学校をサボるなんて初めてで、僕は苦し紛れに制服のブレザーを脱いで、ワイシャツの上からパーカーを着た。
来香も一度家に戻って、わざわざ私服に着替えていた。「デートみたいだね」なんていつもの調子で笑うものだから、幽霊なんだし補導対策も必要ないだろうという突っ込みも、入れる気にはなれなかった。
「いらっしゃいませ、一名様ですね。お席にご案内します」
「あ……はい」
彼女が最初に来たがったのは、近所の喫茶店だった。
以前放課後に店の前を通った時、平日限定メニューのリニューアル告知を見て「美味しそう」だと話していたのを思い出す。
平日は学校があるから、夏休みになったら行こうかなんて話していたのは、もう一ヶ月は前だったか。
本当にそれが未練だとしたら、随分食い意地が張っている。
「ちょ、なんで向かいじゃなくて隣……」
「いいじゃん、メニュー一緒に見ようよ!」
ボックス席に隣同士に座って、二人でメニューを覗き見る。けれど店員が持って来たお冷やのグラスはやっぱり一人分で、彼女が本当に僕以外には見えていないのだと胸が締め付けられた。
頼んだ限定メニューのふわふわパンケーキも一人分。ボックスで周りからは見えにくいものの、念のため、怪しまれないように二人でこっそり分け合って食べた。
なんとなく落ち着かなかったけれど、幽霊も物が食えるのだと、その幸せそうな横顔を見て安心する。
そして小腹が満たされいざ会計と思ったが、そこで手持ちがないことに気付いた。元より外食予定なんてなかったのだからしかたない。
「やば……」
「ふっふっふ、来香ちゃんに任せなさい」
僕が焦る様子を見て、来香は不敵に笑い、テーブル上に五千円札を差し出す。いざという時のために、スマホカバーの隙間に挟んでいたらしい。
このお札が果たして本物なのか、はたまた僕にしか見えない幽霊の一部なのかわからないものの、彼女は服を着替えて物も食えるのだ、問題ないと信じるしかなかった。
「す、すみませーん……」
「お会計お願いしまーす!」
恐る恐る手を上げ店員を呼ぶと、そのままテーブルで問題なく会計を済ませることが出来た。
コイントレーに乗せられたお釣りを、店員が去ってからそっと回収した来香は、得意気に笑みを浮かべていた。
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腹が満たされても尚、来香が消える様子はなかった。
僕にとっては、何だかんだ彼女が幽霊だなんて忘れられるくらい楽しい時間だったけれど、さすがにパンケーキでは未練が晴らせなかったのだろう。残念な気持ちと、彼女がまだここに居る事実に、確かな安堵を覚えた。
喫茶店を出て、僕たちはその後も来香の未練解消に奔走した。
次は図書館に行って昔二人でよく読んだお気に入りの絵本が読みたいだの、当時通っていた小学校の校庭を見に行きたいだの、近所のペットショップに新しく入った可愛い子猫をまた見に行きたいだの。
ずっと一緒だった幼馴染み特有の、過去から今に至るまでの共通の思い出を辿りながら、いつもの調子でからかわれては振り回される。
それはあまりに自然で、彼女が幽霊だなんて何度も忘れそうになった。
けれど彼女はそうではないようで、時折涙を堪えるような、とても苦しげな顔をしていた。
僕はそれを、見て見ぬふりすることしか出来なかった。
「……大分見て回ったな」
「そうだねぇ、ちょっと疲れちゃった」
「幽霊でも疲れるんだな」
「案外、疲れきったら眠るように成仏出来るかもね?」
「なら……どっかで昼寝でもするか?」
「えっ、ふたりで一緒に?」
「……し、しない!」
僕たちは、普段中々味わうことのない平日の外を歩く。それはとても、穏やかな時間だった。
学校では、今頃いつものように退屈な授業が行われているのだろう。教室もいつも通りの賑わいか、或いは、人気者の彼女の訃報が知れ渡り、クラスメイトは泣いているのだろうか。
