♡♡♡
…指先に感じたことのないような強い衝撃が走って、目が覚めた。
体を起こす。見慣れない部屋。
けれど、何度か見たような気もする。
…私は、誰?
私はそっとベッドから降りた。
どこからか、バターと香ばしいベーコンの匂いが漂ってきた。
私は知らないはずの家で、まるで当たり前のように朝の支度をしようとしていた。
ドアを開ける。一瞬でそこは洗面所だと分かった。
不意に、前を向いた。
「…誰っ…⁈」
…私は目の前の鏡に映った自分を見て、肌が泡立った。
…知らないはずの顔があった。
けど、すぐに現実に引き戻される。
…何やってんだろ、私。
知らないわけが、ない。
そこに映るのは、私ーーーー明美朝日の顔のはずなのに。
私は頬を軽く叩いて顔を洗った。
♤♤♤
私は、カレンダーを見つめた。
考えるだけで、足が震える。もしも、あの子が〝あんなこと〟になってしまったら…
唇を噛み締める。もう決めたんだ。
私は決意を胸に、カーテンを開けた。
♡♡♡
自転車を走らせる。秋風が、首をくすぐった。
背後から、声が掛かった。
「おはようございます、朝日さん」
感情を感じさせない、真っ白な声。
私の幼馴染…真白美冬の声だ。
「おはよ、美冬」
私は返事を返した。
美冬とは、幼稚園生の頃から一緒で、家族みたいな存在だった。
…だから、美冬を救いたい。
私は少し俯いてしまっていたのか、美冬が私の顔を覗き込んできた。
「朝日さん、今日、どんな夢を見ましたか?」
美冬が言った。
「え?急に?…うーん、夢っていうか、なんか寝ぼけて、不思議な感覚に浸っちゃってたかな」
「ふむ、不思議な感覚、とは?」
美冬はぐいっと顔を近づけてきた。
「ちょ、近いって…うーん、なんていうか、自分が自分じゃないみたいな…」
美冬は黙り、頷いた。
「そうなんですね」
と。表情すら変えずに。
彼女と話していると、どうにも気が狂ってくる。
彼女は、感情を知らないAIのように冷淡だ。
まあ、それもずっと一緒にいると慣れるものなのだけど。
「あ、美冬、今日練習試合あるから、見にくる?」
実は私、こう見えて女子バスケ部のエースでありキャプテンなのだ。
美冬は、試合はもちろん、練習試合も見にきてくれる。いつも、欠かさず。
「行きます、絶対。昼休みですよね?」
「うん。じゃあ、私朝練あるからまた教室でね!」
私はそう言ってまた自転車で坂道を下り出した。
♤♤♤
彼女の去った通学路を、私はとぼとぼと歩いていた。
…彼女はまだ、何も知らない。
胸がちくりと痛む。
私がしようとしていることは、彼女をひどく、傷つけてしまうだろう。
私はまだ少し、迷ってしまっているのかもしれない。
バッシュの擦れる音が、体育館に響く。
額を、熱い汗が伝う。
私は試合終了まで3秒という時にスリーポイントを打って…入った。
75対77。ホイッスルが鳴った。
この試合は、私たちのチームの勝ち。
私は仲間たちと軽くハイタッチをして、美冬の元へ駆け寄った。
「今の見た?私のスーパースリー!」
「はい、ばっちり」
彼女が、春の雪解けのような微かな微笑みをこぼしたのを、私は見逃さなかった。
彼女のこういうところは、すごく好きだ。
…ダメだ。どうしても〝あのこと〟をしようとしている私に嫌気がさしてしまう。
「…あのさ、美冬。今週の金曜日空いてる?」
私は美冬から水筒を受け取りながら言った。
「金曜日…その日、ちょうど私も朝日さんに会おうと思ってたところです」
美冬はまた少し、笑った。
その笑顔が、強張って見えたのは、私の気のせいだろうか。
「ふーん、そっか。じゃあ、金曜日の6時半、日出公園に集合ね」
美冬は少し考えて言った。
「何のようですか?」
