知に説明する。
「俺は時間稼ぎをしてやる。てっち、お前なら霊道を走れるな? 火を運んでやれ」
「……ほ、ほんとにやってくれるんですか?」
 なおが驚いていると、哲知がにこっと笑って言う。
「僕ら、友達に泣いてほしくないからね」
 哲知はなおに向かって屈みこんで、なおに手を差し伸べる。
「よく火をもらってきてくれたね。後は僕と鏡矢さんに任せて」
 ゴーンと、閉門の鐘が鳴り始めていた。なおはごくんと息を呑む。
「あ……」
 なおは間に合わなかったと絶望的な顔をしたが、哲知は余裕たっぷりに言う。
「大丈夫。花火は最後に上がればいいんだよ。……祭りはまだ、終わってない」
 哲知はなおから火を受け取ると、軽やかに霊道に消えて行った。
 鏡矢は哲知から受け取った箱を持って、路地にさっと隠れながら言う。
「直助、後ろ向いてろよ。化粧中はちぃっと恥ずかしいんでな」
 パタパタと音を立てて、鏡矢は高速で手を動かしているようだった。
 なおがそろそろと背中ごしに見ようとすると、鏡矢は文句をつける。
「着替えるから見るなって」
「あ、すみません」
 鏡矢はそう言っているうちに着物の上半身も脱いで腰に巻き、さらしをくるくると体に巻きつける。
 鏡矢は一息分ためて言う。
「……行くか」
 彼が振り向いた瞬間、なおは目が点になった。
 数刻後、辺りには人だかりをできて、妖怪も人もそろって屋根の上をみつめていた。
 そこでは鏡矢が屋根の上に立って、妖怪たちを見下ろしながら言う。
「さあて、火の花をお待ちかねのみなさん」
 鏡矢は辺り一面に響き渡るような朗々とした声で告げる。
「火の花は奥ゆかしい姫君のよう。まだお化粧が整っておらんようです。姫君にご登場頂くため、ひとつ歌でお誘い申し上げましょう」
 扇をひらめかせて笑ったのは、長い銀髪と同色の瞳、まさに磨き上げられた鏡のように神々しい男性だった。
 ……なおは哲知がはしゃぐ理由をひとめで知ることになる。役者の姿を取ったなら、鏡矢はまちがいなく美男だった。
 なおが首の後ろのかゆさをこらえて立っていると、鏡矢はあでやかに言葉を紡いでいく。
「縁を結べば悩みも増える。思いを伝えれば傷つく日も来る。恐れに目がくらんでひきこもりたくなる気持ちは誰もが抱くもの」
 鏡矢のすっと引かれた眉は力強さを表し、さらしを巻いただけの上半身は鍛え抜かれてまぶしい。化粧を施して舞台に上がったなら、もう眉無しがらっぱちと同一人物、もとい同一妖怪とは思えなかった。
「ですが徒花などといわないで。お嬢さん、あなたはとても美しい。咲き誇る姿をどうか見せてほしい」
 鏡矢は軽やかに歌い踊る。扇を一度返すだけで人々の目を集めて、あでやかな流し目でこちらへ戻ってくる。
 やがてひらりと屋根の上に下りて河原を臨むと、鏡矢は天を見上げる。
 鏡矢は胸に手を当てて、空に住む姫にするように優雅に一礼する。皆の視線が、鏡矢が礼を取った先に集中した時だった。
 パーン……と、大空に花が咲く。
 なおはその光に目を奪われる。
 花火、その言葉の意味を知る。それは赤一色の、壮大な花だった。
 祭りの終わりの盛大なご褒美に、なおはこの数か月の疲れを溶かしていく。
 大きな空の花に人々の間からも割れるような喝采が響いて、それはいつまででも続くように思えた。



 その日の夜、なおは哲知と一緒に円城寺に戻ってきた。
 哲知も鏡矢と同じでなおが女子だとわかったはずだが、彼のなおに接する態度は至って変わりない。
 そういえば哲知は美鶴に対しても過剰な反応をしない数少ない男児だ。神使になろうとする人間は、そういう穏やかさを求められるのかもしれなかった。
 なおと哲知は縁結び祭りのあれこれを思い出しながら二人で他愛ない話をしていた。終わってみたら早かったね、そんなことを言い合って、円城寺の境内に入った。
 ふと二人で顔を見合わせる。石段に哲知の祖母、とわが座っていた。
 哲知はなおから離れて祖母に問いかける。
「おばあちゃん、こんなところでどうしたの?」
 とわは綱の向こうの空を仰いでいるようだった。
 とわは首を傾げて哲知に答える。
「うん……さっきね、とても大きな花火が見えた気がするのよ。この辺で花火が上がったのはもう何十年も昔のことなのに、不思議ね」
 なおは口に出さないままあちら側に思いを馳せる。
 こちら側とあちら側は時々つながっている。あちら側の花火が見えることもあるかもしれないと、なおは思った。
 とわは懐かしそうに目を細めながら言う。
「思い出しちゃった。主人がね、花火を見に行こうって言ってたことがあるのよ」
「あ……」
 哲知ははっと何かを思い出したようで、口をつぐんでうつむく。
「でも主人に用事が出来て、一緒に行けなくなっちゃってね、私だけここの頂上で見ようとしたの。そうしたら転んじゃって、主人に怒られて」
 とわは綱の向こうを見やって頬に手をつく。
「散々怒った後、主人は言ったの。子どもが生まれたらまた花火を見に連れて行くからって。でも……その前に主人は亡くなったから、それきり」
 沈黙は短かったが、とわの表情にはいろんな感情が浮かんだ。
 とわはため息をついて苦笑を浮かべる。
「言っても仕方のないことね。さあ、冷えて来たわ。直助にお茶でも出しましょ」
 とわが杖をついて立ち上がったとき、なおは目を見張った。
 石段に続く綱の向こう側で勇雄がこちらをみつめていた。とわから無理やり顔を背けるようにして踵を返して、ゆっくりと石段を登っていく。
 その背中に満ちた哀しい決意に気づいて、なおは哲知を振り向いた。
「てっち……」
 哲知も勇雄を見ながら言葉に迷っているようだった。
 たぶんここで別れたら二度と会えない。勇雄はもう亡くなっているのだから当然だが、なおは何だかこのまま勇雄を行かせていいのか迷った。
 哲知はうつむいて口を開く。
「……何をいまさら」
 心に溜めていた気持ちがあふれだすように、哲知は叫んだ。
「花火なんかで満足できるわけないだろ! おばあちゃんが杖ついて歩いてるだけで目を離せなかったくせに!」
「哲知?」
 とわが振り向いて問いかける。
 哲知の声に勇雄は足を止めなかった。
 石段を一段一段登って、天に近いところまで行くつもりのようだった。
 哲知は泣いてるように叫ぶ。
「おじいちゃんは成仏なんてできないよ!」
 そのときなおに宿った感情は、悲しいとか、かわいそうとか、じっくり見極めたわけじゃなかった。
 なおはとっさにとわの前で屈みこんで言う。
「とわさん、僕の背中に乗ってください」
「え? どうしたの?」
 とわはきょとんとしてなおを見下ろす。
 なおはちらと哲知を見て、とわに目を戻すと、たぶんそうであってほしいという願いで言葉を口にした。
「頂上まで行ったら、とわさんにも見えるのかもしれないです。……もしかして花火が見えた、今日なら」
 とわは不思議そうな顔をしたものの、なおをみつめて何かを考えたようだった。
 とわはなおを労わるようにそろそろと背中におぶさりながら言う。
「いいけど……大丈夫?」
「やってやりますよ。……よいしょっと!」
 とわはどうにかとわを背負って石段を登り始めた。
 老人とはいえ、人一人背負うというのはものすごく重い。ましてその状態で石段など登ったことがないから、なおは数歩でどっと汗が噴き出してきた。
 練習、ちゃんと続けていればよかった。そう思いながら、なおは歯を食いしばって一段飛ばしに駆け上がる。
 絶対に落とさない。この人を勇雄より前に、あの綱の前に連れて行く。
 彦丸のようにかっこよく美鶴を救出できるわけでも、鏡矢みたいに芸が出来るわけでもない自分。
 ……だけど、足には少しだけ自信があったでしょ? なおはそう心に問いかけて、自分を奮い立たせる。
 永遠のような、一瞬のような、そんな時間感覚の中で、足は着実に前に出ていた。
「は、は……っ。は!」
 なおは最後の一段を上りきると、頂上に立った。
 頂上は聞いていた通り綱以外何もない、ただの空き地だった。そこでなおはふらつきながらとわを下ろして、切れ切れの息を吐きながら問いかける。
「な、何か見えませんか?」
 そんな奇跡、そうそう簡単に起きるわけがない。案の定、とわはあっさりと告げた。
「とりたてて珍しいものはないわねぇ」
「そう、ですよね……」
 なおが肩を落としたそのとき、とわは何気なく告げた。
「いつも通り、主人が走ってるわ」
「……え」
 なおは息を呑んでとわが指さす方を見る。
 とわは勇雄を明確に指さして言う。
「ここの石段を駆け上がるのは主人の日課だもの。まあ、直助に負けるなんてあの人も年ね」
 なおはごくんと喉を鳴らしてから、恐る恐るとわに問いかける。
「勇雄さんが見えるんですか?」
 勇雄も最後の石段を登ろうとして、硬直しながらこちらを見ていた。
 一瞬の沈黙の後、とわは笑いながらうなずく。
「やあねぇ、私だって山で修業した住職なのよ? 幽霊くらい見えるに決まってるわ」
 ころころと笑うとわに、なおはがくりと肩を落とす。
 山で修業するというのはこの業界では花形らしいと、どうでもいいことに今更気づいたりする。
 自分の心の涙は一体。そう思わなくはないが、少しだけいいこともあった。
 勇雄は石段を登りきると、おずおずととわの前にやって来て言った。
「……とわ」
 勇雄は終縁と書かれたお面を外す。そこには二十代半ばくらいの、内気そうな青年が顔をのぞかせていた。
 彼は言葉に迷う間があったものの、少しして口を開いた。
「長い間、ここに居着いてすまなかった」
 勇雄はぼそぼそと小声でつぶやく。
「君がちゃんと暮らしていけるか心配で残っていたけど、僕がここにいたせいで縁談がなくて……」
「何を言ってるの、馬鹿にしないで」
 ふいにとわが厳しい口調で遮る。
「縁談を断ったのは私が決めたことよ。私は子どもも孫もできて、仕事も順風満帆で、幸せだったから再婚しなかっただけ」
「そ、そうか……」
 勇雄がぽりぽりと頬をかくと、とわは呆れた様子で腰に手を当てた。
「あなたってまだわかってないのね」
 気まずそうに目を逸らした勇雄に、とわはため息をつく。
 とわはふいに杖を離した。手を前に差し出して、勇雄を見上げる。
「……あなたに出会ったのは、私の人生で特大の花火みたいな出来事だったのよ」
 何かを待つように手を差し出し続けるとわに、勇雄はくすぐったそうに下を向いていた。
 やがて勇雄もおずおずと手を差し出して、とわの手を取る。
「うん。……僕もだ」
 花火の音はもう消えているのに、今日の宵闇はどこか明るかった。なおにはそれが名前も知らないどこかの神様がくれた、二人への贈り物のように思えた。
 死が間に入っても縁が切れなかった夫婦は、手を取って綱の前で長いこと向き合っていた。



 勇雄はその後、石段を下りて寺に戻っていった。彼はあちらには行かず、消えるまでここでとわを見守り続けると決めたらしかった。
 苦い、甘い夫婦の縁もあるんだとなおは思った。そこには誰もが迎えるありふれた終わりは待っていないが、一つの幸せの形かもしれなかった。
 サイコロ屋敷に帰宅して、なおはひとごこちつく。
 そろそろ寝る時間だが、まだ美鶴も彦丸も帰っていない。彦丸が氷ばかり出したから、銭湯にでも行ったかもしれない。
 なおは茶をすすりながらぼんやりと考える。
 ここひと月、ひたすら人の恋路を応援する日々だったが、これはこれなりに楽しかった。
「……どうしよう」
 だけど奉公は今日まで、しかも今日は一時職務放棄して不法侵入までしている。
 いろりの前で頭を抱えていると、家中のつくもがみが集まって口々に言う。
「直助、どうしたんじゃ」
「頭でも壊したか」
 いろいろ仕事の当てを探したが、なおはまだ次の仕事がみつかっていない。奉公の延長の話を期待したが、今日の仕事ぶりではあちらからお断りされてしまう。
 なおはしばらくうなだれたが、きっと前を見据える。
「大丈夫。僕はまだやれる」
「お?」
「いつになく強気じゃな?」
 拳を握りしめてなおは語る。
「あてがないわけじゃないんだ。ただ転がる勇気が出なかっただけで」
 出会ったとき、美鶴も言っていた。神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃない。
 なおは顔を上げて力強くうなずく。
「よし、ここはひとつ……」
 立ち上がろうとしたなおをあざ笑うように、何かの塊が降って来た。
 なおは思わずうめき声を上げる。
「痛ぁ……っ!」
 しばし悶絶してから、なおは横目で落下物を見やる。
 それはふたのように丸く切り取られた木片だった。これが石だったらなおは今頃あの世行きだが、それでも床で一回転するくらいは痛かった。
 見上げると、天井に穴が空いている。ちょうど落ちてきた木片がはまりそうだと思っていたら、そこから別の何かが降って来た。
 なおは反射的にその場から逃げる。
「ぎゃあ!」
 なおはわたわたしながら壁まで後ずさった。
 今度落ちてきたのは木片ではなかった。しかも事もあろうに言葉を話した。
「夜分に失礼いたします」
 二十代半ばくらいの若さで、全身ぴしりと黒い着物を身にまとった背の高い男だ。
 ……いや、人間かな? 人間が上から落ちてくるはずはないだろうと、なおは首を横に振る。
 顔を見やると、これまた何かの間違いみたいにいい男だった。さっぱりと切りそろえた黒髪に、不思議な緑色の目をしている。
 その秀麗な面立ちにいつもの苦手感を抱いていたなおに、彼は張りのある低い声でたずねる。
「立花美鶴さんはご在宅でしょうか?」
 彼のその目は射抜くように鋭くて、なおはへびに睨まれたカエルのように一歩後ろに引いた。
 まさにその時、玄関が開いて美鶴その人と彦丸が帰ってきた。
 美鶴はなおに声をかけようとして、不思議そうに首をひねる。
「ただいま……お客さま?」
 そのとき、男は目にもとまらぬ速さで動いた。美鶴の前に滑り込んで……華麗に土下座する。
 男はその美々しい声で美鶴に言う。
「あなたのしもべが参上しました」
 きっぱりと告げた男に、美鶴を含め全員が沈黙する。
「もう一生離れません」
 男は地面に額をすりつけるようにして、美鶴の服の裾をつかんだのだった。
 棚からぼたもち、それってすごくいいことのたとえだ。
 でも男児が降って来てあなたのものだと言うのは、果たしてありがたい出来事だろうか。いやいや、お断りだと言うのが平凡な自分の意見だ。
 彦丸はにやりと笑ってなおの肩を叩く。
「直助。目が死んでるよ?」
 時刻はもう丑の刻を過ぎようとする頃。しかしいろりの周りではなおと彦丸、美鶴、そして天井から降って来た謎の男が居座っている。
 謎の男は強引に自分を押し付けようと美鶴に言う。
「受け取ってください。あなたのものです」
 一方、美鶴もなおが思うように迷惑はしているようで、ひととおりの断り文句は言いつくしたところだった。
「間に合ってます。お引き取りください」
 なおはそのやりとりを数十回聞いたが、どうやって男を帰すかはまだ策がなかった。
 なおはここは家主たる彦丸にがつんと言ってもらおうと、彦丸に言う。
「そろそろ止めようよ、彦丸。危ないひとだよ、あのひと」
 なおには何が何やらさっぱりだが、美鶴が迷惑しているのだけはわかる。早く男を追い出すべきだと思うのだが、どうしてか彦丸は面白そうに見ているだけだ。
 彦丸はなおに首を傾けて言う。
「どうして止めるんだい? もらえるものならもらっておけばいいじゃないか。せっかくの大国主(おおくにぬし)の贈り物なんだし」
「おおくにぬし?」
「上で一番偉い神様だよ」
「なっ?」
 なおはびっくりして彦丸を見返す。彦丸も一応神様だという話だし、あちらの世界で何人か神様を名乗る妖怪にも出会ったが、一番となるとちょっと話が違う。
 なおは声をひそめて彦丸にたずねる。
「そ、そんな偉い神様が立花さんに飛脚便? なんで?」
「さぁ。単に送りたかったんだろう?」
「そんな適当な」
 なおはあきれたが、彦丸はのんびりと答える。
「私だって、日々結びたい縁を結んでいるもの」
「彦丸と一緒に……」
「お言葉ですが、比良神」
 ふいに男がきりりと眉を寄せて彦丸へ振り向く。
「上は、公平を期すために役所を整備して人員を管理しています。今回も美鶴さんに本来遣わすべきものをお与えになっただけです」
「ああ、そう」
 彦丸はあくびをしながら答える。
 なおは彦丸の腕をつかんで後ろを向かせると、耳に口を寄せて言う。
「下手なこと言わない方がいいよ。相手は偉い神様なんでしょ」
「うーん?」
 彦丸は首をひねってなおに返した。
「私の上司は、下の黄泉神(よもつかみ)だしねぇ。上の下で働いてるわけじゃないから、なんかどうでもいいっていうか」
「上なのか下なのかどっちなんだ」
 神様も複雑な権力関係があることだけはわかった。
 さしあたって、彦丸は静観を決め込んでいるようだ。なおとて、神様の権力関係には口を挟みたくはない。
 けれどなおにとって重大なのは、これが縁結び祭り直後の深夜だということだ。美鶴と彦丸がお出かけ帰りとはいえ、夜更かしは万病のもとだった。
 なおは意を決して男に言った。
「とにかく、もう夜も遅いので帰ってください。立花さんのお肌が荒れます」
 てっきりなおも彦丸と同じで冷たく言い返されるかと思っていた。
 ところが男はすごい勢いで飛びのいて、美鶴を凝視する。
「なんと! あまりにまぶしくて気づきませんでした」
 どうやら美鶴のお肌の調子は男の重大事だったらしい。
 男は驚愕して美鶴を見やると、すぐさま頭を下げて言う。
「夜分にお邪魔いたしました。今日は失礼します」
 男はきっちりと一礼して、すごい脚力で跳びあがる。
 カコンという音を立てて、円く空いていた天井の穴が塞がった。
 なおはそれを見上げながらぼやく。
「帰る時も上からなんだ……」
 いろりの真上の天井は継ぎ目もなく綺麗に修復されている。しみじみとなおが見上げていると、彦丸が事もなげに言う。
「屋根裏に行ったようだね」
「え、帰ってないの?」
 なおはそんなはた迷惑なと思ったが、彦丸はさほど気にしていない様子で続ける。
「上は侍並の規律だからね。収穫もなしに帰れるわけないよ。さ、私たちも寝よう」
 彦丸はもう一つあくびをして、話を打ち切った。
 おやすみと言って自分の部屋に引っ込んでいった彦丸はさておいて、なおは美鶴に心配そうにといかける。
「た、立花さん。いいんでしょうか?」
「ん……どうしよう」
 美鶴は天井を見て思案すると、悩ましげに返す。
「困ったな。屋根裏、掃除しておけばよかった」
「いや、問題はそれですか」
 さすが無数のつくもがみと同居している人だけあって、器が大きい。美鶴は押し付け男が居座るという事実にも動じていなかった。
 美鶴はおおらかに笑って言う。
「後でお布団持っていくよ。直助は祭りで疲れただろう? もうおやすみ」
 なおの体を労わることも忘れない如来さまに、なおはただただ恐縮するしかなかったのだった。



