牡丹百華の咲く稲荷神社

「は? 大神?」
 朱音が怪訝そうな顔をした。彼女の手が止まる。お箸からぽろっと唐揚げが落ちた。
 まあそうなる、よね。納得すぎる表情である。一言も喋っていない彼との交際は、寝耳に水にもほどがあるくらい突拍子もない出来事だ。藍にとってもだが、朱音はもっと意味がわからないだろう。
 卵焼きをかじりながら、藍はおずおずとうなずく。報告があると、藍は昼休みになってすぐに朱音を呼び出したのだ。弁当とともに。
「う、うん・・・・・・大神桃真」
「大神くんて、全然アイの中の登場人物じゃなかった人でしょ」
 その通りである。正直名前も怪しかった彼だ。相生という苗字でよかったと心底ほっとしたのを覚えている。
 ちなみに、皆が蘭に倣ってあまりにもアイ、アイと呼ぶので、本名さえアイだと思われることが多い。その場合はアイオイアイという非常にややこしい字面になってしまうのだ。アイオイランだからね? ね!
「まあ、ね。クラス一緒になったの初めてだし。でも、一気に主役級だよ。ぶっ飛んでる。急に告白されたの」
「で、付き合うことに・・・・・・ぶっちゃけどう、好きなの?」
「ん〜・・・・・・、うん。好きだよ。真摯だし、なんか、そう。いいなっ・・・・・・て」
 好き、というのは朱音に心配をかけないための方便だが、少なくとも嫌いだとは思わないし、友達としてなら仲良くしたいという気持ちもある。少しその関係が歪だと思えば悪くもないのかもしれない、と思い始めている自分もいた。
「そう。なら、いいけどさ」
「うん。そういうことだから。あんまり気にしないで」
「ラブラブ現場を見ちゃうこともあると?」
「いや、ないけど」
 さすがに桃真も学校で迫ってくることはないだろう。学校外でも嫌だが。
「大丈夫大丈夫。ディープキスとか、私現場見たことないから。経験として悪くないからさ」
 手繋ぎも壁ドンも頬にキスもぶっ飛ばしてディープキスする前提なのはやめてほしい。
「しないから!」
「はいはい。はいはいはい、わかってるわかってる」
 なにをわかっているつもりなのか、にやにやしている朱音を軽く叩く。
「まあ、それならよかったよ。これからは無理して私たちに付き合わないでも、二人で手を繋いでうふふとか言いながら帰ったり、あーんするためにお弁当二人きりで食べたりしても全然いいからね」
「無理して付き合ってないし、──たくさんの人に囲まれるって確かに疲れるけど無理はしてないし、うふふなんてそんな笑い方しないし、あーんもしないから!」
「はいはい。・・・・・・ていうか、大神くんって琥珀(こはく)ちゃんと付き合ってなかったんだねぇ」
 ふとにやにやを途切れさせて、朱音が首を傾げた。琥珀、というのはどこかで聞いたような気もするがどうにも思い出せない、もやもやさせる名前だ。
「琥珀ちゃん?」
「ほら、あの、幼馴染の子。可愛い子よ。目の色がちょっと茶色っぽいさ、あの子。ハーフなんだっけ? どことどこだったか忘れたけど」
「ああ! あの子ね」
 同じクラスの女の子だ。小柄な体つきに琥珀色の猫目で整った顔立ちをしており、引っ込み思案なのかあまり話す機会はないが可愛いと密かに話題の子である。桃真を唯一桃真と呼ぶ人でもある。どうやら幼馴染らしいのだ。
「どうなんだろ。琥珀ちゃんの話題は出てなかったけど。まあ別にいいかな」
「もし付き合ってたとしたら、あんた相当男運悪いよ」
「やめてよバカ」
 とは言いながらも、別に桃真が琥珀と付き合っていても大して傷つきはしないだろうな、というのが今の心情だ。朱音たちに心配をかけてしまうのは困るが。
 朱音が本気で悩み始めた。
「琥珀ちゃんと仲良くなりたいって思ってるのに、修羅場は困る。いっそアイと縁を切るか・・・・・・」
「ならないから! やめて? 私だって琥珀ちゃんに話しかけたいとは思うし」
 恐ろしいことを口にする朱音に、藍は言い返す。朱音がはたとこちらを向いた。
「え、話しかけてきてよ。アイ可愛いから」
「その因果関係なによ」
「行ってきてよぉアイ」
 わざわざ箸を置き、すりすりと猫のように体をこすりつけてくる。高校に入ってからの付き合いである。素早く藍は察した。
「修羅場になるの望んでる?」
「バレた」
「こら。てかなに、朱音は琥珀ちゃんに片想いなの?」
「いや、あの子化粧してないんだよ」
 ぱっと朱音が離れてから、衝撃の事実を口にする。
「え? 嘘。あんなに可愛いのに?」
 漆黒の髪の毛と真っ白な肌。長いまつ毛、整った眉、桃色の唇。あれで化粧なしは恐ろしい。
「そうそう。近くで見る機会があったんだけどさ」
 それはかなり特殊な機会である。どういう状況だったんだろう。
「多少手入れはしてるだろうけどすっぴんなんだよ。だから、化粧したらもっと可愛くなるじゃん。で、仲良くなりたい」
 化粧がわかるかわからないか程度に、それでもその威力を十分に発揮する程度に。微妙な塩梅で施す化粧が得意な朱音。教えてあげたくてうずうずしているのだろう。
 藍はうなずいた。
「なるほど」
「アイは?」
「単純に可愛いのと、名前」
「名前? 確かに琥珀って可愛いよね。目の色とリンクしててさ」
 絶対親思いつかなかったんだよ、それで、目の色見てさ、あ、これだってなったんじゃない? と勝手な憶測を披露する朱音。
「まあそれはよくてさ。私の名前の由来知ってる?」
「知らない。藍色じゃないの?」
 もごもごとおにぎりを噛みながら、いかにも興味なさそうに答える。
「違うよ。どこに藍色要素があるわけ」
 目の色も髪も日本では一般的な、黒だ。自分の名前ということもあり確かに藍色に親近感寄りの好意は感じるが、それは先天的なものではない。
「え、・・・・・・気持ち? ブルーな? みたいな? あっはっは」
 一人で意味のわからないことを言って笑っている。スルーだ。
「・・・・・・なんかさ、和名に藍って漢字のつく宝石があるんだって」
「む・・・・・・ていうか、宝石なんだ。初めて知ったよ」
 お父さんが、お母さんに贈った指輪にはまっている宝石。ヨーロッパ・・・・・・ドイツだったかな。そこあたりのもので、とても貴重らしい。うん百万円するとかしないとか。
 透き通った青色のそれは、机の引き出しに、リングケースとともに入っている。母から譲ってもらったのだ。
 それらを伝えると、ふむふむと朱音はうなずきながら聞いてくれた。