私は少し、言葉に詰まった。
「…ちょっと、話したいことがあって…」
美冬はなぜか少し、悲しそうな顔をして、頷いた。
「了解です。私も朝日さんに用があるので」
美冬は「トイレに行ってきます」と、歩いて行った。
…私はまた、妙な違和感を感じ始めていた。
♤♤♤
私はトイレの鏡に映る〝真白美冬〟を見つめていた。
さらさらとした黒髪、雪のように白い肌。化粧っ気のない顔だけど、その目鼻立ちは美少女と言っていいほど美しい。
この通り、〝真白美冬〟はそこそこの美人。
…こんな私には、似合わないから。
私は特に理由もなく蛇口を捻り、石鹸で手を擦った。
見えない重くて醜い何かを、洗い流すように。
泡でいっぱいの手を水で綺麗に洗い流してから、ハンカチで手を包むようにして拭き取った。
私はまた少し、罪悪感に苛まれてしまった。
♡♡♡
『〜ーー〜ーーー〜〜〜〜』
『?!ーーー〜!!!!』
「…な、に…」
意味不明な夢の中の声で、目が覚めた。
…2人の少女が、刺々しい声で何かを咎め合っている夢だった。
…私と、美冬によく似た少女たちだった。
カレンダーを確認する。今日、10月7日の木曜日は、赤のペンで×を書いた金曜日の左隣だった。
…明日か。あの〝計画〟を実行する日は。
妙な緊張感が体を駆け抜けた。
私は一階に降りて、だるさを〝演じて〟お母さんに声をかけた。
「お母さん…」
「なあに?あさちゃん」
お母さんは私に甘い。私も、お母さんは大好きだ。
でも…
「私、頭痛い…」
嘘だ。
私はお母さんを…騙した。
「あらまあ、大丈夫?…熱はないみたいだけど…今日は、お休みした方が良さそうね。食欲はある?」
「うーん…柔らかいものしか食べれない…かも」
「あら大変!今すぐお粥を作るわね」
お母さんはそう言ってバタバタとキッチンに戻って行った。
私はひっそりと自分の部屋に戻った。
今日、ズル休みをしたのは、ある理由がある。
私は机に向かい、花柄のレターセットを取り出し、一行目にこう書いた。
美冬へ
私はずーっと考えていた〝計画〟をまとめることにした。
気づけば、時計は5時を指していた。
手元には、二十枚も重ねられたレターセットが置かれていた。
お母さんが作ってくれたお粥は一階から取ってきたっきり、机の上ですっかり冷え切ってしまった。
そんなお粥を見ていると、唸るようにお腹が鳴った。
そこでようやく、自分が朝起きてからまだ何も食べていないことに気づいた。
私は仕方なく冷たいお粥を口に運んだ。
「しょっぱい…」
私は思わず呟いた。
それが、自分の虚しい涙だと言うことも、本当はわかっていた。
私はもう食欲も無くなってしまって、冷たいお粥を机の端の方に追いやった。
私は、ゆっくりと眠りに啄まれていった。
♤♤♤
『…助けて…助けてっ…』
聞き覚えのある、美しく残酷で悲痛な叫びで目が覚めた。
「夢…?」
私は陸に引き上げられた魚のように洗い呼吸を繰り返した。
額を流れた汗が、するりと滑り落ちてベッドシーツにシミをつくった。
0時。日を跨いだ。
「朝日…」
ぽつり、呟いた。
金曜日。運命の日。
私が朝日に、全てを告白する日。
私は緊張感に苛まれてどうしようもなくなった。
とりあえずもう一度布団に入ったものの、全く瞼が降りなかった。
♡♡♡
私は朝日を含んだカーテンを開け、昨日書いた手紙をビリビリに破いて捨てた。
何だか、馬鹿らしくなってきた。
やっぱり、美冬に話すのはやめよう。これは自分で勝手に決めたことだ。
もう、何をしようが私の勝手だ。
私は恐怖を振り払って自分を奮い立たせた。
♤♤♤
6時、夕暮れ。
子供たちはもういない。
私は1人ポツンと、公園のベンチに座っていた。
