縁結び祭りは七月の半ばから始まった。
あちら側で人口が密集している妖怪たちは、こちら側に働きに出たり嫁や婿を取りたい。一方でこちら側の稲香町は若い人がみな江戸に行ってしまうので、やっぱり働き手や結婚相手が欲しい。
まずは妖怪と人間の行き来を活発にしようということで、縁結び祭りが考えられたのだとなおは聞いた。
今回の祭りの主なところは、妖怪の側がこちら側の人間を受け入れてもてなす観光や宿泊体験が企画されている。
なおはお盆を片手に席を回りながら声を上げる。
「こんぺいとうをご注文のお客様は?」
なおは妖怪たちの申請の門番が終わったので、縁結び祭り要員に割り振られた。
とはいえ新米の身なので、もっぱら飲食店の給仕や宿泊案内のお手伝いなんかをしている。
人間と妖怪のみなさんの会話を邪魔しないように、ただ困っていたら手助けをするよう言いつけられている。
でもなおの手助けはあまり必要ない。妖怪たちは人間が困っていたら寄ってたかって助けにかかる。
「こんぺいとうはお初ちゃんだよ」
「かわいい注文だなぁ」
まあ、縁結びの基本は要するにお見合いなのだ。妖怪たちは口々に話題を振る。
「お初ちゃんはどこから来たの?」
「えと、ここから東の山を二つ越えてね……」
水の中の月が覗ける湖のほとり辺りで和菓子片手に、妖怪と人間が入り混じって和気あいあいと歓談している。
妖怪側の参加者は耳がついていたり尻尾がついていたり、はたまた半分以上動物の体だったりするのだが、意外と人間側は気にしない。
「早く稲香町に住みたいわ。妖怪のみんなと堂々と暮らせるところがあるなんて知らなかった」
なおが知らなかっただけで、妖怪に親しんでいる人間は世の中にたくさんいるらしい。田中家のおばちゃんたちがどういう手を使ってか、そういった人間たちをかき集めてきたらしい。
妖怪の一人はもぞもぞと恥ずかしそうに切り出す。
「じゃあその時はぜひ僕の、お、お嫁さんに」
「まあまあ。こんなおばあさんに若い男の子はもったいないわよ」
一方で妖怪たちは、稲香町に人間の嫁や婿が来てくれるのを切望している。ついでに彼らは老若男女をあまり構わないので、おばあさんやおじいさんでも平気で口説く。
なおが給仕をしながら遠い目をしていたら、店主のおじさんから声をかけられた。
「坊主、こっちは手が足りてるから今日は帰っていいぞ」
「あ、いや。まだ勤務時間ですので」
「いいっていいって。目が死んでるだろ? 田中家の人は大変だねぇ」
ついでに妖怪の皆さんは田中家の人間にいたく好意的である。
店主のおじさんはしみじみと言う。
「田中家の外回りが巡回してくれるようになってから、こっちもずいぶん平和になったからねぇ」
彼らはたまに、田中家の「外回り」について口にする。その業務内容は未だに不明だが、妖怪の世界に深くかかわるものらしい。
そんなわけで、なおは門番の仕事をしていた頃よりずっと自由時間があった。こちら側とつながる山奥の道まで、あちら側の世界をぶらぶらと散策する。
妖怪の住むあちら側というのは、大物妖怪の家を中心に城下町のようにして栄えている。大物妖怪というのはなおたちの世界で祀られている者、別名社持ちで、神様を自称できる者たちだ。
ただ、彼らは照れ屋なので神様と呼ばれるのは恥ずかしいらしく、地名や家の名前で呼んでもらうとありがたいようだ。
なおはその日、ある店の前で立ち止まった。
「あ、ここが紫摩屋なんだ」
なんとなくあちら側を散策していたら、あちら側で大人気の老舗和菓子屋を発見した。
紫摩屋というのも、社持ちの名家らしい。なおも美鶴がお土産にくれたので味見させてもらったが、一粒で夢心地になる甘納豆だった。
格子窓から覗き込んだ店内は、至るところに蝶の折り紙が散りばめられていてとってもおしゃれだった。
「高いんだろうなー……でも欲しー……」
店先でうろうろとしていると、売り子と目が合った。
桜色の振袖を着た可憐な女の子で、なおににっこりと笑いかける。
つい笑い返してしまって、なおは吸い寄せられるように店の戸に手をかける。
次の瞬間、声が割って入った。
「待て、坊主」
「ひぃ!」
視界にもいっぱいに眉無しがらっぱちが割り込んできた。なおはその切り替えに絶望感を味わいつつ、ぐいと肩を引っ張られて脇道まで連れて行かれる。
一区画ほど歩いてから、鏡矢は振り向いてなおの額を指ではじいて言う。
「目ぇ、覚めたか?」
「覚めたくありませんでした」
なおは目を逸らしてぼそぼそと文句をつらねる。
「なんで止めるんですか。僕に甘納豆も食うなと?」
「豆は食っても食われるな」
「は?」
なおが首を傾げると、鏡矢は少し考えて難しい顔をする。
「なんて言えばいいんだろうな、あっちの住人に説明するには。あー……俺、学がねぇからわかんねぇ」
うんうんとうなっている鏡矢を見ていると、なおは不機嫌が収まってくるのと同時に反省心が湧いてくる。
なおはさっきの売り子の女の子の色香を思い出して言った。
「えと、もしかして危ない店でした?」
鏡矢は微妙な顔をしながらうなずいた。
「まあ……そうだ」
彼は言いづらそうに言葉を続ける。
「こっちってのはそういう境界があいまいなんでな。坊主みたいなひよっこじゃ、ころっと昇天させちまうんだよ」
なおはなるほどと思う。確かにこっちのお店は平気で芸伎さんが寄って来る。門番の仕事でも一番の難点がそこだったのだ。
なおは慌ててうなずいた。
「じゃ、じゃああの店はやめときます」
なおもせっかく苦労して手に入れた給金を絞り取られたくはない。なおがそう言うと、鏡矢はあからさまにほっとした顔をした。
「よっしゃ。ま、もっと安全に昇天できる方法ならいくらでも教えてやるからさ」
「なんですか、もー。天下の公道でする話じゃないでしょ」
鏡矢となおは、気安い冗談で笑いあいながらその場を立ち去った。
歩きながらなおは鏡矢にたずねる。
「ところで、鏡矢さんはどちらへ?」
紫摩屋が見えなくなった辺りで言ったなおに、鏡矢は口を開く。
「ああ、俺も目的地は紫摩屋だったんだ。でも豆を買うんじゃなくて、美鶴の坊ちゃんを探しに行ったんだがな」
「立花さんが?」
なおは美鶴の生活を思い浮かべて、彼がいかがわしい行為に及ぶなんてありえないと首を横に振る。
「まさか。僕じゃあるまいし、立花さんがなんで豆を買いに行くんですか」
「いいだろ、別に。豆くらい買っても」
「そうじゃなくて」
わからない人だなとなおは横目でにらんだ。
けれど鏡矢は身を屈めてひそひそ声で告げる。
「実は、紫摩屋の若旦那は美鶴の坊ちゃんに相当のぼせてるってぇ話があってな」
なおはふと首をひねって、眉をひそめながらたずねた。
「みんなのぼせますよ?」
「そりゃ誰でも一度はな。でも坊ちゃんは比良神のもんだぞ」
そこを断言してしまうのかとなおが思っていたら、鏡矢は遠い目をして薄い笑みを浮かべる。
「対抗馬を虫けらのごとく消していった比良神……ああいうのを鬼神って言うんだろうな」
尊敬なのか恐怖なのかよくわからない感情を目に浮かべての言葉に、なおは黙る。
それから少し考えて、なおは先日の出来事を思い出す。
なおはこの間、美鶴が大量の甘納豆の処理に困ってるのを見た。彦丸が帰る前になくしたいと言っていて、家中の妖怪総動員で甘納豆を食べた。
なおは間延びした声で納得する。
「あー……」
あれは食いしん坊の彦丸への嫌がらせではなく、ばれるとまずいという意味だったのだ。
鏡矢はなおに伝わったのがわかったのか、うなずいて続ける。
「でも今は縁結び祭りの最中だろ? こっちで一番の後援者の紫摩屋をむげに扱ったら、この祭りはつぶれちまう」
「社持ちの紫摩屋はすごい力を持ってるらしいですもんね。……あ」
なおははっと思い当って言う。
「ま、まさか権力を傘にして立花さんの帯をくるくると解くようなことを……?」
なおの脳裏にお代官様と女中の図が浮かんできて、思わず青ざめていた。
だが鏡矢の表情はあっけらかんとしていて、彼は軽く否定する。
「いや、それはねぇけど」
「なんで断言できるんですか」
なおにとっては、ひらっと手を振る彼が信じられない。そんななおをぞんざいにあしらって、鏡矢は言葉を続ける。
「まあそれはそれとして。美鶴の坊ちゃんが間に挟まれて悩んでねぇか気になってな」
無い眉の辺りに心配を浮かべて、鏡矢は黙った。
一瞬下りた沈黙の後、なおは問いかけた。
「鏡矢さんは縁結び祭りに反対の立場なんですよね。いっそこの機に祭りがつぶれたらとは思わないんですか?」
「ばーか。そんなことになったら坊ちゃんが泣くだろ」
なおのささやかな疑問など一刀両断にされた。なおはぱちりとまばたきをする。
「そういうもんですかね」
「おうよ」
鏡矢は優しい声でなおにたずねる。
「お前、大切な人に泣いてほしいか?」
一瞬、なおは呼吸を止める。
蘇るのは母の顔だった。いつもうっとうしいくらいになおを心配して、あれこれと世話を焼いて、不安そうに去って行った人の姿が目の前を通り過ぎる。
嫌いだと思っていた。離れたいと思って自立を目指した。今でもそのことに後悔はしてないが、母を思い出すのは変わらない。
「坊ちゃんに会ったら言っといてくれよ」
はっと我に返ると、鏡矢が真剣なまなざしでなおを見下ろしていた。
「自分を大事にしてくれって」
「……わかりました」
なおはうなずいて、確かに言伝を預かった。
その日、なおは早足でサイコロ屋敷まで帰ったが、美鶴はなかなか帰宅しなかった。
自分と違って祭りの中心にいるようだし遅くなるのも仕方ないとは思ったが、それにしても連日遅い。気がかりで、なおはいろりの前でうたたねをしながら待っていた。
日付が変わる頃になって、ようやく美鶴は帰ってきた。
「ただいま……」
「あ、おかえりなさい」
なおははっとうたたねから目を覚まして立ち上がる。
「お茶でも飲みませんか?」
「うん、いただこうかな」
だいぶ疲れた感じだったのでなおが気を遣うと、美鶴はうなずいていろりの前まで来た。
なおはお茶を飲みながら鏡矢からの言伝を伝える。
「鏡矢さんが心配してましたよ。自分を大事にしてくれって」
「そっか、鏡矢さんに心配かけてたんだ」
美鶴は申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。無理はしてないよ。僕、見た目より丈夫なんだ」
「ならいいんですけど」
美鶴はめったに愚痴も言わないので、なおは心配だった。
カラリと玄関の戸が開いて彦丸が入ってくる。
「遅かったね、美鶴」
「お前に言われたくない」
途端に険悪な眼差しになる美鶴に、彦丸は袖を流しながらゆったりと近づく。
歩いて、屈んで……ん?
