気が付くと、そこは研究室の白いベッドの上だった。周りに大型の冷却装置があり、僕の頭を中心に身体全体を冷やしている。
 そして、泣き腫らした目をした彼女が、傍らに立っていた。

 ああ、やっぱり前にもこんなことがあったと、奥底に眠っていた記憶をぼんやりと辿る。

「……気が付きましたか」
「やあ、サラ……ここまで運んでくれたのか、ありがとう。心配をかけたね」
「……、同じ始まりと終わりでも、工程によって最終的な名前が変わると、あなたは教えてくれました」

 会話の流れを無視した彼女の言葉に、思わず瞬きをする。それは僕が、あの日アンドロイドとして目覚めた彼女に初めて教えたことだ。

「そうだね……あの時僕は、甘いのが好みだと話したよ」

 僕の言葉を聞いて、彼女の表情は、今まで見たことのない切なげなものへと変わる。

「……それは、元は私が言ったことでしたね」
「……」

 そうだ。それは僕が初めて彼女に『博士』と名乗った日の、彼女が白いベッドで目を覚ますより、前のこと。

「思い……出したのかい? きみの記憶は、空っぽだったはずなのに」
「ええ、あなたが倒れたショックで」
「あはは、そうか……」
「……あなたも、オーバーヒートを起こしたのです。一部プロテクトが壊されたことで、閉じ込めたデータを思い出したのでしょう?」
「うん……まだ、全部ではないけれど」

 まだ頭がぼんやりとする。けれど、大分記憶が甦ってきた。僕が弱々しく笑うと、サラは少し凹んでしまった僕の額にそっと手を触れさせる。
 繊細な彼女の指先が、火傷してしまわないだろうか。僕の頭は、比喩でもなんでもなく、今にも火が出そうに熱いのだ。

「私は、すべて思い出しました。……私達の本当の始まりは……私が造った『アンドロイドのエイト』と、ここでロボットの研究をしていた『科学者のサラ』でした」

 彼女の言葉を受けて、改めてメモリー内のデータを確認するように、目を閉じる。
 僕の頭の中にある数多の電子回路は、今にも焼き切れそうなまでに熱を帯びていた。

 彼女は、思い出したのだ。僕も同じように、熱せられた基盤の中でエラーを起こしていたすべてを思い出す。

 目の前の少女は、アンドロイドじゃない。最年少の天才科学者と呼ばれた、サラ。
 そして、彼女の生み出した奇跡である、アンドロイドの、僕。

「まさか、逆転した立場で日々を送ることになるとは思いませんでした」

 そうだ、僕達は、本来逆の立場だった。造られた存在である僕の方が、彼女との日々の中で『心』を有したのだ。


*******


 彼女と過ごす内に僕が得たのは、プログラムとは違う、温かな気持ち。
 喜び、悲しみ、慈しみ、嘆き、笑って、怒って、悩んで、愛する。そんな人間なら当たり前の『心』。

 けれど心と言う複雑怪奇で刺激の多い不確定要素は、当然の如く、試作品の僕には容量オーバーだった。
 卵のように、心が孵化したことによる負荷。

 それでも、騙し騙しやっていたのだ。研究が進んでサラが喜んでくれるからではない。僕が、少しでも長くサラと過ごしたかったから。

「エイト、調子はどうですか?」
「大丈夫だよ、サラ」
「何かあったらすぐに言ってくださいね。あなたは、私の大事な宝物ですから」
「ああ、ありがとう。わかっているよ……大丈夫。僕は、大丈夫だ」

 隠して、偽って、けれどそれすらも負荷となり、ある日僕は、ついにエラーを起こした。

 いくら頑張っても消すことの出来ない、深刻なエラー。
 どうしようもなくなった時、僕は咄嗟に、自分で自分を騙すことにした。

「……っ、大丈夫……僕は、人間なんだから……サラと同じ、心を持っていられる……大丈夫……」

 自分をアンドロイドではなく『人間』だと思い込むことで、心があっても負荷を感じないようにしようとしたのだ。

 しかし思い込んだところで、容量には限りがある。起きたエラーは解消されない。
 そしてついに、僕の言動に疑問を覚えたサラに、これまでの無茶がバレてしまった。

 こんな愚かで嘘つきな僕を、彼女は何とかしようとしてくれた。
 既に取り返しの付かないレベルだったのだろう、大粒の涙を溢しながらも懸命に、何とか処置をしようとしてくれた。

「エイト、こんな風になるまで気付けなくてごめんなさい……すぐに余分なメモリーの削除を……」
「……っ、やめろ!」
「あ……!」

 けれど僕はその時、自分が人間だと思い込んでいたから、あろうことか彼女の手を振り払い、抵抗したのだ。
 非力な少女は当然機械の僕の力に勝てず、固い床に投げ出され、強く頭を打った。

 サラを傷付けた僕は更にエラーを起こして、それを直すために、今度はサラが人間ではなくアンドロイドなのだと、無意識の内に認識した。

「ああ、いけない……僕の宝物が、壊れてしまう。目を覚ましたら、メンテナンスが必要か確認しなくては……ごめんよ、サラ……」

 そうして、頭を打って偶々記憶を失った彼女と、エラーを起こして自分を人間と思い込んだ僕の、立場の逆転した奇妙な生活が始まったのだ。


*******


「私達の物語は、二度とも人間とアンドロイド。決して結ばれるはずのない異なる存在から始まって、二度とも、どちらかが記憶を失くして終わる……その工程と結末は、名前を付けるならまさしく『悲劇』ですね」