「…美冬?」
少し離れたところから、声が聞こえた。
「朝日さん。早いですね」
「そっちこそ。で、話したいことって何?」
「どうぞ。朝日さんから話していいです」
朝日は一瞬、意味がわからないと言うような顔をした。
そしてすぐに、ああ、と声を漏らす。
「私は、もういいの。話さなくても、大丈夫」
私はその心なしか引き攣ったように見える笑みに不信感を覚えながら言った。
「そうですか。ですが、今からあなたが話そうとしていることは、私が話したいことと関係しているかもしれないので」
何となく、そんな予感がした。
朝日は困惑したように言った。
「え…?」
「嫌ですか?私は何を言われても動じませんよ?」
私は朝日を安心させるために言った。
「うん、じゃあ…」
朝日はとうとう折れたように言った。
そして、少しためらうような仕草を見せて溢した。
「…美冬は、今日の8時45分32.1秒に死ぬ運命なの」
私は息を呑んだ。
「私が…?」
「うん。今日の8時45分32.1秒に、交通事故で死ぬ」
次々と紡がれる言葉が、信じられなかった。
ーーーーただ、「悲しい」とか「なぜ?」なんて感情は1ミリも湧いてこなかった。
…けど。
「だから、美冬が死なないために、方法があるの」
私は耳を疑った。
「…なん、で…?」
朝日は私の言葉を無視して言った。
「だからね…美冬と私が、入れ替わればいいの」
…どうして彼女は、こんなにも純粋なんだろうか。
鈍い。なぜ気づかないの?
私があなたを、〝騙している〟って。
「私があなたの代わりに、運命を変えて死ぬから」
朝日が私のことを思って提案しているのはわかる。だけど…
「いらない」
私は冷たく言い放った。
え、と朝日が声を漏らす。
口が薄っぺらい笑みを作った。
「いらないです。朝日さんは、そんなことしなくていい」
朝日は困ったように首を傾げた。
「え…でも…」
「いいんです。あなたがそんなことをするなら、私は死んでもいい」
本当だった。
朝日は顔を歪ませた。
「だって、美冬は死んじゃうんだよ!」
突然の悲痛な叫びに、目を見開く。
「美冬は今日、急に体調が狂って、1人で病院に行こうとする。そして、信号を無視して突っ込んできたトラックと…」
ぶつかる。彼女はそう言いたかったのだろう。けど、言い終わる前に崩れるように泣き出した。
「…泣かないでください、朝日さん。」
朝日が、顔を上げる。
「いいんです。だってそれは、私のせいだから」
朝日は、きょとんとこちらを見つめる。
私は罪を償うように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
♡♡♡
私は美冬の意味がわからない言葉をまだ飲み込めずにいた。
美冬のせい?美冬が死ぬことが?
私が〝見た〟未来には、そんなことなかった。
あれは、3週間前。
私は庭でバスケの自主練をしていた。
その時はなぜかうまくいかず、手や足が別の誰かに乗っ取られているような感じがした。
私はスリーを打った。外れる。
『ああ…もうっ!』
私は投げやりにボールを放り出した。
ボールはコロコロと転がって、道路の方まで行ってしまった。
『はあ、マジ最悪…』
私はため息をつきながら道路まで走って行った。
…その時だった。
『…うわぁっ!』
車が走ってきた。
私はそのまま意識を失って、気づいたら夢を見ていた。
美冬が、死ぬ夢を。
私は目覚めた時、強い恐怖に襲われた。
何とかしなくちゃ、美冬が死なないために。
それから私は、美冬が死なないためにできることを考えた。
だけど、『いらない』んだ。美冬にとって、入れ替わることはしなくていいことなんだ。
どうして?何があったの?