なおは目を覆って声を上げた。
「こ、こらぁー!」
鼻が触れ合うくらいに近くまで顔を寄せた時は、ちょっと危ない想像をしてしまった。
だがなおが指の隙間から恐る恐る目を覗かせると、彦丸は触れることはないまま眉を寄せて思案していた。
なおは首を傾げて問う。
「何してるの?」
「甘い匂いがする」
彦丸は狐目を細めて言った。美鶴は不機嫌そうに彦丸の肩を押しやって言う。
「お菓子の試食会があったから。それより離れろよ。暑苦しい」
彦丸はじっと美鶴を眺める。奇妙な沈黙が流れた。
ふいに彦丸は美鶴のほっぺをつかむと、にやっと笑う。
「お菓子ばかり食べてると虫歯になっちゃうよ?」
「何の冗談だ!」
子ども扱いされたと美鶴が目を怒らせると、彦丸は美鶴の頭をひとなでした。
「よしよし、いい子。おやすみ」
彦丸は笑いながら自室に引き上げていく。
美鶴もぱっと立ち上がってなおに言う。
「ごめん、もう寝るね!」
美鶴は台所へと湯呑みを洗いにいったようだった。
なおは困ったなぁと思って首をひねる。
どう見ても美鶴は何か隠している。けど美鶴はそれを悟られたくないらしい。
なおは美鶴に問い詰めるわけにもいかず、その場でうなっていたのだった。
それからの毎日は飛ぶように過ぎていって、いよいよ縁結び祭りは最終日になった。
最後ともなればさすがに忙しい。猫の手も借りたい、もとい新人の手でも欲しいという感じで、なおは朝からあっちこっちに駆り出された。
妖怪のみなさんは、今日も気さくになおに話しかける。
「新人さんは、当たってくだける方?」
「いや、僕は飛び込んで滑る方ですね」
なおはというと、最終日は給仕に力仕事、道案内に恋愛相談まで、わけがわからないくらいに何でもやっていた。
でも最終日ならではの、妖怪のみなさんの関心事が一つあった。
「ねえねえ、今日火の花が上がるんだって?」
縁結び祭りの妖怪側の参加者だと、十中八九この話題を振ってくる。
なおは宣伝担当に徹するつもりで、同じ言葉を丁寧に返す。
「ええ、今日の閉門の鐘の刻きっかり。一発だけなので、見晴らしのいいところにいて見逃さないでくださいね」
最終日の最後には花火が上がる。江戸のように盛大にやりたいところだが、金子が足りないらしく一発だけだと聞いていた。
妖怪たちははしゃいで笑いながら言う。
「楽しみだなぁ。待ちきれない」
「どこで見ようねー。屋根の上とかいいかなぁ」
なおは何度も妖怪に説明する側だったものの、実は不思議だった。
ようやく取れた休憩時間、田中園のお茶を飲みながら哲知にたずねる。
「……花火ってなんだろ?」
そう、なおは花火を見たことがない。食べ物なのか催しものなのか、実はそれすらも知らない。
哲知はなおの素朴な疑問に明るく返した。
「そっか、直助は見たことないんだ。じゃあ見てのお楽しみにしよ。こっちは社持ちが火を管理してるから、美鶴さんがあちこち駆け回ってようやく実現するんだよ」
「へぇ、立花さんそんな仕事もしてたんだ」
なおは感心してここ一月を思い出す。
なおもがんばって仕事をしたつもりだが、普通に夕ご飯までにサイコロ屋敷に帰っていた。でも美鶴は、後半ほとんど寝るためだけに帰ってきているような状態だった。
僕はそんなに働いてるわけじゃないよ。美鶴が苦笑しながら教えてくれたことがある。
妖怪のみんなはもてなすのが好きで、僕は断るのが苦手だから。にこにこしてごはん食べてると、遅くなっちゃうんだ。
美鶴はそう笑っていたが、なおの心配は消えなかった。それは妖怪の好意の形に違いないが、連日宴会では美鶴が疲れてしまう。
そのときだった。心の隙間に入り込んだ不安が形になったように寒気がした。
「う……わ」
なおはめまいがして尻餅をつく。
「え?」
閉じていたふたが開いて急激に冷気が流れ込んだような、そんな感じ。なおはうろたえて辺りを見回した。
辺りに青い冷気が満ちて、何もない虚空にぱっくりと穴が開く。
「な、なに、てっち」
「落ち着いて。幽霊が来るだけだよ」
哲知は落ち着いているが、平凡な家に生まれたなおは幽霊と聞くとぞわっとする。
なおがうろたえているうちに、穴は道に変わっていた。美鶴と通った霊道がこんな感じだったと、ちょっとなおが事態に追いついて来たときだった。
風が吹き抜けて、霊道から現れたのは勇雄だった。彼は息せききって叫ぶ。
「哲知!」
勇雄はすぐさま哲知に駆け寄って、大急ぎで哲知にまくしたてた。
「すぐ来てくれ! 美鶴君が危ない!」
「へっ?」
変な声を上げたのはなおだけで、哲知は不機嫌な目で勇雄を見やって、ぷいと顔を背けた。
なおは慌てて哲知に追いすがる。
「え、えっ。流すとこじゃないよ、哲知。くわしく聞かなきゃ」
だが哲知はなおを置いて歩き去ろうとする。なおが戸惑っている内に、勇雄が慌てて哲知の前に回り込んだ。
勇雄は声を切らして言う。
「今度は本当なんだ。美鶴君が紫摩屋に……」
「今度は?」
哲知はいつもの穏やかさとは一変して冷えた声を出す。
「次こそはと何度言ったと思います? 信用しろと言う方が無理です」
哲知は一度勇雄をにらむと、彼に向かってまっすぐ歩いた。
哲知は勇雄が幽霊だと証明するようにぶつかることなく通り抜けると、霊道に姿を消す。
後には白々しいような土埃が舞っていた。なおは哲知と勇雄を見比べて、どうしたらと途方に暮れる。
やがて勇雄は小さくつぶやいた。
「……そうだよな。ごめん」
肩を落としてやはり霊道に姿を消した勇雄を見て、なおは一瞬だけ迷う。
迷ったものの、意を決してなおは顔を上げた。
「いや、そこはやっぱ気になるって!」
とっさになおは霊道に飛び込む。考える時間がもったいなくて先に体が動いた。
そこは薄闇が続いていて、哲知も勇雄の姿ももう見当たらない。なおは手探りで歩いたが、まっすぐ進むこともできないままに滑って転ぶ。
「痛ぁ! 凍ってるよ!」
霊道を歩くには修行が必要とはよく聞くが、そんな暇はない。なおはしばらく歩こうとはしたものの、予想以上にそれは難しかった。
こうなったら早く普通の道に出なければ。なおは仕方なく、ちらりと見えた見慣れた景色を頼りに脇に抜けた。
「よし……!」
霊道を出たところは劇場街だった。演劇や舞台があちこちで上演される中心街だ。
土地勘が戻って安心したところで、なおはごくんと息を呑む。
「……いやよくない! 仕事中だった!」
霊道はどこにつながっているかわからないのが災いして、ずいぶん遠くに出てしまった。なおの今日の仕事場は花火の打ち上げ会場である河原なのに、劇場街をふらついていたら職務放棄になってしまう。
なおは冷や汗を流したが、顔を引き締める。
「でも、もう来ちゃったし」
美鶴の身の安全には代えられない。なおは開き直ることにした。
勇雄は紫摩屋と言っていた。でも紫摩屋というのは危ない店だと聞いている。
なおはここから一番近いところに住む妖怪に助けを求めようと、町屋に駆けこんだ。
「鏡矢さん!」
なおがこっち側で一番頼りにしている妖怪、鏡矢は幸い家にいてくれた。
鏡矢は稽古の合間と思しき様子で、庭先でなおをみとめて顔を上げる。
「どうした、坊主。いつもに増して情けねぇ面して」
肩にひっかけた手ぬぐいを下ろしながら、鏡矢は問いかける。
なおはぜえぜえと息を切らしながら声を上げた。
「立花さんが危ないんです!」
鏡矢はすぐさま声を低くして眉を寄せた。
「あ? おい、その話、くわしく聞かせてもらおうじゃねぇか」
鏡矢はしばらくなおが話すままに任せた。
勇雄が哲知に助けを求めたこと、哲知がそれを無視しようとしたこと、そのくだりで、鏡矢はくしゃりと顔を歪める。
「てっちの奴、縁切り寺だからって家族の縁まで切っちまう気かよ」
鏡矢は悲しそうにつぶやいて頭をかく。
「あいつ、勇雄がこの世をうろついてるせいで、ばあちゃんの縁組がずっとなくなってきたって信じてるんだよなぁ」
鏡矢はもどかしそうに口元を歪めて、首を横に振る。
「その縁を元通りにするには手遅れなのかもしれねぇが、今は美鶴の坊ちゃんの無事がかかってんのに」
鏡矢は息をついて思案したようだった。なおはすがるように言葉を続ける。
「美鶴さんは紫摩屋だって、勇雄さんが言ってました」
鏡矢はうなって困り顔になる。
「あそこに出入りできるのは社持ちでも少ないんだよな。一役者の俺なんかじゃ絶対無理だ」
なおも考えて、ふと思いついたことを言った。
「神様……そうだ、彦丸なら行けるんじゃないですか?」
こちら側で名の知れた彦丸ならと思ったが、鏡矢はびっくりしたように手を振った。
「比良神っ!? やべぇって、比良神なんかに知られたら。紫摩屋どころじゃなく、町一区画くらい吹っ飛んじまうぜ」
「彦丸って、そんな過激なことしますか?」
なおは何度か鏡矢から彦丸のことを聞いたが、なぜ妖怪たちが彦丸を恐れるのかいまいちわからない。彦丸はひょうひょうとしていて、怒ったところなど見たこともない。
鏡矢は頭を抱えてうなる。
「とにかく、そりゃ駄目だ。でも美鶴の坊ちゃんが家に帰らなかったら、今度こそ比良神が探しに行っちまうしな」
なおも一緒になってうなったが、妙案は思いつかなかった。
美鶴に危機が迫っているかもしれないのに、ここで手をこまねいて見ていることしかできないなんて。焦りが空回りしているのは自分でもわかっていたが、どうしようもなかった。
なおはあまりに策がなかったので、やけっぱちになって言った。
「……もういっそ、忍びこんでから考えてみるのはどうでしょう」
ところがそれに鏡矢は目をまたたかせて、手を打つ。
「名案だ」
「えっ、今のが?」
なおがびっくりして聞き返すと、鏡矢は大きくうなずいて言う。
「あっちの世界から迷い込んだことにすりゃいいんだよ。坊主は平々凡々の顔してっから、あの美々しい坊ちゃんに縁の人間だなんて誰も気づかねぇ」
「……すみませんね、平々凡々で」
何も平凡を二度繰り返さなくてもと、なおは口をへの字にする。
鏡矢は声を弾ませて言う。
「すねるなよ。今はそれが役に立つんだ。あっちから迷い込んだ人間は社持ちが直接保護するまで放っておくって決まりがある。紫摩屋の旦那に出くわすまで自由に家の中をうろつけるぞ」
「天から平凡な人間が降って来たならしょうがないってことですね」
なおはふてくされて言ったが、とにかく如来さまが無事ならそれでいい。
「僕はどうしたらいいんですか?」
「そこは俺に任せろ」
鏡矢は自分の胸を叩いて言う。
「どこかわからない場所に坊主を飛ばすくらいなら俺がしてやれる。もし文句つけられたら、眉無し妖怪に絡まれて迷い込んじまったって言えばいいさ」
鏡矢は顔を引き締めて、なおの肩を両手でつかむ。
「こんな手助けしかできなくてすまねぇ。やってくれるか?」
その目に心配がありありと浮かんでいるのを見て、なおは不機嫌を忘れて見返した。
なおにはもちろん何が起きるのかわからない不安はあるが、一人でないというだけでこんなにも心強い。
こくっとうなずいたなおに、鏡矢はいきなりなおを肩に担ぐ。
「歯ぁ食いしばれ」
「え、えええ! ちょっ……!」
鏡矢はふと止まって言う。
「……ん? お前、坊主じゃなくて……」
鏡矢がなおの体に違和感を持ったようだったので、なおは目をぎゅっと閉じて主張した。
「女子じゃ吹き飛ばしてもらえませんか!」
「や、そんなことねぇけどよ、一応そこは」
「やっちまってください、鏡矢さん! 一思いに!」
なおの覚悟というか投げやりさに、鏡矢はひととき考えたようだった。
鏡矢は苦笑して言う。
「強い女子は好きだぜ。……行ってきな、やれるとこまで」
その瞬間、なおは言葉通り空に吹き飛ばされた。
……やっぱちょっとぐらい手加減してくださいって言えばよかったかなぁ。
なおは目をぎゅっと閉じて落下に備えたのだった。
飛んできて、紫摩屋。
どういう仕組みかわからないが、人間があちら側に落ちるときはそれで怪我をすることはないらしい。幸い、なおもぽすんとはまるみたいに畳に着地していて、怪我一つなかった。
そこは金箔の張られた調度に巨木から彫りこまれた柱、極楽を思わせる天井絵など、とにかく絢爛豪華な御殿だった。
至るところに折り紙の飾りがつりさげられていて、あちこちに本物の蝶がとまっている辺りもしゃれている。
なおは立ち上がってそろそろと歩き始めたが、まもなくひとり言をもらした。
「……いいのかな、これで」
なぜって、全然呼びとめられない。すれ違う使用人らしき妖怪もたくさんいるのだが、いきなり住居侵入している人間に対して、完全に放置状態だ。
しかし今は先を急ぎたい。美鶴の無事を確認しなければと、なおはぶしつけにあちこち見て回る。
足が疲れるほど広い屋敷だった。既に二十以上の部屋を謝りながらのぞかせてもらったが、蝶が舞っているだけで美鶴の姿はない。
居室に客室、厨房に菓子工場、しっかりお宅見学をさせてもらったが、誰も何も言わない。
なおは意を決して、廊下の向こうから歩いてきた振袖の女子に声をかけた。
「こうなったら……あの、すみません」
振袖の女の子は見事な笑顔でなおに応じる。
「あら、どうしました? お菓子でも食べます?」
「う」
不法侵入に良心の呵責を覚えるくらい歓迎されてしまった。
なおはいきなり美鶴のことを訊きたかったが、さすがにそれを言うと不審がられると思った。遠回しに女子にたずねる。
「え、えと。この家のご主人様はどちらに?」
「まあ、もうあちらへお帰りになるのですか」
振り袖の女子は口元をおさえて目をうるっとさせる。
「せっかくいらっしゃったのですから、もっとゆっくりしていってくださいませ。どちらでもご案内いたしますよ?」