「でさ、琥珀も宝石じゃん? だから、親近感」
「納得した。じゃあ、昼休み中に琥珀ちゃんに話しかけといてね。できなかったら今度アイス奢りね。ごちそうさま」
「・・・・・・は? えっちょっと!」
 勝手な約束を取り付けて、朱音の背中は遠ざかっていく。
 理不尽な条約改正のために、慌てて弁当の中身を掻き込んで包もうとし箸を落として、箸を拾おうとして弁当箱をぶちまけながらもなんとか片付けたときには、すでに彼女の姿はなかった。
「そりゃそうだよね。くそ」
 肩で息をしながら、藍は少々下品に悪態をついた。と、そのとき、ふと目に琥珀が映る。これを幸運と言わずしてなんと言おうか。
 チャンス。藍は走り始めた。
「こっ、こ、琥珀ちゃん!」
「あっ、はい・・・・・・?」
 腰までの黒髪を揺らして振り返る琥珀。可愛い、やっぱり可愛い。
「えーとあの、あっ私、相生藍です」
「はい、存じ上げております」
 とても丁寧な口ぶりだ。桃真に対してはかなりざっかけない口調だったような気もするのだが。
 かすかに浮かんだ微笑みがさながら天使。
 だが、少し、距離を感じる。過剰なほどの敬語にも、どこか浮世離れした笑みにも。
「あーっと、えっと」
「はい?」
「・・・・・・あっ、大神くんとこのたび、付き合うことになりました」
 いやっ、なに言ってんだ私。
 共通の話題を探した途端に口走ってしまった交際報告。顔が、赤くはなっていないだろうが、ひたすら熱い。
 すると、わずかに琥珀の猫目が鋭くなった気がした。
「それは、桃真から言い出したんですか?」
「あっ、はい・・・・・・その、ってえ⁉︎ あっ、琥珀ちゃーんっ?」
 琥珀がくるりと踵を返して走り出した。去り際に、およそあの顔に似合わないほどに鋭い、チッという舌打ちと、アイツっ・・・・・・と、恨みの籠もった声が聞こえた気がした。
***
 きらり、と宝石を通して伝わる光に、藍はため息をもらした。
「修羅場確定すぎる・・・・・・」
 午前中の琥珀との会話一部始終を朱音に話したら、なんとか奢りは免れた。が、その代わりたっぷり修羅場になったときの心構え、ヒロインとしての振る舞いなどを叩き込まれた。
 なんでお前はそんなことを知っているんだと怒鳴りたくなったが、他にもたくさん迷惑助言をしてくれる子が集まってきたのでやめておいた。一人一人に怒鳴っていたら体が保たない。まあ、大方ドラマや少女漫画の知識だろうと見当はつくが。当てにならなすぎる。
 その場合絶対主人公は琥珀ちゃんだろ・・・・・・私はつまりライバル役ね、と自虐を交えてため息をついたりする。
 スマホが震え、同時に通知音が鳴る。丁寧な手つきで指輪を引き出しに戻し、スマホを持ち上げた。
『相生さん、桃真です』
 LINEだ。クラスのグループから友達追加したんだろう。アイコンはデフォルトで、名前は桃真だ。彼だとわかっても余るくらいわかる。
『知ってます』
『琥珀に話したんですか?』
『ごめん、言っちゃった。まずかったかな?』
 やっぱりダメだったのかな。修羅場ありえる?
『まずくはないんですが、面倒なことにはなります』
 ネット界でのがちがちの敬語が、現実とのギャップを際立たせる。思わず吹き出してしまう。
『敬語なんだね。面倒なことって? 聞かないほうがいいかな』
 この言い方だと若干圧を感じるだろうか、と少し考えたが、できることなら話してほしいのでそのまま送信する。
『すみません。鋭意努力します。決して後ろ暗くはないんです』
『不審者が決して怪しくないって言ってる感じ?』
 ついからかいたくなって聞き返す。敬語可愛い・・・・・・と笑い混じりに思いつつ。我ながら、母性爆発してるなぁ。
 しばらくして、なかなかの長文が帰ってきた。
『すみません。本当にごめんなさい。俺と琥珀はそういう関係じゃないです。本気です。誤解させてすみません。ごめんなさい』
『わかったから、謝らないで。悪いことしてる気分になる』
『ごめんなさい』『あ』
 二つ、連続してメッセージが来た。あわあわと焦る桃真が思い浮かんで、くすりと笑みを浮かべる。ネット、慣れてないんだろうなぁ。対して藍は、フリック入力の達人なのだった。
『いいよ。琥珀ちゃん、幼馴染なの?』
『そんな感じです』
『そういえばさ、君は私のこと好きなんだよね?』
 ちょっと話を変えてみる。直球すぎるかな。
『はい』
 少し間を置いて、返信。この間は恥じらいか、はたまたまずい! という狼狽か。
『どこが好きなの?』
『疑ってますか』
『疑ってるわけじゃない』
 これは、若干嘘も混ざっている。
 それに、一度も話したことがないのに好きだとか、正直わからなかったから。
『かっこいいなって。先生に言い返した相生さん』
『あ〜』
 乾いた笑いが出そうになった。あ〜としか言いようがない。
 先生に対する八つ当たりだったから、そこを誉められても反応に困る。
 そこからは返信が途切れた。今日のやりとりとスクショして朱音に送ったら、黒確と返ってきた。
***
「やっぱり黒?」
 翌朝、たまたまトイレで会った朱音に話を聞いてもらうことに。
 聞くと、朱音は顎に手を当ててふむとうなずいた。名探偵の真似だ、多分。
「黒ですな」
「どうしようかな。振りたくはないんだよね」
「好きだから?」
 うなずいてもよかったが、今回はれっきとした理由があるので、返事はむにゃむにゃと曖昧にして、ちゃんと話すことにした。
「う〜・・・・・・ん。なんか、振られるって悲しいじゃん」
 一方通行の思いになったこと思い知らされる。それって、とても、悲しくて寂しいことだ。それも、ただの失恋じゃない。一度成就した恋が、割れるのだ。
 朱音はなんとも腑に落ちないような表情をしている。
「彼から振ってもらうってこと? 好きなんじゃないの?」
「いや。ベストは話し合って別れる。一方的じゃなくて、双方で」
「ふぅん」
 それでもやっぱり腑に落ちないらしい。前髪をいじりながら、釈然としない相槌を返してきた。
「え〜、朱音は? どうなの」
「別れないようにする」
「もういいよ」
 真面目に答える気がないことを汲み取った藍はため息をついた。
「ごめんって。まあ、まずは琥珀ちゃんを攻めるべし。呼び出そうよ放課後」
「軽いいじめにならない?」
 攻めるとか呼び出すとか。怖いんですけど。
 桃真となんもないよね? はたまた、もちろん別れてくれるよね?
