牡丹百華の咲く稲荷神社

 深い深い物思いに、ひらりと白い手が舞い降りてきて、藍の意識を引き上げた。
「ちょっとアイ? 聞いてるの」
「あ〜・・・・・・ごめんごめん、なんだっけ」
「なんも話してないわよ。本気で聞いてないじゃん」
 朱音はふっとため息をもらして、スマホに視線を落とした。
「はぁ?」
 彼女の発言と状況。聞いてるのと聞いておきながらなんも話していないとは。齟齬が大きすぎて不満に頬を膨らませると、朱音は顔を上げて、にこりともせずに言った。
「小説とかドラマのセリフパクっただけ。でも、本当に聞いてるか聞いてないかは判断しやすいねコレ」
「なんなのよ」
 睨むと、彼女の両手で頬を手で挟まれ、諭すように言われる。
「自分から振っといて物思いに沈んでんじゃないの。自分勝手だねえアイちゃん」
「ん・・・・・・」
 むにむにと頬をいじられっぱなしの藍は、小さくうなずいた。
 そうだよね。自分から振ったのに。こんなんじゃ、まるで桃真に未練たらたらみたいだ。
 ・・・・・・いや、桃真に関してではないが確かに未練たらたらだ。未だ蘭のことを吹っ切れていない。夏が来ても、しこりのように心に残っていた。
「あ〜あ! いいカップルだと思ったのにな」
「やめてよ。てか、男遊び激しいやつみたいになってないかな・・・・・・」
 それが、今一番の心配だ。わずか一ヶ月の交際期間。いつかの誹謗中傷が蘇っては心を刺す。
「大丈夫よ。だって、大神くんの一方的な気持ちだったってのは常識だし。どっちの評価も下がらないよ。皆勝手にドラマ風に脚色して想像するし」
 大神くんの一方的な気持ち。
 朱音の言葉が、変に藍の心に引っかかる。それは、大きな間違いだったのに。
 いたたまれないとはこのことだ。
「でも、・・・・・・ほんとのところ、なにがあったわけ?」
「あ〜。桃真は化け狐で、それ秘密にされてたからむかついて振った」
「・・・・・・え本気?」
 本気だ。が、言えるわけもなく笑った。
「本気だと思う?」
「思わん」
 だよね、と、頬に小さく苦笑を浮かべた。
 ときどき、考える。
 あれは全部私の妄想で、桃真も琥珀も人間。桃真を振ったことさえ自分で妄想したんじゃないか・・・・・・って。
 化け狐。化け猫。この世に存在し得ないはずものたちだ。
 でも、隣に桃真がいないことが、未だどこか遠く感じるあの日を現実だったと突きつけてくるなによりの証拠だった。
 案外、桃真を気に入っていたのかもしれない、とふと思ってからいやいや違うだろうと否定する。桃真のことを度々思い出すのは、罪悪感と疑問がわだかまっているからだ。
 あの、表情。ほろ苦く笑う、どこか悲しそうな表情が、藍の心を罪悪感で締め付ける。
 朱音が顔をのぞき込んできた。
「ほんとはどうなの?」
「宇宙人だった」
「もういい。心配してやったのに」
 拗ねたように顔を背ける朱音。
「ありがと! 大好きだよ、朱音」
 気持ちを切り替え、ぱっと笑顔を浮かべて朱音に抱きつくと、彼女はその体を受け止めながら笑った。
「おっ、次の彼氏候補に入ったかなもしかして」
「悪くないかも」
 ふざけて頬に唇を近づけると、こっちからお断りだわ馬鹿と手ひどく振られた。
***
「大神くん。ノート取ってるの? 窓ばっかり見て。・・・・・・もう、ちゃんと取りなさい」
 今日もまた彼を見てしまう。窓の外、夕立が降りそうな空ばかり見て授業のノートを取っていないことを先生に怒られている彼を。
 皆はまあそうだよなみたいな雰囲気で意に介さない。最初の方は桃真がなにか粗相をやらかすたびにちらちらと視線を感じたが、今となってはそうなるのは、水の低きに就く如しであると周知されている。
「ちょっと大神くん。聞いてるの? 平常点、このままじゃ最悪よ。課題は必死に出してるけどね、この前の小テストも悪かったし──」
 先生の、成績情報暴露は止まらない。それなのに、彼はすみませんと謝りながらどこか遠いところを見ている。
 見ているこっちが、申し訳なくなる。
「本当に、このままいけば進級できないよ」
 先生の、その重い言葉は、間接的に藍を圧迫する。
 ・・・・・・ああ、もう!
「雨降りそう」
「ほんとじゃん! やっば」
 先生の注意が桃真に向いているのをいいことに、あちこちでこそこそと話し声がする。
 本日最後の授業もあと数分。今にも降り出しそうな、薄暗く湿った空気に、カバンの中を探って折り畳み傘を見つけようとしている人も多い。
「あっ折り畳み傘忘れた! サイアク」
「私持ってる」
「えっ、駅まで入れてってよ」
「降水確率二十%だったのに〜」
「雷鳴るかなぁ。やなんだけど」
「って、ああ、ちょっとちょっと! はい、静かに!」
 徐々に騒がしくなっていく教室に気づいた先生が教卓に戻ったと同時に、チャイムが鳴った。ナイスタイミング! と、小声ながら本音を思わずこぼした男子を先生が軽く叱ってから、号令がかかる。
 終礼が始まる。藍は、ルーズリーフの端っこを切り取って、書き始めた。
 大神桃真へ、と。
 かなり逡巡した。それはもう、数分で、自分のお粗末な脳内キャパも考えずにすごいスピードで頭を回転させた。
 本当に? 本当にいいのか私。今考えていることは、いいことなのか? 大丈夫か? なら、場所は? どういう話をすればいい?