繰り返すが、妖怪のみなさんは基本が大盤振る舞いでむやみに好意的である。
なおは手を合わせて食い下がる。
「いや、そこを何とか。ご主人様の場所が知りたいだけなんです」
なおの言葉に、振り袖の女の子は思案顔になった。
妖怪のみなさんは好意的だが、分を超えて手を出すこともない。振袖の女子もそうだった。困り顔だが、なおの言う通りにしてくれた。
「そうですか……あまりお引き留めするのも無礼というもの。わかりました。大旦那様は留守ですから、若旦那様のところまでご案内しましょう」
おっと、問題の若旦那様か。なおは警戒心が湧いたが、美鶴が一緒にいる可能性も高いとうなずく。
「お願いします」
虎穴に入らずんば何とかの精神で、なおは覚悟を決めて頭を下げた。
将軍様が江戸に入った頃からありそうな風情のある廊下を抜けて、母屋らしき場所まで入っていく。そこでひときわ立派な、塵一つ落ちていない畳が敷き詰められた部屋に入った。
使用人の女子はなおを振り向いて言う。
「こちらでお待ちください。若旦那様を起こして参ります」
既に夕刻だが、どうやら若旦那は優雅に昼寝中らしい。
奥の寝室の方へと使用人の女子は向かったが、なかなか戻ってくる気配がない。
待ちきれないというより多少の好奇心で、なおは立ち上がった。
なおはそろそろと足を忍ばせて寝室のふすまに耳を当てる。
その向こうで押し殺した声が聞こえた。
「……大紫殿。どうかおとどまりを」
はっとなおは息を呑む。小声だが、それは美鶴の声だった。
それに応じたのはあでやかな男の声だった。
「無理を言うな。ここまで来て戻れるとでも?」
衣擦れの音がして、なおの心臓がどくんと跳ねた。
「かわいい美鶴。私は何としてもそなたを手に入れると言っている」
……なんだかただ事じゃなさそうな雰囲気だった。
というかふすまの向こうは寝室らしい。客の美鶴が寝室に入るその時点で、すでに身の危険のような気がした。
美鶴の方は冷静な声音で続けて言う。
「何度も申し上げておりますが、僕は大紫殿と結婚するつもりはありません。帰らせてください」
ところが若旦那もとい大紫は性急にささやいた。
「もう我慢できん」
その後に美鶴の小さな悲鳴が聞こえた。
なおは頭から湯気が噴きそうになって、思わずふすまを開け放っていた。
「抜け駆け反対ぁーいっ!」
しんと一瞬の沈黙が下りる。
奥の寝室、菖蒲の屏風の傍らに美鶴がいた。その前に木彫りの積み木が崩れている。
……積み木? なおは首をひねったが、美鶴と向き合っている男を見て驚く。
それはびっくりするくらい派手な若い男だった。七色に輝く触角が頭から伸び、角度によって色が変わるくじゃくの羽のような着物をまとって、顔の横には蝶の形をした仮面までつけている。
なおは胸に迫ってきた思いを叫ぶ。
「その格好はちょっと無い!」
彦丸といい、どうして腹が立つような美形は変な格好ばかりしているのか。目の周りは隠れているとはいえ、すっと通った鼻梁に色気たっぷりの口元なんて、ずるいくらいに整っていた。
大紫はむかっとした様子で言い返す。
「は、入る前に声くらいかけよ!」
母親に勝手に部屋に入られたみたいな反応をするのが、ちょっと残念だ。
そんな問答をしているうちに、美鶴が頭を押さえてうつむくのが見えた。なおは慌てて美鶴に駆け寄る。
「無事ですか、立花さん!」
なおが助け起こすと、美鶴は力なくうなずいた。青白い顔色を見て、なおも血の気が引く。
なおは大紫に食って掛かる。
「立花さんに何をしたんですか!?」
「美鶴?」
なおの剣幕に、大紫は意外そうな声を上げる。
大紫は不思議そうに美鶴を覗き込んで顔をしかめた。
「これ、しっかりせよ。具合でも悪いのか?」
なおは状況がわからなくて、大紫と美鶴を見比べるしかできない。
するとふすまの外に控えていたらしい先ほどの女子が、慌てて飛び込んできた。
「若旦那様!」
彼女は困った様子で二人を見比べる。
「申し訳ありません、美鶴さま。若旦那様はご自覚なく生気を奪ってしまわれるのです!」
「生気?」
なおはその不穏な言葉を聞きとがめて問い返す。
「そ、それって吸われて何とかなるものなんですよね? 昔話みたいにそのまま……」
生気を吸われてあの世に連れていかれた昔話を思い出して、なおは言葉に詰まる。
もし美鶴の身に何かあったら。青白い顔をした美鶴を見て、なおが最悪の想像をしたときだった。
ぱたん……とふすまの一枚が倒れた。
続いてぱたぱたとどんどん紙細工のように倒れて行って、驚くなおの周りに風が吹き込んでくる。
豪華な御殿が、まるであっけなく降参していくようだった。気が付けばなおたちは剥き出しの風の中に立っていた。
ふいに美鶴の半歩先で、竜巻のような風が下りてくる。
「……大紫。美鶴に何をしてくれた」
竜巻から袖が生えるようにして、黒い狩衣姿の男になった。
黄金のような長い髪をなびかせて、彦丸は渦から降り立つ。
「美鶴は、私の神使になる者だぞ」
その表情を見て、なおは息を呑む。彦丸の赤い化粧の施された狐目は限界まで細くなって、そこから凍てつくような眼差しを大紫に向けていた。
妥協の一切ない、怒りに満ちた目だった。なおはその目が自分に向けられたわけでもないのに腰を抜かして、ぺたんと畳に座る。
「お遊びの時間は終わりだ」
彦丸が人差し指を大紫に向けると、大紫の仮面は塵のように飛び去る。
瞬間、大紫は七歳くらいの小さな男の子に変わっていた。七色に輝く触角はそのままだが、光沢のある白い髪は頬で切りそろえられていて、くりくりとした大きな目が愛くるしい。
「ひ……比良神」
ちびっこ大紫は彦丸をみとめると、その幼い顔立ちを一気に恐怖でひきつらせる。
それを見て使用人の女子が駆け寄ると、慌てて頭を下げる。
「比良神、お許しを! 若旦那様はまだ幼く力の制御ができないのです。悪気があったわけでは……!」
「だが美鶴を傷つけた」
懸命に主を庇う使用人に彦丸は振り向きもせず、大紫をひたとにらむ。
「大紫、美鶴と縁を切れ」
彦丸は断罪するように低い声で告げた。
彼の周りから白い煙が上がって、渦を巻く。
「今すぐに」
霧のように辺り一面に立ち込めたそれを感じて、なおはひっと声を上げる。
「冷たっ! 彦丸、霜出てるよ!」
なおはそう言ったが、霜でないのはわかっていた。触れたところから刃物が刺さるような痛みが走る。使用人はふるふると震えて、大紫は目の端に溜まった涙が凍って固まっていた。
彦丸は底知れない怒りをこめた声でなお続ける。
「縁を切らないなら私が切り落とすが、それでもいいか」
彦丸は左手で大紫をつまみあげると、右手の爪を額に突き付ける。
なおはようやく彦丸が怖いといわれる理由を見た。
神の怒りは手に負えない。彦丸はなおに絡んでいたときとはまるで別人だ。
神を侮辱するのは心底恐ろしいものなのだと体で感じた。
大紫もなおも、立ち込める冷気にただ震えていた。そんなとき、唯一言葉を放った人間がいた。
「……縁は切らない」
美鶴は薄くまぶたを開いて、よろめきながら半身を起こす。
「友達と一緒にいて悪いことなんてない」
その言葉に、ぴくりと大紫が動く。
大紫は不思議そうに問う。
「美鶴が私と遊んでくれたのは、花火の火が欲しかったからではないのかえ?」
なおは、ん?と首をひねる。大紫はそろそろと言葉を続けた。
「美鶴は縁結び祭りの締めに、社持ちに駆けまわって火を分けてもらっておったじゃろ。でも私が美鶴に、ずっとここにいてほしいと言うから……」
大紫は彦丸につりさげられたまましょんぼりとする。
ふいに美鶴は笑って首を横に振った。
「僕は火をもらうためにここにいるわけではないですよ。火ならもう大旦那様に頂いていますから」
「えっ?」
大紫が驚いて顔を上げると、美鶴は懐に手を入れて言う。
「ほら、ここに」
美鶴の手のひらにそれは子どものように包まれていた。
冷気の中にほんのりと浮かび上がる火で、場に小さなぬくもりが戻る。
美鶴はその火のような温かい微笑みを浮かべて言う。
「結婚だけが縁ではないですよ、大紫殿。僕と大紫殿は、もうずっと長いこと友達ではありませんか?」
なおは縁結び祭りの最初の説明のときに聞いたことを思い出していた。
真っ先に縁組を口にしたなおに、縁はそれだけではないと言った美鶴。彼はその言葉のとおり、たくさんの妖怪たちのところを回って、いろんな縁の手助けをしてきたのだろう。
なおは美鶴の特別になりたいと思ったことはない。だから美鶴の言葉は、もしかしたら大紫には哀しく響いたかもしれない。
「美鶴……」
けれど大紫は妖怪の多くと同じようで、どこかで人間に甘いらしかった。
大紫は素直に頭を下げて美鶴に言う。
「そうじゃな、友達じゃ。仲良うしたい思いでそなたの気持ちを踏みにじってはいかん。許してくれ」
きっとそう言って互いを労わることができる妖怪だから、如来さまも友達になったんだろうなと、なおは思った。
美鶴はもう一度彦丸に言う。
「大紫殿と縁は切らない。彦丸、手を離してさしあげてくれ」
彦丸は黙ったまま美鶴をにらんだ。普段は美鶴が怒っても笑って受け流すのに、今は美鶴を食い尽くすような空気をまとっている。
彦丸は美鶴を見据えて告げる。
「だめだ。有害な妖怪とは縁を切れ」
いつもの喧嘩と雰囲気が違っていて、なおは焦りながら考えた。
どうして彦丸が妥協しないのか、それは大紫が生気を吸ってしまって美鶴にとって危険だから。その彦丸の言い分にも一理ある。
なおはまだ腰が立たないながら、畳を這っていくようにして二人の間に入る。
「ま、待ってください、立花さん。彦丸は心配してるんです」
なおはわたわたと彦丸の弁解を代わりに口にする。
「僕も心配です。生気を吸われる関係は、やっぱりよくないです」
一応なおの気持ちも添えて、なおは美鶴に提案した。
「縁は切らなくていいと思いますけど、美鶴さんも、大紫殿が成長するまでちょっと文通でもしてみたらどうですかね?」
「文通……」
なおは黙りこくった美鶴を見て、ちょっと効果があったことに安心する。
でもなおの体は先ほどから彦丸の放つ冷気で冷えに冷えていて、今度は懇願の目で彦丸を振り向いた。
「彦丸も、いい加減、し、霜ひっこめてよ。……ひ、ひっこめてください。お願いします」
なおが歯をガチガチいわせながら頭を下げると、彦丸はようやく目を伏せた。
なおの行き当たりばったりな頼みは何とか彦丸に届いたらしい。それになおが気づいたのは、張りつめるような寒さが緩んだからだった。
「……あ」
体が解凍していくような感覚に、なおはようやくほっと息を吐いた。
彦丸は大紫をつかむ手を離して、少しだけ笑ってみせる。
「まあ許そう。美鶴もちょっと痛い思いをして大人になっただろ?」
美鶴は気にくわなさそうに目をとがらせる。
「ひっかかるな、その言い方」
「頭も冷えただろうし。……美鶴?」
彦丸はくすりと笑いかけて美鶴に手を差し伸べる。
美鶴は今度は無言でその手を取った。
なんだかんだでこの二人、縁が強いなぁ。なおは二人の恋人説をぼんやりと思い返したが、今はいつもの彦丸に戻ったことに安心した。
彦丸は美鶴を引いて立たせると、大紫をちらと見る。
「では、大紫。まずは文通から、だよ」
力のこもった流し目を残して、彦丸は美鶴を連れてあちら側に消えた。
霜も冷気もなくなって、なおはほっとため息をつく。それは大紫も同じようで、なおとは別の意味で安堵の息を吐いたようだった。
「……気に入らぬ男じゃ」
大紫はあぐらをかいてむすっとする。七歳児程度の少年がその仕草だと、なおはちょっとほほえましかった。
なおは一応大紫をよいしょしておくことにする。
「大紫殿も、派手衣装が似合ってはいましたよ」
「大人姿はがんばって背伸びしただけじゃ。かっこよく美鶴と積み木したかったのじゃ」
なおは鏡矢がそういう意味では心配ないと言っていた理由がわかった。いくら社持ちでも、大紫はまだ子どもなのだった。
そこでなおは空中にふわふわと浮いている火の玉に気づく。
一息分考えて、なおは目を見開く。
「……これ、ここにあってよかったっけ!?」
花火は閉門の鐘と同時に打ち上げると聞いていた。
なおがはっと窓の外を見ると、すでに日が暮れ始めている。
「立花さーん! 忘れ物!」
妖怪のみなさんがとても楽しみにしている一発だけの花火だ。縁結び祭りの最後を不発に終わらせるのはあまりにもったいない。
「僕じゃ飛ば……せないし、えと、でも」
花火の場所が元々のなおの持ち場だから、そこまでの道順は知っている。
ただ火の玉をどうやって持てばいいかわからずわたわたとしていたら、大紫が立ちあがって火の玉を自分の手に乗せた。
大紫はなおに手を差し伸べて言う。
「手を貸せ」
なおが言われるままに両手を差し出すと、大紫はなおの手にほおずきの枝を渡してそこに息を吹きかける。
「あ……」
なおの手の先で灯った火は赤ん坊のように頼りなげだが、確かなぬくもりを持って輝いていた。
大紫はなおに託すように告げる。
「手間をかけてすまんな。持って行ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
なおは火の灯ったほおずきを前に、慌てて頭を下げた。
そこで大紫ははたと首を傾げる。
「……ところで、そなたは何者じゃ?」
なおは一瞬黙って、力強くうなずいた。
「後日、手土産を持参してお詫びに参ります」
今は不法侵入したことを追及されるわけにはいかず、なおは大慌てで紫摩屋を後にしたのだった。
河原までは走っていけばすぐに着く距離のはずが、予想に反して道が混雑していて進むのも一苦労だった。