 脳裏に浮かんだ、体育館裏で詰め寄る自分と朱音の姿がドラマで見たいじめっ子に重なってゾクっとする。まさか自分がそっち側に行くなんて。
 もっての外だ。
 朱音も同じらしく、眉根をぐっと寄せて聞き返してきた。
「そんな陰湿なことするやつに見える?」
「女子って相場そうじゃん」
「うわー心外だわ。それに、ジェンダーレスの時代にそういうのほんとダメだと思うよ」
「言い換える。人間って相場そうじゃん」
 確かにそれもそうかと言い直すが、それでも納得しない、というかしたくなさそうな朱音は少し黙ってから口を開いた。
「・・・・・・自然との共生のこの世でそういうのほんとダメだと思うよ」
「なんなのよ」
「冗談冗談。いじめなんてしないよ。そんなやつに見えないでしょ。うん、見えない。朱音ちゃんは素晴らしい人だな」
 一人で自画自賛して笑う朱音。はたから見ればかなりヤバいやつだ。はたから見なくてもヤバいやつだ。
 ただ、本心で言えば藍も朱音がそんな性格には見えないので、ひとまず彼女の言葉を信じて琥珀とゆっくり話す機会を持てたらいいと思う。
「あ、アイじゃ〜ん。朱音も。教室行ってもいないと思ったら。なにやってんの」
 今年に入りクラスの別れてしまった友達が、トイレの鏡にひょいっと映り込んだ。
「あ〜、修羅場について議論してた」
「大神くん?」
 どうやら他のクラスにまで知られているらしい。早い・・・・・・悪事千里を走る、じゃなくて人の口に戸は立てられぬ、だ。
「ぴんぽ〜ん。面白いことになってきてんの」
 朱音が悪い顔をして聞いて聞いてとばかりに身を乗り出すから、言ってやった。
「人の恋を面白いとか言うの、ほんとダメだと思うよ」
「そういえばさ、あいつ! 相生藍」
 けたたましい笑い声と、自分の名前が聞こえた気がして、足が止まった。
 隣のクラスの教室だ。放課後に残った人たちが、話している、らしい。部活動を終えたところなので、下校時刻の少し前だろう。
「本当さ〜、あいつダサいよね!」
 ダサい、って。
「フラれたからって、やばすぎ」
 ヤバいって、
「恥ずかしくないのかな、マジで」
 恥ずかしいって。
 どういうこと?
 なんとなく言われていることがわかるのに、思考が真っ白になって止まってしまい、うまく息ができない。
「いくらさ〜蘭くんにフラれてもさぁ」
 鼓動が急に重く、早くなってずきん、と胸が疼き出した。
「てか男癖悪すぎ」
「ありえね〜だってさ、全然イケメンじゃないじゃん」
 そこで一回、笑い声が起こる。イケメンじゃないって、誰のこと?
「プライドないのかな」
「そもそも蘭くんとも釣り合ってなかったし〜」
「あ、逆に今カレと釣り合ってる説?」
 悪口か。なるほど、と思う。なるほどって、納得した。納得したんだと思う。なのに、頭はうまく受け入れなかった。
 藍は急に我に返って、足早に廊下を歩いた。あの笑い声を振り払うように、足はどんどん速くなる。校門を出る頃には、ほとんど走っていた。
 そっか、私ってダサいんだ。ヤバいんだ、恥ずかしいことしてるんだ。
 男癖悪い、って、思われてたんだ。
 泣きそうになって必死に押さえて、うまく引っ込んだと思ったときに肩を叩かれた。
「わっ・・・・・・」
「相生さん? ・・・・・・こっちだっけ、通学路」
 立っていたのは、制服姿で立つ桃真だった。驚いたような顔をして藍の肩に手を乗せていたが、はっと気づいて慌てて下ろした。
「えっ・・・・・・? なんで、ここに」
「俺は、家が近いから・・・・・・相生さんは?」
 ここはどこだろうときょろきょろとあたりを見回すと、ちょうどあの稲荷神社に繋がる道だった。通学路ではない。必死で心を誤魔化しているうちに、周りが見えなくなって違う道に入ったらしい。
「あ〜、間違えたっぽい。ごめん。君は? 部活、なんか入ってたっけ」
 確か、帰宅部だったような。若干の気まずさが滲み出てしまったが、桃真が変に訝しむそぶりはなかった。
「いや、え〜と、図書館で勉強、してたから」
 桃真は桃真で別の気まずさを持っているらしい。いや、羞恥心、だろうか。
 なにを話せばいいのか少し迷って、とんでもないことを聞いてしまった。
「・・・・・・成績悪いの?」
「えっそれ、答えなきゃダメか? できれば言いたくない」
 ふっと微笑みがもれた。
「別にいいよ、それが答えだから」
「あっ、えっ、そうなっちゃうのか」
 がっくりと桃真が肩を落とした。その仕草が面白くて、また笑ってしまう。彼は表情や言葉こそ乏しいけれど、リアクションや体の動きは大きく、わかりやすい。
「・・・・・・相生さん、なんか、悩んでない?」
「え?」
 笑ったというのに、笑えたというのに、まさかそんな問いが投げられるとは。
 それでもなんだか、先ほどまでのわだかまりは薄れた気がする。だから、藍は笑んで答えた。
「・・・・・・ううん、悩んでないよ?」
「そう? なら、いい」
 桃真といたら、笑える。一緒にいて楽しいし、そこに愛はないけれど嫌悪もない。
 それで、いいんじゃないの?