 ただ、本気で考えすぎたのか、最後の方はほとんどなにも考えずにまあいいんじゃねと思った。別に、生死に関わることじゃないんだし。死にゃあせん、と。
 そんな脳ショート状態で書いた。だから、そう、だから。この時点では、そんなに深い意味はなかったんだ。
 大神桃真へ。放課後、稲荷神社にて待つ──という言葉に。
***
 蝉が鳴く。
 その中に、影が差して、少しだけ体が強張ったが、そのあとにすぐもっと強張った声が降ってきて、ふっと変な力は抜ける。
「・・・・・・相生さん」
「話し合いがしたいだけだから」
 そっけなく、変な気持ちはないんだよ、ということを表すためにそれだけ言った。
「あ、ああ・・・・・・わ、わかってる」
 全くわかっていないガチガチの顔である。おそらく桃真が想像していることは藍の迷った理由と同じ。
「わかってないでしょ」
「わかってるってば」
「わかってないね」
「わかってる、わかってる!」
 ちょっとつっかかれば緊張も忘れて、子供みたいにムキになって言い返してくる。ふっと笑ってしまい、それから心が固まった気がした。
「あんたさぁ」
「う、うん」
 ふと呼びかけられて、桃真はぴしりと姿勢を正した。
「このままじゃ万年高二なんじゃないの」
「聞いてたんだ。・・・・・・なんで」
「聞こえるの」
 拗ねたような顔になった桃真を軽くあしらう。同じ教室で同じ授業を受けているときに注意されてるのだから聞きたくなくても聞こえるのだ。
「・・・・・・ほんとはさ、私のこと、どう思ってたの?」
 一番聞きたかったことだった。
 あまりにも不自然な行動。彼の本心を聞き出してみたかったのだ。
 すると、ぱっと桃真の顔が赤く染まった。
「好きなのは、本当だ」
「嘘つかないでいいよ。それだけ知りたくて。最近おかしいから」
 どうせ演技だろう、と思ってしまう自分と、そして、どこか期待してしまう自分。前者だけ顔に出して、呆れた表情でいうと、桃真は怒ったように言った。後半は、少し恥ずかしそうではあったけど。
「嘘じゃない。本気で・・・・・・好きだ」
「ふぅん?」
 目を細めて、疑っているていで桃真を眺める。すぐに困ったような顔になり、桃真はため息をついた。
「どうしたら認めてくれるんだよ」
「じゃ・・・・・・なんで、私を選んだわけ」
「え、だから・・・・・・そういうことだよ。別に他の人でもよかった・・・・・・けど、やっぱりそれくらいなら・・・・・・な? わかるだろ?」
 みなまで言わせないでくれとばかりに目が訴えかけてくる。
 どうせしなきゃならない契約婚なら好意を抱いている人の方がいい、ということだろう。確かにそうかもしれない。
「それは、そうだけど」
「それに、ある程度の秘密を共有できる人だったらいいなって」
「・・・・・・私はそのお眼鏡に、かなった?」
 桃真がうなずいた。
「そのうちに言えたらと思ってたけど、琥珀に先越されたな」
 ふわり、と、傷つき続けた胸に温かい布が被せられた気がした。
「そっか」
 そっか、桃真は・・・・・・、そっか。
 肯定の仕草を受け取ってしまったら、なにもかも信じられるような気がした。
「悪い。そういうことなんだ、もう忘れてもらっていいから」
 黙ってしまった藍に、怒らせたと桃真は勘違いしたらしい。
 忘れて、と指示を受けるべきは、百、未練たらたらの彼だと思うのだが。
 桃真が踵を返して、鳥居をくぐり帰ろうとする。
「でもさ!」
 つい、引き留めていた。
 桃真が振り向く。
「今、君が背を向けてここを去るとする。その場合さ」
「ああ」
「君は万年高二で、万年気孤なんでしょ?」
 狐の嫁入りの嫁がいない。つまり、天孤には上がれないのだ。
 これから待つ暗い未来を思い出したのか、桃真はうつむいて、唇を噛んだ。
 ああ、だよね。桃真の気持ち、信じていいんだよね?