人波もとい妖怪波の中、なおは声を張り上げる。
「うー……すみません、道をあけてくださーい!」
縁結び祭り最終日というのは予想以上ににぎわっていた。それは喜びたいところだったが、時間までに目的地に到着しなければいけないなおとしては苦しい事情だ。
妖怪たちはしきりに空を仰いで言う。
「まだかなー、花火」
妖怪たちのその期待がますますなおを焦らせる。期待に応えようとする気持ちが、かえって進めないもどかしさに拍車をかける。
どうにか劇場街まで戻ってきて、なおは鏡矢をみつけた。
「鏡矢さん!」
なおが声を上げると、鏡矢はひらりと跳んでなおの前に降り立つ。
「直助! 無事だったか。美鶴の坊ちゃんは?」
なおは鏡矢に報告がてら、すがるように言う。
「立花さんは無事でした! でもこれ! 花火の火がまだここにあって……!」
鏡矢は一瞬顔をしかめたものの、軽い調子で言う。
「河原に持っていけばいいんだろ? 空か霊道を往けばすぐじゃねぇか」
「僕、普通の村出身なのでどっちも無理ですって……わわっ!」
慌てて説明しようとして、なおはすっころんだ。
地面に頬をついて、情けなさはここに極まれり。
なおはちょっと涙がにじんだ。自分は彦丸のようにかっこよく美鶴を救出できない。自分で言って何だが、妖怪の人らが簡単にやってのける空や霊道を往く能力も持ってない。
なおはよろよろと立ち上がりながら言った。
「鏡矢さん、お願いします。火を河原に届けてください!」
鏡矢はそんななおを見て、困り果てたようにうなる。
「あ、あのな。俺は縁結び祭りには参加しねぇって言ったろ」
確かに鏡矢が美鶴にそう言っていたのをなおは知っている。美々しい美鶴でも彼を参加させることはできなかったのだから、さえない女子に過ぎないなおの頼みを簡単に聞いてくれるとは思えない。
「だって、みんな楽しみにしてるんですよ……」
なおがぐずりと鼻をすすると、鏡矢はうっとうめいた。
「お、おい。そんな情けねぇ顔するなよ」
「いいですとも。もっとしてやりますよ。どうぞ見てください」
なおは開き直ってぐすぐすと泣き始めた。
鏡矢はいかにも居心地悪そうに首の後ろをかいて、腕を組みながら立っていた。
みっともなくたって、ずるくたって、自分はみんなが花火で喜ぶところを見たい。なおは不細工な顔で心底そう思った。
やがて鏡矢は一度目を閉じて、自分の胸を叩く。
「……しょうがねぇなぁ。一肌脱ぐか」
鏡矢は着物の袖を肩までまくりあげて声を上げる。
「てっち。例のものを」
「はい!」
どこに隠れていたのか、哲知が四角い箱を抱えて駆け寄って来た。
鏡矢は哲知から箱を受け取ると、早口でなおと哲知に説明する。
「俺は時間稼ぎをしてやる。てっち、お前なら霊道を走れるな? 火を運んでやれ」
「……ほ、ほんとにやってくれるんですか?」
なおが驚いていると、哲知がにこっと笑って言う。
「僕ら、友達に泣いてほしくないからね」
哲知はなおに向かって屈みこんで、なおに手を差し伸べる。
「よく火をもらってきてくれたね。後は僕と鏡矢さんに任せて」
ゴーンと、閉門の鐘が鳴り始めていた。なおはごくんと息を呑む。
「あ……」
なおは間に合わなかったと絶望的な顔をしたが、哲知は余裕たっぷりに言う。
「大丈夫。花火は最後に上がればいいんだよ。……祭りはまだ、終わってない」
哲知はなおから火を受け取ると、軽やかに霊道に消えて行った。
鏡矢は哲知から受け取った箱を持って、路地にさっと隠れながら言う。
「直助、後ろ向いてろよ。化粧中はちぃっと恥ずかしいんでな」
パタパタと音を立てて、鏡矢は高速で手を動かしているようだった。
なおがそろそろと背中ごしに見ようとすると、鏡矢は文句をつける。
「着替えるから見るなって」
「あ、すみません」
鏡矢はそう言っているうちに着物の上半身も脱いで腰に巻き、さらしをくるくると体に巻きつける。
鏡矢は一息分ためて言う。
「……行くか」
彼が振り向いた瞬間、なおは目が点になった。
数刻後、辺りには人だかりをできて、妖怪も人もそろって屋根の上をみつめていた。
そこでは鏡矢が屋根の上に立って、妖怪たちを見下ろしながら言う。
「さあて、火の花をお待ちかねのみなさん」
鏡矢は辺り一面に響き渡るような朗々とした声で告げる。
「火の花は奥ゆかしい姫君のよう。まだお化粧が整っておらんようです。姫君にご登場頂くため、ひとつ歌でお誘い申し上げましょう」
扇をひらめかせて笑ったのは、長い銀髪と同色の瞳、まさに磨き上げられた鏡のように神々しい男性だった。
……なおは哲知がはしゃぐ理由をひとめで知ることになる。役者の姿を取ったなら、鏡矢はまちがいなく美男だった。
なおが首の後ろのかゆさをこらえて立っていると、鏡矢はあでやかに言葉を紡いでいく。
「縁を結べば悩みも増える。思いを伝えれば傷つく日も来る。恐れに目がくらんでひきこもりたくなる気持ちは誰もが抱くもの」
鏡矢のすっと引かれた眉は力強さを表し、さらしを巻いただけの上半身は鍛え抜かれてまぶしい。化粧を施して舞台に上がったなら、もう眉無しがらっぱちと同一人物、もとい同一妖怪とは思えなかった。
「ですが徒花などといわないで。お嬢さん、あなたはとても美しい。咲き誇る姿をどうか見せてほしい」
鏡矢は軽やかに歌い踊る。扇を一度返すだけで人々の目を集めて、あでやかな流し目でこちらへ戻ってくる。
やがてひらりと屋根の上に下りて河原を臨むと、鏡矢は天を見上げる。
鏡矢は胸に手を当てて、空に住む姫にするように優雅に一礼する。皆の視線が、鏡矢が礼を取った先に集中した時だった。
パーン……と、大空に花が咲く。
なおはその光に目を奪われる。
花火、その言葉の意味を知る。それは赤一色の、壮大な花だった。
祭りの終わりの盛大なご褒美に、なおはこの数か月の疲れを溶かしていく。
大きな空の花に人々の間からも割れるような喝采が響いて、それはいつまででも続くように思えた。
その日の夜、なおは哲知と一緒に円城寺に戻ってきた。
哲知も鏡矢と同じでなおが女子だとわかったはずだが、彼のなおに接する態度は至って変わりない。
そういえば哲知は美鶴に対しても過剰な反応をしない数少ない男児だ。神使になろうとする人間は、そういう穏やかさを求められるのかもしれなかった。
なおと哲知は縁結び祭りのあれこれを思い出しながら二人で他愛ない話をしていた。終わってみたら早かったね、そんなことを言い合って、円城寺の境内に入った。
ふと二人で顔を見合わせる。石段に哲知の祖母、とわが座っていた。
哲知はなおから離れて祖母に問いかける。
「おばあちゃん、こんなところでどうしたの?」
とわは綱の向こうの空を仰いでいるようだった。
とわは首を傾げて哲知に答える。
「うん……さっきね、とても大きな花火が見えた気がするのよ。この辺で花火が上がったのはもう何十年も昔のことなのに、不思議ね」
なおは口に出さないままあちら側に思いを馳せる。
こちら側とあちら側は時々つながっている。あちら側の花火が見えることもあるかもしれないと、なおは思った。
とわは懐かしそうに目を細めながら言う。
「思い出しちゃった。主人がね、花火を見に行こうって言ってたことがあるのよ」
「あ……」
哲知ははっと何かを思い出したようで、口をつぐんでうつむく。
「でも主人に用事が出来て、一緒に行けなくなっちゃってね、私だけここの頂上で見ようとしたの。そうしたら転んじゃって、主人に怒られて」
とわは綱の向こうを見やって頬に手をつく。
「散々怒った後、主人は言ったの。子どもが生まれたらまた花火を見に連れて行くからって。でも……その前に主人は亡くなったから、それきり」
沈黙は短かったが、とわの表情にはいろんな感情が浮かんだ。
とわはため息をついて苦笑を浮かべる。
「言っても仕方のないことね。さあ、冷えて来たわ。直助にお茶でも出しましょ」
とわが杖をついて立ち上がったとき、なおは目を見張った。
石段に続く綱の向こう側で勇雄がこちらをみつめていた。とわから無理やり顔を背けるようにして踵を返して、ゆっくりと石段を登っていく。
その背中に満ちた哀しい決意に気づいて、なおは哲知を振り向いた。
「てっち……」
哲知も勇雄を見ながら言葉に迷っているようだった。
たぶんここで別れたら二度と会えない。勇雄はもう亡くなっているのだから当然だが、なおは何だかこのまま勇雄を行かせていいのか迷った。
哲知はうつむいて口を開く。
「……何をいまさら」
心に溜めていた気持ちがあふれだすように、哲知は叫んだ。
「花火なんかで満足できるわけないだろ! おばあちゃんが杖ついて歩いてるだけで目を離せなかったくせに!」
「哲知?」
とわが振り向いて問いかける。
哲知の声に勇雄は足を止めなかった。
石段を一段一段登って、天に近いところまで行くつもりのようだった。
哲知は泣いてるように叫ぶ。
「おじいちゃんは成仏なんてできないよ!」
そのときなおに宿った感情は、悲しいとか、かわいそうとか、じっくり見極めたわけじゃなかった。
なおはとっさにとわの前で屈みこんで言う。
「とわさん、僕の背中に乗ってください」
「え? どうしたの?」
とわはきょとんとしてなおを見下ろす。
なおはちらと哲知を見て、とわに目を戻すと、たぶんそうであってほしいという願いで言葉を口にした。
「頂上まで行ったら、とわさんにも見えるのかもしれないです。……もしかして花火が見えた、今日なら」
とわは不思議そうな顔をしたものの、なおをみつめて何かを考えたようだった。
とわはなおを労わるようにそろそろと背中におぶさりながら言う。
「いいけど……大丈夫?」
「やってやりますよ。……よいしょっと!」
とわはどうにかとわを背負って石段を登り始めた。
老人とはいえ、人一人背負うというのはものすごく重い。ましてその状態で石段など登ったことがないから、なおは数歩でどっと汗が噴き出してきた。
練習、ちゃんと続けていればよかった。そう思いながら、なおは歯を食いしばって一段飛ばしに駆け上がる。
絶対に落とさない。この人を勇雄より前に、あの綱の前に連れて行く。
彦丸のようにかっこよく美鶴を救出できるわけでも、鏡矢みたいに芸が出来るわけでもない自分。
……だけど、足には少しだけ自信があったでしょ? なおはそう心に問いかけて、自分を奮い立たせる。
永遠のような、一瞬のような、そんな時間感覚の中で、足は着実に前に出ていた。
「は、は……っ。は!」
なおは最後の一段を上りきると、頂上に立った。
頂上は聞いていた通り綱以外何もない、ただの空き地だった。そこでなおはふらつきながらとわを下ろして、切れ切れの息を吐きながら問いかける。
「な、何か見えませんか?」
そんな奇跡、そうそう簡単に起きるわけがない。案の定、とわはあっさりと告げた。
「とりたてて珍しいものはないわねぇ」
「そう、ですよね……」
なおが肩を落としたそのとき、とわは何気なく告げた。
「いつも通り、主人が走ってるわ」
「……え」
なおは息を呑んでとわが指さす方を見る。
とわは勇雄を明確に指さして言う。
「ここの石段を駆け上がるのは主人の日課だもの。まあ、直助に負けるなんてあの人も年ね」
なおはごくんと喉を鳴らしてから、恐る恐るとわに問いかける。
「勇雄さんが見えるんですか?」
勇雄も最後の石段を登ろうとして、硬直しながらこちらを見ていた。
一瞬の沈黙の後、とわは笑いながらうなずく。
「やあねぇ、私だって山で修業した住職なのよ? 幽霊くらい見えるに決まってるわ」
ころころと笑うとわに、なおはがくりと肩を落とす。
山で修業するというのはこの業界では花形らしいと、どうでもいいことに今更気づいたりする。
自分の心の涙は一体。そう思わなくはないが、少しだけいいこともあった。
勇雄は石段を登りきると、おずおずととわの前にやって来て言った。
「……とわ」
勇雄は終縁と書かれたお面を外す。そこには二十代半ばくらいの、内気そうな青年が顔をのぞかせていた。
彼は言葉に迷う間があったものの、少しして口を開いた。
「長い間、ここに居着いてすまなかった」
勇雄はぼそぼそと小声でつぶやく。
「君がちゃんと暮らしていけるか心配で残っていたけど、僕がここにいたせいで縁談がなくて……」
「何を言ってるの、馬鹿にしないで」
ふいにとわが厳しい口調で遮る。
「縁談を断ったのは私が決めたことよ。私は子どもも孫もできて、仕事も順風満帆で、幸せだったから再婚しなかっただけ」
「そ、そうか……」
勇雄がぽりぽりと頬をかくと、とわは呆れた様子で腰に手を当てた。
「あなたってまだわかってないのね」
気まずそうに目を逸らした勇雄に、とわはため息をつく。
とわはふいに杖を離した。手を前に差し出して、勇雄を見上げる。
「……あなたに出会ったのは、私の人生で特大の花火みたいな出来事だったのよ」
何かを待つように手を差し出し続けるとわに、勇雄はくすぐったそうに下を向いていた。
やがて勇雄もおずおずと手を差し出して、とわの手を取る。
「うん。……僕もだ」
花火の音はもう消えているのに、今日の宵闇はどこか明るかった。なおにはそれが名前も知らないどこかの神様がくれた、二人への贈り物のように思えた。
死が間に入っても縁が切れなかった夫婦は、手を取って綱の前で長いこと向き合っていた。
勇雄はその後、石段を下りて寺に戻っていった。彼はあちらには行かず、消えるまでここでとわを見守り続けると決めたらしかった。
苦い、甘い夫婦の縁もあるんだとなおは思った。そこには誰もが迎えるありふれた終わりは待っていないが、一つの幸せの形かもしれなかった。
サイコロ屋敷に帰宅して、なおはひとごこちつく。