 なおは現在無職という緊急時。幸い彦丸は引き続き住んでいいと言っていたが、仕事もないまま彦丸の家に厄介になるのはなおの矜持が許さなかった。
 屋根裏の居候のことは気になったが、目先の課題に立ち向かおう。なおがそう決意して出発した先、それはまた田中家だった。
 美鶴が止めていた、「田中家の外回り」が募集をかけていて、なおはそこに申し込んでいたのだった。
 既に簡単なそろばん試験は通っている。なおとて商家の出身だからそこはどうにかなった。
 問題は二次試験、面接だ。
 なおは本音をぼそりとつぶやく。
「帰りたい」
 前回の試験が思い出される。遠慮も容赦もないおばちゃん五人に雨あられと質問を浴びせられた。
 普通商家で働く人たちはおじさんを想像するだろうが、ここ田中家は圧倒的に壮年の女性が多かった。おばちゃんと言ったら怒られそうなので、普段は華麗なる熟女軍団と呼んでいる。
 ……やっぱり江戸に若い人が吸い取られているのは本当らしい。なおはそんなことを心配したが、田中家の事情はこの際考慮するまいと飲み込む。
 なおは扉の前で断って、一礼してから部屋に入る。
「失礼します」
 心を無にするんだ、なお。一度は通過できただろうと、自分を奮い立たせる。
 いくら今回が美鶴に止められた「外回り」とはいえ、鬼に魂を売るわけじゃあるまい。
 自分に言い聞かせながら顔を上げたら、意外にもそこにいたのはたった一人だった。
 なおは変な顔をしている自覚があった。
 それは四月に天狗の万次郎と祝言を挙げた美女、えんだった。
 えんは鈴の鳴るような声で自己紹介をする。
「私が田中家当主のえんです」
 実はなおはまだ一度もご当主さまに会ったことがなかった。偉い人はみんなそうだが、外回りの多い人なのだ。
 なおは入口に突っ立ったまま唖然としたが、ふと頭に残った単語をつなぎ合わせてみる。
 田中、えん。
 えんは優雅に座布団を示して言う。
「どうぞかけてください」
「ありがとうございます」
 なおは言われるままに用意された座布団に腰を下ろしてから、えんの顔をじっと見る。
 えんはなおのぶしつけな視線に動じず、淡々とたずねた。
「何か訊きたいことがあれば、先に仰っていただいて構いませんよ」
 なおは一度黙ってから、おもいきって疑問をぶつけてみる。
「この田中家で支給される飲み物、いつも田中園のお茶でした」
「このような名前は利用しない方が損というものです」
 この人たぶんやり手だ。そんなことを思いつつ、なおは明後日の方向を向く。
 えんはなおの様子を見計らって声をかけた。
「さて、緊張は解けましたか? では面接を始めますよ」
 今のは面接の導入編だったらしい。なおはこの人はやり手かつ周到でもあると思った。
 えんはなおを底の見えないような目で見据えてたずねる。
「あなたはあの世まで行って戻ってこられますか?」
「あ、あの世ですか」
 いきなり求められるものが高かった。その割に、「江戸まで出張できますか?」っていう調子で訊かれた。
 なおは冷や汗を流しながら、なるべく元気よく答える。
「ほ、方法があるなら勉強して覚えます!」
「ふむ。今のところその経験は持っていないんですね」
 持ってる奴いるのかい。そう突っ込んだなおの内心など関係なく、えんは声の調子を変えずに続ける。
「二つ目。山で修業した経験を話してください」
 これは修行僧の面接試験だったのか。なおはごくりと息をのんで答える。
「修業とは多少違いますが、里にいた頃、五日間山籠もりしたことがあります」
「滝に打たれたり火の上を歩いたことは?」
「すみません。その経験はありません」
「うーん、うちが求める人材とは少し違うみたいですね」
 えんは首をひねって苦笑する。
 まずい。旗色が悪すぎるとなおが焦るのも構わず、えんは容赦なく質問を投げた。
「ではあなたの特技は何ですか?」
 なおの頭はあきらめ状態に入っていた。どうせ空中旋回する技術とかお札で対象物を粉砕する必殺技とか求められているんだ。平凡な十六歳女子にそんな能力あるはずなかろうと思う。
 だからなおはだいぶ投げやりに答えた。
「走ることです」
 えんは顔色を変えずに問い返す。
「何か功績は?」
「十五の時、隣町の持久競争で六位でした」
 こんな中途半端な経歴じゃまったく相手にならないでしょ。
 斜に構えた視線でなおがえんの表情をうかがうと、彼女は相変わらずそつのない笑顔を浮かべていた。
 えんはうなずいてなおに言う。
「はい。面接は以上です。お疲れ様でした」
 ああ、駄目だった。なおはそう思いながらぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございました……」
 なおは前かがみになりながら、とぼとぼと田中家を後にしたのだった。
 ふてくされて迎えた、その日の夕方。
 美鶴がなおに封筒を持ってきて言う。
「直助、田中家からお手紙届いてるよ」
 なおは美鶴が持ってきたそれを手に取って、のろのろと中身を取り出した。予想通り便りは紙一枚で、もうなおは期待などみじんも無い目でそれを見下ろす。
 そして紙を開いて現れた文字に、なおは目を見開いた。
 美鶴も手紙を覗き込んではしゃぐ。
「すごいよ! おめでとう、直助!」
 ころころと笑う如来さまが愛くるしい……のはいつものことだが、なおは事態に驚いて言葉をなくす。
 嘘でしょと心で繰り返す。
 なおの手に届いたのは「田中家外回り合格」だった。
 一体あの面接のどこに、なおの能力が評価されるところがあったのかわからない。それとも一次試験でもう合格は決まっていて、面接自体はそう意味がなかったということだろうか。
 美鶴は弾んだ声で続ける。
「可能なら明日からでも来てくださいって書いてあるよ。直助、期待されてるんだね!」
 いや、なおは自分のそろばん試験の結果は平凡だった自信がある。こんなに大手を奮って歓迎される要素は一次試験にはない。
 美鶴は出かける支度をしながら言う。
「お祝いしよう。ねっ? 僕、魚買ってくるから」
「はい、荷物持ちます」
 なおは反射のように手を挙げてお伴することを主張する。
 美鶴はわくわくした様子でなおに笑う。
「お赤飯も用意するからね!」
 ……何だかこの面接結果、あやしい。
 我が事のように嬉しそうな顔をする美鶴の隣をついていきながら、なおは何か不可解な事態に飲まれていっているような気がしていた。



 さて、なおが美鶴に名前を伏せて受験した田中家外回りとはいかなるものか。
 なおは合格通知を受け取った次の日から、早速そのわかるようでわからないところで働くことになった。
 顔合わせをした同僚たちは、常にも増して年齢層が高かった。
「あら、なーんだ。新人さんが来るって聞いたけど直助なの」
「若い男の子って期待してたのに」
 彼女らは見事に熟女軍団で統一された、五十代以上の女性三人だった。
 熟女軍団はなおの顔を見てあからさまにがっかりしたようだった。彼女らにとって、新人は美男でないというだけで罪深い。
 朝っぱらからちょっと腐っていたなおの隣で、涼やかな声が響く。
「おはようございます。上から出向でこちらに配属になりました、康太(こうた)です」
「きゃあ、いい男!」
 現れた長身痩躯に、熟女軍団がかき集められるように集中する。
 黒い着物を隙なく綺麗に着こなして一礼した康太は、文句のつけようもないほどのいい男ぶりだった。
 なおはそれが屋根裏の居候だと知って、ちょっと陰気な目で振り向く。
「……あの、なぜここに?」
 康太はなおの嫉妬交じりの声にすらすらと答えてみせる。
「手に職のない男など美鶴さんにご迷惑なだけ。普段はこちらで働かせて頂くことになりました」
 出向だなんてずるい。自分、ちゃんと採用試験受けたのに。なおの妬みはすでに最高潮だった。
 康太は低姿勢で熟女軍団に言葉を続ける。
「不勉強なところも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「若いのにしっかりしてて感心だこと。何でも訊いて。おばちゃんたちが教えてあげる」
 みなさま、僕への態度とずいぶん違いませんか。なおはそう思ったが、本能に忠実な彼女らに言っても効果はあるまい。
 康太はあくまで低姿勢で熟女軍団に礼を言った。
「ありがとうございます。勉強させて頂きます」
 なおの妬みの半分以上は、康太があまりに模範的な態度で、なおには真似できない真面目さを醸し出しているからだった。
 上の神様がどんなひとか知らないが、たぶんこのひと誠実だ。だからこそさえない自分には妬ましいのだが、そういうひとが好かれるのも仕方あるまい。
 なおは自分にそう言って聞かせると、熟女軍団に振り向く。
「これで全員ですか?」
「うん。難しい時はご当主さまも来るけど、平常時の外回りは三人、奉公さん一人、上からの応援一人なのよ」
 結構大人数で動くんだなと思って、なおはいよいよ本題に入ろうとする。
「はぁ。それで、ここの職務内容って一体」
「さあ行くわよ」
 熟女軍団はいつも通りなおの質問にはさっぱり反応を返してくれなくて、なおは有無を言わさず同行させられることになった。
 出発した田中家から下流沿いに歩いて、田園風景の中をひたすら南へ。
 八月の真夏では農作業の人たちはいない。せいぜい子どもたちが虫取り網を持ってすれ違うくらいだ。
 熟女軍団も先を急ぐつもりはないようで、時々なおに振り向いて呼ぶ。
「暑いわぁ。直助、水筒」
 なおたちは支給品のお茶を片手に、あぜ道で何度目かの一服をする。
 なおも手ぬぐいで汗を拭っていたが、康太は汗一つかいていなかった。美男って汗かかないんだとうらめしく思いながら、なおは康太に問いかける。
「外回りが必要ってことは、この辺って罪人でもいるんですか?」
 暑さに疲れている熟女軍団はそっとして小声でたずねると、康太は淡々と答えた。
「そんな言い方をしては失礼です。我々はあくまで巡回しているだけなんですから」
 その答えは、核心を言わないのが怪しい。やましい匂いをひしひしと感じる。
 周りは一面田園風景で聞いている人など皆無だろうが、なおは一応注意深く辺りをうかがっていた。
 ご当主さまが言うように、滝に打たれたり火の上を歩いたり、過酷な修行が必要な仕事かもしれない。気を抜かずにいようと自分を奮い立たせていたところだった。
 ふいにおにぎりを食べていた熟女軍団の一人が声をあげる。
「あ、いたわ」
 それはとかげをみつけたというような口調だった。その緊張感のなさに一瞬気を緩ませたなおだったが、次の瞬間下った命令に身を固くする。
「直助、つかまえて」
「ええっ? 僕がですか!?」
 正体不明の仕事とはいえ、着任したからにやらねば。なおは自分に言い聞かせて、熟女軍団の示す方を振り向いた。
 視界の隅で黒い影が動き回る。なおはそれを目でとらえて仰天した。
「……オオサンショウウオっ!?」
 里ではみつけると幸せになれると言われていた生き物が、田んぼの中を行き来していた。それはなおの片腕を広げたくらいの大きさで、のっそりと泥の中を歩いていた。
 夏になるとみんなでつかまえっこしたものだったが、あんまり素手で触らない方がいいとも言われていた。なおはちょっとためらってたずねる。
「手で触っていいんですか?」
「触らなきゃつかまらないでしょ。ほら、手袋貸すから。早く」
 なおはぞんざいに投げられた手袋を受け止めてはめる。それから泥まみれになるのを覚悟で、田んぼの中を歩き始めた。
 オオサンショウウオは動きが遅いが、泥の中を動くなおもまたそれ以上に遅い。
 熟女軍団は手であおぎながらなおに言葉を投げる。
「直助、まだー?」
「すみません、もうちょっとお待ちください」
 それにしても熟女軍団よ、自分たちは入ってこないんかい。康太まで完全に傍観姿勢で、集団行動などあったものではなかった。
 なおは下っ端の切なさをかみしめつつ、まとわりつく泥の中でオオサンショウウオを追う。
 はっしとオオサンショウウオを両手で確保した瞬間、なおは声を上げる。
「よし……えっ?」
「離してよぉ!」
 なおがやっとのことでつかまえて引き上げた黒い影は、ひれと尻尾のついた五歳程度の少年だった。
 やっぱりというか人間じゃなかった。それならもっと大仰に怖がった方がいいのかもしれないが、幸せになれるというオオサンショウウオなものだからちょっとほっこりしてしまう。
 オオサンショウウオっ子って新しいな。まじまじとみつめたなおの目の先で、少年は大声で泣き喚く。
「わぁぁぁん!」
 寝た子は起こさないのが吉。なおもそれは知っているが、妖怪となると多少話も変わる。
 熟女軍団はゆらりと立ち上がって言った。
「みつけたわよ。さあ、とっとと成仏しなさい」
「嫌だぁー!」
 熟女軍団の言葉に、少年は手を振り回して抵抗する。
 そうだな、たぶん成仏って話になるんだろうな。でもこんな小さい子には酷いような気もする。
 なおはちょっと心配になって声をかける。
「いや、この子が妖怪なのはわかりますけど。もっと優しくさとすように話さないと聞いてくれないんじゃ……」
 なおは思わず弁護したが、横目で少年を見て眉を寄せる。
 少年はおっさんみたいににやりと笑っていた。ちょろいぜと言わんばかりの表情だった。
 なおは一度目を伏せて言葉を翻す。
「世の中、何言っても聞かない子どもっていますよね」
「ちょっ! お兄ちゃん、ひどいよぉ!」
 すぐさまオオサンショウウオっ子は目をうるうるさせながらなおを見上げる。
 あざといオオサンショウウオっ子に、なおは一瞬優しさを失いそうになった。といっても全部なくしたわけではなく、まだ良心のかけらは残っている。
 なおは気が進まないながらも弁護を続行する。
「まあまあ、いきなりあの世行きってのはきついんじゃ……」
 そのとき、熟女軍団の一人は自分の目を覆った。なおは首を傾げて、次の瞬間変な声を上げる。
「……うわぁ!」
 熟女軍団の一人の目が赤く光って、その光はぴしりとオオサンショウウオっ子に当てられていた。
 彼女は学者が詩をそらんじるみたいに言葉を告げる。
「帳簿を読んだところ、そちらは死後五十八年この世をさまよったオオサンショウウオのようだけど?」
 でもなおには彼女の赤い目のせいで説明がまったく頭に入ってこなかった。思わず彼女の業務を中断させるようなことを言ってしまう。
「ごめんなさい。まずその目の説明からお願いします」
 オオサンショウウオっ子の妖怪より彼女の光る赤い目の方が怖い。体をぷすりと突き抜けそうだとなおが震えていると、彼女はそっけなく答えた。
「ただの田中家の仕事道具よ。さ、それをこちらによこしなさい。直助」
 なおが暴れるオオサンショウウオっ子を抱えながら立ちすくむと、康太が近づいてきてなおに言った。
「直助。私たちの外回りの仕事というのは」
 康太は身を屈めて、優しいながらも低い声で告げる。
「……成仏を渋っている死者を、そっとあの世へお届けすることですから」
 なおはようやく業務内容を理解して、はたと手を打つ。
 康太は素早くオオサンショウウオっ子の首根っこをつかんで言った。
「手を離しちゃいけませんよ」
「あ、すみません」
 康太はなおが離した手にオオサンショウウオっ子を戻してくれた。
 なおの理解したことによると、つまり外回りが扱うのは死にたくないとごねている魂、巡回というのはあくまでそっと成仏させるということのようだ。
 なおは不思議そうに首を傾げる。
「そういうのって、陰陽師とか、神職の人がやるんだと思ってました」
「田中家の方々は商人なので、そういった天職ではありません」
 康太は生真面目にきりりと続ける。
「でも儲けにはなりますので、田中家の一大事業です」
 つまり商売人根性で得た仕事を、恐ろしく差しさわりのない言葉で表現した結果らしい。
 なおはまだ納得しきっていないところをたずねる。
「本職じゃないのに成仏させられるものなんですかね?」
「できますよ。こちらの田中家は毅然とした態度で数々の偉業を成してこられましたから」
 康太はついと熟女軍団に目を戻すので、なおもつられてそちらを見る。
 熟女軍団の一人が耳に手を当てて告げる。
「社持ちの三分の二の同意が得られました」
 なおが見るに、どうやらあの耳に仕込んだ秘密道具には、社持ちからの声を聞き取る力があるらしい。
 熟女軍団は互いにうなずきあって言葉をかける。
「よし。執行準備完了」
「待って、お姉さん方! 僕、心を改めて過ごしますから!」
 オオサンショウウオっ子が、必死の声音で抵抗する。
 しかし少年は相手が熟女軍団だというのを忘れているようだった。
 熟女軍団のリーダー、田中おばちゃんが言った。
「おばちゃんたち、これが仕事なんだわ」
 田中おばちゃんは馬耳東風といった感じで懐からお札を取り出した。
 康太は神妙な面持ちでそれを見て言う。
「あちらの方は一番重要な力を田中家から預かっていらっしゃいます」
 康太の言葉に、なおはごくりと息を呑む。
 きっとあのお札は対象物を粉砕するとか、そういう力に違いない。さあ一体どんな能力が飛び出すのやらと、なおは期待に満ちた目でみつめる。
 山田はぺろっと札をなめた。
 そして札をオオサンショウウオっ子の頭にはりつける。
 なおはきょとんと声を上げる。
「……え?」
「接着能力です」
 もっと有意義な能力にしたら?
 康太の答えになおは心の中で突っ込んだが、康太はなおの内心を見通したように続けた。
「大事なんです。あの世まで絶対剥がせない死亡証明書をつけることが」
 接着能力で札をはりつけた田中おばちゃんは、ぽんとオオサンショウウオっ子の肩を叩く。
「行ってらっしゃい、黄泉の国」
 その言葉が合図のように、オオサンショウウオっ子の足元が消えた。
 穴にはまったように、彼はまっさかさまに落ちていく。康太が上からやって来た時と同じだ。
 しんとした沈黙が下りる。なおは真夏だというのにひんやりしながら立っていた。
 田中おばちゃんは肩を伸ばして言った。
「ああ、すっきりした」
 権力って怖い。それを扱うのが熟女軍団だともっと怖い。
 熟女軍団はあくびをしてお互いに声をかえkる。
「さ、次行きましょ」
 なおは彼女らがこの仕事を担っている理由がわかった。熟女軍団……いや、敬意を払ってもうおばちゃんと言ってしまおう。
 おばちゃんたちに怖いものなどないのだ。相手が幽霊だろうと妖怪だろうと知ったことじゃない。
 なおはおばちゃんを見る目が変わったのを感じながら、泥だらけの着物をひきずって後に続いたのだった。