 たった一分。
 なんとなく、心が軽くなった気がした。
***
 相生さん、と呼ばれる。
 藍は手元の図形問題にかかりっきりで、顔を上げないまま聞き返した。きりが悪いのだ。図形問題ってひらめきだし。忘れたくない。
「ん〜?」
「一緒に帰ってもいいか?」
「うん」
 放課後の図書室で自習、というシチュエーション。これは一緒に下校というのが定石だろうとうなずく。
「えっマジで?」
「なに、嫌なの?」
 ようやく桃真の顔を見ると、桃真はかすかだが笑みを浮かべていた。
「嫌じゃない」
「にやにやしないでよ」
「え・・・・・・笑ってた? 俺」
 桃真は、自分で自分の頬をむにっと挟んだ。いつものポーカーフェイスが崩れて子供のような表情になり、ついふっと吐息がもれる。
「うん。でれでれのメロメロ。自覚なし? 末期」
 にまにまと顔を崩す桃真を置いてノートを閉じ、カバンに詰め込みながらからかうと、彼の頬が膨れた。
「うるさい」
「帰るよ〜」
「おいおい、待てよ」
「早く! 置いてくよ・・・・・・ぉえぇえええ、マジか」
 立ち上がった藍のカバンが盛大に開き、参考書たちが溢れ出た。チャックがまだ未確認だったらしい。
 図書室に響いた、どさどさどさっという音とほぼ同時に帰り支度を終えた桃真が、無情にも図書室の入り口へと歩き出した。「置いてくよ」と言いながら。
 小さな復讐のつもりなのだろう。
「ちょっと、バカっ! 彼氏なら拾ってよ」
「こんなときだけ彼女ヅラ・・・・・・」
 図書室には、他に人はいない。桃真がぼそっと言った言葉が耳に入った。にやっと口角をあげて見返す。
「え? なになに、嫌なの? 彼女ヅラ。え? 桃真くん?」
「・・・・・・ずるい」
 桃真が悔しそうに引き返してくる。舌打ちでもしそうなほどに歪められたその顔は真っ赤だ。夕陽の影になっている机の近くにきてなお、わかりやすく。
 とんとん、とプリントを机で向きを揃えてから渡してくれる、そのさりげない優しさ。
 こういうとこ。嫌いじゃない、と改めて思う。──友達として、欲しい人材だ。
「ありがと」
「ん・・・・・・」
「じゃ、置いてくよ」
 さっと立ち上がり、一人で静かに照れる桃真を置いて図書室を出た。かすかに聞こえてくる吹奏楽部の音や、体育館から漏れ聞こえるボールの音に混ざって、桃真の明らかに慌てている足音が追いかけてくる。
「待てって、それはないだろ!」
 燃えるような夕陽が、藍の体温を上げていく。
 校門から出て駅へ歩いていると、ぽん、と背中を押される。不意の攻撃によろめいていると、自転車に乗った部活帰りの友達が横に並んだ。
「アイ〜、帰るの?」
「あ〜、うん」
 体勢を整えて、カバンを揺すりあげながら、そっけなく答える。これは、来るな。いつもの流れ。
「愛しの彼氏と?」
「うん、やめてね?」
 流れるようににっこりと笑顔で返す藍に対して、横を歩く桃真が悶絶した。
「っ・・・・・・うぅ」
 からかわれた藍よりも桃真の方が顔が赤い。両手で頬を覆い、女子のような仕草で小刻みに首を振っている。こういう反応が面白いから、いろんな人からからかわれるのだ。
「ごめんって大神く〜ん。じゃね、アイ」
 けらけらと笑いながら、自転車で追い越していく。照れから立ち直った桃真が見送りながら、つぶやいた。
「そういや、アイって呼ばれてるんだね。相生さん」
「あ──うん。そうそう! 元カレがさ! 蘭って名前だから。読み方一緒でしょ? ややこしいからって。あだ名、あだ名〜」
 不意打ちだった。彼の話題を持ち出されるのは。
 だから少し、繕い方が不自然だったかもしれない。桃真がたちまち申し訳なさそうな、後ろめたそうな顔になった。
「あ・・・・・・」
「やだ。気にしないでね。そういえば、桃真って桃の真実、って書くんだっけ。可愛いじゃん。桃」
 可愛いと言われてまた照れたのか、桃真がぷいっとそっぽを向く。
「でも、花言葉は・・・・・・天下無敵とかチャーミングとか、あと・・・・・・」
「え?」
「いや、なんでもない。だから、全然似合わねーの」
 なにかを言いかけて、引っ込めたような口籠もり方だったが、結局なんだったのかは言ってもらえなかった。あとで桃の花言葉を調べておこう。
「ふ〜ん。それは確かに。チャーミングの真反対にいるもんね」
 アイドルみたいに皆に慕われていた蘭と違い、桃真は重度の無口で、お世辞にも社交的とはいえない。最近はクラスメイトと話すことも増えたようだが。
「それは悪口と受けとっていい?」
 微妙な顔。
「重々しくてかっこいいって意味。ダンディー」
「嘘つけ」
 横目でにらまれて、思わずあははっ、と声を立てて笑ってしまった藍であった。
 振られた気分だ。
 藍は、ずぅぅんと暗く沈んだ表情で、そう朱音に言った。