そろそろ寝る時間だが、まだ美鶴も彦丸も帰っていない。彦丸が氷ばかり出したから、銭湯にでも行ったかもしれない。
なおは茶をすすりながらぼんやりと考える。
ここひと月、ひたすら人の恋路を応援する日々だったが、これはこれなりに楽しかった。
「……どうしよう」
だけど奉公は今日まで、しかも今日は一時職務放棄して不法侵入までしている。
いろりの前で頭を抱えていると、家中のつくもがみが集まって口々に言う。
「直助、どうしたんじゃ」
「頭でも壊したか」
いろいろ仕事の当てを探したが、なおはまだ次の仕事がみつかっていない。奉公の延長の話を期待したが、今日の仕事ぶりではあちらからお断りされてしまう。
なおはしばらくうなだれたが、きっと前を見据える。
「大丈夫。僕はまだやれる」
「お?」
「いつになく強気じゃな?」
拳を握りしめてなおは語る。
「あてがないわけじゃないんだ。ただ転がる勇気が出なかっただけで」
出会ったとき、美鶴も言っていた。神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃない。
なおは顔を上げて力強くうなずく。
「よし、ここはひとつ……」
立ち上がろうとしたなおをあざ笑うように、何かの塊が降って来た。
なおは思わずうめき声を上げる。
「痛ぁ……っ!」
しばし悶絶してから、なおは横目で落下物を見やる。
それはふたのように丸く切り取られた木片だった。これが石だったらなおは今頃あの世行きだが、それでも床で一回転するくらいは痛かった。
見上げると、天井に穴が空いている。ちょうど落ちてきた木片がはまりそうだと思っていたら、そこから別の何かが降って来た。
なおは反射的にその場から逃げる。
「ぎゃあ!」
なおはわたわたしながら壁まで後ずさった。
今度落ちてきたのは木片ではなかった。しかも事もあろうに言葉を話した。
「夜分に失礼いたします」
二十代半ばくらいの若さで、全身ぴしりと黒い着物を身にまとった背の高い男だ。
……いや、人間かな? 人間が上から落ちてくるはずはないだろうと、なおは首を横に振る。
顔を見やると、これまた何かの間違いみたいにいい男だった。さっぱりと切りそろえた黒髪に、不思議な緑色の目をしている。
その秀麗な面立ちにいつもの苦手感を抱いていたなおに、彼は張りのある低い声でたずねる。
「立花美鶴さんはご在宅でしょうか?」
彼のその目は射抜くように鋭くて、なおはへびに睨まれたカエルのように一歩後ろに引いた。
まさにその時、玄関が開いて美鶴その人と彦丸が帰ってきた。
美鶴はなおに声をかけようとして、不思議そうに首をひねる。
「ただいま……お客さま?」
そのとき、男は目にもとまらぬ速さで動いた。美鶴の前に滑り込んで……華麗に土下座する。
男はその美々しい声で美鶴に言う。
「あなたのしもべが参上しました」
きっぱりと告げた男に、美鶴を含め全員が沈黙する。
「もう一生離れません」
男は地面に額をすりつけるようにして、美鶴の服の裾をつかんだのだった。
あちら側で人口が密集している妖怪たちは、こちら側に働きに出たり嫁や婿を取りたい。一方でこちら側の稲香町は若い人がみな江戸に行ってしまうので、やっぱり働き手や結婚相手が欲しい。
まずは妖怪と人間の行き来を活発にしようということで、縁結び祭りが考えられたのだとなおは聞いた。
今回の祭りの主なところは、妖怪の側がこちら側の人間を受け入れてもてなす観光や宿泊体験が企画されている。
なおはお盆を片手に席を回りながら声を上げる。
「こんぺいとうをご注文のお客様は?」
なおは妖怪たちの申請の門番が終わったので、縁結び祭り要員に割り振られた。
とはいえ新米の身なので、もっぱら飲食店の給仕や宿泊案内のお手伝いなんかをしている。
人間と妖怪のみなさんの会話を邪魔しないように、ただ困っていたら手助けをするよう言いつけられている。
でもなおの手助けはあまり必要ない。妖怪たちは人間が困っていたら寄ってたかって助けにかかる。
「こんぺいとうはお初ちゃんだよ」
「かわいい注文だなぁ」
まあ、縁結びの基本は要するにお見合いなのだ。妖怪たちは口々に話題を振る。
「お初ちゃんはどこから来たの?」
「えと、ここから東の山を二つ越えてね……」
水の中の月が覗ける湖のほとり辺りで和菓子片手に、妖怪と人間が入り混じって和気あいあいと歓談している。
妖怪側の参加者は耳がついていたり尻尾がついていたり、はたまた半分以上動物の体だったりするのだが、意外と人間側は気にしない。
「早く稲香町に住みたいわ。妖怪のみんなと堂々と暮らせるところがあるなんて知らなかった」
なおが知らなかっただけで、妖怪に親しんでいる人間は世の中にたくさんいるらしい。田中家のおばちゃんたちがどういう手を使ってか、そういった人間たちをかき集めてきたらしい。
妖怪の一人はもぞもぞと恥ずかしそうに切り出す。
「じゃあその時はぜひ僕の、お、お嫁さんに」
「まあまあ。こんなおばあさんに若い男の子はもったいないわよ」
一方で妖怪たちは、稲香町に人間の嫁や婿が来てくれるのを切望している。ついでに彼らは老若男女をあまり構わないので、おばあさんやおじいさんでも平気で口説く。
なおが給仕をしながら遠い目をしていたら、店主のおじさんから声をかけられた。
「坊主、こっちは手が足りてるから今日は帰っていいぞ」
「あ、いや。まだ勤務時間ですので」
「いいっていいって。目が死んでるだろ? 田中家の人は大変だねぇ」
ついでに妖怪の皆さんは田中家の人間にいたく好意的である。
店主のおじさんはしみじみと言う。
「田中家の外回りが巡回してくれるようになってから、こっちもずいぶん平和になったからねぇ」
彼らはたまに、田中家の「外回り」について口にする。その業務内容は未だに不明だが、妖怪の世界に深くかかわるものらしい。
そんなわけで、なおは門番の仕事をしていた頃よりずっと自由時間があった。こちら側とつながる山奥の道まで、あちら側の世界をぶらぶらと散策する。
妖怪の住むあちら側というのは、大物妖怪の家を中心に城下町のようにして栄えている。大物妖怪というのはなおたちの世界で祀られている者、別名社持ちで、神様を自称できる者たちだ。
ただ、彼らは照れ屋なので神様と呼ばれるのは恥ずかしいらしく、地名や家の名前で呼んでもらうとありがたいようだ。
なおはその日、ある店の前で立ち止まった。
「あ、ここが紫摩屋なんだ」
なんとなくあちら側を散策していたら、あちら側で大人気の老舗和菓子屋を発見した。
紫摩屋というのも、社持ちの名家らしい。なおも美鶴がお土産にくれたので味見させてもらったが、一粒で夢心地になる甘納豆だった。
格子窓から覗き込んだ店内は、至るところに蝶の折り紙が散りばめられていてとってもおしゃれだった。
「高いんだろうなー……でも欲しー……」
店先でうろうろとしていると、売り子と目が合った。
桜色の振袖を着た可憐な女の子で、なおににっこりと笑いかける。
つい笑い返してしまって、なおは吸い寄せられるように店の戸に手をかける。
次の瞬間、声が割って入った。
「待て、坊主」
「ひぃ!」
視界にもいっぱいに眉無しがらっぱちが割り込んできた。なおはその切り替えに絶望感を味わいつつ、ぐいと肩を引っ張られて脇道まで連れて行かれる。
一区画ほど歩いてから、鏡矢は振り向いてなおの額を指ではじいて言う。
「目ぇ、覚めたか?」
「覚めたくありませんでした」
なおは目を逸らしてぼそぼそと文句をつらねる。
「なんで止めるんですか。僕に甘納豆も食うなと?」
「豆は食っても食われるな」
「は?」
なおが首を傾げると、鏡矢は少し考えて難しい顔をする。
「なんて言えばいいんだろうな、あっちの住人に説明するには。あー……俺、学がねぇからわかんねぇ」
うんうんとうなっている鏡矢を見ていると、なおは不機嫌が収まってくるのと同時に反省心が湧いてくる。
なおはさっきの売り子の女の子の色香を思い出して言った。
「えと、もしかして危ない店でした?」
鏡矢は微妙な顔をしながらうなずいた。
「まあ……そうだ」
彼は言いづらそうに言葉を続ける。
「こっちってのはそういう境界があいまいなんでな。坊主みたいなひよっこじゃ、ころっと昇天させちまうんだよ」
なおはなるほどと思う。確かにこっちのお店は平気で芸伎さんが寄って来る。門番の仕事でも一番の難点がそこだったのだ。
なおは慌ててうなずいた。
「じゃ、じゃああの店はやめときます」
なおもせっかく苦労して手に入れた給金を絞り取られたくはない。なおがそう言うと、鏡矢はあからさまにほっとした顔をした。
「よっしゃ。ま、もっと安全に昇天できる方法ならいくらでも教えてやるからさ」
「なんですか、もー。天下の公道でする話じゃないでしょ」
鏡矢となおは、気安い冗談で笑いあいながらその場を立ち去った。
歩きながらなおは鏡矢にたずねる。
「ところで、鏡矢さんはどちらへ?」
紫摩屋が見えなくなった辺りで言ったなおに、鏡矢は口を開く。
「ああ、俺も目的地は紫摩屋だったんだ。でも豆を買うんじゃなくて、美鶴の坊ちゃんを探しに行ったんだがな」
「立花さんが?」
なおは美鶴の生活を思い浮かべて、彼がいかがわしい行為に及ぶなんてありえないと首を横に振る。
「まさか。僕じゃあるまいし、立花さんがなんで豆を買いに行くんですか」
「いいだろ、別に。豆くらい買っても」
「そうじゃなくて」
わからない人だなとなおは横目でにらんだ。
けれど鏡矢は身を屈めてひそひそ声で告げる。
「実は、紫摩屋の若旦那は美鶴の坊ちゃんに相当のぼせてるってぇ話があってな」
なおはふと首をひねって、眉をひそめながらたずねた。
「みんなのぼせますよ?」
「そりゃ誰でも一度はな。でも坊ちゃんは比良神のもんだぞ」
そこを断言してしまうのかとなおが思っていたら、鏡矢は遠い目をして薄い笑みを浮かべる。
「対抗馬を虫けらのごとく消していった比良神……ああいうのを鬼神って言うんだろうな」
尊敬なのか恐怖なのかよくわからない感情を目に浮かべての言葉に、なおは黙る。
それから少し考えて、なおは先日の出来事を思い出す。
なおはこの間、美鶴が大量の甘納豆の処理に困ってるのを見た。彦丸が帰る前になくしたいと言っていて、家中の妖怪総動員で甘納豆を食べた。
なおは間延びした声で納得する。
「あー……」
あれは食いしん坊の彦丸への嫌がらせではなく、ばれるとまずいという意味だったのだ。
鏡矢はなおに伝わったのがわかったのか、うなずいて続ける。
「でも今は縁結び祭りの最中だろ? こっちで一番の後援者の紫摩屋をむげに扱ったら、この祭りはつぶれちまう」
「社持ちの紫摩屋はすごい力を持ってるらしいですもんね。……あ」
なおははっと思い当って言う。
「ま、まさか権力を傘にして立花さんの帯をくるくると解くようなことを……?」
なおの脳裏にお代官様と女中の図が浮かんできて、思わず青ざめていた。
だが鏡矢の表情はあっけらかんとしていて、彼は軽く否定する。
「いや、それはねぇけど」
「なんで断言できるんですか」
なおにとっては、ひらっと手を振る彼が信じられない。そんななおをぞんざいにあしらって、鏡矢は言葉を続ける。
「まあそれはそれとして。美鶴の坊ちゃんが間に挟まれて悩んでねぇか気になってな」
無い眉の辺りに心配を浮かべて、鏡矢は黙った。
一瞬下りた沈黙の後、なおは問いかけた。
「鏡矢さんは縁結び祭りに反対の立場なんですよね。いっそこの機に祭りがつぶれたらとは思わないんですか?」
「ばーか。そんなことになったら坊ちゃんが泣くだろ」
なおのささやかな疑問など一刀両断にされた。なおはぱちりとまばたきをする。
「そういうもんですかね」
「おうよ」
鏡矢は優しい声でなおにたずねる。
「お前、大切な人に泣いてほしいか?」
一瞬、なおは呼吸を止める。
蘇るのは母の顔だった。いつもうっとうしいくらいになおを心配して、あれこれと世話を焼いて、不安そうに去って行った人の姿が目の前を通り過ぎる。
嫌いだと思っていた。離れたいと思って自立を目指した。今でもそのことに後悔はしてないが、母を思い出すのは変わらない。
「坊ちゃんに会ったら言っといてくれよ」
はっと我に返ると、鏡矢が真剣なまなざしでなおを見下ろしていた。
「自分を大事にしてくれって」
「……わかりました」
なおはうなずいて、確かに言伝を預かった。
その日、なおは早足でサイコロ屋敷まで帰ったが、美鶴はなかなか帰宅しなかった。
自分と違って祭りの中心にいるようだし遅くなるのも仕方ないとは思ったが、それにしても連日遅い。気がかりで、なおはいろりの前でうたたねをしながら待っていた。
日付が変わる頃になって、ようやく美鶴は帰ってきた。
「ただいま……」
「あ、おかえりなさい」
なおははっとうたたねから目を覚まして立ち上がる。
「お茶でも飲みませんか?」
「うん、いただこうかな」
だいぶ疲れた感じだったのでなおが気を遣うと、美鶴はうなずいていろりの前まで来た。
なおはお茶を飲みながら鏡矢からの言伝を伝える。
「鏡矢さんが心配してましたよ。自分を大事にしてくれって」
「そっか、鏡矢さんに心配かけてたんだ」
美鶴は申し訳なさそうに言った。
「気にしないで。無理はしてないよ。僕、見た目より丈夫なんだ」
「ならいいんですけど」
美鶴はめったに愚痴も言わないので、なおは心配だった。
カラリと玄関の戸が開いて彦丸が入ってくる。
「遅かったね、美鶴」
「お前に言われたくない」
途端に険悪な眼差しになる美鶴に、彦丸は袖を流しながらゆったりと近づく。
歩いて、屈んで……ん?