 その日の内に、なおが田中家の外回りの奉公人になった事実は美鶴の知るに至った。
 美鶴は顔を険しくしてなおに言う。
「言ったでしょ、外回りだけは駄目だって」
 一目でばれるだろうとは思っていた。なおは泥だらけの田んぼを走ったり、くっつきボボだらけの山の中を駆けたり、ほこりまみれの廃屋をかきわけたりしていた。ただでさえ貧相な着物姿は見るも無残で、二度とこれを着てお出かけには行けない。
 相手にするのはいずれも成仏を渋っている死者たちで、捕まえるのはいつもなおの仕事だった。抵抗する彼らを押さえようと奮闘するさまは、文字通り異種混合の戦だった。
 なおは美鶴の前で正座しながら、弁解の余地もなくうなだれる。
「黙っていてすみません。ここまできついとは思ってませんでした」
 一日だけで、足は棒を通り越して骨のようだった。座る時人体ではありえない音がした。
 美鶴は首を横に振って続ける。
「そうじゃなくて、外回りは危ないんだ。君みたいな生身の人間じゃ、いずれ怪我をする」
「まあ……仰るとおりです」
 そう答えながら、なおはまだ仕事を続けるつもりだった。
 少なくとも今日相手にした妖怪たちとはもめるものの身の危険は感じなかった。疲れるのはそのとおりだが、縁結び祭りのときの方がもっと危なかった気がする。
 ふいに美鶴はなおを引き寄せて声を上げる。
「危ない!」
 美鶴の腕に包まれたまま、なおは横に転がる。
 なおは美鶴の花のような香りに鼻血を噴きそうになったが、慌てて顔を引き締める。
 なおはそろそろと自分が今まで座っていた場所を見やる。
 そこには康太が黒い着物姿で正座していた。彼は三つ指をついて頭を下げる。
「美鶴さん、お風呂が沸きました」
 勝手に人の家の風呂沸かすなよ、あと毎度僕の上に降りてくるな。なおはうろんげな目で見た。
 美鶴は慌てて康太に言う。
「そんな。お客さんなんですから座っててください!」
 いつの間にかお客様に昇格されてる。なおはその事実に青ざめたが、美鶴はただ心配そうに康太を見ている。
 康太は美鶴のまなざしに、くっと首を垂れて身を屈める。
「もったいないお言葉です」
 ふるふると震えて頭を地面にこすりつける。そのまま動きそうになかった。
 美鶴は思案したようだったが、やがて苦笑してうなずく。
「ありがとうございます。せっかく沸かして頂いたのだし、使いますね。……直助、まずは入っておいでよ」
 考えてみればなおはどろどろの格好のままだった。美鶴の厚意をむげにすることもできず、なおは仕方なく風呂へ向かうことにする。
 なおは着替えをして浴室に入り、湯船に浸かる。
「ふー……」
 ヒノキ造りの湯船は一日の疲れをほぐしていくようだった。なおは広々とした浴槽の中で手足を投げ出して浮く。
 たぶん今日は、こんな仕事もうやだって思って眠る。でもきっと明日になったら出勤する。
 ま、いっかそれで。そういう楽観的な気持ちで、うつらうつらしたときだった。 
 なおにぱりっとした男の声がかかる。
「失礼します」
「うわ!」
 引き戸が開いて、いきなり康太が入ってきた。
 なおは激しく動揺しながら言った。
「な、な、何入って来てんですか!?」
 どもりながらとりあえず胸を隠したら、康太ははたと意外そうな顔をした。
「……女子でしたか」
「なんであっちの人らはみんな僕を男だと勘違いするんですか!」
「親しい匂いがするからですよ」
 康太があっさりと答えた言葉に、なおは一瞬変な顔をする。
「親しい匂い?」
 康太はふいと顔を背けてなおを見ないようにしたようだった。
 彼はぺこりと頭を下げて言う。
「それはそれとして、女子なら一応それ相応に扱います。外でお待ちしてますから」
 康太はそう言って風呂から出て行った。
 確かにここのお風呂は広いので二人くらいは余裕で入る。美鶴や彦丸も後に控えていて混み合う時間でもある。お風呂がある家なんて豪邸ばかりで、なおだって里にいたときは銭湯でお風呂を済ませていたのだから、康太が入って来ても別に変ではなかった。
 でもなんでいちいち男の格好してても誰も疑わないんだろ、僕。なおは遠い目をしながらも、仕方なく湯につかる。
 康太は言葉通り引き戸の外にはいるようで、意外にもそこから声をかけてきた。
「あなたは美鶴さんの神使候補だそうですね」
 康太が世間話のように切り出した言葉に、なおは気が進まないながらも答える。
「まあこの際僕は下働きでいいです。でも美鶴さんが彦丸の下働きなんてひどすぎません?」
 康太はややあって質問に質問で返した。
「あなたは美鶴さんがどんな思いで神使を断り続けていらっしゃるか、考えたことはありますか?」
「え?」
 なおが首を傾げると、康太はさらりと続ける。
「残念ですね。次に神使になろうともいう方が」
 至極真面目な調子で、康太はなおに言う。
「では私が美鶴さんの神使の座を頂きましょうか。あの方の犬であることなら、私は何者にも負けませんから」
 それは今までと違って挑戦的な口調だった。さすがにそれに気づかないほどなおはまぬけじゃなかった。
 康太の足音が聞こえて、風呂から離れていったのがわかった。
 ……僕、いつの間に康太に好敵手認定されてるの?
 なおは康太に問い返すこともできないまま、浴槽に浸かりながら気まずい思いをかみしめていた。
 風呂から上がると、康太はどこかで水を浴びてきたようだった。美鶴がびっくりしたように声を上げる。
「康太さん、頭びしょびしょですよ。ほら、乾かして」
 美鶴は手ぬぐいで康太の頭を拭いてから大判の拭き布を持ってくる。
 美鶴は苦笑しながら言う。
「子どもみたいなんだから……」
 康太を目の前に座らせて、美鶴はせっせと康太の髪を拭き始める。
 康太は美鶴のなすがままだった。でもその頬は年頃の男児が同年代の女子に構ってもらえた時みたいに、ほっこりと赤くなっていた。
 ……いやいや、和んでいる場合じゃない。
 なおはそっと美鶴に言葉を挟む。
「美鶴さん。さすがにどこの誰とも知らない人の髪を拭くのはどうかと」
「あっ!」
 なおの言葉に、美鶴は慌てて康太から飛びのく。
 美鶴は気まずそうに康太に言う。
「何かつい手を出しちゃって。年上の方に失礼でしたね。ごめんなさい」
「いいえ」
 康太は首を横に振って振り向く。
 そこで今まで淡々とした態度を崩さなかった康太が、はじめて笑った。
「うれしいです」
 そう彼が言ったときの表情は小さな変化だったけど、とても幸せそうな顔だった。
 美鶴はそれを見て何か言いかけた。けれど康太は美鶴の手をほどいて言う。
「私の髪はいいですから。さあ、美鶴さんの番です。どうぞお風呂にお入りください」
 康太はいつもの生真面目な顔に戻ると、三つ指をついて再びうやうやしく頭を下げる。
 美鶴は康太を見て我に返ったようで、慌ててお礼を返す。
「あ、ありがとう。じゃあ」
 美鶴は自分が何を言おうとしたのかわからなかったようで、足早にお風呂に向かっていった。
 なおは二人の間に流れた不思議な空気に首を傾げていた。康太の態度は、自分みたいに如来さまみたいに綺麗な美鶴にみとれた様子とは違っていたから。
 なおの疑問に答えたつもりではなかっただろうが、その場で髪を拭いていた康太に声をかけた男がいた。
「康太」
 なおがいろりの方を振り向くと、彦丸が座っていた。勝手に夜食のせんべいをつまんでいる。
 彦丸は別段感情の含まない声でたずねる。
「美鶴に思い出してもらわなくていいのかい?」
 康太は首を横に振って、懐かしむように目を伏せる。
「はい。……また美鶴さんを悲しませずに済みますから」
 それきり康太も彦丸も何も言わなかった。
 彦丸がお茶をすする音と、康太が自分で髪を拭く音が二重に聞こえるだけだった。




 田中家の外回りの仕事は、毎日力技だった。暴れる死者たちを追って廃屋や野山を駆けずりまわり、死者を羽交い絞めにしておばちゃんが死亡証明書を貼るまで待つ。
 なおは自分が奉公人になったのは、ただ若者の体力を求められてのことだったと納得した。支給された手袋をはめれば死者は素手で触れるし、昔話みたいに死者が恐ろしい呪いをかけてくることもない。
 かれこれ二か月が過ぎて、なおは日曜日に円城寺に来ていた。
 鏡矢が何気ない風になおにたずねる。
「どうよ、田中家の外回り」
「縁結び祭りに比べると力技ですけど、まあ何とか」
 なおはそう答えてたき火に目を戻した。
 円城寺の庭で、なおは鏡矢と哲知の三人でたき火を囲んでいた。三人の真ん中にはこんもりと積まれた枯葉があって、鏡矢は木の枝で焼き芋を転がしていた。
 鏡矢は芋をつついてなおに言う。
「これ、そろそろいけるぞ。食え」
「あ、ありがとうございます」
 なおがイモを拾おうとすると、哲知がじっとりとした目を向けて言う。
「ずるい。鏡矢さんからイモを頂くなんて」
「てっちにはしいたけをやるから」
「やった!」
 鏡矢は網の上の椎茸を拾って差し出す。それを哲知は目をうるうるさせて受け取った。
「鏡矢さんが焼いたしいたけ……」
 いいんだ、それ舞茸とかじゃなくてただのしいたけだよ。なおはそう言ってやりたかったが、友人は眉無しがらっぱちに恋をしているのだから仕方ない。
 鏡矢はふと息をついてなおにたずねた。
「で、直助は覚悟決めたのかよ」
「何がですか?」
「美鶴の坊ちゃんの神使になる覚悟さ」
 鏡矢はこうして時々円城寺に来て、なおと話すことも多い。兄貴気質の彼は、何かとなおの相談にも乗ってくれる。
 ししゃもをかじりながら鏡矢は言った。
「神と神使ってのは一心同体。夫婦になるようなもんだぞ」
「めおと」
 なおは美鶴のことを思い浮かべた。麗しい彼と祝言を挙げる図を浮かべようとして、なおは首を横に振る。
「あ、駄目。現実味がなさすぎて想像できません」
「うん。俺も無理」
 鏡矢にもあっさりと肯定されて、なおは乾いた笑いをもらす。
 鏡矢はそんななおを見ながらぼやく。
「でもこのままだと、上から来た役人に神使の座をかっさらわれるぞ」
「あれ? あちら側の妖怪の方々はてっちを推してるって聞きましたけど」
「僕は辞退したよ」
 哲知はにっこりと笑ってしいたけをかじる。実に上品にそしゃくして飲み込んだ後、哲知は晴れやかに言った。
「僕は鏡矢さんと夫婦になるから」
 なおはそろそろこの友人のことがわかってきていて、こくんとうなずく。
「あ、うん。もう好きにすればいいんじゃないか」
「冗談やめろ、直助」
 鏡矢はぎろっとなおをにらんで言う。
「俺はまだ所帯持ちになるつもりねぇっつーの」
「いいえ、鏡矢さん」
 鏡矢の剣幕にもまったく怯まず、哲知は鏡矢に振り向いて神妙にうなずく。
「必ず幸せにします。僕と祝言を挙げましょう」
 この友人ってまったくぶれないよなぁ。なおは感心しながらうなずいていた。
 鏡矢はまだちょっと友人が心配なようで、子どもに言うようにつぶやく。
「ったく、いつになったら目ぇ覚めんだよ。お前もう十六だろ」
 いや、赤ん坊の頃から十六年経っても冷めない恋なら、もうそれは一生冷めないんじゃないでしょうか。なおはそう思いつつ、そっと言葉を挟む。
「僕、お邪魔ですよね」
「俺たちの縁結びはしなくていい!」
 なおが腰を上げようとしたら、鏡矢は両手でなおを引き戻した。
 鏡矢はふうと息をついて、なおに指を差して言った。
「で、話は神使のことだよ。いつまでも美鶴の坊ちゃんが神にならないし神使も選ばないから、上が干渉してきたんだ」
 彼の口調が案外深刻だったので、なおは少し眉を寄せて言う。
「でもなんだってそこまで強引に? 立花さんが嫌がってるなら神使も何もないでしょ」
「うーん、これは長い話になるが」
 鏡矢は明後日の方向を見て、うなった。
 ところが彼はうつろな目でうなずいて言葉をひるがえす。
「……長いからやめた。面倒くせぇ」
「え、ひどい!」
 鏡矢はぱんと膝を手で叩いて言う。
「とにかく、美鶴の坊ちゃんが比良神の跡を継ぐのは決定事項なんだよ。上も下もあっちもこっちも、みんなそれを待ってんだ。そんだけさ」
「はぁ」
 なおはあいまいな返事をして、ふと目をまたたかせる。
 あれ、でも後を継ぐということは。
 ……そうなったら、彦丸はどうなるんだろう?
 鏡矢はなおを見て問いかける。
「どうした?」
「あ、いや」
 なおは首を横に振る。美鶴を次の比良神にするのは彦丸の願いに違いない。美鶴の神使候補を考えているくらいなのだから当然だ。
 鏡矢はいもをいじりながらつぶやく。
「ああ、でも上の役人が神使になるのはありがたくねぇなぁ。あいつらって、昔風の侍って感じなんだよな」
 鏡矢はたき火を木の枝でかきまぜてぼやく。
「何かと統一するのが好きでな。死者を呼んできてでっかい組織作って、昔からこの世のあれこれに口出ししてくるんだ。俺みたいな古参妖怪はあいつらが苦手なんだよ」
 なおは康太のことを思い浮かべる。確かに独特の雰囲気があって、ちょっと怖いときもある。
 でもそんな影を帯びた印象はなかった。その印象のままになおは言う。
「ずるいところがなくて、信用できる感じでしたけど」
 なおの言葉に、鏡矢は苦々しい口調でつぶやいた。
「それが問題なんだ。あいつら、仕事しすぎなんだよ」
「どういうことですか?」
「日没の決戦を見りゃわかるよ」
 鏡矢はうなって言葉を続ける。
「この世の俺らが心配することじゃねぇんだろうけど、命かけて仕事するなよなって言いたくなるぜ。……ん、てっち」
 鏡矢は気を取り直したように哲知を振り向く。
「てっち、いつまでしいたけ食ってんだ。魚も食え。でかくなれねぇぞ」
 なおはそれを横目で見てほのぼのする。
 なおは哲知が鏡矢にべったりなのは、鏡矢が構いすぎるからじゃないかなと考えていた。




