冷たい風が正面から強く吹きつけてくる。

 随分と長い時間寒空の下で待ちぼうけをくらった上、さらに風からの容赦ない攻撃を受けて、私の身体は今にも凍えそうだった。

 前を開けたままにしていたコートを、緩く巻いていたマフラーとともに両手で掻き寄せ、鼻まで顔を埋める。そうすると、僅かばかりだけれど寒さが和らいだ。

 予定では今頃、お気に入りのカフェのソファー席で彼と肩を並べて、熱いコーヒーでも飲みながら年末年始の計画を立てているはずだった。

 肩にさげた鞄に入っている旅行会社のパンフレットは、今や何の価値も持たないただの紙切れだ。

 吐いたため息は細長く白い霧になり、風に押し流されて虚しく消える。

 コートの襟とマフラーに埋めた顔を上げると、目の前にコンビニが見えた。足早にそこまで進み、鞄の中のもう価値のないパンフレットの束をゴミ箱にぶちまける。鞄が軽くなると、私の心もほんの少しすっきりとした。

 ついでにこれも……そう思って左の薬指に光るものに指をかけ、結局踏み止まる。

 帰ろう。それ以外ない。

 きらきらした装飾と幸せそうな人達の顔。そんなものばかりに溢れたクリスマス・イヴの街に、今の私はこれ以上ないくらい不釣り合いだ。

 苦笑いを浮かべながら、コンビニのゴミ箱に背を向ける。そんな私の耳に「ミー」と、今にも消えてしまいそうなか細い声が届いた。

 不意に聞こえてきた声に辺りを見回す。さらに地面に視線を走らせると、今パンフレットの束を捨てたばかりのゴミ箱の影から、小さな猫が震えながら姿を現した。

 青みがかったグレイの毛色をしたその猫は、まん丸とした綺麗な濃い緑色の瞳で私を見上げると不安げに小さく鳴いた。

 短い、けれど毛並みの綺麗な猫だ。金の鈴がついた首輪をつけているところを見ると、ノラじゃなくて飼い猫らしい。

 だが、そばに飼い主らしき人はいない。

 もしかして……。

「迷子?」

 屈んで話しかけると、猫は私を見上げてまた不安そうに小さく鳴いた。

 濃い緑色の瞳が私に縋るように揺れる。その姿がなんとなく今の自分に重なって。気づくと私は猫を抱き上げていた。

 腕から伝わる猫の体温で、冷えた身体がほんのり温まる。

「探そうか?きみの飼い主」

 猫は私の腕の中で身震いすると、安堵したように小さく鳴いた。

 ***

 猫を抱いた私は、一時間ほどコンビニの周辺をうろうろと歩き回った。

 首輪をつけているし、心配した飼い主が貼り紙でもしているかもしれない。そう思ったけれど、飼い主に関する手がかりはさっぱり見つからない。

 私は猫を見つけたコンビニで小さい牛乳パックと紙皿を買うと、そこから近い公園で猫に与えた。

「どこにいるのかな。きみの飼い主」

 公園のベンチに腰掛けてミルクを飲み終えた猫を抱き上げる。コートの内側にいれてそっと抱きしめてやると、猫は心地よさそうにゴロゴロ喉を鳴らした。

「イヴにひとりぼっちなんて淋しいね」

 慰めるように呟いて猫の背を撫でる。

 そのとき、首輪に鈴と一緒に小さな金の名札が付けられていることに気がついた。よく見るとそこには細い字で「LUI」と彫られている。

「ルイ……」

 その名前に動揺した私は、猫の背を撫でる手を止めた。

「きみの名前、ルイなの?」

 応えるようにか、それとも撫でる手を止めたことへの催促か。猫が私を見上げて細く鳴く。

 イヴの日に拾った猫の名前がルイだとは。なんて皮肉な巡り合わせなんだろう。

 数時間前、寒空の下待ちぼうけを食らわせた挙句に電話一本で私に別れを告げた彼氏の名前が「ルイ」だった。

 否、もう元カレになるのか。

「食事したあとイルミネーション見て、うちでケーキ食べようって約束してたの。もう一ヶ月も前から。それなのに……イヴを一緒に過ごしたい人が他にできたんだって」

 まだ新しい心の傷を苦笑いで誤魔化しながら、愚痴にも似た言葉を溢す。

「君はあいつみたいにならないでね」

 猫は尖った耳をピンと立てると、私を心配するかのようにほんの少し頭を傾けた。

「大丈夫。初めてってわけじゃないの。こういうの」

 濃い緑色の瞳でじっと見上げてくる猫に諦めたような微笑みを返すと、私は左薬指の銀の指輪をおもむろに外した。

 指で摘み上げたそれを透かして見ると、その内側にうっすらと文字が浮かぶ。そこに並んで刻んであるのは「LUI」と私の名前。

 ずっと一緒だ、なんて。あれは破るためについた嘘だったのだろうか。

 刻まれたふたつの名前をしばらく見つめたあと、私は指輪を猫の首輪に通した。指輪が猫の金色の名札にぶつかり、無機質な金属音が鳴る。

「これ、もらってくれる? このまま家に付けて帰るのは辛いのに、捨てられないの」

 猫の首輪に通した指輪に触れながら唇を歪める。

 猫はまん丸な目をして私を見つめると、小さく身震いをして尖った耳をピクリと動かした。

 しばらく私を見つめて耳を動かしていた猫が不意にその動きを止める。次の瞬間、猫は私の膝の上からトンと軽快に飛び降りた。

「どうしたの?」

 猫につられて思わず立ち上がる。けれど猫は、私の声を無視してすたすたと歩き始めた。

「るー?」

 猫を追いかけようとしたとき、どこかで小さな高い声がした。

「るー!」

 その声がもう一度、今度ははっきりと私の耳に届いたとき、チリンと鈴の鳴る音がした。見ると、猫は公園の入り口に向かって全速力で駆け出していて、その先には両腕を広げて屈む小さな女の子がいる。

「るー!」

 彼女が歓声をあげるのと、猫が彼女の腕に飛び込むのとはほぼ同時で。愛おしげに猫を見つめる彼女の唇が「よかった」と震えるのがわかった。

 あぁ、あの子が……。

 女の子に甘えるように体を摺り寄せている猫を見て、ほっとすると同時にどこか淋しい気持ちになる。

 女の子と猫をぼんやり見つめていると、猫が私を気にかけるように彼女の腕の中で振り返った。それに気づいた女の子が猫を抱いて立ち上がる。

 女の子は少し迷うように私に小さく会釈をすると、大事そうに猫を抱きしめて、公園を去って行った。

 行っちゃった……。

 彼女達が去ってから、私は猫の首輪に通した指輪のことを思い出した。

 きっと自分では捨てられなかった。

 未練を断ち切るように首を振る。

 そのとき、横殴りに吹いてきた風が凍えるほどの冷気を運んできた。

 早く帰ろう。

 両腕で身体を抱きしめて身震いしたとき、ふと額に何かが触れる。視線をあげると、とても細かな、目を凝らさないと気づかないほどの小さな雪が空から落ち始めていた。

 寒いわけだ。

 私は空に向かって白い息を吐くと、公園をあとにした。