 機械に繋がれたベッドの上、無理を重ねた僕は、もはや身体を起こすことすらままならない。冷却装置のモーター音と、サラの声だけが、研究室に静かに響く。

「やっぱり僕は、記憶を失うんだね」
「ええ……負荷が掛かり過ぎています。今話せているのも、不思議なくらい。このままでは壊れてしまう……だから、私はこれからあなたの記憶も心も、すべてを消去します。そうすれば……身体だけはまだ持ち直せるはず」
「はは……まるで中身のない、卵の殻だね。イースターエッグを作るにはまだ早いのに」
「……イースターを祝ったところで、消去した心は復活しませんよ」
「……そう、か」

 僕という個が消されるのは、当然のように寂しくて、残念だった。
 それは僕自身が感じる不安なのか、それとも、こんなにも泣いてくれる彼女を悲しませるからなのか。
 そんな風に悩むのも、きっと『心』があるからだ。消されてしまえば、すべて忘れてしまえば、そんなことも無くなる。

「サラ……せっかくここまで進んだ研究、僕が余計なものを得たばかりに、無駄にしてしまってごめん」
「いいえ……あなたに心が芽生えたことは、決して、無駄なんかじゃありません。余計なものなんかでもありません」

 サラの言葉に、僕は安心した。彼女がこれまでの僕を認めてくれるのなら、それだけで十分だ。この寂しさに蓋をして、僕は心置きなく消えられる。

 僕が壊れてしまう前に、彼女が記憶を取り戻してくれて良かった。人間ならば、メモリー不足に悩むことなくずっと覚えていられる。

 僕が抱え続けられない愛しかったすべてを、彼女ならきっと、大切にしてくれる。

「……ねえ、エイト。最後に一つだけ、聞かせてください」
「何だい?」
「今回の工程は、最初からあなたが『人間』として心を持っていたから……表立ったエラーに邪魔されることなく、私も博士としての立場を考えることなく……ただ無邪気な少女で居られた。それは砂糖のように甘く、幸せな日々でした」
「ああ……きみの好きな、卵焼きの優しい甘さだね」
「はい……私にとって、幸せなもの。でもこれは、あなた好みの物語だったでしょうか? 幸せ、だったでしょうか?」

 どう足掻いてもハッピーエンドを迎えられない僕達の、それでも彼女が幸せだと言ってくれた時間。
 不安げなその顔をどうにか和らげたくて、僕は最後の力を振り絞りその涙を拭う。

「もちろん。甘い味は、僕も好きだしね……だけど、人間のきみもアンドロイドのきみも、どちらも変わらず愛おしかったし、共に過ごせて幸せだったよ」
「エイト……」
「はじめの頃は、上手く感情の種類が理解出来なかったけれど……それでも、心を得た今ならわかるんだ。最初からずっと、きみとの日々が愛しかった」

 脳内で響くひび割れたエラーの音。涙なんて出ないのに、視界がぼやける。

「私も……はじめてあなたが目覚めた時から……自分をアンドロイドだと認識している今回の工程の最中にも、あなたに惹かれていました。……私とあなたの感じるものが、同じなのかはわかりません。けれどそれは人間同士だとしても、同じこと。心とは、とても複雑ですから。……それでも、私は……」

 大事な言葉の途中、僕の意識は混濁する。ああ、いけない。きっと煙が出ている。
 咄嗟の判断とはいえ、人間としてアンドロイドの彼女と接するなんて、そんなのはプログラム上ありえなかった。

 僕メモリーは、元々限界ギリギリの所に『心』と『思い出』が増えて破裂寸前なのだろう。
 はじめにエラーを起こした時よりも、遥かに熱い。いつ何が燃え尽きてもおかしくない。

「エイト……あなたのメモリーを完全に消去して、また人間とアンドロイドの『初めまして』から始めても……あなたはまた、心を芽生えさせるのでしょうか」
「わからないけれど……きっと、僕は何度でも、きみに愛を教わって、同じように心を得るよ。それが、卵を割る段階だろうからね」

 焦げ付いた記憶の中、覚えている内に、覚えているのだと確認するように僕達の会話を用いれば、彼女は俯く。

「……だとしたら。心が卵を割るのなら、卵を食べずに温め続けるなんてどうでしょう?」
「……? それは、どういう……」
「卵料理は、確かに美味しいです。でも、食べてしまえば終わってしまう。……割らずに温め続けていれば、いずれ孵化するかもしれないと、夢を見続けていられますよね?」
「サラ……?」

 もう彼女の表情が見えない。言葉の意味を理解するためのプログラムも、壊れかけている。
 それでも僕は何とか、残り僅かなこの時間を、彼女の言葉を、懸命に手繰り寄せようと途切れかけの意識の中でもがく。

「忘れられるのが寂しいことだと、忘れるのが辛いことだと、わかったでしょう? 忘れている時間は、相手にとって無かったも同然なのですから。……だからもう、あなたにそんな経験はさせません」

 ああ、そうだ、僕が忘れれば、残された彼女に辛く寂しい思いをさせてしまう。それを彼女一人に背負わせるなんて、絶対にしてはいけない。
 そう思うのに、もう目を開けることすら出来なかった。

「人間の脳は、あなたのメモリーよりうんと多くを覚えていられます。天才科学者と呼ばれた私なら、尚のこと。……もう何一つ、忘れたりしない。……エイト。あなたが忘れても、私はずっと、あなたと過ごした日々を愛し続けます」

 彼女がキーボードを叩く音が微かに聞こえる。基盤はもう、きっとダメだ。それでもボディが完全に壊れてしまう前に、彼女の手によってすべて消されるのだろう。

「サ、……ラ……」

 別れが悲しい、彼女に背負わせて苦しい、涙を拭えないのが悔しい、彼女の手で終われるのが嬉しい。
 そんな一見ぐちゃぐちゃの、いろんな心の欠片が、僕の中で最後に巡った。

「……さようなら、私のエイト」


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