 ある日、仕事から帰る道中、なおは忘れ物に気づいた。
 田中家に戻る途中、なおは風に吹きさらされて目をつむる。
 秋風が冷たくなった頃だが、まるで氷の粒が顔に当たるような風だった。まさか雪が降るには早すぎると、なおは空を仰ぐ。
「覚悟を決めろ……か」
 空を見ながら鏡矢の言葉をつぶやく。
 なおはこの一年間を臨時の奉公で食いつないで、来年は江戸に行くつもりでいる。美鶴のところは居心地がいいが、これから先ずっと一緒にいるというのはなおのわがままだろう。
 この半年、転がるように過ごしてきた。彦丸に絡まれて神使の神使候補にされて、縁結び祭りに参加して、外回りで働いた。
 転がるならそこからつながっている舞台へと思って進んできたけれど、それもいつまでも続くわけじゃない。
 母は自分の好きな道に進みなさいと言って、なおを送り出してくれた。
 でもなおの好きな道というものは目に見えて描かれているわけじゃない。近頃、それを強く考えるようになっていた。
「わ!」
 ふいに吹き上げるような風にあおられて、なおは顔を覆った。
 全身を氷の粒が撫でていく。なおは足先から凍るようなそれに、思わず立ち止まる。
 風はまもなくやんだ。けれど代わりに、目の前が点滅するような悪寒がした。
「……え」
 顔を上げると、そこには青い狐が一匹立っていた。
 イノシシくらいはある巨大な体躯で、青白い毛並みがなびくたびに氷の粒が飛んでくる。透き通る瞳は、生き物が棲めない色をしていた。
 なおはぞくっと身を引いた。まるで冷気がそこから生まれてくるみたいに、周りに氷の柱が伸びていく。
 氷の檻の中に閉じ込められる。そういう図がなおの中に浮かんだとき、青い狐は瞳孔を細めてなおの方に突進した。
 ふいに誰かの声と共に、なおは引き寄せられた。
「離れて!」
 なおは知らず目を閉じていたらしい。
 目を開くと、そこは曲がりくねった暗い道だった。地面が砕いた硝子のように散らばっているのを見て、霊道に引っ張り込まれたのだと気付く。
 そこに注意深く辺りを見やりながら立っていたのは康太だった。彼は振り向いて、確認するようになおにたずねる。
「大丈夫ですか」
「……は、はい」
 康太は手で周りを押さえながら、霊道の出口が塞がっていることを確かめている。
 あの狐の姿は見えない。でもなおは震える声でたずねた。
「康太さん。何が……起きてるんですか?」
 なおの声が震えたのは、寒さのせいではないと自分でわかっていた。体が勝手におびえてしまっていて、足元から崩れ落ちそうになる。
 あれは、よくないものだ。言葉で教えられるより先に、なおの体が気づいていた。
 康太はなおの問いには答えずに言う。
「説明する時間がない。安全な場所まで案内します。一緒に来てください」
 なおは康太に手を借りながら立ち上がった。
 なおは急ぎ足で先に歩き始める康太についていきながら、まだ震える声でたずねる。
「さっきの……今までの妖怪と違う。外回りの仕事ですよね? 僕も何か働いた方がいい……ですか?」
「いいえ」
 康太は迷わず首を横に振って否定する。
「あなたには手に負えません。あれは日没の決戦対象の死者ですから」
「日没の決戦対象?」
 康太は足を止めないまま早口でなおに言う。
「長く生き過ぎた死者は、どうあっても生命力が強すぎるんです。それをあの世に送ることができるのは、この町では田中家のご当主さましかいません」
 えんさん、日没にそんなことを。普段のなおだったら突っ込むところなのに、今は一刻も早くこの冷気から逃れたい思いしか湧いてこない。
 話すこともままならないなおに気づいたのか、康太は珍しく安心させるように言った。
「大丈夫。時間稼ぎくらいなら私でもできます。今あなたがすべきことは、逃げること。いいですね?」
 そう言われて大人しくうなずいてしまう自分が情けなかった。
 なおは康太に手首をつかまれたまま霊道を歩く。
 硝子のような塵がぴりぴりと震えていた。まるで空気さえおびえているようで、なおは霊道が決して安全ではないのを悟る。
 永遠のような静寂の中、康太はふいに顔をゆがめる。
 なおも異変に気付いた。頭上がひしゃげるような違和感が伝わってきた。
 康太は舌打ちをしてつぶやく。
「……気づかれた」
 康太は地面に手をついて、そこに指で何かを描きはじめた。なおはうろたえてたずねる。
「な、何してるんですか?」
「結界を張って食い止めます。直助は円城寺まで走ってください」
 またひしゃげるような圧迫感が襲ってきた。なおはとっさに首を横に振って言う。
「一緒に行きましょう!」
 なおの言葉は気弱とも取れたに違いないのに、康太はそうは受け取らなかったようだった。
 康太はふっと苦笑して応えた。
「ありがとう。……でもこれは私の仕事ですから」
 このひとはやっぱり仕事熱心で、誠実な人だ。こんな状況で今更それを確認してしまったのが悔しかった。
 なおは精一杯の強がりで言う。
「僕だって一人で逃げるわけにはいかないです」
 康太は苦い笑みを浮かべたままなおを見て、後は何も言わなかった。 
 康太は黒い線で奇妙な模様を描いていく。線の周りには葉っぱをばらまいて、何かをぶつぶつとつぶやき続けていた。
 康太の額から汗が流れていた。それだけで、事態の緊急性が伝わってきた。
 たぶん半刻もない時間の後、康太はようやく線を引き終わった。なおの目にも、「終」の文字が見え始めたときだった。
 なおはごくんと息を呑む。
「あっ」
 霊道の天井が玻璃のように砕けて、青い狐が飛び降りてくる。
 吹雪になった風が痛いほどに吹き付けてきた。
 ……神の怒り。それを肌で感じたのは彦丸が怒ったとき以来だった。
 青い狐が牙をむきだしにして飛びついてくる。
 康太はなおの前に立ちふさがって叫んだ。
「直助、伏せて!」
 康太は狐の首を両手で掴んで力をこめたようだった。
 地面の模様から雷撃のような光が迸って狐を縛る。だけどその光は康太にもからまって、康太の顔を苦しそうに歪めた。
 視界が真っ白に染まっていく。なおは呼吸すらも忘れて、その渦に呑まれて行った。



 なおが体を起こしたとき、遠くにどこかの空き地が見えた。
 空き地にはぽつんと箱が作られていて、なおは覗き込んだわけではないのに、そこに横たわる黒い老犬を見ていた。
 その老犬の入った箱の前で、十歳ほどの男の子が泣いている。
 なおは男の子の顔立ちに見覚えがあった。なおが食い入るようにその光景をみつめていると、なおの隣に康太が立った。
 康太は箱の中の老犬を親しげにみつめて、懐かしそうに話し始める。
「私は生前、主人を次々と変えました。若い頃の私は見目麗しく、どこへ行ってもかわいがられたからです」
 康太は遠い世界を仰ぐようにして目を細める。
「でも誰しもいつかは年を取る。私はどこにも頼りがなく一人で死期を迎えようとしていました。そんな私を拾ったのが、美鶴さんだったのです」
 康太の視線の先には小さな男の子がいる。
 男の子は何度も黒い老犬を撫でて、泣いて、また撫でては泣いていた。
 康太はなおに話すというより、男の子に語り掛けるように言葉を続ける。
「私はもう全盛期のように美しくありませんでした。汚れて匂いもきつかったでしょう。弱っていて、散歩もできなければ一緒に遊ぶこともできなかった」
 黒い老犬はもう動かないまま、見開いた緑の瞳に男の子を映していた。そこに痛みや苦しみはもう無く、安心に身を委ねているように見えた。
 康太の今の姿は若々しい青年だ。だが彼の口調には、老いて得た心がにじんでいた。
 康太は懐かしいものを見るように老犬と男の子をみつめて言う。
「でも美鶴さんは私を看病して、何か食べられるものはないかと苦心して、毎日毛並みを梳いてくれたんです」
 なおも知っている。美鶴はそういう人だ。弱い者を放ってはおけないから、家を失くしたなおにも手を差し伸べてくれた。
 康太はひととき口をつぐんで、ほほえみながら口を開いた。
「……私が美鶴さんと一緒に過ごしたのは、私が死ぬ前の十日間だけでしたが」
 なおは彼が美鶴に髪を乾かしてもらっていた時の柔らかな表情を思い出した。彼の生涯でほんの一瞬のとき、それを抱きしめるようにして康太は言う。
「私の死にめいっぱい泣いてくださったのは、美鶴さんだけなのです」
 康太はふいに歩み寄って幼い美鶴の横に屈む。
 美鶴は康太が見えない。けれど康太は透ける腕で、泣きじゃくる美鶴の頭を抱きしめる。
「泣かないで、最後のご主人。あなたに会えて幸せでした。あなたが忘れても、ずっとずっと覚えています」
 言い聞かせるように告げて、康太は幼い美鶴から離れる。
 なおははっと息を呑む。康太の姿が霧のように薄くなっていた。
 なおは彼の名前を呼ぼうとしたが、康太はそれを制するように首を横に振る。
 康太は薄れていく指先で、なおの手に「終縁」と書いた。
「さよなら」
 その言葉を聞いた途端、なおの視界が真っ暗に沈んだ。