いつもの日常の延長線上のようで少しずれた、どこまでも非現実的な時間。いっそ夢ならいいのにと、ぼんやりと考える。僕も疲れてきたのか、頭があまり回らない。
そんな様子に気付いたのか、彼女は僕の顔を覗き込むようにして首を傾げる。
「ねえ、昼寝とかじゃなく、ちょっと休もうか」
「……ああ」
所持金はあまりない。カラオケなんかで学生証を出すと、学校はいいのかと怪しまれる。漫画喫茶なんかも同じだ。
あれこれ悩んだ末、僕たちは幼い頃よく一緒に遊んだ公園に行くことにした。あの頃のように遊具で遊ぶのではなく、色とりどりの花が咲き誇る花壇の傍、木製のベンチに並んで腰掛ける。
「はー、風が気持ちいいね。今日涼しくてよかった」
「そうだな……」
時折風に乗って運ばれてくる花々の色濃い香りが、すぐ隣の希薄な死の冷たさと対照的で、酷く胸をざわつかせた。
人通りがほとんどないことを確認して、僕は口を開く。
「……来香、成仏って、そんなに焦ってしないといけないのか?」
「え……?」
「いや、ほら、幽霊ならこんな風に堂々とサボったり、好き勝手出来るしさ。……こうして、話したり食べたり、生きてるのと何も変わらないし……」
たとえ幽霊だとしても、来香とこうして過ごせるならそれでいい。今日一日過ごしてみて、そんな風に思ってしまった。きっと、彼女も同じだろう。
けれど来香は一瞬目を見開いた後、少し寂しそうに笑って、緩やかに首を振った。
「……幽霊になってさ、透明になって、今まで生きてきた世界から完全に弾かれちゃうの。それで……自分のせいで泣いてる親にすら、気付いて貰えない。今ある意識すら、いつまであるかわからない。そんなの、怖くて、寂しいし悲しいよ」
来香の言葉に、今朝の母さんの悲痛な泣き声を思い出す。親の泣き顔を見るのなんて、一体いつぶりだろうか。
勉強も運動も、秀でたものは何もない。自慢の息子ではないかもしれない。それでも、もしも僕が死んだとしても、母さんはきっと、あんな風に泣くのだろう。
そんな母さんの背を擦ったとしても、気付かれない。泣かないでと言葉を掛けても、届かない。それを傍で見続けるのは、きっと苦しくて悲しくてしかたない。
そして、そんな風に感じる自分すら、いつまで保てるか、いつ消えてしまうかわからないなんて、彼女の言う通り恐怖でしかなかった。
「それにさ、唯一存在に気付いて話せる幼馴染みとだって、もう手が触れることすら出来ない……もう、同じように歳を重ねることも出来ないんだよ……」
「来香……」
「それなら、せめてちゃんと自分の意思で成仏して、天国に行って幸せになれた方がいいよね!」
「……そう、だな」
来香の言葉に、ややあって僕も小さく頷く。残された側の悲しさも、置いていく側の苦しみも、もう交わることのない寂しさも、そのどれもが決して覆ることのない現実なのだと、今になってようやく実感した。
ずっと傍に居たい。けれど、それは叶わない。未練だって、きっと尽きない。
それでも抗えないどうしようもない別れを改めて突き付けられて、ここに来て初めて、僕の目からは涙が溢れた。
「真琴……?」
「……あ?」
からかわれる。咄嗟にそう思ったけれど、僕の泣き顔を見ても、来香は微笑むだけで、何も言わない。
そして優しく撫でるように頭に寄せられた手は、やはり触れることは叶わなかったけれど、確かに温かな気がした。
その二度と交わることのない温もりを想い、僕は目を閉じる。
「なあ、来香」
「ん……?」
「ずっと……天国に行っても、来香のこと、好きだ」
不意に温かな風が吹き、花の香りが強くなる。それを胸一杯に吸い込んで、幼い頃からずっと胸に秘めていた一言を、僕はようやく口にすることが出来た。
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