「なによ。振られすぎでしょ。大神くん?」
「違う。琥珀ちゃん」
 振られすぎ、とからかわれるくらいには、蘭の元カノ、桃真の今カノという地位が安定していた。桃真が藍と一緒にいることが多くなり、必然的に桃真に話しかける人も増えた。藍にベタ惚れの桃真から告白してその恋を成就させた、というのはうちのクラスでは常識で、それに対してからかってくる人もいる。いるというか、ほとんどの人がそんな感じだ。純粋な桃真は完全に遊ばれている。
 それでも正直、吹っ切れたとは言い難い。振られた気分、というのはかなり誇張した表現だ。
 できるだけ蘭の情報は入れないようにしているが、特に大きな噂は聞こえてこないので、きっと藍に遠慮して好きな子と付き合えていないのだと思う。もう他の子と付き合ってもいいんだよと先に示せたことは、桃真と付き合い始めてからの一つのメリットだ。
 それでも藍の心には、まだ彼がいる。
「え? どんな感じに振られたの」
「びっくりするほどの塩対応。戸惑ってたらもういいですか? って。あっちから出て行っちゃった・・・・・・」
 藍の視線の先、後方のドアを一瞥して、朱音はぎゅっと顔をしかめた。
「えっ、らしくない」
「そうなんだよ」
 琥珀のあんなに冷たい態度、見たことがなかった。朱音も驚いているところを見ると、彼女は本来あんな性格じゃないんだろう。
「嫌われてるのかも」
 ずぅぅぅぅん、ともっと暗くなった藍を見て、朱音は慌てて背中を撫で、慰める。
「そんなわけないじゃん! きっといらいらしてるんじゃない? お腹空いてたんだよ。昼休みだし」
「そ、そうだよね」
 いや、そうであってくれ。ほとんど祈るような気持ちの藍の耳に、朱音の独り言が滑り込んできた。
「修羅場だっ」
 語尾に音符でもついていそうな口調である。
「えっ朱音? 朱音ちゃん今なんて?」
「いやいやいや、いやいや、いや、私は味方だからね?」
 信憑性に欠ける。隅で売られているような雑誌が取り上げた潔白と名高い大人気芸能人のスキャンダルくらい、信憑性に欠ける。
 疑いの目を向ける藍に、慌ててぶんぶんと手を振る朱音。
「ほんと! ほんとだって!」
「ふぅん?」
「私だって琥珀ちゃんとは仲良くなりたいけどさ。修羅場も好きだけどさ」
「ほら見ろ」
 これこそ確定で黒だ。
「同じくらい、アイのこと大好きだから」
 ぎゅっと抱きつかれ睦言のように囁かれるが、これで騙される藍ではない。
「同じ『くらい』? 大なりイコール? いや最早イコール?」
「・・・・・・」
 苦い表情で考え込んだ朱音に、藍は彼女の手の中で、ため息しか出ない。
「ダメだこりゃ」
「あれ? アイ浮気してる〜」
 抱きついたままの二人の後ろから、野次が飛ぶ。
「してないから。朱音が抱きついてきたの。変に誤解されるからやめて」
 ちらりと教室で昼食を摂る桃真を見ると、わかりやすく固まっている。
「ほらぁ。どうすんのよ」
「ごめんごめん。大神くん、嘘だよ、嘘」
「アイ、ご飯食べよ」
 全く未練を見せずにぱっと藍から離れて、朱音が言った。
***
「ねえ、琥珀ちゃん」
「すみません忙しいので」

「琥珀ちゃ・・・・・・」
「勉強しなくていいんですか? それとも賢いマウントですか?」

「こはk」
「通してください、邪魔です」

「琥珀ちゃん、ちょっといい?」
「・・・・・・」
 ついに無視である。
 桃真と付き合い始めて一ヶ月。藍と琥珀の関係は、落ちるところまで落ちていた。
 確かにテスト前に勉強してるとき声をかけたのは悪かったと思う。それは猛反省してる。でも、広い廊下でわざわざ私を押し退けて行くことなくない⁉︎ そこまでなの? そこまで深刻なの? 私たちの間柄。
「琥珀ちゃん、あのね。とう・・・・・・大神くんとはそこまであの、親密な関係ってわけじゃないの。ごめんね。ただ、さ、あの、えぇと」
 無視されているのをいいことに、なにかを続けようとして、それから今の藍が言う言葉は全て琥珀には届かず、苛立たせるだけだと気づいて口をつぐむ。
 もし──もしも。
 蘭が誰かと付き合って。その相手に友達になろうよとか、もしくは蘭とはなにもないのとか。そうやって話しかけられても、藍に、快く応じられる自信はなかった。全部嘘だと思うだろうし、それどころか彼女を憎んでしまうだろう。
「そういう態度取っちゃうのも・・・・・・嫉妬、するのも、わか・・・・・・る。けど、私は・・・・・・」
 言ってしまってから、少し切り込みすぎたかと焦っていると、琥珀がきっと顔を上げた。藍を射抜くような、厳しい瞳。いかにも不機嫌そうな眼差しだ。
「誰が、嫉妬ですかあんなやつに」
「・・・・・・え?」
 え? あんなやつに嫉妬しない、ってことですか?