 なおの意識がなくなっていた内に、康太が青い狐となおの縁を切ってくれたらしい。
 けれどなおが目覚めたときにはすでに、康太の姿はこの世になかった。
 サイコロ屋敷で話を終えて、えんは沈痛な面持ちでうつむく。
「駆けつけるのが遅すぎました。私の力不足です」
 なおはいろりの側で横になったままその言葉を聞いていた。
 なおに怪我はなく、体もどこも痛くない。それがかえって、康太にだけすべてを負わせてしまったようで悔しかった。
 いろりを挟んだ向かい側で、彦丸がえんに言葉を返す。
「仕方ない。相手が九尾では君も危なかった。上に任せて正解だったよ」
 彦丸は袖に手を入れたままで言葉もそっけなかったが、長い沈黙の間何か考えているようだった。
 なおは体を起こしたが、言葉が出てこなかった。
 たった二か月だったが、毎日顔を合わせていた康太がいない。まだ何も実感がなくて、屋根裏からひょっこり降りてくるような気がしてならなかった。
 やがて彦丸は話を打ち切るようにして言う。
「さ、えん。君こそ疲れているだろう。もう帰って休むといい」
 彦丸はえんにそう勧めたが、えんも帰りがたそうにしていた。
 美鶴もいろりの側に同席して、黙ったままだった。彼もまた深く考えこんでいるようだった。
 えんはうつむいたままぽつりと告げる。
「お心遣いに感謝します。……では、私はこれで」
 えんが去って行った後も、しばらく誰も話さなかった。
 やがて美鶴が身じろぎして、おもむろに口を開く。
「彦丸。康太さんって、もしかして僕が小さい頃に世話したあの康太?」
 彦丸は答えなかった。それが肯定になった。
 美鶴は目に涙をにじませてうなずく。
「……そっか」
 如来さまを泣かせてしまう。その事実はなおの心に拒否反応のような痛みを走らせた。
 なおは深く考えたつもりはなかった。けれどもじっとしていることだけはできなくて、弾けるように顔を上げて告げていた。
「立花さん。僕、あの世に行ってきます」
 どうしてそんなことを言い出せたのか、なお自身わからなかった。
 驚いて振り向いた彦丸と美鶴の前で、なおは勢いのままに言う。
「面接で聞いたんですけど、あの世に行って戻ってくる方法っていうのがあるらしいんです。僕のせいで康太があの世に行ったなら、僕が取り戻してきます」
 美鶴より少し早く驚きから立ち直ったようで、彦丸が静かに問いかける。
「では、それができた人間のことを聞いたことがあるのかい?」
 彦丸に問われて、なおは首を横に振る。
「知らない! やったことないから!」
 なおは開き直って胸を張る。
 今それをやらなければいけないと思った。それが無謀だとか無茶だとか、考えている暇はなかった。
 彦丸はあぐらをかいて座っていたが、ため息をついて言う。
「やれやれ。直助は思ってたよりやんちゃだな」
 彦丸はゆっくりと立ち上がって、床をトンと叩く。
「……じゃあ私も行くしかないじゃないか」
 突然家が揺れたかと思うと、彦丸が今しがた踏んでいた床が抜けた。
 底のまったく見えない暗い穴が、ずっと下まで伸びている。
 なおはまんまるな目をしてぼそっと言う。
「……へ?」
 何が起こったのかわからない。そんななおに、彦丸はさらりと言う。
「私は下の系列の神だと言ったろ? あの世にはくわしいんだ」
 下って、地理的にこの屋敷の下からも行けるのか。なおは呆然としたが、彦丸はふいに顔を引き締める。
 彦丸はなおの覚悟を問うように言った。
「言っておくが、この下は君の知っている世界とは違うよ。……いいかい?」
 なおはごくりと息を呑んで、馬鹿にするなとにらみつける。
 なおは胸を押さえて叫んだ。
「行く!」
 瞬間、なおのところまで穴が広がっていた。
 彦丸にトン……と軽く肩を押されただけで、なおの体はあっけなく倒れる。
 一瞬の浮遊感。その後、不安を感じる前に穴にはまっていた。
「う……わぁぁぁ!」
 なおは穴の中へ、まっさかさまに落ちていく。
 彦丸はひらりと手を振って言った。
「行ってらっしゃい、黄泉の国」
 彦丸の姿さえ、あっという間に遠ざかっていった。
 ……自分の扱いってひどくない?
 なおはそんなことを、果てしなく落下しながら思っていた。
 古今東西、あの世の恐ろしげな噂は絶えない。血の池があるとか悪魔がいるとか、とにかくなおも結構緊張していた。
 それで、なおと彦丸が向かったあの世、「黄泉の国」はというと。
 その人は朗らかに天に向かって告げた。
「比良神ご一行、ご到着ー」
 なおと彦丸は赤いはんてんを来て「熱烈大歓迎」と旗を持った人に出迎えられた。
 見渡せばあちこちを浴衣姿で歩き回る人たちや動物がいて、町の至るところに足湯が設置されている。雲一つない空は青く、左右には屋台が立ち並んでいた。
 なおはしばし言葉もなく立ちすくんだ後、念のため確認する。
「……ここ、黄泉の国ですよね?」
「あ、がっかりしました?」
 はんてんのおじさんは薄くなった頭をかいて苦笑する。
「もっと大胆に地獄裁判とかやったりする国もあるらしいですけど、どうも私らはそういうのが苦手で。地味ですみません」
「いや、安心感があってとてもいいと思いますよ」
 あちこちから湯気がたっているところを見ると、ここは温泉郷らしい。体感気温も春めいた温かさで、のどかなこと極まりない。
 おじさんは彦丸をみとめると、ぺこりと頭を下げて言った。
「ご無沙汰してます、比良神。お元気ですか?」
「まずまずだよ。君はたぶん忙しいだろうね」
「そうですねぇ、九尾を探すのにまったく人手不足で」
 おじさんはくたびれた顔ながら笑ってみせる。
 なおはその名前に聞き覚えがあって、おじさんに問い返した。
「九尾?」
「おや、ご存じないですか?」
 なおは怪訝な調子で訊いたが、おじさんは世間話のように話してくれた。
「黄泉の国には九尾っていう狐がいるんですけどね。先日その狐が盗まれて、そちらの世界に行ってしまったみたいなんですよ」
 あの世から来た狐。なおはあの青白い狐に向き合ったときの恐怖を思い出して、ぞくりとする。
 おじさんもごくりと喉を鳴らして声を低める。
「黄泉神の大事な飼い狐ですから、早く取り戻さないと……」
 それはあの世の一番偉い神様のものらしい。それって黄泉神がとんでもなく怒りだすんじゃないか。
 なおが天罰を想像して息を呑んだら、おじさんはため息と共に言う。
「……帰ってきてくれないと、黄泉神が働かなくなってしまうじゃないですか」
 それは重大事と認識していいのか。なおには疑問だったが、おじさんにとっては深刻な結果らしかった。
 ところがおじさんはその話を続けるつもりはないようで、朗らかに話題を切り替えて言う。
「それで、比良神。今回のご訪問の目的は観光ですか?」
「観光に来る人いるんですか」
 なおは思わず突っ込んでしまった。
 ところが彦丸もまた朗らかに答える。
「うん。久しぶりに湯治巡りをしようと思っていてね」
「ちょっ……!」
 そんなわけないでしょと言おうとしたなおだったが、おじさんの次の言葉にぴたりと止まる。
「黄泉神の御殿の湯がお勧めですよ。……上からのお客様にもご満足いただいていますし」
 おじさんは無害そうな、人好きのする笑顔で何やら含みのある言葉を告げた。
 彦丸は笑顔を張り付けたままうなずく。
「そう……ありがとう。ではまた、ね」
 微妙に言葉を濁して、彦丸はなおを連れて歩き出した。
 ほかほかの湯気が立ち込める中、彦丸となおの間には冷えた沈黙が下りる。
 なおはおじさんが見えなくなった辺りで、辺りをはばかりながら言う。
「……さっきのおじさんの言葉」
「つまり、確実に黄泉神が罠を仕掛けて待ってるってことだよ」
 彦丸は振り向かないまま、少し不機嫌そうに告げる。
「黄泉神の第一の神使が出迎えに来た時点でおかしいと思ったんだ」
 なおは思わず足を止めそうになって、何とか言葉を続ける。
 あの世では振り向いてはいけない。そんなことを今更ながら思い出しつつたずねる。
「……あのおじさんそんな偉い人だったの?」
「門番に化けてたけど、私より遥かに格上の神だよ。……なお、もう振り向いても大丈夫」
 彦丸に言われてなおはようやく振り向いたが、もうそこにおじさんはいなかった。
 腰の低さと髪の薄さにあっさり惑わされてしまった自分が情けない。
 なおは温泉郷に和んでいた自分を恥じた。ここは死者の国なのだ。
 なおは前に向き直りながらたずねる。
「黄泉神は、そう簡単に康太さんを帰してはくれないってこと?」
 あの世に行ったものを連れ戻すというのは、昔話ではやってはいけないことの代表だ。
 なおが急に寒くなって来て体をさすりながら問いかけたら、意外にも彦丸は首を横に振った。
「いや、黄泉神は単に絡むのが好きなだけだよ。帰したくなったら帰してくれるさ」
「それ、帰したくなきゃ帰さないんじゃ」
 なおが遠い目をすると、彦丸は苦笑してみせる。
「私の上司だよ? 悪い御方じゃない」
 屋台の間をくぐりぬけながら、彦丸は付け加える。
「ちょっと曲者なだけ」
 彦丸は路地裏に入った途端、なおを振り向く。
 腰に手を当ててにやっと笑う彦丸を見て、なおは嫌な予感と少しだけ安心感を覚えた。
 彦丸は黄泉の国にいるという事実に反して、いつも通り楽しそうに言う。
「別行動をしないか、なお」
 彦丸がこういう顔をするときは大抵、人を手のひらの上で転がすようなことを考えている。けれどなおとしては、今は不本意ながらそれが心強い。
 なおを指さして彦丸は言う。
「なおは単身で黄泉神の御殿に入って、適当に黄泉神をひきつけておいてくれ」
 そんな無茶苦茶なとなおは思ったが、よくよく考えると以前にもこんなことがあったと気付く。
 なおは少しむすっとしながら言う。
「平々凡々な僕なら、その辺ふらふらしててもごまかせると?」
「いいや、逆だね」
 彦丸の狐目はにやりと笑みの形を作った。
 彦丸はなおを指さして断言するように言う。
「黄泉神はなおに絡んでくる。絶対に」
「なんで?」
 なおが思わず問い返したら、彦丸は事も無げに笑った。
「だって黄泉神のことだもの。私は、黄泉神のことは自分のことみたいにわかるからね」
 どこからそんな自信がわき出てくるのか。なおは彦丸の頭の構造を覗いてみたかった。
 彦丸はなおを試すように言葉を続ける。
「その間に私が康太を連れてくるよ。なに、黄泉の国から出てしまったら上の神のものに手出しなんてできないからね」
「それ、失敗したらすごく危なくない? 相手は黄泉の国で一番偉い神様なんだろ?」
 なおはそう言ったが、いつも百発百中で彦丸の手のひらの上で転がされた自分を思い返すと、文句をつけられるほど根拠がない。
 それに彦丸はずいぶんと黄泉神のことを知っているようだった。上司だと言うが、その声色はもっと近い存在のことを語るようだった。
 なおに別の策があるわけではない。それになおだって康太を取り戻すために穴に飛び込んできたのだから、その穴が黄泉神の御殿になったとしてどうだろう。
 なおは気に入らないながらも、今は彦丸を信じるしかないと腹をくくった。
「……わかったよ。やろう」
 なおが自分から手を差し出すと、彦丸は狐目を細めてその手を握り返した。 





 黄泉の国で一番偉い神が、黄泉神。だったらその御殿はさぞかしすごいものだと想像できるだろう。
 ところが看板娘らしいお姉さんになおが案内された先は、見慣れた建物があった。
「こちらが黄泉神の御殿です」
 なおはそれを見上げて思わず声をもらす。
「ん?」
 そこには大きな四角の塊がでんと置いてあって、入口の壁にはサイコロのように黒点が並んでいる。
 なおは言っていいのかわからないながらも言ってしまった。
「僕、この建物見たことあるんですけど」
 それはなおが普段住まわせてもらっているサイコロ屋敷そのものだった。
 看板娘のお姉さんはにこにこしながら返す。
「あ、黄泉からの出張所をご存じですか。国内に数百ありますので」
 お姉さんは観光案内らしく丁寧に説明してくれる。
「昔、黄泉神が通ったところに社を立てて、その守りとして出張所を置いているんですよ」
「それで数百ですか。ずいぶんたくさんあるんですね」
 なおが感心しながら見上げると、お姉さんは拳を握り締めて言った。
「上に負けるわけにはいきませんから! ささ、どうぞお入りください」
 そんな対抗心が必要か否かは置いておいて、とにかくなおはサイコロ屋敷の本家に踏み込む。
 中は懐かしい風合いの家だった。茶褐色の天井に古びた提灯が下がり、壁にはべたべたと歌舞伎のチラシが貼られている。
 なおは辺りを見回しながら誰にともなく問い返す。
「……一番偉い神様の御殿?」
 将軍様の御殿みたいな絢爛豪華な屋敷を想像していたが、そこは実に生活感漂う空間だった。
 確かに広い屋敷ではある。でも偉い人が構えているような敷居の高いところではなくて、どこにでもある作りをしていた。至るところでいたずらっ子たちがお絵描きをしでかしたような、汚れきった柱が天井を支えていた。
 なおが立ち止まっていると、誰かがなおに声をかける。
「わかっとらんな、坊主」
 なおが声に振り向くと、そこにいろりがあった。いろりを囲んでいもを煮ながら、おじいさんたちがうなずく。
「この懐かしさ、安心感。帰りたくなる家とはこういうもんじゃ」
 なおは何か言おうとして、ふいに言葉を忘れた。
 冷えたところからふいに家に帰ったような気持ちに包まれる。
 言葉にするのも今更。そういう安心感がなおを黙らせたように思えた。
 おじいさんたちはうたたねを始めていた。なおはそっと横を通り過ぎる。
 お茶を飲んでくつろいでいる夫婦や昼寝をしている猫、クモの巣の張った天井なんかを見送りながら廊下を奥へと進んでいく。
 どこまでも続いていきそうな廊下だが、おどろおどろしいものが出てくる気配はない。次第になおは忍び込んだことも忘れて足を弾ませる。
 なおはふと声を上げる。
「あれ?」
 なおがふいに興味を引かれたのは天井に伸びるはしごだった。なぜか暗くて狭いところに行ってみたくなる子どもの頃の気持ちが蘇る。
 こういうのって、探検みたいで楽しい。気持ちが踊って、それを止める気もなかった。
 きしむはしごを上って天井裏に続く板を外す。ぶわっとほこりが顔を覆った。
 その瞬間、なおは白い視界の中で不思議な光景を見た気がした。
 屋根裏の隅で、小さな男の子が体を丸めてうずくまっている。服はぼろぼろで何日も洗っていないようで、髪も伸びっぱなしだった。
 不思議と怖い感じはしなかった。ただかわいそうだと思った。外界のすべてを拒絶している子。そんな印象を持った。
 まばたきをしたら、男の子はもういなかった。窓の隙間から太陽の光が差し込んでいて、床へ斜めの金色の線を作っていた。
 なおはぼそりとつぶやく。
「……立花さんだった」
 あれは確かに幼い美鶴だった。なおの中に小さな火のような反抗心が湧く。
 見えない何かに都合のいいものを見せられている気がしていた。そしてそれはおそらく黄泉神のせいなのだろう。
 なおは口だけで笑ってつぶやいた。
「絡まれてやろうじゃん」
 なおは屋根裏の扉をぱたんと閉じる。階段を下りてくると、そこは先ほどとは違っていた。
 室内は立派な屋敷になっていて、力強い梁のある黒い木造の家だった。磨き上げられた廊下を歩きながら、なおは外を見やる。
 小さな美鶴が、生垣の外でそろそろとこちらをうかがっている。
 なおはそれを見て、呼びかけたい思いに駆られた。それも何者かに動かされているようで、不気味な気分だった。
 まばたきをしたら、やはりそこには誰もいなくなっていた。代わりにサザンカの木が赤く咲き誇って、秋のしんとした空気に映えていた。
 見覚えのある生垣だった。なおはそれを稲香町で見た覚えがあった。
 見たのは、確か外回りの仕事で北の方に行った時だった。鳥が翼を広げるような雄大な屋根と垣根のサザンカが見事なその屋敷は、古い時代の高貴な方の隠れ家だったと聞いた。
 人の姿は見えないのに、どこかで誰かが心配そうにささやく。
「美鶴君、まだ来ないのかしら」
「迎えには会えたんだろうか」
 若い男女がざわざわと話していて、その声を聞いているとなおの中に不安が立ち込める。
 もうそこは温泉郷ではなく、なおのよく知る稲香町の光景になっていた。田んぼの金色の稲穂が揺れていて、その向こうで山が鮮やかに紅葉している。
 キンモクセイの香る小道に神社の石段、ゴロゴロと石が転がる河原、けもの道のような草木の間を分け入る道。
 いつの間にかなおは外を歩いている。でもそんな自分に気づいても、なおは立ち止まれない。
 つかみどころのない不安はもう襲い掛かるような恐怖に変わっていた。早く、早くとなおを突き動かして、自分では抑えきれない。
 なおはあちら側の世界と道の通じる山まで来て、向こうに行こうとしている男の子に気づいた。
 危ういほどにたおやかでどこか色香のある不思議な少年、たとえ年齢が幼くなっていても見間違えるはずはない。
 なおの中に、止めなければという思いが襲ってくる。
「立花さん、待って!」
 悲鳴のように叫んで、なおが手を伸ばそうとした時だった。
 視界の隅に、動物の尻尾のようなものが映った気がした。
 ……カラン。
 サイが転がる音がする。それとともに誰かの声が聞こえた。
「間に合わないよ、それはもう終わったことだからね」
 視界は暗転して、なおは意識を失っていた。



