夕方。空腹で冷蔵庫を開けた私は、その真ん中を堂々と陣取っているそれにため息をついた。

 もみの木や金の鈴、笑顔のサンタの砂糖菓子。やけに浮かれた装飾に加え、極めつけは「メリークリスマス」の文字入りのチョコのプレート。そのケーキを作ったのは紛れもなく私自身なのに、そのあまりの浮かれ具合に吐き気がした。

 食べる気は勿論、それを手に取る気にすらなれず、無言で冷蔵庫の扉を閉める。

 私は手近にあったコートを羽織ると、適当なバッグに財布だけ突っ込んで家を出た。

 コンビニでお弁当でも買おう。クリスマスなんて微塵も感じさせない、いつでも売ってる普通のお弁当。

 昼間ちらついていた雪は、今はやんでいた。けれど、寒いことに変わりはない。

 コートのポケットに両手を突っ込んで昼間猫と別れた公園を早足で行き過ぎようとしていると、その出入り口から突然何かが飛び出してきた。

 風を切って飛び出してきた何かを避けようと、慌てて立ち止まる。けれどうまく避けきれず、それは私の肩に思いきりぶつかった。

「大丈夫?」

 ぶつかってきた誰かに声をかけられ、よろけながらも何とか持ち堪える。顔をあげてその相手を見たとき、私は一瞬瞬きも呼吸も忘れた。

 目の前に立つその人が、日本人離れしたとても綺麗な男の子だったからだ。

 もしかしたら二十歳を超えてるかもしれないから「男の子」という表現は違うのかもしれない。

 でも、背が高いわりに華奢な見た目や、少しつりあがった真ん丸な目が彼を幼く見せていて。「男の人」よりも「男の子」という表現が似合う気がした。

 心配そうに小首を傾げる彼の瞳は濃い緑で。それは彼の青みがかったグレイの髪の色によく映える。空気はかなり冷たく寒いのに、彼は髪の色と同じグレイのざっくりとしたセーターを着ているだけで、上着も持っていなければマフラーもしていなかった。

「大丈夫?」

 呆然と彼を見つめていた私は、もう一度問われてはっとする。

「ごめんなさい。私は大丈夫。あなたは?」
「僕は平気」

 彼は口角をあげて微笑むと、毛並みでも整えるみたいにセーターにすっと掌を撫でつけた。

「それならよかった」

 私はそんな彼に社交辞令的に微笑むと、軽く会釈して離れた。

 再びコンビニに向かって歩き出したとき、チリンと鈴の鳴る音が聴こえたような気がした。

 空耳だろうか。小さく首を傾げた私の腕が、突然後ろからきゅっと掴まれる。

「イルミネーションってどこに行けば見れる?」

 ドキリとして身を固くしながら振り返ると、そこにいたのはさっきぶつかった綺麗な男の子で。濃い緑色の瞳で私の顔を覗きこむようにじっと見つめてくる。

「イルミネーション?」

 私は日本人離れした彼のことを、警戒心を含んだ目で見返した。

 えらく日本語が流暢だけど、外国からの観光客だろうか。それにしても、急に公園から飛び出してきてイルミネーションがどうとか。なんだか怪しい。

「クリスマスのイルミネーションを見に来て迷っちゃって」

 私が無言で見つめていると、彼が口角をあげて困ったように笑った。しばらく怪しんで彼を見つめていると、彼がますます困ったように笑う。その顔が本当に困っているようだったので、私はつい彼への警戒心を緩めた。

「駅前通りのイルミネーションが華やかですよ。今日はクリスマス・イヴだから賑わってると思う」

 そう教えてあげると、彼は嬉しそうに笑った。

「ありがとう。君は見に行かないの?」
「行く予定はあったんだけど、なくなったの」

 苦く笑いながら首を振る。

 すると口元に笑みを浮かべた彼が、私の顔を覗きこむようにして首を傾げた。

「じゃぁ、一緒に見に行かない?」

 返事を待つより先に、彼が私の手を掴む。

 警戒を解くのはまだ早すぎただろうか。

 掴まれた手を解こうとすると、彼が口を開いた。

「僕、ルイって言うんだ」

 ルイ……?