 琥珀の言葉が消化不良となり、変に引っかかる。
「嫉妬なんてしてません。どっちかといえば私は相生さんの方が」
「ん?」
 おかしな方向に話がいっていないか。いや、おかしいというより想定から大幅にずれている返答だ。
「待って待って、どういうこと?」
 聞き返すと、琥珀はしばらく黙った。なにかを考えているようだった。
「・・・・・・それを話すには、いろいろカミングアウトしなければなりません」
「あ・・・・・・」
 カミングアウト、という単語からは、だいたいの内容が想像できる気がする。
「ちなみにあなたが思っているようなことではないです。もっとぶっ飛んでるから」
「そっか。じゃあ、放課後・・・・・・どこ行こう」
 あまり人には聞かれたくない話だろう。体育館裏も信用はできない。
「稲荷神社とかどうですか」
「あ、琥珀ちゃんも稲荷神社好きなんだ」
 桃真と話したあの日が思い起こされる。そういえば、なんで桃真はあそこに呼び出したんだろう。
「いえ。ただ、話す上であそこが好都合なので」
「ふぅん・・・・・・?」
 いまいちわかったような、わからないような。
 稲荷神社で都合がいいってどういうことなんだろう。謎を抱えたまま、藍は運命の放課後を迎えた。
 琥珀とともに、名も知らぬ神様すみませんと頭を下げて、稲荷神社の本殿に腰掛けさせてもらう。
 この前は気にならなかったが、いや、気にする余裕がなかったが、雑草や鳥居の傾ぎ具合に対して立派な本殿は、やたらと清潔に保たれていた。
「誰か掃除してるのかなぁ。あ、御供物も。お饅頭だ」
 無礼を承知でそっと中をのぞくが、やっぱり床板が腐っていたりすることはなかった。
「あ〜、私と、桃真が」
「え? なんで? 神主さんの家系なの?」
 自分で言いながら、ああそういう可能性もあるのだと理解する。神職同士で互いに幼馴染とか。ただ、お守りやおみくじを売っているような社務所は見当たらない。
「いや、神主さんは別にいるんですけど。他の神社と掛け持ちで」
「掛け持ち?」
 まるで部活のような言い方である。神社を掛け持ちって、初めて聞いた。
「ええ。神主の数に対して神社が圧倒的に多いので自然と二、三個神社を掛け持ちに──」
「あ、ごめん、話逸らした。違うならいいんだ」
 藍としては、自分で話を持ちかけておきながらだが早く核心を知りたい、というのが本音だ。つい説明を遮ってしまう。
「すみません。そうでしたね」
「えっと、その・・・・・・もしかしたら、うまく受け入れられないかもしれない」
 藍はまだまだ子供で、世間知らずだ。些細なことでも感情が揺れる。必死で表情に出ないように努力はするが、それでももしかしたら冷静な対処ができないかもしれない。それを伝えておかなければならない。もしその上でカミングアウトを取りやめる、というのならしょうがないことだ。
「いいえ。ただ、信じては、ほしいです」
 願うようなその目は切実な光が宿っていた。
 信じる。琥珀の気持ちを、ということだろうか。
 うまく直視できずに、視線を下へ逸らす。琥珀を傷つけないように、懸命に言葉を紡いだ。
「信じることは、できると思う。ただ、その──あの、うまく言えないかもしれないけど、それでも、っ・・・・・・え?」
 ぱっと視線を上げた藍の瞳に映ったのは、立ち上がった琥珀の、姿。
「え? え? え・・・・・・? 琥珀ちゃん?」
「はい」
 これは、果たして琥珀なのか? それにしては、早変わりすぎないか?
 戸惑いを隠せない藍を見て、困ったように眉尻を下げる琥珀。そして、ちょいちょい、と引っ張った──彼女の黒髪からのぞく、猫耳を。
 猫。
 猫のような耳が。
「・・・・・・・・・・・・え?」
「信じられないかもしれないけど、こういうことなんです」
「猫・・・・・・?」
 ひょこりとのぞく、真っ白の耳。制服のスカートの下から垂れる、二股に分かれた尻尾。
「正確に言うと猫又、っていう種になるんですけど」
「ね、ねこまた?」
 もしや、からかわれているのだろうか? 琥珀には、そういう趣味があるのだろうか。
「あの、今日一日で信じろとは言いません。ただ、今は、そうですね。自分がファンタジー小説に入ったと思ってこれからの話を聞いてほしいんです」
「・・・・・・これってなにかの冗談?」
「じゃないです。触りますか? 耳。尻尾も」
 尻尾が上がって、スカートが際どい位置まで捲れた。偽の、付ける尻尾は、こんなに精密に動くだろうか? さすがに尻尾は申し訳ない気がしたので、ちょっと背伸びして耳をそっと触ってみる。
 琥珀は少しくすぐったそうに体を縮めたが、すぐに取り繕うように背筋を伸ばした。
「多少は引っ張ってもらってもいいですよ。痛くない程度なら」
「本物、なの?」
「です」
 藍の言葉に、琥珀自身、とても困っているような顔つきだ。どうしたら信じてもらえるんだろう、とでも言いたげなほどに。
「じゃあ、・・・・・・ひとまず。話、続けてほしい。琥珀ちゃんのこと・・・・・・桃真のことも、なのかな」
「あいつは妖狐なんですけど」
 琥珀は御供物を盗んで食べながら、さらなる爆弾発言を落としていく。やってることもヤバいが、言ってることもヤバい。というか更に藍をどこか遠いところに連れていく言葉だ。
「・・・・・・え待って待って、桃真が? 彼がヨウコ? 妖狐って、妖狐? 狐の? 妖怪の?」
「はい。あの、信じてもらうの時間かかると思うんで、これも小説とかドラマとかの世界に入ったと思って聞いてください」
「わかった」
 これはなかなか無茶なことである。が、自分でそう努力しないと話が進まないのは承知しているので、無理矢理にでもそう思うことにした。
 桃真は妖狐、琥珀は猫又なんだ、と。私は今、その世界線に立っているんだと。
「妖狐には、段階があります」
「だ、段階?」
 面食らった様子の藍に対し、琥珀はうなずく。
「いわばレベルです。年齢や試験などによって昇格します。素行が悪ければ、格が下がってしまうらしいですけど」
「えぇ〜、めんどそう」
 英検とか漢検とかいう感じのものだろうか。つい顔をしかめると、琥珀も大いに同意した。
「はい。思います、私も。猫又にはそんなものないんで」
「ああ、自由人のイメージだもんね」
 猫=自由、というのは、よく忠実な犬と対比して使われる一般のイメージだろう。すると、琥珀はつんと澄ました顔になった。
「そうでもないですよ。私、真面目でしょ」
「確かに」
 よくテスト勉強に励む姿を見ている。大真面目に同意すると、琥珀がふっと微笑む。
「否定して欲しかったんですけどね。まあ、よくて。一番下が、野孤。普通にそこらへんに──はいないですけど、まあ、よく知られる狐です」
 笑った・・・・・・そして多分からかわれた・・・・・・うまくのれなかったけど、これは少しは距離が近づいたとみてもいいのかな?