 目が覚めたら、なおは実家のいろりの前に座っていた。
 なおの目覚めの声は、懐かしい一声だった。
「こら、なお。いい加減起きなさい」
「ん……」
 なおはそれに怪訝な目を向けて、裏返った声を上げる。
「……母さんっ!?」
 心配そうに眉を寄せてなおを覗き込んでいたのは、遠くに嫁いだはずの母だった。
 なおは混乱して言葉を探す。
「なんでここに? え、いや、あれ?」
 なおはごくんと息を呑んで母に問いかける。
「まさか嫁ぎ先が、黄泉の国だったってこと?」
「何言ってるの。まだ寝ぼけてるのね?」
 母は顔をしかめて、しょうがないわねというように笑った。
「お母さんがそんな遠くに行くわけないでしょ。なおの世話があるのに」
 なおはそれを聞いて、なんだかわからなくなってくる。
 考えてみればそうだ。子どもの頃から過保護だった母が、なおを置いて嫁いだりなどするだろうか?
 母は今帰ってきたようで、立ち上がりながら言う。
「遅くなってごめんね。今ごはん作るからね」
 母がかまどに向かってまもなく、湯気の匂いが立ち込め始めた。
 なおの物心つく頃からの光景だった。なおはいろりで遊んでいて、母は台所仕事をしている。
 いつか母は言っていた。なおはお母さんの一部みたいなものよ。
 その距離感は、きっと近すぎる。二人の人間が一緒のはずがないのだ。なおだって、そんなことはずっと昔から知っていた。
 なおは懐かしさに胸がつぶれるような思いがしながら、でも言っていた。
「母さん」
 なおが呼ぶと、んー?と母が間延びした声で相槌を打つ。
 それ、本気で聞いてないでしょ。……でもいつだって、聞いていてくれたよね?
 眠りに落ちる直前のように心地よいゆりかごの時間がそこに広がっていた。
 なおは息を吸って母に告げた。
「……知ってるよ。この家はもうないんだ」
 本当のことより幻の方がずっと心地よいのは知っていた。
 でもなおと母が離れて、別々の場所へ発ったのは事実だった。
 なおはゆっくりと立ち上がる。母は……母の姿をした誰かは、なおを静かに見ている。
 なおは彼女に笑いかけて言った。
「半年間、ずっと見たかった夢なんだ。ありがとう」
 夢と口にした途端、冷たい風にさらされる。台風にでも遭ったように、いろりも壁もすべて吹き飛んで景色が塗り替わる。
 なおは何かを壊してでもつかみたいものがあった。それを探して歩いて、稲香町に辿り着いたはずだった。
 そのひとはふうんと言って、いつかの彦丸のように笑った。
「私は意外と面白い拾い物をしたようだ」
 楽しげな女性の声が響いたとき、そこはもういつものサイコロ屋敷のいろりの前だった。
 いろりの向こうには黒い石造りの狐が立っていて、なおをみつめていた。
 サイコロ屋敷の横にある狐とそっくりだった。ただ、何かが違う。それが何かは口に出せないが、まちがいなく彦丸ではなかった。
 なおは緊張で顎を引いてから問いかける。
「あなたが黄泉神ですか?」
「はじめまして。楽にしていいよ」
 黒狐は涼しげな女性の声でなおに答えた。
「比良神の上司というか、親かな」
「親?」
 なおが率直に問い返したら、黄泉神はうーんとうなる。
「それを説明するには、ちょっと長い話になるけどね」
 空中を飛び回るように、その声は上に行ったり下に行ったりする。
 黄泉神はじっくり考えたようで、しばらくしてから言った。
「始まりは、今から千年ほど昔のこと」
「本当に長い話ですね」
 なおは思わず言ってから、よく考えると偉い神様に失礼だったかもしれないと思った。
 なおはぺこりと頭を下げて謝る。
「失礼しました。先を続けてください」
「君のそういうところ好きだよ」
 どうしてなおのことを知っているんだろうと思ったが、神様のことだ。毎年集まって話し合うらしいから、どこかでなおのことも見聞きしているのだろう。
 くすくすと笑って、黄泉神は言った。
「ありがとう、続けるよ。千年ほど昔、私の十代ほど前の黄泉神が君の住む世界をくるっと一周したらしい」
 なおは神様は代替わりするのだと哲知に聞いたのを思い出した。如来さまみたいにずっと長く人間を見ていてくれるのではなく、交代していくらしい。
 だから黄泉神というが、今なおの目の前にいるのは何代目かの黄泉神らしかった。彼女はずっと前の黄泉神のことを親し気に口にする。
「その時の黄泉神は狐神でね、なかなか人々や妖怪に評判がよかった。彼の金色の尻尾を見ると幸運が訪れるとうわさになって、「幸運の神様」といわれた」
 幸運の神様。なおは口の中で繰り返す。
 黄泉神の声はなおのすぐ先、目の前の狐に宿りながら言う。
「その通称幸運の神様が辿った道筋に、今ここにある狐のほこらがたくさん作られて、ついでに黄泉の国の出張所としてのサイコロ屋敷が出来たわけさ」
「なるほど」
 なおはこくこくとうなずいて、はたと手を打つ。
「納得しかけましたが、その話と彦丸の親の話にどんな関係が?」
「あ、ごめん。ちょっと遠回りしちゃった」
 黄泉神はかわいく謝ってみせた。
 彼女は少し話を戻してなおに続ける。
「幸運の神様は黄泉神を引退してからも、そちらの世を渡り歩いていた。これはごく最近まで続いていたんだよ」
 黄泉神はふっと笑って言う。
「あるとき稲香町を通りかかって、麗しい少年をみつけた。美鶴君だ」
「さすが立花さん。神様にも好かれますね」
 なおが何の抵抗もなく相槌を打つと、黄泉神もうなずく気配があった。
「幸運の神様は美鶴君に惚れたんだろうね。彼に自分の力を分け与えようと近づいた」
 この時までは、なおはこれを笑い話なのだと思っていた。
 神様は気まぐれで人間に絡んで縁を結ぶ。それを知っているつもりになっていて、それがどれほどの影響を与えるのか理解していなかった。
 黄泉神は一息分の後に何気なく言った。
「その邪魔をしようとして、一緒にいた彦丸は死んだ」
「……え?」
 なおは稲香町で夏に浴びた、季節を忘れるような冷水を頭からかぶった気分になった。
 なおは恐る恐るその言葉を繰り返す。
「死んでしまった……?」
「そう」
 黄泉神は相槌を打ってなおに言う。
「でないと美鶴君が死んだからね。力のある神が体当たりしたら、命は吹き飛ぶから」
 黄泉神の声はあくまで淡々としている。それが神様の目での事実なのだろう。
 でも人間の目でそれを見ると、美鶴が命を奪われそうになって、それを庇った彦丸が死んだということだ。
 なおは首を横に振って言う。
「……あんまりじゃないですか。彦丸には酷い仕打ちですよ、それ」
「そうだね」
 黄泉神は一応人間の目も持っているらしく、なおに同意して続けた。
「でも美鶴君にとってその縁は幸いだった。美鶴君は十歳まで人の言葉が話せなかったんだから」
「え?」
 息を呑んだなおに、黄泉神が告げる。
「人の世界で美鶴君が知っていたのは暴力だけ。彼を育てたのは妖怪たちだった」
 黄泉神はなおに問いかける。
「美鶴君が幸運の神様と縁を結んだのは悪いことかい? 美鶴君は自分を育ててくれた妖怪たちがいるところ、あちらに行こうとしただけなのに」
 なおは先ほど垣間見た光景を思い出す。屋根裏で体を丸めていたぼろぼろの子ども。生者としては危ういような空気をまとっていた。
 黄泉神の言うことはなおもわかる。きっと美鶴は人の世界で生きられなかった。彼の取った選択は、他に方法がなかったから。
 なおはうつむいて低くつぶやく。
「でも彦丸は死んだ」
 美鶴の選択の代償をなおが口にすると、黄泉神はそれに答える。
「うん、彦丸は神様になった。幸運の神様と強い縁ができたから」
 ある日突然、大物妖怪にぶつかられて縁が出来る。なおも以前聞いたことがあった。
 黄泉神は親しげに彦丸のことを話してみせた。
「彦丸は幸運の神様とぶつかった衝撃で、生きていた頃の記憶が吹き飛んでね。だから私の心を分け与えた。そういうわけで、私は彦丸の親なんだ」
 なおは黙って彦丸のことを考えた。
 彦丸は理不尽に命を奪われた。代わりに神様の地位に座ったが、その原因と言われる美鶴はずっと目の前にいる。
 美鶴はその逆になる。美鶴は彦丸の命を奪ってしまった。神様の地位には座れなかった。でも、その原因の彦丸とはずっと一緒にいる。
 二人は恋人でも友達でもない。お互いの運命を入れ替えた、鏡のようなもの。
 なおがそれを理解したとき、黄泉神が優しく言った。
「みんないい子なんだ」
 黄泉神は愛おしむような声音でなおをさとす。
「最後はみんな私の子になるもの。いつかは全部忘れることさ。もちろんそれが今でもいいんだよ」
 黄泉神の見えない手が、なおの頭にそっと触れたようだった。
「……つらいことは忘れて、私のところに帰ってくるかい?」
 吸い込まれるような懐かしさがなおの胸を衝く。
 眠りに落ちる直前の安息。その中で、ふとなおは思う。
 ……あの家で三人暮らした日々は、そんなに不幸なものだったか?
 そうじゃなかったはずだ。なおは自分の中にある確かな自分の声を聞いた。
 なおは顔を上げて狐を見る。そのとき、なおに黄泉神とは違う声が響いた。
「いつまでその御仁に絡まれてる気だい、なお」
 なおはため息をついてその名前を呼ぶ。
「……彦丸」
 彦丸の声はからかうように応える。
「私たちはこの世に生み出されて、黄泉神の手から離れた。人生、母親のところを離れてからが楽しいんだよ?」
 ぱたん……とふすまの一つが倒れた。
 ぱたぱたと、いつかのように辺り一面のふすまが倒れて風通しが良くなっていく。
 その中で組み上がるものもあった。部屋の上に向かって、紙の階段が伸びていく。
 パンパンと彦丸が手を打つ音が聞こえる。
「おいで、手の鳴る方へ」
 なおは思わず立ち上がって叫んでいた。
「……わかってるよ! いっつも馬鹿にして!」
 なおが一歩を踏み出したのなら、もう早かった。
 なおは紙の階段を駆け上がる。螺旋を描きながら、上へ上へ。
 彦丸のことはいつまで経っても腹が立つ。いつもなおを上から見ていて、見下ろされるなおは劣等感だらけだ。
 けれど腹を立てながら見上げるというのは、生きている実感に近いのかもしれなかった。安息に落ちるには、なおはまだまだ人間が出来ていなかった。
 黄泉神は昔話のように追ってくることなく、ぽつりと告げた。
「親心がわからない子たちなんだから」
 彼女は遥か下で、苦笑交じりにつぶやいただけだった。



 たぶん黄泉神は追う必要がなかったのだろう。
 なおも彦丸もいつか年を取って、生きる力をなくす。そうしたらおのずと黄泉神のところに帰って来る。
 なおは走りながら、この道を先に行った彦丸の気持ちがなんとなくわかった。苛立つように飛び出てきても、やっぱり心の中に居座るのが母。母を嫌いになる日はきっと来ない。
 まあ、嫌いになんてならなくていいのかな。もうちょっとだけ一人で進んでみよう。その程度の決意で階段を上り続けた。
 どこからが黄泉の国でどこからがこの世なのか、たぶん誰も決められない階段を上って、なおはいつの間にかこの世に帰って来ていたらしい。
 見覚えのある円い穴をのぼっていろりの前に出ると、なおは顔をしかめる。
「万次郎?」
 なおを待っていたのは実に湿っぽい男だった。
 サイコロ屋敷のいろりの前で泣きじゃくっているのは、今年の春に縁結びに協力した天狗の万次郎だ。
 万次郎はほろほろと泣きながら言う。
「お待ちしていました……」
 気弱そうな顔がますます弱りきっているので、なおはさすがに心配になって言う。
「何があったの?」
「九尾が……」
 万次郎が口にしかけた言葉に、なおはうっと引いて問い返した。
「まさかまた誰か黄泉に連れて行かれた?」
 なおが慌てて口を挟むと、万次郎は軽く手を振って答える。
「いや、僕はお山の外のことはどうでもいいんです」
「よくないよ」
 なおは力を入れて万次郎をにらんだが、彼はそれすら反応せず泣いている。
 なおが首をひねったら、すとんと隣に腰を下ろした影があった。
 なおが隣を見ると、彦丸が座布団にあぐらをかいて座っている。
「とりあえず万次郎の話を聞こうじゃないか」
 彦丸が何事もなかったかのようにそこにいるので、なおは慌てて問いかける。
「彦丸! 康太さんは?」
「上だよ」
 指を天井に向ける彦丸に、なおは首を傾げる。
「屋根裏?」
「いや、本当に上に返してきた」
 なおは彦丸が言うこの場合の「上」は屋根裏ではなく、上の神様のことらしいと気づく。
 康太さん、黄泉神から取り戻せたんだ。なおは案外しっかり仕事をした彦丸を、珍しく感心の目で見下ろした。
 そういえば彦丸は万次郎に縁結びを依頼されたときも、結果だけを見ればちゃんとこなしていた。
 なおは今まで見えていなかったことをちょっと見たような心地がして、彦丸をしみじみと眺める。
 彦丸はそんななおに気づいて声をかける。
「座りなよ、直助も」
「……ん」
 なおは屋根裏を見上げたが、康太が無事戻って来たならひとまずよしとする。
 落ち着き払ってあぐらをかく彦丸にならって、なおも仕方なくその隣に腰を下ろした。
 なおは仕切り直すつもりで万次郎に問いかける。
「で、九尾がどうしたって?」
 一度息をついてから、万次郎は口を開いて答えた。
「九尾を黄泉から連れてきたのは、こまりちゃんだったんです」
「こまりちゃん?」
「えんさんの娘さんです」
 なおはその名前を思い出す。そういえば万次郎とえんの縁結びの時、えんは前の旦那さんとの間に生んだ娘が万次郎たちとうまくやっていけるか心配していた。
 彦丸はうなずいて言う。
「こまりは今十六歳だったかな。末恐ろしい才能だね」
「……ん?」
 三歳の子なのにすごいね。そういう調子で彦丸が言ったので、なおも一瞬うなずきかけた。
 一拍黙って、なおは目をみはる。
「僕と同い年じゃないか! 万次郎、そんな年の女子のために子どものおもちゃ用意したのか?」
 なおの追及に、万次郎は困ったように応えた。
「だって知らなかったんですよ。こまりちゃんは祝言のとき家出してて」
「黄泉の国まで家出して九尾を盗んできて? 黄泉神が怒って這い出てくるよ」
 なおが混乱のままに言うと、万次郎はきょとんとしてそれにも答えた。
「まあ、九尾を盗んだのも、黄泉神が出てくるのも、僕はどうでもいいんですけど」
「万次郎にとっての大変が何かさっぱりわからない!」
 この天狗、言葉の端々がいらっとする。なおは万次郎の変わらぬ能天気さにあきれながらうなった。
 なおが言葉をやめると、万次郎はまた涙を落として言う。
「僕にとって大変なのは……」
 万次郎はぐすっと涙を呑んでぼそぼそとつぶやく。
「えんさんが、「私の娘がそのような罪を犯して家の名を汚したのは申し訳ない」と言ってですね……」
 万次郎はみるみるうちに目に涙をためて、滝のようにあふれさせる。
「……実家に帰ってしまわれたことです!」
 なおは一瞬黙って、万次郎を見た。
 一息分だけ万次郎のその大変さを考えようとして、何気なく答える。
「それが一番どうでもいいよ」
「酷いっ! 最近の人間の男児には血も涙もないんですね!?」
 目をうるうるさせて訴える万次郎に、なおは愚痴っぽくぼやく。
「うーん、万次郎にとっては大変なんだろうけど。事の大きさが違わないか?」
 なおがうなったら、彦丸が口を挟んだ。
「でも願い事には違いない」
「そうなんです!」
 彦丸が一応神頼みを認めると、万次郎は大きくうなずいた。
「比良神、えんさんと再び縁を結んでください!」
 なおはその頼み事を横目で見て、何だかんだでたぶん彦丸はさらっと叶えるんだろうなと思っていた。
 ところが彦丸はきっぱりと首を横に振って言う。
「残念だけど、今回の縁結びは引き受けられない」
 万次郎の目が驚きに見開かれる。なおも慌てて口を開いた。
「ひ、彦丸。大変じゃないっていうのは言いすぎたよ。相談に乗るくらいは……」
 なおが先ほどの言葉を撤回しようとすると、彦丸は静かに告げた。
「……そろそろ分をわきまえないとね。今回の縁結びを機に、私は比良神の座を美鶴に譲る」
 息を呑むなおの前で、彦丸は宣言したのだった。
 


 翌日の日曜日、なおは万次郎に連れられて再び彼の自宅を訪れた。
 とりあえず自分が話を聞くと言ったら、万次郎は「わらにもすがりたい思いなんで助かります」と彼らしい不用心な本音を告げてきた。
 僕はわらなのかい。そう笑うか怒りたいところだったが、今はどちらもできない。
 彦丸は本気で比良神をやめてしまうつもりなのだろうか。それが気になって、水底に映る月をぼんやりみつめてしまった。
 なおが上の空だったのは、万次郎にも気づかれたらしい。彼はなおを見ながら苦笑して言った。
「わかりますよ。僕もずっと、今の比良神を頼りにしてきました」
「え?」
 万次郎はうなずいて言う。
「今の比良神は、いい神様です。なかなか出会えるものじゃありません」
「……そう思う? 思い返すと、彦丸は出来た奴だったなって気づくんだ」
 なおが心を打ち明けると、万次郎はそうですねと答えた。
 万次郎は少し黙った後、複雑そうな顔で切り出す。
「でも時々は、生きた人間が神様になることに意味があるんですよ。道を開いて、お互いに行き来するために」
 水の中に浮かぶ月を眺めながら、万次郎はつぶやく。
「こちらとあちらの行き来ができなくなると、酷い状態になるんです。妖怪同士が互いに傷つけあって、弱い誰かがいつも泣くことになる」
「今はそんな風には全然見えないけど」
 なおが出会った妖怪たちは、ほとんどが温厚で争いごとを嫌う気質だった。そんな激しい世界を生きてきたようにはとても思えない。
 万次郎は欄干に手を置いてため息をついた。
「閉じられた世界の中、馴れ合うんですね。そういうときは悪いことをしても平気でした。……甘えてしまうんですね」
 万次郎は目を伏せて、ふいに明るく言った。
「だからあちらの世とつながりが出来るようになると、ちょっと優しくなれました。だって努力しないと好かれないんですもん。それで結ばれた縁はまた、格別の喜びでした」
 万次郎は言葉を切ると、苦笑して付け加えた。
「って、これ、全部兄さんの受け売りですけどね」
「ああ、駆け落ちした天狗の兄さんだっけ」
「……え、ええ。根は悪い人じゃないんですけど」
 万次郎はちょっと目を不自然に動かして、なんだか無理やり話を戻した。
「話がそれましたね。こまりちゃんなんですが……」
 瞬間、水底の月がうねって消えたように見えた。
 何が起こったのかわからず、なおは遅れてつぶやく。
「え?」
 なおが風で吹き飛ばされたとは、なかなか気づけなかった。まるでふすまにでもなったように、なおは気づけば畳に仰向けに転がっていた。
 なおの頭の辺りに誰か立っていて、なおをのぞきこんでいるようだった。
 なおが呆然としていると、男は軽快な笑い声を響かせて言った。
「まどろっこしいなぁ。私が話すよ、万次郎」
 男が声をかけた先には、困り顔の万次郎が立っていた。
 よかった。霊道に引っ張り込まれたとかそういうわけじゃないみたいだ。なおはそう思って、二人を見比べながら体を起こす。
 なおが落ち着いて見ると、その男は例によってなおの苦手な美男だった。
「……う」
 黒い翼を背に持つ山伏装束で、ずいぶん背が高い。しなやかな眉の下、すらっとした作りのいい鼻をしていた。偉丈夫という言葉がぴったりだった。
 なおが言葉に詰まっていると、万次郎が助け船を出すように言う。
百太郎(ももたろう)兄さん。順を追って話さないと理解してもらえませんよ」
「それもそうか。見たところ平凡な男児のようだからな」
 男を見てなおは苦手意識と少し腹立たしさを覚える。
 言葉の端々が苛立つというか、見栄えがいいがために余計に許しがたいというか、そんな感覚を持たせるのは、さすが万次郎の兄だ。
 なおはうさんくさそうな目をして万次郎に問いかける。
「……駆け落ちした兄さん?」
「そうです。こまりちゃんと駆け落ちした僕の兄さんです」
「なっ!」
 予想もしなかった方向からの事実を聞いて、なおは震える。
 云百歳の天狗の駆け落ち相手は十六歳の女子だった。その事実を飲み込もうとして、なおは慌てて首を横に振る。
「いや、だめだ! それ誘拐だよ!」
「少年、愛に年齢は関係ないのだよ」
 なおは百太郎の方を見ないようにしながら言う。
「ちょっとでいいから黙ってて。今大事な話してるから」
 さすが万次郎の兄、人をいらっとさせる天才だと思いながら、なおは万次郎に向き直る。
 なおは嫌な予感がしながら二人にたずねた。
「兄さんが帰って来たのはわかった。……もちろんこれから、こまりちゃんをえんさんのところに帰すんだろうね」
 二人はそろって目を逸らす。あまりに同じ仕草でなおはうさんくさそうに見やる。
「……百太郎とこまりちゃんの縁結びもしてほしいとか言うつもり?」
「意外と理解が早いじゃないか」
 百太郎が感心したようにうなずくので、なおはかみつくように言う。
「できるもんか! 僕も捕まるだろ!」
「もう遅い」
 なおが百太郎の方を振り向くと、彼の後ろにふすまが戻っていた。
 ふすまが勝手に開いて、なおはそこに女の子が座っているのをみとめる。
 さらさらの長い黒髪に小柄でふんわりした雰囲気。子ウサギのように危なっかしい繊細さをまとう女子だった。
「……えんさんにそっくりだ」
 あでやかな美女のえんとは雰囲気は違うが顔立ちはそっくりで、二人が親子なのは疑いようもなかった。
 なおは犯罪の片棒を担いでしまったと、がくりと肩を落とす。
 なおが納得してくれたと思ったのか、万次郎は先を続ける。
「こまりちゃんが、九尾を使って僕とえんさんの縁を切ったんです」
 なおはまだ衝撃から立ち直れないながらも顔を上げる。万次郎はただ困ったように言った。
「こまりちゃんは、えんさんと僕の結婚に反対でしたから。……仕方ないです。僕は頼りないですしね」
 初めて会ったときのようにしょげている万次郎に、なおは眉を寄せる。
 なおにとっても、確かに万次郎の欠点は大声で言いたいくらいたくさんあった。ただそれも見ようによってはいいところもあると思い直す。
 なおはうなりながら万次郎の弁護をしようとした。
「……あの、こまりちゃん。万次郎は悪いとこばかりでもないよ」
 なおはもどかしい気持ちで言葉を探したが、こまりは首を横に振ってうつむいた。
 膝を抱えたこまりは、きっとまっすぐみつめられたら見とれるような面差しなのに、その表情には感情の色がなかった。
 万次郎はそんなこまりを見て心配そうに言う。
「こまりちゃん、もうずっと何も話してくれないんです」
 百太郎もうなずいて首をひねった。
「何を考えてるのか、教えてくれない。今すぐ私と結婚なんて、私も無理だってわかってるが」
 百太郎は願うようになおに言った。
「友達でも家族でもいい。こまりと私の縁結びをしてくれないか?」
 軽そうな態度に反してその言葉は優しくて、なおはどうしたものかと思ってうなった。