 大きく息を吸って、
 口を開く。
「そんなこと、させないから、・・・・・・しゅ、う、げん前提で私と付き合お」
「・・・・・・は?」
 一瞬固まり、そしてじわじわと朱になっていく桃真の顔。
 沈黙に耐えられなくなって、桃真に近づき彼の頬をぐにっと引っ張った。
「顔が真っ赤だねぇ。え? 照れてます?」
 本当は、藍の方が多分、ずっとずっと照れている。顔に出にくくてよかった。
 藍のからかいに対する桃真の反応はなく、気まずい雰囲気が流れ出した。困った藍の手が、落ちるように離れてからも桃真は呆然としている。
「・・・・・・本気か?」
 桃真がつぶやいたことで、ようやく時が動き出した。藍は首肯する。
「ひとまず結婚まで、手伝うよ」
「いやそれ、ひとまずで済ますことじゃないからな? 人生において、すごく重要な出来事なんだぞ」
「形だけなんでしょう?」
 舞い上がっていたところにふっと現実を突きつけられたのか、うっと桃真は黙って、それから目を伏せた。
「でも、それでいいのか? だって相生さんには、好きな人が──」
 ほんの少し、ずきりと胸が疼いた。やっぱりここにまで蘭の元カノという立場はついてくるらしい。
 でも、もういい。彼の隣にいれること。それは、決して叶うことのない儚い夢だと、知っているから。
 それに、桃真の横も、そんなに居心地は悪くないのだ。
 だから藍は、微笑んだ。
「あ、嫌なの? じゃあもういいよ」
「っ惚れさせてやる!」
 ぱっと桃真が顔を上げた。
「お」
「だから、祝言──結婚前提に付き合ってください!・・・・・・お試しで」
 夏休みに入る直前、ある日の昼食時。
 蝉の声が降り注ぐ中庭のベンチに座る藍の横には、桃真がいた。
「そういやさ、神通力ってなんなの? 天狐になったら与えられるっていうけど」
 それは、ただ好奇心から出た純粋な言葉だった。
 なのに。
「ぶっ」
 盛大に、桃真がお茶を吹きかけてむせた。
「えっあっダメだった? ダメだよね、あ、学校内でこの話は禁止? ごめん!」
 なにか、そういう狐内ルールみたいなものがあるのかもしれない。
「っげほ、はあ。いや、そういう決まりはない。安心して」
「あ、そう?」
 ならいいが。
「え、じゃあ、どーしたの?」
「・・・・・・なんでもない」
 そっと桃真の視線がずれる。やっぱりなにかあるらしい。
「なんでよ! はっ、もしかして神通力ってタブーだった? 一般人の私には教えられないとか!」
「そんなこともないけど・・・・・・」
「えっ、じゃあ・・・・・・なんで?」
 さすがに藍の想像内にあるようなことではなかったらしい。
「俺は・・・・・・今も一応、弱いけど幻覚を見せる、そんな超能力は持ってる」
「えっ、そうなんだ! 天狐は?」
「天狐になったら授かる神通力には六種類ある。それを主に、六神通っていうんだけど」
 桃真がいうには。
 一つ目。いろんな場所に自由に行ける、神足通。
 二つ目。すべてを見通す、天眼通。
 三つ目。すべての音を聞き分ける、天耳通。
 四つ目。前世の状態を知る、宿命通。
 五つ目。煩悩を消し迷いの世界に生まれないことを知る漏尽通。
「うんうん。それで、六つ目は?」
 五つ目は少し難しかったが、まあいいだろう。最後にすごい能力がくるのでは、とわくわくしながら桃真を見つめるが、視線はぶつかることなくそらされてしまう。
「え? これだけ? 『六』神通じゃないの? あっ九州的な? 昔の呼び方が残ってるとか」
「いや・・・・・・今もちゃんと六つある」
「じゃあ、六個目は? ちょっと。なに隠してるの? やましいことでもあるの? はっ、もしかして透視⁉︎ 服の中見えるとか?」
 体を反射的に庇うと、ぱっと桃真が顔を上げた。的外れな妄想を繰り広げる藍に呆れてか、話してくれる気になったらしい。
「目の能力は、天眼通があるだろ。六つ目は、・・・・・・他心通だ」
「たしん?」
「他の心を通すって書く」
「え」
 それって、つまり、それは。
「他人の心の中を覗けるってこと?」
「・・・・・・ああ。引いたか? やめたくなっただろ?」
 ああ、そういうこと。
 桃真の目の中には、はっきりとした恐怖と落胆が浮かんでいた。
「別に? 私あんたみたいにやましいこと抱えてないし。心の中見られようが、全く問題なし。ノープロブレム」
「俺、もうやましいことなんかない」
「ふ〜ん? 本当に言ってる?」
 軽くカマをかけると、桃真がうっと顔を歪めた。まさかまさかのまだ言っていないことがあるとは。
「えっまだあるわけ?」
「・・・・・・ない」
「あるじゃん絶対」
 みるみる桃真の顔が赤く染め上げられていく。
「ん? 真っ赤じゃん。どうしたの?」
 まるでティッシュが色水を吸い込むかのようにじわじわと変わる桃真の顔色が面白くて、藍は桃真の頬をつついた。
「別に・・・・・・違う」
 桃真が唇を引き結んだ。色が引いていく。
「なにが違うのよ」
 ごく、と水筒の水を口に含む。からからと、中に入った氷が音を立てた。冷たい水が喉に流れ込み、熱気にのぼせていた体が程よく冷えていく。
「・・・・・・人の心を覗きたくなることって、あるだろ?」