「どうして…?どうして、美冬のせいなの?」
美冬は困ったように浅く笑った。
「話すと長くなりますけど…」
「いいの。教えて。何があったの?」
美冬はゆっくりと言った。
「私はあなたに、とても許されないひどいことをしています」
「え?ひどいこと?そんなの、された覚えないけど…」
美冬は悲しそうに首を振る。
「いいえ。私はあなたを、騙しています」
美冬の伏せられたまつ毛が、キラキラと光る美しい涙で濡れていた。
「あなたは…明美朝日ではない」
心臓が、嫌な音を立てた。
背筋に嫌な汗が伝って、喉は水という存在を忘れてしまったように乾いている。嫌な渇きだ。
「あなたの本当になるべきだった人間は…真白美冬、そう、私なの」
私が、美冬…?
そんなの、ありえない。
…ありえるわけが、ない。
「嘘…」
「本当です。あなたは真白美冬になる運命だった」
美冬の声は、ひどく淡々としていた。
「そして私は…明美朝日ーーーーあなたになる運命だった」
「運命、運命って、運命なんてどうでもいいじゃない」
私は思わず言い返した。
「残念ながら、運命は絶対に変えてはいけません」
美冬は冷たく言い放った。
「じゃあなんで、美冬になる運命だった私が明美朝日になってるの?」
美冬は少し笑って言った。
「だから言ったじゃないですか。私が死ぬのは、決まりを破った自分のせいだって」
美冬の言葉が、やけにじんわりと胸の奥に広がっていった。
「どうして、決まりを破ったの?」
「あなたに、死んでほしくなかったからです」
美冬は優しい春の光のような微笑みを浮かべながらまるでそれが当たり前のようにスパッと言い切った。
…そんな風に、言い切れる美冬が羨ましかった。
だけど、わたしは美冬の言葉に違和感を覚えた。
…どうして私がーーーー真白美冬が死ななければいけなかったの?
だって美冬ーーーー明美朝日は私が死なないために決まりを破ってその結果自分が死ななくちゃいけなくなったんじゃないの?
「どうして〝私が死なないため〟なの?」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
美冬は少し顔を歪め、苦しそうに言った。
「…あなたは、自ら命を断つ運命だったんです」
その一言が、信じられないくらいに恐ろしかった。
私が、自殺。
自ら命を断つ。
「あなたは屋上から飛び降りて、悲しくも自殺が成功してしまうんです」
「だから?私のために?」
「はい。決まりを破った者は二十歳まで生きられないと言っていいでしょう」
ダメだ。私のために、そんなの悲しすぎる。
「だからあなたが代わりに死んだら、私の努力した意味がなくなるんです。あなたが代わりに死ぬと、私は生き続けることができます。けれど、私はそんななの絶対に嫌ですからね」
美冬は有無を言わせない口調できっぱりと断言した。
「なので、朝日さんは死ぬ必要なんてありません。私はあなたに出会えただけで、もう十分幸せをもらっていますから。今度は私があなたを、幸せにしたいんです」
美冬は珍しく、歯を見せて豪快に笑って見せた。
その笑顔は、心から幸せそうだった。
この笑顔を守りたいと思った。
美冬の命を、美しい心を。
だから。
私はまた、嘘をつく。
「うん。わかった」
美冬は頷いた。
まるで全てがうまくいったような満足そうな顔をして。
「優しいね、美冬は」
それで終わればよかった。
できればもう二度と、美冬を裏切りたくなかった。
黄昏の街を見下ろして、ため息をついた。
学校の屋上から見た世界は、優しく残酷だ。
屋上のフェンスに、ゆっくりと手をかけた。
ばいばい、世界。
後悔なんてしない。美冬のため。
あの子の笑顔を守るためには、これが最善だ。
ごめんね、美冬。
私、嘘ついたんだ。
最後の嘘、許してね。
悲しくはない。寂しくもない。
だって美冬は、自分より私の命を惜しく思ってくれた。
命をかけて、私を守り抜こうとしてくれた。
だから、自殺ぐらい許してね。
「あ…」
一瞬で私は、空中に放り出された。
「美冬…っ」
私の言葉は、声にならないかもしれない。
けど。
「幸せになってね…っ」
あなたがくれた、優しい温もり。
私はあなたがしてくれたほどのことはできなかったけど。
さようなら。
ありがとう、美冬。
…指先に感じたことのないような強い衝撃が走って、目が覚めた。
体を起こす。見慣れない部屋。
けれど、何度か見たような気もする。
…私は、誰?
