大学の図書館の窓から見える空は、今日も雲ひとつない青さだ。
 梅雨入りしたというのに、一滴の雨さえよこさぬ非情さに、私の心は早くもくじけそうだった。

「葉山《はやま》、あんたって随分と熱心に天気のチェックをしているよね」
 隣に座る美波《みなみ》が、ひょいと私のスマホを覗いてきた。
「ちょっとやだ、見ないでよ」
 体を倒し、スマホを隠す。
 ここは図書館内にある個別学習室なので、多少の私語はOKなのだ。
「なによ、大袈裟な。天気予報の画面くらい見せたって減るもんじゃないでしょ」
 けけけ、と美波は笑うと「悔しかったら、彼のひとりでも見せてみな」と自分のスマホをいじり、彼氏である山下君の写真を黄門さまの印篭のように私に向けた。
 美波と山下君は、大学に入ってすぐに付き合いだし、一年経った今でも仲がいい。
 モデル並みの身長と気の強さを持つ美波と、それに負けない背の高さを誇りつつも穏やかな山下君は、付け入る隙がないと言われるほどの鉄板カップルで、私の悪友兼親友だ。
 二人とも私と同じ法学部で、私たちは勉強に関しては持ちつ持たれつの関係だったが、日本人女子の平均的身長の私は、三人でいると、どうしてもおまけっぽい雰囲気が漂ってしまうのが悲しいところだ。
「今年は、空梅雨《からつゆ》なのかなぁ」
 スマホの画面を元に戻しながら言うと、「そもそも、実は梅雨入りしてないのかもね」と美波が言った。
 「そうか。そういった考えもあったぁ」と、ため息とつくと、「葉山、もしかして雨乞いでもしているわけ」なんて美波が訊いてくる。
 その鋭さにのけぞりつつも「まっさかぁ」と笑うと、美波は「あんたって、嘘をつくと鼻が動くって知ってた」なんて言ってきた。
 嘘でしょそんな、と慌てて手で覆うと、「葉山はすぐに引っかかるんだから、愛い奴よのう」と、頭を撫でられた。

 美波の言うとおり、私は雨を待っていた。
 私には、行きたい所があった。
 けれど、そこは近くて遠い。
 場所は、私が下宿するアパートと最寄り駅の中間にある、喫茶店だ。
 その店で、なんたることか、私の高校時代の片想いの相手である、道高《みちたか》君がアルバイトをはじめたのだった。

 道高君は、私の一つ後輩だ。
 生徒会で二年間、一緒に会計職に就いていた。
 私たちの地元は、東京と大阪の間にあった。
 進学や就職をするにしても、地元の受け皿は小さく、必然的にみなどちらかの方面に散っていくことになった。
 私は、真面目で優しい道高君が好きだった。
 会計なんて、地味で面倒で、どちらかといえば押しつけられる役職だったが、不思議と道高君と一緒なら楽しくできた。
 ずるずると会計報告書の提出を引き延ばしてくる、体育会系の男子のクラブへの催促も、道高君と一緒なら心強かった。
 道高君は、粘り強く、そういったクラブの面々を集めては、自主的に会計指導もし、学年問わず男女から慕われ好かれていった。
 一緒にいる機会が多いとはいえ、一学年の差は大きく、彼からみると私は「葉山先輩」で、はなから告白しようなんて思いもなれけば、彼が自分をどう思っているかなんてことも考えなかった。
 周りからは仲がいいとは言われたけれど、それはあくまでも先輩後輩としての関係を指し、それ以上の意味は誰も言わなかった。

 道高君が国立を狙っているのは在学中から知っていたので、私立狙いだった私との接点なんてものはなかった。
 ただ、自分が東京の大学に進学が決まった時には、道高君も東京に来ればいいのになぁ、とは思った。
 とはいえ、国立狙いで、地元を出る覚悟なら、それこそ視野は全国に広がる。彼が東京に出てくる確率なんて、私にはわからなかった。