「なるほど」
 つい彼女との距離の近さに急上昇していくテンションを押し下げて、ふわふわと頭に、動物番組などで出てくる可愛い狐を思い浮かべる。なるほど野孤というのか。
「その野孤の中でも、いい狐は善孤と呼ばれ、次の段階である気孤に上がれます。それから順々に、年齢と擦り合わせながら試験を受け、天狐、空孤、と行くんですけど」
「そうなんだね。なんかよくわかんないけど。それで、桃真は今?」
「気孤ですね。まだまだ青二才です」
 なかなか辛辣である。琥珀の口ぶりからすれば、一ランクアップした気孤もまだまだなのだろう。
「それで? ええと、次は」
「次、天狐ですね、天狐。天空の天に、狐。で、ここからが難しいんですよ」
「うん」
「野孤から気孤に──あ、空気の気に狐ですが──上がるのは、すごく簡単なんです。鼻で笑えます」
 だから、先ほど気孤の桃真を馬鹿にしたような口振りだったのだ。再び吐き出された痛烈な言葉に、つい藍は苦笑を浮かべた。
「本気なんですよこれが」
 確かに目はマジである。表情を変えないまま、琥珀はそう続けた。それから、ふっとため息をついて、前に出した右手と左手をぐっと上下に開いた。
「でも、気孤と天狐には大きな隔たりがあって」
 なるほど、と思う。そこにもまた試験があるんだ。鼻では笑えない、多分口でも肩でも笑えないレベルの。
「上がるのは難しいの?」
「はい。気孤はゆーて狐。多少特別な力を持つものもいますが、大抵は一般狐なんです。でも、天狐になると、神通力を与えられるんです」
「神通力・・・・・・って、超能力? 魔法?」
 スプーン曲げとか、ハンドパワーとか、テレパシーとか。未来予知とか、そういった類のものだろうか。聞くと、琥珀は困ったように首を振った。
「みたいなものですかね。ごめんなさい、詳しくは知らなくて」
「そっか。ちなみに、その試験の内容とかって知ってるの?」
 好奇心で聞いてみる。難しいってどんなことだろう。まさか勉強?
 琥珀が勢いよく立ち上がり「それなんです!」と叫んだ。真っ白な猫耳がぴくぴくと引きつっている。
「うわぁっ、びっくりした、どうしたの? 座りなよ」
「ああ、すみません。そこなんです。率直に言います。桃真と別れてください」
 ここの言葉だけ聞いていれば、全て琥珀の嫉妬が吐き出した言葉とも取れる。だがその大きな目は変わらず真剣だし、なによりこのふさふさで柔らかそうな耳や尾から視線が離れない。
「どういうこと? 説明してほしい」
「ええ、もちろん」
 本人のいないところで秘密を打ち明けるのはちょっと・・・・・・なんて奥ゆかしい気後れは一切持っていないようだ。
「相生さんは──」
「藍って呼んで」
 ちゃっかり距離を縮めてみる。アイ、と言おうと思ったけど、言葉からこぼれたのは自分の本当の名前だった。
「藍さんは、狐の嫁入りって知ってますか?」
 どうやら、さん、は離れてくれなかったらしい。
「晴れてるのに、雨が降ってるやつ? 不思議だよね──あれ? 狐?」
「ええ。お察しの通りなんです」
 狐の嫁入り、という天気と妖狐が、関係しているということだろうか。
「どういうこと?」
「そもそも、なぜ天気雨を狐の嫁入りというのか。天気雨は化学的に証明されている部分もあって、大抵はそれなんですけど」
「あ、そうなんだね」
 すん、と現実に引き戻された気がした。が、琥珀はゆらゆらと尻尾を揺らしながら続ける。その動きが、また藍をファンタジーの世界へと連れていく。
「一部ですが深く、狐が関わっているんです」
 いわく、気孤から天狐に上がるときの試験は、『誰にも見られずに祝言をあげること』だそう。そこで考えたのは、元々幻術の力を持つ狐たちが人間の目をなくそうと、雨を降らせ家に追いやる策だった。
「だから、狐の嫁入り」
「幻術を持たない狐は、普通の雨の日に祝言を上げます。ですが、まれに生まれるんです、元来幻術の力の強い狐が。それで、たまに晴れの日に雨を降らせて、祝言を・・・・・・つまり、あなたは利用されてるんです!」
「あれ? ちょちょちょちょちょっ・・・・・・ちょっと待って」
 頭が整理されるにつれて、混乱し始める心。
「はい」
「祝言って結婚式?」
「ええ」
「結婚?」
「そうなんですよね」
 琥珀がうなずいた。
 結婚。
 かっと頬が熱く・・・・・・は、ならなかった。さっと心を染め上げたのは、深い失望だ。
 結婚。そんなにも大きなことだったのに、私にはなにも話してくれなかったのだ。では、・・・・・・藍を好きだという気持ちは、あの日のにやけは、あの赤い顔は、全て嘘だったというのか。
 頭を抱えたくなる。
 名俳優、すぎる。名俳優すぎるよ。
「・・・・・・私が、利用されてる、ってことなの?」
「はい。だから、別れてほしくて嫉妬に(まみ)れた女風につっけんどんに・・・・・・あの。怒ってます?」
「いや。どっちかといえば、ちゃんと話してほしかったな」
 また秘密にしたがるんだ。
 彼も、──そして、彼も。
 琥珀が、途端に気まずそうな顔になる。
「で、す、よ、ね。・・・・・・あ、桃真呼びますね。ちゃんと二人で話して、すっきり別れてください。雨、降りそうですしちゃっちゃと」
 確かに、走り梅雨という季節の今、天気がぐずつくことも多いが、って、えっ?