私はそっとベッドから降りた。
どこからか、バターと香ばしいベーコンの匂いが漂ってきた。
私は知らないはずの家で、まるで当たり前のように朝の支度をしようとしていた。
ドアを開ける。一瞬でそこは洗面所だと分かった。
不意に、前を向いた。
「…誰っ…⁈」
…私は目の前の鏡に映った自分を見て、肌が泡立った。
…知らないはずの顔があった。
けど、すぐに現実に引き戻される。
…何やってんだろ、私。
知らないわけが、ない。
そこに映るのは、私ーーーー明美朝日の顔のはずなのに。
私は頬を軽く叩いて顔を洗った。
♤♤♤
私は、カレンダーを見つめた。
考えるだけで、足が震える。もしも、あの子が〝あんなこと〟になってしまったら…
唇を噛み締める。もう決めたんだ。
私は決意を胸に、カーテンを開けた。
♡♡♡
自転車を走らせる。秋風が、首をくすぐった。
背後から、声が掛かった。
「おはようございます、朝日さん」
感情を感じさせない、真っ白な声。
私の幼馴染…真白美冬の声だ。
「おはよ、美冬」
私は返事を返した。
美冬とは、幼稚園生の頃から一緒で、家族みたいな存在だった。
…だから、美冬を救いたい。
私は少し俯いてしまっていたのか、美冬が私の顔を覗き込んできた。
「朝日さん、今日、どんな夢を見ましたか?」
美冬が言った。
「え?急に?…うーん、夢っていうか、なんか寝ぼけて、不思議な感覚に浸っちゃってたかな」
「ふむ、不思議な感覚、とは?」
美冬はぐいっと顔を近づけてきた。
「ちょ、近いって…うーん、なんていうか、自分が自分じゃないみたいな…」
美冬は黙り、頷いた。
「そうなんですね」
と。表情すら変えずに。
彼女と話していると、どうにも気が狂ってくる。
彼女は、感情を知らないAIのように冷淡だ。
まあ、それもずっと一緒にいると慣れるものなのだけど。
「あ、美冬、今日練習試合あるから、見にくる?」
実は私、こう見えて女子バスケ部のエースでありキャプテンなのだ。
美冬は、試合はもちろん、練習試合も見にきてくれる。いつも、欠かさず。
「行きます、絶対。昼休みですよね?」
「うん。じゃあ、私朝練あるからまた教室でね!」
私はそう言ってまた自転車で坂道を下り出した。
♤♤♤
彼女の去った通学路を、私はとぼとぼと歩いていた。
…彼女はまだ、何も知らない。
胸がちくりと痛む。
私がしようとしていることは、彼女をひどく、傷つけてしまうだろう。
私はまだ少し、迷ってしまっているのかもしれない。
バッシュの擦れる音が、体育館に響く。
額を、熱い汗が伝う。
私は試合終了まで3秒という時にスリーポイントを打って…入った。
75対77。ホイッスルが鳴った。
この試合は、私たちのチームの勝ち。
私は仲間たちと軽くハイタッチをして、美冬の元へ駆け寄った。
「今の見た?私のスーパースリー!」
「はい、ばっちり」
彼女が、春の雪解けのような微かな微笑みをこぼしたのを、私は見逃さなかった。
彼女のこういうところは、すごく好きだ。
…ダメだ。どうしても〝あのこと〟をしようとしている私に嫌気がさしてしまう。
「…あのさ、美冬。今週の金曜日空いてる?」
私は美冬から水筒を受け取りながら言った。
「金曜日…その日、ちょうど私も朝日さんに会おうと思ってたところです」
美冬はまた少し、笑った。
その笑顔が、強張って見えたのは、私の気のせいだろうか。
「ふーん、そっか。じゃあ、金曜日の6時半、日出公園に集合ね」
美冬は少し考えて言った。
「何のようですか?」
私は少し、言葉に詰まった。
「…ちょっと、話したいことがあって…」
美冬はなぜか少し、悲しそうな顔をして、頷いた。