 道高君に再会したのは、今年の三月の終わりだった。
 商店街で買い物をしていた私に道高君が「葉山さん」と、声をかけてきたのだ。
 そのとき私は、右手にティシュボックス、左手にトイレットペーパー12ロールを下げていた。
 道高君の姿を目にした私は、驚きのあまりよろめいた。
 一瞬、なんかの拍子に地元にワープしたのかと、錯覚したくらいだ。
「……道高君、どうして」
 道高君は高校時代と同じように、優しげな表情で私を見ていた。
「この沿線の大学に受かったんです。学生寮も、この駅の向こう側にあるんですよ」
 そういえば、工業専門の国立がこの駅のいくつか先にあったけど、そうか彼はそこに合格したんだ。
「それは、あの、おめでとうございます」
 とりあえず、合格祝いを言わなければ。
 東京での新しい生活になじみたいから、なんて口実で、私は地元の友達との連絡はあまり密ではなかった。
 誰かからなにかの拍子に、道高君に彼女が出来たよ、なんて情報が入って来るのが怖かったのだ。
 それにしても、この距離。
 完全に生活圏が重なってしまう。
 彼女ができました情報どころか、この目で道高君の彼女を見てしまう可能性があるのだ。
 なんたることか。
 道高君は少し迷うような表情を見せた後、「ぼく、そこの店でアルバイトをはじめたんです」とすぐ目の前の喫茶店を指した。道高君の遠縁のおばさんがやっているそうだ。
「葉山さん、遊びに来て下さいね」
 道高君はさわやかにそう言うと、店の中に戻っていった。

 けれど私は、一度もお店に顔を出していない。
 行く理由が思い浮かばなかった。
 道高君のことをなんとも思っていなければ、すぐにでも行けただろう。
 けれど、一年のブランクがあったのに、私は彼を見た途端、やっぱりこの人が好きだと自覚してしまったのだ。
 そんな人がいる場所に、素面《しらふ》じゃ行けない。
 もちろん未成年だから、お酒を飲んでその勢いで行くなんて意味じゃないけど。
 つまり、なにかもっともな理由が欲しかった。

 たとえば、そう。
 ――突然の雨のために雨宿りに来ました、とか。

 彼と再会してから、二か月ちょい。
 雨宿り案を思いついてから、数日。
 梅雨入りしたというのに、私の上に雨は降らない。



 授業でちょっと面倒な課題が出た。
 これは三人で協力してやっつけてしまおうと、私の部屋を提供した。
 ただ、私も山下君も五限まであるので、美波には鍵を渡し、先に夕飯の用意をしてもらうことにした。
 といっても、ホットプレートで作る焼きそばだったが。
 部屋は片付けてきたし、お皿も出しておいた。
 美波には、スーパーで野菜やお肉を買ってもらうようお願いしておいた。

 山下君と駅についた途端、雨が降り出した。
 なぜ、このタイミングで。
 がくりとうなだれると、「葉山は、傘は持ってないの」と山下君に訊かれたので、頷いた。
 大学は駅からすぐだし、傘が必要だとしたら家までの道のりで、さらにいえば、傘を持っていたら道高君のお店に行く理由がなくなってしまうので、持ち歩かないようにしていたのだ。
「なら、入りなよ」
 山下君が広げた傘は、折り畳みの割には大きかった。
 雨は今にも止みそうな弱さだったので、二人で入ってもさほど濡れないだろう。
 ささなくてもいいくらいだが、私がそんなことを言ったら、きっと山下君は私に傘を譲り自分が濡れてしまうと思ったので、大人しく入れてもらうことにした。
「おっ、美波が肉を焼き始めたってよ」
 山下君がスマホをいじる。
「まさか、ひとりで先に、お肉だけを食べちゃうとか」
「うわぁ、なんて葉山は恐ろしいことを言うの。でもそれって、あるかも。で、俺達は野菜やきそばかぁ。うーん、それじゃいくならんでも力が出ないでしょ」
 でも美波ならやりそうだね、と二人で盛りあがる。
 美波は、ケーキより焼き肉を愛する乙女だからだ。

 ふと視線を感じ、そのまま顔を動かすと、そこはちょうど道高君の喫茶店だった。
 そしてその軒下には、道高君がいた。
 彼は、お客さまと思われる老婦人の傘をさしてあげているところだった。
 目があう。
 咄嗟に、ぺこりと頭を下げると、道高君もぺこりと頭を下げた。
 心臓がバクバクいいだす。
 山下君はそんな様子に気付かず、美波の肉に関する武勇伝をいろいろと話しているが、私はまともに返事ができず、うん、とか、そう、とか、どうでもいい相槌を打った。
 そしてアパートに着いて、開いた扉の向こうに美波の顔を見た私は、泣いてしまったのだ。

