俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 それが、柳生と妻――アキコとの出会いだった。一年後に二人は本格的に交際を始め、彼女が里帰りする他は、大抵彼のアパートでの二人暮らしが続いた。

 彼女と出会った翌年に、柳生は三百枚を超える長編作品『砂漠の花』を書き上げた。それは大学四年生の冬で、泊まりに来ていた彼女の視線を時折背中に感じながら、深夜に黙々と原稿用紙に向かって最後の章を書いたのだ。


 これまでの長い人生の間、彼はどうにか人間を知ろうと努めたが、あまり上手くはいかなかった。穏やかな時間を持てたのは、本当に数えられるほどの月日ばかりで、日に日に遠くなる穏やかな時間は遥か過去においやられて、自分が手の先に掴みかけた大切な何かも、いつの間にか見失ってしまったような気がした。

 愛とはなんだっただろう。
 痛みばかりの青春時代に、自分も熱く込み上げる何かを持っていたのか、分からなくなった。 

 気づけば柳生は歳を取り、人生も折り返し地点を超えていた。離婚した方がやっぱり幸せになれたわと言わんばかりに、時折届く妻や娘からの手紙には顔を顰めたが、一字一句きちんと目を通した。今はほとんど用のなくなった書斎の、二番目の引き出しが専用の置き場所になっていた。

 痛々しいほどの青春と恋をテーマに、人生を深く切り取った物語を書いて欲しい、と今でも頼まれることがある。けれど一体、その熱意はどこへ消えってしまったのだろう。書こうという気は、まるで起きないでいる。

 きっと俺には、もとより才能も、そういう運命でもなかったのではないだろうか。彼は決して優しくないストレートな評論や随筆を書く方に、もとより才があったのではないか、とじっと心の底で考え悩み続けていた。