「それは、・・・・・・そう、だけど」
 思い浮かぶのは蘭のことだった。きゅっと、水筒を握る手に力がこもる。彼の心の中を知れたなら、どれだけ気持ちが楽になるだろう。
 そういうことだよ、と掠れた声で桃真がつぶやいた。
***
 かこかこ、軽やかな音が神社の境内に響く。
「それにしても、よかった、夏休み前により戻せて」
 朱音が陽気に、ばしばしと藍の背中を叩く。すると、その言葉にはっと気づいたのか、隣にいた友達が周りを見回した。
「あれ? そういや、大神くんは?」
「ちょっとアイ、愛しの彼氏は〜?」
 あちこちから野次が飛ぶ。再びの猛アタックによりヨリを戻した、というのはこれまた有名なエピソードである。
「あ〜、なんか熱だって。せっかくの夏祭りだってのにさぁ」
 今日は、クラス皆で夏祭りである。もっとも有志だけであり、勉強をしたい子や他クラスの子と行く子は別であるが。
 可愛く浴衣を着付けた琥珀も一緒だ。
「心配じゃないんですかー?」「アイさん、強がらないでくださーい」「今後お見舞いに行く予定はあるんですか?」「白状しろ!」「吐け〜」
 記者や刑事の口調で詰め寄られる。いやいやいや、世界観統一できてないから。
「・・・・・・あっ、りんごあめ!」
 そっぽを向いて、ちょうど目に入った屋台を叫ぶ。あちこちにさげられた提灯の灯に、りんごあめのコーティングが輝いていた。
 朱音が素早く反応した。
「夏祭りの定番だ、買ってくる。いる人!」
「いる」「私も」「買ってきて」「はじめてのおつかいだ」「私いちごあめで」
 ほぼ全員の手が挙がる。未だこういった場に慣れない琥珀が、一拍遅れて声を上げた。
「私もお願いしていいかな」
「うんうん。あとでお金はもらうからね!」
 朱音が離れていく。藍は、財布を出して手持ちの金額を確認している琥珀に近づいた。
「琥珀、最近どう? 化粧とか、慣れてきた?」
 ちらりと目元を見ると、薄くつけられたアイシャドーが確認できた。
 あれから親交を深めていくと、どうやら人間の姿に慣れることができず、友達作りや化粧などに手を伸ばすこともしなかったらしいのだ。前半部分を隠して朱音に伝え、二人で琥珀に化粧指南をすることもしばしば。
 うんうん、すっごい可愛い。
「はい! ありがとうございます。浮いていないかと心配だったので。今日も、浴衣を着付けていただいて、下駄まで貸してもらって」
「いやいや全然。琥珀、ちょっと足のサイズ小さいからさ、お下がりだけど」
 ぽんぽん、と笑みを浮かべた琥珀の頭を撫でる。
 それから、半径一メートル程度以内に人がいないのを確認して。
「桃真、大丈夫なの?」
「あ、心配なんですね」
 琥珀がふふっと微笑みを浮かべる。天使のような笑みに、以前とは違いどこか親近感を感じた。
「違うってば! 最近休むこと多いから!」
「つまり心配なんですね。そうですね・・・・・・狐は結構暑さに弱いところあるので。ただ、死にはしないし移りもしないので、安心して見舞いに行ってやってほしいです」
「・・・・・・そういえば私、桃真の家知らない」
「わかると思いますよ。稲荷神社の隣の豪邸なので」
「ご両親も狐?」
「ええ。稲荷神社の神使を、世襲制で担っています」
 そう知れば、彼の家の立地に不思議はない。
「行ってみようかな。夏祭り終わったら」
「線香花火でも持っていってあげてください」
 琥珀はそう言ってから、ちょっと寂しそうに微笑む。
「実は・・・・・・片想い」
「えっ」
「へへ。してたんですよね。・・・・・・でも、振られたんですよね〜中学のとき。好きな人がいるからって」
「ふぅん・・・・・・」
「あ、ちなみに今は全然ですから! 吹っ切れたので。本当にごめんなさい、なんでこんな話したんだろ私」
 琥珀がぶんぶんと顔の前で手を振る。彼女の顔に、無理は浮かんでいるようには見えない。
 それよりも、先ほどの琥珀の言葉に胸がざらりと違和感を訴えていた。
「はいっりんごあめ〜。一個五千円!」
 両手に大量にりんごあめを持った朱音が叫んだ。
「えっ、高くない⁉︎」
 そんなに持ってないよ私、と声が上がる。
「嘘だろ。相場五百円だぞ」「ぼったくり!」「詐欺師だ」
「ごめんって。正解。五百円です。頼んだ人、来て〜」
 喧々囂々と吹き荒れる批判の嵐にぺろっと舌を出し、次は真面目な顔になって順々に配っていった。
「じゃ、琥珀、行こっか」
「はい、行きましょう」
 二人で下駄を鳴らして、朱音の元へ走っていく。
***
「焼きそば足りねー」
 誰かが言った。同意の声が上がる。三パックほど買ってきたのだが、どうやら育ち盛りの高校生には、少なかったらしい。
「屋台遠いよ」
 人混みから外れ、これから打ち上がる花火を見るために取った場所は、神社から比較的近い公園だ。神社ほどの混雑ではないものの、同じ思考回路を持つらしき人たちがちらほらと見える。
「よしっ、じゃー皆じゃんけんねこれは。負けた人ね?」
 と、藍が音頭をとる。
 じゃんけんぽん──と一発で決まった敗北者は、なんと藍であった。これだけの人数がいて一発一人負けだ。
 これほど虚しいことがあろうか。
 そんなことはないと知りつつも、絶対仕組まれてたと疑ってしまう。