なおは目を覆って声を上げた。
「こ、こらぁー!」
鼻が触れ合うくらいに近くまで顔を寄せた時は、ちょっと危ない想像をしてしまった。
だがなおが指の隙間から恐る恐る目を覗かせると、彦丸は触れることはないまま眉を寄せて思案していた。
なおは首を傾げて問う。
「何してるの?」
「甘い匂いがする」
彦丸は狐目を細めて言った。美鶴は不機嫌そうに彦丸の肩を押しやって言う。
「お菓子の試食会があったから。それより離れろよ。暑苦しい」
彦丸はじっと美鶴を眺める。奇妙な沈黙が流れた。
ふいに彦丸は美鶴のほっぺをつかむと、にやっと笑う。
「お菓子ばかり食べてると虫歯になっちゃうよ?」
「何の冗談だ!」
子ども扱いされたと美鶴が目を怒らせると、彦丸は美鶴の頭をひとなでした。
「よしよし、いい子。おやすみ」
彦丸は笑いながら自室に引き上げていく。
美鶴もぱっと立ち上がってなおに言う。
「ごめん、もう寝るね!」
美鶴は台所へと湯呑みを洗いにいったようだった。
なおは困ったなぁと思って首をひねる。
どう見ても美鶴は何か隠している。けど美鶴はそれを悟られたくないらしい。
なおは美鶴に問い詰めるわけにもいかず、その場でうなっていたのだった。
それからの毎日は飛ぶように過ぎていって、いよいよ縁結び祭りは最終日になった。
最後ともなればさすがに忙しい。猫の手も借りたい、もとい新人の手でも欲しいという感じで、なおは朝からあっちこっちに駆り出された。
妖怪のみなさんは、今日も気さくになおに話しかける。
「新人さんは、当たってくだける方?」
「いや、僕は飛び込んで滑る方ですね」
なおはというと、最終日は給仕に力仕事、道案内に恋愛相談まで、わけがわからないくらいに何でもやっていた。
でも最終日ならではの、妖怪のみなさんの関心事が一つあった。
「ねえねえ、今日火の花が上がるんだって?」
縁結び祭りの妖怪側の参加者だと、十中八九この話題を振ってくる。
なおは宣伝担当に徹するつもりで、同じ言葉を丁寧に返す。
「ええ、今日の閉門の鐘の刻きっかり。一発だけなので、見晴らしのいいところにいて見逃さないでくださいね」
最終日の最後には花火が上がる。江戸のように盛大にやりたいところだが、金子が足りないらしく一発だけだと聞いていた。
妖怪たちははしゃいで笑いながら言う。
「楽しみだなぁ。待ちきれない」
「どこで見ようねー。屋根の上とかいいかなぁ」
なおは何度も妖怪に説明する側だったものの、実は不思議だった。
ようやく取れた休憩時間、田中園のお茶を飲みながら哲知にたずねる。
「……花火ってなんだろ?」
そう、なおは花火を見たことがない。食べ物なのか催しものなのか、実はそれすらも知らない。
哲知はなおの素朴な疑問に明るく返した。
「そっか、直助は見たことないんだ。じゃあ見てのお楽しみにしよ。こっちは社持ちが火を管理してるから、美鶴さんがあちこち駆け回ってようやく実現するんだよ」
「へぇ、立花さんそんな仕事もしてたんだ」
なおは感心してここ一月を思い出す。
なおもがんばって仕事をしたつもりだが、普通に夕ご飯までにサイコロ屋敷に帰っていた。でも美鶴は、後半ほとんど寝るためだけに帰ってきているような状態だった。
僕はそんなに働いてるわけじゃないよ。美鶴が苦笑しながら教えてくれたことがある。
妖怪のみんなはもてなすのが好きで、僕は断るのが苦手だから。にこにこしてごはん食べてると、遅くなっちゃうんだ。
美鶴はそう笑っていたが、なおの心配は消えなかった。それは妖怪の好意の形に違いないが、連日宴会では美鶴が疲れてしまう。
そのときだった。心の隙間に入り込んだ不安が形になったように寒気がした。
「う……わ」
なおはめまいがして尻餅をつく。
「え?」
閉じていたふたが開いて急激に冷気が流れ込んだような、そんな感じ。なおはうろたえて辺りを見回した。
辺りに青い冷気が満ちて、何もない虚空にぱっくりと穴が開く。
「な、なに、てっち」
「落ち着いて。幽霊が来るだけだよ」
哲知は落ち着いているが、平凡な家に生まれたなおは幽霊と聞くとぞわっとする。
なおがうろたえているうちに、穴は道に変わっていた。美鶴と通った霊道がこんな感じだったと、ちょっとなおが事態に追いついて来たときだった。
風が吹き抜けて、霊道から現れたのは勇雄だった。彼は息せききって叫ぶ。
「哲知!」
勇雄はすぐさま哲知に駆け寄って、大急ぎで哲知にまくしたてた。
「すぐ来てくれ! 美鶴君が危ない!」
「へっ?」
変な声を上げたのはなおだけで、哲知は不機嫌な目で勇雄を見やって、ぷいと顔を背けた。
なおは慌てて哲知に追いすがる。
「え、えっ。流すとこじゃないよ、哲知。くわしく聞かなきゃ」
だが哲知はなおを置いて歩き去ろうとする。なおが戸惑っている内に、勇雄が慌てて哲知の前に回り込んだ。
勇雄は声を切らして言う。
「今度は本当なんだ。美鶴君が紫摩屋に……」
「今度は?」
哲知はいつもの穏やかさとは一変して冷えた声を出す。
「次こそはと何度言ったと思います? 信用しろと言う方が無理です」
哲知は一度勇雄をにらむと、彼に向かってまっすぐ歩いた。
哲知は勇雄が幽霊だと証明するようにぶつかることなく通り抜けると、霊道に姿を消す。
後には白々しいような土埃が舞っていた。なおは哲知と勇雄を見比べて、どうしたらと途方に暮れる。
やがて勇雄は小さくつぶやいた。
「……そうだよな。ごめん」
肩を落としてやはり霊道に姿を消した勇雄を見て、なおは一瞬だけ迷う。
迷ったものの、意を決してなおは顔を上げた。
「いや、そこはやっぱ気になるって!」
とっさになおは霊道に飛び込む。考える時間がもったいなくて先に体が動いた。
そこは薄闇が続いていて、哲知も勇雄の姿ももう見当たらない。なおは手探りで歩いたが、まっすぐ進むこともできないままに滑って転ぶ。
「痛ぁ! 凍ってるよ!」
霊道を歩くには修行が必要とはよく聞くが、そんな暇はない。なおはしばらく歩こうとはしたものの、予想以上にそれは難しかった。
こうなったら早く普通の道に出なければ。なおは仕方なく、ちらりと見えた見慣れた景色を頼りに脇に抜けた。
「よし……!」
霊道を出たところは劇場街だった。演劇や舞台があちこちで上演される中心街だ。
土地勘が戻って安心したところで、なおはごくんと息を呑む。
「……いやよくない! 仕事中だった!」
霊道はどこにつながっているかわからないのが災いして、ずいぶん遠くに出てしまった。なおの今日の仕事場は花火の打ち上げ会場である河原なのに、劇場街をふらついていたら職務放棄になってしまう。
なおは冷や汗を流したが、顔を引き締める。
「でも、もう来ちゃったし」
美鶴の身の安全には代えられない。なおは開き直ることにした。
勇雄は紫摩屋と言っていた。でも紫摩屋というのは危ない店だと聞いている。
なおはここから一番近いところに住む妖怪に助けを求めようと、町屋に駆けこんだ。
「鏡矢さん!」
なおがこっち側で一番頼りにしている妖怪、鏡矢は幸い家にいてくれた。
鏡矢は稽古の合間と思しき様子で、庭先でなおをみとめて顔を上げる。
「どうした、坊主。いつもに増して情けねぇ面して」
肩にひっかけた手ぬぐいを下ろしながら、鏡矢は問いかける。
なおはぜえぜえと息を切らしながら声を上げた。
「立花さんが危ないんです!」
鏡矢はすぐさま声を低くして眉を寄せた。
「あ? おい、その話、くわしく聞かせてもらおうじゃねぇか」
鏡矢はしばらくなおが話すままに任せた。
勇雄が哲知に助けを求めたこと、哲知がそれを無視しようとしたこと、そのくだりで、鏡矢はくしゃりと顔を歪める。
「てっちの奴、縁切り寺だからって家族の縁まで切っちまう気かよ」
鏡矢は悲しそうにつぶやいて頭をかく。
「あいつ、勇雄がこの世をうろついてるせいで、ばあちゃんの縁組がずっとなくなってきたって信じてるんだよなぁ」
鏡矢はもどかしそうに口元を歪めて、首を横に振る。
「その縁を元通りにするには手遅れなのかもしれねぇが、今は美鶴の坊ちゃんの無事がかかってんのに」
鏡矢は息をついて思案したようだった。なおはすがるように言葉を続ける。
「美鶴さんは紫摩屋だって、勇雄さんが言ってました」
鏡矢はうなって困り顔になる。
「あそこに出入りできるのは社持ちでも少ないんだよな。一役者の俺なんかじゃ絶対無理だ」
なおも考えて、ふと思いついたことを言った。
「神様……そうだ、彦丸なら行けるんじゃないですか?」
こちら側で名の知れた彦丸ならと思ったが、鏡矢はびっくりしたように手を振った。
「比良神っ!? やべぇって、比良神なんかに知られたら。紫摩屋どころじゃなく、町一区画くらい吹っ飛んじまうぜ」
「彦丸って、そんな過激なことしますか?」
なおは何度か鏡矢から彦丸のことを聞いたが、なぜ妖怪たちが彦丸を恐れるのかいまいちわからない。彦丸はひょうひょうとしていて、怒ったところなど見たこともない。
鏡矢は頭を抱えてうなる。
「とにかく、そりゃ駄目だ。でも美鶴の坊ちゃんが家に帰らなかったら、今度こそ比良神が探しに行っちまうしな」
なおも一緒になってうなったが、妙案は思いつかなかった。
美鶴に危機が迫っているかもしれないのに、ここで手をこまねいて見ていることしかできないなんて。焦りが空回りしているのは自分でもわかっていたが、どうしようもなかった。
なおはあまりに策がなかったので、やけっぱちになって言った。
「……もういっそ、忍びこんでから考えてみるのはどうでしょう」
ところがそれに鏡矢は目をまたたかせて、手を打つ。
「名案だ」
「えっ、今のが?」
なおがびっくりして聞き返すと、鏡矢は大きくうなずいて言う。
「あっちの世界から迷い込んだことにすりゃいいんだよ。坊主は平々凡々の顔してっから、あの美々しい坊ちゃんに縁の人間だなんて誰も気づかねぇ」
「……すみませんね、平々凡々で」
何も平凡を二度繰り返さなくてもと、なおは口をへの字にする。
鏡矢は声を弾ませて言う。
「すねるなよ。今はそれが役に立つんだ。あっちから迷い込んだ人間は社持ちが直接保護するまで放っておくって決まりがある。紫摩屋の旦那に出くわすまで自由に家の中をうろつけるぞ」
「天から平凡な人間が降って来たならしょうがないってことですね」
なおはふてくされて言ったが、とにかく如来さまが無事ならそれでいい。
「僕はどうしたらいいんですか?」
「そこは俺に任せろ」
鏡矢は自分の胸を叩いて言う。
「どこかわからない場所に坊主を飛ばすくらいなら俺がしてやれる。もし文句つけられたら、眉無し妖怪に絡まれて迷い込んじまったって言えばいいさ」
鏡矢は顔を引き締めて、なおの肩を両手でつかむ。
「こんな手助けしかできなくてすまねぇ。やってくれるか?」
その目に心配がありありと浮かんでいるのを見て、なおは不機嫌を忘れて見返した。
なおにはもちろん何が起きるのかわからない不安はあるが、一人でないというだけでこんなにも心強い。
こくっとうなずいたなおに、鏡矢はいきなりなおを肩に担ぐ。
「歯ぁ食いしばれ」
「え、えええ! ちょっ……!」
鏡矢はふと止まって言う。
「……ん? お前、坊主じゃなくて……」
鏡矢がなおの体に違和感を持ったようだったので、なおは目をぎゅっと閉じて主張した。
「女子じゃ吹き飛ばしてもらえませんか!」
「や、そんなことねぇけどよ、一応そこは」
「やっちまってください、鏡矢さん! 一思いに!」
なおの覚悟というか投げやりさに、鏡矢はひととき考えたようだった。
鏡矢は苦笑して言う。
「強い女子は好きだぜ。……行ってきな、やれるとこまで」
その瞬間、なおは言葉通り空に吹き飛ばされた。
……やっぱちょっとぐらい手加減してくださいって言えばよかったかなぁ。
なおは目をぎゅっと閉じて落下に備えたのだった。
飛んできて、紫摩屋。
どういう仕組みかわからないが、人間があちら側に落ちるときはそれで怪我をすることはないらしい。幸い、なおもぽすんとはまるみたいに畳に着地していて、怪我一つなかった。
そこは金箔の張られた調度に巨木から彫りこまれた柱、極楽を思わせる天井絵など、とにかく絢爛豪華な御殿だった。
至るところに折り紙の飾りがつりさげられていて、あちこちに本物の蝶がとまっている辺りもしゃれている。
なおは立ち上がってそろそろと歩き始めたが、まもなくひとり言をもらした。
「……いいのかな、これで」
なぜって、全然呼びとめられない。すれ違う使用人らしき妖怪もたくさんいるのだが、いきなり住居侵入している人間に対して、完全に放置状態だ。
しかし今は先を急ぎたい。美鶴の無事を確認しなければと、なおはぶしつけにあちこち見て回る。
足が疲れるほど広い屋敷だった。既に二十以上の部屋を謝りながらのぞかせてもらったが、蝶が舞っているだけで美鶴の姿はない。
居室に客室、厨房に菓子工場、しっかりお宅見学をさせてもらったが、誰も何も言わない。
なおは意を決して、廊下の向こうから歩いてきた振袖の女子に声をかけた。
「こうなったら……あの、すみません」
振袖の女の子は見事な笑顔でなおに応じる。
「あら、どうしました? お菓子でも食べます?」
「う」
不法侵入に良心の呵責を覚えるくらい歓迎されてしまった。
なおはいきなり美鶴のことを訊きたかったが、さすがにそれを言うと不審がられると思った。遠回しに女子にたずねる。
「え、えと。この家のご主人様はどちらに?」
「まあ、もうあちらへお帰りになるのですか」
振り袖の女子は口元をおさえて目をうるっとさせる。
「せっかくいらっしゃったのですから、もっとゆっくりしていってくださいませ。どちらでもご案内いたしますよ?」
繰り返すが、妖怪のみなさんは基本が大盤振る舞いでむやみに好意的である。
なおは手を合わせて食い下がる。
「いや、そこを何とか。ご主人様の場所が知りたいだけなんです」
なおの言葉に、振り袖の女の子は思案顔になった。
妖怪のみなさんは好意的だが、分を超えて手を出すこともない。振袖の女子もそうだった。困り顔だが、なおの言う通りにしてくれた。
「そうですか……あまりお引き留めするのも無礼というもの。わかりました。大旦那様は留守ですから、若旦那様のところまでご案内しましょう」
おっと、問題の若旦那様か。なおは警戒心が湧いたが、美鶴が一緒にいる可能性も高いとうなずく。
「お願いします」
虎穴に入らずんば何とかの精神で、なおは覚悟を決めて頭を下げた。
将軍様が江戸に入った頃からありそうな風情のある廊下を抜けて、母屋らしき場所まで入っていく。そこでひときわ立派な、塵一つ落ちていない畳が敷き詰められた部屋に入った。