「了解です。私も朝日さんに用があるので」
美冬は「トイレに行ってきます」と、歩いて行った。
…私はまた、妙な違和感を感じ始めていた。
♤♤♤
私はトイレの鏡に映る〝真白美冬〟を見つめていた。
さらさらとした黒髪、雪のように白い肌。化粧っ気のない顔だけど、その目鼻立ちは美少女と言っていいほど美しい。
この通り、〝真白美冬〟はそこそこの美人。
…こんな私には、似合わないから。
私は特に理由もなく蛇口を捻り、石鹸で手を擦った。
見えない重くて醜い何かを、洗い流すように。
泡でいっぱいの手を水で綺麗に洗い流してから、ハンカチで手を包むようにして拭き取った。
私はまた少し、罪悪感に苛まれてしまった。
♡♡♡
『〜ーー〜ーーー〜〜〜〜』
『?!ーーー〜!!!!』
「…な、に…」
意味不明な夢の中の声で、目が覚めた。
…2人の少女が、刺々しい声で何かを咎め合っている夢だった。
…私と、美冬によく似た少女たちだった。
カレンダーを確認する。今日、10月7日の木曜日は、赤のペンで×を書いた金曜日の左隣だった。
…明日か。あの〝計画〟を実行する日は。
妙な緊張感が体を駆け抜けた。
私は一階に降りて、だるさを〝演じて〟お母さんに声をかけた。
「お母さん…」
「なあに?あさちゃん」
お母さんは私に甘い。私も、お母さんは大好きだ。
でも…
「私、頭痛い…」
嘘だ。
私はお母さんを…騙した。
「あらまあ、大丈夫?…熱はないみたいだけど…今日は、お休みした方が良さそうね。食欲はある?」
「うーん…柔らかいものしか食べれない…かも」
「あら大変!今すぐお粥を作るわね」
お母さんはそう言ってバタバタとキッチンに戻って行った。
私はひっそりと自分の部屋に戻った。
今日、ズル休みをしたのは、ある理由がある。
私は机に向かい、花柄のレターセットを取り出し、一行目にこう書いた。
美冬へ
私はずーっと考えていた〝計画〟をまとめることにした。
気づけば、時計は5時を指していた。
手元には、二十枚も重ねられたレターセットが置かれていた。
お母さんが作ってくれたお粥は一階から取ってきたっきり、机の上ですっかり冷え切ってしまった。
そんなお粥を見ていると、唸るようにお腹が鳴った。
そこでようやく、自分が朝起きてからまだ何も食べていないことに気づいた。
私は仕方なく冷たいお粥を口に運んだ。
「しょっぱい…」
私は思わず呟いた。
それが、自分の虚しい涙だと言うことも、本当はわかっていた。
私はもう食欲も無くなってしまって、冷たいお粥を机の端の方に追いやった。
私は、ゆっくりと眠りに啄まれていった。
♤♤♤
『…助けて…助けてっ…』
聞き覚えのある、美しく残酷で悲痛な叫びで目が覚めた。
「夢…?」
私は陸に引き上げられた魚のように洗い呼吸を繰り返した。
額を流れた汗が、するりと滑り落ちてベッドシーツにシミをつくった。
0時。日を跨いだ。
「朝日…」
ぽつり、呟いた。
金曜日。運命の日。
私が朝日に、全てを告白する日。
私は緊張感に苛まれてどうしようもなくなった。
とりあえずもう一度布団に入ったものの、全く瞼が降りなかった。
♡♡♡
私は朝日を含んだカーテンを開け、昨日書いた手紙をビリビリに破いて捨てた。
何だか、馬鹿らしくなってきた。
やっぱり、美冬に話すのはやめよう。これは自分で勝手に決めたことだ。
もう、何をしようが私の勝手だ。
私は恐怖を振り払って自分を奮い立たせた。
♤♤♤
6時、夕暮れ。
子供たちはもういない。
私は1人ポツンと、公園のベンチに座っていた。
「…美冬?」
少し離れたところから、声が聞こえた。