「えっまさかの一人負け?」「言い出しっぺが」「すごい強運っすね」
 周りは大盛り上がりだ。冷やかしや野次が飛び交う。おいおい性格悪すぎだろっと思いながらも、下駄で慣れない足を動かして、神社へと引き返す。
 途中、電灯が少なくなる道を通るとき、自分の下駄の音だけが派手に響いて、背中が薄寒くなった。
 最悪だ。戻ってる途中に花火上がるかもじゃん! すごい人混みで、焼きそばなんか頭にかかったりして。うわ〜、べとべとだ泣ける。皆から責められるしもう一回買いに行けとか言われそうだし。
 人に押し合いへし合いされながら大量の人の頭越しに見る花火なんてもうそれはもはや人──なんて全く意味のわからないことを考える。
 自分でなに考えてんの私とツッコミながら、相変わらず浴衣の人でごった返す神社に着いた。ずらりと並ぶ屋台のスタート地点、鳥居のあたりは比較的空いているのだが、奥に入るともうこれは焼きそばを懐に抱えて死守せねばなるまいと覚悟を決めるほどの人なのだ。
 不幸中の幸いだったのは、焼きそばの屋台が鳥居の近くにあったところだ。並んでいる人も二、三人。
 早いとこ帰って、琥珀や朱音たちと一緒に花火を見たい。
「焼きそば、二人前ください、えーっと大盛りで」
 焼きそばを焼くお兄さんの手際の良さに救われ、すぐに順番は回ってきた。ちらりと後ろの空を確認してから、少し落ち着いて注文した。大丈夫。まだ花火は上がっていない。
「はいよ」
「ありがとうございます」
 手早くお代を払い、プラスチック容器を通して伝わる焼きそばの温もりを抱えて神社を出る。
 神社から一歩出れば、人はほとんど歩いておらず、少し暗かった。
 浴衣に下駄という不利な状況下にありながら、藍は歩くスピードを上げた。前がめくれてあられもない姿ではあるが、前述した通り暗い上に人はいない。
「あ、やば・・・・・・」
 前から歩いてくる人影を認めて、軽く前をかき合わせる。藍とて花の高校生なのだ。恥じらいは立派に持っている。暗いから大丈夫だろうとは思うが・・・・・・と少し手を緩めたとき、なんの皮肉かひゅるるると花火の合図。
 始まってしまう。
 走るべきか、ここは人の目を気にするべきか。でも、花火が明るいから・・・・・・っ。
 歩きながら激しく葛藤する藍を置き去りにして、どんっと、勢いよく上がった花火が辺りを照らした。
 下駄を引きずるようにして、藍の歩みは止まる。
 ──あ、と、小さく、声がもれた。
「蘭」「アイ」
 互いを呼ぶ、その言葉がうまく重ならなかったことが、少しだけ悲しかった。
 胸が疼き出した。最近はずっと感じていなかった、あの痛みだ。
「ひさ・・・・・・っ、しぶりっ! 元気だった?」
 笑わなきゃ。変に勘違いされないように。もうあなたのことなんて気にしていないんですよと伝えるために。
「アイ、・・・・・・」
「うん? やだっ、気にしないでよ、良き友達として! ね、友達一号なんだし!」
 自分をうまく解放できるだろうか、という不安で始まった高校生活での友達一号は、まさかの男友達だった。藍は一人ではあまりうまく行動できるタイプじゃない。そんなときに声をかけてくれたのが、隣になった蘭だったのだ。
「もー大丈夫だって! 今では新しい相手も見つけたから! ね!」
 応答なし。代わりに、もう一度花火が上がった。二人並んで、見上げる。
「あっ、あれ? 去年よりちっちゃい? 気のせいかなぁ」
 去年も去年とて、藍は今年と同じようにクラスの子と夏祭りに来ていた。蘭と、一緒に。
 花火の大きさなんて、いちいち覚えちゃいない。気まずさを消すため話題を必死に提供するも、沈黙が続く。
「前回一緒に見たもんね、焼きそばいっぱい食べて、動けなくなったの、あれ誰だっけ──」
 笑みを崩さないまま蘭を見る。ちょうど花火の光に浮かび上がった彼の表情が辛そうで、藍は口をつぐんだ。
 ああ、ダメだ。これは完全に私を痛々しいやつとしか見ていない。少し演技が下手だったみたいだ。空元気に見えただろう。
 こうなったら、次に続く言葉は──
「アイ、ごめん」
「・・・・・・」
 だよね。
 無意識に唇を噛んでいた。拳が硬くなる。手元で軽く、ぱきっと音がした。
 ごめんってなに? 所詮謝罪じゃん。皆、それだけ言えば済むと思ってる。訳を教えてほしかったのに、蘭はそれをしてくれなかった。今日もまた、言ってくれないんだ。
 気持ちを伴わないでも、言えることだ。
 この話は、終わり。もうおしまい。これ以上話すことなんて、ない。
 踵を返して戻ろうとして、それでも戻りたくなくて。
 わずかな期待が胸に残っている。
 そんなとき、蘭が口を開いた。
「ほんとは、──自信がなくて」
「自信?」
「クラスが別れてまで、アイを好きでい続けられるのかなって。もしかしたら、アイを、傷つけるかもしれないって」
 なるほど、と力が抜ける。
 しょぼい理由、だなんて思えなかった。
 ただでさえ意志が強いタイプではない彼は、とても優しい性格をしている。他の子からの告白を断ることはできないだろう。藍が傷つくことも、あるはずだ。
「ただ、まだ正直、未練も・・・・・・あって、でもヨリを戻そうとも言い出せなくて」