 その響きに私の身体からすっと力が抜けた。

 どうしてまた、同じ名前。外見は全く違うはずなのに、私を見つめる彼の顔が元カレと重なる。

 やっぱり警戒を解くべきじゃなかった。

 頭の隅でそんなことを思いながらも、私は彼の手を振りほどくことができず。その手に導かれるままにふらふらと歩き始めていた。

 ***

 駅前はいつもに増して人で溢れ返っていた。

 ブティックやインテリア雑貨の店、お洒落なカフェや雰囲気のいいレストラン。そういった店が連なる駅前のメイン通りには歩道に沿って街路樹が等間隔に植えられていて、そこにブルーやシルバーのライトが飾り付けられている。

 雰囲気のいい店を覗きながらイルミネーションを楽しめる駅前通りには、毎年クリスマスシーズンになるとカップルを中心に大勢の人が集まる。

 私とルイと名乗る彼は、肩を寄せ合う恋人達に紛れて、メイン通りのイルミネーションを見ていた。

 隣を歩くルイは濃い緑色の瞳を輝かせながら、付いては消えるイルミネーションの光を物珍しげにずっと見上げている。その様子は初めてのものに触れたときの子どもみたいだ。

 クスリと笑うと、彼が私を見て不思議そうに首を傾げた。

「こんなもの、毎年似たり寄ったりでしょ? それなのに、まるで初めて見るみたいな顔してるから」

 私がそう言うと、彼はやっぱり不思議そうに小さく瞬きをした。

「初めてだよ」

 返ってきた彼の言葉に一瞬耳を疑う。首を傾げながら真顔で答える彼は、本気でそう言っているみたいだった。

「嘘でしょ」

 冗談っぽく笑うと、それに応えるように彼が口角を引き上げる。そのとき彼の後ろから誰かがぶつかってきた。

 彼が押されて前に少しよろけたとき、どこかで微かに鈴の鳴る音がする。けれどそれは空耳だったのか。すぐに雑音の中に消えてしまった。

「ごめんなさい」

 彼にぶつかったのは、こちらに背を向けてイルミネーションを撮影していた若い女の子だった。

「大丈夫」

 彼が優しく笑いかけると、彼女の頬が瞬時に紅く染まった。
 
 けれど隣に立つ私に気付くと、はっとして残念そうに離れて行く。それを見て、私は微笑むだけで女の子にあんな反応をさせられる人にふらふらと付いてきてしまったのだと初めて自覚した。

 青みがかったグレイの髪と濃い緑色の目をした彼は、この寒い日にセーター一枚というおかしな格好をしているくせに、そこに違和感を覚えさせないくらい魅力的なのだ。

 それなのに私ときたら、デニムに素っ気ない無地のニット。それにベージュのコートを羽織っただけ。

 そもそもコンビニに行くだけのつもりだったから、彼の隣はもちろん、恋人だらけのイルミネーション通りにも似つかわしくない。

 もう少しマシな格好をしてくればよかった。

 近くのブティックのショーウィンドウを見やりながらそう思っていると、不意に冷たいものが額に触れた。

「雪」

 ルイの呟く声で、額に触れたものの正体に気付く。空から降る雪とイルミネーションを見上げて肩を震わせる彼は、とても寒そうだった。

「ちょっと待ってて」

 私はふと思い立つと、彼にそう言い置いて、近くのブティックに飛び込んだ。そこで《あるもの》を買うと、すぐ使えるよう値札を切ってもらって彼の元に戻る。

 突然離れて行く私を不安げに見送っていた彼は、私が戻ると嬉しそうに笑った。

「どこ行ってたの?」

 私は彼に近づくと、質問に答える代わりに今買ってきたものを彼の首にふわりと巻いた。ショーウィンドウに飾られているのを見て迷わず選んだそれは、彼の瞳の色とよく似た濃い緑色のマフラーだった。

「さっきから寒そうだから」

 真ん丸な目を見開く彼への照れ隠しもあり、少し視線を逸らす。彼はそんな私の傍でマフラーをぎゅっと握り締めると心底嬉しそうに笑った。

「ありがとう」

 そのときまた、チリンと鈴の鳴る音が微かに聴こえたような気がした。耳を澄ませて確かめようとしていると、それを妨げるように彼のお腹の虫が盛大に鳴く。

「お腹空いてるの?」

 恥ずかしそうにマフラーに鼻を埋める彼を見て、私は思いきり笑った。

「うちに来る?クリスマスケーキがあるの」

 冷蔵庫を陣取るそれを思い浮かべながらそう言うと、彼が口角をあげて頷く。

「ケーキ、大好き」

 笑いながら私に飛びついてきた彼は、巻いてあげたマフラーを一度解くと、私を巻き添えにして再びそれをくるくる巻いた。一緒にマフラーの中に埋まった彼が、そっと私に身を寄せる。