「朝日さん。早いですね」
「そっちこそ。で、話したいことって何?」
「どうぞ。朝日さんから話していいです」
朝日は一瞬、意味がわからないと言うような顔をした。
そしてすぐに、ああ、と声を漏らす。
「私は、もういいの。話さなくても、大丈夫」
私はその心なしか引き攣ったように見える笑みに不信感を覚えながら言った。
「そうですか。ですが、今からあなたが話そうとしていることは、私が話したいことと関係しているかもしれないので」
何となく、そんな予感がした。
朝日は困惑したように言った。
「え…?」
「嫌ですか?私は何を言われても動じませんよ?」
私は朝日を安心させるために言った。
「うん、じゃあ…」
朝日はとうとう折れたように言った。
そして、少しためらうような仕草を見せて溢した。
「…美冬は、今日の8時45分32.1秒に死ぬ運命なの」
私は息を呑んだ。
「私が…?」
「うん。今日の8時45分32.1秒に、交通事故で死ぬ」
次々と紡がれる言葉が、信じられなかった。
ーーーーただ、「悲しい」とか「なぜ?」なんて感情は1ミリも湧いてこなかった。
…けど。
「だから、美冬が死なないために、方法があるの」
私は耳を疑った。
「…なん、で…?」
朝日は私の言葉を無視して言った。
「だからね…美冬と私が、入れ替わればいいの」
…どうして彼女は、こんなにも純粋なんだろうか。
鈍い。なぜ気づかないの?
私があなたを、〝騙している〟って。
「私があなたの代わりに、運命を変えて死ぬから」
朝日が私のことを思って提案しているのはわかる。だけど…
「いらない」
私は冷たく言い放った。
え、と朝日が声を漏らす。
口が薄っぺらい笑みを作った。
「いらないです。朝日さんは、そんなことしなくていい」
朝日は困ったように首を傾げた。
「え…でも…」
「いいんです。あなたがそんなことをするなら、私は死んでもいい」
本当だった。
朝日は顔を歪ませた。
「だって、美冬は死んじゃうんだよ!」
突然の悲痛な叫びに、目を見開く。
「美冬は今日、急に体調が狂って、1人で病院に行こうとする。そして、信号を無視して突っ込んできたトラックと…」
ぶつかる。彼女はそう言いたかったのだろう。けど、言い終わる前に崩れるように泣き出した。
「…泣かないでください、朝日さん。」
朝日が、顔を上げる。
「いいんです。だってそれは、私のせいだから」
朝日は、きょとんとこちらを見つめる。
私は罪を償うように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
♡♡♡
私は美冬の意味がわからない言葉をまだ飲み込めずにいた。
美冬のせい?美冬が死ぬことが?
私が〝見た〟未来には、そんなことなかった。
あれは、3週間前。
私は庭でバスケの自主練をしていた。
その時はなぜかうまくいかず、手や足が別の誰かに乗っ取られているような感じがした。
私はスリーを打った。外れる。
『ああ…もうっ!』
私は投げやりにボールを放り出した。
ボールはコロコロと転がって、道路の方まで行ってしまった。
『はあ、マジ最悪…』
私はため息をつきながら道路まで走って行った。
…その時だった。
『…うわぁっ!』
車が走ってきた。
私はそのまま意識を失って、気づいたら夢を見ていた。
美冬が、死ぬ夢を。
私は目覚めた時、強い恐怖に襲われた。
何とかしなくちゃ、美冬が死なないために。
それから私は、美冬が死なないためにできることを考えた。
だけど、『いらない』んだ。美冬にとって、入れ替わることはしなくていいことなんだ。
どうして?何があったの?