 蘭がうつむいた。弱々しい声で、続ける。多分彼にとってその言葉は、発するのにとても勇気がいったと思う。それが藍を傷つける言葉だと、知っているから。
「それくらいの気持ち・・・・・・だったのかも、しれない」
 うん、とうなずいた。うなずいて、優しく微笑んで。少し痛んだ胸は置いていく。
 やっと聞けた。
 望んでいた、答えなのだ。
「そうやって言ってほしかったんだよ」
「アイ・・・・・・」
「きっと蘭の運命の相手は私じゃなかったんだ。うん。そうだよ、気にしないで」
 彼の弱い意志を強くするほどの魅力を持った女じゃなかったのだ。不釣り合いだったのだ。
 さんざん藍を悩ませた彼の秘密が自分のためにあったというのは少し皮肉っぽくて、嬉しいことだった。
「ありがとう、言ってくれて」
 ふっと強く握っていた手を解いたとき、焼きそばの存在を思い出した。軽く容器が凹んでいる。ぐうぐうとお腹を鳴らして待つ友の姿を想像して、慌てて蘭に手を振った。からかいの言葉をかけながら。
「あっ、帰らなきゃ! ごめん、またね、元カレ〜!」
 もう少しで公園だ。フィナーレは皆と見られるだろう。花火と蘭を背に、走り出す。
「・・・・・・好きだった(・・・)のは、本当だから」
 去り際に聞こえた言葉を、そっと噛み締めながら。
 結局フィナーレは多くの友達たちと見ることができた。連続して大ぶりの花火が上がる様子は圧巻で、全て忘れて見入ることができた。
 夏祭りが終わって、片付けはいいからと琥珀に背を押され、藍は桃真の元を訪ねていた。琥珀の、稲荷神社の横の豪邸、という言葉に間違いはなかった。『大神』と書かれた表札の下に設置されたインターホンに、震える指を伸ばす。
 夜遅いのに、大丈夫かなあ。なんて失礼なんだ! って言われたりして、稲荷神の生贄に、なんて。
 と、恐ろしい妄想をしたときにはすでに、夜の道路に明るいチャイムが響いていた。
『はいはい?』
 女性の声が応答した。お母さんだろうか。はっとカメラがついていることに気づいて、必死に声を平にし無害な笑みを浮かべる。
「桃真くんいますか?」
『あらっ、相生さんかしらもしかして』
 どうやら伝わっているらしい。こうなると話は早い。
「あ、はい。熱が出たと聞いて。お見舞い、です」
『あらまあご丁寧に。今は元気なのよ。ありがとうね』
 少し、相手の声が遠ざかって。
『桃真〜』
『んー誰?』
『相生さんよ』『えっ』『行っておいで、遅くなってもいいから』
『ちょっ・・・・・・母さん』
 照れたなこれは。
 向こうの様子は見えないが、直感的に思った。ふっと顔の強張りが、内側から溶けた。
 間もなく、ばたばたばたと騒がしく足音がしたかと思うと遠ざかり、どたん! と一度轟音が鳴った。驚きつつも少し待っているとドアが開いた。
「っはあ、相生さん?」
「・・・・・・大丈夫そう?」
 多分、パジャマ姿とかだったんだろうけど。私が来たということで急いで着替えたんだろうけど。
 即席で着たであろうパーカーはくしゃくしゃだし。耳とか尻尾が半透明で透けて見えるし。いやヤバいだろ。何気に足庇って痛そうだし、派手に転けたことだけがわかった。
「あっ、あっ、ああ。ああ、平気だ」
 表情を訝しむ風に作ってじーっと眺め回していると、桃真はまず他人に見られてはまずい諸々を消し、パーカーを軽く引っ張って全く意味がなさそうなシワ取りをした。
「そっか。手持ち花火。持ってきた」
 途中、コンビニで買ってきたそれをひょいっと持ち上げ彼に見せる。
「やらない?」
「やる」
 即答だ。
「トリの線香花火は負けた方どっかで奢ろう。というか・・・・・・どこでしよう」
 高校生とはいえど未成年だけで花火をしていいものか。火遊びの分類である。
「そりゃ稲荷神社一択だろ」
「三択ぐらいあると思うけど」
「・・・・・・たとえば?」
「稲荷神社、公園、それから──皆誘って道路でやる!」
 最後の選択肢は苦し紛れに適当にひねり出した。案の定ツッコまれる。
「最後はほぼ不良だろ。稲荷神社なら下手に燃えたりしないから、大丈夫。うちからも見れるし」
 街灯の下で笑顔を見れて安心した。どうやら本当に元気らしい。
「じゃあ、行こう」
「俺、蝋燭取ってくる。バケツは?」
「え、いるんだっけ。ライターはあるけど」
 火元もバケツも、失念していた。よく考えればライターから直に火をつけるのは危ない。ものによっては勢いよく花火が飛び出すだろう。火傷確定の遊びなんて地獄にもほどがある。
 桃真が心底呆れた顔になった。
「燃え尽きた花火どうするんだよ」
「あ〜・・・・・・どうにかなるかな」
「何年人間やってるんだよ」
 多分普段聞かれないことを大真面目に聞かれた。
「一応、十六年。桃真は?」
「俺・・・・・・も十六。人間としては」
「同い年じゃんっ」
 鋭くツッコむ。いかにもバカにしたような声だったから、もしや一年多いのかもなんて思ったのに同い年である。
 が、桃真の話には続きがあった。
「その前にまあ千年弱狐として」
「えっ?」
 今とんでもない数字が聞こえた気がするのだが。
 せん・・・・・・? ってなんだっけ?
