あの映画館のでの一件があってからしばらく経った。
景は受験勉強やオープンキャンパスやらで千紗の相手が満足にできなくなっていた。
忙しさだけではない。景が少しずつ大人に近づき始めるにつれて姿見の中の千紗と意思の疎通が難しくなってきていたのだ。
最近は、千紗が必死に景に呼びかけても景が気が付かない事が多くなり、他の鏡に移動することもできなくなってしまった。
それと同時に後輩の優里との逢瀬が多くなった。景に想いを告げられていない千紗の心をズタズタにしてゆく。
更に彼女をある現実が追い詰めてゆく。
好きな人が別の女性を愛し始めた事、姿見の中から出れないという現実ともう一つ。

(どうして私は何も変わらないの…?景はどんどん大人になってゆくのに…どうして私だけ時間が止まっているの…?!)

千紗はまだ高校2年生の頃のままだった。
それどころか、彼女が外の世界からいなくなったというのに誰も探しに来ない。両親や友人からも心配な声は一切ない。
前に今両親達はどうなっているのか景に聞いた事があったが何故かはぐらかされてしまっていたのだ。
成長が止まった自分、誰も探しにこない現実、変わってゆく幼馴染。
千紗をだけを置いて時だけが過ぎる。遂に一人ぼっちになってしまった彼女は姿見の世界の中に篭ることしかできなかった。

ある日、外の世界から景が何か伝えようとしていたが声は全く聞こえない。千紗が必死に呼びかけても景には見えていない様だった。
だが、その日を境に千紗は酷い眠気に襲われ意識を手放す。

(やだ、なんで、助けてよ、景)

千紗の助けを求める言葉は誰にも届くことなく消えてゆく。重くなった瞼は完全に閉じきってしまった。






次に千紗が目を覚ました場所は景の部屋の姿見ではなかった。
どこか煌びやかな部屋には景の部屋にはない様なアンティーク調の机や椅子が置かれていて千紗は戸惑ってしまった。

(え、ちょっと、此処どこ?!私、確か景の部屋に居たはずなのに…!!!それと、私、一体いつまで眠ってたの…)

困惑する千紗は状況を把握しようと部屋を見渡す。彼女の目に映ったのは、景によく似た袴を着た花婿らしき男性と、どこか見覚えがある顔のクリーム色の色打掛に身を包んだ花嫁らしき女性がどこか幸せそうに談笑していた。
千紗は鏡を叩き2人に呼びかけるもその声は聞こえていない。

「なにがどうなってるの…?!」

相変わらず意思の疎通ができず、自分の知らない光景に困惑する千紗の姿見に色打掛を着た花嫁がゆっくりと近寄ってくる。
きっと千紗の姿は見えていないのだろう。動揺することなく花嫁は姿見にそっと触れ切なげに微笑む。
花嫁の微笑みを見た途端、ズキっと激しい頭が頭に走った。

(痛…何なの…?すごく痛い…)

頭を押さえながら千紗は目の前にいる花嫁を見る。
すると、花嫁の目から一筋の涙が零れ落ちた。

「景くんから聞いたよ。ずっとそこにいたんだね。気付かなくてごめんね。すぐには信じられなかったけど、私も会いたかったし話したかった」
(え?何?どうゆう…)

花嫁は一呼吸置き、震える声で言葉を続けた。

「もし聞こえるなら聞いて欲しいの。あのね、"お姉ちゃん"。私、景くんと結婚するの」

花嫁の口から出たお姉ちゃんという呼び。

「っ……!!」

その言葉を聞いた途端、千紗の欠落していた記憶が頭と共に蘇り始めた。
千紗の欠落していた記憶。それは、あまりにも残酷な現実だった。

「お父さん!!お母さん!!お姉ちゃん!!!死んじゃ嫌だ!!!ひとりにしないでぇ!!!」

白い布に被された3体の遺体に向かって泣き叫ぶのは千紗の妹の優里。景が家に連れてきたあの後輩の女の子だった。
何故彼女が泣き叫んでいるのかはすぐに分かった。

(そうだ。あの時)

この年の冬は例年よりも気温が低く、千紗達が住む街にも白い雪が降りしきっていた。
その日は母方の親戚の結婚式に参列する為、千紗の家族4人で遠出をする筈だった。
だが、丁度その頃、優里は流行り風邪に感染し調子を崩してしまっていた。
最初は母親が家に残ろうとしたが、近くに住む叔母が優里の看病に名乗り出てくれた為、3人だけで出かけることになった。
優里は叔母に"私のことはいい。1人でも大丈夫だから"と叔母に説得していたが「なーに言ってるの!風邪で苦しんでる可愛い姪ちゃんを1人になんてできないわ!」と優しく諭してくれたのを思い出す。
御礼として何か買ってくると約束して結婚式に参列した。
問題はその帰り。
雪が降って視界が悪かったせいで父親の運転はいつも以上に真剣だった。
このまま気を抜かなければ無事に帰れる筈。そう信じていた時だった。
突然目の前に対向車が猛スピードで突っ込んできたのだ。
千紗達3人が乗った車と衝突。ぶつかってきた車の運転手による酒気帯び運転が原因だった。
しかも、突っ込んできた車の運転手は腕と足の骨折で済んだのだが千紗達は全員即死だった。
その知らせはすぐに叔母と優里の元に伝わり、家族の再会は無言のモノとなってしまった。
景が部屋で涙を流していたのは、事故が起きて数日後に行われた葬儀の日。
優里達動揺、まだ現実を受け入れられない景は静かに部屋で泣いていた時に千紗はあの姿見に現れたのだ。
姿見の中に現れた理由は彼にまだ伝えていない想いがあるという未練があったからだった。
記憶が欠落していたのは、無意識に自分の身に起きた現実から目を背けていたからだった。
そして、自分だけ時間が止まっていたのも、もう自分がこの世の者でなくなってしまったから。

「私……まだ死にたくなかったよ。まだ私、景に好きだって言ってないのに…」

心に深い傷を負った優里に寄り添ったのが景。記憶が欠落した千紗はずっとその様子を見守り続けるしかなかった。
景と意思の疎通ができなかったのも、景が少しずつ前に進み大人になっていったからだ。
目の前で泣いている色打掛に身を包む優里に景がそっと寄り添う。

「悔しいな。でも、優里ならいい。ちゃんと幸せにしてくれなきゃ化けて出てやるからね。景。……最期にこれだけは言わせて欲しい。これだけ言ったら、私、やっと眠れるから。やっとお母さんとお父さんのところに行ける」

千紗は涙を流しながらも心の底から景と優里の結婚を祝福し満面の笑みを見せた。それが外の世界の2人には見えていなくても。

「大好きだったよ。三上景。それと、結婚おめでとう。私の大事な可愛い妹を泣かせたりしたら本当許さないからね」

そう言い終えたと同時に千紗の身体が足先から花弁が散るように消え始めた。
もうこの世に未練はない。2人の永遠の幸せを祈りながら千紗は眠りにつく。





その後、川人千紗は2度と景の部屋の姿見にも、他の鏡にも遭われることはなかった。

















外の世界から景が姿見の中の千紗に伝えようとした言葉。



「さよなら。千紗。俺も大好きだったよ」