使用人の女子はなおを振り向いて言う。
「こちらでお待ちください。若旦那様を起こして参ります」
既に夕刻だが、どうやら若旦那は優雅に昼寝中らしい。
奥の寝室の方へと使用人の女子は向かったが、なかなか戻ってくる気配がない。
待ちきれないというより多少の好奇心で、なおは立ち上がった。
なおはそろそろと足を忍ばせて寝室のふすまに耳を当てる。
その向こうで押し殺した声が聞こえた。
「……大紫殿。どうかおとどまりを」
はっとなおは息を呑む。小声だが、それは美鶴の声だった。
それに応じたのはあでやかな男の声だった。
「無理を言うな。ここまで来て戻れるとでも?」
衣擦れの音がして、なおの心臓がどくんと跳ねた。
「かわいい美鶴。私は何としてもそなたを手に入れると言っている」
……なんだかただ事じゃなさそうな雰囲気だった。
というかふすまの向こうは寝室らしい。客の美鶴が寝室に入るその時点で、すでに身の危険のような気がした。
美鶴の方は冷静な声音で続けて言う。
「何度も申し上げておりますが、僕は大紫殿と結婚するつもりはありません。帰らせてください」
ところが若旦那もとい大紫は性急にささやいた。
「もう我慢できん」
その後に美鶴の小さな悲鳴が聞こえた。
なおは頭から湯気が噴きそうになって、思わずふすまを開け放っていた。
「抜け駆け反対ぁーいっ!」
しんと一瞬の沈黙が下りる。
奥の寝室、菖蒲の屏風の傍らに美鶴がいた。その前に木彫りの積み木が崩れている。
……積み木? なおは首をひねったが、美鶴と向き合っている男を見て驚く。
それはびっくりするくらい派手な若い男だった。七色に輝く触角が頭から伸び、角度によって色が変わるくじゃくの羽のような着物をまとって、顔の横には蝶の形をした仮面までつけている。
なおは胸に迫ってきた思いを叫ぶ。
「その格好はちょっと無い!」
彦丸といい、どうして腹が立つような美形は変な格好ばかりしているのか。目の周りは隠れているとはいえ、すっと通った鼻梁に色気たっぷりの口元なんて、ずるいくらいに整っていた。
大紫はむかっとした様子で言い返す。
「は、入る前に声くらいかけよ!」
母親に勝手に部屋に入られたみたいな反応をするのが、ちょっと残念だ。
そんな問答をしているうちに、美鶴が頭を押さえてうつむくのが見えた。なおは慌てて美鶴に駆け寄る。
「無事ですか、立花さん!」
なおが助け起こすと、美鶴は力なくうなずいた。青白い顔色を見て、なおも血の気が引く。
なおは大紫に食って掛かる。
「立花さんに何をしたんですか!?」
「美鶴?」
なおの剣幕に、大紫は意外そうな声を上げる。
大紫は不思議そうに美鶴を覗き込んで顔をしかめた。
「これ、しっかりせよ。具合でも悪いのか?」
なおは状況がわからなくて、大紫と美鶴を見比べるしかできない。
するとふすまの外に控えていたらしい先ほどの女子が、慌てて飛び込んできた。
「若旦那様!」
彼女は困った様子で二人を見比べる。
「申し訳ありません、美鶴さま。若旦那様はご自覚なく生気を奪ってしまわれるのです!」
「生気?」
なおはその不穏な言葉を聞きとがめて問い返す。
「そ、それって吸われて何とかなるものなんですよね? 昔話みたいにそのまま……」
生気を吸われてあの世に連れていかれた昔話を思い出して、なおは言葉に詰まる。
もし美鶴の身に何かあったら。青白い顔をした美鶴を見て、なおが最悪の想像をしたときだった。
ぱたん……とふすまの一枚が倒れた。
続いてぱたぱたとどんどん紙細工のように倒れて行って、驚くなおの周りに風が吹き込んでくる。
豪華な御殿が、まるであっけなく降参していくようだった。気が付けばなおたちは剥き出しの風の中に立っていた。
ふいに美鶴の半歩先で、竜巻のような風が下りてくる。
「……大紫。美鶴に何をしてくれた」
竜巻から袖が生えるようにして、黒い狩衣姿の男になった。
黄金のような長い髪をなびかせて、彦丸は渦から降り立つ。
「美鶴は、私の神使になる者だぞ」
その表情を見て、なおは息を呑む。彦丸の赤い化粧の施された狐目は限界まで細くなって、そこから凍てつくような眼差しを大紫に向けていた。
妥協の一切ない、怒りに満ちた目だった。なおはその目が自分に向けられたわけでもないのに腰を抜かして、ぺたんと畳に座る。
「お遊びの時間は終わりだ」
彦丸が人差し指を大紫に向けると、大紫の仮面は塵のように飛び去る。
瞬間、大紫は七歳くらいの小さな男の子に変わっていた。七色に輝く触角はそのままだが、光沢のある白い髪は頬で切りそろえられていて、くりくりとした大きな目が愛くるしい。
「ひ……比良神」
ちびっこ大紫は彦丸をみとめると、その幼い顔立ちを一気に恐怖でひきつらせる。
それを見て使用人の女子が駆け寄ると、慌てて頭を下げる。
「比良神、お許しを! 若旦那様はまだ幼く力の制御ができないのです。悪気があったわけでは……!」
「だが美鶴を傷つけた」
懸命に主を庇う使用人に彦丸は振り向きもせず、大紫をひたとにらむ。
「大紫、美鶴と縁を切れ」
彦丸は断罪するように低い声で告げた。
彼の周りから白い煙が上がって、渦を巻く。
「今すぐに」
霧のように辺り一面に立ち込めたそれを感じて、なおはひっと声を上げる。
「冷たっ! 彦丸、霜出てるよ!」
なおはそう言ったが、霜でないのはわかっていた。触れたところから刃物が刺さるような痛みが走る。使用人はふるふると震えて、大紫は目の端に溜まった涙が凍って固まっていた。
彦丸は底知れない怒りをこめた声でなお続ける。
「縁を切らないなら私が切り落とすが、それでもいいか」
彦丸は左手で大紫をつまみあげると、右手の爪を額に突き付ける。
なおはようやく彦丸が怖いといわれる理由を見た。
神の怒りは手に負えない。彦丸はなおに絡んでいたときとはまるで別人だ。
神を侮辱するのは心底恐ろしいものなのだと体で感じた。
大紫もなおも、立ち込める冷気にただ震えていた。そんなとき、唯一言葉を放った人間がいた。
「……縁は切らない」
美鶴は薄くまぶたを開いて、よろめきながら半身を起こす。
「友達と一緒にいて悪いことなんてない」
その言葉に、ぴくりと大紫が動く。
大紫は不思議そうに問う。
「美鶴が私と遊んでくれたのは、花火の火が欲しかったからではないのかえ?」
なおは、ん?と首をひねる。大紫はそろそろと言葉を続けた。
「美鶴は縁結び祭りの締めに、社持ちに駆けまわって火を分けてもらっておったじゃろ。でも私が美鶴に、ずっとここにいてほしいと言うから……」
大紫は彦丸につりさげられたまましょんぼりとする。
ふいに美鶴は笑って首を横に振った。
「僕は火をもらうためにここにいるわけではないですよ。火ならもう大旦那様に頂いていますから」
「えっ?」
大紫が驚いて顔を上げると、美鶴は懐に手を入れて言う。
「ほら、ここに」
美鶴の手のひらにそれは子どものように包まれていた。
冷気の中にほんのりと浮かび上がる火で、場に小さなぬくもりが戻る。
美鶴はその火のような温かい微笑みを浮かべて言う。
「結婚だけが縁ではないですよ、大紫殿。僕と大紫殿は、もうずっと長いこと友達ではありませんか?」
なおは縁結び祭りの最初の説明のときに聞いたことを思い出していた。
真っ先に縁組を口にしたなおに、縁はそれだけではないと言った美鶴。彼はその言葉のとおり、たくさんの妖怪たちのところを回って、いろんな縁の手助けをしてきたのだろう。
なおは美鶴の特別になりたいと思ったことはない。だから美鶴の言葉は、もしかしたら大紫には哀しく響いたかもしれない。
「美鶴……」
けれど大紫は妖怪の多くと同じようで、どこかで人間に甘いらしかった。
大紫は素直に頭を下げて美鶴に言う。
「そうじゃな、友達じゃ。仲良うしたい思いでそなたの気持ちを踏みにじってはいかん。許してくれ」
きっとそう言って互いを労わることができる妖怪だから、如来さまも友達になったんだろうなと、なおは思った。
美鶴はもう一度彦丸に言う。
「大紫殿と縁は切らない。彦丸、手を離してさしあげてくれ」
彦丸は黙ったまま美鶴をにらんだ。普段は美鶴が怒っても笑って受け流すのに、今は美鶴を食い尽くすような空気をまとっている。
彦丸は美鶴を見据えて告げる。
「だめだ。有害な妖怪とは縁を切れ」
いつもの喧嘩と雰囲気が違っていて、なおは焦りながら考えた。
どうして彦丸が妥協しないのか、それは大紫が生気を吸ってしまって美鶴にとって危険だから。その彦丸の言い分にも一理ある。
なおはまだ腰が立たないながら、畳を這っていくようにして二人の間に入る。
「ま、待ってください、立花さん。彦丸は心配してるんです」
なおはわたわたと彦丸の弁解を代わりに口にする。
「僕も心配です。生気を吸われる関係は、やっぱりよくないです」
一応なおの気持ちも添えて、なおは美鶴に提案した。
「縁は切らなくていいと思いますけど、美鶴さんも、大紫殿が成長するまでちょっと文通でもしてみたらどうですかね?」
「文通……」
なおは黙りこくった美鶴を見て、ちょっと効果があったことに安心する。
でもなおの体は先ほどから彦丸の放つ冷気で冷えに冷えていて、今度は懇願の目で彦丸を振り向いた。
「彦丸も、いい加減、し、霜ひっこめてよ。……ひ、ひっこめてください。お願いします」
なおが歯をガチガチいわせながら頭を下げると、彦丸はようやく目を伏せた。
なおの行き当たりばったりな頼みは何とか彦丸に届いたらしい。それになおが気づいたのは、張りつめるような寒さが緩んだからだった。
「……あ」
体が解凍していくような感覚に、なおはようやくほっと息を吐いた。
彦丸は大紫をつかむ手を離して、少しだけ笑ってみせる。
「まあ許そう。美鶴もちょっと痛い思いをして大人になっただろ?」
美鶴は気にくわなさそうに目をとがらせる。
「ひっかかるな、その言い方」
「頭も冷えただろうし。……美鶴?」
彦丸はくすりと笑いかけて美鶴に手を差し伸べる。
美鶴は今度は無言でその手を取った。
なんだかんだでこの二人、縁が強いなぁ。なおは二人の恋人説をぼんやりと思い返したが、今はいつもの彦丸に戻ったことに安心した。
彦丸は美鶴を引いて立たせると、大紫をちらと見る。
「では、大紫。まずは文通から、だよ」
力のこもった流し目を残して、彦丸は美鶴を連れてあちら側に消えた。
霜も冷気もなくなって、なおはほっとため息をつく。それは大紫も同じようで、なおとは別の意味で安堵の息を吐いたようだった。
「……気に入らぬ男じゃ」
大紫はあぐらをかいてむすっとする。七歳児程度の少年がその仕草だと、なおはちょっとほほえましかった。
なおは一応大紫をよいしょしておくことにする。
「大紫殿も、派手衣装が似合ってはいましたよ」
「大人姿はがんばって背伸びしただけじゃ。かっこよく美鶴と積み木したかったのじゃ」
なおは鏡矢がそういう意味では心配ないと言っていた理由がわかった。いくら社持ちでも、大紫はまだ子どもなのだった。
そこでなおは空中にふわふわと浮いている火の玉に気づく。
一息分考えて、なおは目を見開く。
「……これ、ここにあってよかったっけ!?」
花火は閉門の鐘と同時に打ち上げると聞いていた。
なおがはっと窓の外を見ると、すでに日が暮れ始めている。
「立花さーん! 忘れ物!」
妖怪のみなさんがとても楽しみにしている一発だけの花火だ。縁結び祭りの最後を不発に終わらせるのはあまりにもったいない。
「僕じゃ飛ば……せないし、えと、でも」
花火の場所が元々のなおの持ち場だから、そこまでの道順は知っている。
ただ火の玉をどうやって持てばいいかわからずわたわたとしていたら、大紫が立ちあがって火の玉を自分の手に乗せた。
大紫はなおに手を差し伸べて言う。
「手を貸せ」
なおが言われるままに両手を差し出すと、大紫はなおの手にほおずきの枝を渡してそこに息を吹きかける。
「あ……」
なおの手の先で灯った火は赤ん坊のように頼りなげだが、確かなぬくもりを持って輝いていた。
大紫はなおに託すように告げる。
「手間をかけてすまんな。持って行ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
なおは火の灯ったほおずきを前に、慌てて頭を下げた。
そこで大紫ははたと首を傾げる。
「……ところで、そなたは何者じゃ?」
なおは一瞬黙って、力強くうなずいた。
「後日、手土産を持参してお詫びに参ります」
今は不法侵入したことを追及されるわけにはいかず、なおは大慌てで紫摩屋を後にしたのだった。
河原までは走っていけばすぐに着く距離のはずが、予想に反して道が混雑していて進むのも一苦労だった。
人波もとい妖怪波の中、なおは声を張り上げる。
「うー……すみません、道をあけてくださーい!」
縁結び祭り最終日というのは予想以上ににぎわっていた。それは喜びたいところだったが、時間までに目的地に到着しなければいけないなおとしては苦しい事情だ。
妖怪たちはしきりに空を仰いで言う。
「まだかなー、花火」
妖怪たちのその期待がますますなおを焦らせる。期待に応えようとする気持ちが、かえって進めないもどかしさに拍車をかける。
どうにか劇場街まで戻ってきて、なおは鏡矢をみつけた。
「鏡矢さん!」
なおが声を上げると、鏡矢はひらりと跳んでなおの前に降り立つ。
「直助! 無事だったか。美鶴の坊ちゃんは?」
なおは鏡矢に報告がてら、すがるように言う。
「立花さんは無事でした! でもこれ! 花火の火がまだここにあって……!」
鏡矢は一瞬顔をしかめたものの、軽い調子で言う。
「河原に持っていけばいいんだろ? 空か霊道を往けばすぐじゃねぇか」
「僕、普通の村出身なのでどっちも無理ですって……わわっ!」
慌てて説明しようとして、なおはすっころんだ。
地面に頬をついて、情けなさはここに極まれり。
なおはちょっと涙がにじんだ。自分は彦丸のようにかっこよく美鶴を救出できない。自分で言って何だが、妖怪の人らが簡単にやってのける空や霊道を往く能力も持ってない。
なおはよろよろと立ち上がりながら言った。
「鏡矢さん、お願いします。火を河原に届けてください!」
鏡矢はそんななおを見て、困り果てたようにうなる。
「あ、あのな。俺は縁結び祭りには参加しねぇって言ったろ」
確かに鏡矢が美鶴にそう言っていたのをなおは知っている。美々しい美鶴でも彼を参加させることはできなかったのだから、さえない女子に過ぎないなおの頼みを簡単に聞いてくれるとは思えない。
「だって、みんな楽しみにしてるんですよ……」
なおがぐずりと鼻をすすると、鏡矢はうっとうめいた。
「お、おい。そんな情けねぇ顔するなよ」