「じゃ、取ってくる。先行っといてくれ」
 聞き返す暇もなく、桃真の背中は玄関に消えた。
***
 数十分経って、暇持て余しスマホをいじり出した藍の前に姿を表した桃真は、浴衣姿になっていた。灰に白のストライプが入った、オーソドックスな浴衣だが、桃真によく合っていた。
「お。合わせてきたね」
「一応な。後夜祭みたいなもんだろ?」
「後夜祭・・・・・・まあ、合ってなくもないけど」
「またややこしい言い回しを・・・・・・なんて言った? 合ってなくも?」
 つい出てしまった。桃真が呆れ顔で笑う。
「なくもなくもない」
「増えたな」
「合ってないけど合ってるよってこと」
「訳してくれたとこ悪いけど、もっとわかりにくい」
「すいませんね語彙力なくて。・・・・・・どうせなら全身狐柄の浴衣でも着てくりゃよかったのに」
 じろりと全身を眺め直しながら嫌味を言うが、桃真は大真面目にうなずいた。
「うちにあることにはあるんだけどね」
「えっ、あるんだ」
「でも女ものだ」
 吹き出しそうになった。踊る狐が大量に描かれた女ものの着物で、品を作る桃真を想像して。怪訝そうな桃真だが、今の想像はさすがに言えない。ごまかすように話題を強制終了する。
「しようよ花火。ここ暗いし」
 灯りのない稲荷神社は、桃真の家と道路の街灯からもれる光で、かろうじてその姿を浮かび上がらせていた。
「ああ。これ。バケツと蝋燭。一応風よけも」
「デキる男・・・・・・じゃないや狐だね。さすが」
「・・・・・・やるぞ」
 照れ臭そうに、顔を逸らして桃真が言った。手早く風よけを広げて、蝋燭を立てる。
 なんか、懐かしいかも、この感じ。彼の声の変化。顔の逸らし方とか。
「はい、ライター」
「おお。助かる」
 ぽいっとライターを渡す。幾度となくカチカチと音を鳴らし、桃真が火をつけるのに苦戦している間、藍はバリエーション豊かな花火を前に悩み始めた。
「ひとまず線香花火はトリとして・・・・・・なにする? 桃真」
「相生さんと一緒がいい」
 対してこちらを見ることなく、即答。
 しばらくして、ぽっと暖かい光が稲荷神社を照らし出した。
「あ、ついた。ご苦労様」
「ああ」
 さっと顔がそれる。
 あ、照れた。
 ちょっと褒めただけでこの反応。さっきから顔を赤くする頻度が異常である。また熱が出そうだ。・・・・・・あれ? もしかして私桃真の熱の原因だったりする?
 さりげなく大胆な言動をとるくせに、毎時で照れる数は多いのだ。
 顔をそらしたままの桃真に呆れてから、藍は一人花火を並べた場所に向かって、二本、花火を手に取った。
***
 ぱちぱちと線香花火の音が、稲荷神社に響く。いよいよ最後の数本になった頃だった。
「蘭に会った」
「え」
 短く告げた。桃真が固まり、線香花火の勢いだけが増す。
「なんで振ったのかって教えてもらった」
「そう・・・・・・なんだ」
 それぐらいの気持ちだったのかもしれない、という言葉が蘇る。ああ、やっぱり釣り合ってなかったんだ。ふっと、苦い笑みが浮かんだ。
 唐突に桃真が口を開けた。
「・・・・・・別れた方が、いいか?」
「・・・・・・は? 別れたいの?」
 急すぎる展開に、藍は思わず目を見張った。桃真がはっと目をそらす。
「あ・・・・・・いや」
 なんだこいつ。
 気まずい雰囲気が流れ出したので、藍はさっと話題を変えた。
「どうなの? それで。万年高二は免そう?」
「その話をするか、ここで」
 桃真がちょっと眉根を寄せた。
 しかし、注意回数はぐんと減ったし、これまでの遅れを取り返さんと必死にノートを取る桃真を見たほとんどの先生が隠しきれない驚きでチョークを落とし、生徒たちの笑いを誘ったこともしばしば。
 そのたびにやにやと含みのある笑みと視線を向けられるのは勘弁してほしいが、もし成績が快方へ向かっているのならそれは嬉しいことだ。
「嫌?」
「別に。ただ、もっと他の話題とかあるんじゃないかなって」
「ああ嫌なんだ。じゃあ、天狐にはなれそうなの?」
 もっと嫌であろう話題に移行する。嫌がらせだ。
 というのも、桃真の口からずっとその話題が出ていないのだ。むしろ忌避しているようにも見える。幾度か聞いているが、のらりくらりとかわされ続けていた。
 祝言はいつか。どのようなものか。どこで行うのか。そして、誓いのキスなどはするのか。
 どうせ形だけだしと案外気楽に捉えてはいるものの、さすがに詳細を教えてくれないのであれば、心の準備すらできない。
 いつきてもいいように、一応寝る前に彼のことを考えるようにはしているのだが、これがいつまで続くのかは知りたいところだ。
「それはだから・・・・・・相生さん次第だ」
 いつも通りの問答。
「とか言うけど。別に私が嫌だからやめたいって言ってもそれはダメなんでしょ?」
 そしていつも通りの流れで気まずそうにうなずくかと思えば、桃真は首を振った。
「いや、構わないな」
「はぁ? これまでと言ってること違うじゃん」
 つい鋭い声が出た。わかりやすく桃真の視線がそれる。
「・・・・・・状況が変わったから」
「状況ってなに?」
 桃真は隠している。まだ藍に告げていないことがある。すぐに悟った。
「それは・・・・・・」
「ねえ、やっぱりなにか隠してるよね。それは教えてくれないわけ?」
「それは、だって相生さんだって感情隠すだろ。同じようなことだ」
 桃真のその言葉とともに、攻守がたちまち一転した。棚にあげていた、痛いところを突かれた気がした。小さく音を立てて、藍の線香花火が消えた。気にする余裕はない。
「っ・・・・・・違うでしょ! 私はただ」
「皆に心配かけないためって、それで自分が壊れたらどうにもならない」
「でも、私はっ──アイだから・・・・・・そういう、性格だし」
 明るくて、人の中心にいるような女子だから。たくさんの人と関わることが疲れるなんて言えないし、泣いている顔も見せられないし。そんな自分も別に、嫌いじゃないのだ。
「なら・・・・・・、俺にだけでいいから。相生さんの弱いところを見せて」
「・・・・・・っは?」
 これは。
 どういうことだ?