 夕食後、なおはいろりの前で横になってぼんやりと天井を仰いでいた。
 何だか頭の中がごちゃごちゃだった。彦丸の引退宣言と、天狗一家のほどけた縁。次の比良神である美鶴に任せておけばいいのかもしれないが、なおだって関わった縁結びなのだから放っておくことなんてできやしない。
 考え事をしている内に、少しうたたねをしていたらしい。
 目を開くと、側で美鶴が座っていた。なおをそっと見守ってくれていた。
 こんなに近くにいるのに、今日は鼻が過剰反応する気配がなかった。しばらく無言で美鶴を見上げていた。
 黄泉の国から帰ってきて、気づいたことがある。
 優しさを降り注いでくれる人を、嫌いになんてなれない。温かい人の膝元に来たら、その人を抱きしめたくなる。
 美鶴は惜しげもなく優しさをくれる人だ。だからあっちもこっちも上も下も、美鶴を次の比良神にと望む。
 なおもこの感情が恋なのか憧れなのか、それらとは全然見当違いのものなのかは、今はわからない。
 ただ、なおは母と離れて思った。大人になるのは離れるばかりじゃなくて、大人になって近づけたこともあるじゃないかと。
 この一年でちょっとだけ大人になった。自分にだって彼にしてあげられることはある。
 なおはそっと美鶴にたずねた。
「立花さん。今も比良神になりたいですか?」
 心は静かだった。なおを見下ろす美鶴のまなざしも、窓の外にのぞく三日月のようにひっそりとしていた。
 美鶴は少し考えて答える。
「昔ほど切実じゃないかな。今は人の温かさも感じられるようになった。僕は幼い頃のように妖怪だけの世界で生きてるわけじゃない」
 でもねと、美鶴さんは水に浮かべるように言葉を重ねた。
「ある狐神が僕に言ってくれたんだ。君のように妖怪と縁の強い人間なら、きっと幸運の神様になれるって」
「その狐神が幸運の神様でしょう?」
「「この世に幸運を操る神様なんていない」と、彼は言った」
 美鶴は首を横に振って言う。
「神様は縁を結ぶだけなんだ。幸運を落とすわけじゃない。幸運は自分でつかむしかないんだよ」
 なおの頭をぽんと撫でるように言って、美鶴はほほえむ。
「でも、誰だって幸運をつかめる。ほんの少し、勇気さえあれば。それを与えられる存在がいたら素敵だと、彼は考えたらしい」
「勇気をくれる神様ってことですか」
「うん。君はそれになるといいよって、彼は笑った」
 美鶴はそこでうつむく。
「……僕と彦丸は、友達だった」
 美鶴は懐かしそうに目を細めて続ける。
「人の世界から目を背けられていた僕に初めて気づいてくれた友達。それが彦丸だった」
 優しい声で、美鶴は彦丸を語る。いつものようにつっけんどんではない。それが本来の彦丸への思いなのかもしれなかった。
「僕たちは遠い親戚でもあった。彦丸の両親は、僕を養い子にしてくれようとしてた。でも僕は……人が怖くて」
 黄泉の国で見た彦丸の記憶が思い出される。
 幼い彦丸は不安でたまらなくなりながら家を出た。
 美鶴はまぎれもない後悔の色を見せて言った。
「僕は狐神に神様になりたいっていう願い事を叶えてもらおうとして、彦丸は僕の代わりに死んでしまった」
 なおは黙る。あの日、二人の関係は兄弟になるはずだったのだ。
 美鶴も少し黙って、やがて口を開く。
「彦丸のご両親はそれでも、僕を立花の家族にしてくれたけど。僕はすぐにその家も出て、江戸に行ってしまった。……五年経って稲香町に帰って来て、彦丸と再会して」
 美鶴は気落ちした声でつぶやく。
「比良神になった彦丸は、もう僕のことを覚えていなかった」
 うつむいたまま、美鶴は首を横に振った。
「それでいいんだ。もう僕は彦丸の何者にもなれなくていい。……いろんなものをくれた彦丸から、これ以上何も奪いたくない」
 なおはようやく理解した。だから美鶴は彦丸に冷たい態度を取って、遠ざけようとしていたのだ。自分は比良神の地位をもらうまいと。
 もどかしい思いがこみあげて、なおは問いかける。
「立花さんは神様になりたかったんでしょう。その願い事はあきらめてしまったんですか?」
 美鶴は黙ってうなずく。
 なおは起き上がって正座すると、美鶴を正面から見据える。座って待っていたら、美鶴は迷った末にぽつりとつぶやいた。
「だって、誰かを傷つける願い事はしてはいけないでしょう?」
「立花さんが比良神になったら、彦丸は傷つくんですか」
「どういうこと?」
「彦丸は生きていた頃の記憶はないんですよね。じゃあ彦丸じゃなくなったんですか」
「……それは」
「怖がらないでください、立花さん」
 なおはじっと美鶴をみつめて言う。
「彦丸は今だって、立花さんと縁を結んでます。立花さんが比良神になりたいって願ったのなら、きっと」
「駄目だよ」
 美鶴は泣きそうな顔をして首を横に振った。
「それは彦丸の分だ」
 この話は終わりとばかりに、美鶴は立ち上がって自室に引き上げる。
 その後ろ姿にかける言葉をみつけられないまま、なおは考えた。
 妖怪たちが自分たちをいさめるためによく使う、「分」という言葉が哀しく響く。
 願い事は、幸せになるためにするものじゃないか? 分を欲しがったら、どんな願い事も引っ込めるしか解決方法がないのだろうか。
「どうした、直助」
「お前の悩み顔を見ても誰も幸せにはならんぞ」
 なおはしばらくいろりの前でうなっていた。そうしたら、家中のつくもがみが集まってくる。
「ご機嫌斜めじゃな」
「歌ってやろうか、それとも踊って見せようか」
 彼らはなおが落ち込んでいるといつもそうするように、周囲でやんややんやと騒ぎ始める。
 なおは首を横に振って言う。
「笑い事じゃないんだって。真面目に悩んでるんだ」
「そうは言ってものう。暗い顔をしておる者と一緒に暗い顔をしても、誰も喜ばんぞ」
 彼らの一人が何気なく言う。
「阿呆らしく馬鹿騒ぎをしておれば、暗い顔も晴れるかもしれんじゃろ?」
 なおははっと息を呑んで、その言葉を思った。
「……馬鹿騒ぎ?」
 なおはまじまじとつくもがみたちを見返す。
 いや、待て。一瞬よぎった考えに、なおはうなる。
 なおは口の中で「馬鹿騒ぎ」という言葉を繰り返した。
 そんなことをしている場合ではないと思う。万次郎とえん、百太郎とこまり、美鶴と彦丸。みんなそれぞれ願いがあって、誰かを傷つけないために悩んでいるところで、何を馬鹿なと考える。
 でも誰も憎しみ合ってそうしているわけじゃない。みんな幸せを望んで、あと一歩の勇気が出ないだけ。
 そう思った時、なおはひらめいた。
「ああ、そっか」
 単純で、馬鹿馬鹿しくて、笑われてしまうような計画だったけど、なおはやってみようと思った。
 数刻後、なおは彦丸の部屋を訪ねた。彦丸は顔を上げて問いかける。
「何だい、なおから来るなんて珍しいね?」
 不思議そうな彦丸に、なおは立ったまま告げる。
「彦丸、誰かに遠慮して願い事を引っ込めなくていい」
 彦丸は怪訝な目をした。なおだって突然こんなことを言われたら何事かと思うだろう。
 なおは彦丸を見据えて問いかける。
「立花さんは次の比良神になりたい。でも彦丸だって、比良神でいたいんだろ?」
「ふうん」
 彦丸はからかうように首を傾げて言う。
「仮にそうだとしても私には選べないしね。みんな美鶴を望んでいるし」
「選べる」
 なおがきっぱりと言った言葉に、彦丸はぴたりと止まってまばたきをする。
 なおはうなずいて続ける。
「ずるいことはしちゃだめだよ。恨みっこなしだよ。お祭りなんだから」
 なおは彦丸を指さして告げる。
「……馬鹿騒ぎで、正々堂々と勝負さえすれば」
 今度こそ、彦丸は大きく目を見開いた。



 稲香町では、冬の直前に幸運の狐祭りがある。
 昔この地を走り抜けた幸運の神様にあやかって、町の人たちみんなで狐役の鬼を探しながら町を一周する。
 みなさんの目当ては今や狐じゃない。出店で買い食いをしながら町の名所をぐるりと回るというのどかな祭りだ。
 だが今年は一味違う。縁結び祭りで協賛したあちら側の社持ちたちが、狐役の本物の妖怪と豪華賞品を出してくれることになった。
 提案したのはなおだが、実現したのは田中家のおばちゃんたちだった。なおのようなひよっこは喧嘩を怖がったが、おばちゃんたちは「妖怪のどこが怖いのよ」とばっさりだった。
 まあたぶんおばちゃんたちは豪華賞品につられたのだろうが、町の人たちも田中家の前に飾られたそれ、疑わしいほど輝かしい景品に目を輝かせていたのでよしとする。
 なおは万次郎たちのお家騒動もこの機に決着をつけることにした。
「では、勝負内容を発表します」
 祭りの始まるほんの数刻前、なおはあちら側の万次郎の屋敷にいた。
 かっこつけて覚えたての漢字を書こうかと思ったが、そんな自信はないので美鶴に頼んで書いてもらった巻物を広げる。
 万次郎の家の者たちが勢ぞろいして、あちら側の妖怪たちも興味津々でみつめる中、なおは声を大にして発表する。
「こまりちゃんと手をつないでここに帰って来た方を、こまりちゃんのお父さんとして縁結びします!」
 巻物を見た瞬間、百太郎はふうんと笑って、万次郎は難しい顔をした。
 万次郎は愚痴っぽくその条件に文句をつける。
「ちょっと、これ僕が不利じゃないですか? 兄さんはこまりちゃんを誘拐したほどのこまりちゃん推しですよ」
「娘の支持を得るのがえんさんの夫の条件だ」
「……ということは」
 万次郎は恐る恐る、静かに立って様子を見ている女性を見やる。
「えんさんが決めた条件なんですか?」
 えんが静かにうなずくと、万次郎は表情を和らげた。
 万次郎は息をついてうなずく。
「……じゃあ、勝たないといけませんね」
 二人の間に流れた空気に、なおはちょっとくすぐったいものを感じた。
 ただしと、なおは意地悪く付け加える。
「こまりちゃんが祭りの終わる前に円城寺に入ったら、縁を切ります!」
「ちょっ!」
 なおはあらかじめ、こまりへ勝利条件を話してあった。
 百太郎も万次郎も父親にしたくないなら、円城寺に駆けこめばいい。黄泉の国まで一人で往復した力を持つこまりなら、それは大して難しいことではなかった。
 なおは腰に手を当ててこまりに声をかける。
「こまりちゃん、用意はいい?」
 こまりはこくんとうなずいただけだった。勝負に無関心なようにも見える。なおにも結局、こまりが何を考えているのかはわからなかった。
 けど勝負には乗ってくれる。ならば誰にだって勝つ機会がある。なおはうなずいて手を叩いた。
「はい、こまりちゃんどうぞ!」
 万次郎が、慌てて声を上げる。
「えっ、ずるい!」
「女子が優先! がんばって、こまりちゃん! 応援してるからね!」
 動揺している万次郎は放っておいて、なおは走り出すこまりに声援を送った。
 辺りは見物する妖怪たちでにぎわっていた。なおはその間をすりぬけて、出発点にまでやって来る。
 そこには美鶴と彦丸が待っていた。なおと目が合うと、美鶴は腰に手を当ててくすっと笑う。
 なおたち三人も、この祭りで勝負をする。
「勝者が次の比良神。いいね?」
 なおは出発点を足で確かめながら彦丸に言う。
「僕か立花さんが彦丸の尻尾をつかんだら、比良神を譲ってもらう」
 なおは彦丸と二人で勝負をしようとしていたが、美鶴がそれを聞いていて言った。
 僕にも選ばせてよと、美鶴は笑った。
 僕は確かに神様になりたかったけど、先に選ばれたのは彦丸なんだからね。彦丸にあきらめたように譲られたって、うれしくないよ。そう言って、美鶴は続けた。
「僕と勝負しようよ、彦丸」
 美鶴は笑いながら、真剣な調子で彦丸に告げたのだった。
 なおたち三人の勝負は、しっぽつかみ勝負だ。一足先に彦丸が出発して、円城寺で折り返したら今の出発点に戻って来る。
 なおと美鶴はそれを追いかける。彦丸が逃げ切ったら、彦丸の勝ちだ。彦丸が普段するように、自由自在に空を往くのも、霊道を通って近道するのも無しだ。
 こちらからあちらへつながった一本の道を抜けたら、円城寺までひたすら走ってまたこちらに帰って来る。
 それでも神様である彦丸が一番有利かもしれないが、走ることならなおは挑んでみたかった。勝つ自信まではなくても、負けるつもりはこれっぽっちもない。
 彦丸は何も言わなかった。彼にしては珍しく、緊張した面持ちでなおと美鶴をみつめているだけだった。
 万次郎と百太郎はこまりを追いかける。なおと美鶴は彦丸を追いかける。そして稲香町の人たちは豪華賞品を狙って狐を追う。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、到達点は人それぞれ違う。
 真剣勝負なのか、馬鹿騒ぎなのか。でもみんな知っての通り、どちらでもある。
 町の誰もが駆け回る一日が始まった。