「あ、ちょっ!」
 止める間もなく琥珀はスマホを取り出すと、獣耳の方に当てた。
 不思議に思ってしばらくあとで聞いたら、人間の方の耳はつくりもので、多少は聞こえるけど不便なんだそう。猫耳の方が敏感でたくさんの音を掬えるらしい。
「あ、桃真? 今どこ? オッケー、じゃあ稲荷神社来て。え? あ、そうそう、例のこと全部言っといたから。うん。洗いざらい」
 琥珀がそこまで言ったとき、少し離れたところにいる藍の耳にも、『うわあああああっ』と雄叫びのような悲鳴が大音響で聞こえてきた。藍でうるさいと思ったのだから、琥珀の耳なんてもう、うるさいどころの騒ぎではない。琥珀が飛び上がった。
「いっ、うわっ、もう、うるさっ、ちょっと道端でそんなに叫んで大丈夫なわけ? まあ、いいや。待ってる」
 琥珀は一度切ろうとしたが、なにかを聞かれたらしく、再び耳元にスマホを近づける。
「え? なに、天狐になったら? 言ってるよ、神通力使えるって。え? その先? 知らん。じゃあね」
 とても砕けた口調。彼女との対話は、これが目標だと藍は密かに決意を固めるのだった。
***
 しばらくして現れた桃真の頭にも、耳。縁が黒く、今みればいかにもな狐の耳だ。
 後ろを見ると、ズボンを破ってふさふさの尻尾も出ている。あのとき──あの果し状を見つけたときの尻尾だ。しゅん、とうなだれて、しおらしくこちらに問いかけた。
「いろいろ、聞いたか?」
「いろいろ話したわよ。私は、あんたのやり方おかしいと思う。なにも話さずに、藍さんの気持ちも考えないで」
 藍の代わりに、琥珀が腰に手を当てて強く桃真を睨んだ。まるでお母さん。そんなひょんな仕草で、この二人の間にはそういうことはなにもないんだ、とわかった。
「じゃあ。ちゃんと話して、その上でこれから先を決めなさい」
「ああ。・・・・・・ありがとう」
 瞬時に耳と尾を隠した琥珀が、稲荷神社から出て行った。桃真が先ほどまで琥珀が座っていたところに腰掛け、その隣に藍も座る。
 桃真まで妖狐、なのか。まだいまいちわからなくて、耳や尻尾が生えた全身を眺めてしまう。
 そのときぱっと閃いた。
「っあ、だから稲荷神社!」
「あ、そう。そうなんだ。狐は稲荷神の使いだからな。一番落ち着く、ここが」
「い、稲荷・・・・・・の、かみ?」
 なかなか聞き慣れない言葉だった。神様? の、名前だろう。桃真はうなずいて、ちらりと後ろの本殿を見る。
「稲とか実りとかの神様。ここに祀られてる」
「そうなんだね」
「ああ」
「・・・・・・」
 いつもみたいなテンポの良さは、遥か彼方へ吹っ飛んでいた。会話が続かない。
 あの日、初めて喋った日だって、あんなに会話がしやすいなんてと驚いたのに。付き合えと言われて何度も聞き返したり、契約婚と言われたときも──
「本当に、契約婚だったんだ・・・・・・」
「・・・・・・ごめん」
 ぽつりともらした藍の表情を見た桃真が、さっと青ざめて立ち上がり、頭を下げた。狐の耳が、目の前でふわりと揺れた。
「悪かった」
 ここで大丈夫っていうのが、完璧な女なんだろう。気にしてないよ、これからもよろしくねって。利用してもいいよって。
 普段のアイなら笑った。笑って、からかって、大丈夫だって言った。
 でも、今日は言えなかった。
 ごめん──その言葉が、頭の中に引きずられるようにして残る。
「・・・・・・うん。言って、欲しかった・・・・・・な」
 それは、ほろりとこぼれた本音だった。
 寸前で踏みとどまったけど、怒鳴りたかった。なんで? なんで? なんで仲間はずれにするの? そんなに私はあなたたちにとって情けないの? あなたの秘密を共有できないほどに小さな存在なの?
「わか・・・・・・れた方がいい、か?」
 絞り出すように、桃真が言う。彼の口から出た言葉だけど、瞬間迷った。でも、もう、限界だ。
「正直・・・・・・ショックだった」
 悔しかった。別に、形だけの契約婚くらい、構わない。確かに妖狐とか猫又とかよくわからなかったけど、妖怪を拒絶するようなそんな差別主義者ではないつもりだ。ファンタジーも嫌いじゃない。
 ただ、言って欲しかっただけなのに。
 すっと大きく息を吸って、藍は、口を、開いた。
「振らせてもらう」
「はは・・・・・・そう、だよな。うん。悪かった。本当に」
 桃真がのろのろと立ち上がって、もう一度深く頭を下げた。藍の許しを乞うように。見ていられなくなって、藍は視線をそらした。
「・・・・・・謝らないでよ。悪いことしてる、気分になる」
「・・・・・・ああ」
 顔を上げた桃真が苦く笑って、歩き出した。尻尾はついさっき消えたはずだ。なのに、まるで子犬がぶたれたかのように肩を落とす姿に、ふと地面に引き摺られていく尻尾を見た気がした。
 ぱた、と、乾いた地面に水滴が落ちる。はっと目を上げるが、もう桃真の背中は角を曲がるところだった。
 桃真がいなくなっても、雨粒は止まらない。何粒も。藍の手を、肩を打って落ちてくる。
 彼はなぜ、あんな表情をしたんだろう。
 答えはすぐに出せそうで、出せなかった。