「あったかい」

 子どもみたいに甘えた声を出す彼の行動に、戸惑いつつも胸が高鳴る。

 元カレと同じ名前の日本人離れした男の子。ついさっき出会ったばかりで、ルイという名前しか知らないのに、その存在は私にとても温かかった。

 ***

 家に帰る途中、コンビニで売れ残りのチキンとサラダ。それからシャンパンを買った。

 ルイはそれらを全て平らげたあと、私の作ったケーキを本当に美味しそうに食べてくれた。

 彼が「美味しい」とあまりに絶賛するから、私もひと口食べてみた。味は悪くはなかったけど、それほど良くもなかった。

 元カレは頑張って料理を作っても何の感想もくれない人で。このケーキについてもきっとノーコメントだっただろうから、ルイが食べてくれて却ってよかったのかもしれない。ルイの賛辞の言葉は、私の心を充分に満たしてくれた。

 ふたりでシャンパンを開けてケーキを食べ終えても、ルイはまるで自然なことみたいに私の部屋にいて、立ち去ろうとはしなかった。

「帰らなくていいの?」

 帰ると言われればきっと淋しいくせに、名前しか知らない男の子を家にあげたことが今更少し不安になり、そう訊ねてみる。

 ルイはシャンパンに酔っているのか、とろんとした目で私を見ると口角をあげた。

「今日は大丈夫」
「今日は……」

 ぼそりと呟いて俯くと、彼が近づいてきて私の顔を覗き込んできた。

「大丈夫?」

 濃い緑色の瞳が心配そうに私を見つめる。彼の言葉に、私は何故か自分でもよくわからないくらいひどく傷ついていた。

 今日は大丈夫だけど、それ以降は違うんだ。

 そう思うと激しい焦燥感に駆られ、彼の瞳に縋りつきたくなった。

 おもむろに手を伸ばし、癖のない青みがかったグレイの髪に指先を絡ませる。すると彼が、驚いたようにほんの少しだけ身をひいた。

 その反応に少し傷ついた私は、対抗するように彼の頬に掌をあてた。

 それから指の背で彼の輪郭を辿るように頬を撫で、唇に触れる。そうして吸い寄せられるように、私はそこに唇を重ねた。何度か唇を吸い上げて離すと、彼が驚いたように目を瞠る。

「こういうのは予定外?」

 強がって意地悪く笑うと、彼が困って眉を寄せる。

「今日は大丈夫なら、今日の君だけ私にちょうだい?」

 だって、ケーキ食べたでしょ。

 冗談っぽく付け加えて笑う私は、ただ淋しかったのだと思う。

 振られたイヴの日に出会った、元カレと同じ名前の男の子。彼に温もりを分けてもらった気がしたのに、それが今にも消えてしまいそうだから。

 必死だけれど、それを顔に出さないようにして、ルイのセーターを軽く引っ張る。

 彼は困ったように笑って私の髪を撫でると、私を抱きかかえてベッドの上に横たわらせた。それから体重がかからないように私に覆い重なると、両手で私の頬を包んでキスをする。

「少し温めるだけだよ?」

 顔をあげた彼が頭を傾けたとき、その首元でカチャリと金属音がした。

 グレイのセーターの首元から、金色のネックレスに通された銀の指輪がちらりと見える。その存在にズキリと胸が痛むのを感じながらも、気づかないふりをする。

 目を閉じるとすぐに、額に頬に唇に、ルイのキスが落ちてきた。彼が動く度に、首元のネックレスが小さな金属音を立てて私の心を揺さぶる。

 私に触れるルイの行為はどこか飼い主にじゃれつく仔猫みたいで。くすぐったくてときどき笑ったりしているうちに、いつしかその金属音は私の耳に届かなくなっていた。

 最後に私に深いキスをして、ルイが私を抱きしめる。彼に身を委ねた私の耳に、チリンと鈴の鳴る音が聴こえたような気がした。