どこか遠いところで、(らん)、と躊躇いがちに名前を呼ばれた。どこかに沈んでいた意識がふっ、と上昇する。続いて、ふふ、と脳裏に自分の笑う声が響く。
「恥ずかしいね。初めて下の名前で呼んでもらうって」
 横でもっと恥ずかしがっている(らん)に言うと、彼はふぅーっと大きく息を吐き出して「うん」と言った。
「なんか、自分も、らん、だから変な感じする」
「好きな呼び方でいいよ、別に」
 本当は、(らん)って呼んでほしかった。けれど、確かにややこしいので、そうやって提案しようと決めた。笑って言うと、蘭はう〜んとしばらくうなって顔を上げる。
「アイ、とかどう?」
「アイ?」
 愛という字が浮かんでしまった自分に少し呆れて、そして幸せだと感じたのを覚えている。
「うん。藍、って漢字、藍色(あいいろ)の藍でしょ?」
「よく知ってるね」
「え?」
 らん、という呼び名を聞いてまず思うのは、彼の名でもある花の蘭という字だろうに、漢字まで知ってくれていることに、少しだけ嬉しく思う。
 そんな藍の横で、指摘を受けた蘭が固まって、それから真っ赤になった。
「うっ・・・・・・その、別に、そんな、眺めてたとかじゃ」
「・・・・・・え? 墓穴掘ってるよ?」
 なるほど眺められていたのか、と思うとまた恥ずかしさが押し寄せてくる。幸い藍は、恥ずかしくてもあまり顔は赤くならない性質だ。それでも自分の表情に変化がないかと言われると不安だったので、照れ隠しにからかうと、蘭はもっと赤くなった。
「うわぁあっ、最悪だ。恥ずかしい、変態みたいだ・・・・・・いや、変態だ」
 頭を抱え、肩を落として絵に描いたように落ち込む蘭に、また柔らかな笑みがこぼれる。
「気にしないでよ。・・・・・・嬉しくなくもない? って感じ」
「嬉しくなくもない? 嬉しく、なく、もな──」
「言わないで! そんな真面目に分析しないで、やめてっ!」
 次は藍が顔を覆って悶える番だった。顔こそあまり赤くはならないものの、恥ずかしいという感情は人並みに持っている。
 蘭の優しく細められた目が、指の間からこぼれるように見えてふわりと心が温かくなる。
 ひたすら幸せだった頃の幻は、額の鈍い痛みに断ち切られた。
「痛っ」
 何事かと前を向くと、電柱が目の前に仁王立ちしていた。これに額をぶつけたらしい。漫画じゃあるまいしなんてツッコむ元気はない。こいつヤバい、現実にいるなんて、という周りの視線を気にする余裕さえなかった。
 いつも隣にあった、横顔。
 整った、見惚れてしまうような横顔。
 そしてとても、とても好きだった、横顔だ。
 ──別れよう、アイ。
 藍の全てを拒み否定する、硬い声。ずっと耳の中で反響していて、たまらず叫び出したくなるのを寸前でこらえる。
 なんでだろう、と思う。クラスが分かれたから? 分かれて、新しいクラスで、──好きな子ができたからなのかな。
 それはいやだ、と、一際激しい感情があふれ出そうになる。
 彼が誰を好きになろうと、誰を嫌いになろうと、誰と付き合おうと誰を振ろうと。それは私には手の届かない部分なのに。
「ぁあ、ダメだ・・・・・・」
 懸命におさえていたはずの涙がぼろぼろと目からこぼれ出てきて、藍は慌てて目元を拭った。悲しくて、寂しくて悔しくてもどかしくて。
 人前で泣いたのなんて初めてで、失恋が人類に及ぼす多大なる影響力に少し驚きながらも──、涙は止まらなかった。