 走りに走り、なおは田中家の前で田中家名物の田中園のお茶を受け取った。
 なおはそれを一気にあおって数回呼吸を繰り返してから、ちらと横を見る。
「……何してんですか」
 給水所でお茶を配っていたのは康太だった。
 今日もきっちりと全身に黒い着物を着込んで、一人一人に応援の声をかけながらお茶を手渡している。
「仕事です。私は今出向中の身ですので」
「そうじゃなくて。次の比良神っていうなら、康太さんも挑戦すると思ってましたが」
 上から来た自称美鶴の犬だって、神使に挑戦する権利はあるはずだった。
 ところが康太はさらりとなおの言葉を否定した。
「今回は辞退しました。黄泉神の飼い狐に下へ連れて行かれたうえに比良神に救出された件は、概要も含めて始末書五十一頁を提出しましたからね」
 首を横に振って、康太は眉の辺りに苦渋の色を浮かべる。
「それに交渉も難航しているんです。九尾は下に帰したんですが、上の役人の私が九尾を捕まえてしまったので、下に文句をつけられてまして」
 この人、いつの間にかそんな仕事してたんだ。複雑な話になおが目を回していると、康太はふいに笑った。
「……まあ、仕事は無い方が困るというものです」
 康太は顔をきりりと引き締めて告げる。
「神使でなくても、私は美鶴さんの犬ですしね。あなたもでしたっけ?」
「僕、康太さんから初めて冗談を聞きましたよ」
 なおがぷっと吹き出すと、康太は真剣な顔のまま首を傾げる。
「違うのですか?」
「いや、心は犬ですけどね」
「中途半端ですね。身も心も犬におなりなさい。愉快な人生になりますよ」
 犬に人生を教えられてしまった。でも不愉快でない自分がおかしくて、なおはまた笑った。
 息を整えて、なおは再び走り出す。
 町は狐役探しでにぎわっていた。みな片手に串焼きとか綿あめとかを持ってはいるが、目はらんらんと輝かせて沿道を練り歩く。
 なにせ景品が豪華だったからな。でも本当に人が増えているので、縁結び祭りの効果もまんざらじゃなかったな。なおはそれにちょっと関わったことを満足気に見ていた。
 もう少しで円城寺……というところで、なおは後ろから軽やかに追い抜かれる。
 狐の面をつけたすらっとした青年だった。なおは通り過ぎ際に、彼に眉がないのを見て取った。
「鏡矢さん、みつけた!」
 振り向くと、一生懸命哲知が走って追いかけてくる。どうやら先を走る狐役は鏡矢らしい。
 しかし圧倒的に先を往く鏡矢の方が速い。哲知は運動は苦手だと聞いている。一方で鏡矢は鍛え方が違うのか、どんどん差がついていく。
 そういえばとなおは思い返す。
 田中家の前に飾られた豪華景品群の中に、鏡矢が役者を務める鏡座からも提供があった。「鏡座特製、役者の手鏡」というのが用意されていた。
 鏡矢の手鏡だとすると、哲知にとっては婚姻届に等しいかもしれない。追いかけられる鏡矢は不憫だが、熱狂的な哲知には見逃せない景品だ。
 とはいえ差は広がりこそすれ、縮まることはない。結果は明らかのように思えた。
「哲知!?」
 けれどなおは知っている。勝負は最後までわからない。ふいに哲知が派手に転んで、鏡矢が動揺しながら足を止めた。
「大丈夫か! 変なとこ打ってねぇか!?」
 稲香町はでこぼこ道が多く、転んだ場所によっては大けがになる。
 鏡矢は振り向いて急いで戻って来る。お面を上げて、心配そうに哲知に近づいた。
「……さっさと先行ってください!」
 ふいに哲知が普段では考えられないような激しい声で鏡矢を拒絶する。
「自分で立ちますから!」
 鏡矢は足を止めた。哲知は言葉通り自力で立ち上がって、鏡矢を見た。
 哲知はにこっと笑って言う。
「子どもって馬鹿にしてると後悔しますよ? 安心してください。じきに追いつきますから」
 鏡矢はそれを聞いて、ふうと息をつく。
 お面を下げて、鏡矢はみとれるような流し目を送る。
「十年早えな。……まあ、十年なんてすぐだけどよ」
 なおは確かに鏡矢の口元が笑っているのを見た。
 走る鏡矢とそれを追う哲知。二人を見送る前に、視界の端を誰かが走り抜ける。
「……あ」
 くすっと笑みをこぼして、美鶴が通り過ぎた。彼はもう円城寺の折り返し地点を通過したらしい。
 自分も急がないと。なおは気持ちを引き締めて走り出す。
 円城寺の門をくぐりぬけて、頂上目指して石段を駆け上がる。
 石段を登り始めると、滝のように汗が流れる。先ほど見た美鶴は息一つ切らしていなかった。今更だが勝算の薄い勝負をしたかもしれない。
 頂上で旗を取って石段を下りてくると、哲知の祖母のとわにそれを渡す。
「折り返し地点到達おめでとう」
 とわはなおの胸に丸紐をつけてくれた。美鶴も先ほどつけていた、折り返し地点到達の証だ。
「はっ、は……! 彦丸は、もう来ましたか……!?」
「ううん。まだ見てないわ」
「え?」
 なおは首を傾げる。彦丸は出発したときは当然なおの先を走っていった。あっという間に見えなくなって、もうとっくに折り返したと思っていた。
 とわの側でほうきを片手に座っていた勇雄も、なおに言葉をかける。
「近くに比良神の気配は感じるんだけどね。……あ」
「あ」
 勇雄の視線の先に目を向けて、なおも声を上げた。
 円城寺の門からおずおずと顔をのぞかせたのはこまりだった。門から中には入らないまま、何か言いたげにこちらをみつめている。
 とわは立ち上がって優しく声をかける。
「入っていらっしゃい。あなたが望むなら、すぐにでも縁切りはできるわ」
 おそらく数えきれないほどのねじれた縁を見てきたとわは、少女の澄んだ瞳をみつめて微笑む。
「でもまず、あなたの話を聞かせてほしい人たちがいるみたいよ?」
 とわはこまりの後ろに向かって声をかける。そこに、いつ引き返してきたのか美鶴が立っていた。
「一刻だけ休戦しない? 直助、それと」
 美鶴はなおに声をかけて振り向く。なおもその視線の方向を追う。
「彦丸も。縁結びは神々のたしなみだろ?」
 円城寺の奥から彦丸が歩いてくるところだった。
 こまりに歩み寄った彦丸は苦笑して、少し屈みながら問う。
「……まずは話を聞かせてくれるか、こまり?」
 こまりは下を向いて黙ったが、神様の一声は聞こえていたようだった。
 




 こまりは母に似て優秀な子だと言われるのが大好きだった。
 だから手習いは常に一番を走り、穏やかな性格もあってか友だちと衝突することもなかった。父は仕事の都合で遠くに行くことになって、お互い側で助け合える人が必要ということで母と離縁したが、それは両親が話し合って決めたことだからと素直に受け入れた。
 なおはこまりの話を聞いたとき、自分と違うようで共感するところもあった。なおはあまり優秀ではなかったが、別に友だちと過ごすのに困ったことはなかった。父は病気で亡くなったので、時々寂しくなることはあっても今更どうしようもないしなぁと事実を受け入れていた。
「でもお母さんが遠くに行っちゃうと思ったら、どうしようもなく悪い子にしかなれなくて」
 こまりの転機は、母の再婚だった。
 母のえんはこまりに、子どもの頃自分が見た不思議な世界を見せてあげると言った。そこには水の中に月があって、宵闇がとてもにぎやかなのよと。
 こまりはあちらの世界を、何度か寝物語として聞いていた。私も行ってみたいなと笑ったこともある。
「いや! そんなのいや! お母さんを連れていかないで。そう思ったの」
 けれど再婚という言葉を聞いて、こまりの目の前は真っ暗になった。
 急に怖くて仕方がなくなった。母が少女のように微笑んで語るあちらの世界は、母を自分の手の届かない場所に連れて行く地獄に思えた。
 もう十六歳でしょう。今までみたいに穏やかに笑って、お母さんの好きなようにしたらいいよって、どうして言えないの? こまりは何度も自分に言い聞かせた。
 いいよって、笑って……笑って。そう何度も何度も自分を従わせようとして、結局こまりにできたのは猛反対だった。
「……「お母さんに再婚なんてさせないから」。聞き分けの悪い子どもみたいに叫んで、百太郎さんと駆け落ちしたの」
「実行できちゃったのがすごい。……あ、ごめん」
 なおは感心したように言った後、でも本人は必死だったんだと自分のうかつな言葉を反省した。
 こまりの話を聞き終えた美鶴は、ぽんぽんとこまりの頭をなでる。
「つらかったね」
 目に涙をにじませているこまりに、美鶴は優しく告げる。
「話してくれてありがとう」
「うん。僕もこまりちゃんの気持ちが知りたかったんだ」
 なおもうなずいたが、彦丸はこまりに何も言わなかった。
 けれど彦丸もずっとこまりの話を聞きながら考えこんでいる。
 なおは万次郎とえんの縁結びのときを思い出す。あのときも彦丸はほとんど口出ししなかったが、じっと話を聞きながら考えていたのだろう。ひょうひょうとして見えて、彦丸は案外慎重らしかった。
 なおは思ったままこまりに言葉をかけることにした。
「僕は反対のままでもいいと思うよ」
 なおは自分の経験を振り返って告げる。
「そりゃこまりちゃんと同じことをしたかはわからないけど、僕も母さんが再婚するって言ったら、同じように思ったよ」
 こまりの行動は多少乱暴だったかもしれない。でもなおだってそうしたくなる気持ちはわかる。
 ずっと一緒にいたじゃないか。どうして自分の手の届かないところに行くんだ。……いやだ、そんなのいやだと、思ったに違いないのだ。
 美鶴はなおとは違う意見を持ったようで、少し口ごもったようだった。
「一本だけの縁を頼りに生きるのは、まだ早いんじゃないかな」
 美鶴はこまりに優しく声をかける。
「たくさんの人と縁を紡いで過ごすのは、いいことがたくさんあるよ。きっと思っていたより……こまりちゃんを囲む人たちは優しいと、気づくんじゃないだろうか」
 美鶴は孤独だった幼い頃の自分と、そこから変わって来た自分を両方持っていたから、そう言うことができたのだろう。
 こまりは首を横に振って言う。
「でも、怖いよ……」
「そうだね。全然知らない人だし、しかも天狗だもんね」
 美鶴は瞳を揺らしたこまりに、屈みこんでのぞきこみながら言う。
「だから説明してもらおうよ。二人に」
 美鶴がにこやかに振り向くと、しげみの中でびくっと肩を跳ねさせた男がいた。
 いつからいたんだ。なおがうさんくさそうに見ると、万次郎はわたわたして頭を下げた。
 美鶴は万次郎に歩み寄って紹介する。
「こちらが万次郎さん」
「あ、改めまして、こまりちゃん」
 万次郎は口ごもりながら赤くなっていた。
 一方で樹の上から百太郎が軽やかに降りてきて、彼も言う。
 整った顔立ちに甘いほほえみを浮かべて、百太郎は告げる。
「私はこまりが望むなら、何度でもこまりと駆け落ちしてあげるよ」
 もじもじと言葉に迷う万次郎とは対照的に、百太郎は聞きほれるような声で告げる。
「えんと結婚してほしくないなら、そうする。君に惚れちゃったから」
 なおは聞いていて頬がかゆくなった。この色男め、相手は自分より云百歳年下だぞ、しかも小動物のような女の子だぞと内心で突っ込む。
 しかし一度、家を捨ててまでこまりを連れ出したのは百太郎の方だった。愛に賭けた熱意は確かに押しどころだ。
「ゆ、誘拐はよくないと思います」
 万次郎はまっとうだがいまいち女性には受けない文句で切り出す。
「僕でも近所の甘納豆の店くらいなら連れて行って……」
 お前の方が誘拐犯っぽいぞとなおは思った。こういうところが、万次郎は格好よくない。
 なおは何か万次郎の推しどころはないものかと思ったが、とっさに出てくるのは万次郎の情けない数々の言動ばかりだ。
 そのとき何かが彦丸の懐から飛び出して、なおの血の気がいっぺんに引く。
 青いしっぽを見て、体の芯を貫くような恐怖が蘇る。
「う……!」
 ……九尾がなんでここに。なおは思わず目を閉じた。
 けれどなかなかあのときのような冷気は襲ってこなかった。
 くんくんと子犬のような声が聞こえて、なおはそっと目を開く。
 見ると、こまりの足元に小ギツネがすり寄って青いしっぽを振っていた。
「九尾……じゃない」
 こまりを片腕で抱きしめて、百太郎と万次郎がもう片方の腕で棒を構えていた。
 抱きしめられたこまりは目をぱちくりとしていた。何が起こったかわからないようで硬直したままだった。
 彦丸は小ギツネを抱き上げてあやしながらこまりに言う。
「黄泉神からこまりへの贈り物だよ。九尾はあげられないけど、九尾が最近生んだ七十匹目の子どもならいいよって」
 彦丸が言うと、百太郎と万次郎は警戒を解いてこまりを包んでいた腕をほどく。
 こまりは小ギツネをそっと彦丸から受け取る。親ギツネにするように頬にすり寄る小ギツネに笑って、ふいに目を陰らせる。
「でもこの子、大きくなったら霊力を持つんでしょう? 人に迷惑をかけちゃう」
「まあここでは飼えないかな」
 彦丸は悪戯っぽくつぶやいて、ちらりと万次郎を見やる。
 その意図するところに気づいたのか、万次郎が慌てて言った。
「大丈夫だよ、こまりちゃん! あっちなら霊力のある狐はいっぱいいるよ」
「え?」
「任せて! 妖獣を危なくないように躾けるのは慣れてるから。だから、その」
 だんだんと万次郎の言葉は尻すぼみになる。
 そこでやめるなとなおはもどかしさが喉からあふれそうだったが、いやいやと首を横に振る。
 ……そういうところが万次郎のいいところなんだ。
 なおはこまりにもそれが伝わってほしくて何か言おうとしたが、その前にこまりは万次郎を見ていた。
 こまりはまばたきをして万次郎をみつめた。初めてきちんと見たような顔だった。
 ひとときの沈黙の後、こまりは万次郎を見上げてぽつりと問う。
「今すぐじゃなくていい?」
 こまりは何をとも、どちらとも言わなかった。
 けれど百太郎と万次郎はお互い苦笑し合って、こまりへ目を戻す。
「うん。待ってる」
 その約束を、なおは確かに聞き届けた。



 なおは十五歳の夏、隣町の長距離競争に出場した。
 何もかも適当に過ごしてきたなおにとって最初で最後の、朝も夜もそればかりに打ち込んで挑戦した出来事だった。
 結果は六位。よくやったともいえるし、一番になれなかった中途半端なものともいえる。
 なおはその中途半端さ加減に嫌気が指して、その後勝負から逃げ始めた。
 僕は適当でいいんだ。それが分相応なんだ。そう自分に言い聞かせていた。
 今もう一度走ってみると、そんな言い訳では少しも納得していない自分に気づいた。
 何をふてくされてる。一回であきらめて、何が分相応だ。道は長くて、まだ終着点の気配さえ感じないじゃないかと。
 走るのはやっぱり苦しかった。その苦しさに折れた自分は覚えがあった。
 でも、走りたいだろう? 馬鹿みたいに到達点を目指す自分は、そんなに嫌いじゃなかっただろう?
 思えば、結果は終わった後についてくるただの勲章だった。なおは勲章のために走ったわけではなかった。
 ふいに風がやって来るような願い。それに背中を押されて、立ち止まるのも忘れただけだった。
 なおの元に、また願いの風が来た。美鶴の支えになりたい。そう思いつきのように願っただけで、足は飛ぶように前に進んでいく。
 ずっと前方、届きそうにないところを彦丸が走っている。そして視界の端、追い抜いたり追い抜かれたりしながら、美鶴も走る。
 沿道の妖怪たちも風の匂いも何もかも、なおは一瞬忘れる。
 視界に映ったのは金色のしっぽだった。初めて稲香町にやって来た時もそれを見た。
 神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃない。その言葉の意味が心に飛来したように理解できた。
 幸運は神様が持っているものでも人が持っているものでもない。
 行きたい方向が出来た時に、そこに向かって走り出す。触れられるかどうかなどわからなくても、行く手に見えた目標に向かって駆け抜ける。
 幸運というのは、目標のしっぽがちらりと見えたことを言うのだと思う。
 そうしたら、後は挑むだけだ。


 指の先に、金のしっぽが掠めた。
 おはやしが響き、沿道から紙ふぶきが飛ぶ。
 花嫁行列の先頭を紋付袴の万次郎と白無垢のえんが歩いていく。
 今日は万次郎とえんの祝言の日。
 図らずとも足入れ婚が始まった日からちょうど一年後、彼らは再び夫婦になった。
 一年前とは違うところもある。万次郎とえんをつなぐように、二人の手を取って真ん中をこまりが歩いている。
 なおはその光景に顔が笑うのを止められなかった。
 ちなみに百太郎はこまりにふさわしい男になるべく、男磨きの旅に出ている。万次郎に勝負に負けても懲りないところが、ある意味憎めない奴だと思う。
 なおはまだ田中家で奉公中だ。
 なおが横を見ると、美鶴もうれしそうに前をみつめていた。
「僕が比良神になって初めての縁結びがやっと実ったね」
 なおはうなずいて、僕もですねと笑い返した。
 幸運の狐祭りの日、彦丸は比良神を引退して、放浪の妖怪になった。美鶴は神様に、なおは神使に、人生のサイコロが転がっている。
「なお」
 でも、変わってないこともある。彦丸は一年前と変わらず、狐目を細めてからかうようになおの首に腕を回してくる。
「次は何の勝負をする?」
「……また?」
 彦丸は事あるごとになおに勝負を挑んでくる。
「何度でも挑戦していい。なおが言い出したことだろう?」
 なおは横目で彦丸を眺めながら考えた。
 願い事がぶつかったら、正々堂々と勝負をすればいい。
 そして願い事が重なったなら、おもいきり派手に祝言を挙げる。昔から続いてきた単純で幸せな世界の理だ。
 なおは思いついたことがあって、彦丸を振り向く。
「そういえば、一つ難しそうな縁結びの依頼が来ててね……」
 その中で幸運のしっぽをつかむ手助けをするために、今日もなおは馬鹿騒ぎを考えるのだった。

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