「もう、山下が痴漢行為をはたらいたのかと思ったじゃない」
 泣きながらも事情を説明すると、美波がため息をついた。
 美波は私の泣き顔を見た途端、「あんた、葉山になにしたのよ」と山下君に掴みかかったのだ。
「あのなぁ、痴漢行為なんて、彼氏に対してそんなこと言うなよ」
 気の毒にも山下君は、げんなりとした顔をしている。
「人間には、裏の顔があるじゃない」
「だとしてもだなぁ――」
「あぁ、やめてよ。ごめん、ごめん、私が悪いのよ」
 また掴み合いになりそうな勢いの二人に割って入ると、「そうよ、葉山が悪いわ」、「そうだよ、葉山がそいつに告れば済む話だ」と、今度は二人揃って言いだした。

「だからね、告白なんて。そんなのする間柄じゃないのよ、私と道高君は。そもそもそんなことを言ったら、彼に迷惑がかかるし……」
「嘘だね。葉山は、道高君の迷惑なんて考えてないよ。たんに、自分が怖いだけでしょ。自分が失恋するのがね」
 美波が鋭いことを言ってくる。
「そりゃ怖いよ。……失恋は、怖いよ」
 嫌い、と言われたのなら、まだましだ。
 私が一番怖いのは、「葉山先輩のことを、そんなふうに考えたことないです」とか「葉山先輩のことは先輩としか思えないです」といった、恋愛対象にすらなっていない事実を知ることだ。
「でもさ、葉山って、一年近くもその彼に会っていなかったのに、まだ好きだったんだよな」
 山下君の言葉に、頷く。
「だとしたら多分、葉山はずっと道高君とやらを引きずるよ。それが悪いとは言わないけどさ、この際パッとケリをつけるのもいいかもよ」
「いいかもって、そんな、私に失恋してこいっていうの」
「だってさ、今なら」なぁ、と山下君が美波とアイコンタクトをとる。
「そうそう、だってね、まさに今なら、あんたが失恋しても私と山下が優しく慰めてあげられるでしょ」
 うふふ、と美波が笑う。
「あんたたちってば、二人して私をおもちゃにしているでしょ」
 口をへの字にしながら、二人を睨む。
「だからぁ、俺達を理由に、告白しちゃえよってこと」
「ふられても、私たちのせいにしてもいいってことよ」
 ねぇ、と揃ってほほ笑む二人は、悪友だけど、やっぱり親友だった。

 雨はあがっていたので、私は傘を持たずに出掛けた。
 なんとなく、それはもう、ゲンかつぎのようなものだった。

 道高君のお店に向かいながら、どんな言葉で伝えればいいのだろうと、いまさらながら悩んだ。
 いきなり「好きです」なんて変だろうか。
 ……変だ。私なら引く。
 だったら世間話をしてから、「好きです」と言うか。
 それも、変だ。
 あぁ、あの二人に、告白の仕方ってものを習っておくんだった。
 たしか、告白したのは美波だったはずで――。

 ぽつんと、頭の天辺に雨粒があたった。
 大きい、と思った瞬間、今までの巻き返しをはかるかのような大粒の雨が降り出した。
 なんでこのタイミングで降るのよ、と半泣きで、そのまま道高君の店にまで走り、飛び込んだ。
 走りすぎて、まともに立てず、体を二つに折ったまま入り口に立つ。
「……いらっしゃいませ」
 道高君の声に顔を上げると、前髪から雫が落ちた。
 道高君が、驚いた顔をしている。
 こんな顔、初めて見る。
「好きなの、道高君のことが」
 荒い息の合間に、言葉を絞り出したあと、俯いた。
 もう、なんでもいいやと思った。
 道高君の驚いた顔を見ただけで、儲けものだ。
 それで、満足してしまった。
 道高君は、「おばさん、タオル借りますね」と言うと、私の頭にふわりとそれをのせた。
 そして、柔らかなタオルで私の髪をわしわしとふくと、
「ぼくも葉山さんが好きです」
 と言った。
 ぱっと体を起こす。
 すると、道高君が私の両頬をタオルで挟んできた。
「本当は、ぼくが先に言いたかったんですけど」
 照れたように笑う道高君が眩しくて、私はタオルを引っ張り顔を隠した。