「俺は、別に嫌いになんてならない。だから」
 桃真にそんな計画性があるようには見えない。きざな性質でもない。ただ必死に、藍を励まそうとしているように見えた。でも、このセリフはかなり意識させる言葉ではないのか?
「待っ・・・・・・て待って待って。意識して言ってる? それ。仕組んでる? だよね? 成長しすぎじゃない? どれだけ頑張って恋愛ドラマとかチェックしたわけ?」
「へ? なにが?」
 一触即発の空気から一転、ぽかんと間抜けに、桃真が口を開けた。
「いや、えぇ・・・・・・これが本物の天然、ってこと・・・・・・?」
「なんだよそれ。俺、なんかおかしいこと言ったかな。必死に言葉を選んだつもりだったけど」
 困惑を隠しきれずにつぶやくと、桃真が落ちる気配のない線香花火を持ったまま思案し始めた。
 あ〜なんかもう、どうでもよくなっちゃった。
「器用に考え込むね・・・・・・別に分かってないならいいんだけど」
「聞くけど、相生さん、元カレと会って、辛いんじゃないの?」
 忌憚のない口振りだ。ここまで切り込まれることはまあなかったので、一瞬たじろいだ。が、慌てて話を切り替える。
「え? いやいや桃真こそ」
「俺は、別に」
「ふうん? いいんだそんなこと、言っちゃって」
 質問を濁して突っかかると、案の定桃真が言い返してきた。
「はぁ⁉︎ いや、結構怖い・・・・・・けど、そういうことはなんもなかったんだろ!」
「なかったよ。なにも」
 そう、なにもなかった。
「そりゃ俺にとっては朗報に決まってる。けど相生さんは──」
「あ〜・・・・・・もーいいってば」
 言われれば言われるほど、なにかがあふれそうになる。
 顔を逸らして単調に彼の言葉を遮り、最後に余った花火を手に取る。少し離れたところに灯る火はつける気が起きなくて、結局手に持ったままいじっていた。
「まあ、いいけど。・・・・・・そろそろ片付けようか」
 桃真もなにかを察したのか、すぐに切り替えた。ふと視線を移して、藍は思わず目を見開いた。
「えっ桃真、まだ落ちてないの?」
「え? ああ」
「やば。線香花火って、ほら青春の定番じゃん」
 桃真はなんでもないことのように言うが、あの名高い線香花火だ。線香花火に夢中になってるときに、不意打ちでキスされて落ちちゃう定番のあれ。完全なる偏見だけど。
 線香花火って普通、落ちるものな気がする。火の玉やら恋やらなんやら。
 うまく形容できない藍の偏見を、いとも容易く見抜いた桃真は、ちらりと上目遣い。
「キスする?」
 すぐに察したところを見ると、やっぱり勉強したのでは、と思ってしまう。
「いやしないけど」
「わかってるわかってる」
 間髪入れずに答えると、言いながら少し残念そうな・・・・・・気のせいだと思いたい。
「そろそろ落ちるかな・・・・・・大丈夫か? 時間」
 桃真はそう言いつつも、手を下手に動かして落ちてしまうのも悔しいようで、スマホを見ることもできずにあたふた。
「変なとこ気にしなくていいの。夏祭りなんだから、夜更かしすべき。むしろ」
「あ、ああ、そうか。でも・・・・・・」
「気になるなら、送って行くよって言うもんよ」
「あっ、そうか、ああ、送って行く。狐の姿なら早いしな。いやでも、人に見られるか・・・・・・」
 桃真の少しズレた返答に、ついくすりと笑みが溢れる。
 藍の笑顔を認め、照れ臭そうに顔を逸らした桃真の手元から、線香花火が落ちた。
「あ」「落ちた」
 残念そうなそぶりすら見せず、桃真は立ち上がった。
「帰ろう。送って行くよ」
「でも、片付けなきゃ」
「いいよ。俺やっとく。家隣だし、大丈夫」
 そういって、デフォルトのままの、スマホのホーム画面を突きつけてくる。時刻は九時を回ったところ。もう遅いから早く帰れ、ということだろう。
 ここで変に気を遣うのもおかしいと思ったので、藍は大人しくうなずいた。
「それなら・・・・・・頼んでもいいかな。ありがとう」
「おう。じゃあ、行こう」
 ぐいっとやや強引に手を引かれて、慣れない下駄でふらつきながらも、藍は歩き出した。