「どうして…?どうして、美冬のせいなの?」
美冬は困ったように浅く笑った。
「話すと長くなりますけど…」
「いいの。教えて。何があったの?」
美冬はゆっくりと言った。
「私はあなたに、とても許されないひどいことをしています」
「え?ひどいこと?そんなの、された覚えないけど…」
美冬は悲しそうに首を振る。
「いいえ。私はあなたを、騙しています」
美冬の伏せられたまつ毛が、キラキラと光る美しい涙で濡れていた。
「あなたは…明美朝日ではない」
心臓が、嫌な音を立てた。
背筋に嫌な汗が伝って、喉は水という存在を忘れてしまったように乾いている。嫌な渇きだ。
「あなたの本当になるべきだった人間は…真白美冬、そう、私なの」
私が、美冬…?
そんなの、ありえない。
…ありえるわけが、ない。
「嘘…」
「本当です。あなたは真白美冬になる運命だった」
美冬の声は、ひどく淡々としていた。
「そして私は…明美朝日ーーーーあなたになる運命だった」
「運命、運命って、運命なんてどうでもいいじゃない」
私は思わず言い返した。
「残念ながら、運命は絶対に変えてはいけません」
美冬は冷たく言い放った。
「じゃあなんで、美冬になる運命だった私が明美朝日になってるの?」
美冬は少し笑って言った。
「だから言ったじゃないですか。私が死ぬのは、決まりを破った自分のせいだって」
美冬の言葉が、やけにじんわりと胸の奥に広がっていった。
「どうして、決まりを破ったの?」
「あなたに、死んでほしくなかったからです」
美冬は優しい春の光のような微笑みを浮かべながらまるでそれが当たり前のようにスパッと言い切った。
…そんな風に、言い切れる美冬が羨ましかった。
だけど、わたしは美冬の言葉に違和感を覚えた。
…どうして私がーーーー真白美冬が死ななければいけなかったの?
だって美冬ーーーー明美朝日は私が死なないために決まりを破ってその結果自分が死ななくちゃいけなくなったんじゃないの?
「どうして〝私が死なないため〟なの?」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
美冬は少し顔を歪め、苦しそうに言った。
「…あなたは、自ら命を断つ運命だったんです」
その一言が、信じられないくらいに恐ろしかった。
私が、自殺。
自ら命を断つ。
「あなたは屋上から飛び降りて、悲しくも自殺が成功してしまうんです」
「だから?私のために?」
「はい。決まりを破った者は二十歳まで生きられないと言っていいでしょう」
ダメだ。私のために、そんなの悲しすぎる。
「だからあなたが代わりに死んだら、私の努力した意味がなくなるんです。あなたが代わりに死ぬと、私は生き続けることができます。けれど、私はそんななの絶対に嫌ですからね」
美冬は有無を言わせない口調できっぱりと断言した。
「なので、朝日さんは死ぬ必要なんてありません。私はあなたに出会えただけで、もう十分幸せをもらっていますから。今度は私があなたを、幸せにしたいんです」
美冬は珍しく、歯を見せて豪快に笑って見せた。
その笑顔は、心から幸せそうだった。
この笑顔を守りたいと思った。
美冬の命を、美しい心を。
だから。
私はまた、嘘をつく。
「うん。わかった」
美冬は頷いた。
まるで全てがうまくいったような満足そうな顔をして。
「優しいね、美冬は」
それで終わればよかった。
できればもう二度と、美冬を裏切りたくなかった。
黄昏の街を見下ろして、ため息をついた。
学校の屋上から見た世界は、優しく残酷だ。
屋上のフェンスに、ゆっくりと手をかけた。
ばいばい、世界。
後悔なんてしない。美冬のため。
あの子の笑顔を守るためには、これが最善だ。
ごめんね、美冬。
私、嘘ついたんだ。
最後の嘘、許してね。
悲しくはない。寂しくもない。
だって美冬は、自分より私の命を惜しく思ってくれた。
命をかけて、私を守り抜こうとしてくれた。
だから、自殺ぐらい許してね。
「あ…」
一瞬で私は、空中に放り出された。
「美冬…っ」
私の言葉は、声にならないかもしれない。
けど。
「幸せになってね…っ」
あなたがくれた、優しい温もり。
私はあなたがしてくれたほどのことはできなかったけど。
さようなら。
ありがとう、美冬。