「いいですとも。もっとしてやりますよ。どうぞ見てください」
なおは開き直ってぐすぐすと泣き始めた。
鏡矢はいかにも居心地悪そうに首の後ろをかいて、腕を組みながら立っていた。
みっともなくたって、ずるくたって、自分はみんなが花火で喜ぶところを見たい。なおは不細工な顔で心底そう思った。
やがて鏡矢は一度目を閉じて、自分の胸を叩く。
「……しょうがねぇなぁ。一肌脱ぐか」
鏡矢は着物の袖を肩までまくりあげて声を上げる。
「てっち。例のものを」
「はい!」
どこに隠れていたのか、哲知が四角い箱を抱えて駆け寄って来た。
鏡矢は哲知から箱を受け取ると、早口でなおと哲知に説明する。
「俺は時間稼ぎをしてやる。てっち、お前なら霊道を走れるな? 火を運んでやれ」
「……ほ、ほんとにやってくれるんですか?」
なおが驚いていると、哲知がにこっと笑って言う。
「僕ら、友達に泣いてほしくないからね」
哲知はなおに向かって屈みこんで、なおに手を差し伸べる。
「よく火をもらってきてくれたね。後は僕と鏡矢さんに任せて」
ゴーンと、閉門の鐘が鳴り始めていた。なおはごくんと息を呑む。
「あ……」
なおは間に合わなかったと絶望的な顔をしたが、哲知は余裕たっぷりに言う。
「大丈夫。花火は最後に上がればいいんだよ。……祭りはまだ、終わってない」
哲知はなおから火を受け取ると、軽やかに霊道に消えて行った。
鏡矢は哲知から受け取った箱を持って、路地にさっと隠れながら言う。
「直助、後ろ向いてろよ。化粧中はちぃっと恥ずかしいんでな」
パタパタと音を立てて、鏡矢は高速で手を動かしているようだった。
なおがそろそろと背中ごしに見ようとすると、鏡矢は文句をつける。
「着替えるから見るなって」
「あ、すみません」
鏡矢はそう言っているうちに着物の上半身も脱いで腰に巻き、さらしをくるくると体に巻きつける。
鏡矢は一息分ためて言う。
「……行くか」
彼が振り向いた瞬間、なおは目が点になった。
数刻後、辺りには人だかりをできて、妖怪も人もそろって屋根の上をみつめていた。
そこでは鏡矢が屋根の上に立って、妖怪たちを見下ろしながら言う。
「さあて、火の花をお待ちかねのみなさん」
鏡矢は辺り一面に響き渡るような朗々とした声で告げる。
「火の花は奥ゆかしい姫君のよう。まだお化粧が整っておらんようです。姫君にご登場頂くため、ひとつ歌でお誘い申し上げましょう」
扇をひらめかせて笑ったのは、長い銀髪と同色の瞳、まさに磨き上げられた鏡のように神々しい男性だった。
……なおは哲知がはしゃぐ理由をひとめで知ることになる。役者の姿を取ったなら、鏡矢はまちがいなく美男だった。
なおが首の後ろのかゆさをこらえて立っていると、鏡矢はあでやかに言葉を紡いでいく。
「縁を結べば悩みも増える。思いを伝えれば傷つく日も来る。恐れに目がくらんでひきこもりたくなる気持ちは誰もが抱くもの」
鏡矢のすっと引かれた眉は力強さを表し、さらしを巻いただけの上半身は鍛え抜かれてまぶしい。化粧を施して舞台に上がったなら、もう眉無しがらっぱちと同一人物、もとい同一妖怪とは思えなかった。
「ですが徒花などといわないで。お嬢さん、あなたはとても美しい。咲き誇る姿をどうか見せてほしい」
鏡矢は軽やかに歌い踊る。扇を一度返すだけで人々の目を集めて、あでやかな流し目でこちらへ戻ってくる。
やがてひらりと屋根の上に下りて河原を臨むと、鏡矢は天を見上げる。
鏡矢は胸に手を当てて、空に住む姫にするように優雅に一礼する。皆の視線が、鏡矢が礼を取った先に集中した時だった。
パーン……と、大空に花が咲く。
なおはその光に目を奪われる。
花火、その言葉の意味を知る。それは赤一色の、壮大な花だった。
祭りの終わりの盛大なご褒美に、なおはこの数か月の疲れを溶かしていく。
大きな空の花に人々の間からも割れるような喝采が響いて、それはいつまででも続くように思えた。
その日の夜、なおは哲知と一緒に円城寺に戻ってきた。
哲知も鏡矢と同じでなおが女子だとわかったはずだが、彼のなおに接する態度は至って変わりない。
そういえば哲知は美鶴に対しても過剰な反応をしない数少ない男児だ。神使になろうとする人間は、そういう穏やかさを求められるのかもしれなかった。
なおと哲知は縁結び祭りのあれこれを思い出しながら二人で他愛ない話をしていた。終わってみたら早かったね、そんなことを言い合って、円城寺の境内に入った。
ふと二人で顔を見合わせる。石段に哲知の祖母、とわが座っていた。
哲知はなおから離れて祖母に問いかける。
「おばあちゃん、こんなところでどうしたの?」
とわは綱の向こうの空を仰いでいるようだった。
とわは首を傾げて哲知に答える。
「うん……さっきね、とても大きな花火が見えた気がするのよ。この辺で花火が上がったのはもう何十年も昔のことなのに、不思議ね」
なおは口に出さないままあちら側に思いを馳せる。
こちら側とあちら側は時々つながっている。あちら側の花火が見えることもあるかもしれないと、なおは思った。
とわは懐かしそうに目を細めながら言う。
「思い出しちゃった。主人がね、花火を見に行こうって言ってたことがあるのよ」
「あ……」
哲知ははっと何かを思い出したようで、口をつぐんでうつむく。
「でも主人に用事が出来て、一緒に行けなくなっちゃってね、私だけここの頂上で見ようとしたの。そうしたら転んじゃって、主人に怒られて」
とわは綱の向こうを見やって頬に手をつく。
「散々怒った後、主人は言ったの。子どもが生まれたらまた花火を見に連れて行くからって。でも……その前に主人は亡くなったから、それきり」
沈黙は短かったが、とわの表情にはいろんな感情が浮かんだ。
とわはため息をついて苦笑を浮かべる。
「言っても仕方のないことね。さあ、冷えて来たわ。直助にお茶でも出しましょ」
とわが杖をついて立ち上がったとき、なおは目を見張った。
石段に続く綱の向こう側で勇雄がこちらをみつめていた。とわから無理やり顔を背けるようにして踵を返して、ゆっくりと石段を登っていく。
その背中に満ちた哀しい決意に気づいて、なおは哲知を振り向いた。
「てっち……」
哲知も勇雄を見ながら言葉に迷っているようだった。
たぶんここで別れたら二度と会えない。勇雄はもう亡くなっているのだから当然だが、なおは何だかこのまま勇雄を行かせていいのか迷った。
哲知はうつむいて口を開く。
「……何をいまさら」
心に溜めていた気持ちがあふれだすように、哲知は叫んだ。
「花火なんかで満足できるわけないだろ! おばあちゃんが杖ついて歩いてるだけで目を離せなかったくせに!」
「哲知?」
とわが振り向いて問いかける。
哲知の声に勇雄は足を止めなかった。
石段を一段一段登って、天に近いところまで行くつもりのようだった。
哲知は泣いてるように叫ぶ。
「おじいちゃんは成仏なんてできないよ!」
そのときなおに宿った感情は、悲しいとか、かわいそうとか、じっくり見極めたわけじゃなかった。
なおはとっさにとわの前で屈みこんで言う。
「とわさん、僕の背中に乗ってください」
「え? どうしたの?」
とわはきょとんとしてなおを見下ろす。
なおはちらと哲知を見て、とわに目を戻すと、たぶんそうであってほしいという願いで言葉を口にした。
「頂上まで行ったら、とわさんにも見えるのかもしれないです。……もしかして花火が見えた、今日なら」
とわは不思議そうな顔をしたものの、なおをみつめて何かを考えたようだった。
とわはなおを労わるようにそろそろと背中におぶさりながら言う。
「いいけど……大丈夫?」
「やってやりますよ。……よいしょっと!」
とわはどうにかとわを背負って石段を登り始めた。
老人とはいえ、人一人背負うというのはものすごく重い。ましてその状態で石段など登ったことがないから、なおは数歩でどっと汗が噴き出してきた。
練習、ちゃんと続けていればよかった。そう思いながら、なおは歯を食いしばって一段飛ばしに駆け上がる。
絶対に落とさない。この人を勇雄より前に、あの綱の前に連れて行く。
彦丸のようにかっこよく美鶴を救出できるわけでも、鏡矢みたいに芸が出来るわけでもない自分。
……だけど、足には少しだけ自信があったでしょ? なおはそう心に問いかけて、自分を奮い立たせる。
永遠のような、一瞬のような、そんな時間感覚の中で、足は着実に前に出ていた。
「は、は……っ。は!」
なおは最後の一段を上りきると、頂上に立った。
頂上は聞いていた通り綱以外何もない、ただの空き地だった。そこでなおはふらつきながらとわを下ろして、切れ切れの息を吐きながら問いかける。
「な、何か見えませんか?」
そんな奇跡、そうそう簡単に起きるわけがない。案の定、とわはあっさりと告げた。
「とりたてて珍しいものはないわねぇ」
「そう、ですよね……」
なおが肩を落としたそのとき、とわは何気なく告げた。
「いつも通り、主人が走ってるわ」
「……え」
なおは息を呑んでとわが指さす方を見る。
とわは勇雄を明確に指さして言う。
「ここの石段を駆け上がるのは主人の日課だもの。まあ、直助に負けるなんてあの人も年ね」
なおはごくんと喉を鳴らしてから、恐る恐るとわに問いかける。
「勇雄さんが見えるんですか?」
勇雄も最後の石段を登ろうとして、硬直しながらこちらを見ていた。
一瞬の沈黙の後、とわは笑いながらうなずく。
「やあねぇ、私だって山で修業した住職なのよ? 幽霊くらい見えるに決まってるわ」
ころころと笑うとわに、なおはがくりと肩を落とす。
山で修業するというのはこの業界では花形らしいと、どうでもいいことに今更気づいたりする。
自分の心の涙は一体。そう思わなくはないが、少しだけいいこともあった。
勇雄は石段を登りきると、おずおずととわの前にやって来て言った。
「……とわ」
勇雄は終縁と書かれたお面を外す。そこには二十代半ばくらいの、内気そうな青年が顔をのぞかせていた。
彼は言葉に迷う間があったものの、少しして口を開いた。
「長い間、ここに居着いてすまなかった」
勇雄はぼそぼそと小声でつぶやく。
「君がちゃんと暮らしていけるか心配で残っていたけど、僕がここにいたせいで縁談がなくて……」
「何を言ってるの、馬鹿にしないで」
ふいにとわが厳しい口調で遮る。
「縁談を断ったのは私が決めたことよ。私は子どもも孫もできて、仕事も順風満帆で、幸せだったから再婚しなかっただけ」
「そ、そうか……」
勇雄がぽりぽりと頬をかくと、とわは呆れた様子で腰に手を当てた。
「あなたってまだわかってないのね」
気まずそうに目を逸らした勇雄に、とわはため息をつく。
とわはふいに杖を離した。手を前に差し出して、勇雄を見上げる。
「……あなたに出会ったのは、私の人生で特大の花火みたいな出来事だったのよ」
何かを待つように手を差し出し続けるとわに、勇雄はくすぐったそうに下を向いていた。
やがて勇雄もおずおずと手を差し出して、とわの手を取る。
「うん。……僕もだ」
花火の音はもう消えているのに、今日の宵闇はどこか明るかった。なおにはそれが名前も知らないどこかの神様がくれた、二人への贈り物のように思えた。
死が間に入っても縁が切れなかった夫婦は、手を取って綱の前で長いこと向き合っていた。
勇雄はその後、石段を下りて寺に戻っていった。彼はあちらには行かず、消えるまでここでとわを見守り続けると決めたらしかった。
苦い、甘い夫婦の縁もあるんだとなおは思った。そこには誰もが迎えるありふれた終わりは待っていないが、一つの幸せの形かもしれなかった。
サイコロ屋敷に帰宅して、なおはひとごこちつく。
そろそろ寝る時間だが、まだ美鶴も彦丸も帰っていない。彦丸が氷ばかり出したから、銭湯にでも行ったかもしれない。
なおは茶をすすりながらぼんやりと考える。
ここひと月、ひたすら人の恋路を応援する日々だったが、これはこれなりに楽しかった。
「……どうしよう」
だけど奉公は今日まで、しかも今日は一時職務放棄して不法侵入までしている。
いろりの前で頭を抱えていると、家中のつくもがみが集まって口々に言う。
「直助、どうしたんじゃ」
「頭でも壊したか」
いろいろ仕事の当てを探したが、なおはまだ次の仕事がみつかっていない。奉公の延長の話を期待したが、今日の仕事ぶりではあちらからお断りされてしまう。
なおはしばらくうなだれたが、きっと前を見据える。
「大丈夫。僕はまだやれる」
「お?」
「いつになく強気じゃな?」
拳を握りしめてなおは語る。
「あてがないわけじゃないんだ。ただ転がる勇気が出なかっただけで」
出会ったとき、美鶴も言っていた。神様は縁を結んでくれるだけで、幸運を落としてくれるわけじゃない。
なおは顔を上げて力強くうなずく。
「よし、ここはひとつ……」
立ち上がろうとしたなおをあざ笑うように、何かの塊が降って来た。
なおは思わずうめき声を上げる。
「痛ぁ……っ!」
しばし悶絶してから、なおは横目で落下物を見やる。
それはふたのように丸く切り取られた木片だった。これが石だったらなおは今頃あの世行きだが、それでも床で一回転するくらいは痛かった。
見上げると、天井に穴が空いている。ちょうど落ちてきた木片がはまりそうだと思っていたら、そこから別の何かが降って来た。
なおは反射的にその場から逃げる。
「ぎゃあ!」
なおはわたわたしながら壁まで後ずさった。
今度落ちてきたのは木片ではなかった。しかも事もあろうに言葉を話した。
「夜分に失礼いたします」
二十代半ばくらいの若さで、全身ぴしりと黒い着物を身にまとった背の高い男だ。
……いや、人間かな? 人間が上から落ちてくるはずはないだろうと、なおは首を横に振る。
顔を見やると、これまた何かの間違いみたいにいい男だった。さっぱりと切りそろえた黒髪に、不思議な緑色の目をしている。
その秀麗な面立ちにいつもの苦手感を抱いていたなおに、彼は張りのある低い声でたずねる。
「立花美鶴さんはご在宅でしょうか?」
彼のその目は射抜くように鋭くて、なおはへびに睨まれたカエルのように一歩後ろに引いた。
まさにその時、玄関が開いて美鶴その人と彦丸が帰ってきた。
美鶴はなおに声をかけようとして、不思議そうに首をひねる。
「ただいま……お客さま?」
そのとき、男は目にもとまらぬ速さで動いた。美鶴の前に滑り込んで……華麗に土下座する。
男はその美々しい声で美鶴に言う。
「あなたのしもべが参上しました」
きっぱりと告げた男に、美鶴を含め全員が沈黙する。
「もう一生離れません」
男は地面に額をすりつけるようにして、美鶴の服の裾をつかんだのだった。